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一包化できない私たち

    あらすじ
    早瀬陽菜、26歳。総合病院の薬剤師2年目。疑義照会も病棟業務もこなせるようになり、患者さんにも看護師にも頼られる毎日に、少しずつ自信がついてきた。そんな春、新人・深川澪の教育係に任命される。

     ところが澪は、陽菜とは正反対の性格だった。無口で慎重すぎて、何を考えているかわからない。明るさと勢いで乗り切ってきた陽菜の教え方は、ことごとく空振り。焦りが募る中、ひとつのすれ違いが澪を追い詰めてしまう。

     そんなとき陽菜が目にしたのは、澪が密かに書きためていた一冊のノートだった――。

     薬は一包化できても、人は一包化できない。教える側が教わる側から学んでいく、新米教育係の一年の物語。

    本編
    一 二年目の春
     朝八時の調剤室は、一日でいちばん静かだ。

     自動分包機がまだ眠っていて、電子カルテの端末が立ち上がる音だけが響いている。白衣に袖を通して、名札をまっすぐに直す。「薬剤部 早瀬陽菜(はやせ ひな)」。この名札を胸につけて働き始めてから、ちょうど一年が経った。

     私は青葉総合病院の薬剤師だ。二十六歳、入職二年目。

     一年前の私は、この調剤室で毎日おろおろしていた。処方箋一枚さばくのに先輩の三倍の時間がかかって、疑義照会の電話では声が裏返って、医師に「で、何が聞きたいの?」と言われて頭が真っ白になった。錠剤の棚の配置を覚えるだけで一ヶ月かかった。家に帰ると疲れ果てて、そのまま眠ってしまいそうな日もあった。

     でも今は違う。

     処方箋を見れば、患者さんの病態がある程度読めるようになった。腎機能の数値を見て「この用量、多くないですか」と医師に電話をかけることも、もう怖くない。病棟に上がれば看護師さんたちが「陽菜ちゃん、ちょうどよかった。これ聞きたかったの」と声をかけてくれる。

     たとえば先週も、こんなことがあった。

     整形外科の処方箋に、痛み止めのロキソプロフェンが載っていた。何の変哲もない処方に見える。でも患者さんの薬歴を開くと、内科から胃潰瘍の治療薬が出ている。つまりこの人は胃潰瘍の既往がある。ロキソプロフェンのような消炎鎮痛薬は、胃を荒らすことがある薬だ。

     私は受話器を取って、整形外科の外来に内線をかけた。

    「薬剤部の早瀬です。本日の処方についてお伺いしたいのですが。こちらの患者さん、内科で胃潰瘍の治療中でして。消炎鎮痛薬の中でも胃への負担が少ないものへの変更か、胃薬の併用をご検討いただけないでしょうか」

    「あー、そうなの? じゃあセレコキシブに変えとくよ。ありがとう」

     電話を切って、処方変更の入力を確認して、次の処方箋へ。ほんの三分の出来事だ。患者さんは、自分の胃が守られたことを知らない。それでいい。疑義照会というのはそういう仕事だ。医師の処方を疑うことが仕事なんじゃない。処方箋の向こうにいる人を、最後の砦として守ることが仕事なのだ。

     一年前は受話器を持つ手が震えていたのに、今はもう、日常になった。

     自分で言うのもなんだけど、私はこの仕事に向いていると思う。

     人と話すのが好きだ。患者さんのベッドサイドで薬の説明をするのがいちばん好きだ。薬の名前をただ読み上げるんじゃなくて、その人の生活に薬を落とし込んでいく。「この薬は朝ごはんのあとに」じゃなくて、「梅本さん、朝は納豆ごはん派でしたよね。あれ食べたあとでいいですよ」って言えるようになるまで、ちゃんと患者さんの話を聞く。

     梅本チヨさん、八十二歳。心不全で入退院を繰り返している、私の「推し患者さん」だ。もちろんそんな言葉、カルテには書かないけれど。

    「あら陽菜ちゃん、今日も来てくれたの」

     病棟に顔を出すと、梅本さんは決まって嬉しそうに手招きをする。

    「梅本さん、新しく増えたお薬の説明に来ました。あと、こないだの飲み忘れ問題の続きも」

    「やあねえ、バレてるのね」

    「バレてますよ。残薬の数、合わないですもん」

     梅本さんはころころと笑う。八種類の薬を飲んでいる梅本さんにとって、薬の管理はけっこうな重労働だ。だから私は一包化を提案した。朝の分、昼の分、夜の分。飲むタイミングごとに薬を一つの袋にまとめてしまう方法だ。袋には日付と名前が印字されるから、飲んだか飲んでいないかが一目でわかる。

    「便利ねえ、これ。全部ひとまとめになっちゃうんだから」

    「そうなんです。人間もこれくらい簡単にまとまるといいんですけどね」

     そのときはただの軽口だった。この言葉をあとで何度も思い出すことになるなんて、思ってもいなかった。

     三月に入ってすぐ、薬剤部長に呼ばれた。

     部長室と言っても、調剤室の奥にあるパーティションで仕切られた小さなスペースだ。部長の机の上には、いつも学会誌が積み上がっている。

    「早瀬さん、今年うちに新人が一人入るのは知ってるね」

    「はい。国家試験、受かったんですよね」

    「その子の教育係を、早瀬さんにお願いしたい」

     一瞬、聞き間違いかと思った。

    「私、ですか? まだ二年目ですけど」

    「二年目だからだよ。新人がつまずく場所を、いちばん最近通ってきた人がいい。それに早瀬さんは病棟でも評判がいい。コミュニケーションの取り方を、いちばん近くで見せてあげてほしい」

     正直に言うと、嬉しかった。

     評価されている。認められている。一年間必死でやってきたことが、ちゃんと形になっている。廊下を歩きながら、私はちょっとだけスキップしそうになった。

     教育係。いい響きだ。

     私は自分がしてもらったことを、そのまま返せばいいと思っていた。私を育ててくれた先輩みたいに、明るく、テンポよく、実践で覚えさせて、たくさん話しかけて、たくさん褒めて。そうすれば新人ちゃんは私みたいに――ううん、私よりずっと早く、一人前になっていくはずだ。

