
(31)2人の母のこと
★幼少期から結婚に至るまで、私は実母に反抗すること多く、親不孝な娘であったと、今は自覚している。
私が母の偉大さと愛を、心底から認めるようになったのは、『一家の北朝鮮からの引揚げ回想録』を、この50数年間に6回も出版した間、書くたびに、母がどれほどの苦労を背負って、父応召後ひとりで、病弱な 15歳 から生後 6ヶ月の末娘までの 6人を守り育て、日本へと帰国させた、その気力と愛に、気付かされたからだった。当時、家数軒を建てられるだけの銀行預金を一気に封鎖され、父の2ヶ月分の給料 400 円しかない状態で、引揚げまでの 1年 3ヶ月を乗り切ったのだ。ソ連将校たちの家政婦をし、彼らの子どもたちを教えたりしながら・・。
(1)私が20代半ばから、「引揚げ回想録」に取り組み始め、東洋史教授に朝鮮関係の書物を数冊拝借し、同時に、私が5、6歳頃の「鎮南浦」について、母に質問状を送り続け、同人誌に初めて『藍湖のほとり』連載5回を書きあげた。その後、400枚ほどの作品にまとめ、30代初めと40代頃に出版社に持ち込んだが、北朝鮮に関する書物は出版しない、と断られ、30年近く諦めていた。
(2)2006年、6人兄妹のうち4人が死去し、残るは私と妹の2人のみ、私が書き遺さなくては、と『脱出まで』を 400冊自費出版した。
(3)これが長崎出版から『1945年、鎮南浦の冬を越えて』と題され、2010年1月に出版された。この本が、私の知らないうちに、2017年アメリカの議会図書館(日本の国会図書館に相当)に、購入されていた。
(4)その頃メール交換していたイギリス人大作家の Berlie Doherty に、「あなたの引揚げの話を英訳して読ませて」と頼まれ、1章ずつメールで 送ると、たいそう感動され、Berlieに出版を勧められ、"1945,Surviving the Winter in Chinnampo”として、東京で自費出版した。この時、Berlie Doherty が「序文=Foreword」をサイン入りで、載せてくれた。
(5)同名英語版を、幻冬舎が全国版にしようと名乗り出て、高額自費出版とはなったが、これもアメリカの議会図書館に受納された。
(6)中高生向けに書き直し、佼成出版社の『風さわぐ北のまちから』として2022年に出版され、2023年に「第72回小学館出版文化賞」を授与された。
私の質問への母からの長い返事便が元となった〈6回もの出版〉に、母には感謝の他ない。
母は70代半ばから、病床に就くようになり、パーキンソン病と判明して、12年間病院での寝たきり状態となった。私は年に数回4、5日帰郷しては、母の寝床の側で寝泊まりして、介護をした。
ある日寝床の母に「これまでで一番忘れられない話ってある?」ときくと、母は即座に「あるよ!」と言い、引揚げの最後の頃の、38度線を越える夜の暗闇の中で、うちの一家が取り残されそうになった話をしてくれた。幼児が3人いるため、いつも最後尾を歩いていたのだが、妹の文子が「おしっこ」と言い出したため、対応している間に、3千人を超える一行から遅れてしまった。しかも、闇の中で、二股の道まで来た時、先へ行く人の姿は見えず、道を選び間違えば、一家7人が知らぬ土地へ置き去りになってしまう。
母は「あなたたち、道に耳を付けて、音を聞いてみて!」と叫び、自分も 末娘を背負った姿で、地べたに這いつくばるようにして、耳を澄ませた。 一方の道で、母は気付いた「草のすれる音がする!」兄たち3人も「きこえる!」と叫んだ。「あの時ほど、神さま、ありがとうございます!と思ったことはないよ」と母は言った。
私は聞きながら、胸を熱くしていた。この母の機転、粘り強さ、根気と勇気で、父との約束の「6人の子を残らず守り育てる」を為し遂げたのだ。倉敷へ辿り着くまでの23日間、母はまともに食事を取ってはいなかった。ひとり千円の持ち帰りを許可されても、うちには3千円もなく、しかも大切な千円札を入れてあった腹まきを、6年生の姉が、闇の中で失くしてしまい、貧乏のどん底だったのだ。握り飯をやっと買っても、母はひと口を口に含んで、かみ砕いては末妹に与えていて、自分ではろくに食べてはいなかった。自分はやせ細っても、気力でがんばり続けたのだと、原稿を書くたびに、母の 責任感と愛の深さに、何度も胸打たれたのだった。
★★Mの母上は、最初の印象を『蜜飴色の小部屋』に記した通りの、実に 心配りの出来る、長年手縫いの着物仕立てを続けた人の、丁寧さ、根気強さ、工夫の出来る利発さのある人で、教わることが多かった。実際に、新しい一反の木綿の着物地で、浴衣や寝間着を縫い上げる手順を、細かく教えてくれて、私はノートに書き留めながら、3枚縫ったが、以後はノートに記してあるから・・を理由に、自分では以後縫ってはいない。授業と読書や書き物の方に、気を奪われ、縫い物にまで手が回らなかった。
長男のオットーさんも長女のN姉も、どれほど厳しいしつけをする母親だったか、と愚痴ることもあったが、2人が身につけている日々の言動に、母上のしつけが根付いているのだと、私は感服している。他者への心遣い、優しさ、心からの温かさを親子共に、どれほど見せてくれたことか。おかげで、我が家にはよく人が集まり「餅つきの会」は、Mが死期迫る頃まで53年間、53回も続けて、30~40数人が集まってくれていた。
母は107歳で亡くなる1時間前まで、病院の看護婦さんと言葉を交わして いたほど、ボケない人だった。104歳まで我が家で暮らしていたが、ソファに座って、片脚ずつ 50 回上げ下ろしをしたり、ご詠歌を大きな声で唱えたりしていた。入院してからも、ベッドの中で足先を持ち上げて、運動を忘れなかった。
姉、M、私の3人で、交代に必ず見舞いを続けていたが、私には帰りがけに忘れず「元気でいるのよ、ムリしないのよ」という声かけをしてくれていた。老い方も最期まで、凛とした自分らしさを保ちながら、穏やかで感謝の言葉をいっぱい残してくれた人でもあった。
気質や暮し方は違っていても、敬愛する「2人の母」を持てた私は、なんという幸せ者かと思っている。その母上に教えを受けた、オットーさんとは 57年間、N姉とは60年暮せたことも有り難いことだ。