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夜のベールの向こう側

    あらすじ
    夜、僕は窓の外を見るのが好きだった。
    六階の部屋から見下ろす小さな公園。
    街灯に照らされたベンチには、昼間とは違う“大人たちの顔”が現れる。
    寄り添う男女、騒ぐ若者、ひとり泣く女。
    そのすべてが、僕には秘密の舞台のように見えていた。
    ある夜、僕は見てしまう。
    “見てはいけないもの”を。
    それは、優しかったはずの父の知らない一面。
    そして、大人たちが抱える、決して表に出されない感情だった。
    やがて起こる、ひとつの出来事。
    それを境に、僕の世界は静かに変わっていく。
    夜はなぜ、暗いのか。
    なぜ人は、朝になると何もなかったように笑えるのか。
    その答えを、僕はまだ誰にも言っていない。
    これは、ひとりの少年が“大人の秘密”に触れてしまった夜の物語。

    目次
    第1章 夜の窓
    第2章 夜の住人たち
    第3章 あのベンチの女
    第4章 家の中の夜
    第5章 重なる影
    第6章 あの夜
    第7章 朝という嘘
    第8章 夜の向こう側(エピローグ)

    第1章 夜の窓
     僕の部屋の窓からは、小さな公園が見える。
     マンションの六階。見下ろすというほど高くはないけれど、地面にいる人たちの声はほとんど届かない。その距離が、僕にはちょうどよかった。まるでテレビの中を眺めているみたいに、現実なのに、少しだけ遠い世界に見える。
     公園には、ブランコも砂場もない。遊具らしいものは何もなくて、ただ、大小の木と、少し伸びすぎた草と、端の方にぽつんと置かれたベンチがあるだけだ。
     そのベンチは、夜になると街灯に照らされる。
     そこだけ、丸く切り取られたみたいに明るくなる。
     まるで舞台だ、と僕は思う。
     昼間はなんてことのない場所なのに、夜になると急に意味ありげに見える。誰かがそこに座るだけで、その人が何か特別なことを抱えているような気がしてくる。
     だから僕は、夜に窓の外を見るのが好きだった。
     昼の公園は、ただの公園だ。犬の散歩をする人や、走っている人や、子どもたちがいて、にぎやかで、でもどこか決まりきっている。
     けれど夜は違う。
     静かで、暗くて、少しだけ怖い。
     そして、何かが起こりそうな気がする。
     夜から朝に変わる瞬間を、僕はまだ見たことがない。
     何度か起きていようとしたことはある。ベッドの中で目をこすりながら、時計の針をにらんでいた。でも、気がつくと朝になっていて、カーテンの向こうが明るくなっている。
     世界が切り替わるその瞬間を、僕は知らない。
     みんなが眠っている間、起きている人はいるのだろうか。夜のあいだにしか現れない人や出来事が、本当はあるんじゃないか。
     そんなことを考えると、眠るのがもったいなく思えた。
     最近、パパの帰りが遅い。
     前は一緒にお風呂に入ったり、寝る前に少し話したりしていたのに、今は僕が布団に入ってから帰ってくることが多い。
     ママは「もう小学生なんだから一人で寝なさい」と言って、電気を消して、ドアを閉めてしまう。
     暗くなると、余計に外が気になる。
     カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、僕を呼んでいるみたいに見える。
     ある少し寒い夜、僕はこっそりベッドを抜け出した。
     床はひんやりしていて、足の裏がきゅっと縮む。音を立てないようにゆっくり歩いて、カーテンを少しだけ開けた。
     ベンチに、人がいた。
     男の人と女の人。
     最初はただ座っているだけだった。けれど、しばらく見ているうちに、二人の距離は少しずつ近づいていった。
     話しているみたいだったけど、声は聞こえない。
     やがて、女の人が少し顔を上げて、男の人がそれに近づく。
     そして、二人の顔がくっついた。
     チューだ、と僕は思った。
     その瞬間、胸がどきんとした。
     何が起きたのかよくわからないのに、見てはいけないものを見てしまったような気がして、急に怖くなった。
    「ママ……」
     僕は慌ててドアを開けた。
     キッチンの明かりがついていて、水の音がしている。
    「まだ起きてたの?」