     この時の私に教えてあげたい。

     その考えがどれだけ甘かったか、三日で思い知ることになるって。

    二 深川澪
     新人の名前は深川澪(ふかがわ みお)といった。

     入職式のあと、薬剤部の全員の前で挨拶をした彼女の第一声を、私はよく覚えている。

    「深川澪です。よろしくお願いします」

     それだけだった。

     出身大学も、趣味も、抱負も、なし。深々と一礼して、それきり口を閉じた。場がしんとして、部長が慌てて「じゃ、じゃあ拍手」と手を叩いた。

     背が高くて、色が白くて、切りそろえた黒髪。表情がほとんど動かない。綺麗な子なのに、なんだか人形みたいだと思った。

    「深川さん! 教育係の早瀬です。よろしくね!」

     私は精一杯の笑顔で右手を差し出した。深川さんは私の手と顔を交互に見て、三秒くらい間を置いてから、そっと握手に応じた。

    「……よろしくお願いします」

     か細い声だった。緊張してるんだな、と私は思った。大丈夫、私だって一年前はガチガチだった。すぐに慣れる。すぐに打ち解ける。私はそういうの、得意なんだから。

     最初の一週間は、調剤室のオリエンテーションだった。

     錠剤の棚の配置、散剤の秤量、軟膏の混合、自動分包機の使い方。私は自分が教わったとおり、実際にやって見せながらテンポよく説明していった。

    「はい、じゃあ次これやってみよう! 大丈夫、間違えても最後に私が監査するから!」

     深川さんは頷いて、処方箋を手に取った。

     そして――動かなくなった。

     処方箋をじっと見つめたまま、一分、二分。手元のメモ帳に何かを書きつけて、また処方箋を見つめる。棚に向かったかと思うと、薬品名のラベルを一つずつ指差し確認して、ようやく一つの薬を手に取る。取ってからも、処方箋と照らし合わせて三回確認する。

     一枚の処方箋に、十五分かかった。

    「深川さん、慎重なのはすごくいいことなんだけどね」

     私はできるだけ優しく言った。

    「外来の患者さん、待ってるんだ。待ち時間が長いとクレームも来ちゃうし、他の人にしわ寄せもいっちゃう。もうちょっとだけスピード上げてみようか」

    「はい。すみません」

     深川さんは目を伏せた。次の処方箋は十二分だった。その次は十三分。

     速くならない。

     いや、正確なのだ。ミスは一つもない。ゼロだ。それはすごいことだと頭ではわかっている。でも、調剤室は一日に何百枚と処方箋が流れてくる場所だ。正確で、かつ速くなければ、現場は回らない。

     もっと私を戸惑わせたのは、彼女が「質問をしない」ことだった。

    「わからないことあったら、なんでも聞いてね!」

     私は一日に十回はそう言った。でも深川さんは聞いてこない。代わりに、休憩時間も昼休みも、ずっと手元のノートに何かを書き込んでいる。

    「何書いてるの?」と覗き込もうとすると、すっとノートを閉じてしまう。

    「……すみません。まとめてるだけです」

    「そっか! 真面目だね!」

     明るく返しながら、私の中には小さなもやもやが溜まっていった。

     歓迎会を開いたときも、そうだった。部の若手で新人ちゃんを囲む、恒例の飲み会。私が幹事をやって、駅前の居酒屋を予約して、深川さんの隣の席を確保して、たくさん話を振った。

    「深川さんって、なんで薬剤師になろうと思ったの?」

    「……いろいろ、あって」

    「ご出身どこ?」

    「……北のほうです」

    「休みの日、何してるの?」

    「……特に、何も」

     会話が、続かない。

     私の右隣では放射線技師さんとの合コンの話で盛り上がっていて、左隣の深川さんはウーロン茶のグラスをじっと見つめている。私はその間で、愛想笑いを浮かべながら、ちょっとだけ泣きたい気持ちになっていた。

     なんで?

     なんで笑ってくれないんだろう。なんで話してくれないんだろう。なんで頼ってくれないんだろう。

     私、こんなに頑張ってるのに。

     帰り道、同期の理学療法士の友達にメッセージを送った。

    『新人ちゃんが何考えてるかわからない。詰んだかも』

     すぐに既読がついて、返事が来た。

    『わかる〜。うちの新人も無口。でもさ、うちらが新人の頃って、先輩からどう見えてたんだろうね』

     その一文は、そのときの私には、ちゃんと届いていなかった。

    三 鏡
     五月に入ると、深川さんの調剤は少しずつ速くなってきた。それでもまだ、同期入職の看護師さんたちが夜勤デビューの話をしている頃、深川さんはようやく外来調剤を一人で回せるかどうか、というところだった。

    「深川さん、今日から病棟持ってもらうから。もちろん私も一緒に行くよ!」

     病棟業務は薬剤師の仕事の花形だ、と私は思っている。

     入院してくる患者さんが家でどんな薬を飲んでいたかを確認する持参薬鑑別。腎臓や肝臓の数値を見ながら、処方が適正かをチェックする処方監査。ベッドサイドでの服薬指導。医師や看護師とのカンファレンス。調剤室で薬と向き合うだけじゃなくて、患者さんその人と向き合う仕事。

     私はこの仕事が大好きで、だからこそ深川さんにも早く楽しさを知ってほしかった。

     実を言えば、深川さんの丁寧さが光った場面も、なかったわけじゃない。

     持参薬鑑別のときだ。入院してきた患者さんの持ち物から出てきた薬を、一つずつ特定していく仕事。お薬手帳があれば楽だけど、現実には、裸の錠剤がピルケースにごちゃっと入っていたり、いつのものかわからない粉薬が出てきたりする。

     ある患者さんの持参薬に、刻印の薄れた白い錠剤が混ざっていた。私なら鑑別サイトで調べて、候補を絞って、ご家族に確認して終わりにするところだ。深川さんは違った。錠剤の直径を定規で測り、割線の形を記録し、かかりつけ薬局に電話をかけて、過去の調剤履歴を照会した。

     結果、その錠剤は三ヶ月以上前に中止になったはずの睡眠薬だとわかった。患者さんは服用中止になったことを忘れて、眠れない時に時々服用をしていたのだ。入院中の転倒リスクに直結する情報だった。カンファレンスで共有すると、病棟の師長さんが「よく見つけたね」と感心していた。

     深川さんは「いえ」と小さく言っただけだった。

     すごいと思った。本当に思った。でも当時の私は、心のどこかでこう付け足していた。――でも、これに一時間かけてたら、業務は回らないんだよな。

     彼女の長所を、長所のまま受け取れない。減点方式のフィルターが、いつの間にか私の目に貼りついていた。

    「梅本さーん、こんにちは! 今日は新しい薬剤師さんを連れてきました」

    「あらあら、可愛い人ねえ」

    「深川です。よろしくお願いします」

     深川さんは深々と頭を下げた。それだけだった。梅本さんがにこにこと「どちらから来たの?」と尋ねても、「北のほうです」で終わってしまう。私が慌てて間に入って、いつもの調子で話を回した。

     服薬指導の練習も始めた。まずは私がやるのを見てもらって、次に簡単な患者さんから深川さんにやってもらう。退院する患者さんへの、退院時服薬指導。飲み方の変わった薬の説明。

