
アディショナルタイム
あらすじ
30歳、恋愛経験ゼロの会社員・大野健司。職場と家を往復するだけの毎日、唯一の息抜きは立ち飲み屋の一杯とサッカー観戦。高校の卒業式、好きな子に告白できなかった後悔を、彼は12年間引きずっていた。
ある雨の夜、店で出会った女性・七海。サッカーの話で意気投合し、健司は少しずつ心を惹かれていく。けれど「断られるのが怖い」――その一歩が、どうしても踏み出せない。やがて七海が、遠い故郷へ帰ろうとしていることを知り……。
打たなかったシュートは、一生の後悔になる。臆病な男が、最後の勇気を振り絞って走り出す、再出発(アディショナルタイム)の恋物語。
本編
一 燈(あかり)
会社を出ると、六月の夜は雨上がりの匂いがした。
大野健司(おおの けんじ)は駅前のロータリーで一度だけ立ち止まって空を見上げた。雲の切れ目からにじんだ月が顔を出している。べつに月が見たかったわけではない。ただまっすぐ帰る前に、ほんの少しだけ自分のための時間がほしかった。それだけのことだった。
三十歳。メーカーの営業管理部で書類とエクセルと電話に追われる毎日。朝は満員電車に押し込まれ、夜は同じ電車で押し戻される。会社と家を往復するだけの線路の上を、毎日ボールみたいに転がされている気がする。
今日もほんの少しだけ寄り道をした。
駅の高架下、赤提灯がいくつか並ぶ一角にその店はある。「燈(あかり)」という小さな立ち飲み屋だ。木の引き戸に墨で書いたような白い文字。間口は二間ほどしかなくて、中に入れば客が七、八人で満員になる。健司がこの店に通うようになってもう二年になる。
「いらっしゃい」
引き戸を開けると、湿った外気と入れ替わりに出汁と炭火の匂いが押し寄せてきた。カウンターの向こうから声をかけてきたのは店主の野島さんだ。六十をいくつか過ぎた白髪頭の頑固そうな男だが、笑うと目尻に深い皺が寄って急に好々爺になる。
「大野ちゃん、今日も一人かい」
「一人ですよ、いつも通り」
健司は苦笑して、いつもの定位置――カウンターの一番奥に立った。立ち飲み屋には椅子がない。だから誰もが少しだけ前のめりで、少しだけ無防備だ。会社の飲み会のように誰かの顔色をうかがう必要もない。ただ自分のペースで一杯の酒と一皿のつまみと向き合えばいい。健司にとって、ここは一日のうちでいちばん肩の力が抜ける場所だった。
「とりあえず、生で」
「あいよ」
ジョッキが置かれる。冷えたグラスの肌を水滴がゆっくりと伝い落ちていく。一口飲むと喉の奥で炭酸が弾けて、一日分のため息が溶けていくようだった。
壁の小さなテレビではサッカーの試合のハイライトが流れていた。健司は学生の頃からサッカー観戦が好きで、好きなチームの試合は欠かさず追っている。ピッチの上を駆ける選手たちを見ていると不思議と胸が熱くなる。九十分のあいだに人生のすべてが詰まっているような気がするからだ。チャンスを決めきる者がいて、決めきれずに膝をつく者がいる。
(おれは……決めきれないほうの人間だよな)
ジョッキを傾けながら健司はぼんやりとそう思った。
その時だった。
「あの、すみません。ここ、空いてますか?」
声のほうを振り向くと、女性が一人、傘を畳みながら立っていた。
年の頃は二十代の後半くらいだろうか。少しだけ濡れた髪を片手でさっとかき上げる。化粧は薄い、けれど目元のはっきりとした顔立ちで、笑うと右の頬にだけ小さなえくぼができた。
「あ、はい、どうぞ」
健司は反射的に自分の隣のスペースを少しだけ空けた。立ち飲み屋では見知らぬ客同士が肩を並べるのも珍しくない。けれど女性の一人客というのは、この店ではあまり見ない光景だった。
「ありがとうございます。雨宿りのつもりだったんですけど、なんだかいい匂いがして」
彼女はカウンターに肘をついて嬉しそうに店内を見回した。
「ハイボールもらえますか。あと……あの、煮込みってありますか?」
「うちの煮込みはね、お嬢さん、東京一だよ」
野島さんが胸を張る。健司は思わず吹き出した。
「東京一は言いすぎですよ、野島さん」
「うるさいね、大野ちゃんは黙って飲んでな」
女性がくすくすと笑った。その笑い方がなんだか肩の力の抜けた自然なものだったので、健司もつられて笑ってしまった。
彼女は七海(ななみ)と名乗った。近くの会社で働いていて、今日はたまたまこの駅で途中下車したのだという。
「途中下車、ですか」
「うん。なんか、まっすぐ家に帰りたくない日ってありませんか?」
健司はジョッキを持つ手を止めた。
「……ありますね。すごく、わかります」
雨の夜のたまたまの隣り合わせ。それだけのことだった。けれど二人はぽつぽつと、とりとめのない話をした。煮込みが運ばれてきて、七海が「本当だ、東京一かも」と言って野島さんを喜ばせたこと。テレビのサッカーを見て彼女が「私、サッカー好きなんですよ」と言ったこと。健司が驚いてどのチームが好きかと尋ねると、ちゃんと選手の名前まで出てきて、二人で小一時間も語り込んでしまったこと。
「大野さんって、サッカーの話になると急に喋りますね」
七海がからかうように言った。
「あ……すみません、つい」
「ううん、いいんです。楽しそうに話す人、私、好きだから」
健司の心臓がことりと音を立てた気がした。
好きという言葉に深い意味なんてないことくらいわかっている。三十年も生きていればそれくらいの分別はある。社交辞令だ。ただの軽い言葉だ。
それでも――その夜、健司はいつもより一杯多く飲んで、いつもより少しだけ足取り軽く家に帰った。
部屋の電気をつけて、誰もいない1Kの空間に「ただいま」とは言わなかったけれど、なんだか今日は世界が少しだけ色づいて見えた。
健司の部屋はいつもきれいに片付いている。一人暮らしが長いから整理整頓は得意なほうだ。けれどきれいすぎる部屋は、ときどき誰かの気配のなさをよけいに際立たせる。テレビをつけても聞こえてくるのは自分の咀嚼音と冷蔵庫のかすかな唸りだけ。健司はいつもその静けさに慣れているふりをしてきた。
けれどその夜は違った。
冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して健司はソファに腰を下ろした。けれどもう飲む気にはなれなかった。ただ缶を握ったままぼんやりと天井を見上げた。七海の笑い声がまだ耳に残っていた。サッカーの話をしたときの彼女の楽しそうな目が、瞼の裏に焼きついていた。
