メインコンテンツへスキップ

亡者の伝言

    『亡者の伝言』あらすじ

    山奥の廃れた洋館に、五人の男女が集められる。名目は「閉鎖環境下における言語記憶伝達および認知負荷測定実験」。参加謝礼は五百万円。招待状にはそれぞれ、本人しか知り得ないような文言が記されていた。

    会場を仕切るのは、AIシステム「REED-5」の無機質な音声のみ。参加者たちは各自にセンサーを取りつけられ、実験が始まる。

    やがて実験の核心となる"伝言"が最初の参加者に告げられる。それは、認知負荷測定とは明らかに趣旨が異なる、不穏な一文だった。伝言は参加者から参加者へ耳打ちで渡されていくが、途中、その言葉は原文から大きく変わっていた。そして同時に、一人が倒れる。

    REED-5は告げる。「実験は成功した。次の段階へ進め」と。

    参加者たちは、実験の主催者を探しながら、仕掛けられた"記録"と対峙していく。蔵書印、封筒、焦げた登記書類、古い写真。それらはすべて、二十五年前のある事件に繋がっていた。そして五人がここに招かれた理由も、徐々に明らかになっていく。

    これは実験ではなかった。

    かつて"言葉を変えた人たち"への、亡者からの伝言のやり直しだった。


    第一章 最初の言葉

    伝言ゲームで人が死ぬとは、誰も思っていなかった。

    もっとも、私たちは最初から、それを伝言ゲームだと説明されていたわけではない。

    招待状に記されていたのは、こういう名目だった。

    「閉鎖環境下における言語記憶伝達および認知負荷測定実験」

    いかにも大学か、怪しげなベンチャー企業か、あるいはその両方が手を組んだような名前だった。説明文によれば、五名一組の被験者が短い文章を順番に伝達し、その過程で言語情報がどのように変化するかを測定するのだという。

    被験者には、耳の後ろに貼る小型センサー、音声ストレス解析用の集音装置、指先に装着する測定器が使われる。心拍、体温、発汗、声の揺れ、反応時間、記憶保持の誤差。それらを総合して、言葉が人から人へ渡る際の「精神的変容」を記録する。

    説明だけ読めば、もっともらしかった。

    もっとも、もっともらしいものほど、だいたい怪しい。人間も書類も、やましい時ほど襟を正す。

    それでも、私は来た。

    参加謝礼は五百万円。

    ただし、それは単なる報酬ではなく、守秘義務契約、山中施設での拘束時間、心理的負荷、身体的負荷、研究用デバイス装着への協力を含む特別協力金だと書かれていた。

    五百万円。

    金額としては、明らかに過剰だった。

    だが、リスクの高い臨床試験や新技術の秘密評価なら、世間の常識から外れた謝礼が出ることもあるのかもしれない。私はそう自分に言い聞かせた。

    本当は、金だけが理由ではなかった。

    招待状には、私の本名と、結婚前の姓――榊まで書かれていた。

    今では、ほとんど使っていない名前だった。

    だから私は来た。好奇心と、金と、ほんの少しの恐怖に背中を押されて。

    その夜、私は山の上に建つ古い洋館にいた。

    正確には、山奥に造成された欧風の高級住宅地の最奥にある屋敷だった。バブル期には、都心の喧騒を逃れた成功者たちの別荘地として売り出されたらしい。だが今、石畳の道は割れ、街灯の半分は消え、白い壁の家々は蔦と雨染みに覆われていた。人の気配はほとんどない。豪奢な門柱だけが、かつてここに金と見栄が流れ込んだことを覚えているようだった。

    参加者たちは、最寄り駅からそれぞれ予め手配されたタクシーで送られてきた。私の乗った車の運転手は、屋敷の門前で料金を受け取ることもなく、「お代は先方からいただいています」とだけ言って、逃げるように山道を下っていった。

    洋館、と言えば聞こえはいい。実際には、かつての高級住宅地の記憶を、必要な部分だけ修繕して使っているような場所だった。外壁には蔦が絡み、窓枠は黒ずみ、玄関ホールの天井から吊るされたシャンデリアには、照明というより標本のような頼りなさがあった。

    ただ、古い建物の中に置かれた機械だけは新しかった。

    玄関ホールの隅には、黒い収納ケースが並んでいた。ケースの蓋には、白い文字で REVELA-5 と印字されている。

    レヴェラ・ファイブ。

    招待状によれば、それは研究用試作機の型番だった。ラテン語系の言葉で、覆いを取る、明らかにする、という意味に由来するらしい。耳の後ろに貼る小型センサー、指先に装着する測定器、音声解析マイク、そしてタブレット端末が一組になっている。得られた情報はタブレットを通じてREED-5へ送られ、実験終了後に解析されるという。

    医療機器ではない。診断や治療を目的としない。取得した情報は暗号化、匿名化される。

    そういう注意書きもあった。

    注意書きが多いほど安心する人間もいる。私は逆だった。注意書きが多いほど、そこに書かれていない危険を考える。

    玄関ホールには、私のほかに四人がいた。

    一人目は、スーツ姿の男だった。四十代後半。髪は整えられていたが、どこか落ち着きがない。腕時計ばかり気にしている。彼は自分を「坂下」と名乗った。

    二人目は、黒いコートを着た女だった。五十代前半だろう。表情は静かで、無駄な動きがない。玄関ホールに入ってきたときから、誰とも距離を詰めようとしなかった。彼女は「水原」と名乗った。

    三人目は、五十代後半の男だった。小太りで、頬から首にかけて不自然な赤みが差している。酒焼けというより、皮膚の奥から熱が押し上げているような赤だった。まだ六月だというのに、首元には汗が浮かび、ハンカチで何度も拭っている。眼鏡の奥の目は、人を見ているようで、実際には人の肩越しに逃げ道を探しているようだった。名前は「久瀬」。

    四人目は、派手な柄のシャツを着た男だった。五十代半ばだろう。よく喋り、よく笑い、よく黙った。つまり、自分の沈黙が怖い人間だった。名は「馬場」。

    そして五人目が私だった。

    私は三十歳。結婚して真野姓になったが、招待状に書かれていた旧姓の「榊」は、今ではほとんど使っていない。

    私は「真野」とだけ名乗った。

    もちろん、それが本名である必要はなかった。招待状には本名が書かれていたが、この場で互いに身分証を見せ合うような雰囲気ではなかった。むしろ全員が、そういう確認を避けているように見えた。

    互いを知らない五人。

    少なくとも、そういう建前だった。

    「で、これは何ですか」

    最初に口を開いたのは、派手なシャツの馬場だった。彼は黒い収納ケースを指さした。

    「脳波でも測るんですか。私は頭の中身にあまり自信がないんですが、測定不能でも謝礼は満額でお願いしますよ」

    坂下は笑わなかった。

    水原も表情を変えなかった。

    久瀬だけが、額の汗をハンカチで拭った。

    「説明では、認知負荷の測定とありました」

    私は言った。

    「認知負荷ね」

    馬場は肩をすくめた。

    「便利な言葉です。何をしても研究っぽく聞こえる」

    その時、ホールの奥で短い電子音が鳴った。

    私たちは一斉にそちらを見た。

    階段脇の壁に、小さなスピーカーが埋め込まれていた。古い洋館には似つかわしくない、白く新しい機械だった。

    『皆様、お集まりいただきありがとうございます』

    声は男とも女ともつかない。加工されているのだろう。感情のない声だった。

    『本実験の進行は、音声対話型実験管理システム、REED-5、アール・イー・イー・ディー・ファイブが担当します』

    「リード?」

    馬場が黒いスピーカーを見上げた。

    「外国語で葦ですか。王様の耳はロバの耳、と穴に叫んだら、葦が喋り出す。あれですか」

    『名称の由来は、言語伝達における反復性、環境応答性、および記録再生機能に基づきます』

    「つまり、否定はしない」

    馬場は口の端を上げた。

    「秘密を喋る葦。なかなか縁起の悪い実験装置ですね」

    『REED-5は、参加者の発話、反応時間、音声ストレス、装着センサーから得られる生体情報を記録し、実験プロトコルに従って進行を管理します』

    「AI司会者ですか」

    馬場が言った。

    「ついに私の仕事も奪われる時代になりましたか。もっとも、私より愛想はなさそうですが」

    『ご質問には、実験範囲内で回答します』

    「冗談にも答えてくれるんですか」

    『冗談の判定は、本実験の評価対象外です』

    馬場は肩をすくめた。

    「手強い」

    水原は笑わなかった。

    「発話はすべて記録されるのですね」

    『はい。実験管理、安全確認、認知負荷解析のため、参加者の発話は記録されます。記録は守秘義務契約の対象となります』

    その説明は、いかにも現代的だった。

    AI、音声解析、生体反応、守秘義務。そういう言葉を並べられると、人は不思議と従いやすくなる。意味が分かったからではない。分からないものに専門名を与えられると、分かったような気がするだけだ。

    『これより、閉鎖環境下における言語記憶伝達および認知負荷測定実験を開始します』

    「始まった」

    馬場が小さく言った。

    『本実験では、五名の被験者に短文を順番に伝達していただきます。一般には伝言ゲームに近い形式ですが、本実験の目的は、言語情報が人から人へ渡る際の変容と、その時点における精神反応を測定することにあります』

    「つまり、大人五人を山奥に集めて、AI付きの伝言ゲームですか」

    馬場が言った。

    『俗称としては、その理解で差し支えありません』

    REED-5の声は淡々としていた。

    馬場は苦笑した。

    「差し支えないそうです」

    『実験中は、耳後部センサー、指尖測定器、音声解析マイクを装着していただきます。これらは医療機器ではなく、研究用試作機です。取得情報はタブレットを通じてREED-5へ送信されます』

    『各自、玄関ホール右手の収納ケースを開けてください。REVELA-5一式が入っています。耳後部センサーを左右いずれかの耳の後ろに貼付し、指尖測定器を利き手でない方の人差し指に装着してください。音声解析マイクは襟元に固定します。装着後、タブレット端末の開始ボタンに触れてください』

    私たちは、それぞれ黒い収納ケースを開けた。

    中には、透明な袋に分けられた小さな機器が収められていた。肌色の薄いセンサー、指先に挟む小さな測定器、襟元に留める黒いマイク、そして白いタブレット端末。医療機器ではないと説明されていたが、見た目は病院の検査器具に近かった。

    坂下は説明書を何度も読み返しながら、几帳面にセンサーを貼った。馬場は「これで嘘発見器にでもかけられるんですかね」と軽口を叩きながら、襟元のマイクをいじっていた。水原は無言で装着を終え、タブレットの表示を確認している。

