
観察者が生まれるまで
高校2年の秋。
朝起きると、涙が止まらない。学校へ行きたいのに、行けない。
なんとか家を出ても、教室へと向かう階段でどうしても足が止まってしまう。
やがて保健医に勧められて受診したメンタルクリニックで、うつ病と診断された。
誤診フェスティバルのはじまりである。
うつ病のはずだった
留年を経て学校にはしがみついたものの、病気には抗えず中退した。
うつ病と診断されたとはいえ、生きていくにはお金が必要だ。長期の仕事に就くとなぜか体調を崩しがちだった私は、必然的に短期アルバイトの道へふらふらと吸い寄せられていった。徹夜してもなぜか元気だし、これが夜型というやつなのだろう。給与の高い夜間バイトが増えていった。
仕事が始まると、普段の私からは思いもよらないようなパワーが出る。まるで別人のように作業をこなし、同僚とは明るくコミュニケーションを交わす。こんなに明るい人がなんでこんな薄暗い倉庫に?私もそう思う。
「泊ちゃん、助かったよ!また来て!」
「もちろんです、お疲れ様でした!」
そう挨拶を交わし、暗い倉庫を出る。昇ったばかりの朝日が目に眩しい。朝日が黄金色に見えるって本当なんだな。帰ったらたくさん寝て、ご飯を食べて、それから、
よし、死ななければ!
そうと決まったら、これまで迷惑をかけた沢山の人達へ遺書を書かないといけない。お医者さん、学校の先生、友人たち……ちょっと人数が多すぎるな。方法はどうしようか。そんな事を考えながら、早足で家路につく。
帰宅後に実行できるか考えてみるが、毎回「やっぱり駄目だなあ」と諦める。何せ、この住まいを事故物件にするわけにはいかない。人死にが出たとあれば、クリーニングしたとて資産価値は下がるし、何より遺体を発見する管理人さんや救急隊員の人が気の毒すぎる。
後になって知ったことだが、双極性障害(躁うつ病)の患者にとって、徹夜の肉体労働などタブー中のタブーだ。自ら特大のバグを引き起こしに行くような「完全な自殺行為」である。
しかし「自分は軽いうつ病(夜型)」だと信じて疑わなかった当時の私は、この最悪のギミックに気づくはずもない。「こんな私でも活躍できる仕事なのに、どうして終わったあとは何日も寝込むんだろう」と呑気に首を傾げていた。
激しい波の反動で寝込むたびに病院へ行き、「生きているのが申し訳なくて」と訴える。すると当時の担当医は「じゃあこのお薬を」「次はこれを足して」と、謎のわんこそば状態で対抗してきた。過剰投薬はよくないと習わなかったのだろうか。結果はある意味予想できた。
「先生、幻覚が見えるようになりました」
「あら、統合失調症かしらね」
繰り返す。過剰投薬はよくない。
そして、息をするようにポンポンと病名を追加するのも、絶対によくない。
フェスティバルの終焉
終わりの見えないこの誤診フェスティバルに待ったをかけたのは、家族の中で唯一、真っ当な感覚を持っていた兄だった。
「なんで7年も通ってて、よくなるどころか悪化してんの?」
ごもっともである。この時25歳。ちゃんとした社会人になりたいと泣きながら相談してきた妹に兄が勧めてくれたのは、「患者がすぐに治るから回転が早い」という、ラーメン屋のような噂が立つ病院だった。
藁にもすがる思いで足を運んだその病院にいたのは、かなりの変わり者だが、腕は確かな医師であった。そこで私はようやく「双極性障害」という正しい診断を受け、長年私を蝕んでいた過剰な薬を少しずつ抜いていくという、本当の治療をスタートさせることができたのである。
(ちなみにこの変わり者…もとい医師は、私を救ったのち「じゃあ僕、本業があるから」とあっさりと九州へ帰ってしまった。医師って本業じゃないことあるんだ。あまりの展開と距離に追いかけることもできなかったが、現在はその先生からの紹介先である病院へ、無事に落ち着いている)
しかし、正しい診断を受けても社会との噛み合わなさは消えなかった。
働けない。
馴染めない。
なのに見た目だけは普通の大人である。
そんな劣等感を抱えたまま過ごしていたある日、私は肩を壊した。
災い転じてマリー・アントワネット
トイレで紙がなくなって、ストックを取ろうと腕を伸ばした瞬間だった。
「ピキッ」という嫌な音がトイレに響く。明らかに人体から鳴ってはいけない音だ。
四十になる前に四十肩になってしまったが、問題はそこではない。
逃げ場であり趣味だった「絵を描くこと」まで奪われてしまったのだ。絵を描くオタクは絵を描いて生命力を自家発電しているというのに。利き腕の怪我はダメージが大きかったが、私の中のマリー・アントワネットはこう言い放った。
『絵が描けないなら、文章を書いたらいいじゃない』
この厄介な病気と十年以上も付き合っていると、精神病を患っていようが心はずいぶんと図太くなるらしい。そうだ、字ならなんとか書ける。キーボードも叩ける。どんな日であれ全ては実験であり、失敗した日は貴重なデータだ。肩のリハビリの記録からその日あった事まで、私はもう一つの趣味であった手帳に記録をつけ続けていった。
そうしているうちに、不思議なことが起きた。日々の出来事や気付きなどを淡々と文章にしていく。すると、感情の波に飲み込まれるのではなく、自分を少し離れた場所から俯瞰する「観察者」の視点が生まれたのだ。
『そんなこと考えてたんだ、そんなこと感じてたんだ』
『……面白い脳してるじゃん』
それでも、社会に溶け込めない、馴染めないという劣等感は私を苛み続ける。高校へ通い続けられなかった。人並みの仕事ができたことがない。社会と接続していない。そんな私が生きていてもいいのだろうか……モヤモヤと、漂い続ける“それ”。
『それさぁ、形がないから手の出しようがないんなら、形をあげたらいいんじゃね?』
私の中のマリー・アントワネットは、相変わらず雑で、強かった。
そうだ、観察しよう。社会への劣等感も、社会不適合者ゆえの考えすぎや失敗も、エッセイのネタとしてなら面白がれる。文章にすることで、形のなかった苦しみに実体を与え、自分で自分の頭を撫でてあげるのだ。
だからこうして、書いている。
ちなみに、以前は在宅ワークなどを通じて、なんとか社会との接点を保っていた時期もあった。漫画を描いて、イベントへ出ていた時期もある。だが今は人生を見つめ直すため、あえてペースを落としている。積極的な社会活動は、私の中でゆったりと生きる強かな王妃とはスピードが合わないらしい。
観察対象が社会でも、人間でも、自分自身でも構わない。今日も、社会のフォーマットから少し外れた場所で観察を続けている。
今のところ、やめる理由も特に見当たらない。