     深川さんは、前日の夜からびっしりと準備をしてくる。薬の作用機序、副作用、相互作用。ノートに書き込まれたメモは、正直、私より詳しいくらいだった。

     でも、ベッドサイドに立つと、固まってしまう。

    「この、お薬は……ええと、一日、二回で……あの……」

     用意してきた説明を、順番どおりに話そうとする。患者さんが途中で質問すると、頭の中の原稿が崩れて、続きが出てこなくなる。沈黙。患者さんの怪訝な顔。深川さんの白い顔がどんどん強張っていく。

    「すみません、続きは私から説明しますね!」

     私がフォローに入る。そんなことが何度も続いた。

     ある日の病棟からの戻り、エレベーターの中で私は言った。

    「深川さん、あのね。服薬指導って、原稿の発表会じゃないんだ。会話なんだよ。患者さんの反応を見て、順番なんて入れ替えていいし、全部話せなくてもいいの。まず相手の顔を見よう?」

    「……はい」

    「知識はもう十分あるんだから! あとは慣れ! 数こなせば絶対できるようになるから!」

    「……はい。すみません」

     はい。すみません。はい。すみません。

     深川さんの返事はいつもこの二つだけで、私はだんだん、自分がすり減っていくのを感じていた。

     教えても、響いている手応えがない。褒めても、表情が変わらない。飲みに誘っても、「すみません、今日は」と断られる。私のやり方は全部、彼女には空振りしているみたいだった。

     六月のある夕方、私は調剤室の奥で在庫整理をしていた榊主任のところへ行った。

     榊さんは四十代のベテランで、私の一年目の教育係だった人だ。手を動かしながら人の話を聞くのが上手くて、悩みを話すといつも、答えじゃなくて問いを返してくる。

    「榊さん、ちょっと聞いてもらってもいいですか」

    「深川さんのこと?」

    「……なんでわかるんですか」

    「顔に書いてある」

     私は洗いざらい話した。調剤が遅いこと。質問をしてこないこと。服薬指導で固まること。何を考えているかわからないこと。自分のやり方が全部空振りしていること。

     榊さんは薬品棚の期限チェックの手を止めずに、ふうん、と聞いていた。そして言った。

    「陽菜ちゃんはさ、どうやって服薬指導覚えたの?」

    「え? 榊さんの見よう見まねです。あとはもう、実戦でガンガン数をこなして」

    「そうだよね。じゃあ深川さんは、どうやって覚える人なんだろうね」

    「……どうやって、って」

    「陽菜ちゃんは水に放り込まれて泳ぎを覚えるタイプ。でも世の中には、泳ぎ方の本を全部読んでからじゃないと水に入れないタイプもいる。どっちが正しいとかじゃなくて、順番が違うだけ」

     榊さんは棚から期限切れ間近のアンプルを一本抜き取って、私に見せた。

    「教育係ってさ、鏡なんだよ。新人を見てるようで、実は自分を見せられてる。陽菜ちゃんが今『深川さんのここがわからない』って思ってる場所、そこがそのまま、陽菜ちゃんの視野の端っこなんだよね」

    「私の、視野……」

    「一年前の陽菜ちゃんもさ、なかなかのじゃじゃ馬だったよー 確認より先に手が動いちゃって、私はハラハラしっぱなし。『なんでこの子はこんなに確認しないんだろう』って、当時の私が思ってたこと、今の陽菜ちゃんの悩みと、ちょうど裏返しでしょ」

     私は言葉に詰まった。

     じゃあ榊さんは、あの頃、私をどう思って見ていたんだろう。空回りする新人を、どんな気持ちで待っていてくれたんだろう。

    「まあ、焦らないことだよ。育つ速さは人それぞれ。植物と一緒」

     榊さんはそう言って、また棚の整理に戻った。

     頭ではわかった。わかったつもりだった。

     でもこのときの私はまだ、心のいちばん深いところで、こう思ってしまっていたのだ。

     ――でも、私が新人のときは、もっとできたのにな。

     この驕りが、あの事件を引き起こすことになる。

    四 すみません、の向こう側
     七月、病院は夏の繁忙期に入った。

     熱中症や脱水の高齢者が救急からどんどん入院してくる。病棟は満床続き。調剤室も持参薬鑑別のラッシュで、みんな殺気立っていた。

     私は焦っていた。

     同期で入った検査技師の友達に「新人ちゃん、もう一人で夜勤入ってるよ」と聞いた。他の病院に就職した大学の同級生のSNSには「後輩ちゃんが優秀すぎて楽」と書いてあった。それに比べて。……それに比べて、なんて考えちゃいけないのに、考えてしまう。

     深川さんはまだ、服薬指導を一人で完結できていなかった。

     部長からも「深川さんの独り立ち、どんな感じ?」と聞かれた。責められたわけじゃない。ただの進捗確認だ。でも私には「教育係としてどうなの?」と聞こえた。

     私の教え方が悪いんだろうか。それとも。

     その頃の私は、日誌のような記録をつけていた。教育係用の指導記録。今読み返すと、七月のページはひどいものだ。

    『調剤スピード、目標未達』『服薬指導、単独実施ならず』『質問回数、依然少ない』

     できていないことの記録ばかりが並んでいる。できるようになったことの欄は、ほとんど空白だった。彼女はこの三ヶ月で、散剤の秤量も、軟膏の混合も、注射薬の払い出しも、一つずつ確実にできるようになっていた。持参薬鑑別に至っては、私より正確だった。なのに私の記録には、それが一行もない。

     私は彼女の成長を記録していたんじゃない。私の理想とのずれを、記録していたのだ。

     廊下ですれ違った榊さんに、一度だけ言われたことがある。

    「陽菜ちゃん、最近、顔が固いよ」

    「そうですか? 夏バテかな」

    「深川さんの顔も固い。教育係と新人の顔が同時に固いときはね、だいたい教え方と学び方が正面衝突してる」

    「……大丈夫です。ちゃんとやれてます」

     あのとき、素直に「助けてください」と言えていたら。そのあとの何もかもが、違っていたかもしれない。でも七月の私は、教育係としての評価を守ることに必死で、うまくいっていないと認めることが、負けを認めることのように思えていた。

     新人だけじゃない。二年目にも三年目にも、何年目にも、「できないと言えない病」はあるのだ。しかもこの病気は、経験を積むほど重くなったりする。処方できる薬は、たぶん一つしかない。誰かに弱音を吐くこと。あの頃の私は、その薬を自分にだけ出し忘れていた。