    久瀬だけは、耳の後ろに貼るセンサーを指先でしばらく撫でていた。貼る位置を迷っているというより、そこに何かを取りつけられること自体を嫌がっているようだった。

    『装着状態を確認しました。五名全員、接続完了』

    タブレットの画面に、緑色の円が五つ並んだ。

    「守秘義務もあるんですよね」

    坂下が言った。声が硬かった。

    『はい。実験内容、装置仕様、提示文章については、一年間の守秘義務が課されます。なお、参加者情報については期限なく適用されます。謝礼には、守秘義務、拘束時間、心理的負荷、身体的負荷への補償が含まれます』

    「心理的負荷と身体的負荷」

    水原が初めて口を開いた。

    「その負荷の内容は、事前に説明されないのですか」

    『実験の性質上、提示文章の内容は事前に開示できません』

    「それは、倫理的に問題があるのでは」

    『参加者は、任意で辞退できます。ただし、実験開始後の辞退については、謝礼の支払い条件が変更されます』

    嫌な言い方だった。

    辞退は自由。

    ただし、金は払わない。

    自由という言葉は、ときどき首輪に似ている。

    馬場が軽く手を上げた。

    「質問です。途中で気分が悪くなった場合は?」

    『実験は直ちに中断されます。必要に応じて救急通報を行います』

    久瀬がその言葉に、わずかに反応した。

    「心拍も取るんですか」

    久瀬が、耳の後ろに貼られたセンサーを指で触れながら訊いた。声が妙に硬かった。

    『安全管理のため、心拍、体温、発汗、音声ストレスを記録します』

    「安全管理ね」

    久瀬はそう言って、内ポケットから小さな銀色の薬ケースを出しかけ、すぐに戻した。人に見られたくないというより、手元から離すこと自体が不安なのだろう。彼はケースを戻したあとも、上着の胸元を指で押さえていた。

    私はそれを見逃さなかった。

    『それでは、順番を発表します。一番、真野様。二番、水原様。三番、久瀬様。四番、馬場様。五番、坂下様』

    なぜ私が一番なのか。

    いや、それ以前に、なぜ私たちの名前を知っているのか。

    招待状に名前が書かれていた以上、主催者が私の名前を知っていること自体は驚くほどではない。しかし、今この場で各人が名乗った名前と、REED-5が告げた名前が一致していることは、別の意味を持っていた。

    誰かが偽名を使っていたとしても、主催者には見抜かれている。

    そう言われたような気がした。

    『伝達は、正面左手の伝達室で行います。最初に真野様が入室し、REED-5から第一提示文を聴取してください。その後、水原様が入室し、真野様から耳打ちで提示文を受け取ります。伝達後、真野様は退室し、次の参加者へ入室を促してください。以後、同じ手順を繰り返します』

    正面左手には、重そうな木の扉があった。

    私は一度、他の四人を見た。

    水原は表情を変えなかった。

    久瀬は私から目を逸らした。

    馬場は、口の端だけで笑った。

    坂下は、なぜか私ではなく、久瀬を見ていた。

    私は扉に向かった。

    取っ手は冷たかった。

    伝達室は小さな書斎を改造したような部屋だった。本棚には本が並んでいたが、その背表紙の多くは日焼けして文字が読めなかった。中央には机があり、その上に黒い箱が置かれていた。箱の上には、REED-5の端末らしい黒い小型ユニットが載っている。

    扉が背後で閉まった。

    鍵のかかる音はしなかった。

    それでも私は、一瞬閉じ込められたような気分になった。

    机の上の機械から、先ほどと同じ声が流れた。

    『これより、第一提示文をお伝えします。提示文は一度だけ再生されます。真野様は記憶し、入室する水原様へ耳打ちしてください』

    耳打ち。

    ここまで研究、認知負荷、音声解析、精神変容などと大仰に飾っておきながら、結局やることは耳打ちなのだ。

    私は、少しだけ笑いそうになった。

    だが、笑えなかった。

    なぜなら、そのとき私の耳の後ろには、薄いセンサーが貼られていた。指先には測定器があり、胸元の小さなマイクが私の呼吸を拾っている。たとえインチキめいた装置でも、「測られている」と思うだけで、人は従順になる。

    私は身構えた。

    機械が、小さく鳴った。

    『この中に、二十五年前の殺人犯がいる。ただし、黒木ではない』

    それだけだった。

    短い。

    あまりに短い。

    けれど、その文章は、伝達室の空気を一瞬で変えた。

    この中に、二十五年前の殺人犯がいる。

    ただし、黒木ではない。

    私は机に手をついた。

    冗談ではない。

    認知負荷測定の提示文としては、悪趣味すぎる。しかも、ただの脅し文句にしては妙に具体的だった。二十五年前。殺人犯。黒木ではない。

    黒木。

    その名前に覚えはなかった。

    だが、知らない名前だからこそ気味が悪かった。知っている名前なら、まだ記憶の中に置き場所がある。知らない名前は、部屋の隅に置かれた中身の見えない箱に似ている。

    私はもう一度、頭の中で文章を繰り返した。

    この中に、二十五年前の殺人犯がいる。

    ただし、黒木ではない。

    間違えてはいけない。

    この文章は、おそらく一語でも落としてはいけない。

    扉が開き、水原が入ってきた。

    「お願いします」

    水原はそう言って、少し身をかがめた。近くで見ると、彼女の目は思ったよりも鋭かった。何かを隠している目ではなく、何かを見落とすまいとしている目だった。

    私は彼女の耳元に口を近づけた。

    できるだけ正確に。

    「この中に、二十五年前の殺人犯がいる。ただし、黒木ではない」

    水原は一度だけ、まばたきをした。

    それ以外の反応はなかった。

    彼女は一度だけ聞き返し、私は同じ文章を繰り返した。

    水原は小さくうなずいた。

    私は伝達室を出た。

    ホールに戻ると、久瀬が立っていた。病的に赤い頬の下で、口元だけが引きつっている。

    「久瀬さん、次です」

    私はそう告げた。

    久瀬は一瞬、伝達室の扉を見た。まるでそこが診察室ではなく、処刑台へ続く入口であるかのように。

    久瀬が入室し、扉が閉まった。

    しばらくして、水原が出てきた。彼女の顔は硬かった。

    「馬場さん、次です」

    水原が言った。

    馬場は「いよいよ私の番ですか」と軽口を叩きながら伝達室へ入った。

    数秒後だった。

    「おい、誰か来てくれ!」

    馬場の声が響いた。

    ホールにいた私たちは一斉に伝達室へ駆け込んだ。

    久瀬は床に倒れていた。右手で胸元を掴み、眼鏡は頬の横に落ちている。病的な赤みを帯びていた顔は、今は灰色に近かった。それでも彼はまだ、何かを言おうとしていた。

    「……伝言が」

    水原が膝をついた。

    「久瀬さん、聞こえますか」

    久瀬の唇が震えた。

    「伝言が……違う」

    それが、久瀬の最後の言葉だった。

    誰も、次の伝言を口にしなかった。

    第二章 変わった言葉

    最初に動いたのは、水原だった。

    馬場の叫びを聞いて伝達室へ駆け込んだ時、久瀬は床に倒れていた。右手で胸元を掴み、眼鏡は頬の横に落ちている。口元はわずかに開き、先ほどまで病的に赤かった顔は、急に灰色を帯びていた。

    水原は久瀬のそばに膝をつき、首筋に指を当てた。続いて手首を取る。動作に迷いがない。少なくとも、死体を見て悲鳴を上げる種類の人間ではなかった。

    「救急車を呼びます」

    坂下はスマートフォンを取り出したが、すぐに顔を歪めた。

    「圏外です」

    「私のもです」

    馬場も言った。山奥の洋館。電波の届かない場所。あまりにも出来すぎていた。

    私は玄関へ向かった。扉は開いた。少なくとも閉じ込められてはいない。外には夜の山道が続き、湿った風が木々を揺らしていた。門の方まで行けば電波が入るかもしれない。そう思った瞬間、私の耳の後ろに貼られたセンサーが小さく震えた。

    次の瞬間、REED-5のスピーカーが鳴った。

    『被験者三番、久瀬様の生体反応異常を検知しました』

    「早く救急車を!」

    水原が叫んだ。

    『緊急安全プロトコルへ移行します。玄関脇の棚に固定電話があります。緊急通報に使用可能です』

    坂下が走った。

    『参加者の皆様は、久瀬様の身体および周辺物品に触れないようお願いします』

    「ふざけるな」

    馬場が言った。

    「人が倒れているんだぞ」

    『救急通報を優先してください。ただし、実験記録保全のため、参加者の発話記録および生体記録は継続されます』

    その声は、どこまでも平板だった。

    人が死ぬかもしれない場面で、機械は手順を読んでいる。その冷静さは、落ち着きではなく、無関心だった。

    坂下が固定電話で警察への通報を始めた。住所、山道、倒れた参加者、呼吸がないこと。彼は必死に説明していたが、「実験」や「伝言」のところで言葉が詰まった。

    水原は久瀬の胸元と手元を確認しながら、低く言った。

    「警察が来るまで、現場を動かさない方がいい。ただし、その間に久瀬さんの最後の言葉は確認しておく必要があります」

    「確認?」

    馬場が言った。

    「久瀬さんは『伝言が違う』と言いました。何がどう違ったのか、今確認しなければ分からなくなる」

    時間が経てば、人は忘れる。あるいは、都合よく思い出す。

    「馬場さん」

    水原が言った。

    「あなたが久瀬さんから聞いた伝言を、そのまま言ってください」

    「私ですか」

    馬場は、まだ伝達室の入口近くに立っていた。いつもの軽口は消えていた。耳元を押さえた手だけが、不自然に残っている。

    「久瀬さんは、あなたに伝えた直後に倒れたんでしょうか。最後に伝言を聞いたのはあなたですよね」

    坂下が顔を上げた。

    「私は、まだ聞いていませんよ」

    その声には、安堵とも恐怖ともつかないものが混じっていた。

    馬場は唇を湿らせた。

    「この中に、二十五年前の殺人犯、黒木がいる」

    私は息を呑んだ。

    私から水原へ伝えた文章は違う。

    この中に、二十五年前の殺人犯がいる。ただし、黒木ではない。

    黒木ではない。それが、馬場のところでは「黒木がいる」に変わっている。ただの言い間違いではなかった。意味が正反対になっている。

    「もう一度お願いします」

    水原が言った。

    馬場は目を閉じ、今度はゆっくりと言った。

    「この中に、二十五年前の殺人犯、黒木がいる。久瀬さんは、そう言いました」

    「聞き返しましたか」

    「聞き返しました。久瀬さんは、もう一度同じように言った。その直後に倒れたんです」

    ならば、どこで変わったのか。

    久瀬が変えたのか。水原が変えたのか。それとも、久瀬は何か別の言葉を耳にしていたのか。

    馬場は乾いた笑いを漏らした。

    「伝言ゲームで証明ですか。これが裁判なら、全員まとめて証拠不十分ですな」

    裁判。その言葉が、妙に浮いた。

    水原が馬場を見た。

    「あなたは、何をしている人ですか」

    「イベント関係です。企画、運営、司会、調整。まあ、何でも屋ですよ」

    「裁判という言葉がすぐ出る割には、ずいぶん柔らかい職業ですね」

    馬場の笑顔が薄くなった。

    この五人は本当に初対面なのか。疑念は一つ増えた。

    REED-5が再び鳴った。

    『緊急安全プロトコル完了。以後、事前登録メッセージの再生フェーズへ移行します。隠匿情報曝露プロトコル、待機状態』

    「再生フェーズ?」

    馬場が顔を上げた。

    『本フェーズでは、登録済み音声、文書情報、補助記録が、実験プロトコルおよび曝露条件に従って順次提示されます』

    水原が低く言った。

    「つまり、ここから先はAIではなく、録音ということですか」

    『提示情報は、事前登録されたものです。再生タイミングは、時刻、発話キーワード、伝達室の入退室ログ、装着機器の接続状態、および未開示記録の曝露条件に基づき引き続きAIで自動制御されます』

