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まだ、何者にでもなれる|優里「ビリミリオン」から生まれた短編小説

まだ、何者にでもなれる

歌詞から生まれる、もうひとつの物語。

「君のこれから五十年、五十億で売ってくれないか」

そう言われたのは、会社を辞めようか迷っていた日の夜だった。

僕は駅前のベンチに座って、缶コーヒーを飲んでいた。

時刻は二十三時四十分。

今日も朝から仕事をして、昼飯はコンビニのおにぎりを二つ。残業を終えて電車に乗り、ようやく家に帰るところだった。

明日も七時には起きる。

そしてまた会社へ行く。

それを考えただけで、ため息が出た。

そんなときだった。

隣に座っていた老人が、突然そんなことを言った。

「……何ですか、それ」

「五十億」

老人は平然と答えた。

「君がこれから生きる五十年を、私にくれないか」

冗談だと思った。

でも老人は、笑っていなかった。

年齢は七十代くらいだろうか。

上等そうなコートを着て、磨かれた革靴を履いている。僕よりずっと金を持っていそうだった。

「五十億あったら、もう働かなくてもいいぞ」

老人は言った。

「好きな家を買って、好きなものを食べて、世界中を旅行できる」

「でも五十年なくなるんですよね」

「そうだ」

「じゃあ、いつまで生きられるんですか」

老人は僕の顔を見た。

「明日の朝まで」

僕は思わず笑った。

「じゃあ意味ないじゃないですか」

「そうかな」

老人は静かに言った。

「君はさっきから、明日が来るのを嫌がっていたじゃないか」

何も言えなかった。

確かにそうだった。

明日なんて来なければいい。

会社へ行きたくない。

もう全部投げ出したい。

毎日のように、そんなことを考えていた。

でも、本当に明日がなくなると言われると話は違った。

「五十億はいらないです」

僕は言った。

老人は少しだけ笑った。

「安いか」

「そういうことじゃなくて」

「じゃあ百億」

老人は即答した。

「家もつけよう。仕事もしなくていい。君が望むなら、何でも用意する」

百億。

人生で想像したこともない金額だった。

それでも答えは変わらなかった。

「いらないです」

「なぜ?」

僕は少し考えた。

「……使う時間がないから」

老人は笑った。

その日は、それだけで別れた。


翌朝。

目覚まし時計が鳴った。

いつもなら最悪な音だった。

でも、その日は少し違って聞こえた。

カーテンを開ける。

朝日が入ってくる。

昨日と何も変わらない朝だった。

僕は会社へ行った。

電車は混んでいた。

仕事は面倒だった。

上司には細かいことで怒られたし、午後には取引先から急な修正依頼が来た。

何もいいことはなかった。

それなのに、昨日より少しだけ周りがよく見えた。

昼休み。

同期の亮太が隣でラーメンを食べながら言った。

「俺、来年結婚するかも」

「マジで?」

「まだわかんないけどな」

照れたように笑っていた。

その顔を見ながら思った。

もし昨日、五十年を売っていたら、この話を聞くこともなかった。

仕事帰り。

母親からメッセージが届いた。

『日曜、暇だったらご飯食べに来なさい』

普段なら面倒で、後回しにする連絡だった。

その日はすぐに、

『行く』

と返した。

夜、家に帰る。

冷蔵庫を開けても、何もなかった。

仕方なく近所のスーパーへ行った。

帰り道、前を歩いていた高校生たちがくだらないことで笑っていた。

なんとなく羨ましかった。

僕にも、あんな頃があった。

将来何になりたいとか、どこに住みたいとか。

根拠もなく、何にでもなれると思っていた。

いつからだろう。

僕は自分の人生を、もう決まってしまったものみたいに考えるようになった。


一週間後。

老人はまた同じベンチにいた。

「考えは変わったか?」

僕を見るなり言った。

「変わってないです」

僕は隣に座った。

「じゃあ聞こう。君の五十年はいくらなら売る?」

「売らないです」

「一千億でも?」

「売りません」

老人はしばらく黙っていた。

「仕事が嫌なんだろう?」

「嫌ですよ」

「毎日つまらないんだろう?」

「つまらない日もあります」

「じゃあ、なぜ手放さない?」

その問いには、すぐに答えられなかった。

僕は駅前を歩く人たちを眺めた。

急いでいる人。

笑っている人。

疲れた顔をしている人。

手をつないでいる親子。

スマートフォンを見ながら歩く学生。

それぞれに、これからがある。

僕にもある。

明日、会社を辞めるかもしれない。

辞めないかもしれない。

別の仕事を見つけるかもしれない。

何かを始めるかもしれない。

誰かを好きになるかもしれない。

