
母がドイツに行ったので、私は“うまくいかなかった一年”を思い出す
人生でいちばん孤独だった一年
今思い出しても、あれは人生でいちばん孤独な一年だったと思う。
2021年2月、私は2か月の子どもを連れてドイツへ向かった。
初めての出産はコロナ禍の真っただ中だった。立ち会いも面会も禁止。
出産も入院も、一人だった。
まぁ、夫は日本にさえいなかったのだけれど。
1週間、1ヶ月でぐんぐん成長する乳児期だから、1日でも早く我が子に会わせたかった。
コロナ禍でロックダウンしている冬のドイツで、夫が心を病んでしまわないかという不安もあった。
産後すぐに子のパスポートを作り、ビザの準備のため公認翻訳士にコンタクトを取り、戸籍謄本をドイツ語に翻訳してもらった。
何もかも手探りで、コロナ禍のイレギュラーさも相まって、本当にこれで入国できるのか不安しかなかった。それでもやるしかなかった。
スーツケース一つだけを持って、飛行機に乗った。
産後2ヶ月で、私はドイツへ向かった。
あのとき撮影した羽田空港の写真には、人がほとんど写っていない。
後悔はない。
貴重な時間だった。
考え方も変わった。
とてもいい人生経験だった。
でも。
苦しかった。
知らない国で、母になる
苦しかった原因はたくさんある。
初めての町、初めての家。
言葉、文化、人種、気質。考え方も、電車の乗り方さえ違う。
治安がいいのかもわからず、SIMも契約していなかったので家から出ればスマホは圏外。
コロナの流行もあって、2ヶ月の子どもを抱えて家を出る勇気はとてもなく、スーパーにも散歩にも行けなかった。
心細くて泣きながら夫の帰りを待った。
渡独して、最初はAirbnbで見つけた部屋に1ヶ月住んだ。
契約している家が空くまでの繋ぎだった。
初日に、料理をしようと思って、スーパーで野菜と肉を買ってきて野菜炒めを作った。調味料もまったくなくて、それが精一杯だった。
部屋にはなぜか刃渡り5cmほどのナイフしかなくて、それでなんとか調理した。
固いキャベツ(これはドイツのWeißkohlという煮込み料理用のキャベツを間違えて購入したのを、後日知る)と、薄切りとは言えないニンジン。
できあがった野菜炒めは、お世辞にも「おいしい」とは言えなかった。
張り切ってやってきたのに、こんな料理を食べさせることしかできない自分にがっかりした。
「おいしいよ」と文句も言わずに食べてくれた夫の、あの時間は一生忘れないと思う。
毎日が小さな「わからない」の連続だった
ドイツで助けを求めようにも、ドイツ語がわからないから助けを求めることすらできない。
自分が何に困っていて、何がわからないのかも伝えられない。
それがこんなにも苦しいことだとは知らなかった。
ドイツでの暮らしは、毎日が小さな「わからない」の連続だった。
コンビニも100円ショップもない。
スーパーは20時には閉まり、日曜日はほとんどの店が営業していない。
日本なら当たり前に手に入る鶏もも肉や、薄切りの豚肉・牛肉もなかなか見つからない。
役所の手続きも電話も基本はドイツ語だ。英語ならなんとかなるだろうと思っていたけれど、そうでもなかった。
テレビをつけても、街を歩いても、聞こえてくるのは意味のわからない言葉ばかりだった。
日本の家族や友人に電話をすればよかったのかもしれない。
でも時差がある。自分が話したい時間は、日本は深夜。
そして、相手にも生活がある。
わざわざ愚痴を聞いてもらうためだけに電話をかけるのは気が引けた。
今日はこんなことがあってね、と気軽に話せる相手が近くにいない。
それが思っていた以上に苦しかった。
日本では家族がいる、友達がいる、支援センターが近くにある。
困ったら聞いてくれる人がいる、助けてくれるかもしれない人がいることは心の大きな支えなんだと気づいた。
もし子どもがもう少し大きくて歩けるくらいだったのなら、公園にでも行けたかもしれない。
でも乳児を連れて公園に行っても仕方がなかった。
日本の支援センターや児童館のような場所はなかった。
イオンモールのようなショッピングモールもなかった。