     その日の午後、私は深川さんに言った。

    「今日の十四時の退院指導、深川さん一人でやってみよう」

     深川さんの肩がぴくりと動いた。

    「……一人で、ですか」

    「うん。504号室の田中さん。薬も三種類だけだし、優しい方だし、大丈夫! 私は廊下にいるから、本当に困ったら呼んで」

     今思えば、あれは深川さんのためじゃなかった。

     早く独り立ちさせなきゃという、私の焦りだった。私の成績表のためだった。

     十四時。深川さんは白い顔をして、504号室に入っていった。

     廊下で待つ私の耳に、途切れ途切れの説明が聞こえてくる。たどたどしいけれど、進んでいる。いいぞ、その調子。

     そのとき、ナースステーションから看護師さんに呼び止められた。

    「早瀬さん、ごめん! 502の高橋さんのインスリン、単位の確認したいんだけど」

    「あ、はい!」

     ほんの五分のつもりだった。確認を終えて廊下に戻ると、504号室の前に、深川さんが立っていた。

     うつむいて、震えていた。

    「深川さん!? どうしたの」

    「……田中さんに、その説明はもう聞いたって、言われて。昨日、先生から聞いたのと同じ話を何回もするなって。途中から、何を話せばいいか、わからなくなって……すみません、途中で、出てきてしまいました」

     説明の途中で退室する。服薬指導としては、やってはいけないことだった。私は慌てて504号室に入って、田中さんに頭を下げて、指導をやり直した。田中さんは「あの子、大丈夫? 顔真っ白だったよ」と逆に心配していた。

     その日の業務終わり、私は調剤室の隅で深川さんと向き合った。

    「どうして途中で出てきちゃったの。わからなくなったら、私を呼んでって言ったよね」

    「すみません」

    「謝ってほしいんじゃなくて、理由が聞きたいの」

    「すみません」

    「だから!」

     声が、尖った。調剤室に残っていた先輩が、ちらりとこちらを見たのがわかった。私は声を落として、でも止められなかった。

    「すみませんじゃ、わからないよ。深川さん、何考えてるのか言ってくれないと、私だってどうしたらいいか」

     深川さんは、うつむいたまま動かなかった。長い前髪で表情が見えない。ただ、白衣の裾を握った指が、白くなるほど力んでいるのだけが見えた。

    「……明日、続きやろう。お疲れさま」

     私はそれだけ言って、逃げるように更衣室に向かった。

     最悪だ。

     感情的になった。教育係失格だ。でも、じゃあどうすればよかったの? 私はロッカーの扉に額をつけて、しばらく動けなかった。

     そして数日後、決定的なことが起きた。

     昼休みの休憩室。私は仲のいい看護師さんと二人、ソファでお弁当を食べていた。

    「陽菜ちゃんとこの新人さん、どう?」

    「んー……正直、苦戦してる」

     疲れていたんだと思う。口が、緩んだ。

    「真面目なんだよ。すっごく真面目。でも何考えてるか全然わかんなくて。話しかけても壁打ちみたいでさ、私と全然タイプ違うから、どう教えていいか、もう」

     そのとき、休憩室のドアが開いた。

     深川さんだった。

     お弁当の袋を持って、立っていた。私と目が合った。何秒だったんだろう。深川さんは小さく会釈して、静かにドアを閉めて、行ってしまった。

     聞かれた。

     絶対に、聞かれた。

     お弁当の味は、それきりわからなくなった。

    五 ノート
     翌日から、深川さんは変わった。

     悪いほうに、だ。

     あんなに慎重だった彼女の調剤が、速くなった。異様に速くなった。監査に回ってくる薬を見て、私は胸騒ぎがした。速さの理由が、成長じゃないことは明らかだった。確認の回数を、削っているのだ。

     私に追いつこうとして。私に「遅い」と思われないようにして。

    「深川さん、無理に速くしなくていいからね」

    「大丈夫です」

     初めて聞く、突き放すような「大丈夫です」だった。

     そして金曜日。事件は起きた。

     外来の窓口から、監査済みの薬袋が調剤室に戻ってきた。患者さんからの指摘だった。「いつもと錠数が違う気がする」。

     調べると、一日三回の薬が一日二回分しか入っていなかった。調剤したのは深川さん。そして監査印を押していたのは――私だった。

     幸い、患者さんが飲む前に気づいたから、健康被害はゼロ。インシデントレポートを書いて、部長に報告して、再発防止を考える。それで終わりの、よくあるヒヤリハットだ。薬剤師なら誰でも通る道。

     でも深川さんにとっては、初めての「事故」だった。

    「申し訳、ありませんでした」

     部長への報告のあと、深川さんは調剤室の隅で、深く深く頭を下げた。声が震えていた。

    「深川さんだけのせいじゃないよ。監査で見抜けなかった私のミスでもある。ダブルチェックってそのためにあるんだから」

    「私が、確認を減らしたからです。私が……」

     深川さんは顔を上げなかった。

    「私が、遅いから。私が早瀬さんみたいに、できないから」

     私みたいに。

     その言葉が、ナイフみたいに刺さった。彼女は私に追いつこうとして、自分のいちばんの武器を捨てたのだ。捨てさせたのは、誰? 「速く」「もっと速く」と急かし続けて、休憩室で「タイプが違う」と愚痴った、私じゃないの?

     その夜、深川さんは更衣室で一人、泣いていたらしい。翌週の月曜、彼女は体調不良で休んだ。火曜日も休んだ。

     部長に呼ばれた。

    「深川さんから連絡があった。しばらく考えたいって」

    「考えたいって……まさか、辞める、とかですか」

    「わからない。でもね早瀬さん、これは深川さんの問題であると同時に、うちの育て方の問題でもある。私の任命責任も含めてね」

     部長は責める口調じゃなかった。それがかえって苦しかった。

     その日の午後、病棟で梅本さんに呼び止められた。

    「陽菜ちゃん、あの色の白い薬剤師さん、最近見ないわねえ」

    「……ちょっと、お休みしてて」

    「そう。あの子ね、いい子よ」

     私は顔を上げた。梅本さんはにこにこしていた。

    「この前ね、夕食前に一人で病室に来てくれたの。昼間の説明のとき、私がよく聞き取れてなかったのに気づいたんですって。それでね、紙に大きい字で全部書き直して、持ってきてくれたのよ。ほら」

     梅本さんが床頭台の引き出しから取り出したのは、一枚の紙だった。

     薬の名前。飲む時間。注意すること。定規で引いたようなまっすぐな線で表が作られて、大きな読みやすい字で、丁寧に丁寧に書き込まれていた。左上に小さく「梅本チヨ様」とあった。

    「私、左の耳が遠いでしょう。皆さん忙しいから、いちいち言わないんだけどね。あの子、ちゃあんと右側に回って話してくれたの。よく見てるのねえって、感心しちゃった」

     知らなかった。

     私は、梅本さんの左耳のこと、知らなかった。一年以上も担当していたのに。あんなにたくさん話してきたのに。

     深川さんは、知っていた。

     どうやって? いつ気づいたの?

