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「国民総育休」のススメ 〜少子化問題が問いかける「命か経済か」〜

    【プロローグ】とある夜の夫婦の会話

    夜。

    ようやく子どもたちが寝静まって、久しぶりにダイニングテーブルの席に夫婦がそろった。お迎えから夕ご飯、お風呂に歯磨き、寝かしつけ。この怒濤のルーチンの間に夫婦2人だけで同時に席にゆっくり座るタイミングなど存在しない。

    「子ども、もう一人どうだろう」

    下の子も保育園通いに慣れてきたこの頃、どちらからともなく、その話題になる。
    まだまだやんちゃな二人に手を焼いているばかりだが、自分たちの年齢を考えるとそろそろこの話をしないわけにもいかない。

    「子どもはかわいいし欲しいとは思うけど……」

    これもどちらの口から出たセリフか分からない。
    言葉尻を濁らせた先には二人とも同じ悩みを見ているからだ。

    そう、お金のことだ。

    子ども1人育てるのに2000万円はかかると言われる世の中。うちの家計にその余力があるのかという問いが脳裏をよぎってしまう。

    「また子どもの発熱対応で休みがちになったり、このまま時短のままじゃ、キャリアアップも見込めない。それはつまり昇給が難しくなるってことで。子どもたちの今後の教育費も考えるとこれ以上仕事を抑えるのは厳しいなって感じる」

    部屋を見渡してみる。
    2LDKの賃貸マンション住まい。
    子どもたちにせがまれて買った人形やぬいぐるみがしまいきれず、おもちゃ箱からあふれ出してリビングを侵略している。子どもたちが大きくなった時のことを思うと明らかに手狭だ。

    「また物件を少し探してみたけど、今の家よりちょっと広くして部屋を増やそうとしたら、もう信じられない値段で」

    そうなのだ。目下の住宅費高騰で、子どもたちに個室を与えられる広さの家など、それこそ2人ともが精を出して働いて稼ぎを良くしていかなければ到底買えるものではない。しかも、その必要額は子どもの人数に比例して増えていく。

    スマホに目を落とすと、家計簿アプリが「今月は支出が多いようです」と冷たい現実を告げている。

    「やっぱり難しいかなあ」
    「そうかも」

    2人ともはっきりとした結論を言うことはない。その結論を確定してしまうことにためらいがあるのだ。

    しかし、こうして「難しいかなあ」と言い続けているうちに、それはいずれ事実として確定することになるだろう。

    うちに3人目の子どもは訪れない。

    家計簿アプリを閉じる。こんな現実的な話をした後では夫婦でロマンチックなムードになることもない。

    「さ、明日も仕事で早いし、もう寝よう」

    夫婦は席を立つ。
    新婚時に2人で購入したオシャレなダイニングライトは、2人の温度をさほど温めることもないうちに夜の眠りについた。




    唐突な小話での開幕、申し訳ありません。
    目下2人の子どもを育て中の江草自身も似た会話の経験があり、その経験をもとにした創作小話です。

    これはあくまでフィクションですが、こうした光景は多くの子育て世代のご家庭で現実に繰り広げられているのではないでしょうか。

    皆さんに問いかけたいのは、この「夫婦の会話」の正体は何だろうか、ということです。この夫婦の悩みの根っこには何があるのか。

    今回の記事はこのことを深掘りしていく内容となります。

    結論から言えば、この夫婦は「命か経済か」の問いに直面していると見ることができます。

    そして、この問いは各家庭内だけでなく、社会全体に及ぶ巨大な問い「少子化問題」となって私たちを覆っています。

    加えて、もっと奥の結論まで先出ししてしまうと、この「少子化問題」に対して江草が今回ご提案するのが「国民総育休」という考え方になります。

    現時点では、何のこっちゃと思われるでしょう。
    順に説明していきますから、お付き合い願います。


    コロナ禍が突きつけた「命か経済か」

    まずはキーワードとなる「命か経済か」について。

    ご記憶の方も多いのではないでしょうか。これは、コロナ禍で感染拡大抑制と経済活動維持の間で社会が揺れている時に登場したフレーズです。

    当時の記事を見てみましょう。

    こうして世界は、新型コロナウイルスの感染拡大を抑えることと、経済の収縮を回避するという二つの課題に直面することとなった。そして、やっかいなことに、この二つの課題は同時に達成することが難しい。というよりは、相反する課題だ。感染を抑える最も有効な手段が、人の移動を抑えて、経済活動を止めてしまうことだからだ。