少しずつ、自分を嫌いになった
家にいることはもともと苦ではなかった。
けれど、初めての育児で、この子の発達はもしかしたら自分の育児にかかっているのかもしれないと思うと、乳児を放置して読書したり携帯をいじったりすることは躊躇われた。
そもそも兄弟や祖父母がいればまた違ったのだろうが、子どもと2人きりの空間では、子どもの矢印は常に私に向いていた。
構ってほしい、遊んでほしい、抱っこしてほしいと訴えれば、それにできるだけ応えた。
専業主婦だったから、家事が自分の仕事であって、夫を支えることが務めだと思っていた。することが当たり前。特段感謝されることでもなければ、社会で誰かの役に立っているわけでもない。
けれど、その仕事は終わりがなく、評価もない。
誰かに褒められることもなければ、「ありがとう」と言われるためにやっているわけでもない。
それでも毎日続いていく。
当時の私は、その意味を見失っていた。
孤独だった。夫が帰宅して、「いいにおい〜!」と笑ってくれるその瞬間が、一日のなかでいちばん幸せだった。
夫の奨学金のみで生計を立てていたので、生活も余裕はなかった。
日本円を切り崩せばよかったのだけれど、とにかく物を増やしたくなかった。
会社勤めの駐在員と違い、引越し費用などは全て自分達で出さなければいけず、持ち帰る費用よりも日本で新しく買った方が安いものがほとんどで、帰国時に処分することを考えると、買うのはばかばかしかった。
どうせ一年だからと、我慢した。
おもちゃも絵本も、自分や子どもの服さえも最小限で済ませた。
今思うと、あの少ないおもちゃでよくやっていたと思う。
自分の服も、ドイツのH&Mで購入した安いシャツとジーパンで、オシャレとは程遠い格好で毎日過ごした。
サラサラだった髪の毛は硬水でバサバサに乾燥した。
好きでもない服に袖を通し、硬水と産後のダブルパンチでボロボロになった肌と髪の毛。
自分のことが大嫌いだった。自己肯定感は地に落ちた。
母の声が、あの頃の私を連れてくる
帰国して、第二子を出産し、すぐに復職した。
仕事は自分を肯定してくれるものであることに気がついた。
私のアイデンティティは、私を私らしくいさせてくれたのは、「誰かに感謝されている自分」「誰かに認められている自分」だったのだと思う。
私にとって、帯同はとても辛かった日々だった。
あの経験は、帰国してからも完全には過去にならなかった。
もう終わったことだと思っていたのに、最近になって何度も思い出す。
きっかけは、母だった。
母は今、ドイツに住んでいる。
会社の海外支部で働く募集に応募し、任期は2年で赴任が決まった。
世界中いろいろな国の可能性があったはずなのに、行き先は偶然にもドイツだった。
母は英語が得意ではない。私よりも、たぶん話せない。
ドイツ語はもちろん、ほとんどわからない。
それでも彼女は、ドイツへ旅立っていった。
母が渡独して2ヶ月。
おととい、母と電話した。元気がなかった。
仕事がうまくいっていないらしい。
職場に攻撃的な人がいること、自分の仕事もうまくいかないこと、日本食が恋しいこと。
配偶者の帯同なしで赴任しているのは母くらいで、他の人は家族も同行していることが多い。
母は孤独だろうなと思う。
母がしょんぼりしているのを見ると、私も辛い。
がんばれ、とも思うし、
頑張らなくていいよ、とも思う。
どちらも、母に、そしてあのときの私にかけたい言葉だ。
あの頃の私は、「頑張らなければ」と思い込んでいた。
ついていくって決めたのは私。
だから挫けちゃいけない。
うまくやれるはず。頑張れるはず。
本当は帰りたいと思ったことも何度もあった。
でも帰れなかった。
「うまく適応できなかった」というレッテルを貼られるのが怖かったからだ。
たぶん誰よりも、そのレッテルを貼ってしまうのは自分自身だった。
そう思って、どんどん追い詰められて行った。
もう5年経つ。
けれど、あのときの日々を語ると、簡単に涙が出る。
まだ渡独したばかりの母のこれからは長い。
大丈夫だろうか。
おととい電話で聞いた母の声が、なぜだかずっと頭から離れない。