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Gravity

    ※BL(ボーイズラブ)を扱った作品です。ご閲覧にはご注意ください。

    あらすじ

    運命など存在しない。そう信じる秀才・葛 和真と、荒れた家庭で育ち不良として生きる小室 憂。本来なら決して交わるはずのない二人は、ある日偶然出会う。

    「学問を極めませんか。君なら優れた研究者になれる」

    その一言をきっかけに、小室の人生は大きく動き始める。高校受験、大学受験、家族との葛藤、過去の傷、そして自分でも名前をつけられなかった感情。互いを支え合いながら成長していくふたりは、やがて「人を愛すること」の意味と向き合うことになる。

    これは、人生を諦めかけた少年と、感情を論理でしか理解できなかった少年が、長い年月をかけて”帰る場所”を見つける物語。

    プロローグ

    運命というものが存在するか、と尋ねられたら、葛 和真(かずら かずま)は迷いなく否定するだろう。不可思議な力が働いて人のなりゆきが変わるなど、論理的だとは思えない。
    人生は、環境や意思や、その他諸々の現実的要因で決まる。和真が勉学に励み医者を目指していることも、そのような運命だからではなく、父と自分の意思による。
    先日の期末考査も全て満点だった。内申点も5以外はない。教師には決して逆らわない。
    そして今日も言いつけ通り、最も安全性が高く効率のよい家路につく。

    そういうものだと、思っていた。

    前編

    小室憂(おむろ ゆう)は両親の怒声に嫌気がさして家を出た。
    狭い2LDKぽっちのアパートで、父と母は気が狂ったようにいつも言い争いをしている。お前が悪いんだ、あんたのせいで、一体何度耳にした言葉だろうか。そして大抵、食器か何かが叩きつけられる音に変わる。
    小室は、うるさいと叫ぶことさえできず、小さな玄関を飛び出した。

    とはいえ、行くところなんてない。
    学校にも、もう何ヶ月も行っていない。本当なら、中学3年生に上がる前の春休みだ。どこへ行っても浮かれたやつらばかりで嫌気がさす。何がサクラサクだ、ああ鬱陶しい。
    そんなときは大抵、家からも学校からも少し離れた裏路地で、何もせずに時間が過ぎるのを待つ。夜になれば父も母も、しようもない稼ぎのために家を出るから、そのときを待つ。
    散らかったアルコール缶、シャッターの閉じたクリーニング店、落書きされて何が書いてあるかよく分からないポスター。それらの意味のなさは、ほんの少しだけ小室を安らがせてくれる。
    細い道を通り抜けた高架橋の下に、階段で降りて行くことのできる小さなスペースがある。そこが主な小室のたむろ場所だ。何もない、何も聞こえないのがいい。
    しかしその日は、いかにもガラの悪い男が2人と、高校生くらいだろうか、制服姿の女がいた。男たちが女をコンクリートの壁に追い詰めて、女は明らかに嫌がっている。ここは小室のたむろ場所だ。こんなところで事に及ばれたら嫌だな、そんな思いだけだった。

    「あんたら何してんの」

    はじめに女がこちらを向いた。怯えたような、小室が現れて安心したような目をしている。すぐに男もこちらを向き、その隙を狙って女が逃げた。男たちは女を捕まえられなかった。ぎろりと、黄色く濁った目が小室をとらえる。

    「ガキが、何の用だ」
    「別に、邪魔なんだけど」
    「ああ!?」

    すぐにでも男たちはこちらに向かってきそうだった。ちょうどいいと思った。小室も苛立っていた。こういう連中なら、多少痛めつけても後の面倒がない。
    ゆっくり歩いて階段を降りると、すぐに胸ぐらをつかまれ、思い切り殴られた。ガキ相手に大人気ないなと思う。たら、と鼻血が流れてくるのがわかる。

    「クソガキが、逃げられたじゃねえか!」
    「見てたから知ってるよ」
    「黙れ!」

    こういうやつは動きが大ぶりだから分かりやすい。変な唸り声を上げながら一旦小室を離し、その辺にあった廃材を拾った男が向かってくる。振りかぶった瞬間に鳩尾に膝を沈めるとすぐに静かになった。もうひとりも、少したじろいだが、同じようにエモノを振りかぶって向かってくる。流石に同じ手には掛からなかったが、小室が避けるとともに体勢を崩したから、あごに蹴りを入れたら動かなくなった。大人ふたりがあっけないものだ。
    こういう喧嘩は久々にしたから、少し息が上がった。呼吸を整えて、だらだら流れていた鼻血を学ランのすそで拭う――その様子を、じっと階段の上から見ている奴がいる。声も上げずに、ずっと。
    サツにでもチクるつもりだろうか。それとも学校か。面倒はごめんだから少し脅してやろうと、小室はそちらを睨みつけた。

    鋭く尖らせた目を見開いた。
    明らかに、違う世界の少年が、まっすぐ立っていた。
    一瞬、何を言うべきかわからなくなった。

    「……なにあんた」

    少年は黙って小室を見つめている。
    無表情な瞳に少したじろいだ。

    「あんたもボコられたいわけ?」
    「見事です」
    「……は?」
    「高い分析力に処理速度、それに劣らない身体能力、大人2人に怖気付かない胆力、判断も素早く的確……全てが見事です」

    すらすらと紡がれることば。どうやら、小室のまわりにはいないタイプのいかれた奴らしい。

    「なに、頭イカれてんの」
    「でも非効率です」
    「は、お説教でもしてえのかよ」
    「いえ、咎めるつもりはありません。君の判断と行動は合理的です」
    「……え、は?」
    「ただ、その能力をこのような局所的な衝突に費やすのは、効率が悪い」

    何が言いたいのか、本気でわからなかった。
    説教? 説得? 警察に行きましょう?
    どうやらどれも違うらしい。

    「そういったものは、より価値の高い、大きな領域で活用すべきだと思います」

    一拍置いて、少年は言った。

    「学問を極めませんか? 君なら、優れた研究者になれる」

    少年はなんでもない様子で階段を降り、混乱する小室に近づいた。今まで行われていた喧嘩への恐怖はないらしく、何なら少し好奇心さえのぞかせて、まっすぐ小室を見つめる。
    そんなふうに見つめられるのは、随分久々だった。いつぶりだろうと考えかけて、止めた。

    「葛 和真と申します。学問に興味が出たら、私立白嶺中学校を訪ねてください」

    ぼんやりしていた思考からようやく戻ってきた。
    こんないかれた野郎を訪ねていくなんて、冗談じゃない。

    「……仲間連れて、ボコりに行く」
    「虚偽の申告です。推測ですが、君はその状況が合理的ではないことがわかっている」

    少年――葛和真はメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書いた。丁寧に千切りとり、小室に差し出す。
    ご丁寧に、名乗ったとおりの学校名と名前が書いてある。しばらくそのメモを見つめ、小室は乱暴に奪い取った。
    私立白嶺中学校、葛 和真。喧嘩、逃げた女、鼻血で汚れた学ラン。学問、研究者、きわめる――見たもの聞いたものが頭の中をぐるぐると駆け巡る。

    「……小室、憂」

    そして、気づくと、名乗っていた。
    名乗る理由なんてないのに。

    「……君の名前ですね。ではお待ちしています、小室くん」

    そのまま葛和真は、何事もなかったかのように階段に戻っていった。静かな嵐のようだった。
    小室はそのまま、高架下の小さな空き地に、しばらく立ち尽くしていた。



    しばらく経ち、小室はいつものように重い足取りで家路についた。
    夜になるといなくなるはずの両親の怒鳴り声が、まだ残っているかのように感じる。家に帰ると耳鳴りが止まらなくなる。
    ポケットに手を突っ込むと、小さなコインと紙切れが指先に触れた。紙切れを握りしめると、先ほどのことがあざやかに思い出される。
    少年は葛 和真と名乗った。喧嘩なんてしたことはないだろう、しわもない清潔な制服。まっすぐな瞳、嘘のない声色。場違いなほど、まっさらだった。
    何度も取り出しては握りつぶしたせいでぐしゃぐしゃになったメモを取り出す。几帳面な文字が少しにじんでいる。

    『私立白嶺中学校』
    『葛 和真』

    小さな声でその文字をなぞる。
    不思議と耳鳴りが止んだような気がした。

    ***

    そうして翌日、小室は私立白嶺中学校の門前に立っていた。
    本当は来るつもりはなかった。どうせあんなのはただの冷やかしだ。馬鹿らしい。頭の中をぐるぐると逃げ腰のことばがめぐり、そうすると、葛和真の声がそれを蹴散らしていく。

    ――学問を極めませんか。君なら……

    だせえな、とひとりつぶやいて、小室は重い門戸に手をかける。

    白嶺中は、辺りでも有名な私立の学校だ。
    自分が明らかに浮いていることがわかる。何か悪いことでもしているかのように思えて、小室は職員室であろう部屋の窓を恐る恐る叩いた。
    間もなく教員らしい女性がひょっこり顔を出し、少し驚いたような顔をした。

    「ご用ですか?」
    「……あー、あの、カズラ カズマくんという人に用事があって」
    「ああ、葛くんね」
    「え、あ、あの、本当にいますか?」
    「ええ、あなたオムロ ユウくんでしょう? 図書室で待っているって言ってたわよ」
    「……待ってる?」

    女性は質問には答えず来客用のスリッパを渡し、図書室は校舎とは別の建物だと教えてくれた。
    案内通りに歩くと、すぐに図書室に着いた。赤いレンガ作りの立派な建物だった。蔦の絡む壁には、大きな窓がいくつも取り付けられている。
    スリッパに履き替え、そっと建物の中に入る。嗅ぎ慣れないにおいがする。静かで、清潔なにおいだ。
    周囲の様子を伺うと、玄関の正面の廊下の奥に大きな扉がある。すりガラスで中の様子はわからないが、静かで、本当に人が――あの少年がいるのだろうか。ゆっくり扉を押すと、きいと金具が音を立てた。

    果たして、葛和真は座っていた。
    背後から太陽の光を受けて、本を読んでいる。
    黒髪がきらきらと光る。
    その光がちかちかとするので、小室は何度か目を閉じては開いた。