    「キーワードに反応するだけの仕掛けか」

    馬場が言った。

    「ずいぶん賢そうに聞こえるが、実際には決められた箱を順番に開けているだけですね」

    私はREED-5のスピーカーを見た。

    その時、初めて理解した。

    死者が自ら語るわけもない。AIが真実を考えているわけでもない。

    誰かが死ぬ前に並べた言葉を、機械が順番に届けているだけなのだ。

    ただ、その時の私はまだ知らなかった。REED-5は単なる再生装置ではない。条件が満たされなければ、埋められた記録を一斉に外へ吐き出す、もう一つの機能を隠していた。

    『第一段階は終了しました。もし最後の伝言に「黒木ではない」という語が含まれていなければ、伝言は不正確です』

    馬場が顔を上げた。REED-5は、こちらの復唱の意味を理解していたわけではない。それでも、私たちがいま聞いた言葉を正確に刺していた。

    『ただし、実験は成功しました。皆様には、これより第二段階に進んでいただきます。久瀬様の死因を、皆様自身で推定してください』

    水原の顔が初めて明確に変わった。怒りだった。

    『なお、警察への通報は確認しました。到着まで、現場保持を推奨します』

    『なお、一つだけお伝えします。久瀬様は、黒木ではありません』

    伝達室から音が消えた。

    ただし、黒木ではない。

    久瀬は黒木ではない。

    ならば、久瀬はなぜ死んだのか。

    なぜ「伝言が違う」と言ったのか。

    私は床に倒れた久瀬を見た。

    彼の右手は、胸元を掴んだまま固まっていた。センサーをつける時にも、心拍の測定を確認した時にも、彼は何度か同じ場所に触れていた。私は薬ケースを気にしているのだと思っていた。

    だが、その指先が握り込んでいるものに、私はようやく気づいた。

    小さな紙片だった。

    胸ポケットから引き抜かれたのだろう。紙は汗で少し湿り、端が折れていた。久瀬は倒れる直前、それを掴もうとしたのか、それとも握り潰そうとしたのか。

    紙の端に、赤い文字が見えた。

    ――黒木を信じるな。

    第三章 退職した刑事

    黒木を信じるな。

    赤い文字は、厚手の白いカードに記されていた。

    名刺よりひと回り小さい。端はきれいに裁断され、紙面にはわずかな艶がある。どこかの封筒を破ったものではない。最初から、この一文を載せるために用意されたカードだった。

    赤い文字は手書きのように見えたが、よく見るとインクの濃淡が均一だった。誰かの筆跡を、そのまま印刷したものかもしれない。

    久瀬の右手は、そのカードを握り込んでいた。

    水原は久瀬の手元を見て、低い声で言った。

    「触らない方がいい。警察が来るまで待つべきです」

    その言い方は、意見というより命令に近かった。

    「ずいぶん慣れていますね。死体の扱いに」

    馬場が鼻で笑った。

    「あなたも慣れていない人間の反応には見えません」

    水原は返した。

    「水原さん。あなたは、警察の人ですか」

    私は訊いた。

    彼女は少し黙ってから答えた。

    「今は違います。昔、刑事でした」

    その一言で、ホールの空気が変わった。彼女の落ち着き。死体への距離の取り方。証言を確認しようとする姿勢。すべてに説明がつく。

    「二十五年前の事件を知っていますか」

    「知っています」

    「担当していたんですか」

    「途中まで。外されました」

    水原は、二十五年前に一家三人が殺された事件を語った。父、母、長男。唯一生き残ったのは十七歳の長女、榊原理沙。容疑者として浮上した男が黒木誠司だった。黒木は当時三十五歳前後。かつて被害者である榊原隆に雇われ、御堂事業の現場資料を集めていた調査補助兼現場担当だった。だが資料漏洩の疑いをかけられ、榊原から裏切り者として切られていた。仕事上のトラブルによって、事件後に姿を消したため、世間は黒木を犯人と見なした。

    ただ、水原は一つだけ気になっていたという。黒木は短気で評判も悪かったが、子どもたちからは妙に懐かれていた。榊原家の長男と長女だけではない。近所の聞き込み記録にも、同じような証言がいくつか残っていた。

    「黒木は大人相手にはすぐ怒鳴るが、子ども相手には不思議と根気がよかった」

    「壊れた玩具を直してやっていた」

    「庭先で手品のようなことをして見せていた」

    殺人犯として追われる男の資料の中で、それらの記述だけが場違いに柔らかかった。

    「黒木は悪人に見えやすい男でした。でも、悪人に見えやすいことと、実際に殺人犯であることは違います」

    水原はそう言った。

    だが水原は、黒木単独犯説を疑っていた。

    侵入経路に不自然な点があった。玄関の鍵は壊されておらず、勝手口にもこじ開けた痕跡はない。窓ガラスも割れていなかった。犯人は、榊原家の誰かに内側から入れられたか、合鍵に近い手段を持っていたことになる。

    黒木はかつて榊原家に出入りしていた。家の構造を知っていた可能性はある。けれど、資料漏洩の疑いで榊原隆から解雇同然に切られた後、それなりに警戒されていた男でもあった。少なくとも、深夜に黙って招き入れられる関係ではなかった。

    さらに、匿名の通報者は外からは見えないはずの家の中の状況を知っていた。現場近くでは黒い車の目撃証言もあった。黒木が激情に駆られて単独で一家を襲い、そのまま逃げたという筋書きは分かりやすかったが、分かりやすすぎた。水原には、その分かりやすさ自体が、誰かに用意されたもののように思えた。

    水原は黒木以外の関与を主張し、やがて捜査から外された。残っても何もできず、失意のうちに退職した。

    「私は、刑事でいる資格を失ったというより、刑事でいる意味を失いました」

    その言葉のあと、館のどこかで木が軋んだ。風の音かもしれない。だが、誰かが階上を歩いたようにも聞こえた。

    そのとき坂下が叫んだ。

    「待ってください。その紙、さっきより文字が見えています」

    久瀬の指がわずかに緩み、カードの端が広がっていた。水原はハンカチを使って、カードを少しだけ開いた。

    そこには赤い文字でこう書かれていた。

    ――黒木を信じるな。

    ――水原は、まだ知らない。

    「久瀬さんは、このカードを館に来る前から持っていたんですね」

    私は言った。

    水原はすぐには答えなかった。

    「胸ポケットから出したように見えます。センサーをつける時も、心拍の測定を確認した時も、久瀬さんは何度も同じ場所に触れていた。私は薬ケースを気にしているのだと思っていました」

    「薬だけではなかったのかもしれません」

    水原が低く言った。

    「招待状に同封されていた?」

    「断定はできません。ただ、そう考えるのが自然です」

    私はカードの赤い文字を見た。

    黒木を信じるな。水原は、まだ知らない。

    「久瀬さんは、ここへ来る前から黒木という名前を見ていた。そして、水原さんの名前も見ていた」

    水原は黙っていた。

    「館に来たら、本当にあなたがいた。しかも、あなたから耳打ちを受ける順番だった」

    私は久瀬の右手を見た。

    「このカードは、招待状ではなく、時限爆弾だったんですね」

    水原は、かすかに眉を寄せた。

    「爆弾なら、爆発させたのは言葉です」

    水原の顔から色が消えた。

    「何を」

    私は呟いた。

    ホールのREED-5が答えた。

    『第二段階、残り二十五分です。皆様、推理を続けてください』

    短い雑音のあと、録音された久瀬の声が流れた。

    『私は黒木じゃない。だが、黒木を知っている』

    録音はそこで切れた。

    第四章 黒木の館

    スピーカーから流れた久瀬の声は、本人の口を離れ、記録された罪のように響いた。人間の悪意は、ときどき怪談よりよほど手際がいい。

    黒木誠司は、二十五年前の事件後に姿を消したことになっている。逮捕された記録はない。死亡確認もされていない。警察記録上は、今も逃亡した重要参考人のままだ。水原はそう説明した。

    「つまり、生きているかもしれない」

    馬場が言った。

    「可能性はあります」

    「この屋敷にいる可能性も?」

    坂下の声が掠れた。

    「年齢だけで言えば、ありえます。ただし、私が知っている黒木の顔とは、少なくとも久瀬さんは一致しません」

    黒木は行方不明。久瀬は黒木を知っている。黒木は信じるな。水原はまだ知らない。

    私たちは言葉の中に閉じ込められているようだった。

    「この館を調べるべきです」

    水原が言った。

    死体とカードには触らない。現場をできるだけ動かさない。だが、館の中に私たち以外の誰かがいる可能性は確認しなければならない。

    最初に調べたのは、私が最初の伝言を聞かされた伝達室だった。本棚の本には「黒木蔵書」という蔵書印が押されていた。古びた本に比べて、印だけが妙に鮮やかだった。

    「この印、新しくないですか」

    私が言うと、水原もうなずいた。

    机の引き出しからは、黒木誠司宛の古い封筒が出た。だが宛先はこの館ではなく、都内のマンションだった。さらに、黒木名義の公共料金領収書が出た。住所はこの館。日付は二十五年前の事件後、三か月ほどの間に集中していた。

    「黒木が三か月だけ住んでいた?」

    「あるいは、三か月だけ住んでいたことにした」

    水原が言った。

    壁の写真立てには、男性五人の集合写真が入っていた。

    古い事業所の前で撮られたものらしい。五人の男が横に並んでいる。一人は杖を持ち、中央には恰幅のよい男が立っている。その隣に、神経質そうな細身の男、作業着姿の男、そして眼鏡をかけた穏やかな顔の男。