     ママは振り向いて、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
    「ママ、大変だよ。下の公園で、おじさんとおばさんがチューしてる。なんで寒いのにお家に帰らないのかな」
     一瞬、ママの顔が固まった。
     でもすぐに、何もなかったみたいにため息をついて、蛇口を止めた。
    「窓から外を見ちゃダメって言ったでしょ」
     それだけ言って、僕の肩を押して部屋に戻した。
     ベッドに寝かされて、カーテンを強く閉められる。
     しゃっと、音がした。
     それは、さっきまで見えていた世界が、急に消えてしまう音だった。
     僕は天井を見つめたまま、さっきのことを思い出していた。
     どうしてダメなんだろう。
     外を見るだけなのに。
     テレビを見るよりも、ずっと本当のことが起きている気がするのに。
     むしろ、外を見ない方が変だと思う。
     窓は、そのためにあるんじゃないのか。
     でも、ママは嫌がる。
     だから余計に、見たくなる。
     ダメと言われると、そこに何かがあるような気がする。
     それからも、僕は何度も窓の外を見た。
     ある夜は、数人の若い男の人たちがベンチのまわりで騒いでいた。大きな声で笑って、何かを飲んでいる。楽しそうで、少しうらやましかった。
     でもしばらくすると、自転車に乗ったお巡りさんが現れて、男の人たちは一斉に逃げていった。
     急に静かになる。
     さっきまでの楽しさが、最初からなかったみたいに消えてしまう。
     夜は、そういうふうに、何かが現れては消える。
     ずっと続かない。
     だから、見ていたくなるのかもしれない。
     ある時は、一人の女の人がベンチに座っていた。
     コートの襟を立てて、寒そうにしている。
     ずっとスマホを見ていたけれど、ときどき顔を上げて、誰かを探すみたいに周りを見る。
     その顔は、少しだけ、泣いているようにも見えた。
     しばらくすると、その人はいなくなる。
     来たときと同じように、静かに。
     まるで、最初からいなかったみたいに。
     僕は、その人が気になった。
     どうして一人で座っているんだろう。
     誰かを待っているのかな。
     もしそうなら、その人はちゃんと来るんだろうか。
     来なかったら、どうするんだろう。
     考えても、答えはわからない。
     ただ、気になる。
     夜の公園には、昼には見えないことがたくさんある。
     同じ場所なのに、まるで違う世界みたいだ。
     そしてその世界は、カーテン一枚で、簡単に隠されてしまう。
     まるで、最初から存在しなかったみたいに。
     そのとき、僕はまだ知らなかった。
     夜に見えるものの中には、
     見てはいけないものもあるということを。

    第2章 夜の住人たち
     夜の公園には、いろいろな人が現れる。
     最初のころ、僕はただ「珍しいものを見ている」だけだった。昼とは違う、ちょっと不思議な出来事。それをこっそり覗いている自分に、少しだけ特別な気持ちを感じていた。
     でも、何度も見ているうちに、ただ楽しいだけじゃないことに気づき始めた。
     夜に来る人たちは、みんな、昼とは違う顔をしている。
     ある夜、ベンチに座っていたのは、前にも見たことがある男の人だった。
     昼間、公園の端で体操をしている人だ。ラジオ体操みたいに腕を大きく回して、周りの人に「おはようございます」と元気よく声をかけている。
     その人が、夜は一人でベンチに座っていた。
     背中を丸めて、足元を見ている。
     手には細い煙が上がっていて、タバコを吸っているみたいだった。
     昼のその人とは、まるで別の人に見えた。
     誰にも声をかけず、誰とも目を合わせず、ただ煙を吐いている。
     煙は街灯の光に照らされて、ゆっくりと形を変えながら消えていく。
     その様子を見ていると、なんだか、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
     どうしてだろう。
     昼はあんなに元気そうなのに。
     夜になると、どうしてあんな顔になるんだろう。
     僕にはよくわからなかった。
     別の日の夜、若い女の人と男の人がベンチに座っていた。
     二人は、最初から少し距離があった。
     仲がいい人たちは、だんだん近づいていくけど、その二人は違った。最初から最後まで、その距離はあまり変わらなかった。
