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オペラ・ガルニエの特等席|創作大賞2026 応募エッセイ

    こちらへどうぞ、といざなわれて、私は2階の右側ボックス席に足を踏みいれた。以前、このガルニエ宮とも呼ばれるパリ・オペラ座の見学コースに参加したことはあった。しかし、公演を観るのは、これがはじめてだ。

    左右のボックス席には、客席に入る前に小さな前室がある。コートなどを掛けるためのハンガーが設置されたクラシックな雰囲気の空間で、ほの暗さがプライベート感を高めている。

    ここを通ると客席に出る。独立した椅子が2脚ずつ3列に並び、最大6人が座れるようだ。隣のボックスも同じように、椅子が並んでいる。

    私は3列目の左側に腰かけて、公演がはじまるのを待った。

    ***

    このオペラ・ガルニエに、これまで私は10回程度訪れた。正確な回数がわからないのは、初期の電子チケットがほとんど保存されていないからである。

    渡仏時はほぼ毎回オペラを観にいっていて、バスティーユ広場にあるオペラ・バスティーユに行ったのが2回だったのはまちがいない。ある年は、オペラ・バスティーユとオペラ・ガルニエの両方に行っているが、それはおそらく1度だけだと思う。

    フランス滞在時の記録はメモの形で残しているが、その時々によって内容や分量がまちまちなのも、正確さに欠ける理由のひとつである。チケットを購入していた公式サイトのマイページもたびたび仕様が変わり、古い時代の購入履歴まですべてをたどることができない。

    オペラ・ガルニエの席は、カテゴリーごとに値段がわかれている。その区分はかなり複雑で、たとえば最初に公演を観た右側ボックス席でも、最前列と私が座った後列ではカテゴリーが異なる。

    座席の位置は個人の好みがあるので、同じカテゴリーでもこの席がいちばんよいというのは、一概にはいえない。座席表では一見よさそうでも、実際に行ってみると、ここはそうでもないかな、ということもある。

    いちばん下のカテゴリー、つまり、いちばん値段が安い席は、やはりそれなりである。また、近年はこのカテゴリーをネット販売せず、当日券として売っていたように思う。

    1回をのぞいて、私は下から2番目か3番目のカテゴリーの席を購入していた。このカテゴリーで実際に買ってもいいと思うボックス席は、舞台に近い左右の後列か、舞台から遠い左右の最前列だった。

    私は舞台に向かって右側が好みなので、最初のころは右側ボックス席をとっていた。しかし、あるとき、ボックス内の雰囲気が少しよくないことがあった。

    ひとつのボックスにはだいたい4人、多いときは6人の客がいる。隣のボックスとの境は乗り越えられる程度の高さではあるが、そして実際に乗り越えた客もいたが、基本的にひとつのボックス内で空間の雰囲気を共有する。

    そのため、同席したメンバーによって、居心地のよさ、あるいは悪さが決まる。

    私がなにかされたというのではまったくないが、なんとなく別の席も試したくなったので、次の年には正面の最上階席を買ってみた。

    ここは下から2番目のカテゴリーなので、それまで買っていた席と同じ値段だった。左右のボックス席と異なり、正面から舞台が見えるが、なにしろえらく遠い。

    ところが、この席がいちばんのお気に入りとなった。

    まず、シャガールの天井画にきわめて近いので、それだけでも幸せな気分に満たされる。幕間には別の席の客が写真を撮りにくるほど、天井画がよく見える場所だった。

    次に、ここは折り畳み式の椅子が何列もぎっしり並んでいて、観客たちとの距離がとても近く、みなで一緒に盛りあがれた。

    私は喜劇を観ることが多く、合いの手を入れる客のタイミングにほれぼれしたり、笑うところで思いきり笑えたりして、とても楽しかった。観客と一体になって作品がつくられる、というのが、はっきり体感できる席だった。