    「お待ちしていました」

    顔も上げずに言う、その声に小室ははっとした。
    ぱら、とページをめくる音が響く。
    多分、永遠に思える時間、そこに立ち止まっていたと思う。

    「小室 憂くん。お待ちしていました」
    「ま、待ってたって」
    「来ると思っていました、座ってください」

    葛和真は向かいの席を手のひらで示した。勧められるまま、円形の大きなテーブルの、対面からひとつずれた席にぎこちなく腰かける。それを認めると、和真は開いていた本を閉じ、はじめて小室と顔を合わせた。
    表情がまるで動かない。細く長い目。薄い唇。真白い肌。自分とは違う世界の人間だとすぐにわかる。

    「では、君はまず春瀬高等学校を目指しましょう」
    「は、はるせ、高校」
    「はい。清里や岡東も悪くはありませんが」
    「せいり、おかひがし…………」
    「偏差値と立地、教師の質からの総合的な判断です」

    当たり前の顔で何を言ってるんだろう、この男は。
    今まで出てきた校名は、全てこの辺りでは有名な進学校だ。

    「まずは、」
    「待て、ちょっと待ってくれ」
    「不明点がありましたか?」
    「いや、あの、あんたさ……言っちゃ悪いけど見当違いだと思うぜ」
    「見当違いとは?」

    まるで、それらの学校に小室が受かるかのような物言いだ。

    「いや、春瀬ってよお……俺ろくに授業受けてねえし、勉強なんて何すりゃいいかわかんねえし」
    「些細な問題です。君が今からすべきは『春瀬校受験の対策』。出題パターンはある程度決まっているのであとは慣れです。大したことはありません」
    「そ、うは言っても……」
    「ここまで来て、怖気づきましたか」

    ぴく、と小室の眉尻が動く。

    「あ?」
    「あの日の胆力は目を見張るものがあると思いましたが……どうやら僕の見間違いだったようです」
    「コラ待てや、誰が怖気づいたなんて言った?」
    「違うのですか」

    悪い癖だ。
    売られた喧嘩は買う。
    それがどんなに無謀でも。

    「やってやるよ、春瀬でも、清里でも何でもやったるわ」
    「はい」
    「…………へ?」
    「そうですね。それでは、一緒にがんばりましょう」

    前言撤回だ。
    喧嘩ではない――それよりもっとタチの悪いものを買ってしまったようだ。

    ***

    和真が言うには、これからやらなくてはいけないことは、
    「朝の自習」
    「昼は学校で授業を受ける」
    「放課後は和真に授業を受ける」
    この3つだ。

    「これ死なねえ?」
    「死にません。実際僕はこのようなスケジュールで生活していますが、死んでいません」
    「あ、そうですか……」

    正直できる気がしなかったし、それを平然とこなしている和真に薄気味悪さを覚えたのは事実だ。

    ――ただ。
    毎日両親との会話はなく、小遣いと称して食費も含めた端金を月初めに渡されるだけだ。バイトを転々とする父とスナックで働いて毎日酒臭く帰ってくる母。今日はどんなことがあったかなんて聞いてもこない。期待も愛情も感じられない。

    これはチャンスだ。
    この生活を抜け出せるかもしれないチャンスだ。

    「……やってやるよ、葛 和真」

    ***

    果たして地獄のような日々がはじまった。
    朝は5時ごろに起き、まだ静かな自宅で1年生からの範囲の勉強をする。ほぼ何もわからない。数学なんて特に意味がわからない。学校の朝礼が行われるギリギリまで自宅で教科書を睨みつけて、1時間目から授業に参加する。
    教室のドアを開けたときのクラスメイトの表情と言ったら、まるで幽霊でも見たかのようだった。それを無視して、小室は自分の席にどっかりと座った。
    授業が終わると、足早に白嶺中学校の図書室に向かう。白嶺中は市民に図書館のみ開放しているのだが、利用者のほとんどはもちろん白嶺生だ。近所の公立中学校の制服を着崩した小室は、彼らにとって完全な異物だった。
    図書室では和真が勉強を教える。自習していたわからなかったところ、授業で疑問に思ったところ、とにかく何でも聞いた。和真は1学年下のはずだが、どんな質問にも必ず正確に答えることができた。

    ある日聞いてみたことがある。

    「自分のオベンキョーはいいのかよ」
    「君に教えることも勉強です」

    頭のいいやつは意味のわからないことを言う。

    はじめのうちは、学校の授業を聞いていてもちんぷんかんぷんだった。それが、ひと月ふた月と経つうちに、何となく理解できるようになってくる。問題は解けなくても、何が聞かれているのかはわかる。答えなくてはいけないことがわかる。これは小室にとって大きな変化だった。

    ——とはいえ、5月に行われた中間考査の結果は惨敗だった。解き方すらわからないものもあった。返却されたテストは、いい方で20点台、ひどいもので1ケタの点数もあった。
    解答用紙を和真に見せると、眉ひとつ動かさず「上出来です」と言った。

    「どこが上出来なんだよこんなもん」

    思わず小室は解答用紙ごと、手のひらをテーブルに叩きつける。
    図書館中の人間が一斉に小室を見て、そして目を逸らした。

    「いえ、上出来です。この期間でここまでやれれば、問題ありません」

    言い返す気にもなれず、「ふざけんな」と解答用紙を引ったくって、小室は図書館を飛び出した。
    雨の街を走る。何が上出来だ。雲の上の進学校を目指して、こんな点数でいいわけがない。馬鹿がもがくのを見て、笑って楽しんでいるのだろうかとすら考えた。

    次の日は、学校に行くのも億劫だった。
    行く当てもなく歩き回り、時間を潰す。もうこんなのは辞めだ。春瀬高校なんて夢のまた夢だったのだ。

    ――そう思っていたはずなのに。
    目を閉じると和真の顔が浮かぶ。
    淡々と話すあの顔が。

    「……クソ」

    そろそろ学校が終わる時間だ。和真は今日も待っているのだろうか。
    小室は図書館を目指して走り出した。

    ***

    地獄のような勉強の日々はまだまだ続いた。
    血反吐を吐くような、とはよく言うが、どれだけ努力しても案外血も反吐も吐かないんだということを小室は知った。

    そんなある日だった。
    外はひぐらしが鳴きはじめて、もう夏も終わりという頃。
    小室は和真と並び座る図書室で問題集を広げ、あ、と小さな声を上げた。

    「どうしましたか」
    「……わかる」
    「はい」
    「どうやって解いたらいいか、わかる」

    要は、喧嘩と同じだ。
    どこを崩せばいいか見極めればよかったのだ。
    そこから7ページほど、数学のドリルを夢中で解いた。1問を除いて、全て正解していた。
    丸つけをした和真が小室にテキストを返しながら、「やはり君の頭脳は見事ですね」と言った。

    「んなことは、ないと思うけど」
    「そうですか? 僕が思うに、」
    「や、なんていうか……」
    「はい」
    「わかんねえことがわかるようになんの、いいな」

    しばらく和真の返事がなく、不思議に思って顔を覗き見た。ほんの少し目を見開いて、驚いているようだった。
    ややあって「そうですね」と和真はほほえんだ。細い目をさらに細めて、口元だけ少しほころばせて、ほほえんだ。
    ことばを全部忘れてしまったみたいに、小室は黙り込んだ。

    「どうしましたか」
    「…………笑った」
    「僕も嬉しいときは笑います」
    「……あっそ」

    日も傾いてきて、その日はそれぞれ帰っていった。
    まぶたの裏には、和真の笑顔が焼きついて離れなかった。

    ***

    一方で、小室は現実的な問題にも直面していた。

    「俺……春瀬、行けない」
    「学力はかなりついてきたと思いますが」
    「違う、金がない……受かっても……」

    入学金すら払うことができない。
    ふむ、と和真はあごに手を当てた。

    「……悪い、こんなに世話んなったのに、カネの話なんて……」
    「わかりました。春瀬高校に合格した場合は、僕が支援します」
    「……は? いや、なんで……」
    「合理的だからです」

    思わず小室は「合理的」の意味を辞書で引いたが、どこが合理的なのかはよくわからなかった。



    受験の日が近づいてきた。たまに和真が差し入れる謎の自家製「頭脳ジュース(脳疲労に効くらしい)」を飲みながら、がむしゃらに走り抜けた。来る日も来る日も、問題集と睨みあった。

    受験当日、緊張感がないと言えば嘘になるが、妙に気持ちは落ち着いていた。
    試験問題も、もちろん難しくはあった。深呼吸をすると、和真が隣でここはこう、と教える声が思い出された。

    入試が終わったら手応えを伝える、という約束をしていたから、試験後、図書館に待ち合わせた。
    いつも通り和真は円形テーブルの奥で本を読んでいて、いつも通り小室が近づききる前に顔を上げた。

    「……よ」
    「こんにちは、試験はどうでしたか」
    「んー、まあまあ」
    「それは、重畳です」

    たったそれだけ話して、その日は家に帰った。

    ***

    合否発表の日。
    試験の日以来、久々に春瀬高校の敷地に足を踏み入れた――これが最後になるかもしれないと思いながら。
    試験の日と打って変わって、ひどく緊張した。腹から指先まで、体全部が心臓になったみたいにバクバク脈打つ。うるさいな、と思った。ポケットに手を突っ込んでコインに触れると、少し気持ちが落ち着いた。
    合格発表の紙が張り出された掲示板の前。喜んでいる人、泣いている人、抱き合っている人たちをかいくぐる。無数の数字が並んでいて、めまいがした。

    「0326…………」

    ***

    お互い携帯電話は持っていないから、和真に連絡するときは、公衆電話から和真の自宅の固定電話にかける。
    震える手で、数えきれないほどかけた番号を押す。
    呼び出し音が、やけに長く感じた。

    「はい、葛です」
    「……俺」
    「ああ小室くん、どうしました」
    「話あるんだけど、今から白中前の公園来れるか」
    「電話では不可能な話ですか」
    「あの、会って言いたい」

