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赤い鳥をさがせ! 第8話

     ハスカップ幼稚園の遊戯室に戻ると、福山は観念したようにブラックアウト当時の状況を話し始めた。
     胆振東部で発生した地震により、札幌市内でも震度5前後の強い揺れがあり、その直後に大停電、いわゆるブラックアウトが発生した。杉浦と福山はススキノで飲んでいたが、停電により店は営業できなくなり、二人は外に出た。
     タクシー乗り場には長蛇の列ができており、タクシーを拾うのは困難だった。そこで二人はタクシーを見つけるまで歩くことにした。やがてハスカップ幼稚園の近くまで来たため、園の被害状況を確認しようと中に入った。すると、本棚や椅子が倒れており、福山は自宅の被害も気にかかるようになった。園で仮眠を取ろうとしていた杉浦を説得し、園の車で自宅に向かうことにした。
     街は暗闇に包まれ、信号も全て消えていた。大きな交差点では警察官が手信号で交通整理をしていたが、無人の交差点では慎重に進むしかなかった。杉浦の自宅に向かう途中、事故が発生した。
     福山の車が交差点に差しかかった瞬間、左側から黒のワンボックスカーがヘッドライトも点けずに猛スピードで突っ込んできた。福山はとっさにハンドルを右に切り、相手の車も左に避けたため、かろうじて衝突は免れた。しかし、その勢いで福山の車は交差点近くの電柱に正面から激突した。ワンボックスカーはそのまま走り去った。
     福山はエアバッグとシートベルトのおかげで無事だったが、後部座席で寝ていた杉浦は衝撃で前方へ投げ出され、フロントガラスに激突。全身を強打し、死亡した。頭から血を流す杉浦を見て、福山は強い不安に襲われた。さらに、飲酒運転をしていたことも不安を増幅させて、救急車を呼ぶことをためらい、その場から逃げ出した。
     福山は一時間近く歩いて、ようやく自宅へたどり着いた。

     停電の影響で防犯カメラはすべて機能しておらず、事故の証拠が残っている可能性があるとすれば、ドライブレコーダーしかない・・・林田はそう考えた。しかし、福山の車にはドライブレコーダーは設置されておらず、あるとすれば、ぶつかりかけた対向車か、事故当時に現場付近を通過した車のドライブレコーダーしかない。
     だが、仮にそれらの車を見つけ出せたとしても、五年前のデータは全て上書きされているはずだ。手がかりを失いかけた林田の脳裏に浮かんだのは、車好きで知られる飛鳥選手の存在だった。ブラックアウトの直後、飛鳥選手が大ケガを負ったことは、北海道の野球ファンにとって二重の悲劇となり、大きなニュースになっていた。林田はその記憶を頼りに、『飛鳥選手が事故直後に現場付近を通過した』ことにすれば、福山が信用するようなストーリーを組み立てられると考えた。ストーリーをより信憑性のあるものにするため、井上にSNS画像を数枚作成させ、福山の反応に備えた。
     杉浦が福山を追い詰める手段を用意していたかはわからない。しかし、結果的に林田が先に福山を捕らえる形になった。もしかすると、林田は知らぬ間に、杉浦の見えざる手によって、うまく導かれていたのかもしれない。