     女の人が何か言うと、男の人は少しだけうなずく。
     でも、すぐに視線をそらす。
     また女の人が話す。
     男の人は、今度はうなずかない。
     その繰り返しだった。
     声は聞こえないけれど、なんとなく、うまくいっていないことだけはわかった。
     しばらくして、女の人が立ち上がった。
     そのまま、振り返らずに歩いていく。
     男の人は、しばらく座ったままだったけれど、やがてゆっくりと立ち上がって、反対の方向へ歩いていった。
     二人とも、もう振り返らなかった。
     そのあとに残ったベンチは、さっきまでよりもずっと冷たく見えた。
     同じ場所なのに、そこにいた人によって、全然違うものになる。
     夜の公園は、そういう場所だった。
     ある夜は、スーツを着た男の人が、一人で電話をしていた。
     ベンチには座らず、少し離れたところで立ったまま、ずっと話している。
     最初は普通に話しているように見えたけれど、だんだん声が大きくなっていった。
     怒っているみたいだった。
     何度も同じ言葉を繰り返して、最後は、何かを強く言い切るようにして電話を切った。
     そして、そのまましばらく動かなかった。
     街灯の光の中で、影だけが長く伸びている。
     その影が、少し揺れた気がした。
     風のせいかもしれない。
     でも僕には、その人が泣いているようにも見えた。
     夜は、いろいろなものを隠す。
     でも同時に、いろいろなものを浮かび上がらせる。
     昼には見えないものが、夜には見える。
     それは、いいことなのか、悪いことなのか、僕にはまだわからなかった。
     ただひとつ言えるのは、夜にいる人たちは、みんな少しだけ「本当の顔」に近い気がする、ということだった。
     あるとき、僕はふと思った。
     じゃあ、パパやママにも、夜の顔があるのだろうか。
     僕の知らない顔が。
     そう考えた瞬間、胸の奥がざわっとした。
     考えてはいけないことを考えてしまったような気がした。
     僕は慌ててカーテンを閉めた。
     でも、一度浮かんだ考えは、なかなか消えなかった。
     それから数日後の夜。
     少し風が強くて、木の葉がざわざわと音を立てていた。
     ベンチには、誰もいなかった。
     珍しいな、と思った。
     いつもなら、誰かしらいるのに。
     しばらく待ってみたけれど、誰も来ない。
     舞台だけが用意されていて、役者がいないみたいだった。
     そのとき、ふと気づいた。
     ベンチのまわりの影が、いつもより濃い。
     街灯の光は同じはずなのに、なぜか暗く見える。
     風のせいで、木の影が揺れているからかもしれない。
     でも、それだけじゃない気がした。
     なんとなく、落ち着かない。
     見ていると、だんだん不安になってくる。
     理由はわからない。
     ただ、そこに何かが“足りない”気がした。
     僕はカーテンから手を離した。
     しゃっ、と音を立てて閉じる。
     その音が、やけに大きく聞こえた。
     ベッドに戻っても、なかなか眠れなかった。
     目を閉じると、さっきの空っぽのベンチが浮かんでくる。
     誰もいないのに、誰かがいるような気がする。
     そんな変な感じだった。
     翌朝、公園を見ると、いつも通りだった。
     犬を連れている人、走っている人、ベンチでパンを食べている人。
     昨日の夜のことが、まるで嘘みたいだった。
     あのベンチも、ただのベンチに戻っている。
     でも僕は、知っている。
     夜になると、あそこは別の場所になる。
     同じものなのに、違うものになる。
     そのことを、僕だけが知っている。
     そう思うと、少しだけ誇らしい気持ちになった。
     でも同時に、少しだけ怖くもあった。
     夜は、いろいろなものを見せてくれる。
     でも、見せてくれるだけじゃない。
     何かを、隠している。
     僕はまだ、それが何なのか知らない。
     でもきっと、いつか知ることになる。
     知りたくなくても。

    第3章 あのベンチの女
     その人に気づいたのは、いつからだったのか、はっきりとは覚えていない。
     最初は、夜の公園に現れる人たちの一人にすぎなかった。
     でも、気がつくと、僕はその人を探すようになっていた。