    和真はしばらく無言だった。
    家が厳しいと言っていたから、考えているのだろう。

    「……無理そう?」
    「いえ、行きます」

    白嶺中の目の前に、小さくも大きくもない公園がある。夜の公園は肌寒く、桜はまだ蕾しかいない。
    手持ち無沙汰に、ぶらんこの鎖をなでる。昔ぶらんこから飛び降りる遊びをしていたことを思い出した。

    5分と経たず、和真はやって来た。
    寝間着に上着だけ羽織って、少し息切れしている。

    向かい合って立ち尽くす。
    胸がいっぱいで、なかなか言葉が出てこなかった。
    震える唇を開いては閉じ、また開いて、小室はようやく声を出すことができた。

    「…………受かってた」
    「はい」
    「俺、春瀬受かってた」
    「はい」

    涙が出そうだ。
    和真をちゃんと見ることができない。

    「…………ありがとう」
    「はい」
    「本当にありがとう」
    「君の実力です」
    「…………おう」

    目頭が熱くなるのを誤魔化すように、空を見上げる。
    さらさらと、春の風が吹いた。

    ***

    2009年4月。
    晴れて小室は春瀬生として学舎にいた。
    結局、用途がないとして貯まっていた和真の小遣いの金で、小室の入学資金はまかなわれた。

    さらに、

    「君にもうひとつ提案があります」
    「……と言うと」
    「僕の家に住みませんか? 君の自宅の環境はこれからの生活に不適切だと考えています」
    「お、お前の家?」
    「はい。その方が、合理的です」

    和真の言う『合理的』はやはりたまに意味がわからない。

    念の為、親に許可を取りに行った。
    突然息子が家を出ていけば、さすがにあの親でも驚きはするだろう。その日父はいなかったので、仕方なく、部屋着で昼下りまでベッドで横たわっている母に切り出した。

    「あの、母さん」
    「……なに」
    「俺、友達の家に住まわせてもらう」
    「は?」
    「高校受かったじゃん、そいつん家高校近くて、それで」
    「あっそ、好きにすれば」

    それだけだった。

    それからはあれよあれよと言う間に春瀬高校への入学と葛家での下宿が決まり、準備に追われる日々だった。とにかくやることがたくさんで、あまりこのあたりの記憶がない。

    生活費も自分でバイトをしてなんとか稼ぐつもりだったはずが、いつのまにか和真の父に負担してもらうことになっていた。和真がそのように手配していた。
    小室には、できうる限りの礼を伝えることしかできなかった。

    翌日、自宅に一度戻り、決して多くはない荷物を持って、両親のいない間に小さなアパートを出た。
    その日は夕日がきれいだったことを覚えている。

    和真は3兄弟の真ん中だが、兄は学業のために寮生活で、母親と弟は一緒に暮らしていないらしく、父とふたり暮らしをしている。
    同居初日、和真の父は夜中まで不在だった。とにかく仕事が忙しい人で、丸1日帰ってこないこともざらにあるらしい。
    家政婦を雇っていて、その日小室は久々に人の手料理を食べた。献立はきのこの炊き込みご飯と焼き魚、きゅうりのたたき、なめこのみそ汁だったが、なんだかすごくおいしく感じた。
    入学直後に行われる実力テストの勉強を少しだけして、そのあとは和真と2人でコーヒーを飲みながらたわいもない会話をして、歯を磨いてさあ寝るかとなったとき。

    「……小室くん、問題が発生しました」
    「どした?」
    「今日届くはずだった小室くん用の布団が、配送業者の都合で届きませんでした」
    「まじか、親父さんのやつ借りるのは?」
    「父は今日、夜中には帰ってくるので、使えません」
    「来客用とか」
    「うちに泊まりがけで来るような人はいません」
    「じゃあ俺がソファで、」
    「それはいけません、疲れが取れません」
    「……じゃあどうすんの?」
    「やむを得ません、一緒に寝ます」

    もちろん抵抗したが、きちんとベッドで寝なければ疲れが取れず、疲れが取れなければ学業に支障をきたすと和真に押し切られ、渋々同じ布団に入った。
    和真がお行儀よく仰向けで寝るので、気恥ずかしくて、彼に背を向ける形で横になる。寝つきがいいのか、すぐに隣からすうすうと寝息が聞こえてきた。背中に和真の体温が伝わってくるような気がする。なんだか心臓がうるさい。鎮まれ鎮まれと唱えていたら、寝返りを打ったらしい和真の気配がさらに近づいた。呑気なやつだなと恨みすら感じる。神様俺を寝かせてくださいとしばらく唱え続けていたら、いつのまにか小室も眠りに落ちていた。

    葛家の朝は早い。
    まだ春休みなのだからゆっくり寝ればいいと思うのだが、休みの日でも朝7時には起きるのが決まりらしい。けたたましい目覚ましの音に叩き起こされた。目が覚めたら和真の顔が目の前にあって息が止まりかけた。
    眠そうな声で「おはようございます」と言っている和真の髪が、寝癖でぐしゃぐしゃだ。笑いながら手ぐしで整えると、なんだか本当に家族みたいだった。



    生活は案外普通にはじまり、案外普通に馴染んでいく。小室の高校生活はとにかく勉強、勉強、勉強で過ぎていった。受験の頃ほどではないが、和真に倣ってとにかく勉学に励む。それでも、喧嘩に明け暮れた日々より、ずっとマシだ。
    何より「帰る場所」ができたことが小室には大きかった。あたたかく静かで平和な家。怒鳴り声もすすり泣く声も、何かが割れる音もしない。静かすぎるくらいだ。
    ほとんど和真とのふたり暮らしみたいな生活は楽しかった。初めは超人にしか見えなかった和真も、意外と人間らしいところがある。生卵のカラザが好きじゃないとか、歯磨きが長すぎるとか、よく毛先を触る癖があるとか。指摘してみたら、和真は無意識だったらしく、目を丸くしていた。

    日々は、目まぐるしく過ぎていった。

    高2になると、進路希望を提出するよう指導があった。
    考えなくてはならないとわかっていたが、将来のことを考えている余裕がなかった。俺は何大、私は何学部、とクラスメイトが話すのを横目に、小室は丁寧に進路希望のプリントをクリアファイルにしまいこんだ。

    夜、ベッドに寝転がって、考えてみる。
    今の自分が、大きな過ちを犯すことなく普通の高校生活を送れているのは、他でもない和真のおかげだ。
    見つけてくれた。手を差し伸ばしてくれた。導いてくれた。獰猛な野犬のようだったこの自分を、呆れた様子も見せず。



    翌日、小室は進路指導室にいた。

    「小室くんは随分悩んでいたようだけど、やりたいことは見つかった?」
    「……その、俺、実家があんまりうまくいってなくて……」

    言葉を慎重に選ぶ。

    「なんていうか、すげえ抽象的なんすけど、そういう人の助けになれたら、って考えてて」
    「うーん、なるほどね……心理学を学んで、カウンセラーや臨床心理士なんかもいいんじゃないかな」
    「カウンセラー……」
    「色々考えてみなよ。心理学って色々な大学で学べるから」

    そう言って、指導員の教員は小室にいくつかパンフレットを手渡した。たった2年と少し前まで想像だにしなかった世界が、A4サイズの冊子の中に広がっている。

    帰ると、和真は先に帰宅していて、いつも通り姿勢よく本を読んでいた――将来のことを話してみようか。予想だにしなかった未来が待っているかもしれないことを。
    小室は何気ないふうを装って、半分ひとりごとのように、「今日進路指導の先生と話した」とつぶやいた。すぐに和真は本を閉じて小室の方を見た。

    「どんな話を?」
    「なんか、カウンセラーとか、ナントカ心理士とか」
    「心理学に基づく職業ですね」
    「……俺に、人の気持ちなんて理解できるかな」
    「君は僕のこともよく気づくでしょう」

    さも当然のように、和真は言った。
    そっか、とだけ返して、小室は自室に入っていった。ドアに背を預けて座り込む。信じられないような気持ちだ。こんな、こんな自分が、誰かを救う。そんな可能性が、そこにはあった。



    心理学を学べる大学は日本中どこにでもあった。小室の暮らす福岡にも数多くあって、今の成績なら選ばなければどこかしら入学できる。
    その中で小室の目に留まったのは、特に親子関係や家族関係の心理学を専門に研究している著名な教授だった。親子、家族、まだ小室にとって痛いところだ――その教授は、東京の名門・星ヶ関大学にいる。



    高校2年生の冬休み。
    ソファに2人並んで座り、テレビも点けず何となく隣り合って座っている。
    不意に、伝えなければと思った。

    「……俺、さ、東京の大学目指す」
    「そうですか」
    「これだってこと、見つけられた気がする」
    「それは、」
    「うん?」
    「…………それは、さみしくなりますね」

    はじめて聞く、和真の、揺らぎをはらんだ声。
    顔を見ることができない。

    「……お、お前はどうすんの」
    「このまま、清里大の医学部を目指します」
    「そっか、そうだよな」

    何も言えなくなって、迷った末に、軽く肩を叩いた。

    「今生の別れじゃねえし、俺まだ受かってもねえし」
    「そうですね」

    しんみりするのが嫌で、「ああ腹減った」なんて嘘を言った。

    そして季節はめぐり、高校3年生の秋。
    毎日机にかじり付いては疲れ果てて気絶するように眠る日々。
    模試の結果は、よくはない。



    試験が近づいた年明けのある日、小室は夜中まで赤本を解いていた。
    まだ解き足りない。そう自分の中の自分が訴えてくる。休むことさえままならなくて、ただ問題を解いている時間だけ、許されたような気持ちになる。ときどきポケットのコインに触れて、呼吸を整える。

    こんこんと、ノックの音とともに、和真が入ってきた。手には湯気の立つマグカップが握られている。

    「差し入れの頭脳ジュースです」
    「……なつかし」
    「寒いのでホットです」
    「絶対まずい」
    「味見をしましたがまずかったです」
    「本当にまずいのかよ」

    いつも通りの和真の調子に笑いが吹き出る。
    ひとしきり笑って、そして、小室は恐ろしくなった。

    ――俺は、今これを、手放そうとしている。

    夢を追って、自分の人生を生きているはずなのに。
    大きな一歩を踏み出そうとしているのに。
    唐突に、この日々との、和真との別れが恐ろしくてたまらなくなった。

    「小室くん」

    呼ばれてはっとした。

    「顔色がよくありません。今日はもう休んでは?」
    「んー……そうする」

    その日はよく眠れなかった。
    何度も寝返りを打ち、浅い眠りに落ちては悪夢を見て目が覚める。
    どんな夢を見たかは、朝になると覚えていなかった。

    ***

    試験当日。
    どんよりとした空から雪がちらついている。
    もちろんセンターから二次試験まで全力を出した、つもりだった。
    東京に向かう新幹線の中でも、居眠りもせず単語帳を繰り返し読んだ。前日に泊まったホテルの部屋でも、寝るまで過去問の解説を読んだ。

    結果は、不合格だった。
    学校には行かなくてもいい時期だったので、小室は何もする気になれず、部屋で不貞寝をして1日過ごした。和真は何も言わずにそっとしておいてくれた。

    モヤがかかったような頭で考える。
    自分は今からどうすべきか?
    後期試験で、念のため県内の大学を受けることにはなっている。
    受かったとして、そこに行くのか?
    来年に賭けるか?葛家に迷惑をかけて?
    ここを出てバイトで食いつなぎながら浪人する?
    現実的だろうか?



