
ウクレレのあとさき
先週の日曜の私が、これを書いている。
お昼前から、しとしとと雨が降りはじめる中、息子とその友人をカラオケ店まで車で送り、私はコーヒーと読書を楽しむためにいつものカフェに来た。
「お久しぶりですね」
とカフェのお姉さんが声をかけてくださる。
確かに久しぶり。
「ありがとうございます」
と私は答える。
覚えていてくれていることに感謝しかないと思い、会話として成り立っている返答なのかわからなかったけど、咄嗟にそう答えた。
とびきりの笑顔で応えられていたと思うので、会話としての矛盾にはきっと気付かれてはいまい。
でも別のところでは、ひとりでいる時は「私は背景になりたい」と思っている自分がいて、私という個人を特定されると、ただそこにある背景でしかなかった私が、私という個体で動かなくてはいけない気がしてきて、その場に合わせた「私スイッチ」が自動的にオンになってしまう。
「背景の中で、コーヒーを飲んでいる人もいる」
というただの壁紙から、
「私というこの人がコーヒを飲んでいますよ」
と、個のキャラクターを降ろさなくてはいけなくなって、ゲームでいうところの、モブキャラからサブキャラに変わるよう。
個を与えてくれているという意味ではとても有り難く、感謝であふれる。
心からそう思う。
素直にとても嬉しい。
だから、「ありがとうございます」だなんて、トンチンカンな返事もスッと素で出てきてしまう。
でも、正直なところ、根が暗い私は、背景でありたいと思い、誰も私を認識していない中で、自分だけの世界に埋もれていたいとも思っている。
とくに、こんな雨降りの午後は。
雨が細く降っている。
雨は優しく降ったり、時には強く、激しく降ったりする。
これは地球の心模様なのだろうか。
井上陽水の『少年時代』の歌にある
「私の心は夏模様」という歌詞を思い出した。
八月は夢花火 私の心は夏模様
八月は夢花火。
まったく意味がわからないけど、なにか大事な意味のように思った。
意味がわからないことは、不必要なことではない。
必要でないものは、ここにはない。
むしろ意味がわからないというのが、重要なヒントであり、深い森に落ちているパンくずのように思う。
本当はわかっている、のかもしれない。
六月の雨模様の夢みたいに。
井上陽水の『少年時代』は昔から好きな曲で、
次にこの曲をウクレレで弾けるように練習したいと思っている。
ビートルズの『 I Will 』が先かも知れないけれど。
3、4年ほど前にウクレレを買って、BEGINの『涙そうそう』を、辿々しくだけれども弾けるようになった。
夏川りみさんの『涙そうそう』ではなく、BEGINの『涙そうそう』。
曲としてはどちらも変わりはないけれど、BEGINの涙そうそうなのだ。
絶対に。
その昔、深夜にTVでやっていたアマチュア音楽番組「いかすバンド天国」、略して「イカ天」にBEGINが出て演奏しているのを見て以来、メンバーのあたたかなお人柄と歌に心惹かれてご贔屓なのだ。
若き頃にインプットされた感情は根強い。
ウクレレを買って『涙そうそう』が弾けるようになってから、ウクレレは、スタンドに立てかけてあるまま微動だにしていない。
つまり、ここ数年ウクレレを弾いていない。
もっと突っ込んだ言い方をすると、欲しいと思って買ってはみたものの、最初に少し弾いてみただけで、買ったときの情熱はすぐに冷めて、今はもう放ったらかしになっている。
立てかけてあるウクレレの側を通るとき、ときどきウクレレの弦に不注意に物が当たって、ホロろろ〜んと寂しげな音を響かせる。
家族内でこのあり様は共有されていて、「何か新しいものを欲しいと思って買っても、すぐに飽きて放ったらかしになってしまうこと」の例えとして、
『お母さまのウクレレのようになってしまう』と、息子や夫から冗談混じりに言われている。
実のところ冗談ではないのかも知れないけれど、
私は心が弱いので、冗談ということにして心を落ち着かせている。
たとえば、息子が新しい何かが欲しいと言ったときに、
「本当にそれいるの?お母さまのウクレレのようになってしまうんじゃない?」
「そうだね。これはお母さまのウクレレのようになってしまうかも。やめておこう」
と。
「お母さま」というのは、もちろん私のことだが、息子は私のことをいろんな呼び方で呼ぶので、その中でいちばん丁寧な呼び方で表現してみた。
私のウクレレ。
きっとそこにはまだ見ぬ夢がある。
こんな雨の日に、
ウクレレで『少年時代』を弾けたらなら。
夢はつまり 思い出のあとさき
(1-p76)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今日がよき日でありますように!