     ベンチに誰かが座っていると、まず「その人かどうか」を確かめる。
     違う人だと、少しだけがっかりする。
     そんなふうになっていた。
     その人は、いつも一人だった。
     コートを着て、ベンチの端に座る。
     姿勢はまっすぐなときもあれば、少し前かがみのときもある。
     手には、いつもスマホがあった。
     画面をじっと見ていることが多いけれど、ときどき顔を上げて、あたりを見回す。
     誰かを探しているみたいだった。
     でも、誰も来ない。
     少なくとも、僕が見ているあいだは。
     しばらくすると、その人は立ち上がって、静かにいなくなる。
     来たときと同じように、何も残さずに。
     最初のころは、それだけだった。
     ただ「いつもいる人」という印象。
     でも、何度も見るうちに、少しずつ違いに気づくようになった。
     ある夜、その人はスマホを見ていなかった。
     膝の上に置いたまま、ただ前を見ていた。
     街灯の光に照らされた横顔が、ぼんやりと浮かび上がる。
     その目は、どこか遠くを見ているようだった。
     誰もいない場所を、じっと見つめている。
     その視線の先に、誰かがいるのかもしれないと思った。
     でも、僕には見えない。
     僕が見ているのは、その人だけだった。
     また別の夜、その人は何度もスマホを操作していた。
     画面を開いて、閉じて、また開く。
     指の動きが、少しだけ速い。
     何かを待っているような、焦っているような、そんな動きだった。
     そして、ふと手を止めて、画面を見つめる。
     そのあと、ゆっくりと顔を上げて、周りを見る。
     そのときの顔が、少しだけ崩れているように見えた。
     泣いているのかもしれない。
     でも、はっきりとはわからない。
     距離があるから。
     それでも僕は、なぜか、その人が泣いていると思った。
     どうしてそう思ったのか、自分でもよくわからない。
     ただ、そう感じた。
     ある夜、その人はいつもより長くベンチに座っていた。
     時計は見えないけれど、いつもより時間が過ぎているのがわかる。
     他の人たちは来ては去っていくのに、その人だけはずっとそこにいる。
     まるで、そこから動けないみたいに。
     途中で一度、立ち上がった。
     でも、すぐにまた座り直した。
     何かを決めきれないような、そんな動きだった。
     僕は、その様子をずっと見ていた。
     見てはいけない気もしたけれど、目を離せなかった。
     その人が何を待っているのか、知りたくなった。
     でも、結局その夜も、誰も来なかった。
     その人は、最後に一度だけ、空を見上げてから立ち上がった。
     そして、ゆっくりと歩いていった。
     その背中は、小さく見えた。
     なんだか、消えてしまいそうな感じがした。
     その夜、僕はなかなか眠れなかった。
     ベッドに入っても、ずっとその人のことを考えていた。
     どうして毎晩来るんだろう。
     誰を待っているんだろう。
     もし、その人が待っている人が来たら、どうなるんだろう。
     嬉しそうな顔をするのかな。
     それとも、怒るのかな。
     それとも、、、
     そこまで考えて、僕はやめた。
     これ以上考えると、何かよくないことを想像してしまいそうだった。
     それでも、次の日の夜になると、また窓の外を見てしまう。
     そして、ベンチを探す。
     その人がいるかどうか。
     それが、いつの間にか僕の習慣になっていた。
     ある日、僕は気づいた。
     その人が来る時間が、だいたい決まっていることに。
     毎日、同じくらいの時間に現れる。
     まるで、約束しているみたいに。
     でも、相手は来ない。
     それでも、その人は来る。
     毎日。
     そのことに気づいたとき、胸の奥が少しだけ冷たくなった。
     それは、楽しさとは違う感覚だった。
     うまく言えないけれど、何かがずれている感じ。
     正しくないものを見ているような気がした。
     それでも、僕は見るのをやめなかった。
     やめられなかった。
     知りたい、と思ってしまったから。
     その人が何を待っているのか。
     どうしてそこにいるのか。
     そして、その先に何があるのか。
