
人生の大事な時はいつも
初の絵画コンテストで賞をいただきNY展覧会へ参加できることになった。
泣き崩れるってこういうことなんだと初めて体験した。
でも3分後にはものすごく冷静だった。
なぜなら展覧会の日程に予定があり参加できない。
受賞の喜びと共に始まる次の葛藤。
人生は選択の連続だが、もう少し余韻を味わいたいものだ。
大事な時に家族が倒れているということが私にはよくある。
そして今回も父の手術があり、たとえ周囲がNYへ行ってきていいよと言ってくれたとしてもおそらく私は十分に楽しむことはできないだろう。
子どもの頃から両親は入院や手術、夜中の救急車騒ぎなどがあり、
今のように2人に1人が癌になるような時代でないにも関わらず、
親しい人にも病が見つかってあっという間に亡くなるということも少なくなかった。
中学生の時に「目が痛いから早退するね」と言った友達がそのまま入院となり脳腫瘍で亡くなったあたりでは「どうして私の周りには死がいっぱいなんだろう?」と絶望的になることが多くなった。
最後に交わした言葉は再会が必ずあると信じて疑わなかった。
次の日も学校で一緒に部活をしているはずだったのに。
そういった環境で育ち、私自身も入院や手術をしたことがあって、病や薬に対して嫌というほど向き合ってきたので、製薬会社で抗癌剤の開発者になった。
ずっと私にとって「死について考えること」は当たり前だった。
命の輝き、生きることが楽しい、この世界の美しいところに目を向けられるようになったのは出産してからだ。
いつもどこかに虚しさを抱えた私に与えられた一筋の光は我が子だった。
そんな生きることよりも死を見つめることの多い人生だったとはいえ、
何度体験してもストレッチャーで運ばれていく家族を見送ること、不安や恐怖に慣れることはない。
そして、精神が崩壊しそうになる母のケアもある。実はこの方が大変だったりする。
母も持病が色々あるので一度倒れると重症になる。
普段は人に依存しない強い母なのだけれども、どんな時も精神から崩れて体調に出るから、それを最小限にとどめたいと私はいつも願う。
私は一応アーティストなのでガラスのように繊細な心を持っているが、弱いのかというとそうではない。
多分私は強いから、その場を淡々とやり過ごすことができる。
子どもの頃に私自身が手術をすることになった時も、泣き言ひとつ言わなかったことが病院でちょっとした噂になったくらいだ。
だから今回もきっと私は何事もない顔をしてやり過ごすことができるのだろう。
けれど思うのだ。
年齢を重ねて人生も折り返すと、そうやってやり過ごした時に蓋をした感情が、今になって漏れていることに。
その漏れは一つの穴ではなくて、私の全身から毎日毎日流れ出ているのだ。
本当は声をあげて泣けたらよかった。
もっと誰かに弱音を吐いてみたかったのだと思う。
こんな二行ですまされるような感情ではなかった。
絶望や恐ろしいほどの孤独感を私は静かに処理した。
吐き出されなかった言葉を閉じ込めることの本当の意味も知らずに。
ただ私は、言葉にするとそれが現実味を帯びることがとても怖かった。
口にしなければ、思っていることは私の頭の中だけで完結し広がらないと思っていた。
愚痴は進歩がない上に結局最後は自分も疲れる。
泣いて何かが変わるならいくらでも泣く。
でも泣いたって変わらないのなら、大切な誰かを悲しませるのなら泣くなんてやめてしまおう。十代の私はそうだった。
それはいつしか当たり前になり、私は強くなった。
でも、誤魔化した感情を体は覚えている。
意味があって抑えたことだったけれど多すぎたみたいだ。
私は心というか全身が解放されたがっていることに四十歳を過ぎて気づいた。
よく”過去に傷ついた自分を癒しましょう”ということを聞く。
専門家を頼ることも大事だと。
でもそこも私はまあまあできていたとメンタルケアの資格をとった時に感じた。
私は天使のように優しいわけではないので自分の意見を何でもかんでも押し殺したりはしない。
言うべき時は言うところもあるし、もうダメだと思ってフリーズし、潔く捨てるべきところは捨て、大好きな本を読んで気分転換をしたり自然に触れてきた。
その時その時、納得して行動してきたつもりだ。
でも、人間は成長するから、どんなに克服したことや癒したことがあっても、何かしら変化が起こるものなのだ。
成長したのであればそれを超える何かを掴むような出来事が起こる。
年をとってそういったことを繰り返していくうちに、まだ気づいていなかったことを知る。そして私が望む壮大な夢に近づく一歩として、やってきた課題だなとため息まじりに思う。
もちろんため息ですまされない驚愕なこともあるが、それに対してもやれることをやるだけだ。
ーー前回の父の手術は予想外の急変で救急車で運ばれた時だった。
その時私は体調を崩して何も食べられずふらついていたので、電話をもらった時は、父の元へ駆けつけるなんてできるかしら!と思ったけれど、
その数分後には捕まらないタクシーをあてにせず自転車を全速力で漕いでいた。
「ああ私って強いな」と思ったのを今でも忘れない。
そしていざとなると人間は馬鹿力が出ることも改めて認識した。
こんな体で当時電動でもないママチャリを漕いで事故に遭ったらそれこそ大変だと思って、最大限気をつけた。