    気づくと、小室はどこかへ向かっていた。
    遅れてしまいそうだ。ああ早く、急がなければ。
    勉強だってしなくてはいけないのに。
    体が重たい。とにかく進まなくては。足がもつれてしまいそうだ。
    角を曲がったところに和真がいた。声をかけようとしたら、つまずいて転んでしまった。
    和真はそのまま背を向けて歩いていった。

    「待ってくれ! 俺はまだ――」

    和真が立ち止まり小室を見下ろす。
    白嶺中の学ランの姿だ。

    「まだ、なんですか?」
    「まだ、まだ…………」
    「そうですね」

    ――君は優れた研究者になれる。

    そこで目が覚めた。
    そうだ、こんなところで立ち止まっている暇はない。
    小室は、勢いよくベッドから降りると、冷たい水で顔を洗った。



    「ご迷惑は承知です」

    和真の父の部屋を訪ね、小室は深々と頭を下げた。
    無理を言っていることはわかっている。友人の父に、まだ世話になりたいとお願いするなどと。
    土下座をする勢いだった。

    「本当に申し訳ありませんが、あと1年の猶予をもらえないでしょうか」
    「猶予をもらって、どうするつもりだ?」
    「浪人をして……星ヶ関をもう一度受けます」
    「受からなかったら」
    「そのときは……諦めます」

    本気だ。
    それでだめなら、他の大学に――いや、進学は諦める。それでもよかった。

    「その覚悟があるなら、がんばりなさい」
    「……はい!」


    それから2週間ほど経った日のことだ。
    和真が、話があると父の部屋に入って行った。30分ほど話していたと思う。出てきた和真は、珍しくツヤツヤの晴れやかな顔をしていた。

    「どったの」
    「僕は……医学部を辞めます」
    「………………えっ?」
    「僕は大学で哲学を学びます。許可が降りました」

    哲学だなんて知らなかった。
    でも和真らしいなとは思った。

    「……まあ、いいんじゃね。お前がそうしたいんだろ」
    「はい。君ならそう言ってくれると思っていました」

    珍しい、笑顔。
    和真は嬉しいことがあっても滅多に笑わない。
    表情筋が固まっているのか、ほとんどぴくりともしない――あの、中学の日以来か。
    からかいがてらつねってやろうと、不意に手を伸ばしたが、触りはしなかった。その手は宙をさまよって、行き場をなくした。
    触ることが、できなかった。

    「……小室くん?」
    「ちょ、ちょっとコンビニで買うもんあった」
    「何ですか? この時間の糖分の摂取は、」
    「いろいろ!」

    パーカーを乱暴に羽織って飛び出す。ポケットに手をつっこみ、コインをなでる。
    心臓がバカになってしまったみたいだ。なんでこんなにドキドキするんだろう。
    和真の、滅多に見られない笑顔――小室は、それに触れることができなかった。

    それからは、2人して受験勉強の日々がはじまった。
    小室は自室か、特に集中したいときは、近所の図書館の自習室で。
    和真は教室か、ときどき学校の図書室で。
    1年の猶予をもらった小室とは違い、「葛」の意思に逆らう和真は今年しか受験が許されないらしい。今年失敗すれば医学部ルートに後戻りだ。

    起きては勉強、食べては勉強、空いた時間は勉強、勉強、勉強。
    びっしり書き込まれたノートが溜まっていく。とにかく読み込んだ教科書も、「英単語これだけ!」の帯の付いた単語帳も、買い直した赤本も、汗と手垢でよれよれになっていく。
    小室はたまに高校受験のことを思い出して、どっちがマシかなと考えた。



    夏も終わりの頃。
    勉強のしすぎでほてった頭を冷やそうとベランダに出ると、同じ目論見らしい和真がアイスをかじっていた。いつだったか、和真が氷菓は夏の勉学のお供ですと言っていたのを思い出す。和真が安いアイスをかじってるのは少しおもしろい。

    夜風に吹かれながらぽつぽつと雑談が続く。
    そういえば、と小室は切り出した。

    「そういやお前どこ大目指すの」
    「そういえば言ってませんでした。星ヶ関大学です」
    「……えっ」
    「え」
    「…………奇遇、ですネ」
    「本当に、奇遇ですね……」

    流石に和真も驚いていた。
    後から知ったが、星ヶ関は哲学のメッカと呼ばれるくらい、人文学部哲学科が有名な大学だった。

    ***

    受験当日。
    当然同じ日に同じ建物で2次試験を受けるふたりは、同じ新幹線の隣の席に乗って東京を目指した。せっかくなのでと駅弁を買って食べたが、正直味がしなかった。

    ――これが最後のチャンスだ。
    去年は東京がひどく遠く感じたが、今年はあっという間に品川駅に着いた。

    センターも二次試験も、1年前より手応えがあった。
    ともあれ、これで受かっていなければ星ヶ関への挑戦は終わりだ。どちらにしろ、この生活は幕を閉じる。

    「世話んなったな、本当に」
    「小室くん」
    「なに」
    「僕はまだ、君を世話するつもりでいますが」
    「…………合格してたら、頼むわ」

    合格発表の日。
    星ヶ関大学の合格発表はネットと掲示板の両方で行われるので、葛家のリビングに集まり、ノートパソコンで結果を見ることになった。
    和真の父も結果を気にしていたのか、忙しい仕事の合間を縫って有給を取って自宅にいた。ソファで新聞を読むと言って、1時間経っても全くめくっていない。

    小さな画面を、隣り合って見つめた。
    発表の時間になり、和真がまず心理学部の結果を開く。
    アクセスが集中しているのか、なかなか表示されなかった。

    「3373…………」

    番号はすぐに見つかった。
    小室は、星ヶ関大学 心理学部に受かっていた。

    次に、人文学部哲学科の結果発表のページを開く。
    番号は0823。ローディングに時間がかかって、なかなか見つからない。
    ドキドキする、なんなら自分のときより緊張するかもしれない。和真が真剣なまなざしで自分の番号を探すのを、横目で眺める。

    「……ありました。合格です」

    和真も、受かっていた。



    小室は正直、ちょっと泣いた。
    春瀬のときも泣きはしなかったが、流石に涙が出た。
    和真は当然みたいな顔して、頬が紅潮していた。嬉しいんだなと思った。
    つねってやろうとして、やっぱり触れなかった。

    「……夕食を買ってくる」

    結局、新聞を一度もめくれなかった和真の父が、そわそわした様子で財布を持って玄関を飛び出して行った。

    「受かりましたね」
    「ああ、受かったな」
    「星大生ですね」
    「星大生だな」
    「おめでとうございます」
    「お前も、おめでと」

    和真の父が合格発表の画面をスクリーンショットで撮り、印刷してどこかに送っていたのは、また別の話だ。

    何はともあれ、春から大学生活がはじまる。
    小室の隣には心強い友人、恩人、師匠――そして、名前のつかない感情を抱く男もいる。
    これからも隣にいるだろう、まだあどけない横顔を、ふと見た。
    いつかこの感情にも、答えが出るんだろうか。
    でもきっと、きっとこれからも、何とかやっていける。

    後編

    大学入学に先立ち、再び立ちはだかる壁がある。入学資金だ――まとまった金を用意して期日までに入金する必要がある。わかっていたのに、逃げつづけていた。
    しかし、悩んでいても、現実は待ってくれない。和真の父に頭を下げる以外の選択肢が見つからない――そう覚悟を決めたとき、葛の家に電話があった。

    「小室くん」
    「あ、はい」
    「君に電話だ」



    翌日は晴天だった。
    いよいよ春の盛りという清々しい空気が街を包んでいる。電話の相手は父だった――葛の家の電話番号を調べてかけてきたのだった。会って話したいことがあると言う。今さら、一体なんの用だろう。
    アパートは葛の家からもそう遠くなく、すぐに到着した。なかなかインターホンを押す気になれなかったが、小室の気配に気づいたのか、母が玄関のドアを開けた。

    「あー……来たけど」
    「……は、入って?」

    足を踏み入れて、小室は言葉を失った――あんなに荒れていた家が片付いている。そして、静かだった。
    小室が入って、すぐに父親も部屋から顔を出した。ふたりとも、ひどく緊張した面持ちだった。
    4人掛けのテーブルに向かいあわせで座る。居心地が悪い。黙ったままの両親に痺れを切らし、「用がないなら帰るけど」と言いかけたときだった。テーブルに額をこすりつける勢いで、父と母が小室に頭を下げた。

    「今まで、すまなかった……!」
    「…………今さら何」
    「あんたがちゃんと学校に通ってるのを見てて、私たち何してるんだろうって思ったの」
    「バイトもスナックも辞めて、派遣だけど、仕事に着いた」
    「……そう」
    「人づてに、あんたが大学に受かったのを聞いたの」