     林田は、福山の札幌ドームでの行動を撮影した映像を捜査員に引き渡した。
    「うまく罠にはまったな。林田も、よくあんな短時間で大胆な作戦を考え出したなあ。あとは警察が病院のカルテを入手すれば、証拠としては申し分ないな」
     郡司は林田のひらめきに感心していた。
    「次は杉浦だな。何か方法はあるのか」
     杉浦が残した謎を解けば杉浦に近づけると考えていたが、そう簡単にはいかなかった。
    「正直、手詰まりだ」
     そんな二人の会話の最中、井上が慌てた様子で駆け込んできた。
    「林田さん、見てもらいたいものがあります」
     井上はパソコンの画面の前に林田たちを導いた。
    「北海道支社のコンピューターを使って、アメリカ国内のホームページやSNSを手当たり次第に検索し、杉浦が自分の会社を辞めたあとの足取りを探っていました。ようやく一枚だけ見つかりました」
     画面には、数人の男女とともに名刺のようなものを手に持ち、笑顔を浮かべた杉浦らしき男が映し出されていた。
    「これは何の写真だ?」
    「カリフォルニア州のフライトスクールで撮影されたものです。杉浦はパイロットのライセンスを取得したようです」
    「なに!?どの種類の免許だ?」
    「手元を拡大して確認しましたが、免許の種類までは判読できませんでした。ただ、最低でもプライベートジェットは操縦できるはずです」
     林田は素早く反応した。
    「今の時間帯だと利用できるのは新千歳空港だけだな。よし、新千歳空港にプライベートジェットの出発予定がないか、問い合わせてくれ」
     深夜のためか、新千歳空港への電話はすぐに繋がった。
    「午前三時発、那覇空港行きのプライベートジェットがあるそうです」
    「よし、それだ」
     林田と郡司がハスカップ幼稚園を出ようとしたとき、宮内が疲れた表情で戻ってきた。
    「杉浦は小樽にはいなかった。そっちは何かつかんだのか」
    「杉浦は新千歳空港にいる可能性が高いです。プライベートジェットで逃げようとしています」
    「なら、パトカーで向かおう。検問は解除したし、高速を使えばすぐだ」
     車内では、林田が福山を警察に引き渡した経緯を説明した。杉浦の弟が死亡した事故では、福山が運転していたこと。福山は飲酒運転が発覚するのを恐れ、杉浦を見捨てて現場を去ったこと。そして、誘拐事件にはいくつかの謎が埋め込まれており、それを解くことで福山にたどり着くようになっていたことを話した。
    「福山をあぶり出すために、あんな大掛かりの誘拐事件を仕組んだのか。直接福山を告発するには証拠が不十分だったんだな」
    「杉浦自身が福山の周辺で証拠を探していたら、福山と鉢合わせしてしまう可能性があった。そこで杉浦以外の人間が弟の事故死の真相に近づけるようにしたのだと思います」
    「しかし、パシフィックプロテクト社の皆さんが謎を解くことまで、杉浦は予想していたのかな」
    「それはわかりません。もしかすると、まだ我々が気づいていない仕掛けが残されているのかもしれません」
     そうしているうちに、四十分ほどで新千歳空港に到着した。プライベートジェットの出発までは、まだ三十分以上の余裕がある。