(また会えるかな)
そう思ってから、健司は自分で自分に苦笑した。連絡先も聞いていない。彼女がまたあの店に来る保証なんてどこにもないのに。たまたま雨宿りに入っただけの女性が、わざわざ立ち飲み屋に通うはずがない。
わかっている。わかっているのに、それでも心のどこかが勝手に明日を、明後日を楽しみにしていた。
七海とは連絡先も交換しなかった。また会えるかどうかもわからない。
それでも、と健司は思った。
明日もほんの少しだけ寄り道をしてみようか、と。
二 決められなかったゴール
健司には十二年間、心の奥にしまい込んだままの記憶がある。
高校三年の冬のことだ。
由香(ゆか)という名前の、同じクラスの女の子だった。色白でいつも髪を一つに結んでいて、笑うと前歯が少しだけのぞくのが可愛かった。図書委員で、放課後の図書室で本を整理している横顔が窓から差す西日に照らされて、健司にはまるで一枚の絵のように見えた。
健司は当時サッカー部だった。足が速いわけでも技術があるわけでもなかったけれど、走ることだけは誰にも負けなかった。ベンチを温める日も多かったが、それでも放課後のグラウンドでボールを追っているときだけは、自分が世界の主役になれるような気がした。
由香はときどきグラウンドのフェンスの向こうから部活を見ていた。健司は彼女と目が合うたびに心臓が口から飛び出しそうになった。
言葉を交わすようになったのは、たまたま図書委員の手伝いを頼まれたのがきっかけだった。返却された本を棚に戻す、ただそれだけの作業。けれど誰もいない放課後の図書室で二人きりで本を運ぶ時間は、健司にとって宝物のようだった。
「大野くんって、サッカー好きなんだね」
「うん。下手だけど」
「そんなことないよ。この前の試合、見てたよ。最後まで走ってたの、大野くんだけだった」
由香は本を棚に戻しながら、こちらを見ずにそう言った。健司はその横顔を見つめたまま何も返せなかった。胸がいっぱいになって、言葉が喉につかえて出てこなかったのだ。
(おれ、この子のことが好きだ)
はっきりとそう自覚した。一生をかけてこの子を守りたい。馬鹿みたいに本気でそう思った。十八歳の健司はそれくらい純粋で、それくらい不器用だった。
卒業式の日、健司は由香に告白するつもりだった。
手紙も書いた。何度も書き直してようやく完成させた一枚を制服の内ポケットに忍ばせて、健司は学校に向かった。
卒業式が終わって、教室で最後のホームルームがあって、みんなが校庭で写真を撮り合っていた。由香は友達に囲まれて笑っていた。
(今だ。今、声をかけるんだ)
健司は足を踏み出そうとした。
けれど――動けなかった。
もし断られたら。もし変な空気になったら。もしいちばん大切だった「ただ友達でいられる時間」さえ壊れてしまったら。
ぐるぐると頭の中で言い訳が回り続けた。そうしているうちに由香は友達と一緒に校門のほうへ歩いていってしまった。一度だけこちらを振り返ったような気がした。けれど健司の足は地面に縫いつけられたように動かなかった。
内ポケットの手紙はついに渡せなかった。
その夜、健司は自分の部屋でその手紙を何度も読み返した。何度も書き直した不器用な、けれどありったけの気持ちを込めた一枚。読み返すたびに涙がこぼれた。明日渡せばいい。卒業しても会おうと思えば会える。そう自分に言い聞かせた。
けれど健司は知っていた。
あの瞬間を逃したら、もう二度と同じ勇気は出ないことを。卒業式という特別な日だから踏み出せるはずだった一歩。それを踏み出せなかった自分は、これからもずっと踏み出せないままだろうことを。
その予感は残酷なほど正しかった。
手紙は机の引き出しのいちばん奥にしまわれた。やがて健司はそれを捨てた。捨てたあとも文面は一字一句覚えていた。それくらい本気だった。本気で誰かを好きになったのだ。なのにその本気を一度も相手に届けられなかった。
それから十二年。
健司は一度も恋愛をしていない。
大学に入っても社会人になっても、心のどこかであの卒業式の日の自分がずっと立ち尽くしたままだった。動けなかった自分。声をかけられなかった自分。一歩を踏み出せなかった自分。
好きになるのが怖い。告白して関係が壊れるのが怖い。傷つくのが何より怖い。
だから健司は誰のことも本気で好きにならないように生きてきた。職場の同僚に「いい人いないの?」と聞かれても「縁がなくて」と笑ってかわす。本当は縁がないんじゃない。自分で縁を切っているのだ。最初の一歩を踏み出さないことで。
結婚だって本当はしたい。
誰かと同じ食卓を囲んで、同じ毎日を積み重ねて年を取っていきたい。一人の部屋に「ただいま」と言える誰かがいる生活に、心の底から憧れている。
けれど――それを口にするたびに、卒業式のあの日の動けなかった自分が健司の足を引っ張る。
「決めにいかなければ、ゴールは生まれない」
サッカーの試合を見ていると解説者がよくそう言う。シュートを打たなければ点は入らない。当たり前のことだ。
わかっている。健司は誰よりもそれをわかっている。
わかっていて、それでもシュートを打てない。
それが大野健司という男だった。
三 常連
七海と再会したのは、最初の夜から二週間ほど経った金曜日のことだった。
「あ、サッカーの人だ」
引き戸を開けて立っていたのはあの夜の彼女だった。健司はジョッキを持ったまま危うく落としそうになった。
「お、お久しぶりです」
「来ちゃいました。だって、ここの煮込み、忘れられなくて」
七海は当たり前のように健司の隣に立った。野島さんが「お嬢さん、また来てくれたのかい」と相好を崩す。
それから七海はちょくちょく「燈」に顔を出すようになった。健司が来る日と不思議と重なることが多かった。最初は偶然だと思っていたが、何度も重なるうちに、健司はだんだん自分が金曜日を心待ちにしている自分に気づくようになった。
二人はいつもカウンターの奥で肩を並べて飲んだ。
七海は聞き上手だった。健司が好きなチームの話をすると本当に楽しそうに相槌を打ってくれた。健司が仕事の愚痴をこぼすと「わかる」「それはひどい」とちゃんと一緒に怒ってくれた。健司は自分がこんなに人と話せる人間だったのかと驚いた。
「大野さんって、不思議な人ですね」
ある夜、七海がハイボールのグラスを揺らしながら言った。