    小室は、テーブルに落としていた視線を少しだけ上げた。

    「全部の金は出せないが……入学金だけでも、出させてくれないか」

    憎んでいたと言っても過言ではない両親から、「はいそうですか」と金を受け取ることはできなかった。その日は一睡もできず、親指の腹でコインをさすりつづけた。
    翌日、手書きのメモで受け取った番号に、電話をかけた――すっかり忘れてしまっていた、自宅の電話番号だ。

    そうして入学金問題は幕を閉じた。
    小室は知った――憎しみさえ抱いた家でさえ、変わっていくのだということを。

    ***

    入学式は、大学の近くの大きなホールで行われた。
    着慣れない新品のスーツに身を包み、小室は新入生の席に着く。隣に和真はいない。当然のように首席合格だった和真は、新入生代表の挨拶をしている。
    澱みなくさらさらと読み上げる姿を見て、やはりすごいなと思った――小室憂にとって葛和真は友人で、恩人で、師匠で、「超人」だ。

    そうして、大学生活がはじまった。
    講義の選択に、バイトも探さなくては。新歓コンパがいろいろな括りで開催され、サークルの勧誘があちこちから来る。
    和真も例外ではない。主席合格と、入学式での完璧なスピーチが相まって、同級生からOBから、とにかく声をかけられる。特に頭脳系のサークルからは勧誘がひっきりなしだ。

    大学にはいろんなやつがいる。これまでどちらかといえば遠巻きにされていた和真が、囲まれることが多くなった。連絡先教えてだとか、サークルどうするのとか、そんなことを聞かれて、和真はいちいち律儀に答える。妙に、しんどそうに見えるときもある。
    教えなくてもいいだろ、ということばを、小室はすんでのところで飲み込んだ。

    小室は学校の寮に住んでいるが、和真のアパートもたまたま最寄りが同じ駅だ。小室と和真は、地元から遠く離れた東京に顔見知りもおらず、なんとなくいつも一緒にいて、なんとなくいつも最寄り駅まで一緒に帰っている。

    「…………帰るか」

    声をかける理由がないし、待つ理由もない。
    今までバカ真面目に一緒に帰っていたことの方がおかしいのだ。
    あれだけ囲まれているのだから、そのうち和真にも、自分より仲のいい友人ができる――なんなら、いつかは、恋人も。
    そう思った瞬間だった。

    「小室くん」

    和真にしては大きな声だった。
    そんな声出るのかと驚いた。振り返ると、和真が同級生たちを背に小走りで近づいてくる。

    「あいつらよかったの」
    「はい、用件は済みました」
    「あそ」
    「帰りましょう」
    「……おー」

    帰り道は大抵たわいもないことを話して帰る。
    この大学の蔵書数はすごい、やはり目の前にすると圧巻だ、とか。著名な教授が何人もおり、やはり先行研究を学ぶならここだ、とか。

    (なんか近くね?)

    和真は夢中になって話している。明後日の空きコマで「惑星クン・ジ・ジ」を観る予定なのだとか。なんだその映画。
    本当に夢中で、気付かないのだろう。不意に、ぶらぶらと揺れていた手が、触れあった。ほんの一瞬だった。
    何か妙な感覚が、指先に残った。

    「すみません、話に夢中になってしまいました」
    「別に、いーよ」

    こんなやつだったかなと考える。
    もっと他人を警戒していて、近寄らせないような印象があった。何か心境の変化でもあったのか。
    他のやつにも近いのかと思ったら、そんなことはなかった。明らかに一線引いている。そもそも和真はいつも、重たそうなショルダーバッグを肩にかけ、ストラップを両手で軽く握っていることが多い。
    それが、自分といるときは、その手を自由にして――

    「……いやいや考えすぎ」

    自分はいったい何を考えているのだろう。
    小室はぶんぶんとかぶりを振った。



    家も近い、必須以外はかぶっている講義も多い。
    必然と隣にいることの多いふたりは、たまにからかわれることがあった。

    「小室と葛くん、いつも一緒だよな」
    「もしかして付き合ってんの?」

    馬鹿げた軽口だ。
    本当に、馬鹿馬鹿しい。

    「友人です」
    「……そういうこと」
    「えー、なんか含みあるくない?」
    「ありません」

    ちらりと覗き見た和真はいつもの様子だった。いつも通りの、小室の知る和真だった。
    和真はふう、と大きな深呼吸をひとつした。

    ***

    息苦しかった制服は脱いで、己のままぶつかる学生生活は小気味よくすぎていく。そう思っていた。

    2限連続で別々の講義が続いたときだった。小室が大講義室に移動しているとき、遠目に和真の姿が見えた。背を丸め、ふらふらと校舎の裏に隠れていった。
    様子がおかしかったが、同級生に呼び止められてその違和感を探ることはできなかった。

    その光景を小室が次に目の当たりにしたとき――じっとりとした梅雨の気配から逃げるように、和真はよろよろと、薄暗い空き教室に入っていった。
    小室は、考えるよりも早く動いていた。一緒に移動していた同級生を置いて、その教室めがけて駆け出していた。小室を呼びかける声が遠い。

    人目を避けるように、教卓の裏でいびつな呼吸をくり返す和真に、驚かないようにそっと声をかける。

    「おい」
    「……っ、はっ、小室、くん」
    「大丈夫か」
    「すみま、せん、見苦しい、ところを」

    小室は和真の背中に手を回し、さすってやる。

    「ゆっくり息して」
    「はっ……は……っ」
    「しっかり吐け」

    ふうぅ、と歪な吐息が、がらんどうの教室に響く。

    「そう、そう」
    「……はぁ……っ、はあ」
    「焦んなくていいから」

    教卓の天板に置かれていた和真の手が、いつのまにか小室の腕を強く握っている。必死の力だった。

    「落ち着いた?」
    「……すみません」
    「いいって」
    「見苦しい、ところを」
    「……別に」

    真っ青な顔だ。
    和真はもともと色が白いが、さらに血の気が引いている。

    不意に、葛の家のことが、頭をよぎった。
    あの家には一切の「母親の痕跡」がない。いっそ不自然なほどに。アルバムも、ビデオも、写真立ても、何もなかった。思い出話のひとつも、和真と父の口から出たことはなかった。
    整っていると思っていた葛家が、なんだか空恐ろしく感じたのをおぼえている。

    「今日は帰ろうぜ」
    「まだ、3限が……」
    「じゃあどっかで少し休もう。落ち着いてから、な」
    「……はい」

    結局、体調を崩したままの和真をアパートに送っていった。講義をサボることを、終始和真は嘆いていた。



    そんなことが何度かあった。
    世界は何も知らぬ顔で季節を進めていく。

    夏も盛りの頃。
    2人で隣町の博物館を訪ね、その帰りの電車の中だった。
    和真はいつも通りに落ち着いている。

    「……1個聞いていい?」
    「はい」
    「よく、ああなるのか」
    「……はい」

    無言の時間が続いた。
    それ以上、問いただす気はなかった。
    和真が、いつもよりもっと静かな声で続けた。

    「特定の状況で、過去の記憶が想起されます」
    「……そっ、か……まあ、しんどいときは言えよ」
    「……はい」

    それから何度かそういう場面に遭遇した。そのたびに小室は和真に寄り添った。春より、悪化しているような気がする。
    ただその和真本人は、そのことに対して、何も言わなかった。

    ***

    何がきっかけだったのだろう。一緒に受けている、海外の古い映画を鑑賞する講義の後だった。その日は特にひどい発作が出ていた。

    ようやく落ち着いた和真に、「俺には、話せそうか」と聞いた。
    答えは、「検討します」だった。



    それから3ヶ月経った。
    東京の冬は厳しく、突き刺すような風が吹いて、たまに地元に思いを馳せたりしている。

    ある日、落ち着いたり崩れたりを繰り返していた和真に、家に呼び出された。
    はじめて足を踏み入れた和真の部屋は、何もない殺風景な部屋だった。机とベッドと、あとは本が数冊あるくらいだ。少しの隙もなく整頓されている。
    座るようなところもないので、勧められるままに、ふたりで隣りあってベッドに腰かけた。
    沈黙が続く。
    壁掛け時計の秒針の音だけが静かな部屋に響く。

    「小室くん」

    小さな声で和真が呼んだ。
    らしくない、切羽詰まったような、何か覚悟を決めたような面持ちだった。

    「少し、個人的な話をしても?」
    「ああ」

    和真の視線がさまよった。
    どこかを見て、小室を見て、また下の方に泳ぐ。唇がわなないていた。話したくないのは容易に見てとれた。

    「僕のお母さんの話です」
    「うん」
    「お、お母さんは……お母さんは、」
    「……うん」
    「……ぼく、僕が、8歳のときに、8歳のときに」
    「うん」
    「……弟と、おと、弟と一緒に……僕を置いて、出て行きました」
    「…………うん」

    和真の呼吸が荒くなる。

    「……おかあさん……」

    涙は流していなかった。
    ただ、必死な声色だった。
    小室に、言うべき言葉は見つからなかった。少し強引に、和真を抱きしめた。
    ひどく乱れていた呼吸が、少しずつ、落ち着いてくる。

    「話してくれてありがとう」
    「……いえ、聞き苦しい話を、すみませんでした」
    「聞き苦しくねえって、ありがとう」
    「はい……」

    どれくらいそのままでいたのだろうか。
    小室は、その間考えていた。
    自分を救ってくれた和真に、何を、してやれるだろうか。

    「……あのさ」
    「はい」
    「お母さんに、会いに行こう」

    ***

    それから2週間後、小室と和真は博多行きの新幹線に揺られていた。
    離婚したときから、和真と彼の弟は常に連絡を取れるようにしてもらっていたらしい。その弟は、今も母と住んでいる。
    母親とも、会おうと思えば会えた。でも会わなかった。誘ったときも、断られるかと思っていた。予想に反して、和真は、ただ頷いたのだった。