    コラム:人の命か経済か、新型コロナ対策で迫られる選択=鈴木明彦氏(ロイター、2020年4月3日)

    このように、鈴木氏のようなエコノミストが真顔で論じなくてはならないぐらい、「命か経済か」のジレンマは現実の深刻な問題として提起されていたわけです。

    江草は医師として公衆衛生大学院で医療経済学を修めた身です。命と経済性の適切なバランスを考察するこの学問のジレンマが、突然世界レベルの喫緊の課題として突きつけられたのですから、コロナ禍は衝撃的な事態でした。


    では、結局、コロナ禍において私たちの社会が取った選択はどうだったか。

    そう、緊急事態宣言を出すなどして、感染拡大抑制のため経済活動自粛の方向性に舵を切ったのです。「命か経済か」という問いにおいて「命」を取ったとも見える選択です。

    しかし、実のところはそう単純な話でもありません。

    確かに短期的には人々に経済活動を自粛してもらうことになりました。しかし、代わりに政府は休業補償などで、経済主体が廃業や倒産に追い込まれないように支援をしていたのです。

    短期的な経済活動は残念ながら諦めるけれど、いずれコロナ禍が落ち着いた時に経済が再興できるように、という中長期的な目線がここにはあります。

    また、感染拡大を放置して人々が軒並み倒れれば、それこそ経済を損なうという見方もされました(※1)。短期的に経済活動維持を取りに行くことが、かえって中長期的な経済を失うことになりうるわけです。

    つまり、短期的な経済活動維持は断念しつつも、そうした長い目線を持って「命と(中長期的な)経済」を取りに行った。それがコロナ禍で私たちの社会が選んだ決断なのでした。


    ※1 木内登英「100年前のスペイン風邪の経験に学ぶ新型コロナ対策と日本の出口戦略」(2020年05月01日)


    人々が密かに迫られている「命か経済か」の選択

    さて、この「命か経済か」という問いですが、コロナ禍とは別の文脈で、今なお密かに人々に突きつけられている領域があります。

    それが冒頭の「夫婦の会話」で取りあげた「子どもを持つかどうか」の判断の場面です。

    子どもをもう一人欲しいと思いつつ、育児費用や住宅費の負担増、キャリア(収入)への負の影響を鑑みて大いに悩む姿。新たに子どもが産まれるかどうかはまさしく「命」の問題ですし、仕事という経済活動の維持や家計の収支を考えることは「経済」の問題に他なりません。

    つまり、「子どもが欲しいけどお金がなあ……」という悩みは、各家庭が突きつけられている「命か経済か」という問いと言えます。

    実際、理想の子ども数を持てない理由の筆頭が「経済的理由」であることはよく知られています。

    理想のこども数を持たない理由としては、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」という経済的理由が 52.6%で最も高く、特に第3子以降を持ちたいという希望の実現の大きな阻害要因となっている。

    「こども未来戦略」(2023年12月22日閣議決定)

    このことは、冒頭の「夫婦の会話」が多くの家庭で発生していると考える根拠でもあります。子どもをもう一人産むかどうか。この判断に経済的理由が色濃く影響しているわけです。

    さらに言えば、(子どもを持つことを前提とした)結婚に至らないことにも経済的理由が強くあることも指摘されています。

    日本社会では、たとえ愛があっても、子どもが好きでも、経済的条件が整わなければ、結婚や出産に踏み切らない人が多数派なのだ。

    山田昌弘『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』(光文社新書)

    現代の若者は、子どもにかかる膨大な教育費を視野に入れたうえで結婚や出産を考えており、中には「子どもにつらい思いをさせたくない」という理由で「奨学金返済がある相手とは結婚しない」とまで考えている人もいます。

    末冨芳・桜井啓太『子育て罰』(光文社新書)