結婚するかもしれない。

一人で生きるかもしれない。

失敗するかもしれない。

思ってもみなかった場所に辿り着くかもしれない。

何一つ決まっていない。

少し前まで、それが怖かった。

今は違う。

「まだ、わからないからです」

僕は言った。

「何が?」

「自分がこれからどうなるのか」

老人は黙って聞いていた。

「五十億もらって全部決まった人生をもらうより、何になるかわからない自分でいたいんだと思います」

口にしてみると、少し恥ずかしかった。

老人は笑った。

「いい答えだ」

「採点されるんですか?」

「いや。私が聞きたかっただけだ」

「なんでこんなことするんですか」

僕が聞くと、老人は遠くを見た。

「若い頃はな、時間が無限にあると思っていた」

ゆっくり話し始めた。

「仕事を優先した。会いたい人にも、そのうち会えばいいと思った。行きたい場所にも、いつか行けばいいと思った」

老人は自分の手を見た。

「その“いつか”が、いつの間にかなくなっていた」

初めて、その人が本当に年老いて見えた。

「金ならある。家もある。欲しかったものはだいたい手に入った」

少し笑った。

「でも、二十歳には戻れない」

僕は何も言えなかった。

「だから君が羨ましい」

老人は言った。

「何も持っていない君が」

「それ、褒めてます?」

「最高に褒めている」

二人で笑った。


次の日。

僕は退職届を持って会社へ行った。

老人に会ったから辞めたわけではない。

前からずっと考えていた。

怖くて決められなかっただけだった。

上司に退職を伝えたとき、手が震えた。

本当にこれでいいのかと思った。

次の仕事は決まっていない。

貯金もそれほどない。

自信もない。

それでも、辞めることにした。

帰り道。

空を見上げた。

急に人生が輝いて見えたわけではない。

不安は残っている。

むしろ明日からどうするのか考えると、怖かった。

でも、それでいいと思った。

何になるのか決まっていない。

だから、選べる。


それから半年。

僕は小さなデザイン会社で働いている。

給料は前の会社より少し下がった。

仕事だって楽しいことばかりじゃない。

残業する日もある。

嫌なこともある。

転職が正解だったのかと考えることもある。

でも、休日には昔からやりたかった写真を撮るようになった。

そこで知り合った人たちと出かけることも増えた。

最近、少し気になる人もいる。

まだ何も始まっていないけれど。

ある日、駅前を通った。

老人と話したベンチが見えた。

あれ以来、老人には会っていない。

本当にいたのかすら、たまにわからなくなる。

僕はベンチに座った。

あの日と同じ缶コーヒーを買った。

五十億。

百億。

今なら、もっとはっきり答えられる。

いらない。

僕にはまだ、見たい景色がある。

会っていない人がいる。

したことのない仕事がある。

行ったことのない街がある。

これから好きになる誰かがいるかもしれない。

そして何より、

これからの自分がどうなるのかを、

僕はまだ知らない。

だから手放したくない。

明日、失敗するかもしれない。

何度も立ち止まるかもしれない。

また全部嫌になる日だって、きっと来る。

それでも、そのたびに選び直せばいい。

僕の人生が何のためにあるのかなんて、誰かに決めてもらう必要はない。

価値をつけてもらう必要もない。

僕が生きる理由は、

僕が決めればいい。

缶コーヒーを飲み干して、僕は立ち上がった。

家に帰ろう。

明日の予定は、まだ何もない。

それが今は、

少しだけ楽しみだった。


この物語について

この短編小説は、
「ビリミリオン」/優里
の歌詞から着想を得て制作した物語です。

何気なく繰り返している毎日も、失ってから買い戻すことはできないこと。

将来が決まっていない不安は、見方を変えれば、まだ何にでもなれるという可能性でもあること。

楽曲から感じたそんな思いを、「自分の毎日に価値を感じられなくなった青年が、自分に残された時間の価値に気づいていく」物語として再構成しました。

人生がいつも楽しく、充実している必要はないのかもしれません。

立ち止まったり、選び直したりしながら、自分の人生を自分で決めていけること。

それ自体が、簡単には値段をつけられないものなのだと思います。

同じ音楽でも、聴く人によって浮かぶ景色はきっと違う。

この物語も、そのひとつとして楽しんでいただけたら嬉しいです。


emofragment

Emotional × Fragment

― 歌詞から生まれる、もうひとつの物語。

映像と音楽で描く世界観
→ @emowhere

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