    博多駅の雑踏に、少し発作が出る。

    「一旦休むか?」
    「……いえ問題ありません」

    博多駅から母の住む家までは、一度乗り換えを挟んで電車で30分ほどある。
    電車に揺られていると、あたりの景色が緑に染まっていき、どんどん人が減っていく。ひとり、またひとりと電車を降りて、車両に残っているのはふたりだけだった。

    乗り換えの駅に着いた。
    耳障りな音を立てて電車がすべりこむ。
    和真は、ドアの前に立ち、そのまま発車を見送った。
    乗ることができなかった。

    20分後、また電車が来る。また見送る。

    そして、
    「…………乗ります」

    ようやくふたりは3本目で、くすんだ朱色の、2両編成の私鉄に乗り込んだ。
    最寄り駅までの5分が、ひどく長く感じた。
    冬の日は短い。もうかなり日が落ちてきている。

    家と田んぼしかない細い道を、何度も立ち止まりながら歩いた。風が吹くたびにかさかさと乾いた草の音がした。
    ときどき軽い発作が出て、そのたびに小室は和真の背中をさすったり、ペットボトルの水を差し出したりした。

    15分ほどで、ふたりは小さな一軒家に着いた。
    表札には「伏見」とある――和真の母の苗字だ。



    緊張で体が震えている人間を、はじめて見た。
    ひとごとながら、ただインターホンを押すというだけの行為が、こんなに恐ろしく感じるとは思わなかった。
    ピンポン、と軽い音がして、和真は2歩ほど後ずさった。
    扉の向こうで誰かの足音がする。近づいてくる。立ち止まる。ドアノブが回る。

    ドアが、ゆっくり開く。

    「……和真?」

    和真の母だ、紛れもなく。雰囲気がそっくりだ。
    ドアノブを掴んだまま、和真を見つめて固まっている。

    「和真です。お母さん」

    途端、和真の母の両目から、とてつもない量の涙があふれた。小室も少し目頭が熱くなり、慌てて押さえて目を逸らした。
    ずず、と大きく鼻をすすった和真の母は、スリッパのまま玄関を飛び出して和真を両腕いっぱいに抱きしめた。
    小室は1歩だけ後ろに退がる。

    「かずま、和真……」
    「はい」
    「和真、ごめんね」
    「……はい。お母さん」
    「ごめんね、こんなお母さんでごめんね」
    「…………はい」

    どうして人には別れがあるんだろう。
    答えは、出なかった。

    ***

    立ち話もなんだからと、少しだけ和真の母の家でお茶をいただいた。それから、もうすっかり日も落ちているのでホテルへの帰路に着いた。和真の母はからりとした明るい人だった。ありえたかもしれない未来を、覗き見てしまったような気持ちになった。

    和真は帰り道も無言だった。
    だが来るときの無言とは明らかに質が違う。きっと彼なりに、いろいろな感情を整理しているのだろう。
    励ましたいと思った。ただ、それだけだった。

    「……小室くん?」

    見開いた目と目が合う。
    小室はほとんど無意識に、少し背の低い頭をなでていた。
    自分でもびっくりして咄嗟に手を引く。

    「悪い」
    「いえ、心地よいと感じました」
    「そ……う、か」

    手のひらが熱い。
    顔も熱くて、おかしくなりそうだ。
    自分は何をしでかした? それに和真はなんと言った?
    12年ぶりに母に再会した帰り道だというのに、自分は何をしているのだろう。

    夜でよかった。
    夜風が頭を冷やしていく。
    それでも、手のひらの熱だけは、なかなか引かなかった。

    ***

    母との再会で和真の発作はある程度落ち着いたらしく、ときどき出ても軽いものに変わっていった。
    小室がそのことに安堵した矢先に、和真はまた別のことに悩みはじめたようだ。発作のような深刻なものではなさそうだが、食事をとるときも帰り道でも腕を組み、「うーん」だなんてずっと考えごとをしている。

    「最近どしたん?」
    「非常に、難しい問題に直面しています」
    「難しい問題? 講義?」
    「いえ、僕個人の……君にも関係があることなのですが」
    「俺に?」
    「はい。この謎が解けたら、ぜひその答えを君にも聞いてほしい」

    そう言って小室を見た和真は、また腕を組んで難しそうな顔をした。何だかよくわからないが、しんどい様子はないのでとりあえず見守ることにした。

    それからの和真は、どこか変な感じがした。
    なぜか、やたらとお菓子やら飲み物やらを小室に買ってくる。コンビニで買った新作のお菓子だの、季節限定のフルーツジュースだの。

    「お前甘いもん好きじゃないだろ」
    「はい、でも小室くんは好きですよね」
    「まあ、そーだけどさ」

    ぽりぽりと『とろける!新感覚チョコ』を頬張りながら考える。
    なにか、そういう行為にでもハマっているのだろうか。
    小室は深く考えずこの餌付けのような行動を受け入れることとした。

    それから、和真はよく写真付きでメッセージを送ってくるようになった。特に伝えたいことがあるわけではないらしく、本当に何気ない写真ばかりだ。

    「講義室に迷い込んだ猫です」
    「かわいい」
    「さわらせてもらえました」

    黒猫とそれをなでる和真の手の写真。

    「変な形の雲です」
    「なんか不気味だな」
    「何かの予兆でしょうか」

    見事な晴天に浮かぶ、見たこともない形の雲の写真。

    「今日の昼食です」
    「うまかった?」
    「おいしくなかったです」

    野菜の乗ったラーメンみたいなどんぶりの写真。

    暇なんだろうか。
    いや、暇があれば大抵本を読んでいる男だ。
    何か意味があるのかもしれないが、小室にはよくわからなかった。

    更には、やたら予定を把握したがるようになった。
    バイトはいつシフトを入れてるんだとか、今日は誰かと会うのかとか。
    バイトがない日は大抵和真といるので、どういう意図か小室にはわかりかねた。

    ある日。週末の予定を聞かれたので、高校の連れが遊びにくるから終日一緒にいる予定だと答えた。すると、妙に驚いたというか、しょげた様子で「そうですか」なんて言うのだ。

    「わり、なんか約束してたっけ」
    「いえ、そうではありません」
    「なんか予定入れる気だった?」
    「そういうわけでは……」

    もごもごと、自分でも答えを探しているのか、それ以上和真は何も言わなかった。

    その後も、なぜかやたら小室の持ち物を褒めたり、荷物を持とうとしたり、和真の意味のわからない行動は続いた。

    そして「非常に難しい問題」の約1ヶ月後、小室は和真に呼び出された。

    春の気配がときどき顔を覗かせる。学生は長い長い春休みに入って、浮き足だった心をまるで隠さずにいる。そんな時期だった。
    互いの下宿先の中間ほどにある、小さなカフェ。初老の夫婦が2人で切り盛りしていて、いつも小さくクラシック音楽が流れている。和真が学生になってからできた、お気に入りの場所のひとつらしい。
    春休みに入ると毎日顔を合わせるわけではないから、和真とは4日ぶりに会う。本題に入る前に、たわいもない話に花が咲いた。
    和真はホットブレンドをひと口飲んで、「そうだ」と思い出したように言った。

    「先日話した難問に、ようやく答えが出ました」
    「ほう?」

    小室は気持ち身を乗り出した。
    和真にとっての難問は、実は少し興味がある。

    「僕は『特定個人への強い関心』を寄せ、『身体的接触を「快」に分類』し、ときに『非合理的・非効率的な選択』を行ってきました」
    「ん? おう」
    「特定個人とは君のことです」
    「……へ?」
    「世界はこれを『愛』と呼ぶそうです」
    「は、え?」

    ――強い関心? 分類? 非効率的な選択が何だって?
    聞き返そうにも、どこから何を聞けばいいのかわからず、しばらくフリーズしてしまう。
    一旦、もう一度ゆっくりはじめから聞き直そうと思って口を開きかけた小室に、和真がことばをかぶせた。

    「君はこれからバイトでしたね」
    「そう、だけど、」
    「では今日はこれで」
    「あ、おお」

    そうして頭にハテナを浮かべたまま、小室はいつの間にかバイト先に到着していた。その日だけでグラスを3つも割った。



    その後、和真はあの日の発言がなかったかのように、小室を茶だの映画だと誘ってきた。それが余計に小室を混乱させた――あれは何だったんだろうか。
    和真が冗談やからかいであんなことを言うような男でないことは、小室自身がよくわかっている。物事が理屈で説明できると思っている男だ。あれはつまり和真の「本気の発見」で、「嘘偽りのないことば」であることは間違いない。だからこそ意味がわからない。なぜ、その対象である小室本人に、そんなことを言ったのか。

    ――これはもう、本人に聞くしかない。
    2週間ほど粘って、とうとう小室は白旗をあげた。

    久々に和真を呼び出す。場所はどこがいいと聞くと、和真はいつもの喫茶店を希望した。
    先に店に着いた小室は、どうにも落ち着くことができないでいた。腹がそわそわする。約束の時間ぴったりに和真は店に入ってきた。こんなときまできっちりした野郎だ。

    小室がなかなか話を切り出さないからか、和真は3回生に上がってからどんな講義を取ろうかなんて雑談をはじめた。和真にしては口数が多く、次の話題に移ろうとしたので、これはいけないと、ようやく小室は「あのさ」と口を開いた。

    「話遮って悪いけど」
    「問題ありません」
    「……あれどういう意味だったんだ」
    「あれ?」

    どれのことだかわからないという顔だ。
    小室が「その、世界がどうだとか……」と言うと、先日の話かと合点がいったらしい。

    「結論の共有です」
    「……なんで俺に言った?」
    「小室くんに知ってほしいと思いました」
    「俺に言って、どうしたかったんだよ」
    「知ってもらうことが目的でした、ただ君に共有したいと思いました」