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    <新千歳空港>

     林田たちはビジネスジェット専用ターミナルに向かった。専用ターミナルは年末に開業予定だが、今月は試験運用中だった。
     入口のすぐ横にラウンジエリアがあり、一番奥のソファに一人の女が座っていた。
    「見覚えのある女がいるぞ」
     窓から中を覗いた宮内が、ラウンジに入ろうとしていた林田たちを制止した。
     女は薄い水色のワンピースを着て、黒のつば広帽子をかぶっている。スマートフォンをいじっており、まだ宮内たちの存在には気づいていない。
     林田たちは気づかれないように建物の陰に隠れた。
    「誰がいたんですか?」
    「ハスカップ幼稚園の黒木だ」
    「えっ!」
    「黒木が情報を漏らしていたんだ」
     事件の進行があまりにも犯人側の思惑通りだったため、林田や宮内は以前から情報漏れを疑っていた。コンピュータースキルの高い杉浦が、吉村のマンションでハッキングを行い情報を得ていたのは確かだが、それだけでは警察の動きまで把握するのは難しい。
     臨時捜査本部になっていたハスカップ幼稚園の遊戯室では、捜査員の配置や検問場所の情報が飛び交っていた。それらを黒木なら容易に盗み見ることができたはずだ。
     宮内たちは黒木の予期せぬ動きを警戒し、しばらく外で様子をうかがうことにした。しかし、午前三時を過ぎても杉浦は現れなかった。
     黒木はスマートフォンの画面を確認したあと、静かにソファから立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
     黒木が外に出たところで、宮内たちが取り囲んだ。
    「黒木さん、中で話しましょう」
     宮内の言葉に、黒木は抵抗することなく、押し戻されるようにソファに座った。
     黒木は黙ったまま、手にしたハンカチを顔にあてた。
    「黒木さん、杉浦はどこですか」
     宮内の質問に、黒木は絞り出すような声で話し出した。
    「杉浦さんはもう来ないわ」
     黒木はそう言って、スマートフォンのSNSの画面を見せた。
     画面には『すまない、行けなくなった』と短いメッセージが表示されていた。
    「本当は二人で新千歳空港に向かう予定だったんです。でも、林田さんたちが福山さんを罠にかけるつもりだとわかって・・・杉浦さんは札幌ドームに戻ったんです」
    「なに!?杉浦は札幌ドームにいたのか」
     林田は、今まで騙されていたと気づくと、動揺のあまり黒木の顔をまともに見ることができなかった。それでも、興奮を抑えきれずに鋭い視線を向けた。
    「映像を送ってくれました」
     黒木はスマートフォンの画面を操作し、映像を再生した。そこには、札幌ドームでの福山の行動が映し出されていた。
     映像はかなり遠くから望遠で撮影されたもののようで、林田の背後から密かに記録されたことがわかる。
    「なぜ、我々が罠を仕掛けるとわかったんだ」
    「マンションと職員室を盗聴していたのよ」
     ・・・迂闊だった。
     杉浦はマンションにパズルを解くためのヒントを隠していた。そのため、捜査陣がそれをうまく活用できるか心配だったはずだ。ならば、マンションを盗聴するのは当然のことだったかも知れない。しかし、ハスカップ幼稚園内を調べた際、盗聴電波は一切検出されていなかった。
    「幼稚園内では盗聴の形跡はなかったが・・・」
    「福山さんのパソコンのマイクから音声を拾っていました」
     黒木の口調は、初めは興奮して投げやりだったが、次第に冷静になっていた。
    「最新の音声圧縮技術を使えば、データのパケット量も増えず、誰にも気づかれないって言っていました。そのソフトは私が仕込むように頼まれました」
     やはり杉浦の技術力は一枚上手だった。
     不審なパケットや盗聴電波の有無を調べることまで計算に入れ、違う手段を用意していたのだ。
    「連絡は取れないのか?」
    「もう・・・電話もメッセージも繋がらないです」
     宮内は深くため息をついた。
    「なぜ、杉浦に手を貸したんですか」
     林田もようやく冷静な口調に戻った。
    「私は弟の淳士さんと付き合っていたんです。そのことは和士さんも知っていて、淳士さんが亡くなった数か月後、和士さんから連絡がきて、手伝ってほしいと言われたんです。初めは事故の新聞記事を送っていたんですが、次第に当時の勤務シフトや出欠表の送信を頼まれるようになりました」
    「杉浦が弟の事故に疑問を持ち始めたはいつからですか」
    「遺体と対面した時、不自然なあざに気づいたそうです。あざの位置を写真で記録し、アメリカに持ち帰ってコンピューター解析した結果、淳士さんは後部座席にいたと結論づけたんです」
     運転者の特定は容易だった。事故車はハスカップ幼稚園の社用車であり、必然的に職員に絞られる。杉浦と一緒にススキノで飲んでいたこと、事故後に長期の休みを取ったことから、福山が浮上した。しかし、福山が運転していたという物証は得られなかった。
    「福山さんがエトピリカ病院で予防接種を受けたと言っていたんですが、いつもは園の近くの病院で受けているので、少し不思議に思っていました。そのことを和士さんに話したら、和士さんは福山さんがエトピリカ病院に入院していたに違いないと推測しました。しかし、事故当時、エトピリカ病院はまだ電子カルテではなく、紙のカルテだったんです。電子カルテなら和士さんの技術で何とかなったんですが・・・そこで、淳士さんの事故死に注目を集めるため、大掛かりな誘拐事件を計画したんです」
    「なぜ、直接警察に再捜査を依頼しなかったんですか」
    「和士さんは一度警察に相談したんですが、証拠が何もなく、門前払いされたんです」
     意外にも杉浦は警察と接触していた。その時の警察の対応があまりにも事務的だったため、怒りを覚えて、犯行を計画したのかも知れない。
    「そうだったのか。相談の記録は三年で処分されるから、事故のことはそのまま忘れ去られたのか」
     警察には無数の相談が寄せられるが、全ての相談に完璧に対応するのは不可能だ。そのことは十分理解していたが、宮内は警察の一員として、杉浦の事故の対応に責任を感じてしまった。
    「ところで、私たちパシフィックプロテクト社が捜査に関わることまで、杉浦は予想していたんですか」
     いつの間にか杉浦の持ち駒のように動かされてしまったことに、林田は疑問を抱いていた。
    「違います。初めは私が探偵役として謎を解く予定だったんですが、林田さんたちが現れたことで方針を切り替えました。私はヒントを出す役に徹することにしたんです。その方が自然に見え、早く逃げることができますから」
     今にして思えば、ナナカマド保育園の情報や『不審者注意情報』メールは、絶妙なタイミングで黒木から発信されており、その情報により捜査の方向が誘導されていた。
    「身代金の受け取りは全て杉浦一人でやったのか」
    「最初の受け取りだけ手伝いました。窓から投げ落とされたリュックを拾い、マンションに隠してから幼稚園に戻りました」
     最初の身代金の受け渡しでは細身の男を手配していたが、実は女だったのだ。防犯カメラをいくら確認しても見つからないはずだった。
    「それから、藻岩山で子供たちが遊んでいるあいだに、GPS発信機を偽物とすり替えました。本物は、山頂で待機していた杉浦さんに渡しました。その後、杉浦さんが本物をジュースに仕込んで、運転手さんに渡したはずです」
     黒木から長々と話を聞いたが、杉浦に近づくための手がかりは得られなかった。