    ただし、そのうち一人の顔だけが、鋭いもので削られていた。

    「この中央の男性は、榊原隆です」

    水原が言った。

    「では、この杖の男は?」

    「御堂清文。御堂事業の表の顔だった人物です」

    「残りは?」

    「黒木誠司、久瀬直人、そして榊原さんの法律関係の相談相手だった男。昔、資料で名前を見たはずですが、今は断定できません」

    水原は顔を削られた男を見た。

    「少なくとも、この削られた男が誰なのかは、この写真だけでは分かりません」

    伝達室の隅には、KUROKIと手書きで書かれた古い工具箱もあった。中には錆びたドライバー、接着剤、小さなラジオペンチ、そして子どもの玩具に使うような極細のネジが入っていた。馬場は「侵入道具ですかね」と言ったが、私はなぜか、その箱が誰かを壊すためのものではなく、何かを直すためのものに見えた。

    次に応接室へ向かった。革張りのソファ、大きな暖炉、鹿の角。テーブルの埃には、最近何か四角い箱が置かれていた跡があった。暖炉の灰の中からは、焦げた登記書類の一部が見つかった。

    所有者。黒木誠司。所有権移転。

    「事件の三日後です」

    水原が日付を読み上げた。

    「事件の三日後に、逃亡中の重要参考人が山奥の屋敷を取得した。本人が手続きしたと考えるには不自然です」

    水原は焦げた登記書類を見た。

    「誰かが黒木名義を使った。しかも、登記に詳しい人間が関わっています」

    黒木本人が生きていた証拠なのか。それとも黒木の名義を使った偽装なのか。

    そのとき、応接室の隅で低い音が鳴った。

    ぼおん。

    私たちは一斉に振り返った。壁際に、大きな古時計が立っていた。背の高い、黒ずんだ木製の柱時計だった。振り子はいつから動いていたのか、規則正しく左右に揺れている。針は七時半を指していた。

    ぼおん。

    二度目の音が鳴った。それはアラームというより、時報に近かった。古い屋敷が、自分の喉で時間を告げているような音だった。

    「動いていたんですね。この時計」

    馬場が言った。

    あまりにも大きい。あまりにも部屋に馴染んでいる。だから逆に、誰も注意を払っていなかった。

    水原が時計に近づいた。

    「待ってください」

    時計の脚元に、きちんと二つ折りにされた紙があった。

    紙は、台座の下に端を挟まれるように置かれている。隠されていたというより、時報が鳴り、誰かが時計に目を向けた時だけ気づくように仕込まれていた。

    紙の見えている部分には、黒いインクで一行だけ書かれていた。

    黒木は逃げていない。

    私はその文字を見た瞬間、最初の伝言を思い出した。

    この中に、二十五年前の殺人犯がいる。ただし、黒木ではない。

    ――黒木は逃げていない。

    では、黒木はどこにいるのか。

    第五章 展示された逃亡者

    黒木は逃げていない。

    その一文は、私たちを応接室で足止めした。館には黒木の痕跡が多すぎた。蔵書印、封筒、領収書、登記書類、写真。だが、どれも生活の痕跡というより、誰かに見せるための展示物に見えた。

    「人が暮らしていた痕跡というより、誰かに見せるために置かれたものに見えます」

    私は言った。

    「黒木という人間がこの館にいるのではなく、黒木という物語が展示されている」

    馬場が呟いた。

    二十五年前、誰かが黒木を「逃亡犯」として生かし続ける必要があったのかもしれない。黒木名義の領収書、登記、蔵書印。それらは生活ではなく、発見された時に「ここで黒木が生きて隠れていた」と思わせるための舞台装置ではないか。

    私たちはそれぞれの招待状の文面を確認した。

    水原には「あなたが見失ったものを返す」。馬場には「あなたの口で失われたものを、あなたの耳で確かめてください」。坂下には「あなたが数えなかった一人を数え直せ」。そして私の招待状には、ほとんど使っていない、結婚前の姓――榊が書かれていた。

    「久瀬さんの招待状は?」

    坂下が、伝達室の入口を見た。

    「持ってきているなら、そこに何か書かれているかもしれません」

    久瀬の鞄は、ホールの壁際に置かれていた。黒い革の書類鞄で、持ち手にはまだ彼の体温が残っているように見えた。

    「遺体と身につけている物には触らない方がいい」

    水原が言った。

    「ただし、鞄が本人の手元から離れているなら、中を確認する必要はあります。警察が来る前に何かを隠すつもりはありません。見つけたものは、そのままの位置で記録します」

    水原はハンカチ越しに鞄を開けた。

    中には、招待状の入った封筒があった。封筒の表には、久瀬直人様、と印字されている。招待状には、短い一文だけが記されていた。

    「あなたが止めた言葉を、最後まで聞いてください」

    封筒の内側には、名刺ほどの白いカードが入っていた跡があった。紙の角が擦れ、赤いインクのかすかな移りが残っている。

    私は久瀬の右手に握られていたカードを思い出した。

    黒木を信じるな。

    水原は、まだ知らない。

    久瀬は、あの言葉を館に入る前から読まされていたのだ。

    「久瀬さんは、何か薬を飲んでいたんじゃないですか」

    坂下が言った。

    その声は、死体を見ているというより、自分の記憶の中にある何かを恐れているようだった。

    「さっき、胸元を押さえた時、内ポケットに触っていました。最初にセンサーをつけた時も、心拍の測定を確認した時も、薬ケースを気にしていた」

    「薬?」

    馬場が、久瀬の遺体の方を見た。

    「心臓の薬ですかね。それとも、精神安定剤か」

    「勝手に決めつけないでください」

    水原が言った。

    「でも、薬は関係しているかもしれない」

    私がそう言った、その時だった。

    REED-5が鳴った。

    『条件一致。複数の同一キーワード検出。「薬」』

    『登録音声、KUSE-A_PREを再生します』

    雑音のあと、若い女の声が流れた。

    『薬は持っている?』

    その声は若かったが、どこか平板だった。感情がない。人間の声というより、誰かの録音を薄くなぞった合成音声のように聞こえた。

    続いて久瀬の声。

    『持っている』

    『必要なら飲んで。途中で席を立たないで。最後まで聞いて』

    『最後まで聞けるとは限らない』

    『それでも、聞いて。二十数年前、あなたが途中で切った言葉だから』

    録音はそこで切れた。

    水原が、眉を寄せた。

    「これは、今夜の録音ではありませんね」

    「どうして分かるんです」

    坂下が訊いた。

    「久瀬さんの声が、今夜より少し若い。少なくとも、ここ数日の声ではありません」

    馬場が低く言った。

    「では、いつの声です」

    REED-5が、短く鳴った。

    『条件一致。発話群検出。「久瀬」「声」「いつ」』

    『補助テキストを提示します』

    スピーカーは、感情のない声で続けた。

    『当該音声は、三年前、榊原理沙様が久瀬直人様と接触した際の録音を含みます。久瀬直人様は、その接触時にも胸部圧迫感と呼吸困難を訴え、携帯していた薬剤を服用しました』

    私は久瀬の遺体を見た。

    今夜だけではなかったのだ。

    久瀬直人は、二十五年前の事件の話に触れられるたび、自分の身体が先に壊れていく人間だった。

    水原が、ほとんど独り言のように言った。

    「理沙さんは、その時に知ったんですね。久瀬さんが、最後まで耐えられないかもしれないことを」

    「それでも、久瀬さんは今夜ここへ来た」

    私が言うと、水原は久瀬の遺体を見た。

    「招待状を見た時点で、二十五年前の事件に関わるものだと察していたはずです」

    「体調が悪いのに?」

    「来なければ、誰かが代わりに喋ると思ったのでしょう」

    久瀬直人は、二十五年前からずっと、ある名前が世の中へ渡る手前で言葉を止めてきた。今夜も同じことをするために、この館へ来たのだ。彼が守ろうとしていた名前だけは、まだこの館のどこかに隠れている。

    REED-5は答えなかった。

    ただ、次の登録音声を待つように、沈黙していた。

    薬と言葉。薬が久瀬を殺したのなら、それだけで済む。言葉だけで死ぬなら、薬はいらない。ならば、持病、恐怖、伝言、そして最後の一言が重なった時に何かが起こる。若い女の声は、理沙本人ではない。久瀬を追い詰めるために、死者の声を模して作られたものなのだと、私はその時まだ知らなかった。

    「水原さん。あなたは本当に、久瀬さんに私と同じ言葉を伝えましたか」

    私は訊いた。

    水原は硬い声で「同じです」と答えた。

    「では、伝言とは別に、何か付け加えませんでしたか」

    応接室に沈黙が落ちた。

    その沈黙を破ったのは、私の質問ではなく、古時計の低い時報だった。針は七時半を少し過ぎていた。直後、REED-5が予定された録音を再生した。

    『第二段階の補助情報を追加します。久瀬様の死は、薬だけによるものではありません。伝言だけによるものでもありません』

    水原の顔がわずかに歪んだ。

    『久瀬様の発作を決定的にしたのは、伝言の前に耳にした一言です』

    この館で展示されているのは、黒木だけではない。私たち一人一人もまた、誰かに見せるためにここへ並べられているのではないか。

    第六章 電話の声

    『久瀬様の発作を決定的にしたのは、伝言の前に耳にした一言です』

    その言葉のあと、全員の視線が水原へ向かった。

    「何も言っていません。私は真野さんから聞いた伝言を、そのまま久瀬さんへ伝えました」

    水原は否定した。だが、その否定は早すぎた。

    「水原さん」私は言った。「あなたは、“言った覚えがない”のではなく、“言葉にした覚えがない”のではありませんか」

    水原の表情が止まった。

    「実験が始まる直前のことです。あなたは、彼の顔を見ました。その時、何か思い出しませんでしたか。顔ではないかもしれない。仕草でも、目でも、声でも」

    「声」

    水原が呟いた。

    「久瀬さんが私に言ったんです。『何です、そんな顔をして。まさか、私の悪口でも?』と。その声を聞いた時、聞いたことがあると思った」

    「どこで?」

    「二十五年前。事件の匿名通報です。私は、その声を聞いています」

    「録音記録で?」

    私が訊くと、水原は首を振った。

    「最初は、転送音声でした。事件の第一報は通信指令に入り、その内容が所轄へ回されました。私は初動班の一人として、現場へ向かう準備をしながら、その通報を聞いたんです」

    水原は、二十五年前の第一通報者について語った。匿名の男性から、公衆電話で通報が入った。家の中で人が倒れている。血がある。早く来てほしい。だが、外からは被害者達の位置は見えなかった。カーテンは閉まっていた。それなのに通報者は「三人とも、もう動いていない」と言った。

    「その声は、怯えているように聞こえました。でも、どこか作っているようでもあった。怯えている人間の声ではなく、怯えているように聞かせる声でした」

    彼女は一度、言葉を切った。

    「その後、私は録音記録を何度も聞き直しました。通報者は、外からは見えないはずのことを言っていた。『三人とも、もう動いていない』と。私は、その一言が忘れられなかった」

