
20代男性が考える「自炊はどこからが自炊なのか」
「自炊してる?」と聞かれると、少しだけ言葉に詰まることがある。
一応「自炊している」と答えることはできる。
無水カレーとかよく作っていたけれど、
都内に引っ越してから仕事が忙しくて、お米を炊くくらいになった。
周りは意外にも「自炊をする」人ばかりで、こんな生活は僕くらいなのかと不安になる。
でも実際周りにその内実をよく聞いてみると、人によってずいぶん違う。
お米は炊いて、おかずはスーパーの惣菜
お米はスーパーで買い、おかずは自分で作る
お米を食べず、パスタとレトルトソース
すべてイチから調理する
どれも同じ「自炊」という言葉で語られる。
では、その境界はどこにあるのだろうか。
言葉の定義
まずは言葉としての定義を確認してみた。
辞書で『自炊』は次のように説明されている。
「自分で食事をつくること」
「自分で炊事すること」
それはまぁわかってんだよな。
と思いつつ冷静に考えると、
興味深いのは「どの程度作るか」という線引きがまったく示されていない点である。
つまり、
言葉自体が本来、かなり幅を持った概念だと言えるのではないだろうか。
「全部作るべき」?
それでも日常感覚としては、
「全部自分で作ってこそ自炊」というイメージがどこかにある。
キレイな丁寧な生活をしている人がネットに載せる”アレ”。
おそらくそこには、
手間をかけているか・技術を要しているかどうか
といった評価が入り込んでいる。
それで言えば、
おかずをイチから作るほうが「やっている感」は強い。
一方で、お米を炊くことは比較的簡単だと見なされがちだ。
しかし、ここで注意したいのは、
それがあくまで感覚的な評価にすぎないという点である。
労力という観点
実際の生活に引き寄せて考えてみると、食事にはいくつかの共通した工程があると思う。
食材を用意する
食べる準備をする
食後に片付ける
この一連の流れは、
ご飯+惣菜
でも簡単な自作料理
でも大きくは変わらない。
例えば、
もやしを買ってレンジで加熱し、塩コショウを振る。
これでも最低限の「調理」は成立しているし、食事としても機能する。
このレベルを自炊と呼ばないのであれば、その基準はどこに置かれるのか。
冬の寒い時期に洗米をして炊いても、スーパーで惣菜を買ったらそれは自炊じゃないのか。
考え始めると、線引きはかなり恣意的で 曖昧であることに気づく。
「炊く」の語源
一旦、言葉に戻ろう。
そもそも「自炊」という言葉は「自ら炊く」
辞書の通り、すなわち自分で食事の用意をすることに由来する。
この原点に立ち返るならば、
「完成度の高い料理を作ること」ではなく
「自分で食事に関与する行為そのもの」のほうが本質に近いはずである。
「自炊」という言葉の後ろにある、現代的な「きちんとした料理」というイメージは、後から付与された価値観と考えることもできる。
結論:自炊はグラデーション
ここまで整理してみると、
自炊という言葉は明確な境界を持つものではなく、
むしろ連続的なものとして捉えるほうが自然に思える。
自炊とは「どこまで作ったか」ではなく
「食事にどれだけ主体的に関わったか」の度合いで決まる
調理されたものを食べる状態から、
すべてをイチから作る状態まで、
そこには幅がある。
そして多くの場合、人はその中間に位置している。
だからこそ 作ったのか作ってないのか定まらないのだろう。
まとめ
自炊という言葉は思っている以上に曖昧で、そして柔軟な概念である。
辞書的には「自分で作ること」としか書かれていない。
にもかかわらず、
私たちは時代とともに、そこに独自の基準や価値判断を持ち込んでいる。
しかし本来は、
少しでも手を動かしているなら、それもまた自炊の一形態である
と考えるほうが、
現代の生活には即しているのかもしれない。
「これは自炊かどうか」と悩むよりも、
その食事に自分がどれだけ関わったかを見たほうが、よほど本質的なのだと思う。
スーパーで買った冷たい惣菜と、レンチンして無駄に熱い白米を食べるときの、あのなんとも言えない感情を消化したい人のために。
それは自信を持って、自炊だ!!と言ってほしい。
そういう日もある、そういう時期もある。
それがきっと「すべてをイチから作る自炊」に繋がるのだろう。