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不思議話(2章1) 八坂神社での奇跡、プレゼントとして奇跡はある~信じられるようになるきっかけとなった出来事~

    大倉圓敎(圓満)

    不思議話シリーズ、第4弾です。
    これまでのツリーはこちらから一括して見られます。

    今回から、具体的な不思議話を記していきます。
    お楽しみ、あれ♪

    2章.特に大きかった出来事

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    時系列にて整理したもの

    前章では、
    ◉「疑い抜いてきたということ」
    ・そもそも不思議な中にいたとはどういうことか、
    ・にも関わらず、なぜ疑い抜いてきたか、
    ・どのような疑い闘い抜く日々であったか、
    ◉そして「疑いから一転、理屈がようやく通りはじめた」ということを説明した。

    本章では、その疑いの日々から突然「信(認識)へと転じたきっかけ、出来事」をお話するものである。

    ・信じたいのに信じ切れず悶々とされている方にとっての答え、
    ・かすかに信じる気持ちもある方への、心を満たす驚き、
    ・全く信じていないが読んでみられている方への、現代人の思い心の障壁を開くカギ、

    となり、いつか広く認知されるようになり、こうした側面のことが事実として再認識され、その事実に基づき適切に人類が生きるようになり、よい社会がそこに実現する日が到来することを願うばかりである。

    0.注意点

    ここからは、話の都合上、少し順不同に説明する。
    まず「1.八坂神社での出来事」を記し、「2.それ以前の不思議なこと」「3.ある歌人の過去世」について記すが、順番としては「2と3」の方が先である。

    「1.八坂神社での出来事」は「2,3」の後において、「25歳の理屈がとおり始めたころに起こった出来事」であるのだが、これが信へと転化させた大きなきっかけとなる出来事であり、「答え合わせ」となる内容になるので、そちらから記すことにしたものである。

    1.八坂神社での不思議(2021.10.5)―プレゼント・道標という説明―

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    25歳頃(2021.10月頃)まで、理屈と闘い続けてきた日々であったことを先に説明した。

    疑い深い私は、宗教的なものを恐らくそうなのであろうと信じながらも、とにかく理屈を問い、理屈が通っていることを最重視して、闘っていた日々であった。

    不思議なことは、実は僧侶になってから既に何度も、或いは大きく経験はしていたが(2節にて述する)、「いかなる不思議なことがあろうとも、理屈が崩壊している以上は信が大きくなることはなく、とにかく疑う気持ちが張り裂けそうなほどある」ような状態であった。

    そんなある日から、説明付きで突如不思議なことが頻繁に起こりはじめ、疑から理屈も通りはじめ、さらに実証が付いてくるという一連の流れが生じることになる。
    それを以て、疑が晴れはじめ、またより一層理屈も洗練されていき、信も戻りはじめ、最終的に2-4で紹介する出来事によって、ついに凡そ疑が消滅していった。

    理屈も概ね基本的な範囲ではあるがそれなりのものが想定されるようになり、私なりに一つの決着がつきはじめ、もはや真実として素直に理解され、真実であるからには前提とされなくてはならない/人に知らしめる・伝えなくてはならないという段階へ至ったのである。

    それまで、大いに苦しめられた疑が晴れていき、しかも理屈まである程度つき、素直に見ることが出来るようになった喜びは、はかりしれないものがある。
    この、転機となった出来事について記す。

    久しぶりに天声のようなものが聞こえ、八坂神社に呼び出される

    そんな格闘が25歳秋頃、突然実を結びはじめ、
    理屈が上手く通りはじめて、突然にして宗教的なさまざまなことに説明がつき、全体像がくっきり浮かび上がり始めた。

    疑心が少し氷解しはじめ、これであれば信じるに足るかもしれない、と思い始めた頃。

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    夜中の八坂神社前。

    ある晩、京都河原町のカフェにて思案しようかと東山の道を歩いていた際。
    突然心の内からか或いは外からか、久しぶりに天声のようなものが降ってきた。
    声なき声であって誰かはわからないが、神と呼ばれるような領域の類のものであると、非常に疑いつつ感知した。

    (八坂神社の方角から)
    「来い、面白いもの・現象を見せてやろう。
     そなたは使命に従って邁進する身である。
     不思議な現象はあるのだ、起こせるが起こしていないだけなのだ
     ということを、
     ・これまで邁進してきた褒美として、
     ・或いはそれで正しいぞという道標として
     今日から、沢山起こしていき見せてやるから来い」

    と声なき声として聞こえる。

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    「不思議なことが本当であるとしてなぜ時々起こるのか」