    その通報者は、家の中を見ていた。あるいは、家の中にいた。

    「私は、その通報者を探すべきだと主張しました。でも、捜査本部は黒木を追うことを優先した」

    水原は口元に手を当てた。

    「私は、久瀬さんの声を聞いた時、思ったんです。あの声だ、と」

    「言ったんですか」

    私は訊いた。

    水原の唇がかすかに動いた。

    「……あなた、電話の声……」

    その一言は、耳打ちのために近づいた久瀬には届いたはずだった。水原自身は思っただけのつもりだった。だが、久瀬には聞こえた。彼は、自分の正体が露見したと思った。

    REED-5が鳴り、古い通報音声が再生された。

    『もしもし……人が、倒れています。血が……早く来てください。三人とも、もう動いていない』

    続けて、久瀬の声が重ねられた。

    『私は黒木じゃない。だが、黒木を知っている』

    二つの声は二十五年の距離を挟んでいた。若い声と、年老いた声。それでも、同じだった。

    久瀬は二十五年前の第一通報者だった。

    そして通報時刻と通報内容が、黒木犯人説を支えていた。通報が早ければ犯行時刻は狭まり、黒木にはアリバイがなくなる。通報時刻が歪められていれば、犯行可能な人物は変わる。

    『第二段階、終了です』

    REED-5が告げた。

    『久瀬様の死因は、急性心不全。久瀬様は心疾患を抱えており、今夜この館へ来る前から、強い不安状態にありました』

    短い雑音が挟まった。

    『久瀬様は、心疾患に対する常備薬を携帯していました。その薬そのものが発作を引き起こしたわけではありません。しかし、持病を抱えた状態で強い精神的負荷が加われば、心拍と血圧が急激に変動し、発作を誘発する可能性がありました』

    水原が小さく息を呑んだ。

    坂下は壁に背中を押しつけたまま、青い顔でREED-5を見ていた。

    『持病による身体状態、二十五年前の秘密を暴かれる恐怖、伝言の内容、そして久瀬様自身の罪悪感。それらが重なった時、発作の引き金になるよう計算されていました』

    「計算……」

    馬場が低く呟いた。

    『久瀬様は、二十五年前の第一通報者でした』

    水原は目を閉じた。

    『ただし、久瀬様は犯人ではありません』

    私は顔を上げた。

    馬場も、坂下も、同じようにREED-5を見た。

    『久瀬様は、二十五年前の殺人犯を見ています』

    そこで音声は切れた。

    『被験者三番、久瀬直人の生体反応停止を検知』

    『継続参加条件、不成立』

    『代替記録を再生します』

    短い雑音のあと、男の声が流れた。

    『あの人が倒れたなら、やっぱり最後まで聞けなかったということだ』

    水原が顔を上げた。

    それは、久瀬直人の声ではなかった。

    『本当は、あの人自身に言わせるつもりだった。二十五年前、何を見たのか。誰を庇ったのか。けれどあの人は、いつも肝心なところで声を失う』

    『あの人は、きっと来ると思っている。あの招待状を見れば、二十五年前のことだと分かる。分かっていても、あの人は来る。来なければ、隠してきた名前が出ると思うからだ』

    雑音が入った。

    『あの人は、いつもそうだった。自分が黙れば済むと思っていた。自分が電話をかけ、自分が記録を歪め、自分が知らないふりをすれば、誰かを守れると思っていた』

    男の声は、そこで少しだけ掠れた。

    『今度も同じだ。あの人は、自分の心臓が悪いことを知っている。薬も持ってくる。それでも来る。隠してきた名前を庇うために。二十五年前と同じように、最後の言葉を飲み込むために』

    応接室には、古時計の振り子の音だけが戻ってきた。

    私は水原を見た。

    主催者の計算には、一つだけ足りないものがあった。

    久瀬を追い詰める舞台は用意されていた。持病も、伝言も、黒木という名前も、二十五年前の録音も、すべて久瀬の心臓を締め上げるために配置されていた。

    けれど、最後の引き金は、主催者が録音しておけるものではなかった。

    水原が、久瀬の耳元で漏らした一言。

    あなた、電話の声……。

    それは計画ではなく、記憶の反射だった。二十五年間、彼女の中で消えずに残っていた通報者の声が、久瀬の声と重なった瞬間、意識より先に口からこぼれた言葉だった。

    水原自身も、それに気づいているようだった。

    彼女の顔には、電話の主を見つけた者の表情はなかった。

    意図せず、死刑執行のボタンに触れてしまった者の顔だった。

    「私は……」

    水原は言いかけて、口を閉じた。

    誰も、その続きを促さなかった。

    彼女は殺していない。

    少なくとも、殺意をもって久瀬を殺したのではない。

    だが、彼女の一言が最後の刃になったことを、この場の全員が理解していた。何より、水原自身が理解していた。

    照明が一度だけ明滅した。

    『第三段階を開始します。久瀬様が見た人物を、特定してください』

    私たちは四人になっていた。

    しかし、事件は五人のままだった。

    第七章 嘘の加担者

    久瀬が見た人物を特定せよ。

    馬場と坂下は互いを疑った。馬場は喋りすぎ、坂下は怯えすぎている。だが二人は共犯ではなかった。二人とも御堂側の支配圏で別々に使われた駒であり、互いの存在も役割も知らなかった。

    私たちは招待状の文面を整理した。馬場には「あなたの口で失われたものを、あなたの耳で確かめてください」。坂下には「あなたが数えなかった一人を数え直せ」。

    「馬場さん。二十五年前、事件に関わる場で司会をしましたか」

    水原が訊いた。

    馬場はしばらく黙ったあと、「地域説明会です」と答えた。

    事件後、被害者宅周辺の住民向け説明会があった。防犯対策、警察への協力、報道対応。彼は進行役を請け負っただけだという。

    その説明会で、被害者宅の向かいに住む老人、磯部和夫が発言した。事件の夜、被害者宅の前に黒い車が停まっていたというのだ。

    「黒木の車ではない。もっと大きい、運転手付きの車だった。あれは御堂さんのところの車だ」

    磯部老人は、そう言いかけたらしい。御堂清文は地元の名士で、黒塗りの大型車を使っていた。運転手がつき、後部座席には杖の男が乗る。老人は、その車を以前から何度か見ていた。

    さらに磯部は、黒い車の人物とは別に、あとから小型の車で乗り付け、慌てて榊原家へ駆け込んだ男がいた、とも言いかけていた。

    それが黒木だったのかどうか、老人には断言できなかった。けれど、その男は家から逃げていたのではない。外から駆け込んでいった。少なくとも、磯部老人にはそう見えた。

    「あなたは何をしたんです」

    水原が訊いた。

    「マイクを切りました」

    馬場は言った。

    会場が混乱していたから。後で個別に話を聞くと案内したから。彼はそう言った。だが、その老人の証言は正式な記録には残らなかった。

    「私は、ただ進行を任されただけです」

    馬場は言った。

    「壇上の人間を紹介し、発言の順番を守らせ、予定時間内に終わらせる。そういう仕事です」

    「予定にない証言が出たから、マイクを切った」

    水原が言った。

    「そうです。私は、台本にないことが嫌いなんです。会場がざわつき、主催者がこちらを見る。そうなれば、進行役は場を戻す。誰が正しいかを考えるのは、私の仕事ではありません」

    「それで、酷いことをしたとは思わなかったんですか」

    私が訊くと、馬場は一瞬だけ黙った。

    「思わないようにしていました」

    彼は言った。

    「考え始めると、仕事になりません。あの場で私が見るべきものは、真実ではなく、次の登壇者と残り時間でした。会場が荒れれば、主催者は困る。主催者が困れば、私は次の仕事を失う。そういう順番でしか、私はものを見ていなかった」

    「一人の証言が消えることよりも?」

    「その時は、証言だと思っていなかったんです」

    馬場は苦く笑った。

    「台本にない雑音だと思った。そう思うことにした」

    説明会の後、御堂側の担当者は馬場に「不確かな発言で遺族や地域を傷つけずに済んだ。よく収めてくれた」と言った。礼の言葉の形をした圧力だった。馬場はそれを理解しながら、「自分はただ場を整えただけだ」と思うことにした。考えなければ、ただの仕事で済むからだ。

    馬場の口で、一つの証言が失われた。

    次に坂下が追い詰められた。彼は二十五年前、御堂グループと関係の深い民間の行政サービス代行業者に勤めていた。救急搬送後の受入記録、自治体への報告用データ、保険関連の基礎情報。そうしたものを、行政や医療機関から委託されて整理する会社だった。

    「公務員ではありません。医者でも救急隊員でもない。ただ、流れてきたデータを入力して、修正依頼が来れば直す。そういう仕事でした」

    「何を数えなかったんです」

    水原が訊いた。

    「救急車だ」

    坂下が叫んだ。

    事件の初期入力データでは、搬送対象者が二人になっていた。だが修正依頼が来た。現場混乱による重複入力で、所轄確認済みだと言われた。備考欄には「御堂関係案件、慎重処理」とあり、上司は「良きに計らえ」とだけ言った。坂下は二人を一人にした。長女以外の搬送対象者を、記録から消したのだ。彼は現場を知らない。ただ数字を直しただけだと、自分に言い聞かせていた。

    『第三段階、補助情報を提示します』

    REED-5が鳴った。

    『搬送対象者、二名。第一対象、女性、十七歳、意識混濁。第二対象、男性、三十代から四十代、胸腹部刺創、呼吸微弱、意識不明』

    短い電子音が挟まった。

    『訂正後記録、搬送対象者、一名。削除対象、第二対象』

    水原が息を呑んだ。

    『第二対象、現場仮識別名、黒木』

    黒木は逃げていない。

    その意味が変わった。

    黒木は事件現場から運ばれていた。逃亡したのではなく、記録から消されたのだ。

    第八章 削除された男

    黒木は現場から運ばれていた。

    水原は震える声で「そんな記録、私は見ていない」と言った。見なかったのではなく、見せられなかったのだろう。黒木は逃亡犯にされた。その物語を支えるために、病院記録も、搬送記録も、館の登記も、すべて別の形へ処理された。

    『搬送先、東都中央病院。受入記録、同日二十三時十八分。対象者、身元不明男性。胸腹部刺創。処置中死亡。翌日未明、記録訂正。身元不明男性の受入記録は、別件事故搬送記録へ統合。死亡者の歯科照合は未実施。理由、照合対象なし』

