メインコンテンツへスキップ
見出し画像

東京に行くお金がなかったので、私は海外へ逃げた〜実家逃亡マニュアル


     二十七歳のとき、私は頚椎を骨折しました。

    医師は「すぐに手術が必要です」と言った。
けれども、手術には両親の同意が必要でした。

    そのとき母が電話口で自宅にいる父に聞くと、なかなか頷かなかったらしいです。

    「ああ、私はこの人に間接的に殺されるのかもしれない。」

    検査用の台に乗せられて横たわり病院の天井にぼんやりと目を向けながら、その話を聞いて私はそう思いました。

    機能不全家庭という見えない魔の家

    結果的になんとか父も手術に許可を出して、今も私はこうして生きています。そもそも頚椎骨折体験談というのを探しても、多くの場合はこの世をさる人が多いらしく、なかなか見つかりませんでした。この経験をして生きていること自体が珍しいかもしれません。

    この記事は、このように「普通じゃない」マイノリティな属性で生きてきた人向けの「実家逃亡術」です。毒親、毒家族がいて、実家が心休まる場所ではない「魔の家」。それでもそんな家族と同居せざるを得ない人向けに、私がどうやって実家を抜け出したかについて流れを書きます。

    私の場合、どういうマイノリティかというと、簡潔に言えば「社会的弱者」です。機能不全家庭育ちで社会人になってから心の病気となり、家族に頼ることができない状態で長年通院し続けました。

    そして障害者手帳を取得しながらも必死で会社勤務を続けてきた。しかし会社勤務継続が難しいので、在宅ワークに切り替えて今なんとか自活しているという状況です。

    ただし、これは「誰でも同じようにできる」という話ではありません。病状、体力、タイミング、利用できる制度によって、取れる選択肢は変わります。

    それでも、家族から離れなければ生きられない人にとって、何か一つでも参考になればと思って書きます。

     

     

    常に付きまとうお金トラブルと経済的不安

    心の病気の人はえてして経済的不安な状態に陥りがちです。なぜなら健康な人のように正社員勤務を継続することが難しいからです。そうなるとお金がたまらない、常にお金が足りない状態になります。

    またこういう家庭はやはり裕福ではない。例えば私は幼少期札幌でも貧困地区と呼ばれる団地暮らしでした。また大学は地元の私立に入学しました。道外での一人暮らしは経済的に無理なので諦め。大学独自の奨学金の枠は狭く、クラスで2名だけが選ばれたそうですが、そのうちの1人が私です。

    つまり私は周りの大学の友達の家庭より貧しいことが明らかでした。実際、友達たちは大学から依頼される寄付金の話、「いくら払うの?」とかをしていましたからね。寄付できる家、奨学金をもらわないと苦しい家。格差社会です。

    裁判所からの封書やカード会社の人の訪問に心からビビる

    さらに病状から買い物依存症などになったりもします。実際私も過去買い物依存症になり、カードの支払いが難しくなりました。そこから借金地獄の始まりです。

    ある日裁判所から自宅に特別送達が届きました。これだけでも普通の人はびびるでしょう。裁判所から封書って最初はまじで恐ろしかったです。

    また借金関連で本当に嫌なのが、カード会社の人が家庭訪問して督促してくること。これは実家に連れ戻された時に数回経験しました。これは非常にきつい。

    この訪問、一人暮らしならまだましですが(それでも避けたい、人生で経験したくない事柄の一つ)、家族と同居の場合、この訪問を隠したいと思っても多分難しいです。

     

    人生変えたいならすべきことはすでに既出

    私は読書好きです。小説もたくさん読みましたが、ビジネス書、特に自己啓発本も複数読みました。しかし結局のところそれらの本の要約を一言ですると「行動しろ」に尽きると思います。言い尽くされすぎて耳にタコです。でも実際これ事実です。

     

    実際私は大卒後社会人になっても、病気から仕事を辞める、自宅療養、転職成功を繰り返していました。その間に精神科や上記の頚椎骨折の手術など入退院も繰り返していました。こんな状況でお金が貯まるわけがありません。そのため、1人暮らしをするということは考えることができないでいました。