    このように現実の判断の多くが、「経済的な事情を前に、望んでいたはずの命(子を持つこと)をそっと棚上げする」という結果に結実している。

    これは事実上「命か経済か」という問いで「経済」が優位に選ばれていることを意味します。


    「命も経済も」と答える社会の姿勢

    人々の判断の天秤が「経済」に傾くことが優勢であるならば、自ずと社会には少子化がもたらされます。

    つまり、各家庭に突きつけられている「命か経済か」の問いが集まって、大きく社会問題化したのが少子化問題なのです。

    では、この巨大な「命か経済か」問題に私たちの社会はどう対応しているでしょうか。

    政府ももちろん少子化問題を「静かな有事」と呼び、重要課題として掲げるなど、手をこまねいているわけではありません。

    ただ、その実際の姿勢を見てみると、どうも気になる点があります。

    たとえばこちらは内閣府の資料からの引用です。

    今後、人口減少が加速する下でも、長期的に経済成長を遂げるには、生産性の向上、労働参加の拡大、出生率の上昇等による供給力の強化と、成長と分配の好循環の実現が必要。

    「中長期的に持続可能な経済社会の検討に向けて②」(内閣府、2024年4月2日)

    確かに、「出生率上昇」という直接的な少子化対策目標を提示してはいますが、それと同時に、(労働)人口減少に伴う経済縮小を避けるべく「生産性の向上」「労働参加の拡大」の二点も掲げているんですね。

    こうした人口減少社会で経済規模を維持するための備えとして、生産性向上などの経済基盤強化の必要性を訴える声は、政府に限らずよく見られるものです。

     人口が現在の約1・2億人から3000万人に減少したときに現在のGDP規模( ≒社会機能)を維持するには、単純に考えれば現在の4倍の労働生産性が必要になる。

    河田皓史『働く人が減っていく国でこれから起きること』(朝日新書)

    つまり、この社会が少子化問題に向き合う姿勢には、命(出生率上昇)とともに、経済(生産性向上、労働参加率上昇)も維持しようという両取り(全部取り)の目論見が見受けられるわけです。「命か経済か」の問いに「命も経済もだ!」と答えている堂々たる姿勢とも言えるかもしれません。

    もちろん、それが可能であればそれにこしたことはありません。
    しかし、それは本当に可能なのでしょうか。


    生産性向上と「子を持つ希望」のコンフリクト

    まず、生産性向上の点から吟味してみましょう。

    生産性とは、雑に言ってしまえば「人が同じ時間当たりどれだけ稼げるか」を指す指標です。

    ところが、出産と育児はその点で言えば大変分が悪いのです。出産も家庭内育児も「稼ぎはゼロ」すなわち「(経済的観点からは)生産性がゼロ」の活動ですから。社会的に生産性向上を図るのであれば、この事実が大きな難題としてのしかかります。

    出生率上昇とともに生産性向上を主張する方々の考えとしては「生産性を上げて、それで生まれた余裕の中で出産や育児をすればいい」という狙いなのだろうとは思います。確かに自然な発想だと思います。

    ここは誤解しないでいただきたいのですが、生産性が上がること自体は確かに人口減少社会を支えうることですから、生産性向上の価値を否定的に見ているわけではありません。生産性が上がること自体は良いことなのです。

    ただ、問題になるのは「生産性向上を促そうとする姿勢」の方なんですね。逆説的ですが、生産性向上自体に意義があっても、だからといって生産性向上を促そうとすると齟齬が出てきちゃうのです。

    実際、生産性向上を意識的に促そうとする時、効率良く稼げる結果を出した人に金銭や名誉を与えてインセンティブをつけることになるはずです。(それ以外にどうやって促すことができるでしょうか?)