    「照合対象ならあった」

    水原が拳を握った。

    黒木誠司の歯科資料は捜査資料にあったはずだ。対象がなかったのではない。対象にしなかったのだ。

    その後、REED-5は私を呼んだ。

    『真野様。あなたは、最初の伝言を聞く役に選ばれました。あなたが、最初に聞くべき人だからです。伝達室へ戻ってください』

    水原は一人では行かせないと言った。私たちは全員で伝達室へ戻った。扉が閉まり、鍵がかかる音がした。

    REED-5の端末ランプが点滅し、若い女の声が流れた。

    『私は、隠れていませんでした。クローゼットになんか、いませんでした。隠れていたのは、真理です。私が、押し入れの奥に入れて、布団をかけました。泣いちゃだめ、息を殺して、と言いました』

    若い女の声は震えていた。

    『私は見ました。黒木さんは、父を殺していません。黒木さんは、私たちを助けようとしてくれました。父に怒鳴られて、もう来るなと言われた後も、黒木さんは真理の人形を直しに来てくれた人です』

    短い雑音が入った。

    『その先は、物証と一緒に残します。真理にだけ、分かるものと一緒に』

    登録音声は一度切れ、加工された主催者の声が続いた。

    『真野様。あなたが旧姓だと思っている榊は、榊原から削られた名前です。二十五年前、榊原理沙には、妹がいました。公式記録には、存在しません。あなたは、榊原家の次女です』

    私は息ができなかった。

    私は榊真理子として育った。榊原など知らない。姉などいない。二十五年前の殺人事件など、ニュースや古い記事の中にある、私には関係のない出来事でしかない。

    そう思っていた。

    そう言いたかった。

    だが、言葉が出なかった。

    第九章 数えられなかった子

    「違います」

     ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど乾いていた。

    「私は榊です。榊真理子です。父は榊修一。母は榊和枝。私は、二人の子どもとして育ちました。母は、私が幼い頃に亡くなりました」

     水原は即断しなかった。主催者の言葉をそのまま信じる必要はない。事実と推測と嘘を混ぜている可能性がある。だから検証が必要だと言った。

     机の上には、黒い箱が置かれていた。

     最初に私がこの部屋で提示文を聞いた時から、そこにあった箱だ。黒い革張りで、古い宝石箱ほどの大きさがある。正面には小さな真鍮の留め金があり、側面には玩具のようなゼンマイ式のつまみがついていた。蓋の上には、REED-5の端末と接続された細いコードが一本伸びている。

     水原は箱に触れず、しばらく観察していた。

     かちり。

     数分後、留め金が内側から外れる音がした。

     黒い箱の蓋が、ゆっくりと数センチだけ持ち上がった。

     反論に応えたのではない。側面のゼンマイ式タイマーが、決められた時間に留め金を外しただけだった。蓋の内側には「第四段階」とだけ書かれている。箱の中には、古い写真が一枚、丁寧に折りたたまれた紙が一枚、そして薄桃色の子ども用の髪留めが収められていた。髪留めは花の形をしていて、片方の花びらが欠けていた。

     知らない。知らないはずだった。

     それなのに、胸の奥に小さな映像が浮かんだ。階段。誰かの手。痛いくらい強く握られた手。暗い場所。息を殺す声。

     静かにして。

     水原は古い家族写真を見つけた。父、母、少年、少女。そして少女の横にもう一人、小さな子どもが立っている。

     ただし、その子どもの顔の上には、小さな白い紙が貼られていた。乱暴に切り抜かれたのではない。誰かが、見せないために丁寧に隠したのだ。写真の裏には青いペンで名前が書かれていた。

     榊原隆。榊原美津子。悠人。理沙。真理。

     真理。

     私の名だった。真理子ではない。真理。

     折りたたまれた紙は、古い病院の受入記録の写しだった。

     病院の受入記録には、さらに第三対象があった。

     女児。推定五歳。外傷なし。意識あり。発語少。保護扱い。

     引き取り人欄には「榊修一」とあった。私を育てた父の名前だった。父は司法書士だった。不動産登記や相続関係の仕事をしていた。榊修一は榊原隆の旧知の法律実務家で、御堂事業の不正についても相談を受けていたらしい。事件直後、私は正式な養女としてではなく、まず「保護女児」として父に引き取られた。だが、父一人で幼い子どもを榊家の娘として育てることはできなかったはずだ。母、榊和枝もまた、この秘密を知っていたのだろう。学校の書類、近所づきあい、親戚への説明、熱を出した夜、誕生日の写真。そこには母の手もあった。父と母は、安全上の理由で私の所在を伏せ、時間を置いて榊家の養女にした。戸籍上の手続きは整っていたのだろう。だが、その整った手続きが、私を事件から切り離した。

     この館の所有権が、事件の三日後に黒木へ移ったことと、父の職業がつながった。

     私たちが箱の中身を見つめていると、REED-5が静かに鳴った。

    『条件一致。第四段階、物証提示完了』

    『登録音声、RISA_02を再生します』

    『真理は、泣かなかった。私が、泣いちゃだめって言ったから。押し入れの奥に入れて、布団をかけた。黒木さんは犯人じゃない。黒木さんは、私たちを助けようとした。黒木さんは怒って来たんじゃない。走って来た。真理を逃がすために来た。でも、あの人が戻ってきた。黒木さんは、真理を抱いていた。だから、あの人は黒木さんも刺した』

     私は、冷たい床と、暗い廊下と、誰かに抱えられている感覚を思い出した。

     大きな腕だった。煙草と油と雨の匂いがした。走るたびに、私の頬に誰かの上着の硬い布が当たる。耳元で、低い声が「目を閉じてろ」と言った。

     その時、髪に何かが引っかかった。

     ぱきん、という小さな音。

     薄桃色の髪留めが外れ、廊下の床に落ちた。花びらの一つが欠けた。私はそれを拾おうとしたが、抱えていた腕は止まらなかった。

     止まれば、追いつかれるからだ。

    『あの人は、私を見ました。でも、その時、黒木さんが真理を抱いて廊下へ出ようとしていた。あの人は私を残して、黒木さんを追った』

    『黒木さんが倒れたあと、あの人は戻ってきました。私に言いました。見たことを話せば、真理も殺す、と。私は、その時初めて、自分が生き残ったのではなく、黙らされたのだと分かりました』

    『だから、私は隠れていたことにした。何も見ていないって言った。真理の名前は、消してもらった。榊さんが、守ってくれるって言った。黒木さんのことも、何とかするって言った。でも、黒木さんは死んだ』

     父は私を守った。そして、おそらく母も。榊原隆への負い目と、幼い私を何としても生かさなければならないという切迫感が、父を動かしたのだろう。母もまた、その決断を支えたのだと思う。だが二人は、黒木を救えなかった。黒木が救助者だった可能性を知りながら、私の安全を優先し、黒木逃亡説をすぐには崩せなかった。善意と罪が、同じ筆跡で書かれている。

    『水原さんは、まだ知らない。黒木さんが逃げていないことも、真理がいたことも、あの人が誰なのかも。もし私が死んだら、伝えてください』

     録音はそこで切れた。

     REED-5が告げた。

    『榊原理沙様は、三年前に亡くなりました。死因、自殺。ただし、彼女は死の直前まで、二十五年前の証言を残していました。この伝言ゲームの原案は、榊原理沙様によるものです』

     その直後、別の録音が流れた。理沙の声だった。

    『私は、あの人に会いました。許すためじゃありません。許せるはずがないからです。でも、あの人は、まだ逃げていました。黒木さんではなく、あの人が逃げていたんです』

     録音の中の理沙は、泣いていなかった。泣き尽くしたあとに残る、乾いた声だった。

    『私は、あの人を信じませんでした。反省してくれるとも思っていません。だから、仕組みにしました』

     短い雑音が入った。

    『この記録は、私が止め続けなければ、いずれ送信されるようにしてあります。警察へ。水原さんへ。真理へ。そして、いくつかの新聞社へ』

     水原が顔を上げた。

    『ただし、そのまま送れば、真理の名前も、榊さんがしたことも、黒木さんの死も、全部まとめて外へ出てしまう。私はそれだけは避けたかった。だから、順番を決めました。誰が、どこで、何を変えたのか。言葉が壊れた順番で、もう一度渡すように』

     理沙の声が少しだけ掠れた。

    『このゲームは、裁判ではありません。伝言のやり直しです。二十二年前、みんなが少しずつ言葉を変えた。だから今度は、変えた人たちに、もう一度同じ場所へ集まってもらう。最後まで届かなかった言葉を、最後まで届けるために』

    『あの人には、その順番を守らせました。守らなければ、全部が一度に流れる。あの人は、自分から贖罪したのではありません。逃げ道をなくされただけです』

     私はREED-5を見た。

     それはもうAI実験管理システムではなかった。少なくとも、ここから先は違う。理沙が秘密を埋めた穴であり、亡者たちが生者を動かすための曝露装置だった。

    『私は、三年前に久瀬直人さんに会いました』

     理沙の声だった。

    『許すためではありません。あの人が、どこまで覚えているのか確かめるためです』

     短い雑音が入った。

    『電話の声、と言っただけで、あの人は胸を押さえました。薬を飲ませなければ、その場で倒れていたかもしれません。その時、私は分かりました。あの人は忘れていない。忘れたふりをしていただけだと』

     水原は目を閉じた。

    『久瀬直人さんは、たぶん最後まで聞けません』

     理沙の声は静かだった。

    『あの人は、二十二年前から自分の声に追いかけられているからです。電話の声。通報の声。嘘を最初に世の中へ渡した声』

     短い沈黙があった。

    『でも、もしあの人が聞けなくても、伝言が途切れないようにしてください。あの人が黙ったところから先は、代替記録が話す約束です』

     理沙の声は、そこで少しだけ揺れた。

    『私は、あの人の顔を見ました。でも名を言えば、そこで伝言は終わってしまう。御堂さんじゃない。杖をついていたけれど、足が違った。黒い車に乗っていた人。御堂さんの近くにいた人。久瀬さんは、その人を知っている。黒木さんじゃない。本当の犯人の名前を、最後まで届けてください』

    『御堂清文が死んだと聞いた時、私は、また間に合わなかったのだと思いました』

    『父も、母も、悠人も、黒木さんも、間に合わなかった。真理にも、まだ何も言えていない。御堂は法廷に立つこともなく、名士のまま死んでいく。私は二十五年かけて、また何も届けられなかった』

    『でも、伝言だけは残します。私が最後まで立っていられなくても、言葉が残れば、誰かが次へ渡せるから』

    『最後の伝言者です。第五段階を開始します。二十五年前の殺人犯を、名指ししてください』

     

    第十章 この中にいる者

    二十五年前の殺人犯を、名指ししてください。

     それは、命令というより宣告だった。

     榊原理沙は録音の中で犯人を「あの人」と呼んでいた。子どもがそう呼ぶ相手は、完全な他人ではない。知らない男なら、泥棒、犯人、怖い人と呼ぶはずだ。「あの人」には、すでに知っている相手への嫌悪がある。

