
大人を勝ち取ったわたしたちは
最近、友人のお子さまと触れ合わせてもらえる機会が重なった。
柔らかく温かいいのち。
思わず、「たくさん愛を受けて生きていくんだよ。悲しいことなんか頼むから一度も起こらないでくれ」と言う私に友人は、
「分かる。そういう気持ちになるよね」と言った。
ぱっと見かなり大人になった私は、自分のいたらなさに辟易としては、全然大人になんてなれていないと思ったりしていたけれど、私よりもずっと地球初心者の皆さんを見て、思わずいわゆる「幸せ」を願って、私が守ると名乗りをあげそうになるくらいには、やっぱり私は大人なんだと思う。
思い返してみると、子どもの頃に周りにいた大人たちの中に、「大人はいいぞ〜最高だぞ〜楽しみにしてなね」と言ってくれる人はいなかった。
それを責めるつもりは全くないけど、大人になったいま、どうしてだろう?とは思う。
端的に、「オトナはサイコー」だ。
大人も子どもも、この星に生きている以上はいろんな地獄があるけれど、それにしても大人って最高である。
100人100色の「オトナはサイコー」がある中で、30歳既婚子無し身長165cm声量小さめ歯医者苦手、の私なりの最高ポイントはこんな感じ。
まず、大切にするものの順位付けを他人に任せなくて良くなるところがサイコー。
気がつくと大人になっても、時に社会はそれを押し付け、矯正までしてこようとするけど、臆することなかれ。
それは幻覚なので見て見ぬふりで大丈夫。
大人を勝ち取った私やあなたは、今・ここ・私が大切にするものを、ちゃんと自分で決めて良い。
次に、ノーを突きつける選択肢をたくさん持っていてサイコー。
これまでたくさん傷ついてきたから、これまでたくさんのノーをイエスで飲み込んできてしまったから、ノーがどんなに大切かちゃんと分かってる。
これは私は、大人にならなければ分からなかった。
怒ることを正当に選択し、ノーを突きつけても良し。
黙ることを戦略的に選択し、ノーを突きつけても良し。
「イエスとは言いません」と理路整然と断っても良し。
私たちは、ちゃんとに自分を守れる大人になった。
最後に、こんな風に誰かに届けと思いながら、文章を書けていてサイコー。
その誰かは、生唾や言いたい事を飲み込んでばかりだった、子どもの頃の私なのかも知れないし、どこかで朝や昼や夜に飲み込まれそうなあなたかも知れない。
私が「書こう」と思うのは、決まって何かに心が動いた後で、誰かに伝えなきゃというよりは、心の中で誰かを撫でるように書き綴ることが多い。
生きるために書いている。
こうやって、感じたことを、考えたことを、文章という手段で残すことを少しずつ覚えてきた大人の私はサイコーだ。
数年後とか、数十年後とかに、大人になる子どもたちに、「大人ってなんか面白そうだな」と思ってもらえる私でありたいなんて、そんな月並みのことを思う春の終わり。
無責任に自分や他人の「幸せ」を願っても良いなんて、やっぱり「オトナはサイコー」だ。