「不思議?」
「うん。すごく優しくて、なんていうか……自分のことは後回しにしてる感じ。いつも一歩引いてるっていうか」
健司はぎくりとした。
「そんなこと、ないですよ」
「ううん、あります。サッカーの話するときだけ前に出てくるの。あとはずっと後ろのほうにいる感じ」
七海はまっすぐに健司を見た。その目にはからかうような色はなかった。ただ静かにこちらを見透かすような、そんな目だった。
「もったいないなあって、思っちゃう」
健司は何も言えなかった。図星すぎて言葉が出なかった。
一度だけ二人で店の外で会ったことがあった。
ある日曜日、健司が好きなチームの大事な試合がある日だった。たまたま店でその話をしていたら、七海が「私も観たい」と言い出した。それで二人は駅前のスポーツバーで待ち合わせることになった。立ち飲み屋の外で明るい時間に会うのは初めてだった。
私服の七海は店で会うときよりも少しだけ大人びて見えた。健司は何を話していいかわからず、最初はぎこちなかった。けれど試合が始まるとそんな緊張もどこかへ飛んでいった。
「あー! 今の、決めてよ!」
「おしい! あの位置からならいけたのに!」
二人は画面に向かって一緒に叫んだ。ゴールが決まればハイタッチをして、相手にボールを奪われれば一緒に頭を抱えた。九十分のあいだ健司は笑いっぱなしだった。誰かと一緒にこんなふうにサッカーを観たのはいつ以来だろう。
試合はロスタイムの劇的なゴールで健司の好きなチームが勝った。
「やった! 入った! 入ったよ、七海さん!」
健司は思わず立ち上がってガッツポーズをした。七海も一緒に飛び上がって喜んでくれた。
「すごい! 最後の最後で逆転! こんなこと、あるんですね!」
「あるんですよ。サッカーは最後までわからないんです」
興奮が冷めると健司はふと我に返った。こんなに子どもみたいにはしゃいでしまって。引かれていないだろうか。けれど七海は頬を上気させて心から楽しそうに笑っていた。
「大野さんと観ると、サッカー、何倍も面白いですね」
その一言が健司の胸にずっと残った。
その日の帰り道、駅で別れるとき、健司は何度も連絡先を聞こうとした。喉まで言葉が出かかった。
けれど――結局言えなかった。
「じゃあ、また、お店で」
そう言って手を振る七海の背中を、健司はただ見送ることしかできなかった。
また、だ。また一歩が踏み出せない。
家に帰ってから健司はベッドの上で何度も自分を責めた。あんなに楽しい時間を過ごしたのに。あんなにいい雰囲気だったのに。どうしてたった一言が言えないのか。
答えはわかっていた。
怖いのだ。今のこの心地いい関係が壊れるのが。一歩踏み込んだ瞬間にすべてが変わってしまうのが。
臆病者。健司は自分のことをそう思った。三十にもなって、好きな人に連絡先一つ聞けない臆病者だ。
七海のことをもっと知りたいと思った。彼女がどんな仕事をしていて、どんな家に住んでいて、休みの日に何をしているのか。けれど健司は自分から踏み込んで聞くことがどうしてもできなかった。
立ち入って嫌われたら。詮索して引かれたら。
そう思うと喉の奥で言葉が固まってしまう。
だから健司は、彼女が話してくれることをただ受け止めることしかできなかった。
わかったのは、七海が以前、東京で美容師をしていたこと。けれどいろいろあって辞めてしまったこと。今は近くのアパレルの会社で働いていること。そして――故郷が遠い地方にあること。
ある雨の夜、客がほかにいなくなった時間に、七海はぽつりと自分の話をした。
「美容師、本当は辞めたくなかったんです」
彼女はハイボールのグラスの中で氷が溶けていくのをじっと見つめていた。
「専門学校を出て、東京の有名なお店に入って。毎日夢中で働いてました。お客さんが私の切った髪を見て、鏡の前で笑ってくれる。あの瞬間がたまらなく好きで」
「いい仕事ですね」
「うん。でも無理しすぎちゃって。手も荒れちゃって。それで体を壊しちゃったんです。しばらく立ってられないくらいに」
健司は彼女の手元を見た。細い指。よく見ると手の甲に薄くかさついた跡が残っていた。何年も水とシャンプー液にさらされ続けた手だった。
「それで東京の店は辞めて。実家に一回帰ったんです。そしたら母も一人で大変そうで。父が死んでから、ずっと一人で店を回してたから」
七海は少しだけ笑った。寂しそうな、けれど温かい笑みだった。
「私、ずっと母の店を継ぐのが嫌だったんですよ。田舎の小さな美容室。お客さんはおばあちゃんばっかり。私はもっと華やかな世界でやりたかった。だから東京に出たんです。半分、逃げるみたいに」
「……」
「でも東京で体を壊して。母の店にしばらくいて。気づいたんです。おばあちゃんたちがすごく嬉しそうな顔をするんですよ、母に髪を切ってもらうと。『また来月もね』って。それがなんだかすごくあったかくて」
七海は健司のほうを向いた。
「お客さんを笑顔にするのは、東京でも田舎でも同じなんだなって。それに気づくのに、ずいぶん時間がかかっちゃいました」
健司はその横顔を見つめていた。
この人はちゃんと自分の足で立とうとしている。一度は逃げた場所と、もう一度向き合おうとしている。それは十二年間、過去から逃げ続けてきた健司には、まぶしいくらいの強さに見えた。
「大野さんは、今の仕事、好きですか?」
ふいに聞かれて健司は言葉に詰まった。
「……どうかな。好きでも嫌いでもない、っていうか。ただ毎日こなしてる感じです」
「そっか」
七海はそれ以上追及しなかった。ただ優しく微笑んだ。
「でも、大野さんがサッカーの話をするときの顔、私、好きですよ。あんなに子どもみたいに目を輝かせるんだもん。きっと大野さんには、ちゃんと好きなものがあるんですね」
健司の胸が温かくなった。
誰かに自分の「好き」を肯定してもらえる。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいものだとは健司は知らなかった。
七海はグラスの底を見つめながら静かに言った。
「母も、もう若くないから。最近、腰を悪くしちゃって。本当は私が帰って継がなきゃいけないんですけど……」
「帰る、んですか」
健司の声が思いのほか固くなった。
七海は少しだけ寂しそうに笑った。
「わからないです。でも、ずっとこのままじゃいられないですよね」