     それでも30歳の時に医師の指示もありましたが、思い切って実家を離れました。

     また家を出た後、再度連れ戻された私。生まれも育ちも札幌で、ずっと北海道で生きていくと思っていました。就職も札幌で決まり、その後海外や東京で暮らす未来など、まったく想像していませんでした。2度目の実家逃亡先は関東でした。

     

    モラハラ、パワハラな父、障害者の母、コミュ障の兄

    さて、こんな私は今でいう機能不全家庭育ち。若干ヤングケアラーの時期もあったかもしれません。どういう家庭か。

     

    父親がモラハラ、パワハラ気質だった。多分アルコール依存症も入っていたのかも。イメージは「巨人の星」の父親です。まさにちゃぶ台返し。父はいつキレるかわかりませんでした。機嫌が悪いとまさに突然怒鳴りながら夕食のテーブルをひっくり返す。

     

    母の美味しい料理とそれを載せていた食器は、無惨に床に散らばる。母、兄、私の3人で食べ物や割れた皿などの片付けを、惨めな気持ちで行ったことが何度もありました。

     

    直接の暴力こそなかったものの、そういう感じで父は突然キレて暴れ出すことが多々あり、私の実家はシャンデリアが割れたり、洗面所のボウルにも割れ目が入ったりしました。しかもそれらは修理されずにそのままでした。

     

    また父には人の痛みへの感度が極端に低いところがありました。その極めつけのエピソードは、当時飼っていたペットを突然捨てたことです。当時私の家ではモルモットを飼っていたのですが、つがいで買い始めたのでどんどん子供が産まれて十数匹とかなりの数になりました。

     

    ある日帰宅すると、突然モルモットがいなくなっていました。父が全匹外に放って捨てたのです。世話が大変だとしても、他の人に譲るなり、ペットショップに引き取ってもらうなどあったはずです。父は優しさとかが少し欠如していたのかもしれません。

     

    なんでもできるからこそ母は構ってくれなかった

    母は病気のデパートのような人でした。持病のリウマチで毎週通院、のちに脳梗塞になり、さらには認知症になりました。とにかく常に病院通い、手術や入退院を繰り返していました。

    それで母は多分自分のことで精一杯だったようです。

     

    私が優等生タイプでなんでもすぐに1人でできたので、かえってそれが「あの子は放っておいても大丈夫」となったのが皮肉です。

     

    世間一般の幸せな家庭と縁がない?

    こんな環境で育った私も兄も、心理学的にいうと「アダルトチルドレン」でしょう。結果私は心を病みました。兄は、診断を受けていたわけではないですが、人とのやり取りや生活管理にかなり難しさがあるように見えました。子供の頃から学力低めで同じ言葉や行為を繰り返し、友達がいなかったからです。

     

    それでも、兄とも幼少期は仲良いごく普通の兄弟でした。でも私が小学1年生の頃から折り合いが悪くなり、会話しなくなりました。夏休みや冬休みは辛かったですよ。会話のない兄と一緒の家で長時間ずっと過ごすのは。

     

    入退院を繰り返した若き20代の日々

    さて、社会人になって1年半ほどでうつ病と診断されました。私はその後、転職、自宅療養、再就職を繰り返すようになりました。病気を隠して働いても長く続かず、買い物依存や自傷行為もあり、短期の精神科入院も経験しました。


    貯金はなく、借金はある。母の介護や家事も重なり、実家から出る選択肢は見えませんでした。そして29歳のとき、外でパニック発作を起こして倒れ、主治医から即入院を指示されました。結果家から非常に遠い病院に入院しました。

     

    地獄の入院先への道のり

    当時父との関係は最高潮に悪く、入院手続きで親同伴が必須、本当は母が来て欲しいところですが、足が悪い母が来られるはずもなく、父と一緒に行く羽目に。

     

    会話もなく無言で手続きを済ませる。父としては家庭が原因で心の病気というのが信じられなくて、余計に私の病気に対して理解がありませんでした。

     