息を切らして髪を振り乱した私は、病人に会うのに元気づけなければとショッキングピンクのTシャツを慌てて着たので病院ではめちゃくちゃ目立っていた。
急ぎすぎてサンダルを履いていたようで靴音がカンカンと廊下で響き、先に到着していた妹がうるさいよと駆け寄ってきた。
病院に出入りして仕事していた人だよね?と。
「はいはい、そうだけれども、なんていっても私はさっきまで寝込んでいたので色々と要求しないで」と笑いながら言った。
そう、なぜだか私は本当に大変な時、笑ってしまうのだ。
多分脳みそがもう耐えられなくなって、どこかの線を切るのではないかなと思っている。
笑うしかない。
これが起きた時、私はほっとする。
ああ私笑えてる。笑っちゃうとなんかとりあえず恐怖はどこかへ行く。
一時でもいい。どこか深呼吸できる隙を与えてほしいと思うから。
そんな過去を思い出しながら、今回のNY行きを諦めることにした。
今回の父の手術は高齢な上に主治医からできればやりたくないと言われている。持病の多い人はリスクが高いからだ。
複雑な感情が湧き上がっても、答えは決まっていた。
できればチャンスの波に乗りたかった。
でも諦めることがチャンスを逃すことになるとは限らない。
NYに行っても何も掴めないかもしれない。
でも何かが動き出す時はいつだってまた次の何かが訪れてきたし、
今回それをしないことで
その何かを失うかもしれない。
でも、そんなことはさせやしない。そう思う自分もいた。
何のために描いた絵なんだろう。
絵を眺めながら思う。
我ながらいい絵だ。この絵を好きだと言える。
この絵が運んできたギフトを私は受け取るんだ。
主催に相談したところ、今年はスキップして来年の春の展覧会へという提案をいただいた。
または作品だけ参加も可能。ちゃんと様子を写真で撮って送りますし、ギャラリーに売り込みもしてあげます、と大変親切。
しかし自分の作品がどんな風に飾られているのか、レセプションとはどんなものなのか、ギャラリーを回ることもできないなんてどうにもつまらない。
それは私が全てにおいて「どう感じるか」に関心があるからだ。
私は自分の作品がNYで展示されるところを見て、
自分が何を想うのか、感じるのか知りたい。その場でインスパイアされることを。
これまでもこれからもそれは変わることがないと思う。
私の壮大な夢も、なぜ私はそうしたいのか、そしてそれが叶った時、私はどう思うのだろう。何をどう感じて、ほっとするのだろうか。
これまで絵はサロンや飲食店への提供、オーガニックハーブティーのラベル画制作など、“誰かの想いを形にする絵”を描いていたことがある。
けれど私自身が絵に対して執着がない。
なぜ私の絵を買おうと思う人がいるのかまるでわからないというのが正直なところだ。
でもなぜだか絵を描く機会が訪れる。その「意味」を知りたかった。
昨年、ある作家から「あなたの絵は癒しだね。でもおもしろい経歴だから、半生を描くべきです。魂を抉るような絵を」と言われた。
なるほど、半生か。そんなこと考えたこともなかった。
私はいつだって安らぎを求めているから誰かにもそれを届けようとしていた。
でもそうではないものを描いてみたいと心から思った。
私が伝えたいこと、私が望む世界、誰かに期待されることのないもの、
私自身の生きる意味、活動への想い、そして未来への壮大な夢を描いてみよう。
世界には光だけでなく、痛みや矛盾、闇も存在する。
それでもなお、人が自然や命とのつながりを取り戻し、
どんな時代や状況の中でも
“生きることを楽しめる感覚”を失わずにいてほしい。
作品には、そんな願いを込めた。
観る人それぞれが、
自分自身の奥深くにある感情や希望に触れ、
“本当はどう生きたいのか”を
感じるきっかけとなれば、それは私の幸せなのだ。
入選くらいはできたらいいなという気持ちだったので受賞には驚いた。
作品だけの評価ではなくアーティストとしての全体評価だったことは尚嬉しかった。私の言葉にできなかった様々な想いを表現しそれが認められたのだ。
絵を描いている時、とても楽しかった。誰かに気兼ねすることのない絵。
私がただ描きたいもの、伝えたいことを描く時間に私自身が癒されていた。
この絵を大切にしたいと初めて心から思った。
今の時代、来年なんてどうなっているかわからない。
それに大抵私は一年後は想像もつかないような環境にいる。
けれどもきっとNYへ行けることを信じて来年春の展覧会へスキップした。
それまでにできることはあるのだ。
私が受賞したことを家族は知らない。
一番伝えたい人に言うことができないのは少し悲しいけれど
来年飛行機を手配する頃には笑って「実はね、」と言いたいと思っている。
だから生きていてほしい。
振り返れば、私はどんな辛い時も、最後は笑っていた。
だからきっと大丈夫。
無理したことも今流れ出ている本心も、結局最後は笑いに変えるだろう。
それは確信できる。
だから、今からはより充実したNY展覧会にするために思いつくことを全部やろうと思う。
作ろうと思ったままのweb siteやアーティストアカウントでのSNS発信。
応援してくれる人も増えたらいいなと思えるようになった。
またその様子をnoteに綴ることを楽しみにしている。