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不思議話(3章) 先祖との交信、供養の帰り道の不可思議なできごと~先祖はいる~

    大倉圓敎(圓満)

    今回は、不思議話第12弾。
    「先祖はいる」ということを記します。

    また、先祖とは/先祖供養とはなども別に執筆しますが、
    今回は不思議話シリーズとして掲載します。

    (※これまでのツリーはこちらから閲覧できます:随時更新)

    先祖は、いる。

    先祖。
    今どきは「坊主丸儲け」「墓じまい」などという言葉がよく聞こえ、「先祖供養」というものが嫌われているケースの方が多くなりつつあるものと感じている。

    ここには複雑な理由があってそうなっているものと理解しており、坊主が色々と間違えていることは大前提として、先祖供養や宗教について伝わってきたものがいつしかおかしくなってしまっているという問題が大きいと私は確信している。実は、それこそが坊主の最大の失敗と思う。

    端的に言えば、
    先祖供養というものは、別に仏教のものではない。
    先祖供養は古代人があるとき気付いて始めたことであり、実に原始的それはすなわち本質的なことであって、現代人が薄れきって喪失してしまった感性から漏れ出てしまっている世界の真実としてあるものなのである。

    端的に言えば、
    人は死んでも消滅しない。たましいと呼ばれているようなものが本当にあって、これが未来永劫情報のように存在しながら、またさらにはその本体が分裂していわゆる輪廻転生をしているということが実際であると私は今世の探求により知って、この時代に合わせて説明される日が来なくてはならないさだめにあることを確信している。

    ところが、ここに至るまでは、現代人の一部として相当に疑い、相当に理屈とも向き合って一般の人生を捨てるまでしながら格闘してきたものである。
    「先祖がいる」「先祖供養をしなくてはならない」ということについて、いくらでも疑い得たし、皆さんの疑問をわたしはほとんど網羅して認識してきたものと信じている。

    そこで、「先祖さんがいると思うのに信じ切れずに苦しい思いをしている人」なんかも一定数いるものと思う。わたしもその一員であった。
    ここで理屈の方面と、実証の方面がある。
    理屈の方面は他の執筆に譲るとして、ここでは実証の方面=実際に起こったことについて記しておくものである。

    先祖は、間違いなくここに同時にいる。
    それが複雑怪奇な仕組みでわかりづらくなっているだけのこと。
    少しでも、その香りが伝わればよいなと思い、今回は二つの話を挙げる。


    1.曾祖父の話

    27歳のとき。

    私は、亡くなって年数が浅い先祖さんの命日には、なるべく律儀に実家に帰省して、しっかりと供養のお勤めをすることに決めている。
    その一人が曾祖父である。

    曾祖父は、私が生まれるより随分前に亡くなっているので、
    実際には会ったことはなく、仏壇の上にかけられた遺影と、ときどき聞く昔話でしか知らない。

    そんな曾祖父の命日に帰省して、
    不思議な経験をするようになって初めて、心から深く意識してお勤めをすることにし、仏壇の前に至った。
    母が、お供え物を買いにコンビニに行こうというのでついていくことにした。

    餡の入ったお菓子

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    コンビニに到着して、色々とお菓子を見る。
    母が、冷蔵コーナーの西洋菓子を指して「これにしよう」と言ったときであった。
    曾祖父の顔が浮かび、声なき声でもって「餡の入ったお菓子にしてほしい」と伝えてくる。

    母に「なんかしらん、餡のお菓子にしてほしいって言うてはる気がする。」といって餡のまんじゅうか何かを手に取ると、母が「それやったらそれにしよ」というのでそれを購入して仏壇へ帰った。

    餡のお菓子を供え、丁寧に読経念仏等を修して、功徳を回向する。
    後述するが気持ちよく終わって、振り向いたときだった。後ろの別室で聞いていた祖父がやって来て、「餡パン供えたか、餡が好きやったんやで」とわざわざ言いに来てくれた。

    母と目を見合わせて笑う。
    「餡のお菓子がいいって言わはるから、餡のお菓子供えておいたよ」というと、祖父は笑って「そうか」といって帰っていった。

    曾祖父とは会ったこともないが、祖父を通してわざわざ有難うと伝えてくれたような感じもした。
    餡の好きな世代が多そうということもなくはないが、別にわざわざ別の菓子を取りやめてまで選択することではない。コンビニであのようにはっきり感じたのは、よほどの主張だったのではないかと感じる。

    また、後にも述べるが曾祖父とはお勤め中も、声が聞こえるような心地であって、プレゼントではないが何かそういう働きもあって、そのようなことを勉強のために経験させていただいた心地がした。
    そういうことがあった。

    亡者に回向される
    そこで、面白いことは、そのお勤め中であった。
    丁重に読経をしはじめたとき、
    ・普通は亡者と向き合って、仏を想見して、自分が変圧器のような立場を意識して、亡者を仏などの高い世界へ仮にお繋ぎして、そこで仏の功徳ある威光を浴びてもらったり、或いは経典の内容をこころで教えていくのであるが、
    ・曾祖父がぱっと出てくると実に深い微笑で、あたかも菩薩界にいるような雰囲気で、「ええよ、そんなしてくれんで。むしろおじいちゃんが、有君(俗名のあだ名)の功徳を念じてあげよう」などと言われる心地があったのである。

