
癌と共に生きる
〜運を味方に
遠州灘を臨む海辺の町で生まれ育った私は、小学校の校舎の2階から、遥かに望む富士山を眺めてはいたが、他に名のある高い山は知らなかった。
高校2年の時、高原教室で初めて登山というものを体験した。北アルプスの唐松岳。標高2696メートル。果てしなく続く山並みと、今まで手を伸ばしても届かなかった青空の中に、自分がいる。初めての世界が私を魅了し、山に心を奪われた。
20代。職場で山好きの先輩に出会って、幸いにもたくさんの山に連れて行ってもらった。が、その後は結婚、子育てを経て、山は憧れを持って眺めるだけの存在に変わっていった。縁あって、山国長野県に住んで30年にもなっていたのに。
そして、2016年。60歳。私の人生で、もう山に登ることはないだろうと諦めかけていた時、職場の先輩が富士山に登ってきたと言うのを耳にした。「いいなあ。私も行ってみたい。」「じやあ、来年、行こう。」
先輩のその一言で、私の人生にまた山が戻ってきた。それからは、日帰りで行ける山登りで足を慣らした後、温泉で疲れを癒すという楽しみも加わって、長野県に暮らす喜びを痛感し、山登りの醍醐味を堪能する日々が続いた。
2018年の夏。ついに富士登山に挑戦。だが、この年は台風襲来で、8合目までで下山を余儀なくされた。翌2019年、リベンジ登山で、ついに富士山頂に立った。静岡県に生まれたのだもの、一度は富士山に登ってみたいという積年の思いが、果たされた。しかも63歳。還暦を過ぎたこの歳で、何事もなく。ご来光に向かって、大いなる感謝を捧げた。健康であることの喜びをかみしめた。
その後は自信を得て、ますます山登りの虜になった。長野県には登ってみたいと思う山がいくらでもある。同じ山でも、季節が違えば景色も違う。咲く花も違う。カモシカなど、思わぬ動物に遭遇することもある。何歳まで登れるかなと思うこともあったが、山に行けば、若者より元気な高齢者の方が多い。私だって、まだまだこれから。そんな気分にさせてもらって、若い頃から登ってみたかった山々に連れて行ってもらった。
蓼科山。標高2531メートル。八ヶ岳連峰最北端の山である。遠くから眺めれば、円錐形のこんもりとした優しい姿をしていて、その美しさから、諏訪富士とも呼ばれている。だが、樹林帯を抜けて山頂に近づくと、大きな石がゴロゴロしていて、両手を使わなければ登れないような所もあり、思ったよりきつい。
コニーデ型の成層火山で、山頂一帯は台地になっている。周囲の山々が一望できる360度の大パノラマに、まず目を奪われる。だが、中央部は火口跡で、直径数百メートルほどの浅いすり鉢状の窪地には、灰色の丸みを帯びた石が無数に転がっているだけで、植物は何もない。今まで見たこともないその荒涼とした光景に、身が引き締まる。ただ、中央に小さな鳥居と社が立っていて、その存在に救われたような気持ちになる。お社の前に立ち、無事ここまで来れたことに感謝して手を合わせた。
蓼科山から深い感動をもらったのは、2021年8月4日のことである。この3日前、私は肺に影が見つかり、精密検査を受けることになっていた。腫瘍マーカーの数値からは、もう病気は決定的だと思っていたが、こうして山に登っても、息切れ一つしないのだから、大したことはないに違いない。この山は、私にそう思わせ、大いに励ましてくれた。
8月10日。紹介状とCT画像を持って、総合病院を受診した。お盆明けのPET検査の結果、右上肺葉と肺と肺の間の縦隔という所に、赤く光っている箇所があった。CT画像と合わせて、右上肺葉非小細胞癌ステージⅢAと診断され、この日から、まさかの進行癌患者としての日々が始まった。
医師の説明の後、看護師から再度説明内容の確認があった。看護師に、何か質問はあるかと聞かれ、私は「また、山に登れるようになりますか?」と聞いた。「どんな山?」「2年前にも富士山に登ったのですが、そういう、、、。」
私がそこまで言った時の、看護師の顔が忘れられない。この人、何を考えているの?そんなの無理に決まっているじゃない!そんな思いを目に滲ませて、私の顔を見たのだ。