     ある夜、その人は少しだけ違っていた。
     ベンチに座るとすぐにスマホを取り出す。
     でも、画面を見る時間は短かった。
     すぐにポケットにしまって、周りを見回す。
     落ち着かない様子だった。
     何度も姿勢を変えて、足を組み替えて、また戻す。
     そして、ふと、立ち上がった。
     いつもより早い。
     帰るのかと思った。
     でも違った。
     その人は、ベンチの前に立って、少しだけ前に進んだ。
     まるで、誰かが来るのを迎えるみたいに。
     僕は思わず息を止めた。
     来るのかもしれない。
     その人が待っていた誰かが。
     でも、誰も現れなかった。
     しばらくそのまま立っていたあと、その人はゆっくりとベンチに戻った。
     そして、さっきよりも深く腰を下ろした。
     その動きが、少しだけ重く見えた。
     僕は、そのとき初めて思った。
     この人は、ただ待っているだけじゃない。
     何かに、しがみついている。
     そんな感じがした。
     うまく言葉にできないけれど、離したくないものを、無理やり持ち続けているような。
     そんな感じ。
     その夜の帰り際、その人は少しだけふらついた。
     ほんの一瞬だけ。
     でも僕は、それを見逃さなかった。
     大丈夫なのかな、と思った。
     声をかけたい、と思った。
     もちろん、そんなことはできない。
     ここは六階で、僕はただ見ているだけの存在だから。
     それでも、何かしなければいけないような気がした。
     でも、何もできなかった。
     その人は、そのまま暗い方へ歩いていって、見えなくなった。
     あとには、いつものベンチだけが残った。
     街灯に照らされて、何もなかったみたいにそこにある。
     でも僕は知っている。
     あそこには、毎晩、同じ人が座っている。
     そして、誰かを待っている。
     来ないかもしれない誰かを。
     そのとき、ふと思った。
     もし、その「誰か」が来たら、、、
     その先には、何が起こるんだろう。
     その答えを、僕はまだ知らない。
     でもきっと、それを知る日は来る。
     そんな気がした。
     理由はわからない。
     ただ、そう思った。

    ある雨の夜のことだった。
     その日は、昼からずっと雨が降っていた。
     夜になってもやむ気配はなくて、公園の地面は黒く濡れて、街灯の光をぼんやりと反射していた。
     いつもの夜より、少しだけ静かだった。
     人はあまりいない。
     でも、まったくいないわけでもない。
     しばらく見ていると、ひとつの傘が、公園の中に入ってきた。
     黒い傘だった。
     ゆっくりと歩いて、ベンチのところで止まる。
     傘が少しだけ動いて、中から人が座ったのがわかった。
     その人は、しばらくそのままだった。
     雨の音はここまで聞こえないけど、降っているのはわかる。
     傘に当たる雨が、少しだけ光って見えるからだ。
     その人は、何をしているんだろう。
     僕はじっと見ていた。
     やがて、もうひとつ、別の傘がやってきた。
     少し小さな傘だった。
     その傘は、迷うように少しだけ立ち止まってから、ベンチの方へ近づいていく。
     そして、最初の傘の隣で止まった。
     二人になった。
     でも、傘のせいで顔は見えない。
     ただ、並んでいるだけ。
     それなのに、なんだか話しているのがわかる。
     ときどき、傘が少し揺れる。
     うなずいたり、首を振ったりしているみたいだった。
     雨の中で、顔も見えないのに、どうしてわざわざ会うんだろう。
     昼間だったら、もっと明るい場所で会えばいいのに。
     屋根のあるところもあるはずなのに。
     どうして、こんな夜に、こんな雨の中で。
     僕には、よくわからなかった。
     しばらくして、小さな傘の方が立ち上がった。
     少しだけ動きが速かった。
     何かを言っているみたいだった。
     でも、やっぱり聞こえない。
     そのまま、公園の外へ歩いていく。
     黒い傘は、しばらく動かなかった。
     一人、ベンチに残っている。
     やがて、ゆっくりと立ち上がって、反対の方向へ歩き出した。
     同じ場所に来たのに、違う方向へ帰っていく。