    会話のない関係なのに、父は私への嫌がらせかのように入院病棟に来たことがあります。本当に1時間半くらいかかるんですよ、自宅から病院まで。しかも冬。でもナースも事情を知っていたので、体調が悪くて会えないと婉曲的に伝えてもらい、帰ってもらいました。

     

    30歳で実家をついに出る

    29歳の年末年始、さらに1月上旬の自分の30歳の誕生日を入院先で過ごしました。寂しい誕生日ですね。そんな時、ある日の診察で医師にこう言われました。「あなたの病気は家族関係が原因。だから家族と離れなさい。」

     

    こうして3ヶ月の入院生活の後、1人暮らしのお金の余裕がない私は、福祉を利用して1人暮らしを始めることに。何の知識もないので、今考えるとなんて部屋探しが下手だったんだろうと思います。

     

    本格的社会復帰を目指している最中実家に連れ戻される

    就労不可で療養に専念した時期を終えたので、社会復帰を目指す私はパートから体ならしをし始めました。

    ちょうどその頃、東京で働いていた友人が札幌に戻り、看護の道を目指して再出発しようとしていました。私もその姿に刺激を受け、社会復帰に向けて動き始めました。

    しかし、父から母の病気の世話が父と兄ではこなせなくなったので、家に帰ってきて欲しいと言われました。私自身パートなどの収入で生活が苦しかったこと、そして母を助けたい想いがあり、承諾しました。

     

    地獄の実家暮らし再び

    しかし、これは再度地獄の道でした。母のことは口実でした。父と兄の関係悪化のために連れ戻された感じでした。そのため、父との関係だけでなく、兄との関係も悪化しました。金銭的問題で意見が一致しなくて、毎日家族全員で口論するなど落ち着いて暮らせる状態ではありませんでした。

     

    実家脱出計画。東京より海外へ

    このまま実家にいたら気が狂いそうだ。そこで私は仕事を見つけて実家を脱出する方法を考えました。こういう場合は住み込みの仕事なり、引越し費用を負担してくれる会社の仕事なりがあります。そうなると仕事の多い東京が第一候補。

     

    実は兄も最初の就職は東京の新聞社で新聞配達員でした。それこそ実家を出たいので、おそらく新聞配達で引越し代など負担してもらったのを返していたのではないでしょうか。でもきつかったらしく、すぐに札幌の自宅に戻ってきましたが汗。

     

    しかし当時の私は本当にお金がない。それどころかそれまでの借金のために、クレジットカード枠も異様に小さい状況。正直にいうと、東京までの飛行機代すら出せない状況でした。しかし1秒でも早く家を出たい。

     

    視点を変えると東京より海外がいい

    そこで私は海外の仕事に目を向けました。海外なら渡航費も負担してくれることが多い。そこで海外の塾の求人を見ました。この発想の転換はなかなか普通思いつかないのではと、今でもこの発想の転換をした自分を偉いと思っています笑。

     

    私は家を出てから社会復帰しようと、公文の採点者など教育の仕事もしていました。また大学時代は4年間ずっと家庭教師のバイトをしていました。そこで多くの人に「教えるのが上手いね」と言われたし、実際4年間の家庭教師体験で自分が指導に向いていることも感じていました。

     

    このように塾講師は経験があったので、思い切って海外の塾正社員の求人に応募したら見事採用されたのです!今回は中学英語と数学指導可能な人ということで、採用が決まりました。

     

    東京に行けないから、海外に行った

    私のように機能不全家庭育ちで家族関係に悩んでいる方、実家から逃れるのに海外を選ぶのは選択肢の一つです。特に当時はまだまだ日本円が強くて、私はタイのバンコク勤務となったのですが、当時タイバーツは日本円の1/3のレートでした。

     

    ただ、今のご時世だと円安問題、また移民問題などもあり、当時より海外移住は難しいかもしれません。アジアでの仕事は、今も日本語対応の求人はありますが、当時より円安やビザ、現地賃金、雇用条件の問題は厳しくなっています。

     