だが、私はその時、本気だった。医師は、根治を目指せると言った。同時に、何があるかわからないから、やり残したことがないようにしてください、とも。
医師に、そう付け加えられても、私は少しも動揺しなかった。人生を振り返った。不妊に苦しんだが思いがけず2人の子供を持つことができた。好きな仕事で生きがいをもらった。海外旅行もし、富士山にも登ることができた。たくさんの友人と出会い、楽しい時間をもらえた。やり残したことは、特にないなあ、と思った。それ以上に、こんなに元気な自分と、死というものを結びつけて考えることができなかったからかもしれない。
99%癌であることは間違いないが、病理検査で確定しなければ、癌治療は始められないと言われ、その検査の予定が組まれた。
8月23日。この日、私は癌と診断されてから初めて泣いた。病院の近くに犀川の河川敷がある。そこは、子供達が小学校の時、サッカーや野球の練習をした懐かしい場所。そして、晴れた日には、雪を頂いた雄大な北アルプスの山並みが見える場所である。一人、車を停めて、そこでしばらく泣いた。だが、その涙は、癌になったショックによるものではない。そうではなくて、癌になったことによって、仕事を辞めるべきだと思ったことによる、悲しみの涙だった。
当時私は、私立高校の教師を定年退職し、週3日非常勤講師として働いていた。勤務した26年の間に、学校にはたくさんお世話になったから、迷惑をかけたくないと思った。じきに2学期が始まるから、その前に決断すべきだと思った。が、この学校が大好きだったから、病気で辞めざるを得ないことが何より辛かった。
しばらく泣いて、心を決めて学校へ行き、教頭に話をした。教頭は辞めなくても、休めばいいと言ってくれた。校長も辞める必要はないと言ってくれた。申し訳ないと思ったが、辞めなくて良いと言われた喜びは大きく、好意に甘えた。
病理検査で確定診断が下され、9月下旬から、本格的な治療が始まった。当初は手術も可能だと言われたが、転移している縦隔のリンパは、心臓の大動脈に近いから危険だということになり、放射線化学療法が選択された。
60回の放射線治療の間に、2クールの殺細胞性抗がん剤治療。抗がん剤の治療といえば、嘔吐がつきものと思っていたが、薬剤師の、今は吐き気は大抵コントロールできますという言葉通り、吐き気に苦しむことは全くなく、ただ、ひたすら眠いだけで、冬眠する熊になったような気がした。放射線治療も、放射線が当たる所が少し赤くなっただけで、看護師の、昔は皮膚がただれて大変だったという言葉に、つくづく医学の進歩はありがたいと思った。
1ヶ月の休職のつもりが、やはり多少の倦怠感や食欲不振などの副作用はあり、結局3ヶ月の休職となった。しかし、年明け、1月に職場復帰した。
肺の影は縮小し、縦隔のリンパの腫れも消えた。腫瘍マーカーの数値も下がったが、基準値以下になることはなかった。
次の治療として、免疫チェックポイント阻害薬を使うことになり、週2回の点滴治療が始まった。聞けば、2018年に承認されたばかりの薬だという。5年前に癌が見つかっていたら、この薬はなかったのかと思うと、運が良かったと思った。
運がいいといえば、なぜ癌が見つかったのか。そこにも運が関わっている。
2年前の秋に遡る。その年、中学校の全クラス合同の同級会があった。その日は台風が接近していて、新幹線が止まるのではないかと懸念され、急遽欠席した人たちもいた。だが、前日に帰省していた私は、その心配もなく参加した。
二次会で、たまたま近くにいた、幹事長を務めてくれた博行君と話をした。彼とは小学校も同じで、小学校時代は一緒に遊んだこともあったが、中学ではクラスが一緒になることもなく、高校も違ったから、中学卒業後、会ったこともなかった。
「博行君、同級会を開いてくれて、ありがとう。元気?」「俺、もうダメなんだ。大腸癌でね。手遅れだったんだ。」「え?どうして?自覚症状はなかったの?」「あったけど、怖くて病院に行けなかったんだ。」「でも、今は医学が進歩してるから、諦めないで頑張って!」
こんな会話を交わした。そしてその時、もし身体に異変を感じたら、大したことないと思っても、すぐに病院に行った方がいいという思いが、強く私の心に残った。