     調剤室に戻った私は、深川さんの机の前で足を止めた。整頓された机の上に、あのノートが置いてあった。休んだ日に置きっぱなしになっていた、いつも私に見せてくれなかった、あのノート。

     見てはいけない。人のノートを勝手に見るなんて。

     でも、表紙から一枚、付箋がはみ出していた。その付箋に私の名前が見えた気がして、どうしても、手が伸びた。

     開いた瞬間、息が止まった。

     処方薬の一覧。作用機序の図解。調剤室の棚の配置図を自分で書き起こした地図。よくある疑義照会のパターン集。そして、患者さんのページ。

    『梅本チヨ様 左耳が遠い(右から話す) 納豆は毎朝 お孫さんの話をすると笑顔 説明は紙に書くと安心される』

    『田中様 医師の説明と重複して不快にさせてしまった→次回から「先生から伺っているかもしれませんが」と前置きする』

     失敗した服薬指導の、一言一句の反省が書いてあった。田中さんに言われた言葉、そのとき言えなかった言葉、次はどう言うか。何度も消して書き直した跡があった。

     そして、私の名前があった。付箋のページ。

    『早瀬さんの服薬指導メモ』

     何ページも、何ページも、あった。

    『早瀬さんは説明の前に必ず雑談を一つ入れる。患者さんの肩の力が抜ける』

    『早瀬さんは「わかりましたか?」と聞かない。「今の説明で、わかりにくかったところありました?」と聞く。患者さんが質問しやすくなる』

    『早瀬さんは退室の前に必ず一度振り返って何か一言いう。あれはどうやって思いつくんだろう』

    『早瀬さんみたいになりたい。でも、どうしたらいいか、わからない』

     最後の一行の上に、小さな丸いしみが、いくつも落ちていた。

     私は調剤室の真ん中で、ノートを抱えたまま、泣いた。

     何が「壁打ち」だ。何が「何考えてるかわからない」だ。

     彼女はずっと、話していたのだ。このノートの中で、誰よりも大きな声で。私がそれを、聞こうとしなかっただけで。

     質問してこないんじゃなかった。質問を、ためらうほど必死に、私の背中を観察して、書き写して、追いかけてくれていたのだ。

     私は水に飛び込んで泳ぎを覚えた。だから彼女を水に投げ込んだ。彼女が浜辺で、誰よりも真剣に泳ぎの本を読み込んでいたことに、気づきもしないで。

     ――人間もこれくらい簡単にまとまるといいんですけどね。

     いつかの自分の軽口を思い出す。

     違うんだ、梅本さん。人は一包化できない。朝の分、昼の分、夜の分、なんて仕分けられない。私のやり方の袋に、深川さんを詰め込むことなんて、できなかったんだ。最初から。

    六 雨の日の処方箋
     水曜日、私は深川さんに連絡した。

    『ノートを勝手に見ました。ごめんなさい。直接、謝りたい。あと、教育係として話したいことじゃなくて、私個人として聞いてほしいことがあります』

     既読はすぐについた。返事は夜になって届いた。

    『木曜の夕方なら』

     木曜日は、朝から雨だった。

     病院の近くの、古い喫茶店で待ち合わせた。飲み会の店選びなら得意なのに、こういう日にどこを選べばいいのか、さんざん迷って、結局いちばん静かな店にした。

     深川さんは時間ぴったりに来た。少し痩せたように見えた。

    「体調、大丈夫?」

    「……はい」

     注文したココアが来るまで、沈黙が続いた。以前の私なら、この沈黙を埋めようと必死に喋っていたと思う。でも私はもう知っていた。彼女の沈黙は、拒絶じゃない。考えている時間なのだ。ノートに書く前の、下書きの時間。

     だから待った。ココアが来て、彼女が一口飲むまで。

    「まず、謝らせてください」

     私は頭を下げた。

    「ノートを勝手に見たこと。ごめんなさい。それから――休憩室での私の言葉、聞こえてたよね。あれは、最低だった。本当にごめんなさい」

     深川さんは、カップを両手で包んだまま、じっと私を見ていた。

    「それから、もっと根本的に、間違ってた。私は自分が教わったやり方が唯一の正解だと思ってた。深川さんの慎重さを『遅い』としか見てなかった。速くしろって急かして、深川さんのいちばんいいところを、削らせた。あのミスは、私が起こさせたようなものだと思ってる」

    「……違います」

     深川さんが、初めて、はっきりと私の言葉を遮った。

    「確認を減らすと決めたのは、私です。それは、私の責任です。そこまで早瀬さんのせいにされたら……私が、ただの子どもみたいです」

     あ、と思った。

     この子は、こんなふうに、ちゃんと怒れる子なんだ。

    「……ごめん。そうだね。そのとおりだ」

    「でも」

     深川さんはカップに目を落とした。

    「嬉しかったです。早瀬さんが、私のやり方を『いいところ』って言ってくれたの、初めてだったから」

     雨の音がしていた。彼女はぽつり、ぽつりと、話し始めた。ちょうど、雨だれみたいな速さで。

    「私、祖母に育てられたんです。北のほうの、小さな町で」

    「うん」

    「祖母は薬をたくさん飲んでいて。私が高校生のとき、飲み間違えて、倒れました。血圧の薬を、二重に飲んでいたんです。病院を二つかかっていて、同じような薬が両方から出ていて。誰もそれに、気づかなくて」

     私は息を呑んだ。重複投薬。お薬手帳が普及した今でも、なくならない事故だ。

    「救急で運ばれた病院に、薬剤師さんがいました。その人が、祖母の薬を全部机に並べて、一つずつ、確認してくれたんです。祖母は耳が遠くて、話すのも遅いんですけど、その人は一度も急かさなかった。全部聞き終わってから、飲む薬を整理して、大きな字の表を作ってくれました」

     梅本さんの床頭台の、あの表を思い出した。定規で引いたまっすぐな線。大きな読みやすい字。

    「その人、ほとんど喋らない人だったんです。愛想もなくて。でも祖母は退院のとき、『あの人は私の話を、いちばん聞いてくれた』って言いました。私、それで薬剤師になろうって決めたんです」

     深川さんは顔を上げた。

    「だから私、確認するんです。時間がかかっても。誰かを、二度と、あんな目に遭わせたくないから。……でも、現場に出たら、私のやり方は遅いだけで。早瀬さんはあんなにきらきら仕事してるのに、私は全然できなくて。追いつかなきゃって、焦って。それで」