    これ以降、私はこの席のなるべく最前列中央寄りをとるべく、チケットの発売開始日を心待ちにした。

    すでに触れたように、1回だけ別のカテゴリーの席を買ったことがある。この年は、渡仏自体のスケジュールが変更になるかもしれなかったため、最初からオペラのチケットを購入していなかった。

    確実にフランスへ行けそうだとわかった時点で、もう満席だろうと思いつつ、念のためオペラ座のサイトを覗いてみた。

    すると、なんと、オーケストラ席と呼ばれる1階前方中央のよい席がひとつだけ、ぽつんと空いていた。いちばん上のカテゴリーで、演目によってはかなり高額な席である。

    このときの値段はさほどでもなく、こんな機会がなければ選ぼうとも思わなかった席なので、即座に購入した。

    公演当日、私はいつもより少しだけ着飾って、ドキドキしながらオペラ・ガルニエに向かった。建物の外でセキュリティチェックを受け、なかに入ってチケットを見せたあと、大階段をのぼる。はじめて、1階席専用の入口前で待機した。

    どのカテゴリーでも、つまり、どの値段の席でも、必ず係員が客をひとりずつ席まで案内してくれる。

    私の席は、それまで座っていた上階を中央からぐるりと見上げる場所にあった。舞台にとても近くて、見える範囲も光景もまったく異なった。

    しかし、欠点もあった。この席は折り畳み式の椅子で、上演前や幕間に、なかほどの客が出入りするたびに立たなければならなかったのだ。

    左右のボックス席は、独立した椅子だった。椅子だけならボックス席のほうが立派で、座り心地もよかった。

    とても安い正面の最上階席も折り畳み式の椅子だが、さすがにそこよりはよい椅子だった。しかし、全般的に、値段の上では特等席のこの場所が、私にとってはいまひとつに感じられた。

    そういうわけで、翌年はまた正面の最上階席、最前列の中央を購入した。そして、この「特等席」で、近くの観客たちと楽しい時間を過ごした。

    オペラ・ガルニエには、客席以外にも特等席があった。上演前や幕間には、大階段を見おろす通路にバーカウンターが設けられ、ドリンク片手に休憩したり、おしゃべりすることができる。

    手すり近くに置かれた背の高い丸テーブルからは、大階段を行き交う観客たちの姿が眺められた。ここが、もうひとつの特等席である。

    ソフトドリンクがまだ5ユーロで、現金での支払いが主流だった時代、あるとき私は会計時に10ユーロ札を出した。

    おつりは、しわや折り目がいっさいない5ユーロ札だった。真新しいその紙幣は、エレガントで堂々としたたたずまいのオペラ・ガルニエにふさわしいように見えた。

    それで、私はその5ユーロ札を折らずにそっとバッグにしまい、使わないまま日本にもちかえった。

    オペラ・ガルニエで撮った写真は、山ほどある。しかし、この5ユーロ札を見ると、あの劇場で過ごした優雅な時間が、とてつもなくリアルによみがえってくる。

    なんの変哲もない、ごく普通の紙幣。しかし、そのなかにも思い出があり、物語がある。


    遠藤ゆかり(えんどう・ゆかり)
    フランス語翻訳者。1971年生まれ。横浜市在住。上智大学文学部フランス文学科卒。
    歴史(ヨーロッパ史全般)、宗教(キリスト教全般)、美術(とくにヨーロッパ中世~近代)が得意分野。
    趣味は、美術館めぐり。パリ(フランス)のおもな美術館は、ほぼすべて訪れたことがある。
    語学研修や観光目的で、合計14回渡仏。フランス各地のほかに、ブリュッセル(ベルギー)、ジュネーヴ(スイス)、ルクセンブルク(ルクセンブルク)、モナコ(モナコ)など、近隣のフランス語圏の都市にも滞在してきた。
    今後も日々研鑽を積んで、翻訳の質をさらに高めていきたい。

    https://endoykr.my.coocan.jp/about/profile.html

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