その夜、健司はいつもより酔いが回らなかった。
帰り道、いつもの線路沿いを歩きながら、健司は何度も七海の言葉を反芻していた。
(帰る、か)
もし七海が遠くへ行ってしまったら。もう二度とあの店で肩を並べて飲むことはなくなる。サッカーの話も仕事の愚痴も聞いてもらえなくなる。
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
その感情に健司は見覚えがあった。
十二年前の図書室の西日の中で感じたあの胸の痛みと――それはまったく同じものだった。
(おれは……七海さんのことが)
健司は夜道のまんなかで立ち止まった。
『好きだ。』
そうはっきりと自覚した瞬間、健司の心臓は喜びではなく恐怖で締めつけられた。
まただ。また同じことが起きている。好きになって、けれど動けなくて、ただ立ち尽くしているうちに相手は遠くへ行ってしまう。
卒業式のあの日のように。
「……いやだ」
健司は誰もいない夜道で小さく呟いた。
「もういやだ。あんな思いは」
けれど――それでも健司の足は前に進まなかった。
四 旅の夜
七月の連休、健司は大学時代の友人たちと旅行に出かけた。
毎年恒例の男四人の気楽な旅だ。今年の行き先は海沿いの温泉町だった。学生の頃から変わらないメンバー――サッカーサークルで知り合った田中、ヤス、そして幹事気質の村上。みんな三十を過ぎて、結婚した者もいれば独身を貫いている者もいる。けれど集まればすぐに二十歳の頃に戻ってしまう。
昼間は海辺を歩き、海鮮丼を食べ、地元のスタジアムでサッカーの試合を観戦した。夜は温泉に浸かって宿の部屋でビールを開けた。
スタジアムでは四人とも童心に返って声を張り上げた。応援歌を歌い、ゴールに沸き、審判の判定にブーイングを送った。学生の頃、サッカーサークルで毎週のように集まっては河川敷でボールを蹴っていたあの頃と何も変わらない。三十を過ぎてもボールが転がれば心が躍る。それは健司にとって変わらない真実だった。
試合の帰り道、田中がしみじみと言った。
「いいよなあ、こうやって好きなもんで盛り上がれる仲間がいるのは」
「ほんとな」とヤス。「会社の付き合いの飲み会なんて、気ぃ使うばっかりでちっとも楽しくねえもん」
健司はその言葉に深く頷いた。会社ではいつも誰かの顔色をうかがっている。本音なんてめったに言えない。けれどこの仲間たちの前では、健司はただのサッカー好きの不器用な大野健司でいられた。
温泉につかりながら、健司はふと七海のことを考えた。
彼女の前でも健司は自分を飾らずにいられた。サッカーの話ではしゃいでも引かれなかった。むしろ「そういうところが好き」だと言ってくれた。会社でも見せられない素顔を、なぜか出会って間もない彼女には見せることができた。
それがどういうことなのか。三十歳になってようやく健司にもわかりかけていた。
「いやー、しかし健司は変わらないなあ」
ヤスが缶ビールを片手に笑った。
「何が」
「相変わらず彼女いないんだろ?」
健司は苦笑して頭をかいた。
「うるさいよ」
「もう三十だぞ。そろそろ本気で考えないと」
既婚者の田中がしみじみと言った。田中は去年、子どもが生まれたばかりだ。スマホの待ち受けは生まれたての我が子の写真になっている。
「結婚はいいぞ、健司。大変だけどな。でも帰る家に誰かがいるってのは、なんつーか……ちゃんと生きてるって感じがする」
健司は何も言えずにビールを一口飲んだ。
帰る家に誰かがいる。
それは健司がずっと喉から手が出るほど欲しかったものだった。
「実はさ」
気づくと健司はぽつりと口を開いていた。
「……気になる人が、いるんだ」
部屋が一瞬静まり返った。それからわっと歓声が上がった。
「えっ、マジで!?」
「おい、健司から色恋の話が出るなんて雪でも降るぞ!」
健司は顔を赤くしながら七海のことを話した。立ち飲み屋で出会ったこと。サッカーの話で意気投合したこと。聞き上手で優しくて、笑うと右の頬にえくぼができること。そして――彼女が遠くの故郷へ帰ってしまうかもしれないこと。
話し終えるとヤスが呆れたようにため息をついた。
「で、お前、その人に告白したの?」
「……してない」
「連絡先は?」
「……交換、してない」
「はあ!?」
ヤスが缶ビールをテーブルに叩きつけるように置いた。
「お前なあ! 二年も通ってる店で、何ヶ月も一緒に飲んでて、連絡先も聞いてないのか!? しかもその人、いなくなるかもしれないんだろ!?」
「だ、だって……」
「だってじゃない! お前、高校のときと同じことやってるぞ!」
その言葉に健司はぴたりと固まった。
高校のとき。卒業式のあの日のこと。健司は酔った勢いで、いつだったかこの仲間たちに由香のことを話したことがあった。告白できずに終わった初恋の話を。
「覚えてるよ、おれたち」
今まで黙っていた幹事の村上が静かに口を開いた。
「お前が卒業式に告白できなかった話。お前、あのとき泣きそうな顔で言ってたよな。『一歩が踏み出せなかった』って」
健司はうつむいた。畳の目をじっと見つめた。
「あれから十二年だぞ、健司」
村上は健司の目をまっすぐに見た。
「お前、十二年間ずっと後悔してきたんだろ。あのとき動いてれば、って。それなのに、また同じことをやろうとしてるのか?」
健司の喉の奥が熱くなった。
「……怖いんだよ」
絞り出すように健司は言った。
「断られるのが怖い。今の関係が壊れるのが怖い。今だって楽しいんだ。あの店で肩を並べて飲んでるだけで、おれは十分幸せなんだ。それを自分から壊すなんて……」
「壊れるかどうかは、やってみなきゃわからないだろ」
田中が静かに言った。
「なあ、健司。サッカー好きだろ。おれたちもだ。だから言うけどさ」
田中は缶ビールを掲げた。
「シュート打たなきゃ、ゴールは絶対に生まれないんだぞ。打って外すのはしょうがない。誰だって外す。でもな、打たないのは一番もったいない」
健司は顔を上げた。
窓の外では波の音が規則正しく繰り返されていた。
「枠を外したシュートはまた打てばいい。けど、打たなかったシュートは一生、後悔として残る。お前が今まさに十二年前の後悔を抱えてるみたいにな」
「……」
「おれたちはお前の味方だよ、健司」
ヤスがにっと笑った。
「だから頼むから打ってこい。今度こそ。後ろからちゃんと見ててやるから」