     声が細くなった。

    「薬剤師、向いてないのかなって。ずっと考えてました。この一週間」

    「向いてる」

     気づいたら、身を乗り出していた。

    「向いてるよ。断言する。梅本さんの左耳、私は一年気づかなかった。深川さんは何回目かの訪問で気づいた。あの観察力と丁寧さは、才能だよ。私が逆立ちしても手に入らない種類の、才能なの」

    「でも、私、早瀬さんみたいには」

    「なれなくていい!」

     声が大きくなって、店のマスターがちらりとこちらを見た。私は声を落として、でもまっすぐに続けた。

    「私みたいに、ならなくていいの。ごめん、今まで私、深川さんを私のコピーにしようとしてた。それ、教育じゃなかった。深川さんは深川さんのやり方で、いい薬剤師になればいい。ううん、もうなりかけてる。あのノートが証拠だよ」

     深川さんの目に、じわっと膜が張った。

    「……あのノート、恥ずかしいので、忘れてください」

    「無理。感動したもん。特に私の分析のとこ」

    「そこがいちばん忘れてほしいところです」

     深川さんが、笑った。

     初めて見る、ちゃんとした笑顔だった。口元だけじゃなく、目が笑っていた。四月からの三ヶ月半で、初めてだった。

     私はこの日のことを、たぶん一生忘れない。

     処方箋には、薬の名前と量が書いてある。でも本当に効く処方は、それだけじゃないのだと思う。この日、私たちは雨の喫茶店で、お互いに処方箋を出し合ったのだ。私には「待つこと」。彼女には「自分のままでいること」。

     どちらも、薬価基準には載っていない。

     喫茶店を出ると、雨は小降りになっていた。駅までの道を、二人で並んで歩いた。傘の下で、深川さんがぽつりと言った。

    「早瀬さん。一つ、聞いてもいいですか」

    「もちろん。なんでも」

    「早瀬さんは、失敗したこと、ないんですか。一年目のとき」

     私は思わず、噴き出した。

    「あるよ。ありまくりだよ。聞きたい? 私の黒歴史」

     歩きながら、話した。散剤の計算を間違えて、秤の前で榊さんに止められたこと。疑義照会で医師に言い返せなくて、トイレで泣いたこと。患者さんの名前を間違えて呼んで、ご本人より先にご家族に叱られたこと。夜勤明けの申し送りで、寝ぼけて薬品名を三回噛んだこと。

     深川さんは、傘の下で肩を震わせて笑っていた。声を出して笑う彼女を見たのは、それが初めてだった。

    「意外です。早瀬さん、最初から何でもできた人だと思ってました」

    「できるわけないじゃん。私はただ、失敗を忘れるのが早いだけ。深川さんはたぶん、失敗を覚えてるのが上手いんだよ。だからあのノートが書ける。それって、教科書を一冊自分で書いてるみたいなものだから」

    「……そう考えたことは、なかったです」

    「私も今、初めて考えた」

     二人で、少し笑った。駅の改札で別れるとき、深川さんは振り返って、丁寧にお辞儀をした。

    「月曜から、また、よろしくお願いします」

     その背中を見送ってから、私はスマホを出して、榊さんにメッセージを送った。

    『鏡の意味、やっとわかりました』

     返事は一言だった。

    『遅い。でも合格』

     週明け、私は部長に面談を申し込んだ。深川さんの教育計画を、白紙から作り直したかったからだ。

    「独り立ちの目標時期を、二ヶ月遅らせてください。そのかわり、彼女の強みを伸ばす項目を足します。持参薬鑑別と処方監査は、もう同期の誰にも負けないレベルです。ここを先に伸ばして、自信の土台を作ってから、服薬指導に戻ります」

     部長は私の作った計画表をしばらく眺めて、それから言った。

    「教育係らしい顔になったね」

    「……最初からこうすればよかったです」

    「いや、最初からできる人はいないよ。教育係の独り立ちにも、時間がかかるんだ」

     部長は笑って、計画表に判子を押した。

    七 澪の服薬指導
     深川さんは翌週から復帰した。

     私は教え方を、根本から変えた。

     まず、彼女のノートを「公認」にした。隠れて書くものじゃなくて、堂々と武器にするものだと伝えた。服薬指導の前に、ノートで一緒に作戦会議をする。想定される質問、患者さんの背景、伝える優先順位。彼女は準備の人だ。だったら、準備を最強にすればいい。

    「今日の目標は『全部説明すること』じゃなくて、『患者さんの心配ごとを一つ聞き出すこと』。説明が途中で終わっても、それができたら百点ね」

     ゴールの置き場所を変えた。彼女は「完璧にやらなきゃ」で固まるタイプだから、百点の定義を毎回一緒に決めることにした。

     それから、私は彼女から教わることにした。

    「深川さん、監査のとき、何をどの順番で見てるの? 私、この前見逃したじゃない? 深川さんの確認手順、教えてほしい」

     深川さんは目を丸くして、それから、ぽつぽつと説明してくれた。彼女の確認は三層構造になっていた。処方箋と薬。薬と患者背景。患者背景と検査値。私が感覚でやっていたことを、彼女は完全に言語化していた。この手順はのちに、薬剤部の新人マニュアルに正式採用されることになる。

     教える側と教わる側を、行ったり来たりする。そうなってから、私たちの間の空気は、目に見えて変わった。

     そして八月のある日、今度は私が、彼女に救われた。

     その日の私は、朝から時間に追われていた。病棟のカンファレンスが長引いて、午後の抗がん剤のミキシングが控えていて、その合間に新規入院の処方監査が三件重なった。

     八十九歳の男性。心房細動で、血液をさらさらにする薬――抗凝固薬が始まることになった。処方はダビガトラン、通常用量。電子カルテを開いて、併用薬をチェックして、相互作用なし、既往歴も確認して、監査済みのボタンに指を伸ばした。

    「早瀬さん」

     背中から声がした。深川さんだった。

    「その方の腎機能、見ましたか」

    「え? 見たよ。クレアチニン1.1。正常範囲でしょ」

    「クレアチニンは、正常に見えます。でも、八十九歳で体重が42キロです」

     言われた瞬間、血の気が引いた。

     クレアチニンという数値は、筋肉量に影響される。高齢で痩せた人は筋肉が少ないから、腎臓がかなり弱っていても、数値の上では正常に見えてしまうことがある。だから年齢と体重を使って、クレアチニンクリアランスという本当の腎機能を計算し直さなければいけない。

     教科書に太字で書いてあることだ。国家試験にも出る。知っている。知っていたのに、急いでいた私の目は、「1.1」という数字だけを見て、その奥にいる、八十九歳の痩せた体を見ていなかった。

