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輪廻転生、因縁について(後編その5)~自業自得についての真意~

    大倉圓敎(圓満)

    「輪廻転生と因縁」について、真意を記しています。

    今回は、「輪廻転生における因縁の基本原理」について整理して説明していくパートの後編です。「自業自得についての真意」を記します。
    ※今回で「基本原理」の説明は終了となります。

    おさらい

    1.【序論編】輪廻転生と因縁について(一般論)

    2.【真意編】「輪廻転生」について

    3.【真意編】「因縁」について

    1節:善因楽果は根本原理、実際は複雑系

    2節: 輪廻転生における因縁

    (2節)1項:輪廻転生は“おでかけ=仕事・勉強兼遊び”(基本原理)
    (1)基本中の基本について

    (2)功徳と罪業とその使い方・払い方


    以上、輪廻転生という出張・留学を「功徳・罪業に応じて行う」という最も基本的なことについてある程度記述した。


    (3)自業自得の真相

    自業自得の問題点

    基本原理としての自業自得

    もう一つ重要な事実としてこの時点で説明しておきたいことが「自業自得」についてである。

    「因縁」というものにおいては「自業自得」であるということがセットで言われることになっている。
    「自業自得」とはつまり「自分の成した業の結果は、自分自身が得る」ということであり、反対に言えば「自分が成していない業による結果は楽果苦果ともに得ることはない」ということでもある。
    この「自業自得」が因縁説にはセットで説かれるのが通常である。


    単純理解の自業自得だけでは矛盾を起こす

    ところが少し考えてみるとこれには無理があるような感じがしてくる。

    例えば、全ての受けるものが自分の業のそのままの範囲であるとすれば、
    ・「そもそも輪廻転生の初めに受ける境遇は何に起因したものなのであろうか」とか、
    ・そこから自業を積んでその果によって全ての境遇があるとしたとしてそれでは「これほどの長い一生の全てが何かの業に一対一で紐づいて出てくる量になっているということか」とか、色んな疑問が湧いてくる。
    ・或いはもっとダイレクトな問題を持ってきて「Aという内容で苦しんでいる人がいるが、あれが本当に全てその人の業と一対一で対応しているとは思えない」というようなケースもあるのではないかと思う。

    実際わたしもこの点、言語化が難しいがかなり不可解であり、「因縁論を事実ではないのではないかと懐疑し続ける原因」となってきた。

    ここでもまた登場するのが、自業自得はあくまで「基本的に言えることであって、現実はもっと複雑である」というような事情である。これが原因で矛盾感を生じているものであって、このように見たときに自業自得の実相が見えてくる。そこでこれを説明する。


    矛盾感の一例(整理)

    もし「完全な自業自得」であるとすれば、例えばどのような矛盾感があるか。再度整理してみよう。

    ・はじめに受ける苦楽
    輪廻転生の「はじめに受ける苦楽」は、何に基づいて/何を因縁果として生じるか。

    ・苦果地獄
    もし自由意思の自業によってのみ苦楽果が定まって与えられるとすれば、悪業ばかり積んで苦果ばかりになれば借金地獄にはまるようになっていって、到底善業によってそこを出るようなことは出来なくなって詰んでしまったりする可能性が高くなるのではないか。

    ・こんなに広がりが出ないのでは
    全ての苦楽果が過去の自業に一対一対応によっているとすれば、なかなか広がりがなく、単調な輪廻転生を繰り返すことになるはずではないか。例えば、一粒の種から一粒の種しか生まれないとすれば、生命の広がりがなく、一粒の種から複数の種が生まれるから生命が広がってきたように、一対一対応では世界の広がりについて説明が付ききらないような直観がする。