    これは面白かった。
    まず私の内心としては、理屈が通りはじめていた段階であったが、
    「不思議なことが本当であるとしてなぜ時々起こるのか」といったことに対しては未だ回答を得ていないときであって、それに対してシンプルかつ私では思いつかない方向から、説明が成されたからである。

    この疑問を少し説明しなおしておくと、つまり例えば、
    ・不思議なことというのは現代でも時々報告され、
    ・或いは、伝説か事実か色んな逸話というものが存在し、
    例えば僧侶でいえば弘法大師などは不思議な話のオンパレードであったり、イエスキリストなども様々な奇跡を起こしていたということになっているが、
    ここには私にはこのような懐疑があった。
    疑い深い人であれば抱いたことのある懐疑であろうと思う。
    「不思議なことが本当にあるとすれば、なぜ時々しか起こらない/再現性が低いのか」
    「なぜ空海やイエスのような奇跡者はもっと出現しないか」

    つまり例えば、
    ・本当に心霊スポットに怨霊などがいて辛い思いをさせたいのであれば、足を踏み入れた人には、もっと頻繁に確実に起こせばいいし、
    ・本当に神仏などがいて、奇跡を起こせるのであれば、助けたい慈悲が無量ならばもっと頻繁に奇跡を起こして、あるいは奇跡者を輩出して、起こせばいいではないか。
    といった懐疑であるが、これは当時未だ決着がついていない問題の一つであって、懐疑心の原因であったのであるが、これに対して突然回答を与えられたのである。

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    「褒美/プレゼント」として、「道標」のようなものとして。

    ここでなんという回答が与えられているかといば、
    つまり、奇跡や不思議なことは、
    ・起こせるが起こしていないだけである。
    ・「褒美/プレゼント」として、或いは「(それで正しいという)道標」のようなものとして起こす。
    という説明が、ここで果たされていたのである。

    これは驚きであった。
    それまでも実は僧侶になる少し前から、明確に不思議なことが多々起こるようになっていたがそこには理由説明はなく、ただ起こるだけであり、不思議なことはただ起こるものであり、説明が付されることなどなかったからである。
    そして、未だ解決していなかった大きな懐疑点の一つであったものに対して、与えられた説明が、驚くほど筋が「シンプルかつ想定外の方向から」通っており、すっきり腑に落ちてしまったからである。

    つまり、今回の例でいえば、これから起こる不思議なことは、私がそうした宗教的なことを説明するという使命に邁進する身のものとして、これに対し「(この理屈の路線で正しいという)道標」として、或いは単に「褒美(プレゼント)」として起こすものであるということであり、

    そうした理由であれば、「何故ときどきしか起こらないか」が腑に落ちたのである。道標は常に表示されるものではないし、しかも特に宗教者としての使命の者向けとしてであれば尚再現性は低いし、プレゼントは常にもらえるものではない。

    (※断っておくとこれらは、今回の出来事についての説明であって、
    今では、もっと様々な理由やしくみがあるということを理解している。
    これについては、『理論』の方で記したいと思う。)

    素直に受け止めよ

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    このように、不思議なことが起こる一つの理由を説明された上で、これから不思議なことを引き起こす故に、素直に受け止めよ、と声なき声が言っていたのである。

    これは十分に説明としても腑に落ちるものであるし、少し素直になってみようかとも思った。
    しかし、疑心の塊であった私は、
    「いやいや、こんな夜8時に神社なんか行かないですよ。
     一般には夜はあまり神社には行くものではないとされていますし、
     第一この声なき声も私は信じないし、もしそういう宗教的領域が真実だとしても、
     この声の主であるあなたは高い神さんではなくて、
     低級な霊の仕業(狐に化かされるなど)ということもあるのだから、真には受けたくない」
    と返答したが、やはり
    「来い、ご褒美、道標」
    とだけ言うものであったので、言っても損はなかろうと吸い寄せられるように八坂神社へと向かった。

    境内で不思議な女性に出会う

    境内につき、本殿を見ると、何やら若い女性(暗いので正確な年齢不明)が立って、参拝している。
    こんな時間に若い女性が一人で来て大丈夫か、と眺めていた。

    眺めているうち、その立ち位置に気が向いた。
    彼女の立ち位置は少し特殊な場所で、私が昼休みにいつもごった返す参拝者を避けて立っている、私にとっての特等席のような位置であることに気が付いた。

    なんだこの人は、と思って見ていると、
    先ほどの声の主から「声をかけよ、その女性に声をかけよ」と言われる。

    こんな時間に声をかけるなど正気の沙汰ではない。たとえナンパ師でも、こんな時間に神社で声をかけるなど危険すぎるだろうと思い、「無理です」と断固拒否するのであるが神々(?)は容赦ない。ずっと「声をかけよ」と言っている。
    私は徹底して「そんな危険なことはできません」と拒否し続けた。