健司の目にじわりと熱いものが滲んだ。
三十歳の男が温泉宿の部屋で友達の前で涙ぐんでいる。情けない話だ。けれど誰も笑わなかった。みんなただ静かに健司のことを見守っていた。
学生の頃と何も変わっていない。下手くそでも最後まで走る健司を、こいつらはいつも後ろから応援してくれていた。
「……ありがとう」
健司は涙を手の甲でぬぐってようやくそう言った。
「おれ、帰ったら……ちゃんと伝えるよ。七海さんに」
「おう」
「今度こそ、シュート打ってくる」
その夜、健司はなかなか寝つけなかった。
布団の中で何度も七海の顔を思い浮かべた。あの笑顔をもう二度と見られなくなる前に。あの声をもう二度と聞けなくなる前に。
今度こそ動くんだ。
健司は固くそう誓った。
五 空席
旅行から帰った次の金曜日。
健司はいつもより少しだけ早く会社を出た。心臓が朝からずっと落ち着かなかった。今夜、七海が店に来たらちゃんと話そう。連絡先を聞いて、今度二人で食事に誘おう。そして――いつかちゃんと気持ちを伝えるんだ。
胸ポケットにはお守りのように一枚のメモを忍ばせていた。連絡先を書いて渡すための、震える字で書いたメモ。十二年前の渡せなかった手紙の代わりに。
「いらっしゃい」
引き戸を開けると野島さんがいつものように迎えてくれた。
「生で」
「あいよ」
健司はカウンターの奥のいつもの場所に立った。隣のスペースを無意識に少しだけ空けて。
七海を待った。
一杯目のジョッキが空いた。七海は来なかった。
二杯目を頼んだ。煮込みも頼んだ。テレビではサッカーの試合が流れていた。けれど健司の目は何度も引き戸のほうを向いていた。
来なかった。
三杯目。時計の針は九時を回っていた。
(今日は来ないのかな)
健司の胸にじわじわと不安が広がっていった。
来ない日だってもちろんある。仕事が忙しい日も疲れて帰る日もあるだろう。たまたま今日がそういう日なだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、健司は四杯目を頼もうか迷ってやめた。
「野島さん」
「ん?」
「あの……七海さん、最近、来てます?」
野島さんはグラスを拭く手を止めて、少しだけ困ったような顔をした。
「ああ……お嬢さんね。実はな、大野ちゃん」
健司の心臓が嫌な音を立てた。
「先週、来たんだよ。大野ちゃんが旅行に行ってた週だ。お嬢さん、一人で来てな。しばらく店にいたんだけど」
「……」
「大野ちゃんのこと聞かれたよ。『今日は来ないんですか』って。来ないって言ったら、なんだか寂しそうな顔してな」
健司はジョッキを握る手に力がこもるのを感じた。
「それでな、帰り際にお嬢さん、言ってたんだ」
野島さんは少しだけためらってから続けた。
「『近いうちに田舎に帰ることにしました』って。『お母さんの具合がよくないみたいで』って」
頭の中が真っ白になった。
「いつ……いつ、帰るって」
「さあ……そこまでは聞いてないけどな。でも口ぶりからすると、もうそんなに先の話じゃなさそうだったな」
健司はその場に立ち尽くした。
まただ。
また同じことが起きている。
好きになって、けれど動けなくて、自分が旅行に行っているあいだに相手は遠くへ行く準備を始めていた。
卒業式の日、健司がぐずぐずしているあいだに由香が校門の向こうへ歩いていったように。七海もまた健司の手の届かないところへ行こうとしている。
「……っ」
健司は胸ポケットのメモを握りしめた。
震える字で書いた連絡先。伝えるはずだった言葉。
また伝えられないまま終わるのか。
また十二年前と同じ後悔を抱えて生きていくのか。
「野島さん、お会計、お願いします」
健司はほとんど無意識にそう言っていた。
「おう……大野ちゃん、大丈夫か?」
「大丈夫です。すみません、今日はこれで」
店を出て、健司は夜道をあてもなく歩いた。
七海の連絡先を健司は知らない。彼女がどこに住んでいるかも、どこの会社で働いているかも本当は何も知らない。あれだけ何度も肩を並べて飲んだのに。あれだけたくさん話したのに。健司は彼女に踏み込むことをずっと怖がっていたから。
だから今、健司には彼女を探す手立てが何もなかった。
馬鹿だ。本当に救いようのない馬鹿だ。
健司は夜の街のまんなかで立ち止まった。
空を見上げると月が滲んでいた。雨でもないのに滲んでいた。それが涙のせいだと気づくのにしばらくかかった。
その週末、健司は何をする気にもなれなかった。
土曜日は一日中、部屋のソファに沈み込んでいた。録画しておいたサッカーの試合を流してみたが、内容はまるで頭に入ってこなかった。画面の中では選手たちがゴールに向かって走っている。ボールを奪われても奪われても、また前を向いて走り出す。その姿がやけに眩しくて、健司は途中で再生を止めた。
日曜日には駅の周りを意味もなく歩いた。七海が働いていると言っていたアパレルの会社。それらしいビルの前を何度も通り過ぎた。もちろん日曜日のオフィス街に人影はない。わかっていて、それでも歩かずにいられなかった。
スマホを開いては閉じた。連絡先の一つでも知っていれば。SNSのアカウントの一つでも聞いていれば。後悔ばかりが押し寄せてきて、健司はベンチに座り込んだ。
ヤスからメッセージが届いたのはその時だった。
『どうだ、シュート打ったか?』
健司はしばらく画面を見つめてから、正直に返した。
『打つ前に、試合が終わりそうだ』
すぐに電話がかかってきた。健司は事情を話した。七海が田舎に帰ること。連絡先すら知らないこと。もう会える保証がどこにもないこと。
電話の向こうでヤスはしばらく黙っていた。それから言った。
『まだ帰ったって決まったわけじゃないんだろ。なら試合終了のホイッスルはまだ鳴ってない。諦めるのは鳴ってからにしろ』
健司は空を見上げた。冬でもないのに、空気が澄んで見えた。
『……そうだな』
『おう。走れるうちは走れ。お前の取り柄はそれだけなんだから』
ひどい言い草だったけれど、健司は少しだけ笑えた。電話を切ってから、健司は立ち上がった。何ができるかはわからない。それでも、うずくまっているよりはましだった。
六 西日の中で
翌週、健司は有給休暇を取った。
どうしても行きたい場所があった。
電車を乗り継いで降り立ったのは、健司が育った郊外の町だった。十二年前まで通っていた母校の高校がまだそこにあった。