    小室は困り果ててしまった。質問の意図がうまく伝わっていない。

    「俺はどうしたらいい」
    「と言うと?」
    「……あんな、こ、こ、告白みたいな、こと言われて……俺はどうしたらいいんだよ」

    小室は恥ずかしくなった。ことばがうまく出てこない。声が震えて仕方がない。
    対照的に、はて、と和真が首を傾げた。

    「すみません、君の感情に影響が出ることまで考えられていませんでした」
    「……そっか」
    「忘れてください」
    「は?」
    「君がそれで不快感を抱いたりするようであれば、あの話は忘れてください」
    「不快とか言ってない」
    「不快でないのであれば?」
    「……嬉しかったんだよ、喜んだんだ」

    恥ずかしい。なんて奴だ。
    なんてことを言わせるんだろう。

    「俺のことが…………その、好き、ってことだろ」
    「……」
    「好きだって言われて、嬉しかったんだよ」
    「小室くん」

    いつも通りの平坦な声で、和真は、
    「好きだと言ったつもりはありませんでした」
    などとほざいた。

    は? と思わず声が出た。指を組んでそこに額を当てていた小室は、ぱっと顔を上げて和真を見た。感動も動揺も、その顔にはない。
    ――好きだと言ったつもりは、ありませんでした。

    「…………あー、悪い、お前はそういうやつだよな」
    「はい? ……はい」
    「悪い、この話終わり」
    「結論が出たなら、よかったです」
    「もういいわ」
    「……はい」

    思わずテーブルに小銭を叩きつけて、小室は席を立つ。
    そのまま何も言わず、振り返ることもなく帰っていった。

    ***

    4月になり、ふたりは3回生に上がったが、あの日以来一緒に行動することもなくなっていた。顔を合わせもしなければ、メッセージのやり取りもない。あっけないものだ。

    春休みが終わってすぐ、たびたび講義が被っていた女の子に、小室は飲みに誘われた。あまり気乗りはしなかったが、断る理由もなければ、いつも隣にいた男の空白を埋めたくて、小室はその誘いに乗った。

    薄暗い半個室の居酒屋で、案の定その子に告白された。丸くてきらきらとした瞳で、「小室くんのこと好きなんだ」と告げられる。他人事みたいな気持ちで、小室はそれを聞いた。
    和真の、感情の薄い瞳が脳裏に浮かぶ。胸を打たれたようなあの日の衝撃が、なかった。

    「……ごめん」
    「なんで? わたしじゃだめ?」
    「俺、好きなやつ、いたわ」

    ――和真に、まっすぐ同じ言葉を、言って欲しかった。
    ようやくわかった。いやわかっていた。そうやって素直に伝えればよかったのだろうか。

    しかし「好きだと言ったつもりはない」と言われてしまっているのだ。この話はおしまいだ。とても馬鹿馬鹿しい幕引きだ――いや、はじまってすらいなかった。

    「もう放っておいて」と泣く女の子に、多めのお金を残し、小室は店を出た。悪いことをしてしまったと思う。ポケットに手を突っ込み、古びたコインをなでる。するとスマホが振動した。

    和真から、数週間ぶりの連絡だった。
    「明日の5限に、中講義室3に来てほしい」とメッセージが来ていた。

    ***

    夕暮れの空き教室に向かう。
    西陽が直線で差し込んできてまぶしい。
    太陽を直接見てはいけませんと、昔教師に注意されたことを思い出した。
    和真は、横顔に夕焼けを受けて、まっすぐ前を見て座っていた。しばらく声をかける気になれず、その横顔をながめた。

    「なんか用」

    声をかけると、気づいた和真がまっすぐ小室を見つめる。

    「はい、用件があります。直接伝えるべきだと思いました」

    続きをうながすこともせず、小室は斜め向かいの席に腰かける。それを了承だと理解したのだろう、和真は話しはじめた。

    「君が女性に告白された、と聞いて……僕は不快感を覚えました」
    「ふーん」
    「君がもし、僕が君に抱いているのと同様に、誰かに強い関心を抱いたならば、非常に不愉快であると思います」
    「あっそ、んで?」
    「書籍でこのような感情の正体を調べてみました」

    そこを文献に頼ろうとするのが、和真らしいといえば和真らしい。

    「僕のことなのに、君が先に答えにたどり着いていたんですね」
    「……つまり、何が言いたい?」
    「僕は君を特別な人間だと認識しています」

    ――これが、好き、ということですね。

    小室はやっとわかった。
    和真は、馬鹿野郎なんだ。勉強ばかりしてきた大馬鹿野郎だ。
    自分の気持ちに自分で気づくことさえ、できないでいた。

    「……うん」
    「そしてもし可能であれば、僕と特別な関係を……いや、僕を君の特別にしてください」
    「……あーーー、もうお前、意味わかんねえ……」
    「えっと、もう一度説明しますか?」
    「ちげえよ」

    机の上にお行儀よく置かれていた右手をつかみ、まっすぐに和真を見つめる。
    動揺と、決意の色が見えた。

    「お前、ぜってえ逃げんなよ」
    「……わかり、ました」

    ――小室はそうして、和真を捕まえた。そして同時に、どうしようもなく捕まえられた。
    どうか、離してくれるなよと、願う。



    ふたりはそうして、いわゆる恋人という関係になった。

    小室にとって、「恋人はこうする」というものがある。
    暇なときは和真をどこかへ連れ出し、水族館だのレストランだの、いろいろな場所へふたりで行った。人目があまりないところでは手をつなぎ、ふたりきりになると和真を抱きしめる――恋人って、そういうものだろう、と思う。

    人並みの幸せが降りてきた。
    荒れ果てていた頃には願ってもいなかった幸福だ。
    ふれたいと思う人にふれられる。ときどき、和真の髪にふれるだけで、じんと胸が熱くなることさえある。
    手遊びにさらさらとした髪を梳くと、和真はくすぐったそうに笑って、恋人とはこういうものなんですね、と言った。

    こんなことが、まさか自分の人生に起こるだなんて、思いもしなかった。

    和真の家でのんびり過ごすことも多かった。
    二十歳もすぎ、酒の味も覚えつつあったふたりは、コンビニで適当なアルコールを飲みながら、ほろ酔いで取り留めもない会話をくり返す。教授のものまねだとか、そろそろ就活だとか。くだらない話ばかりだった。

    きっかけは何だっただろう、確か、最近は男も基礎化粧品を使う者が多いとか、そんな話だったと記憶している。

    「最近リップクリームの使用をはじめました」
    「なんで? 乾燥?」
    「はい、よく皮が剥けてしまって」
    「えー、見せてみ?」

    和真がよく見えるようにと、少しだけ唇を突き出した。
    どくんと心臓が跳ねる。薄い唇から、目が離せなくなった。

    「小室くん?」

    気づくと、和真の肩をつかみ、口付けていた。
    一度離れて、衝動のままもう一度ふれあう。
    見なくとも顔が赤いのがわかる。肩に置いたままの手のひらが熱い。

    「……そ、そろそろ帰るわ」
    「……はい」

    帰り道、まだ熱い手のひらでぎゅっとコインを握る。
    やわらかい感触が、また唇に残っている。

    さっきのことについて考えようとすると、うまくまとまらない。落ち着かない。妙にそわそわする。コインを指でこすりながら、小室は寮までをわざとゆっくり歩いた。

    ***

    翌日。和真の顔を見ると、昨日の感触がぶり返した。
    視線をそらす。落ち着かない。

    「……なあ」
    「はい」
    「…………やっぱり女がいいとか、言わないよな」
    「言いません、性別は本質的な問題ではありません」
    「……悪い、急に考えちまって」



    何か、それまで保たれていた均衡を、失った感覚がある。

    後日小室は、講義がよく被る女の子に、ご飯に行こうと誘われた。特段断る理由がないので行くことにした。
    和真に「ちょっと飯行ってくるから、今日は一緒に帰れない」と伝える。「そうですか」としか返ってこなかった。
    同じ学科なので話は合うし、楽しくなくわけではない。ただ、なにかが違う、と思う。どこか上滑りしているような感覚だ。

    和真への返信が、遅れるようになってきた。
    既読はつけるが、そのまま放ってしまう――どこかで返さなくてはと思ってはいるのだ。返そうと思えば返せるような内容にさえ、指が動かなかった。
    気づくと1日中返していないこともあった。

    「気に、なんないわけ」
    「忙しいのかと思っていました」
    「……あっそ」



    かと思えば、離れられなくなる日がある。
    なぜかは自分でもわからない。抱きしめたまま、どこにも行ってほしくない。
    和真に身じろぎされると、離れていってしまうのかと思って、腕に余計力がこもる。

    「……なあ」
    「はい」
    「下の名前で呼びたい」
    「どうぞ」
    「…………和真」
    「なんですか」
    「俺のことも憂って呼んで」
    「はい、憂くん」
    「ずっと憂って呼んで」
    「わかりました、憂くん」

    ふは、と笑いがこぼれる。嬉しくてたまらないのに、かなしいとも感じる。

    ***

    雨が煩わしい日だった。
    突然和真に会いたくなった。
    いても立ってもいられずメッセージを送ると、「いつでも来てください」と言われ、傘をさす時間ももったいなくてそのまま駆け出す。
    びしょびしょになった小室を和真はタオルで拭いて、小室には少し小さい部屋着を差し出した。

    「なあ」
    「はい」

    言うのを迷ってしばらく黙ってしまった。
    他の話題にしようと思った、はずだった。
    こんなこと聞いても仕方がないのに――

    「…………俺のこと嫌いになってない?」

    口をついて出た。

    「はい、なっていません」
    「腹立たねえの、他のやつと仲良くしたり、連絡無視したり」
    「わざとだったんですか?」
    「……そーだよ」
    「君は彼女を友人だと言いました、ならば友人でしかない。僕は君の言うことを信じます」
    「あ、ああそう……」

    その日は和真の家に、半ば強引に泊まらされた。
    狭いセミダブルのベッドにふたりで並んで眠る。一緒に寝るのはあの日以来だなと思い出した。

    ***

    先日も誘ってきた女の子がまた飲みに誘ってきた。
    あさはかな下心は見えていたのに、小室はそれに乗った。
    和真の顔が脳裏にちらつくが、見て見ぬ振りをした。