    色んな家庭で、色んな祖霊に供養をしてきたが、
    そのような経験は初めてのことであって、こんなこともあるのか、それとも勘違いか、と思って、とてもよい心地で読経させていただいたのである。

    普通はこちらのエネルギーを消費するのであるが、むしろ元気になってお勤めを終えるという初めての体験であった。そこに祖父がやって来て、そのようなことがあったので、やはり先程の読経中のことは本当であったのだろうかと微笑ましく思えたのであった。

    たしかに曾祖父は、聞くところの昔話が本当に真面目で非常なる働き者で、また実に優しい人であったそうであるから、そのような感得も真実であったのだろうかと今では思われるところである。


    2.明美ちゃん

    その翌年ぐらいであっただろうか。
    今度は「明美ちゃん」という先祖の話である。

    明美ちゃんというのは、祖父の妹であり、
    戦時中に幼いまま亡くなってしまった子である。
    当然、私は出会ったこともないし、遺影もないので見たこともない。

    祖父はよほど明美ちゃんのことを大切に思っていて、昔から定期的に明美ちゃんと大阪空襲の焼野原の中を、明美ちゃんの病気の治療のためにおんぶして歩いた話を聞かしてもらっていた。

    そのように祖父がよほど明美ちゃんのことを大切に思っていることは分かっていたこともさらに加味されながら、命日に帰省して、深く意識するようになって初めてゆっくりと追善供養の勤行を修した。

    一つずつ意味を伝えていきながら、
    仏をお見せするように想見して、功徳の光を浴びてもらって、
    「苦しみが全て取り除かれますように、祖父の思いが十分に伝わりますように、来世はよりよい生まれをされますように」と丁寧に回向して、
    その勤行を終えた。

    祖父は大変喜んでくれて、明美ちゃんはその姿を見て同様に大変喜んでいるような心地がして、微笑ましい思いであった。

    帰り道

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    帰り道、実家からすぐのところ。
    向こうから、親子三人が歩いてくる。若い父母と、3歳頃の娘さんである。

    何の気なしに足を進めていると、
    その娘さんが「あけみちゃんってだあれ~!」と大きな声で言っているのが聞こえてくる。

    正直、耳を疑う。

    聞き間違いだろうか、幻聴でも聞いているのだろうかと思うと、
    やはり娘さんが3度ほど「あけみちゃんってだあれ~!」と繰り返している。どうやら、家の壁を指さしてかがみこんで言っている。

    耳をそばだてていると、どうやら壁にシールが貼ってあるらしい。
    「シールにあけみって書いてるよー」と言っているのが聞こえる。

    「あけみ」などという名前、この時代ではあまり聞かないような名前だろうと思い、珍しいこともあるものだと思いながら、横を通りすぎようとした。

    「あけみちゃんって、誰だろうねー」と両親がその娘さんに答えてあげたとき、明美ちゃんの顔が出てきて、ものすごくニッコリ笑っているのがうっすら見えた。

    今日のお勤めが大変嬉しかったらしい。
    それは間違っても、わたしのお勤めが嬉しかったわけではない。
    祖父の思いが相当に嬉しかったようである。
    とても微笑ましい心地にならせていただいた。

    それと同時に、
    今隣でちょうど明美ちゃんと同じ年頃の娘さんが、「あけみちゃんってだあれ」と言っていることが、不思議でならなかった。

    そのシールをわざわざ、その三人がいるのに見に行くことまではしなかったが、そんなことがあるであろうか。
    また、それと同じタイミングで、そのような日に歩いていることもやはり偶然では片付けがたいと思うのである。

    これもおそらく、わたしの表現するところの「コード」のようなものであろうと思う。全ては神業で仕組まれて、世界は演劇のようにあるのだと思う。

    これは、神の心ある遊びである。
    大変、微笑ましい経験であった。


    まとめ

    いかがでしたでしょうか。

    先祖が自分の肉体や元いた住処、子孫のいる場所などにいつもいるということが事実としてあるのですが、それが色んな理由によって信じ難いことも私はとても理解できます。
    しかし今ではその全てにメカニズムが見つかっており、この錯覚を乗り越えられた視点に立って、お伝えするところです。

    先祖供養は、お経を唱えたりすることではありません。
    子孫が、その存在を認識し、実家にいる祖父母にただ心を通わすだけで喜んでもらえるようなもので、第一には心通わすことです。
    その他、この身体を健康に大切にすること、お供え物を心によって送ること、悪い因縁があるならばそれを解けるように霊の親そのものと繋げること等です。僧侶の読経等については、よほど霊的に素晴らしい他者(僧侶のごく一部)などに何かをしてもらうことです。

    霊的な領域が確かにあることは、いつの日か科学ではっきりするときが必ず来ます。その日からでも供養は可能と思いますが、縁ある人は縁によって、先祖が本当に共にいることを認識し、供養していかれることがこの世をよくしていく(①供養されて浄化された状態で生まれ変わっていくから②霊性界のエネルギーのようなものは物質界に表裏一体となって常に影響し合っており霊性界が浄化されていることは物質界にも良く反映されるから)ものです。


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