6ヶ月後、彼の訃報が届いた。
私は、40歳を過ぎてから毎年人間ドックを受けてきた。そして一度もどこにも異常を指摘されたことがなかった。癌が見つかった年の3月の人間ドックでも、どこにも異常はなかった。では、なぜ。
人間ドックから3ヶ月後。血便かな?と思うことが2回あった。いや、気のせいだろうとは思ったが、博行君のことが頭に浮かび、胃腸科に行った。大腸検査は異常なし。が、同時に検査をしてくれていた腫瘍マーカーの数値が異常に高かった。それならば胃かもしれないと胃の検査をし、上半身のCTも撮った。胃にも異常はなかったが、まさかの肺に影が見つかった。
あの日、博行君と話をしなかったら、今の私はなかったと思うと、彼はまさに私の命の恩人となった。
私は若い頃からお酒が好きで、ずっと飲んできた。女だてらに、、という目を意識させられる時代でもあったから、その代わりにタバコは吸うまいと思い、吸わずにきた。それなのに、まさかの肺癌。なんと運の悪いことよと思わないでもなかった。が、肺腺癌はタバコを吸わない人でもなり、若い女性にも増えていると知って、納得した。
肺癌は症状が出てからでは遅いと言われていたから、やはり運が良かったのだと、博行君に感謝している。
新しい薬は、免疫が働き過ぎた場合、どこに副作用が現れるかわからないと言われていたが、特に気になる副作用は現れなかった。次年度をどうするかと考えたが、それでも何があるかわからないし、これ以上迷惑はかけたくないと思って、年度末で退職した。
仕事は辞めても、職場の先輩たちとの山登りは続いた。里山を中心に、4月には3回も山に行った。これなら仕事を辞めることもなかったかと思うほど、体調は良かった。2週に1度の点滴の日以外は、自分が癌患者であることを意識することも、ほとんどなかった。6月には、原発の癌の箇所は放射線を当てたから、レントゲンでは必ず影は残るけれど、恐らく癌は消えているだろう、と言われた。やっぱりね。自分に自信が湧いた。
2022年夏。唐松岳山頂。半世紀前に私を山へと導くきっかけとなった、懐かしの山に、私は再び立っていた。高校生の時は、日帰り登山。元気だった。若かった。が、今回は当然唐松岳頂上山荘に一泊。あいにくご来光を見ることはできなかったが、下山の道中は花を楽しむ余裕もあった。
診察日。日頃から行動制限はなかったから、主治医に山に行って来たと報告した。「唐松岳。標高2700メートル弱。」さすがに主治医は驚いた。「そんなに高い山!?」だが、そんな山に登れたことを喜んでくれた。嬉しかった。
山から戻って、夫が新型コロナに感染した。私もすぐに発熱し、病院でのPCR検査の結果は陰性だったが、コロナに感染したのは間違いないと思われた。私は、前年の癌宣告騒ぎで機会を失い、コロナワクチンの接種をしていなかった。おまけに65歳以上で肺癌患者。重症化の条件は十分に揃っていると思うと、怖かった。だが、1週間で熱も喉痛も咳も治まった。発熱から10日後の診察日。PCR検査をしないと病院内に入れてもらえず、検査をしたら、まさかの陽性。もう、元気になったのに。だが、この結果によって、コロナの感染が証明され、見舞金がもらえることになった。運が良かった。
その後も体調に変化はなかったが、腫瘍マーカーの数値だけは上がり続け、10月、同じ右上肺葉に転移が見つかった。が、この時も私は特に動揺することもなく、その現実を受け止めた。次の薬も用意されていた。私の癌の遺伝子変異の型に適合する、飲み薬の分子標的薬。これも2016年に承認された、新しい薬で、副作用は少なく、効果は高いと知って、この時も運の良さを思った。