    全ての楽果が過去の自業によっているのだとすれば既に見たように救われない命が沢山出てきそうであるし、善業を積んだ分と一対一対応でしか楽果がないとすれば全然広がりようもなく、こんなに楽果があることの全てが各自業と一対一対応になっているようには思われない。
    例えば、現世であまりよろしくない人が楽果を得ていて、それが過去の何かしらの自業によっているとしても、本当にそれだけの自業があったようにはあまり直観されないなど。この反対に苦果についても同様のことが言える。

    といったような矛盾感などが挙げられるように、少なくともわたしには思われる。

    そこで自業自得とセットとなりやすい因縁論自体に「信憑性を感じられない・不人気」といったようなことになっているようにわたしは思うのである。そして、これは単に事実ではないような気がするのである。


    真相の方向性

    そこで真相をわかりやすく結論から言うと、
    (1)「家庭・子供の成長における自業自得」のようなものだということ、
    (2)レートのようなものがあるといったことがある、
    といったことを含んだ上での自業自得というのが真相なのだと思われる。
    そこでこれを深く説明していく。



    自業自得の真相

    (1)家庭・子供の成長における自業自得の如し

    まず「家庭・子供の成長における自業自得」とはどういうことか。

    子供が成長する上で、「自業自得」ということは確かにある。
    頑張れば結果がついてきたりする、頑張れば親が褒めたりプレゼントをしたりする。危ないことをすればケガをする、悪いことをすれば悪い結果が現れたり、或いは叱られ、罰を課せられたりする。間違いなく、自業自得ということがそこにあることも事実である。

    ただ一方で、頑張っても結果が運悪く良く出なかったり、悪いことをしていても悪い結果が出なかったりもする。そういうことで、「自業自得とはあまり思えないようなところもあって」、

    概ね「自業自得はあるが、そこまではっきりしておらず反するケースもある」といったところが多くの人の思うところではないかと勝手に推測する。

    ところが、これは「現世・今世内での測定」であって、「霊性界・長い輪廻転生まで含めた測定」ではもっと「本当に厳密」になっているものであり、それが今まで見てきた善業・悪業とそれに基づく因縁(おでかけ)の話である。

    これまでにも記したように、「霊性界というところは、物質界とは真逆の性質があるところもあり」、「厳密性ということでは非常に厳密である」等の性質を有しているというようなことも既に記してきた通りである。
    そこで、霊性界・長い輪廻転生まで含めた測定ではもっと本当に厳密に、業による果=すなわち自業自得ということは実際に起こっているといってよい。

    ただし、これだけでは不正確であるから、先に見たような矛盾を感じるようなことが起こっているものであり、「それ以上のものが実はここには含まれている」のである。
    それが、「われわれは親の育ての中にあって、子として育つものとしてある」ということによるものである。


    ●子供の成長=子によるもの+親から与えられるもの

    子供には確かに自業自得というものがある。既に説明した。
    ところが実はそれだけではない。子供の成長というものは、子供が自らすることだけではなく、親がすることもセットであって、「子による自力的成長と、親による他力的育成と」が共にあって、子というのは成長していくものである。

    そこで、子供の成長においては、子供が自ら全ての環境を自業によって得るわけではむしろ全くなく、「親によって与えられるということが片面で大きく働いている」。子供が頑張ったから良い結果の全てが生じるのではなく、親が与えたり補助したりもする。そういうこともそこに加味されているのである。

    「従来の自業自得説」は、「完全に子である我々の自業のみによって、果の全てが対応している」かのような説明であったが、これは方便である。
    「真意の自業自得」は、「果は子の自業と親の調整によって対応している」ということなのである。

    例えば、善業をしていることに対応しただけの楽果があるだけとは限らず、そこに「親が調整・加増して楽果を足す」というようなこともある。喩えて言えば、受験に合格したから、そこにプレゼントもするといったようなことである。こうした「”親からの提供”まで含んでの自業自得」ということである。