    海外就職を考えるなら、渡航費、住居、ビザ、医療、契約条件は必ず確認した方がいいです。私も現地で通える日本語が通じる病院を調べてから渡航しました。

     

    それでも、特にアジアならまだ文化の違いも少ないし、実際の距離もアメリカやヨーロッパなどより近いので、何とかなるのではと思います。

     

    とにかく私にとっては、東京に行く飛行機代数万円+空港からの移動費よりも、自己負担金は海外生活の準備のためのお金+実際の移動費として、自宅から新千歳空港までのバス、地下鉄、JR代の方が安かったので、海外行きを決めたのでした。

     

    人生変えたかったら、ここまで大きな決断をする必要があると思います。本気で変えたいならね。そして私は本気で変えたかった。

     

    ぬめったルイヴィトンバッグで泥臭く移住費を稼ぐ

    当時の私の少ない収入では海外生活準備資金も足りませんでした。そこでプラスアルファの収入を求めてしたことはいわゆる「せどり」。

     

    いまでこそメルカリが普及していますが、当時はまだメルカリがなく、ヤフオクが流行っていました。私は買い物依存症で買ってしまった服や小物、化粧品を売るために、よくヤフオクを利用していました。

     

    その経験を通じて私が目をつけたのがブランド品。ただ私は仕入れをするにもとにかく手元にお金がなかったので、買えたのはモノグラムのバッグの中でも、持ち手の本来白っぽいハンドルがぬめって茶色で若干ベタベタしているようなものでした。

     

    当時を思い出すと、あのぬめったヴィトンが思い浮かぶし、全然きれいじゃないので思い出したくないです笑。

     

    そんなぬめったヴィトンでもなんとか仕入れ値より高く売ることができて、私は海外渡航準備金を集めることに成功しました。

    普通にカードが使える人なら、海外準備費用をカード払いにできるかもしれません。でも私は信用情報が傷ついていて、それができなかったのです。

    海外移住して逃げ切れたのか

    結果として、海外勤務は長くは続きませんでした。なぜなら持病が悪化し、帰国して大きな手術を受けることになったからです。

    それでも海外に出た意味はありました。実家と非常に離れた距離の家の外に出る経験をしたことで、「私は実家の外でも生きられる」と知ったからです。

    家族絶縁マニュアル

    ここからは、私が実家から離れるために実際にやったこと、あるいはやっておいた方がよかったと思うことをまとめます。状況によって使える手段は違いますが、「家族から離れる準備」のチェックリストとして読んでください。

    実家から逃げるときにやったこと
    ・必要最低限の荷物だけ持つ
    ・クラウド保存以外の写真やアルバムは諦める
    ・携帯番号やメールアドレスを変える
    ・世帯分離を検討する
    ・本籍地を移す(実務上というより、心理的な区切りとして有効)
    ・保証人不要、保証会社利用可の物件を探す
    ・福祉窓口、精神保健福祉系の相談先を使う
    ・兄弟とは「血のつながった他人」と割り切る

     

    実家逃亡先、海外が難しいなら関東に行こう

    海外が難しい人は、関東の寮付き・引越し補助ありの仕事を探すのもありです。私自身、44歳で転職エージェント経由で埼玉の塾からお声がかかり移住・転職しました。その後東京でも正社員採用されました。場所を変えると、人生の選択肢は増えます。

    最後に

    私は、きれいに人生を変えたわけではありません。ぬめったヴィトンを売り、逃げるように海外へ行きました。そしてそこでたくさん稼いだなどのいい結果も伴いませんでした。

    それでも、あのとき逃げたから、今こうして生きています。家があなたを壊す場所なら、そこは帰る場所ではありません。逃げることは、負けではありません。
    自分を生かすための立派な戦略です。

    一番大切な人はあなた自身です。

    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

     
     
    英語・英検・総合型選抜指導に加え、教材制作・講座設計・講師育成・発信支援も行っています。大手塾・海外塾での勤務、塾長経験、教材編集、ICT支援員、答案評価を経験。外資系、国内大手企業勤務。YouTube運営者・Kindle作家・作曲家。自分の人生は自分で切り拓く。

    あなたへのおすすめ