服用には、前の薬と1ヶ月以上空ける必要があるとのことで、点滴は中止。12月から投薬を開始した。何事もなく過ぎて、年末年始も家族と共に楽しく過ごした。だが、1月4日。なんとなく不調を感じ、熱を測ると38.5°C。急遽、病院へ。この頃も、発熱者はPCR検査をしないと院内に入れず、車の中で結果待ち。陰性でようやく診察となったが、発熱の原因は不明。解熱剤をもらい、様子を見ることに。薬を飲めば熱は下がるが、薬が切れればまたすぐに熱は上がる。このままでは死んでしまうのではないかと、不安が募ったがどうしようもない。1週間後の診察日。入院させて欲しいと頼んだが、コロナでかえって危険だと言われ、入院させてもらえなかった。ただ、原因は、今までの免疫チェックポイント阻害薬が、新しい薬に反応して、免疫が働き過ぎたのだろうということになり、一旦、新しい薬は休み、ステロイド薬が投与された。ステロイドはすぐに効果を発揮し、結局、10日間の発熱で終わったが、初めて「死」を身近に感じる出来事になった。
ステロイド薬を服用しながら、また分子標的薬による治療が再開された。この薬の副作用として最も発症しやすい、爪囲炎が現れ、爪の周りが腫れて痛くて、指を使ってはシャンプーもできず、ブラシを使わざるを得なくなった。洗い物も素手ではできず、手袋を使って、痛みに堪えながらやるようになった。それでも、5月にはまたしても転移した癌が消えた。指の痛み以外、体調も良かった。ネットで体験談を見ると、副作用で休薬せざるを得なかったという人もいた。私はこの程度でありがたいと思った。
この年、山のリーダーが多忙になったことと、猛暑が続いたことで、山に行く機会は失った。腫瘍マーカーの数値も、またしても上がり続け、2024年の初めには、過去最高値を記録した。3月。肺に水が溜まり、その中に癌細胞があることがわかった。ネットで見ると、胸水が溜まると半年くらいダメになることが多いと書いてある。夫は心配した。が、この時も私は、それは私の病状とは違うと言って、逆に夫を励ました。なぜこんなにあっけらかんとしていられたのか、自分でもわからない。
3種類の抗がん剤を使って、3週間ごと4クールの治療が始まった。毎年主治医がかわっていたが、この治療から4人目の主治医になった。そして、2クール目が終わった時、主治医は親指を立て、「胸水、消えてるよ」と、にっこり笑ってくれた。主治医のリアクションに、親しみがわき、安心感が生まれた。「先生、こんなによく効くんですね。」「いや、誰でもというわけではないですよ。」「そうなんだ。じゃあ、私ってすごい?」主治医はまた、にっこり微笑んでくれた。
残り2クールも無事に終わり、この後は薬を2剤に減らして、月に1度の点滴治療となった。点滴後、3日目から4日間は、倦怠感と激しい眠気でぐったりと動けなくなるが、その後は「抜けた!」と感じると、何事もなかったように元気になる。この3週間で旅行に出かけたり、友人と出かけたり、趣味活動に励んだり。この3週間があるから、治療も苦にはならなかった。
残念ながら、山は遠のいた。各地で熊の出没のニュースが増え、長野県でも、あちこちで、熊出没情報が出されるようになったから。高い山は登山者も多いが、そんな山にも熊は出た。まして登る人の少ない里山は、かえって危険だった。
治療にも慣れ、こんな状態が続くのであれば、十分に日々を楽しむことはできるのだから、ありがたいと思っていた。主治医にも、「くよくよしないで活動する人には、癌を克服する人が多いです。あなたも、どこに行ってもいいですよ。どんどん活動してください。」と言われた。その言葉をお守りに、ますます遠慮せずに出掛けられるようになった。
腫瘍マーカーの数値は少しずつ上がり始めていたが、この年は無事に過ぎた。
2025年になっても同じ治療が続き、治療の合間には、夫や友人たちとの旅行を楽しんで過ごしていた。夏になって咳が出始めたが、大して気にもしなかった。 が、秋になって、また胸水が溜まっていることがわかった。原発の癌は消えてはいず、放射線による影から少しはみ出すように、影が広がっていた。主治医に改めてステージを確認した。「胸膜播種の状態にあり、ステージ4。治ることは見込めない。急に変化することもあるから、準備をしておいてください。」そう言われても、ピンと来なかった。こんなに元気なのだから、と。それでも、今までにない不安を覚えた。誰かにこの不安を聞いて欲しいと思った。が、夫や息子には言えない。姉にも言えない。夫や息子、姉が悲しむのを見るのは辛かった。