    そこでこれをもう少し整理して示す。


    ①親からのプレゼント・罰なども自業自得のうち

    まず今にも示したように、「親がその努力を見ていて褒めようとして、楽果がプレゼントされる」こともある。これは「自業のみから生じた結果以上に加えられて生じる」ものである。日常でもこのようなことがあるかと思うが、「これもまた広い目では、ここまで含めて自業自得の内」であろう。こうしたことも含まれるということである。
    悪業苦果の方面では、親から罰を加えられるということが該当したりする。


    ②成長する方向性にある

    次に、「成長する方向性にある」ということから来るものである。

    ・基本的には環境やあらゆるものを与えられる方向性にある
    例えば、善業をしていなくては楽果はない、ということでも実はない。
    「家庭・子供の成長における自業自得、そこまで含んでの自業自得原理」であり、そもそも、われわれは子として成長させられる・成長していくという方向性にある。そこで「善業を積む積まないなどに関わらず、実は基本的には環境やあらゆるものを与えられる」ということになっている。

    (ⅰ)善業していなくとも楽果、自業以上に楽果というケース
    善業をしていなくても、勝手に親からある程度の楽果を与えられたりもする。或いは自業自体から対応して得られるもの以上に、楽果を与えられたりもする。成長過程の子供という上での自業自得であって、大人になった上での自業自得ではないのである。

    (ⅱ)悪業が大きくとも楽果というケース
    また悪業をしていても、成長のために環境を与えられもする。悪さをしている子供は、決して食事をずっと無しという罰を与えられたりなどの罰ばかり与えられる訳ではないし、かえって良い子になるために楽な環境を与えて更生を図るということもあるであろう。輪廻転生の因縁においても同様のことがある。悪業をしているから苦罰・苦果とは限らず、成長のためにかえって楽果を賜ることもある。これもまた自業自得なのである。

    (ⅲ)善業が大きくとも苦果というケース
    また或いは、善業をいくらしていても、かえって苦果を賜ることもある。それも現実に置き換えれば実はそれほど不思議なことではなく、厳しい修行のために、辛い環境が重要であることもある。そこでかえって良い子に、苦しい環境や課題を成長のために与える、或いは本人が望んでトライするということもある。そこで善業を積んできているのに、苦難にかえって遭うというようなことも大いにあったりする。これもまた自業自得の真意なのである。

    これが「家庭・子供の成長における自業自得」だということの意味であり、「果は子の自業と親の調整によって対応している」「そこ(=親からの提供)まで含んでの自業自得だ」ということなのである。
    苦楽は基本的には善悪と対応して得られるが、親霊の統制のもとに、与えられる苦楽もコントロールされ導かれているのである。
    これが真相の一点目である。

     

    (2)レートの問題/縁の問題

    もう一つの大きな点は、これは推測の範囲を出ないが、「業から果が生じてくるにおいてレートのようなものがまばらにある」という事情である。これにもまた、いくつかある可能性がある。

    ①単純なレートのばらつき

    例えば、ある種を撒いて、そこから果が出来るときに、種によってその繁殖率にばらつきがある。それもまたその種ごとの特質であったりする。ある種Aと種Bがあったとして、全く同じ環境で育てても、種Aは20果を成し、種Bは10果しか成さないということがあったりする。

    この世界のものは「一様かつ多様」に(別執筆:25年2月現在は下書き段階)なっており、「多様性の範囲で、それぞれに特質を個別に有する」ことになっている。
    その関係で、「因縁においても業から果を成すといっても、そこにおけるレートのようなものにバラツキがある」という可能性がある。

    もしこの「ばらつきのあるレート」があるとすれば、単純な自業自得論では理解しえなかったものとして存在することになる。これは一つの可能性として有り得るような気がしている。


    ②縁が揃うかどうか

    もう一つの事情は「縁が揃うかどうか」である。

    例えば、努力を同じだけしていても実る場合と実らない場合があったりする。
    ここにも色んな理由があるが、そのうちの一つに既に述べた「①レートという問題」もあると思う。ある人Aのレートと、ある人Bのレートに特質上の差異があると、果に差異を生じる。また或いは同じ人物内であっても、ある時期Aと、ある時期Bではレートに差異があったりもするであろう。この理由も大きく関係しているものと、日常においても感じるであろう。