    すなわち、生産性向上を促そうとする社会ないし組織では、「稼げる者」が優遇されるインセンティブが付くわけですから、個々人にとって出産や育児などせずに「稼げる仕事」を最大限続けることが合理的となります。

    これでは「子どもを産むかどうか」という「命か経済か」ジレンマにおいて「経済」が偏って選ばれる現状から抜け出せていません。

    さらに言えば、仕事として育児に関わる保育や教育の業界も、一般に「生産性が低い業界」なんですよね(そうした仕事に「価値がない」のではなく「金銭を効率よく稼げない」という意味です)。「人が人と向き合う時間」が本体の労働集約的業務であるという構造的理由から、どうしても相対的に低生産性体質になるのです。

    今後、出生率が上昇して子どもが増える社会を想定するのであれば、当然こうした業界も拡大せざるを得ないはずです。人口減少社会において「社会機能を維持する」には、むしろこうした生産性が高くなりがたい業界や職種へのシフト、すなわちエッセンシャルワーカーへのシフトが求められるはずです。

    しかし、「生産性が高い者を優遇する社会」で、生産性の観点から不利なこれらの業種が果たして選ばれる仕事になるでしょうか。


    労働参加率上昇と「子を持つ希望」のコンフリクト

    そして、もう一つ経済規模維持のために掲げられているのが「労働参加率上昇」です。

    これは「(労働)人口減少の状況で経済を回すためには、できるだけ多くの人に労働に参加してもらう他ない」という、これまた確かに自然な発想ではあります。

    労働参加率という指標自体は「働いている者、働こうとしている者の割合」なので、厳密には労働時間の長さは不問です。ただ、これが「人口減少社会への備え」の文脈で言われるのであれば、そこに「各自できるだけ長い時間働いてもらうのが望ましい」という目線が加わります。その方が経済維持につながるからです。

    つまり、この視点での労働参加率上昇の促進は、「働いている者」それも「長く働いている者」を優遇する環境を目指すことになるでしょう。

    この意味で最も分が悪いのは何でしょう。そう、お察しの通り、またしても出産と家庭内育児です。これらは「労働(経済活動)」ではないので、労働参加率上昇を目指す社会では自然と立場が悪くなるんですね。

    なので、「できるだけみな働きましょう」という方針を掲げる社会では、「子どもを預けて、できるだけ長く働きましょう」という力が働きます。たとえ子どもを産んでも、子どもと触れあう時間より仕事の時間の方が優先されやすくなるのです。

    「子どもと関わるよりも仕事をたくさんすることの方が社会的に望まれている」という条件の下で、人は子どもを持とうと思えるでしょうか。当然、子どもを持つことへの負のインセンティブになるのです。

    これでは、やはり「命か経済か」ジレンマにおいて「経済」が偏って選ばれる現状から抜け出せていません。

    なお、労働参加率上昇には高齢者世代にもっと働いてもらおうという観点もありますが、じいじやばあばが家庭での孫育てに関わっている家庭も少なくない中で、これも結局同様の育児冷遇につながりうるでしょう。しかも、既に日本の高齢者世代の労働参加率は世界トップレベルです(※2)。

    ※2 高齢者就業率は世界有数の日本。課題は低賃金、男女格差など雇用の「質」- リクルートワークス研究所(2025年05月12日)


    社会的「木こりのジレンマ」

    ときに、「木こりのジレンマ」という有名な寓話があります。

    刃こぼれしている斧で木を切ろうとしている木こりがいました。

    切れ味が悪いので、一本の木を切るにも何度も何度も力いっぱい斧を振りつづけなくてはなりません。そんな無理をすれば余計に刃こぼれも悪化していきます。

    悪戦苦闘している木こりの姿を見かねた通行人が「木を切るのを休んで斧を研いだらいかがですか」と尋ねます。

    すると、木こりはこう答えるのです。

    「木を切るのに忙しくて斧を研いでる暇なんてないんだよ!」

    休まず作業を続けるせいで余計に事態が悪化する、非合理的な判断を皮肉った寓話です。

    しかし、今の少子化対策を見ていると、この「木こりのジレンマ」が頭に浮かんできちゃうんですよね。

    子どもが生まれないという少子化問題があって、それに伴って人口減少が起きている。それに対して「もっと多く働いて(労働参加率上昇)、もっと稼いで(生産性向上)、経済を維持しましょう」というメッセージを放っているのが現行の少子化対策の姿勢です。

    しかし、見てきた通り、その姿勢が「命(出生)か経済か」の選択で人々が「経済」を選ぶことを助長してしまっている。そうすると、余計に子どもが生まれなくなって、人口減の問題も悪化するわけです。

