
その我慢、俺が腹から出す 第十話「刀を、下ろす日」
第十話「刀を、下ろす日」
新宿の空は、いつもより高く見えた。
事務所に戻った零と騒を待っていたのは、見知らぬ差出人からの一通の封書だった。
「零さん、これ……」
騒が封を開ける。中には、一枚の写真と、短いメモ。
写真には、どこか知らない土地の景色。海沿いの、小さな診療所のような建物。
メモには、たった一言。
「詠美は、ここにいる。会いたければ、一人で来い。――協力者」
「協力者……?」騒が眉をひそめる。「黒腹会の人間じゃない、ってことですか」
「わからねえ。だが、罠かどうかを気にする段階は、もう終わった」
零は写真をポケットに入れた。
「一人で来い、と書いてある。だが」
「行きません、一人では」騒が即答した。「三年前、あなたは一人で抱えて、詠美さんを失いかけた。同じことを、俺の前でやらないでください」
零は、騒の顔を見た。
しばらくの沈黙。
「……わかった」
「初めてすんなり頷きましたね」
「頼るって、決めたばかりだからな」
海沿いの診療所は、思ったよりも小さく、静かな場所だった。
扉を開けると、白衣を着た女性が、机に向かって座っていた。
顔を上げた瞬間、時間が止まった。
「……詠美」
女性は、ゆっくりと立ち上がった。
「零くん。随分、老けたね」
「三年しか経ってねえ」
「三年で、その顔になるくらい、無理してたんだね」
詠美は、静かに笑った。あの写真の中の笑顔と、同じだった。
「生きてたのか」
「生きてた。黒腹会に囚われて、記憶の一部を消されて、ずっとここに"保管"されてた。最近、協力者の一人が、私を逃がしてくれたの」
「協力者って……」
「今は言えない。まだ危険だから」
零は、日記を取り出した。
「これ、読んだ」
詠美の目が、少し湿った。
「読んだんだね」
「悪かった。お前に、全部背負わせて」
「違うよ」詠美は、静かに首を振った。「私が、勝手に背負ったの。あなたのせいじゃない」
「だが」
「零くん」
詠美は、零の目をまっすぐ見た。
「私は、もう戻れない。記憶も、身体も、業虫に喰われた部分が多すぎて、元の場所には帰れない。ハラキリ屋には、もう戻れない」
零の顔が、初めて崩れた。
「そんな……」
「でも」詠美は、微笑んだ。「あなたが、ちゃんと頼れる相手を見つけたなら、それでいい」
詠美の視線が、騒に向いた。
「あなたが、隣にいる人?」
「はい」騒が、少し緊張しながら答えた。「噴田騒です。零さんの、相棒です」
「よろしく。零くんのこと、頼んだよ」
「――もちろんです」
診療所を出るとき、詠美が最後に言った。
「零くん、その刀」
「ああ」
「まだ、限界近いんだよね」
「……そうだ」
「なら、今度は、私の分も一緒に、あなたの相棒に預けなさい。一人で抱えるのは、もう禁止」
零は、小さく頷いた。
「わかった」
帰りの車内。窓の外を、夕暮れの海が流れていく。
「零さん」
「なんだ」
「詠美さん、生きてて良かったですね」
「ああ」
「刀の限界、まだ解決してませんけど」
「わかってる」
「黒腹会の"協力者"の正体も、まだ分かってませんけど」
「わかってる」
「じゃあ、まだまだ終わりませんね、俺たちの仕事」
零は、初めて、心から楽しそうに笑った。
「終わらねえよ。世界に我慢がある限り、俺たちの仕事は終わらねえ」
「良い台詞ですけど、危険手当は上げてくださいね」
「検討する」
「その返事、三年間変わってなくないですか!?」
新宿へ戻る車の中、二人の声が、いつまでも響いていた。
刀は、まだそこにある。
亀裂も、まだそこにある。
だが、それを一人で抱える男は、もう、そこにはいなかった