     黒木は逮捕された。念のため数名の捜査員を新千歳空港に残し、宮内たちは札幌へ戻ることにした。
    「あと一歩だったのに・・・なぜ、杉浦は現れなかったのかな。こちらの動きがまだ漏れているのか」
     宮内、林田、郡司の乗ったパトカーには重い空気が漂っていた。そんな雰囲気を少しでも和らげようと、郡司が口を開いた。
    「いや、もう情報漏れはないはずだ。杉浦に何かあったのかも知れない」
     林田がうつむき加減につぶやいた。
    「それにしても、よくあんな大掛かりな誘拐事件を仕組んだなあ。これも家族愛のなせるわざか」
    「双子だから、兄弟以上の絆があったんじゃないか。家族愛というか・・・」
     林田はそう言いながら考え込んでいたが、何かをひらめいたような表情に変わった。
    「宮内さん、杉浦のマンションのゴミ箱は空だったんですよね」
    「そうだ。薬の包装フィルムだけだった」
     林田はスマートフォンを取り出し、パシフィックプロテクト社の北海道支社で待機している水川に電話をかけた。
    「井上くんと二人で、今すぐ杉浦のいたマンションに向かってくれ。そしてゴミ集積所で杉浦が出したゴミ袋を探してほしい」
    「そろそろゴミ回収車が来る時間です」
    「それなら吉村さんに連絡して、マンションのゴミ回収を止めてもらってくれ」
    「杉浦のゴミ袋をどうやって見分けるんですか」
    「今回の事件に関連したものが入っているはずだ。ハスカップ幼稚園の資料や地下街の写真とか」
     林田は電話を切ると、パトカーの進路を杉浦のいたマンションに向けるよう依頼した。
    「林田、どういうことだ?ゴミ袋に何があるんだ?」
     郡司は驚いた表情で林田を見た。
    「家族愛さ」
    「杉浦は独身じゃなかったか」
    「大事な家族がもう一人いるだろ」

     パトカーが杉浦のいたマンションのゴミ集積場に到着した。
     水川と井上が大きなゴミ袋を二つ持って待っていた。
    「この二つが杉浦のゴミ袋のようです」
    「よし、この中に病院か介護施設のレシートがあるはずだ。みんなで探してくれ」
     林田はゴミ袋をひっくり返して、中身をすべて外に出した。
     全員でゴミを調べ始めた。ほとんどがプリンターで印刷した資料類で、丸められた紙を広げながら、一枚ずつチェックした。
    「これじゃないか」
     郡司が声をあげた。
    「モエレ沼リハビリ病院の請求書兼領収書だ。患者名は杉浦久美子になっている。これは杉浦の母親か?」
    「『入院患者用リハビリテーション計画書』というのもあるぞ。腰椎椎間板ヘルニア、中程度の認知症と書かれている。退院予定は十月だ。つまりまだ入院している」
     林田の読みは当たっていた。病気がちの母親を弟の淳士が面倒をみていたという話を聞いていたので、当時よりさらに高齢になれば、母親が病院か介護施設を利用している可能性が高いと考えた。身の回りの世話は人を雇えば可能だが、経済的援助をできるのは兄の和士しかいない。予想通り杉浦が病院の支払いをしていた。
    「黒木を裏切って逃亡計画を中断したのは、母親に何かあったに違いない」