    作業を休む判断ができずに事態を悪化させる木こりの姿と、重なるではありませんか。

    しかも、少子化問題の場合は「斧を研げばいい」だけでは済みません。木こり自身が生まれてこなくなっているのですから。

    とすると、出生率上昇と生産性向上と労働参加率上昇を「全部取り」しようとする現行の姿勢は、「みんなで斧を最大時間振りながら、同時に斧を研ぎつつ、木こりを産み育てよう!」と言っているようなものになります。

    可能であればもちろんすごいですが、およそ現実的な注文とは言えないでしょう。

    こうした無理筋の注文が大真面目に掲げられるのは、野心的な「両取り」の発想というよりもむしろ、そもそも少子化問題に「命か経済か」の問いが潜んでいること自体が見過ごされているからではないでしょうか。

    そこにジレンマがあることに気づいていないからこそ、無意識のうちに、ただただ休まずひたすら木を切り続ける木こりのような社会になってしまっているのです。


    「国民総育休」のススメ

    では、どうしたらいいのでしょう。

    ここでヒントになるのが育児休業制度(育休)です。

    ご存知の通り、育休は育児のために仕事を休むことができ、期間中は給付金を受け取れる制度です。最近では少子化対策の核の一つとして、国を挙げて育休取得増が推進されています。

    江草自身、男性医師としては珍しいくらい長期間の育休を取得した身です。仕事をしていないので「(経済)生産性」で言えば人生最低の期間だったでしょうが、経験としては人生最高の期間の一つでした。育休取得を可能にしてくれた職場と国に感謝しています。


    さて、育休制度の本質とは何でしょうか。

    それは、短期的に業務(経済活動)を休んだ上で、その分のマンパワーを育児(命)に振り向ける仕組みということです。給付金という所得保障をセットにして、「命のためなら堂々と経済活動を休んでいい」と社会が公認している。

    そう、育休とは「命か経済か」の問いにおいて、まず「命」を選ぶ姿勢を明確にしている、非常に特異な制度なのです。

    このことを踏まえて、満を持して提唱したいのが「国民総育休」という考え方です。

    もちろん、これは文字通りに「現行の育休制度をそのまま全国民が利用しよう」という話ではありません。国民と言っても、ちょうど子どもを持つタイミングの方ばかり、子どもを欲しいと思う方ばかりではありませんからね。つまり、「国民総育休」とは「制度」の話ではなく、社会の重心をどこに置くかというあくまで「姿勢」の話です。

    すなわち、社会全体でしばらく「生産性向上や労働参加率上昇を目指そう」などという経済思考をあえて控えて、出産や育児に注力しようという発想です。

    なので、結婚していない方も、自身で子どもを持つことを希望しない方も、既に高齢の方でも、子どもの相手が正直苦手な方でも、誰であっても、出生や育児を直接ないし間接的に支える仕事や活動をしたり、なんならそうした目線を持つだけで「国民総育休」に参加できます。むしろ皆がそうして参加することを目指すものです。

    また、これは経済活動を全て止めようという話でもありません。育休制度に、育休中も少し働ける「半育休」が認められているのと同様に、「国民総育休」中であっても経済活動は続けられますし、続きます。だから、正確な実態としては「国民総半育休」と言うべきかもしれません。

    ただし、労働時間が短くなる他ない「半育休」と同様に、経済規模がこれまでより縮小しうることを受け入れている点で、これはまさしく「育休」の姿勢なのです。

    つまり「国民総育休」とは、すでに社会にポジティブに受け入れられてきている育休制度の精神を、一挙に社会全体へ広げ、みんなの基本姿勢として掲げようというものなんですね。


    コロナ禍を越えたからこそ見える「命も経済も」の理想

    この提案を聞いて、そんなことは出来っこない荒唐無稽な話だと感じられる方は多いかもしれません。

    ですが、そんなことはないのです。

    なぜなら、私たちは実際に先のコロナ禍で、短期的な経済活動維持を諦めて命を優先する決断ができたのですから。

    休業補償という所得保障をセットにして、短期の経済活動をあえて抑え、その代わりに命と中長期的な経済再興に賭ける。「国民総育休」の「一旦仕事を休もう」という構図は、コロナ禍で私たちの社会が現にやってのけた、あの決断と同じ型をしています。