べつに誰かに会えるわけではない。ただ健司は自分の中の何かにけりをつけたかった。七海のことで心がぐちゃぐちゃになっていた。このまま同じ後悔を繰り返すなら、せめて一度、自分が逃げ続けてきた場所と向き合いたかった。
校門は昔のままだった。健司はしばらくそこに立って校庭を眺めた。夏休みのグラウンドではサッカー部の後輩たちがボールを追って走っていた。十二年前の自分がそこに重なって見えた。
「……大野、くん?」
背後から声がした。
振り返って健司は息を呑んだ。
由香だった。
十二年ぶりの由香だった。少しだけ大人になって、けれど面影はあの頃のままだった。髪は短く切られていたけれど、笑うと前歯がのぞくところは変わっていなかった。
「やっぱり大野くんだ。わあ、久しぶり!」
「ゆ、由香……さん。どうしてここに」
「私、今、この高校で先生してるの。図書館司書」
由香はにっこりと笑った。
「びっくりした。今日たまたま学校に用事があって来たんだけど、まさか大野くんに会うなんて」
健司は夢でも見ているような気分だった。十二年間、心の奥にしまい込んでいた人が目の前にいる。
二人は近くの喫茶店に入った。
由香は結婚していた。二年前に同じ職場の先生と。来年には子どもが生まれる予定だという。お腹はまだそんなに目立たなかったけれど、由香は幸せそうにそれを話した。
「大野くんは? 結婚は?」
「……いや、おれはまだ」
「そっか」
由香はコーヒーカップを両手で包みながら、懐かしそうに目を細めた。
「あのね、大野くん。ずっと言おうか迷ってたことがあるんだ」
「え?」
「高校のとき……私、大野くんのこと、ちょっといいなって思ってたんだよ」
健司の心臓が止まりそうになった。
「図書室で一緒に本を片付けたの、覚えてる? 私、あの時間がすごく好きで。大野くん、サッカー下手なのに最後まで一生懸命走ってて。そういうところ、素敵だなって思ってた」
「……」
「卒業式の日、ね」
由香は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「私、ちょっと期待してたの。大野くんが何か言ってくれるんじゃないかって。だから校門のところで一回、振り返ったんだけどな」
健司は両手で顔を覆いたくなった。
あの日、由香が振り返ったのは気のせいではなかった。彼女は待っていたのだ。健司の一歩を。健司が踏み出せなかったたった一歩を。
「ごめん」
健司は絞り出すように言った。
「おれ、あの日……由香さんに告白するつもりだったんだ。手紙も書いてた。でも……怖くて。断られるのが、関係が壊れるのが怖くて。動けなかった。それで……それでずっと後悔してた。十二年間、ずっと」
由香はしばらく黙っていた。それからふっと優しく笑った。
「そっか。じゃあ、おあいこだね」
「え?」
「私も怖くて、自分からは言えなかったんだもん。おあいこ」
由香は窓の外を見た。喫茶店の窓から午後の西日が差し込んで彼女の横顔を照らしていた。十二年前の図書室の西日と同じ光だった。
「でもね、大野くん。私、今、幸せだよ。だからあの日のことはもう後悔してない。ちゃんと別の幸せにたどり着いたから」
由香は健司のほうを向いた。
「だから大野くんも、もういいんだよ。あの日の自分のこと、許してあげて」
健司の目から涙がこぼれた。
十二年間、健司はあの日の自分をずっと責め続けてきた。動けなかった情けない自分を。その自分が健司の足をずっと引っ張り続けていた。
けれど――由香はその自分を許してくれた。
「ありがとう」
健司は涙をぬぐいながら言った。
「由香さん。おれ、今、好きな人がいるんだ」
由香の目がぱっと輝いた。
「ほんと?」
「うん。でもその人、もうすぐ遠くに行っちゃうかもしれなくて。おれ、また何も言えないまま終わりそうで……」
「だめだよ、大野くん」
由香はきっぱりと言った。
「同じ後悔を二回もしちゃだめ。一回で十分でしょ?」
健司ははっと顔を上げた。
「あのね、大野くん。私、知ってるよ。大野くんがどれだけ一生懸命な人か。サッカー下手なのに最後まで走るような人だってこと。だったら――最後まで走りなよ。その人のところまで、ちゃんと走っていきなよ」
健司の胸に熱いものがこみ上げてきた。
最後まで走る。
それは十二年前、由香がフェンスの向こうから見ていてくれた、健司のたった一つの取り柄だった。
「うん」
健司は立ち上がった。
「おれ、走るよ」
由香が笑った。あの頃と同じ笑顔で。
「行ってらっしゃい、大野くん。ちゃんと決めてきて」
七 アディショナルタイム
喫茶店を飛び出して健司は走った。
駅まで走った。電車に乗っていつもの街まで戻った。心臓がはち切れそうだった。けれど足は止まらなかった。
(七海さんを探すんだ)
でも――どうやって。健司は彼女の連絡先も家も職場も知らない。
ただ一つ手がかりがあるとすれば。
あの店だ。「燈」だ。あの店ならもしかしたら七海が最後に顔を出すかもしれない。故郷に帰る前にもう一度あの煮込みを食べに来るかもしれない。
健司は走った。高架下の赤提灯の一角まで。息を切らして引き戸を勢いよく開けた。
「いらっしゃ……おう、大野ちゃん。どうした、そんなに慌てて」
店の中を見回した。けれど――七海はいなかった。
「野島さん、七海さんは!? 七海さん、来てませんか!?」
「お嬢さん? いや、今日は来てないけど……」
健司はその場に崩れ落ちそうになった。
遅かったのか。もう行ってしまったのか。
「あ、でもな」
野島さんが思い出したように言った。
「お嬢さん、昨日少し来てくれて言ってたよ。明日――いや、もう今日か。今日の夜の最終の新幹線で田舎に帰るって。荷物の整理がようやく終わったからって」
健司は店の時計を見た。
夜の九時を過ぎていた。
「最終の新幹線……何時ですか!?」
「さあ、そこまでは……でも最終なら、たしか十時前後じゃないか?」
あと一時間もない。
健司は引き戸に手をかけた。けれど行く先がわからない。七海がどの駅からどの新幹線に乗るのかもわからない。
「待て、大野ちゃん」
野島さんが呼び止めた。
「お嬢さん、言ってたよ。実家が東北のほうだって。なら乗るのは東京駅か上野駅の東北新幹線だ」
東京駅。
ここから電車で三十分。急げば――間に合うかもしれない。
「野島さん、ありがとう!」
健司は店を飛び出した。