     黒木は、なぜ榊原家に来たのか。そこから考えるべきだと水原は言った。黒木は榊原隆から縁を切られていた。資料漏洩の疑いをかけられ、裏切り者として追い払われていた。だから、黒木には榊原を恨む理由があるように見えた。家に出入りした過去もあり、構造も知っている。事件当夜に現場にいたなら、犯人に見える条件は揃いすぎていた。

     しかし、条件が揃いすぎている時ほど、誰かが揃えた可能性がある。

     黒い箱の底板は、わずかに浮いていた。

     水原が端を押すと、薄い板が外れ、その下から茶色い封筒が現れた。封筒には、黒いペンで「第五段階」とだけ書かれていた。

     中には、数枚のメモ、古い会合写真、御堂事業に関する資料の写しが入っていた。

     その一枚に、久瀬直人のものと思われる震えた筆跡で、短い告白が残されていた。

     ――黒木に電話したのは私だ。

     ――止められると思った。

     ――あの男なら、榊原の子どもを見捨てないと思った。

     久瀬直人は、御堂の側の者が榊原家へ向かったことを知った。だが、自分で通報すれば、御堂事業の不正と、自分の関与が露呈する。そこで黒木に匿名で電話した。「榊原の家が危ない。今夜だ」と。直人は黒木に止めさせるつもりだった。あるいは、そう思いたかった。

     黒木は来た。榊原を殺すためではない。榊原から縁を切られてなお、榊原の子どもを助けに来た。

     水原は、さらに封筒の中から御堂事業に関する資料を取り出した。榊原隆は御堂清文の事業における不正を表沙汰にしようとしていた。表向きには、御堂老人の不正だった。だが実際には、その多くを秘書の久瀬直人が御堂の名義と威光を使って勝手に行っていた。架空発注、土地取引の名義操作、補助金の流用。御堂老人はすべてを命じたわけではない。しかし、御堂の名で行われた以上、表に出れば御堂家も事業もただでは済まない。

     水原は資料をめくる手を止めた。

    「この名前を、私は見ています」

    「久瀬直人?」

    「二十五年前にも。御堂清文の秘書、事業調整役、実務担当。榊原隆が探っていた不正の書類に、何度も出てきた名前です。私はこの男を調べようとして、捜査から外されました」

     彼女は唇を噛んだ。

    「つまり、私は事件を見失ったのではありません。見てはいけない場所へ目を向けたから、目隠しされたんです」

    「ある人物を守るために、榊原隆を黙らせに行った者がいる」

     水原は言った。

     その人物は最初から一家皆殺しを計画していたわけではなかった。榊原を脅し、資料を奪うつもりだった。だが榊原に抵抗され、母と長男に目撃され、理沙にも見られた。殺人は、隠蔽のために増えていった。嘘が一つでは足りなくなり、次の嘘を呼ぶように、死体も増えた。

     そこへ黒木が駆けつけた。黒木は真理を抱えて逃がそうとした。襲撃者は黒木も刺した。その瞬間、黒木は救助者から、犯人に仕立てるための材料へ変えられた。

     封筒の中には、理沙が後年に書いたと見られるメモもあった。

     ――黒木さんは来た。久瀬直人に呼ばれたから。

     ――黒い車には、運転席の影があった。

     ――でも、降りてきたのは後ろの席からだった。

     ――杖をついた御堂さんに見えた。でも、足が違った。

     それは、馬場がマイクを切った磯部老人の証言と一致していた。黒い車。運転席の影。後部座席側から降りた杖の男。そして、黒い車とは別に、あとから榊原家へ駆け込んだ男。馬場のマイクが切ったのは、単なる老人の思い込みではなかった。黒木の無実へ続く最初の道だった。

     馬場は思い出した。磯部老人は、後部座席側から降りた人物について「足が悪そうだった」「杖を持っていた」と言っていた。説明会の後、御堂側から「よく収めてくれた」と言われたことも。御堂老人は事件後、真相の一部を知りながら、自分の事業と名誉を守るために周囲へ圧力をかけたのだ。命令ではなく、礼と依頼と空気で、人を黙らせた。

    『条件一致。キーワード検出。「馬場」「マイク」「御堂側」』

    『登録音声、AKITO_BABAを再生します』

     雑音のあと、久瀬明人の声が流れた。

    『馬場は、何も知らなくてよかった。ああいう人間は、命令しなくても動く。台本を渡せば、台本にない声を嫌う。主催者が顔をしかめれば、マイクを切る。自分では何も選んでいないと思いながら、ちゃんとこちらの望む場所へ場を戻してくれる』

     馬場は笑わなかった。いつもの軽口もなかった。

    「駒、ですか」

     彼は低く言った。

    「否定しますか」

     水原が訊いた。

    「否定したいですね」

     やがて、馬場は言った。

    「でも、あの夜の私は、確かに台本しか見ていなかった」

     水原は、榊原隆の元共同経営者で、足が悪く杖を使っていた男の名を挙げた。

     御堂清文。

     御堂には事件当夜のアリバイがあった。企業交流会に出席し、壇上で挨拶していた。その会合の司会をしたのが馬場だった。だが御堂がいたのは、少なくとも最初の挨拶の時だけだった。途中で会場を抜けた可能性を、馬場は後から疑いながら黙っていた。

     御堂清文。黒木を現場に呼び出せる人物。榊原家に入れる人物。黒い車の後部座席にいた人物。杖をついていた人物。

     封筒の中から、さらに小さなメモが出た。

     ――みどうさんは、みどうさんじゃない。

     私は幼い記憶の中の声を探った。

     みどうさんじゃない。違う。名前ではない。理沙は、本物の御堂ではないと言っていたのだ。

     REED-5が登録音声を再生した。

    『みどうさんは、みどうさんじゃなかった。でも、杖をついてた。杖をついてたけど、右と左が違った。本当のみどうさんは、右足が悪い。でも、あの人は左足を引きずってた』

     御堂に変装していた誰か。

     封筒の中には、同じ集合写真の複写もあった。そこでは削られていた顔が残っており、裏面に「榊修一」と記されていた。集合写真の顔を削られた男は黒木ではなく、私を育てた父、榊修一だった。父は真犯人ではない。REED-5もそれを否定した。父は黒木の死亡と私の保護に関わっただけだ。

     さらに二十五年前の会合写真が出た。壇上にいる若い馬場、杖をついた御堂清文、そしてその隣に立つ男。

     水原が写真裏の名前を読んだ。

    「久瀬直人」

     死んだ男の名前だった。

    『久瀬直人は、御堂清文の秘書でした』

     では久瀬が犯人か。REED-5は即座に否定した。久瀬直人は犯人ではない。彼は弟を庇ったのだ。

     御堂清文には秘書の久瀬直人のほか、運転手兼雑務係の弟がいた。

    『久瀬明人。二十五年前、御堂清文の運転手』

     黒い車。運転手。後部座席の偽の御堂。

     役割は、そこで初めて切り分けられた。二十五年前、車を運転していたのは弟の久瀬明人だった。そしてその明人自身が、御堂に変装して後部座席から降り、榊原家に戻った。理沙が見た「左足を引きずる偽の御堂」は、兄ではなく弟だった。兄の久瀬直人は犯行後に弟から真相を知らされ、第一通報者として通報内容と時刻を歪め、弟を庇った。

     坂下が消した搬送記録も、御堂老人の圧力で「良きに計らわれた」ものだった。第三対象の真理は、榊修一が保護したことで表の事件記録から外れた。第二対象の黒木は、坂下の修正で消えた。二人の人間が、別々の理由で記録から消された。一人は守るために。一人は見捨てるために。

    『久瀬明人は、この館の中にいます。ただし、肉体としてではありません。久瀬明人は、三日前に死亡しました。自殺。このゲームは、久瀬明人の遺言でもあります』

     加工のない男の声が流れた。

    『あの人に、これ以上、庇わせないためだ。あの人は御堂のために働いていたんじゃない。御堂の名前で、自分の城を作っていた。俺はそれを守ろうとして、榊原を殺した。黒木は殺しに来たんじゃない。俺が殺した。俺は、あの日からずっと逃げていた。黒木じゃない。逃げていたのは俺だ。最後の伝言を、届けてくれ』

    『理沙は、俺を信じなかった』

     久瀬明人の声は、低く笑った。

    『正しい。信じられるわけがない。俺は二十五年前に人を殺し、黒木に罪を着せ、あの子の妹を記録から消した側の人間だ』

    『あの子は俺に、選択肢を二つだけ残した。ゲームを実行して、順番に真実を出すか。何もしないで、全部を一度にばらまかれるか』

    『俺は、いい人になったわけじゃない。逃げ道がなくなっただけだ』

    『兄貴を殺すつもりだったのか、と聞かれれば、違うと答えたい。けれど、それは嘘だ』

     久瀬明人の声は、疲れていた。

    『兄貴が死ぬかもしれないことは分かっていた。俺はそれでも止めなかった。二十五年前、兄貴は俺を庇って人を殺したわけじゃない。俺が人を殺し、兄貴はその後で、俺の名前を世の中から隠し続けた』