    もちろん、コロナ禍当時の経済活動自粛の判断が妥当であったかは、今なお賛否が分かれていますし、江草も否定的な意見の存在は尊重します。

    ただ、ここでコロナ禍から教訓として借りているのは、あくまでその具体的政策判断の正しさではなく、「私たちの社会は短期的な経済を脇に置いて命を優先する決断ができた」という事実の方です。あの決断に批判的な方であっても、社会にその決断をする能力があった事実自体は否定できないでしょう。

    だから、少子化問題に対しても「命(出生)のために経済を一旦脇に置く」という「国民総育休」の選択肢は十分にありえる話なのです。決して「出来っこない荒唐無稽な話」ではありません。


    また、ここで、現行の「全部取り」姿勢と「国民総育休」を並べてみましょう。どちらも「命も経済も」を謳っている点では同じに見えて、その中身は明暗が分かれています。

    現行の姿勢は、生産性や労働参加率、すなわち目先の経済規模の維持を諦めていない態度です。しかし、見てきた通り、この態度は出生率上昇をかえって阻害するものになりかねません。

    確かに生産性向上に注力することで経済規模自体は維持されるのかもしれません。ですが、それは機械化や自動化が著しく進んで街に人がいなくなった形での経済の姿でしょう。

    コロナ禍で緊急事態宣言が出て、街に人がいなくなったあの頃の記憶を思い出してください。「人がいなくなる」とは究極、そうした賑わいが失われる状態を意味するのです。

    つまり、現行の姿勢は一見「命も経済も」を思わせる勇ましい姿でありながら、「命も、人の賑わい的なイメージでの経済も」失う恐れがある。言ってしまえば、将来の人口を食べながら「数字上の経済」を維持しているようなものです。

    他方で、「国民総育休」は確かに当面の経済活動の現状維持を断念します。しかし、その代わりに「命(出生)も(長期的な)経済も」守ることを目指す。コロナ禍で私たちが取ったのと同じ型の「命も経済も」です。

    そう、今回の「国民総育休」の話には、コロナ禍とは決定的な違いがあります。あちらは疫病をやり過ごすための、外出も控える後ろ向きの「我慢の休業」でした。

    対してこちらは、新しく子どもを社会に迎え入れるための前向きな「希望の休業」です。外出が禁止になるわけでもなく、むしろ若い命が増えることで街はより賑やかになる可能性すらあります。

    選べるのであれば、そんな明るく賑やかな方向の「命も経済も」が良いのではないでしょうか。


    少子化問題という「静かな有事」を可視化する

    もっとも、この決断が容易なものではないことは重々承知しています。コロナ禍での判断ですら社会的影響はすさまじいものでしたし、「国民総育休」はコロナ禍以上に長期的な体制を必要とする可能性があります。

    経済活動自体は必要なものであるからこそ、それをあえて控える決断は難しいのです。ハードワーカーの木こりがついつい木を切るのをやめられなかったように、そこには今までのやり方や考え方を一気に転換する勇気と覚悟が要ります。

    しかし、難しいからといって、そうしなくていいということにはならないでしょう。政府が「静かな有事」と言う通り、少子化問題はもはや有事なのです。有事とは「対応が難しい」からこそ有事と言うのではありませんか?

    もちろん、この決断に気が進まないという感覚は、とても自然なものだと思います。江草自身、ずっとこの問題を考えながら「本当にそこまでやらねばならないのか」と何度も自問しました。繰り返すように「全部取り」が可能であるならそれにこしたことはないのです。

    ただ、現状の経済活動規模も維持しつつ、なんなら経済成長や生産性向上も続いた上で、出生率もうまいこと上がって欲しい——そんな「全部取り」の淡い期待の中に留まり続けるうちに、私たちは判断を先送りして、いつの間にか「今の事態が有事である」という現実そのものを視界の外に置いてしまってはいないでしょうか。

    コロナ禍が有事と認識されたのは、目の前で実際に人が倒れたからでした。志村けんさんの悲報の衝撃は、多くの人にとって今も生々しい記憶でありましょう。「今生きて動いている人々が倒れること」は目に見えるのです。