    もう一つの大きな事情として「②縁が揃うかどうか」ということがあるように思う。

    ある人Aと人Bが同様の努力をしていてレートも同じであるとしても、Aには縁Pがあって果を大きく生じ、Bには縁がなく果を生じないというようなこともあったりする。さらに具体的に例えば、AさんとBさんは同社で出世争いをしていて同等の功績があったとして、Aさんには人間関係Pがあり、Bさんにはなく、Aさんが出世するなどである。

    発展:縁も果である
    ただし、ここで次に検討するべきは、その縁もまた何かの果であるだけで、単純な自業自得の範囲内で説明がつくことでしかないのではないか、ということである。つまりAさんに縁Pが揃ったとしても、その縁PはAさんの何かしらの過去の業によって実った果であるというだけではないかという可能性である。これは大いにそうであり、むしろ基本的にそうであると言ってよい。

    発展:タイムラグからくる事情
    そこで、もう一歩進む。
    ここで指摘したいことは、実はその上での話である。今の話はそのための階段である。

    確かに「縁もまた、何かの業の果である」というのが基本あるいは絶対であるといってよい。ただし、「果を生じるには、業を成したときからタイムラグがある」ようなことになっている。

    そこで、ある業Aがあって、それが果Pを生じ、それが縁Pとして機能する予定であるとしよう。

    ここで、「悪業Aを成して、苦果P=縁Pを生じる」流れにあるときに、「何かしらの善業B=懺悔などを成すなどして、苦果Pを生じる流れを滅する」ことが出来たり、或いは「それに対抗・相殺するような楽果Qを生じる」などしたりすれば、悪業Aによる苦果Pは実現することが無くなるということになる。
    つまり「業と果の単純な理解で想定されることとは異なる事態になる」ということである。

    このようなこと、つまり「タイムラグがあることによる事情」というものがあったりするのである。

    その中でも、単に果を滅するということ以上のこととして、「(果でもあるのであるが)縁が生滅する」ということが、そこにおいて絡み合っているようなことがあり、「”縁が揃うかどうかという事情”から、単純な自業自得以上の事情を発生している」ということである。

    ここで「縁は見かけ、レートのように機能」する。
    例えば種Aがあって、土壌という縁の良さによって、結果するレートが異なるように、縁は「種自体のレート」とは別に「縁によるレート」として作用する。そこで、これもレートの問題として取り上げたのである。

    以上、真相の二点目「業から果が生じてくるにおいてレートのようなものがまばらにある」という事情を説示した。


    まとめ

    以上、まとめると。

    ●自業自得は基本原理として真実である。
    ●ただし実際にはもっと複雑なことまで含んだ真意がある。
    (1)家庭・子供の成長における自業自得の如し
    ①親からのプレゼント・罰なども自業自得のうち
    ②成長する方向性にある
    (ⅰ)善業していなくとも楽果、自業以上に楽果というケース
    (ⅱ)悪業が大きくとも楽果というケース
    (ⅲ)善業が大きくとも苦果というケース
    (2)レートの問題/縁の問題
    ①単純なレートのばらつき
    ②縁が揃うかどうか

    このようなことまで含意しての自業自得である、というのが「自業自得の真意」である。

    故に、「簡易的な/単純な自業自得の理解では矛盾を引き起こして」しまい、「事実とは異なる説明となって」しまうことになり、それによって人々が信憑性を感じなくなり、混乱を引き起こしているのである。

    そこで、これを訂正し説示したものである。


    【編集後記】

    いかがでしたでしょうか。

    因縁論について、続編の執筆が少し遅くなりました。
    言語化、難しいですね。
    いつか広く認識されますように。



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