     それが、なんだか不思議だった。
     僕は、しばらくそのあとも公園を見ていた。
     雨はずっと降り続いている。
     誰もいないベンチ。
     濡れた地面。
     光る水たまり。
     全部が静かで、でもどこか落ち着かない。
     そのとき、ふと気づいた。
     昼の公園では、誰かが一人で座っていると、なんだか寂しそうに見えるのに、
     夜の公園では、それが当たり前みたいに見える。
     誰もいなくても、不思議じゃない。
     誰かがいても、不思議じゃない。
     どっちでもいいみたいな感じがする。
     それが、少しだけ怖かった。
     夜は、いろんなことを曖昧にする。
     はっきり見えなくする。
     でも、その分、想像がふくらむ。
     見えないものまで、見えてしまう気がする。
     僕は、カーテンを少しだけ閉めた。
     全部は閉めない。
     少しだけ残す。
     そのすき間から見える夜が、一番おもしろい気がしたからだ。

    第4章 家の中の夜
     そのころから、家の中の夜も、少しずつ変わっていった。
     最初に気づいたのは、音だった。
     夜、布団に入って目を閉じていると、リビングの方から声が聞こえてくる。
     最初は小さくて、何を言っているのかはわからない。
     ただ、誰かが話している、ということだけがわかる。
     ママとパパだ。
     前は、そんなことはあまりなかった。
     夜は静かで、気がつくと眠っていて、朝になっていた。
     でも最近は、違う。
     声がする。
     ひそひそと話していることもあれば、少しだけ強い声になることもある。
     ある夜、僕は目を覚ました。
     いつもより声が大きかったからだ。
     布団の中でじっとして、耳をすませる。
    「……だから、そういう問題じゃないって言ってるでしょ」
     ママの声だった。
     少し低くて、押さえているけど、怒っているのがわかる声。
    「俺だって、ちゃんと考えてるよ」
     パパの声。
     でも、いつもより小さい。
    「考えてるって、何を?」
     少し間があいた。
     そのあと、何か言葉が続いたけれど、うまく聞き取れなかった。
     僕は布団の中で、目を開けたまま天井を見ていた。
     なんとなく、聞いてはいけない気がした。
     でも、気になる。
     耳をふさぐほどでもないけど、そのまま眠ることもできない。
     そんな感じだった。
     それから、声は少しずつ大きくなっていった。
     言葉は途切れ途切れにしか聞こえないけれど、二人が言い合っていることはわかる。
     ママの声が強くなって、パパの声がそれにかぶさる。
     そして、またママの声。
     繰り返し。
     テレビの音はついていなかった。
     だから余計に、その声だけがはっきりと浮かび上がる。
     しばらくして、急に静かになった。
     何も聞こえなくなる。
     それが、かえって怖かった。
     僕は布団を頭までかぶった。
     外の公園を見るときとは違う怖さだった。
     あっちは、どこか遠い。
     でも、これは近い。
     同じ家の中で起きていることだ。
     逃げる場所がない。
     それから、そういう夜が何度かあった。
     毎日じゃないけれど、忘れたころにやってくる。
     最初は小さな声。
     だんだん大きくなって、そして、また急に静かになる。
     そのあとに聞こえるのは、水の音だったり、ドアが閉まる音だったりする。
     ある夜、僕は少しだけドアを開けてみた。
     ほんの少しだけ。
     廊下の明かりが細く部屋に差し込む。
     リビングの方を見ると、電気がついていた。
     ママが立っていた。
     キッチンの前で、後ろ姿だけが見える。
     パパは見えなかった。
     ママは、何もしていないように見えた。
     ただ、そこに立っているだけ。
     でも、肩が少しだけ動いている。
     泣いているのかもしれない、と思った。
     僕はすぐにドアを閉めた。
     見てはいけないものを見てしまった気がした。
     夜の公園を見ているときと、同じ感じだった。
     でも、もっと重かった。
     次の日の朝、ママはいつも通りだった。
    「早く食べなさい、遅れるわよ」
     そう言って、朝ごはんを出す。
     パパも、いつも通りに新聞を読んでいる。