駅まで全力で走った。改札を抜けてホームに駆け込んで、ちょうど来た電車に滑り込んだ。心臓が痛いくらいに脈打っていた。スーツのシャツは汗で背中に貼りついていた。
電車の窓に自分の顔が映っていた。三十歳の、息を切らした必死の形相。みっともない。けれど健司は生まれて初めて、本気で何かに向かって走っていた。
(間に合ってくれ。頼む。間に合ってくれ)
十二年前、健司は走らなかった。たった数メートルの、由香までの距離を走れなかった。
でも今は違う。
何十キロでも走ってやる。彼女のところまで。最後まで。最後のホイッスルが鳴るまで。
サッカーにはアディショナルタイムがある。
九十分が終わってもすぐには試合は終わらない。止まっていた時間の分だけロスタイムが加えられる。最後の最後までまだチャンスは残されている。決めきれなかった者にも、もう一度だけゴールを狙う時間が与えられる。
健司の人生の九十分は、とっくに終わっていたのかもしれない。卒業式のあの日に。
でも――まだ終わっていない。
まだアディショナルタイムが残っている。
東京駅に着いて、健司は人混みをかき分けて走った。東北新幹線の改札へ。電光掲示板を見上げた。
最終のはやぶさ。発車まであと七分。
健司は入場券を買って改札を抜けた。ホームへの階段を二段飛ばしで駆け上がった。膝が笑っていた。肺が焼けるようだった。それでも足を止めなかった。
ホームに出た。
長い新幹線の車両が停まっていた。発車のベルが鳴り始めていた。たくさんの人が乗り込んでいく。
健司はホームを走りながら探した。
あの笑顔を。右の頬のえくぼを。
「七海さん!」
声の限り叫んだ。
「七海さん! いたら返事して!」
人々が驚いて健司を振り返った。けれど健司は構わなかった。みっともなくてもいい。情けなくてもいい。もう二度と後悔したくなかった。
「七海さーん!!」
その時。
車両のドアのところで一人の女性が振り返った。
大きなスーツケースを引いていた。健司の声に信じられないというように目を見開いていた。
七海だった。
「……大野、さん?」
健司は走った。最後の力を振り絞って。彼女のところまで。
「七海さん!」
ホームを駆け抜けて、健司は彼女の前で止まった。息が上がって言葉がすぐには出てこなかった。膝に手をついて肩で息をした。
「大野さん、どうして……どうしてここに」
「……っ、はあ、はあ……」
健司は顔を上げた。
発車のベルが鳴り続けていた。時間がない。あと数十秒でドアが閉まる。
でも、もう迷わなかった。
「七海さん。おれ、あなたのことが好きです」
ホームの雑踏の中で、健司ははっきりと言った。
七海の目が見開かれた。
「あの店であなたと飲む時間が、おれの一番の楽しみでした。あなたが笑うと、おれも嬉しくて。あなたが帰っちゃうって聞いて、おれ、どうしていいかわからなくて」
ベルが鳴り続けている。
「おれ、ずっと臆病だったんです。好きな人に何も言えないまま、後悔ばっかりしてきた。でも――もう後悔したくない。あなたを見送ったまま、また何年も後悔するなんて絶対にいやだ」
健司の目から涙がこぼれた。
「だから言います。おれ、あなたのことを一生かけて守りたい。離れていても構わない。会いに行きます。何度でも。あなたが、おれのことを少しでもいいなって思ってくれてるなら……おれにチャンスをください」
七海はしばらく健司を見つめていた。
その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……ばか」
七海が言った。
「ばかですよ、大野さん。なんで……なんでもっと早く言ってくれなかったんですか」
彼女は泣きながら笑っていた。右の頬にえくぼを作って。
「私、ずっと待ってたんですよ。大野さんが何か言ってくれるの。だから店に何回も行ったんです。連絡先、聞いてくれるかなって。誘ってくれるかなって。でも大野さん、全然踏み込んでこないから」
七海は涙を手の甲でぬぐった。
「私、田舎に帰る前に、もう一回だけあの店に行こうって思ってました。それで、もし大野さんがいたら、今度は私から言おうって。連絡先、渡そうって」
彼女はポケットから一枚の折りたたんだ紙を取り出した。
健司の胸ポケットにあるメモと、同じような。
「二人とも、おんなじですね」
七海が笑った。
発車のベルが止まった。ドアが閉まりかけた。
「七海さん!」
「大野さん!」
二人は同時に手を伸ばした。
健司は閉まりかけたドアの前で七海の手をつかんだ。そして彼女をホームへと引っ張り出した。スーツケースごと。
ドアが閉まった。
最終のはやぶさが、ゆっくりとホームを滑り出していった。
二人はホームに立っていた。手をつないだまま。肩で息をしながら。
「……乗らなくて、よかったんですか」
健司がおそるおそる聞いた。
七海は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでもにっこりと笑った。
「明日の朝一の新幹線にしますよ。実家にはちゃんと帰ります。腰の具合も見てあげなきゃいけないし。お店も継ぎます」
七海は健司の手をぎゅっと握りなおした。
「でも――それは大野さんとちゃんと話してから。これからのこと、二人でちゃんと考えてから。だって」
彼女はいたずらっぽく健司を見上げた。
「一生かけて守ってくれるんでしょう?」
健司は泣き笑いの顔で大きく頷いた。
「守ります。何があっても」
「じゃあ、決まりですね」
七海が笑った。
誰もいなくなった新幹線のホームで、二人はただ手をつないで立っていた。
遠くで最終列車の走り去る音が聞こえた。
でも健司はもう何も後悔していなかった。
最後まで走りきった。
今度こそシュートを打ちきった。
そして――ゴールネットを揺らしたのだ。
八 ホイッスルの先へ
それからの半年は、健司の人生でいちばんめまぐるしくて、いちばん幸せな日々だった。
七海は約束通り故郷に帰ってお母さんの美容室を継いだ。健司とは遠距離になった。けれど健司は有給を使っては何度も東北まで会いに行った。新幹線の中でサッカー中継をスマホで見ながら、七海に会える時間を指折り数えた。
週末ごとに電話をした。たわいもない話を何時間も。七海のお母さんとも電話越しに話すようになった。「健司さんはいい人ね」とお母さんが言ってくれたとき、健司は電話口で泣きそうになった。