     モエレ沼は札幌市東区にある三日月湖(蛇行した川から分離した湖沼)で、かつては周辺をゴミ処理場として利用していたが、著名な彫刻家イサム・ノグチの設計により、アートと自然が融合した公園に生まれ変わった。広大な敷地内にはガラスのピラミッド、モエレ山、海の噴水などの芸術的な造形物が点在し、野球場、陸上トラック、テニスコートなどのスポーツ施設も併設されている。

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    <モエレ沼公園>

     林田はモエレ沼公園の前を通り過ぎた時、杉浦が公園近くの病院を選んだ理由がわかったような気がした。広がる緑と静かな沼。そして併設されたスポーツ施設。その景色はどことなく杉浦家族の故郷を思い起こす。杉浦は病弱で認知症の母親の症状を少しでも和らげようと、故郷と似たような環境を選んだのかもしれない。
     林田たちはモエレ沼リハビリ病院に到着した。宮内が受付で杉浦久美子が入院していることを確認した。
    「杉浦久美子さんの病状はどうですか。どなたか付き添っていますか」
     受付の女性は個人情報のため話せないと渋っていたが、宮内が「話さなければ誘拐事件の共犯になる可能性がある」と伝えると、態度を軟化させた。
     受付の女性はパソコンの画面を見ながら、昨晩からの引継ぎ事項を読み上げた。
    「昨日の夕食時に誤嚥し、その後発熱と高血圧の状態が続いたため、緊急連絡先の息子さんに連絡しました。現在は状態は安定していますが、息子さんが付き添っています」
     林田たちは杉浦久美子の病室に入った。
     ベッドには高齢の女性が横になっており、その隣りにはパイプ椅子に座る男がいた。杉浦和士と杉浦久美子だ。
     杉浦は覚悟していたのか、動揺する素振りもなく振り向いた。
    「林田さん、宮内刑事・・・そしてナナハンバイクの方ですね」
     杉浦が穏やかな口調で話し出した。黒木から情報を得ているらしく、林田や宮内の名前を知っていた。
    「お母さんの体調はいかがですか」
    「熱も血圧も下がり、今は眠っています」
     杉浦は母親の体調や認知症について語っていたが、次第に事件の話へ移っていった。
    「弟の事故の原因のひとつが飲酒運転と聞かされたとき、強い疑問を感じました。弟は世話好きで実直な男です。そんなことをするはずがない。遺体に残っていたあざを見て、その疑問が疑惑に変わりました。真犯人には心当たりがありましたが、確実な証拠がなかった。警察に再捜査を促すには、強いインパクトのある事件を起こして、弟の事故死に目を向けさせるしかないと考えました。誘拐した園児の家族には申し訳なく思っています」
    「本当に黒木と一緒に逃げるつもりだったのか」
     林田は、黒木をおとりにして杉浦だけが逃げる計画だったのではないかと疑っていた。しかし、母親の存在に気づいてから、その考えが揺らいでいた。
    「当初は黒木さんと逃げる予定でしたが、母の体調が悪化し、断念しました。黒木さんには悪いことをしました。弟との約束を優先させたかったのです」
    「約束とは?」
    「弟は大学を辞めて、母親の面倒を見続けてきました。だから、今後は自分が母を支えていくと、弟の棺の前で誓ったんです」
     そのとき、林田たちの話し声に反応したのか、杉浦の母親が目を覚ました。
    「淳士、お客さんかい」
     認知症のせいか、杉浦のことを弟の淳士と勘違いしているようだった。
    「幼稚園の同僚が心配して来てくれたんだよ」
     林田たちは何も言わずに立っていた。
    「迷惑をかけたね。遠くまで来てくれて、すまないね。松岡教頭先生によろしく伝えておいてください」
     どうやら、松岡園長が教頭だった時代で記憶が止まっているらしい。
    「これから幼稚園で打合せがあるんだ。また来るからね」
    「今日は雪が降るかもしれないから、暖かくしなさいよ」
     杉浦は軽くうなずき、宮内たちに囲まれながら病室を後にした。
     外に出ると、強い日差しが照りつけていた。今日も真夏日になりそうだ。

     終

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