    しかし、「まだこの世にいない人々が生まれてこないこと」は、誰の目にも映りません。それゆえ、この有事は恐ろしく「静かで、見えない」のです。

    ところで、江草の本業である放射線科医は身体に隠された病気を見つけ、診断する仕事です。
    自分の身に病が潜んでいることを知るのはとてもつらいことです。何か大変な病気が見つかることを恐れて検査を避ける方も少なくありません。
    しかし、見て見ぬ振りをしたところでそこに病気が潜んでいる事実が変わるわけではありませんし、そうしているうちに余計に病は進行しうるのです。
    つまり、江草の仕事はつらい事実をあえて可視化して指摘することだと言えます。

    だからこそ、必要なのは「この見えない有事を見えるようにする言葉」なのだと考えました。静かな有事は、誰かが騒がしく語らなければ、静かなまま進行してしまいます。「国民総育休」などという一見突飛な言葉をわざわざ拵えたのも、実はそのためです。本稿自体が、見えない有事に輪郭を与え、可視化しようとする、江草なりの一つの試みなのです。

    この静かな有事を有事と認識できるか。ジレンマから目をそらさずに、現実的な対応と決断を選び取れるか。これは誰か特定の人が突きつけられている問いではありません。江草自身を含め、この社会に生きる私たち皆が、これから一緒に受け止めていく問いなのだと思います。


    みんなで築く「国民総育休」

    とはいえ、「国民総育休」という概念が抽象的過ぎて具体的にどうすればいいのと思われている方が多いかもしれません。

    ですが、江草はあえて逆に皆さんに尋ねたいと思います。

    「国民総育休として具体的にどうしたらいいと思いますか?」と。

    丸投げっぽくて申し訳ありません。

    でも、「国民総」などと銘打っているのですから、むしろ江草がアレはこうで、コレはこうしましょうなどと隅々まで具体的に指示する方がおかしいのではないでしょうか。

    「国民総育休」はあくまでみんなで築くものであって、江草が築くものではありません。そうでないと「国民総」ではないでしょう。

    先に「皆が一緒に受け止めていく問い」と表現しましたが、これは文字通りの意味になります。

    つまり、「今こそ皆さんの力と知恵が必要だ」とお願い申し上げているのです。

    少子化問題は、江草1人では手に余る巨大な有事だからこそ、みんなで力を合わせないと乗り越えられないということなんです。

    江草は、まず江草自身ができる仕事をしました。

    診断屋の矜持として、医療(命)と経済のバランスの悩ましさを学んだ身として、子育てに日々奔走している1人の父親として、この度、少子化問題が秘める「命か経済か」の問い(社会の病)を可視化させていただきました。

    これを「診断」しかしていない、「具体的な処方」はしていないと言われれば、その通りです。

    でも、「国民総育休」という姿勢が1つ掲げられるだけでも、皆さんが「そのためにどうしたらいいか」という具体的行動のヒントになるはずです。

    旗印が変われば自ずと判断と行動は変わります。

    そして、その問いを誰もが自分のものにすることができると江草は信じています。

    たとえば、政策分野で言えば、給付金を充実しようとすると必然的に議論になるであろう財源の問題は、諸富徹『税と社会保障: 少子化対策の財源はどうあるべきか』(平凡社新書)で少子化対策財源の具体的提案がなされています。

    また、ビジネス分野で言えば、株式会社COTENの深井龍之介氏が、短期的利益ばかり追い求めて中長期的合理性をないがしろにしているビジネス界の姿勢に警鐘を鳴らされています。(※3)

    個々人レベルで言えば、品川皓亮『資本主義と、生きていく。』(大和書房)では、ついお金や仕事に追われ効率や成長のことばかり考えてしまう感覚と、1人1人がどのように向き合っていくべきかを考察されています。

    どれもあくまで「国民総育休」を意識されたものではないですが、しかし、それぞれこの「国民総育休」の視点から見るとヒントが多く、具体的な行動につながるものと思います。

    こうした議論が各所、各分野、各自で盛り上がることによって、「国民総育休」の旗印にも具体的肉付けがされてくるはずです。

    だから、皆さんも皆さん1人1人の視点と専門性を活用して、「具体的に何ができるか」をそれぞれでぜひ考えていただきたいのです。

    日々の決断にあって「あ、これは命か経済かの問いにつながってるな」と気づいたり、「これは子どもが生まれやすく育てやすい社会に資する事業だろうか」と問い直したり、そうした視点が頭の中で生まれるだけでも、皆の個々の具体的判断と行動が変わっていく。