     雑音。

    『だから、兄貴がこの館で死んだなら、それも俺の罪だ』

    「久瀬さんが握っていた紙片も、最初から仕込まれていたんですね」

     私は言った。

    「黒木を信じるな。水原は、まだ知らない。あの赤い文字の紙片です」

     その時、REED-5が鳴った。

    『条件一致。キーワード検出。「赤い文字」「紙片」「久瀬直人」』

    『補助記録を提示します』

     REED-5の声は、感情なく続いた。

    『当該紙片は、久瀬直人様宛の招待状に同封されたものです』

     馬場が息を吐いた。

    「やはり、最初から持っていた」

    『文面原案、榊原理沙。送付実行、久瀬明人』

     私は紙片を思い出した。

     黒木を信じるな。水原は、まだ知らない。

    『目的は、久瀬直人様に対し、黒木誠司の名、および水原元刑事の存在を事前提示すること。実験開始前から心理的負荷を形成するためです』

     水原が、ゆっくりと目を閉じた。

    「理沙さんは、久瀬さんが私の名前に反応すると分かっていた」

    『補足。久瀬直人様は、三年前の榊原理沙様との接触時にも、同種の心理的反応を示しています』

     私はようやく理解した。

     久瀬直人は、館に入ってから追い詰められたのではない。招待状を開いた瞬間から、すでに追い詰められていたのだ。

     録音は一度途切れた。短い雑音のあと、明人の声が戻った。

    『金のことなら心配いらない。あれは兄貴が御堂から受け取った処理費の残りだ。二十五年前、黒木を逃亡犯にし、記録を直し、口を閉じさせるために使われた金だ』

    『あんたたちに払うつもりだった。だが、警察が押収するならそれでもいい。元々、誰かが受け取っていい金じゃない』

    「そういえば」

     馬場が、疲れた声で言った。

    「五百万円の話は、本当だったんですかね。今さら欲しいとは言いませんが、餌が本物だったのかどうかくらいは気になります」

     坂下が顔を上げた。

    「こんな時に、金の話ですか」

    「こんな時だからです。人間、最後に現実へ戻してくれるのは金か空腹です」

     その時、REED-5が鳴った。

    『条件一致。キーワード検出。「五百万円」「金」』

    『補助記録を提示します』

     私たちは、スピーカーを見上げた。

    『書斎暖炉脇、床板下収納を確認してください』

     水原が警戒しながら書斎へ戻り、暖炉脇の床を調べた。古い敷物の下に、金属製の取っ手が隠れていた。引き上げると、床下に小さな耐火金庫が埋め込まれていた。

    『開錠番号は、登録音声 RISA-05 に基づきます』

     水原が番号を入力すると、重い音を立てて扉が開いた。

     中には、五つの封筒が入っていた。

     真野。

     水原。

     馬場。

     坂下。

     久瀬。

     それぞれの封筒は厚く、帯封のついた紙幣が透けて見えた。

    「本当にあった」

     馬場が呟いた。

    「五人分で、二千五百万円」

     REED-5の声は平板だった。

    『原資は、二十五年前、御堂清文側から久瀬直人様へ渡された処理費の残余です』

    「処理費」

     水原の声が硬くなった。

    『黒木誠司様の逃亡偽装、搬送記録修正、目撃証言抑制、関係者沈黙維持のために用意された資金です』

     馬場は、封筒から一歩下がった。

    「つまり、これは報酬じゃない」

    「ええ」

     水原が言った。

    「証拠品です」

    『本金銭は、参加者への支払い予定金として提示されました。ただし、警察介入時には証拠物として保全されるよう設定されています』

     私は封筒を見た。

     五百万円。

     それは私たちをこの館へ誘う餌だった。

     同時に、二十五年前に誰かの口を閉じさせた金の残りでもあった。

     二十五年前の殺人犯は、久瀬明人。兄を守るために榊原隆を襲い、御堂に変装して現場へ戻った実行犯。兄の久瀬直人は、殺人そのものには手を下していない。ただし、通報の言葉と時刻を歪め、黒木を現場へ呼び、弟を逃がした。

     明人は生きてこの館にいるわけではない。声として、録音として、仕掛けとして、私たちの耳の中にいた。

     黒木は逃げていない。

     逃げていたのは、久瀬明人だった。

    終章 最後の伝言

    最後の伝言を、届けてくれ。

     久瀬明人の声は、そこで途切れた。

     書斎には、もう何も聞こえなかった。REED-5も、古時計の振り子さえ、遠くなったように感じられた。

     二十五年前の殺人犯は、久瀬明人。御堂清文の運転手。久瀬直人の弟。兄・直人が御堂の名を使って行っていた不正を守るため、榊原隆を襲い、御堂に扮して榊原家へ戻った男。左足を引きずる偽の御堂として理沙に目撃された男。黒木を犯人に見せかけ、黒木を刺し、榊原家の父母と長男を殺し、理沙を脅し、私を記録から消させた男。兄の直人は実行犯ではなく、第一通報者として弟を庇った。

     その男は、三日前に死んでいた。

     死んだ犯人が、死んだ兄と、死んだ姉と、死んだ黒木と、消された私を使って、二十五年前の伝言を最後まで届けようとしていた。

     箱の底から、茶色い封筒が出てきた。表には「警察到着後、開封」と書かれている。水原は開けなかった。

    「ここから先は、私たちが勝手に触るべきではありません。警察に渡します」

     中にはおそらく、久瀬明人の自白、病院記録、搬送記録、登記関係、理沙の録音などがまとめられているのだろう。

    「黒木誠司の名誉回復は、必ず必要です」

     水原は言った。

    「できますか」

    「簡単ではありません。正式な再捜査、記録の確認、報道対応、司法手続。時間がかかります。それでも、やります。もはや警察官ではありませんが、知ってしまった人間として、証言を集め、記録を残し、もう一度この事件を警察の前に戻します」

     馬場も証言すると言った。老人のマイクを切ったこと、御堂の会合で違和感を覚えながら黙っていたこと、御堂側に「よく収めた」と褒められてなお考えなかったこと。坂下も、搬送記録の修正について話すと言った。

    「仕事を失うかもしれません」

     水原が言った。

    「でしょうね」

     馬場は苦く笑った。

    「でも、今度くらいは、自分の台本で喋ります」

     許します、とは言えなかった。責めます、とも言えなかった。許しは私一人のものではない。黒木のものでもあり、理沙のものでもあり、殺された家族のものでもある。

     だから私は坂下に言った。

    「証言してください」

     遠くでサイレンの音が聞こえた。山道を登ってくる複数の車両。赤色灯の光が、書斎の窓の外をかすかに染めた。

     警察が来た。

     水原が前に出た。

    「元警視庁捜査一課の水原です。中で一名が死亡しています。現場は保存しています。書斎に二十五年前の榊原一家殺害事件に関する証拠があります」

     夜明け近く、私たちは館の外へ出された。山の空気は冷たかった。東の空がわずかに白み始めている。古い洋館は、夜の中では巨大な口のように見えたが、朝の気配の中では、ただ疲れた建物に見えた。

     水原が私の隣に立った。

    「大丈夫ですか」

    「分かりません」

    「そうですね」

    「理沙さんは、私の姉だったんでしょうか」

    「おそらく。確定には、戸籍、保護記録、病院記録、DNA鑑定が必要です。でも、彼女はあなたを妹として守ろうとした。そのことは、録音から分かります」

     姉。

     その言葉は、私にはまだ大きすぎた。急に渡されても、どこに置けばいいのか分からない。けれど、受け取らないわけにはいかなかった。

    「私は、思い出せるでしょうか」

    「分かりません」

    「また、分かりませんですか」

    「分からないことを、分かると言うのは危険です」

     水原は少しだけ笑った。

    「それで、私は一度失敗しました」

     私は館を振り返った。あの中には、もう主催者の声はない。REED-5も、古時計も、書斎の黒い箱も、茶色い封筒も、すべて証拠品になる。

    「REED-5」

     馬場が、警察官に運び出されていく黒い装置を見ながら言った。

    「あれはやっぱり葦でしたね。王様の耳はロバの耳。穴に埋めた秘密が、風に吹かれて喋り出す」

    「この館が、その穴だったんです」

     私は言った。

    「理沙さんも、明人も、榊さんも、黒木さんも、ここに言葉を埋めた。REED-5は、それを順番に鳴らしただけです。条件が崩れれば全部を外へ吐き出す、曝露装置として」

     水原が静かにうなずいた。

    「秘密は、埋めれば消えるわけではない。いつか、別のものの口から出てくる」

     馬場は苦く笑った。

    「では、AIではなく、葦の方が正しかったわけだ」

     機械は、誰の心も読んでいなかった。ただ、私たちが聞かなかった言葉を、逃げられない順番で届けていただけだった。亡者たちはREED-5を通じて、生き残った私たちを自分が黙った場所、自分が変えた言葉、自分が数えなかった一人の前へ引き戻した。

     けれど、最後に証言するのはREED-5ではない。

     生き残った私たちだった。

     それでも、館はまだ何かを抱えているように見えた。

     二十五年間、嘘を保存していた館。そして今夜、ようやく嘘を手放した館。

     私は小さく呟いた。

    「黒木さんは、逃げていない」

     水原が隣でうなずいた。

    「ええ」

    「逃げていたのは」

    「生き残った私たちです」

     その言葉は厳しかった。けれど、正しかった。

     警察車両へ向かう途中、私は水原に訊いた。

    「理沙さんの録音、もう一度聞けるでしょうか」

    「証拠品になります。すぐには難しいかもしれません。でも、いずれ聞けます。その時は、一人で聞かない方がいい」

    「一緒に聞いてくれますか」

    「もちろん」

     御堂清文は、三年前に死んでいた。死因は心疾患による発作。事件性はないと処理されていた。だから彼が法廷に立つことは、もうなかった。

     けれど、久瀬明人の録音と榊修一の手記、理沙さんの記録が公表されると、御堂の名は死後に崩れた。判決は出なかった。

     それでも、町にあった御堂記念会館の看板は外され、御堂奨学金は別の名前に変わった。彼を最後まで名士と呼ぶ人もいた。晩節どころか、死後にまで汚名を残した老人と呼ぶ人もいた。どちらにせよ、御堂という名前は、もう以前と同じ意味では使われなくなった。

     車に乗る直前、朝日が山の端から昇った。光が、館の黒い窓を一つずつ明るくしていく。

     私はその光を見ながら、心の中で、まだ顔を思い出せない姉に向かって言った。

     届きました。

     あなたの伝言は、届きました。

     そして今度は、私が伝えます。

     車のドアが閉まる。エンジンがかかる。館が少しずつ遠ざかる。

     私は窓の外を見ていた。

     榊修一は、私を守った。

     そして、おそらく母も。

     私の記憶の中の母、榊和枝は、私が幼い頃に亡くなった。だから私は、母に自分の出生を尋ねたことがない。尋ねる前に、母はいなくなってしまった。

     けれど今なら分かる。母もまた、知っていたのだろう。父一人で、幼い私を榊家の娘として育てることはできなかったはずだ。学校の書類、近所づきあい、親戚への説明、私が熱を出した夜、誕生日の写真。そこには母の手もあった。

     父と母は、私を守った。そのことは疑えなかった。二人がいなければ、私は榊原真理として、二十五年前の事件の中に引き戻されていたかもしれない。あるいは、理沙さんが恐れた通り、口封じの対象になっていたかもしれない。けれど、二人は同時に、私から名前を隠した。姉のことも、黒木さんのことも、私が本当は誰だったのかも。感謝と怒りは、同じ場所に並んでいた。どちらかを選べば楽になるのだろうが、私はまだ選べなかった。父と母が私を救ったことと、父と母が真実を遠ざけたことは、同じ一つの沈黙だったからだ。

     真野真理子。

     榊真理子。

     榊原真理。

     どれが本当の名前なのか、まだ分からない。

     けれど、もう一つだけ分かっていることがある。

     名前は、誰かに奪われるものではない。

     誰かから伝えられ、受け取り直すものだ。

     私は目を閉じた。

     遠くで、古時計の音が聞こえた気がした。

     ぼおん。

     それは終わりの音ではなかった。

     最後の伝言が、次の朝へ渡る音だった。

    完 

    #創作大賞2026
    #ミステリー小説部門

     
     
     
    生成AIは間違いを犯すことがあります。重要な情報は独自での確認をお考えください。 基本、生成AIに聞いてみるというスタンスで、四方山話ですし、結構AIはいい加減です。 ただ、人間の専門家に聞いても、同じように間違うかもしれないし。嘘をつくかもしれません。

    あなたへのおすすめ