初めて七海の実家を訪ねた日のことは、一生忘れないだろう。
新幹線を降りると、東京とはまるで違う澄んだ空気が肺に流れ込んできた。駅まで迎えに来てくれた七海は、東京にいた頃よりも少しだけ日に焼けて、そして何倍も生き生きとして見えた。
商店街の外れにある小さな美容室。色褪せた看板に「美容室ななみ」と書いてあった。
「え、これって」
「私の名前、店から取ったんですよ。逆じゃなくて」
七海が笑った。父親が母親のために建てた店で、生まれてくる娘に同じ名前をつけたのだという。店の中は古いけれど隅々まで手入れが行き届いていて、鏡の前の椅子が二つ、行儀よく並んでいた。
七海のお母さんは、腰をかばいながらも元気な人だった。健司が緊張してぎくしゃくと挨拶をすると、お母さんは目を細めて笑った。その笑い方が七海とそっくりで、健司は少しだけ緊張がほどけた。
夕食には手料理の芋煮が出た。「燈」の煮込みとはまた違う、素朴で沁みる味だった。健司が「美味しいです」と言うと、お母さんは「あら、野島さんの煮込みには負けるでしょう」といたずらっぽく返した。七海が店のことまで話していたのだと知って、健司の胸はじんわりと熱くなった。
帰りの新幹線のホームで、七海が言った。
「健司さん。遠くてごめんなさい」
「何言ってるんですか」
健司は首を振った。
「おれ、決めたんです。どんなに遠くても、会いに来るって。あの夜、ホームで決めたんです。だから――遠いのは、全然、障害じゃないです」
七海は一瞬泣きそうな顔をして、それからいつものえくぼを見せた。
「じゃあ、また来月」
「はい。また来月」
新幹線のホームから手を振る七海の姿が見えなくなるまで、健司も手を振っていた。寂しくないと言えば嘘になる。けれど不思議と、胸の中は温かかった。会えない時間は、もう不安の種ではなかった。次に会う日までの、ただの助走だった。
大学の友人たちは自分のことのように喜んでくれた。
「やったじゃないか、健司!」
「ついにシュート決めたな!」
ヤスが、田中が、村上が、みんなで肩を叩いてくれた。健司は照れながら、けれど誇らしい気持ちでそれを受け止めた。
初恋の由香にも報告のメッセージを送った。由香は『よかったね。最後まで走ったんだね』と返してくれた。健司はそのメッセージを何度も読み返した。
立ち飲み屋「燈」の野島さんは、二人の馴れ初めをすっかり自分の手柄のように語るようになった。
「うちの煮込みが二人を結びつけたんだよ。なあ、大野ちゃん」
「はいはい、東京一の煮込み、ですもんね」
「わかってるじゃないか」
そして――その年の暮れ。
健司は東北の雪の降る町で七海にプロポーズをした。
お母さんの美容室の定休日の夜だった。健司は震える手で小さな箱を差し出した。
「七海さん。おれと結婚してください」
今度はベルも鳴っていなかった。電車も来なかった。ただしんしんと雪が降っていた。
でも健司はもう怖くなかった。
あの新幹線のホームで一度シュートを打ちきった。最初の一歩を踏み出した。だから二歩目はもう震えなかった。
七海は涙をこぼしながら頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
二人は雪の中で抱き合った。
雪は降り続いていたけど、二人のいる周りは暖かかった。
翌年の春、二人はささやかな結婚式を挙げた。
健司の地元の小さな教会だった。派手なことは二人とも好きではなかった。だから本当に大切な人だけを招いた。
大学の仲間たちが駆けつけてくれた。ヤスはスピーチで、健司が新幹線のホームまで走った話を大げさに面白おかしく語って、会場を笑いと涙でいっぱいにした。
「こいつはね、十二年間シュートを打てなかった男なんですよ。それが最後の最後で人生最高のシュートを決めたんです。アディショナルタイムの逆転ゴールです!」
会場がわっと沸いた。健司は隣に座る七海と顔を見合わせて笑った。
立ち飲み屋「燈」の野島さんも、めったに着ないスーツに身を包んで最前列で目を真っ赤にしていた。
「お嬢さんと大野ちゃんが……うちの店で……」
言葉にならず、ただ何度もハンカチで目を押さえている野島さんを見て、七海が立ち上がって駆け寄った。
「野島さん、ありがとう。あのお店がなかったら、私たち出会えてなかった」
「いいんだよ、いいんだよ……幸せにおなりよ」
披露宴の終わりがけ。健司は会場の隅に一人の女性の姿を見つけた。
由香だった。お腹の大きくなった由香が、夫と一緒に微笑んで立っていた。
健司は七海を連れて二人のもとへ挨拶に行った。
「来てくれてありがとう」
「おめでとう、大野くん」
由香は心から嬉しそうに言った。それから健司にだけ聞こえるようにそっと囁いた。
「ちゃんと最後まで走ったんだね」
健司は頷いた。胸がいっぱいで言葉が出なかった。
あの日、図書室の西日の中で何も言えなかった少年はもういない。
由香が健司の背中を押してくれた。仲間たちが後ろから応援してくれた。野島さんが出会いの場をくれた。そして七海が――待っていてくれた。
たくさんの人に支えられて、健司はようやく最初の一歩を踏み出せたのだ。
健司は思う。
あの夜、もし新幹線のホームまで走らなかったら。あの時、もしシュートを打たなかったら。きっと自分は今でもあの立ち飲み屋で一人ジョッキを傾けながら、また一つ後悔を抱えていただろう。
最初の一歩は怖かった。死ぬほど怖かった。膝が笑って、声が震えて、心臓が口から飛び出しそうだった。
でも――踏み出してみれば、その先にはちゃんと続きがあった。
人生は九十分では終わらない。
決めきれなかった日々にも、ちゃんとアディショナルタイムがある。
止まっていた時間の分だけ、まだチャンスは残されている。
大切なのはただ一つ。
最後のホイッスルが鳴るまで――
決して走るのをやめないこと。
シュートを打ちにいくこと。
ゴールは、打った者にしか生まれないのだから。
もしあなたが今、誰かのことを思っていて、けれど最初の一歩が踏み出せずにいるのなら。
どうか思い出してほしい。
打たなかったシュートは一生の後悔になる。
でも打ったシュートは――たとえ外したとしても、あなたを前に進めてくれる。
あなたの試合はまだ終わっていない。
今はアディショナルタイムだ。
さあ、走ろう。
あの人のところまで。
最後まで。
(了)