    この視点——「国民総育休」というレンズ——を持ち帰っていただくことが本稿が提供したい価値なのです。


    ※3 YouTube 「【深井龍之介×野村高文】資本主義の盲点/人文知と中長期合理性/最近のストレスについて/深井さんは幸福なのか」 -Podcast Studio Chronicle


    【エピローグ】とある2つの光景

    先日、親戚の家を訪れる用事のついでに、とあるニュータウンを散策したことがあります。

    子どもをベビーカーに乗せながら中心部にある商業施設を歩いていると、違和感に襲われました。子連れのお客さんの姿が、恐ろしいほど自分たちしかいないのです。子どもの姿が見えないどころか、ほとんどの客が髪の毛が灰色となった高齢者の方々でした。

    それもそのはずで、このニュータウンは「街全体が老人ホーム」と皮肉る声もあるぐらい、深刻な少子高齢化に悩まされている街なのです。

    店舗を少し離れて道を歩けば、ほとんど人に遭遇しない。家が密集してないわけでもないのに、街に人が居ないのです。

    かつて多くの人で賑わっていたはずの街が、人が新たに生まれないというだけで、ここまで寂しくなってしまう。それを肌で感じた経験でした。

    たとえ一時的にその地の経済活動が盛んで、人が溢れて見えていたとしても、そこに人が生まれ続けてこそ、中長期的な賑わいは維持できる。短期的な経済活動の維持に固執する日本にとって、各地で見られる衰退ニュータウンの光景は未来の縮図に思えてなりません。

    そこで最後に、それと対照的な「国民総育休」の光景を創作で描き出して、本稿の締めとさせていただこうと思います。




    とある昼下がり。

    公園で遊ぶ我が子を見守る夫婦の姿がある。子育て中の親がフルタイムに満たない時間で勤務することに寛容な空気が社会に広がり、早く仕事が上がれるようになった結果、まだ明るい時間帯に、しかも平日に子どもとこうして公園で遊ぶことができるようになった。

    子育ての基本的な費用が賄えるぐらいの給付金もあるので、もっと仕事にコミットして収入を上げなければという焦りからも解放されている。高給の職を求めて職場へのアクセス最優先で家を構える必要も薄れ、郊外だけれど広さに余裕のある家に住めている。「国民総育休」の姿勢が広まる前の社会では、ついキャリアやお金のことが気になって子どもと過ごす時間を楽しめない親も少なくなかったらしい。

    育児当事者でない方の働き方も、少しずつ変わってきたという。聞いた話では、とある職員が、子どもたちの遊ぶ公園を整備するプロジェクトに関わるようになってから、以前より表情が明るくなったのだとか。ノルマや書類仕事に追われて、仕事の話になるたびため息をついていた人が、最近は自分の関わった公園の様子を嬉しそうに話すらしい。「何のための仕事か」が見えるだけで、働く人の顔つきは少し変わるのかもしれない。

    もちろん日々の子どもの対応は大変だ。やんちゃ盛りの子どもたちには手を焼いているし、毎日、想定を超えるトラブルが襲ってくる。しかし、仕事やお金の不安が和らいだおかげで、ありがたいことに育児に集中して取り組めるようになっている。育児自体、やりがい、いや育てがいのある立派な仕事の1つなのだと思う。

    太陽が明るい。
    子どもたちの笑い声がする。
    そして、愛する人が隣にいる。

    平和とはこういう光景を言うのだろう。

    そんな穏やかな雰囲気の中、どちらともなくふとつぶやく。

    「子ども、もう一人どうかな?」




    #創作大賞2026
    #ビジネス部門

     
     
    仕事、子育て、少子化、社会保障、医療などについて考え、書いています。プロジェクト「LIFEWORK WORKS」で、「人が自分の人生をより自由に選べる社会」を目指す「ライフリベラリズム」を構想中。医師/MPH。本好き、子どもラブ。Amazonアソシエイト参加中。

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