    邪魔の入らない個室の居酒屋に、女とふたりで座る。
    向かいにも席はあるのに、女は隣に腰かけた。

    そして案の定、しなだれかかる女に、
    「ねえ、この後……」
    と誘われた。

    断ることができず、女は腕に絡みついてくる。体は汗をかいているのに、腹の底が冷たい。このまま、走って逃げ出してしまいたい。
    ろくに食事も取らないまま、ふたりで店を出た。
    歓楽街の、けばけばしい色のネオンが小室の横顔を照らす。

    そのときだった。
    ホテルまでの道中、前方によく知った姿――和真が見えて血の気が引く。和真は小室を一瞥して、目を逸らした。

    「あの……さ、」
    「ん? なあに?」
    「……ごめん、やっぱ行けない……」
    「はあ!?」
    「ほんと、悪い」
    「っ、今さら何なのよ!」

    和真はどんどん近づいてきた。
    いつもどおり――いやいつもに増して、感情が見えない。

    「か、和真…………」
    「憂くん」
    「ちが、違うんだ……」
    「違うんですね?」
    「ああ、これは、違って……」
    「でしたら、問題ありません」

    それだけ言うと、和真はそのまま立ち去った。

    「……あの男、いつも一緒にいるやつじゃん」
    「……関係ない」
    「あーそういうことね……あんた本当に、最っ低」

    女の子は小室の頬をひっぱたき、去っていった。

    なんてことをしてしまったんだろう。
    小室はポケットのコインを握り潰すほどの強さで握りしめた。コインの縁が食い込んで、手のひらが痛い。



    翌日、学内で「小室と葛が付き合っている」と言う噂が立っていた。顔から血の気が引いていく。なんてことをしてしまったんだろう、自分のせいだ――和真まで、巻き込んで……。

    よほど憔悴していたのだろう。
    その様子を見た和真が、小室をアパートに連れ出した。

    アパートの中はひどく蒸し暑かった。
    和真は、小室にベッドに座るよう伝えてから、グラスに麦茶を注ぎ、手渡す。ばくばくと心臓が暴れた。和真が何をしようとしているのか、小室には見当もつかなかった。
    口を開く以外に、できることがわからなかった。

    「……あ、あれはほんの気の迷いで、結局なにもしなかった」
    「そうなんですね」
    「そうなんだ……信じてくれ……」
    「信じます」

    床に落としていた視線を上げると、和真は少し困ったような顔をしていた。
    どうして、お前が――小室は叫んでしまいそうになる。

    「……なんで……」

    和真が何を言おうとしているのか、わかるようで、わからない。うーん、と和真がことばを探す。

    「僕は、勝手に君を好きでいて……勝手に君を信じています。不快感を覚えたり、独占欲を抱いたりすることもあります」

    ベッドの隣に、和真が腰かける。
    スプリングが、ぎし、と音を立てた。

    「あまり立派とは言えません……僕は、身勝手に君を信じているだけです」

    平坦で、それでいてやさしい声色に、涙が出そうだ。

    「……さて、君は近頃、ずいぶん身勝手な言動をしてくれましたね。ですが、僕も同じくらい身勝手です――おあいこ、と言うことで今回は手を打ちませんか?」

    こらえることができず、ぼろ、と片目から涙がこぼれた。慌てて裾で拭っても、次から次にあふれてくるものを、止めることはできなかった。

    「お前は、何でそんなに、平気なんだよ、俺……めちゃくちゃなのに」
    「平気ではありません、流石に昨日は不快感を覚えました」
    「……でも、」
    「僕のような人間が言うと、奇妙に思うかもしれませんが……おそらく人とはこのような衝突を繰り返して、それでもそばにいる人間を、選んでいくものだと考えています。事実、君は何度も僕を選んでくれました」
    「…………うん」
    「僕にとっても、それが君というだけです」

    小室は、つい和真を強く抱きしめた。
    「苦しいですよ」という声が、ひどくやさしかった。

    噂はあしらっているうちに消えた。
    和真に信じられることが、許されることが、体の震えるほどに嬉しくて、それでいて信じられなかった――自分に、「信じる」をできる気がしなかった。



    その後も、小室は急に変わることはできなかった。
    和真にくっついたり離れたり、甘えたり突き放したり。
    和真が、自分たちをまるで惑星のようだと例えたことがあった。地球から見た惑星は、ふらふらと動いて、近づいたり遠ざかったりをくり返し、ときに重なりあったりする。

    「そうは思いませんか?」
    「……ロマンチストぉ」
    「あ、今茶化しましたね」
    「茶化してない茶化してない」
    「いえ絶対茶化しました」

    自分たちも惑星のように、いずれ何かに飲み込まれてゆくのだろうか。

    和真が愛おしいと思う。もらえる愛が嬉しい――同時に、苦しく感じる。与えられる分を、なにひとつ返すことができない。それどころか、壊してばかりいる。
    小室は、時々そうするように、ポケットに手を入れてそっとコインの縁をなでた。



    今だに、ふたりの関係性をからかわれることがある。そういうときは和真が適当にあしらって、追い返してくれる。
    嫌な動悸がはじまる。和真への申し訳なさ、そんな馬鹿げたからかいをしてくるやつらへの苛立ち。

    (……俺たちを放っておいてくれ)

    小室は不意に、ポケットのコインを取り出した。
    ――手に馴染んだ、古びたコイン。何度も何度も触ってきたせいで、金色の塗装もすべて剥がれて、刻印の凹凸もすっかり滑らかになっている。
    これを触っていると、少しだけ呼吸を取り戻すことができる。

    「……あ」

    不意に、和真は声を上げた。

    「ん?」
    「わかった、立花駅ですね」
    「なんの話?」
    「そのコイン」
    「……これ?」
    「はい、立花駅の開通記念コインだ。思い出しました」

    こんなに滑らかになってしまったのに、和真には見覚えがあるらしかった。

    「……これ、そうなんだ」
    「はい。僕も昔持っていました、確か誰かにあげてしまったんですが」
    「…………あげたんだ、誰に?」
    「うーん、誰だったかな。確か知らない男の子に」

    ――まさか、そんなはず、あるわけがない。
    そう思うのに、聞かずにはいられなかった。

    「憂くん?」
    「……それってさ、花枝緑地公園?」

    和真が、少しだけ目を見開いた。
    記憶が、勝手に引きずり出されていく。

    ***

    それは、5月くらいだったと思う。
    その頃すでに両親の中は険悪で、怒鳴りあうこともあったし、ただお互いにピリピリとした空気を出していることもあった。
    まだ7歳だった小室にできることはなく、ただ嫌気がさして家を飛び出した。

    行く当てもなく街をさまよう。
    たまたま、休めそうな公園があった――花枝緑地公園だ。ベンチにでも座って時間をつぶそうと、そこに足を踏み入れた。
    公園にはきゃあきゃあと子供のはしゃぐ声と、それに応える大人の声に満ちている。まちがえたと小室は思った。その喜びに満ちた声は、そのときの小室にとって毒にしかならなかった。
    場所を変えようと思って立ち上がりかけたときだった。見知らぬ少年が、目の前に立っていた。

    「ねえ、どうしたの」
    「……別に、なんか用」
    「君が、さみしそうにしていたので」
    「ほっといてくれ」

    何か思い付いたらしく、少年はズボンのポケットをごそごそと探りはじめた。
    金色の塗装がされた、ピカピカのコインが入っている。
    「開通記念」の刻印と、列車のイラストが彫られたコインだ。

    「じゃあ、これを君にあげます」
    「……なにこれ」
    「勇気のあかしです。持っていると勇気をもらえます」
    「は、なにそれ」

    そのとき、かずま、と少年を呼ぶ声が聞こえた。
    随分と、日が傾きはじめていた。

    「お母さんが呼んでる。僕もう行かなくちゃ」
    「あ、おい、これ」
    「あげます! じゃあまたね!」

    小室にコインを押し付けて、少年は声の方に走り出した。
    おい、と呼びかけたが、振り向きはしなかった。

    ***

    「花枝緑地公園、です」
    「ひとりぼっちのガキに、これやったろ」
    「……はい」

    ――あの頃は、和真にも母がいた。
    まだかなしみを知らない世界にいて、勇気を分けてくれた。
    自分ひとりで生きてきたと思っていた。
    ずっと、和真が支えてくれていたのか。

    小室は、手のひらのコインを見た。
    塗装も凹凸もほとんどない、古びたコイン。
    ゆっくり和真の方に視線を戻す。

    「…………お前だったんだな」

    人目もはばからず、小室は和真を抱きしめた。



    それから徐々に、小室の行動は落ち着いていった。
    無意味に女の子と遊ぶことはなくなったし、連絡しないことも少なくなっていった。

    ある日、小室は不意に、小さく声を上げた。

    「あ」
    「どうしました」
    「なんか俺、大丈夫な気がする」
    「……そうですか、よかったです」

    きっと本当に、もう大丈夫だ。
    大丈夫だと、思えた。

    エピローグ

    あの日の喫茶店で、日の当たるソファ席に腰掛けている。
    目の前にはほかほかの湯気を出すブラックコーヒー。

    「君にはわかるんですか」
    「なにが?」
    「僕たちのことが」
    「例えば?」
    「愛するとか」

    ああ、馬鹿だなあ。
    きっと愛おしいなんて、そんな難しいことじゃないよ。
    もっと単純で、わかりやすくて、さわりやすいものなんだ。
    そう、例えば……今日は一緒にあったかいもん食いたいなとか。布団干しといたから後で昼寝しようぜとか。
    そんなことでいいんだ、そんなことで——

    「憂くん」
    「んあ?」

    今日は昼間から日差しのあったかい日だった。
    カーテンを開けたリビングでうとうとしていたらそのまま寝ていたらしい。
    フローリングで寝ていたから体が痛い。

    「今日は色々と買いに行く約束ですよ、トイレットペーパーとか」
    「そうだっけ? 悪い、寝ちまってた」
    「いえ」

    ふと和真が笑った。
    寝癖がついてます、なんて手ぐしで整えながら。

    「こういうのだよな」
    「何の話ですか?」
    「や、こっちの話」
    「? そうですか」

    そう、こういうのだ。
    これでいいんだ。

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