    そうこうしている間に、彼女はお参りを済ませ境内を散策しはじめる。
    手水の石の彫りを眺めに行ったり、あちこちマニアックな場所ばかり眺めに行くのでこれは完全な一般人ではないなと思われ、こういう人ならば僧侶と身を明かした上で、専門的な話をするために話しかけてもよいだろうか等と悩んでいるうちに、彼女は境内を出て行った。

    追いかける

    「追いかけよ、声をかけよ」といずれかの神さんに即座に言われる。

    確かに彼女が向かっている先はどうやら四条河原町の繁華街であり、人も多い方向へ向かったのでかえって話しかけやすいかとも思ったが、追いかけて話すのもやはり危ない行為でしかないし、またそもそも女性に話しかけるなどしたこともないし、したくもないので拒否をするのであるが、言われたままにとりあえず追いかけていく。

    一度、袋小路のようなところに入っていったので見守っていると、引き返してくる際に顔があってしまった。

    神社でも会ったので気まずかった。彼女は恐らくこの時点でわたしが後ろを歩いていることを確信したと思うが、引き続き四条河原町へと歩き出した。彼女も恐らく、わたしが危ない人ではないと判断してか、話しかけやすい状態を作ってくれていたかのように思うが、私は話しかけられず、結局狭道へ入って行くのを見届けて断念した。

    彼女の格好を考えるに、おそらく旅行者で荷物をホテルに預けての行動かと思われた。
    そこで、
    「彼女は旅行者であろう。私は明日仕事、彼女は旅行者。
    となればこのようなことは絶対有り得ないと思うが、もし明日遭遇すれば、あなた(声の主)の言うように絶対に話しかけると誓いましょう。ただし今日はもう勘弁、どうしてもというならば明日出会わせてみよ」
    と応答してみた。

    声の主は、
    「それでよい。必ず明日引き合わせる」
    と初めからそのつもりであった、というような回答をしてくる。
    なんだそれは…と思いながら、当初の目的通り河原町のカフェへ向かって研究をし、帰り道にいつも通りいくつかの公園で坐禅をして帰ったのであった。

    翌日、仕事の帰り道

    翌日、仕事に行き、帰り道。
    いつも人があまり通らない道を通って帰っていたのであるが、前から人気を感じた。
    その足が近付いてきて、足元が目に入った。

    明らかに昨日の女性の靴であった。
    夜の出来事であったため、姿ははっきり覚えていなかったが、靴が非常に特徴的であったので、一目で昨日の女性であると確信した。

    まさかの出来事であったが、神さん(?)に約束した手前、話しかけることを覚悟し近付いていく。
    すると向こうの女性もすぐに気が付いて、なんと向こうもこちらに歩み寄ってきてくださった。

    「昨日の方ですよね!」と二人目を丸くして合流。
    話を聞くと、後をつけていることには気が付いていたが、悪い人ではなさそうなので心配はしていなかったとのことであった。
    素性を明かし、女性も自己紹介をされたところ、やはり旅行に来られていたとのことで、なんと「お寺の娘さん」であった。やはり一般人ではないと思ったが、そうであった。

    そして事情を説明する。
    神さん(?)に「ご褒美に面白いことを起こしてやる」と言われて、今日本当にこんな人が通らない道で出会ってしまったと話すと、
    彼女も寺の娘さんであったからか、すんなりと理解してくださった。
    そこから2時間ほど京都の街を案内してお別れした。
    このような不可解な出来事に遭遇させられた。

    プレゼント、道標として

    この一件で、神さん(?)の声が言うことは本当であるなとひどく感心させられた。
    これくらいの出来事であれば、相当な偶然として起こる可能性も全くの0ではないであろうが、突然呼び出されて「ご褒美、道標として」と説明までされた上、本当に起こされた出来事であったので、さすがに疑うばかりではなく、そのような理由であるならば信じ得るかもしれないと幼稚園以来初めて本当に心を開く第一歩となったものである。

    この日以来、天声が「これからプレゼント、道標として不思議なことを沢山起こしていくから、素直に受け取るように」と言ったように、本当に不可思議な出来事が突然次から次へと起こるようになった。

    それによって、これまでの疑が少しずつ氷解していき、
    声なき声の言うように「ご褒美、道標として」としてある程度素直に、こうした出来事を有難く頂戴するようになったきっかけ・入口の出来事であった。

    ●ご喜捨のお願い

    社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
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    みなさまに功徳が廻り、社会の精神基盤に寄与しますように。
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