     震える指で計算した。クレアチニンクリアランス、28。

     ダビガトランは、30を切ったら使ってはいけない薬だった。腎臓から排泄される薬だから、腎機能が悪い人に普通の量を使えば、薬が体に溜まって、出血が止まらなくなる恐れがある。高齢者の脳出血。最悪の場合を想像して、指先が冷たくなった。

     疑義照会の電話をかけた。処方は別の抗凝固薬の減量規格に変更になった。医師は「助かった、見落としてた」と言った。

     受話器を置いて、私はしばらく動けなかった。

    「……深川さん。なんで気づいたの」

    「確認の、二層目です。薬と患者背景。抗凝固薬のときは、年齢と体重と腎機能を、必ずセットで見ると決めているので」

     彼女は淡々と言った。責める色は、まったくなかった。

    「早瀬さんが監査した後だから、大丈夫だとは思ったんですけど。決めた手順なので、一応」

     一応、が、患者さんの命を守った。

     私はあの金曜日のことを思い出していた。深川さんの調剤ミスを、監査で見抜けなかった私。あのとき私は「ダブルチェックってそのためにあるんだから」と彼女を慰めた。その言葉が、そっくりそのまま、自分に返ってきていた。

    「ありがとう。……本当に、ありがとう」

     頭を下げると、深川さんは少し慌てたように首を振った。

    「私のほうこそ、あの、生意気だったら、すみません。先輩の監査に口を出すのは、どうかと思ったんですけど」

    「馬鹿! 口出して! 一生口出して!」

     深川さんは目を丸くして、それからふっと、あの控えめな笑顔になった。

    「はい。……出します」

     この日から、私の中で何かが完全に切り替わった。

     教育係と新人。先輩と後輩。監査する側とされる側。そういう上下の矢印が、全部消えた。私たちは二人で一つの安全網なのだ。網の目の粗いところと細かいところが、ずれて重なっているからこそ、こぼれ落ちるものが減る。

     同じ編み目の網を二枚重ねても、意味がない。

     違うから、意味がある。

     八月の終わり、梅本さんの退院が決まった。

     心不全は完治する病気じゃない。薬を正しく飲み続けることが、そのまま命綱になる。しかも今回、退院処方は十種類に増えていた。利尿薬の量も変わった。飲み方を間違えれば、また戻ってくることになる。

    「梅本さんの退院時指導、深川さんにお願いしたい」

     私がそう言うと、深川さんは一瞬固まって、それからゆっくり頷いた。

    「……準備、します」

     彼女は一日かけて準備をした。梅本さん専用の薬の一覧表。大きな字。飲むタイミングごとに色分けして、薬の写真も添えた。利尿薬のページには「これを飲むとトイレが近くなりますが、心臓を守る大事な薬です。自分の判断でやめないでください」と書き添えてあった。梅本さんが以前、「トイレが近くなるのが嫌で、こっそり抜いていた」ことを、彼女はノートから拾い上げていた。

     当日、私は病室の入り口で見守った。

    「梅本さん。退院の、お薬の説明に来ました」

     深川さんはベッドの右側に回った。梅本さんの聞こえるほうの耳の側に、椅子を寄せて、目の高さを合わせて座った。

    「時間は、たっぷりあります。ゆっくりやりましょう」

     説明は、決して流暢じゃなかった。途中で言葉に詰まる場面もあった。でも彼女は、梅本さんが頷くまで次に進まなかった。梅本さんが「これ、前と色が違うわねえ」と口を挟むと、原稿が崩れて固まる――ことは、もうなかった。

    「よく気づかれましたね。メーカーが変わったんです。中身は同じですから、安心してください」

    「あらそう。あなた、ちゃんと私の顔を見て話すようになったのねえ」

    「……はい。先輩の、真似です」

     ドアの陰で、私は泣きそうになるのを必死にこらえた。

     説明の最後、梅本さんは一覧表を胸に当てて言った。

    「ありがとうねえ。これがあれば、うちでも間違えないわ。……あなた、いい薬剤師さんね。前にもそう思ったけど、今日で確信しちゃった」

     深川さんは、深く、深く、頭を下げた。四月の入職式と同じ、深いお辞儀。でもその意味は、もうまったく違うものになっていた。

     帰り際、梅本さんが私を手招きした。

    「陽菜ちゃん」

    「なんですか?」

    「あなたの顔、お母さんの顔になってたわよ」

    「や、やめてくださいよ、まだ二十六です!」

     病室に、梅本さんの笑い声が響いた。廊下に出ると、深川さんが待っていた。

    「早瀬さん。ありがとうございました」

    「私、何もしてないよ。全部深川さんの力」

    「いえ」

     彼女は首を振った。

    「待って、もらいました。それが、いちばん」

     九月の薬剤部ミーティングで、深川さんの作った薬の一覧表は「退院支援ツール」として部内で共有されることになった。発案者として名前を呼ばれた深川さんは、みんなの拍手の中で、耳まで赤くなってうつむいていた。

     その姿を見ながら、私は気づいていた。

     この半年でいちばん成長したのは、深川さんじゃない。

     私だ。

    八 次の春
     三月。調剤室の窓から見える桜のつぼみが、ふくらみ始めた。

     深川さんは、もう一人で病棟を回っている。相変わらず口数は少ないし、飲み会はだいたい断るし、笑顔のストックも少ない。でも、彼女の担当病棟の看護師さんは言う。

    「深川さんに聞くと、絶対に曖昧な答えが返ってこないんだよね。『調べて三十分後に折り返します』って言ったら、二十八分後に完璧な答えが来る。あれ、すごい信頼だよ」

     私とは違う形の信頼が、彼女のまわりに、静かに積み上がっている。

     年末には、こんなこともあった。

     インフルエンザの流行で病棟がばたばたしていた時期、深川さんの担当病棟で、認知症のある患者さんが薬を吐き出してしまう問題が続いていた。看護師さんたちが手を替え品を替えしても、口を固く閉じてしまう。

     深川さんは三日間、その患者さんの食事の時間に通い続けた。何をするでもなく、そばで観察していたらしい。そして四日目、カンファレンスで静かに手を挙げた。

    「あの方、ゼリーは全部召し上がっています。錠剤のうち二種類は簡易懸濁が可能で、一種類は口腔内崩壊錠に変更できます。先生に処方提案してもいいでしょうか」

     薬を飲ませる工夫ではなく、飲める形に薬のほうを変える提案だった。主治医はその場で処方を変更して、拒薬はぴたりと止まった。

     あとで聞いた話だけど、その病棟の師長さんは深川さんのことをこう評したそうだ。

    「あの子は、しゃべらない時間に働く人だね」

     うまいことを言うなあ、と思った。私がしゃべっている時間に働くタイプだとしたら、彼女は黙っている時間に働くタイプなのだ。病院には、どちらも要る。

     私はといえば、教育係の経験を買われて、実習に来る薬学生の担当も任されるようになった。学生は毎回タイプが違う。おしゃべりな子、無口な子、自信満々な子、心配性な子。前の私なら全員に同じ接し方をしていたと思う。今は最初の一週間、まず観察する。この子は水に飛び込むタイプか、本を読み込むタイプか。