年末までに、2度胸水を抜き、癌細胞の耐性遺伝子の型を調べ、次の治療薬を考えることになった。年が明け、その時点で考えられる治療パターンを3つ、提示された。1つ目。今までの治療薬が全く効いてないわけではないから、胸水を抜きながら、これを続ける。そうすれば、今までのQOLは保てる。2つ目。副作用は強くなり、脱毛もあるかもしれないが、殺細胞性の抗がん剤を使う。効果は不明。QOLも下がる。3つ目。再度、以前試した分子標的薬を服用する。効くかどうかはわからない。耐性遺伝子検査の結果を見て、最終決定をすることになった。
ショックだった。これでは、何を選択しても治療する意味がないのではないか。
今までの薬も、効くかどうかはわからなかった。だが、運良く一旦は効いた。今回は、、。もう悪化して命が終わるのを待つしかないのか。そう思ったら悲しかった。主治医に余命を聞いてみた。わからないと言われたが、「ただ、こういう病状の人には、季節ごと、例えば、桜の花を見るまでは、、というような言い方をしています。」と言われて、驚いた。「私は楽観的に捉え過ぎていました。」「でも、あなたは元気だから、まだ大丈夫ですよ。」そう付け加えられたが、病気はそこまで来ていたのかと、初めて主治医の前で泣きそうになった。
また、あの犀川の河川敷に行って、今度は、初めて癌であることが悲しくて、泣いた。夫の胸に顔を埋め、夫の腕に抱かれて泣きたいと思った。車の中で泣いていたその時、親友2人とのグループLINEからメッセージが届いた。初めて思いを吐露し、心は落ち着いた。このタイミングでLINEが届いたことが、本当にありがたかった。
家に帰ると、夫の前では泣けなかった。息子も心配してくれていたが、二人とも私の前で深刻な顔をせずにいてくれる。新しい薬があるのなら、副作用は強くなっても、一度は新しい薬を試した方がいいという二人の意見を大事にしようと思った。
次の診察日。検査結果が出て、耐性遺伝子の型に適応する治療薬があることがわかった。ちょうど1年前に保険適用になったばかりの、飲み薬と点滴との併用療法。またしても運がいいと思った。副作用は今までよりも強くなり、QOLは下がるとしても、もう少し生きていたいという私の願いに従って、主治医はこの治療を選択してくれた。
2月末、まず胸膜癒着術を行った。少し抵抗があったが、胸水がたまらないようにして、体調を良くしてから、新しい治療を始めた方がいいという、主治医の言葉に納得して従った。大したことはないと思っていたが、思いがけない倦怠感に襲われて、退院後もほぼ横になっていた。1週間後には新しい治療が始まるのに、これではと心配していたら、2日前に元気になった。再度入院し、併用療法が始まった。初回の点滴時、少し呼吸が苦しくなるということはあったが、看護師の素早い対応で事なきを得た。心強かった。無事に2回の点滴を終え、心配な副作用もなく退院した。
だが、動く意欲が出ない。眠くて寝てばかりいて、3月が終わった。このまま、こんな日が続くとしたら、切ない。そう思っていたら、4月になって、意欲が湧いた。趣味活動に参加したり、友人と出掛けたりできるようになった。ただ、出掛けた後は、深い眠りの底に落とされる。それでも、出掛けられるなら、出かけようと思った
5月になって、眠気も倦怠感も、消える日が多くなった。癌克服の鍵は有酸素運動だと言っているのをTVで見て、縄跳びを始めた。初日は2回でヨロヨロ。そんな自分に驚いたが、毎日続けているうちに、連続100回跳べるようになった。薬の効果はまだはっきり出てはいない。副作用も今までよりは強いから、これから先どうなっていくのだろうと、不安はある。だが、今まで私は運が良かった。きっと博行君も守ってくれている。河川敷で泣いた時、覚悟を持ちながら、希望を捨てずに生きていこうと決めた。
高い山も、諦めないで一歩ずつ登っていけば、必ず頂上に辿り着く。頂上に辿り着いた時の感動は、今までたくさん味わってきた。さすがにもう、高い山には登れないと思うが、今度は、癌という山の頂きに立って、バンザイと叫ぶ日が来るかもしれない。その日まで、癌と共に、仲良く歩いていきたい。運を味方につけながら。