     観察してから、教え方を処方する。

     薬と同じだ。同じ病気でも、患者さんが違えば処方は変わる。体重で、腎機能で、生活で、薬は調整される。教えることも、きっと同じなのだ。相手を見ずに出した教育は、相手を見ずに出した処方と同じくらい、危ない。

     二月には、初めて二人で当直に入った。

     夜の病院は、昼間とは別の顔をしている。救急から上がってくる緊急の処方。夜間の持参薬確認。仮眠室のかび臭い毛布。深夜二時、緊急入院の処方をさばき終えて、二人で薬剤部の給湯室に立った。深川さんがポットのお湯で、ココアを二つ作ってくれた。

    「……あの雨の日と、同じやつです」

    「覚えてたの?」

    「ノートに書いてあるので」

    「そこまで書くの!?」

     静まり返った夜の調剤室に、二人分の笑い声が響いた。飲み会には来ない彼女と、こんな夜中の給湯室で笑い合っているのが、なんだかおかしかった。人と仲良くなる場所も、人それぞれなのだ。居酒屋の子もいれば、深夜の給湯室の子もいる。

     彼女のノートは三冊目になった。今でも時々、二人でノートを広げて作戦会議をする。この前ふと見えたページには、こう書いてあった。

    『四月から後輩ができるかもしれない。私に教えられるだろうか。→早瀬さんに相談する』

     そう。四月には、また新人が入ってくる。

     部長は「次の教育係も早瀬さんに」と言ったけれど、私はこう返した。

    「私、サブでつきます。メインは深川さんにやらせてみませんか。……あの子の教え方、きっと私とは全然違って、それがいいんです」

     部長は笑って、「一年で言うことが変わったね」と言った。

     変わったのだ。

     一年前の私は、仕事ができるつもりでいた。処方箋が読めて、疑義照会ができて、患者さんに可愛がられて、それで一人前だと思っていた。

     でも、教えるという仕事は、私にまったく別のことを求めてきた。自分のやり方を疑うこと。相手の時間で待つこと。沈黙を聞くこと。自分と違う形の才能を、才能だと見抜くこと。

     教育係になって、私はたぶん、初めて「人の話を聞く」ということを覚えた。皮肉なものだ。聞き上手のつもりで、ずっと病棟を回っていたのに。

     梅本さんは、あれから一度も再入院していない。外来に来るたびに薬剤部の窓口に寄って、「二人の先生に会いに来たわよ」と笑う。深川さんの作った一覧表は、少しよれて、角が丸くなって、それでも大事にお薬手帳に挟まれている。

     薬は、一包化できる。

     朝の分、昼の分、夜の分。機械がきれいに仕分けて、袋に詰めて、日付を印字してくれる。飲み間違いが減って、管理が楽になって、それはとても、いい仕組みだ。

     でも人は、一包化できない。

     新人は「新人」という袋にまとめられないし、教え方に万能の分包機はない。一人ひとり、成分が違う。効き方が違う。早く効く人がいて、じわじわ効く人がいる。副作用みたいにぶつかる日もあって、それでも組み合わせ次第で、一人では出せない効果が出る。

     相互作用、というやつだ。

     薬の世界では悪い意味で使われることの多い言葉だけど、人と人なら、話は別だ。私は深川さんと出会って、確実に、前より良い薬剤師になった。彼女もきっと、そうだといい。

     四月一日の朝。

     調剤室の入り口に、真新しい白衣の新人が立っていた。緊張で顔を強張らせて、挨拶の声が裏返っている。元気だけが取り柄です、と言い切った彼女に、調剤室が少し笑う。

     深川さんが、すっと進み出た。

    「教育係の、深川です」

     相変わらずの、抑揚のない声。新人ちゃんが緊張の面持ちで頭を下げる。深川さんはポケットから、真新しいノートを一冊取り出して、新人ちゃんに差し出した。

    「あなたの、いいところを見つけたら、ここに書いていきます。一年後に、渡します」

     新人ちゃんが、きょとんとした顔をする。

     深川さんはそれ以上説明せずに、くるりと背を向けて歩き出した。それから思い出したように一度だけ振り返って、言った。

    「大丈夫です。ここには、待ってくれる先輩がいるので」

     退室の前に一度振り返って、一言。

     誰の真似だか、すぐにわかった。私は笑いをかみ殺しながら、目の奥が熱くなるのを感じていた。

     さあ、今日も始まる。

     処方箋が流れてくる。電話が鳴る。病棟から呼ばれる。誰かの「治りたい」に、私たちの知識と、それぞれのやり方で応えていく。

     白衣のポケットには、ボールペンと、付箋と、電卓と。

     それから、去年の私が知らなかった、たくさんのこと。

     教える側もまた、教わる側からたくさんのことを学ぶということ。待つことは、何もしないことじゃなくて、いちばん力のいる仕事だということ。「すみません」の向こう側には、いつも本当の言葉が隠れていて、それを取り出すには、こちらが先に本当の言葉を差し出すしかないということ。

     そして、自信というものは、一度壊れてから組み直したほうが、ずっと丈夫になるということ。

     二年目の春の私は、自信があった。三年目の春の私は、あの頃より自信がない。できないことの数を、あの頃よりずっとたくさん知っているから。でも不思議なことに、今のほうが、この仕事が好きだ。好きの解像度が、上がったのだと思う。

     この仕事は、大変だ。今も、これからも、きっとずっと。

     でも私は今日も、この調剤室が好きだ。

     この仕事が、好きだ。

     もしあなたが今、「自分と違う誰か」に戸惑っているのなら。

     教える立場になって、自信をなくしかけているのなら。

     思い出してほしい。

     戸惑っているということは、真剣に向き合っているということ。

     あなたのやり方が通じない相手は、あなたの世界を広げてくれる相手でもあるということ。

     人は、一包化できない。

     だから、面白い。

     あなたの明日の仕事が、少しだけ楽しみになりますように。

    (了)

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

     
     
    「また明日も頑張ろう。」 そんな気持ちになれる作品を目指して、 制作しています。 夜の静けさ、 雨の日の灯り、 誰かを想う時間。 日常の小さな感情を、 映画のワンシーンのように描いています。

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