     何もなかったみたいに。
     昨日の夜のことなんて、最初からなかったみたいに。
     僕は、そのことが不思議だった。
     どうして、あんなふうに言い合っていたのに、次の日には普通に戻れるんだろう。
     忘れているのかな。
     それとも、なかったことにしているのかな。
     どっちなんだろう。
     僕にはわからなかった。
     ただ、ひとつだけわかったことがある。
     夜と朝は、やっぱり違う。
     同じ人でも、違う人みたいに見える。
     それは、公園だけじゃなくて、家の中でも同じだった。
     ある日、久しぶりにパパとお風呂に入った。
     湯気で少し曇った鏡の中で、パパの顔がぼんやりと見える。
    「ねえ、パパ」
    「ん?」
    「夜から朝になるときって、どんな感じなの?」
     前にも聞いたことがあるけれど、もう一度聞いてみたくなった。
     パパは少しだけ考えてから、言った。
    「だんだん明るくなるんだよ」
    「いきなりじゃないの?」
    「いきなりじゃない。少しずつだ」
     パパは、手で空気をなぞるみたいに動かした。
    「暗いのが、少しずつ薄くなっていく。気づいたら、朝になってる」
    「ふうん」
     僕は湯船の中で足を伸ばした。
    「人の心も、同じだよ」
     パパが続けた。
    「嫌なこととか、悲しいこととか、いろいろあるだろ。でも、それを夜が包んでくれる。だから人は眠って、朝になったら、また新しく始められる」
     僕はその言葉を、少し考えた。
    「じゃあ、夜にあったことは、なくなるの?」
    「なくなるわけじゃない」
     パパは少し笑った。
    「ただ、しまっておくんだ。見えないところに」
    「どうして?」
    「その方が、うまくやっていけるからだよ」
     うまくやっていく。
     その言葉が、少しだけ引っかかった。
     でも、どういう意味かはよくわからなかった。
    「夜はな、いろんなものを隠してくれるんだ」
     パパはそう言って、湯船から出た。
    「だから、夜に見たことは、あんまり人に話さない方がいい」
    「どうして?」
    「秘密だからだよ」
     パパはタオルで体を拭きながら、僕の方を見た。
    「大人には、大人の事情がある。子どもにはわからないことも多い」
    「……うん」
    「聡も、そのうちわかる」
     そのうち。
     それがいつなのか、僕にはわからない。
     でも、きっと今じゃない。
     そんな気がした。
    「でも、少し見るくらいならいい」
     パパはそう言って、少しだけ笑った。
    「全部を知ろうとしなくていい。見すぎると、困ることもあるからな」
     僕はうなずいた。
     わかったような、わからないような気持ちだった。
     でも、その言葉は、なぜか少しだけ重く感じた。
     お風呂から上がって、自分の部屋に戻る。
     カーテンの向こうに、街灯の光が透けている。
     僕は少しだけ迷ってから、カーテンを開けた。
     公園は、いつも通りそこにあった。
     ベンチも、街灯も、木も。
     変わらない景色。
     でも、前とは少しだけ違って見えた。
     そこにいる人たちだけじゃなくて、
     その向こうにあるものまで、想像してしまうようになったからかもしれない。
     ベンチには、誰もいなかった。
     でも僕は思った。
     ここに来る人たちは、みんな何かを抱えている。
     それを夜にだけ出して、朝には隠す。
     パパやママも、きっと同じだ。
     そう考えたとき、ふと、あの女の人の顔が浮かんだ。
     毎晩、ベンチに座っている人。
     誰かを待っている人。
     あの人は、何を隠しているんだろう。
     そして、誰を待っているんだろう。
     そのとき、胸の奥が、少しだけざわついた。
     理由はわからない。
     でも、ただの“知らない人”じゃないような気がした。
     そんなはずはないのに。
     僕の知らないところで、何かがつながっているような気がした。
     考えすぎだ、と僕は思った。
     そんなことあるわけない。
     ここはただの公園で、あの人はただの人だ。
     それだけのことだ。
     でも、その夜、ベッドに入ってからも、
     そのざわつきは消えなかった。
     小さな違和感が、胸の中に残ったまま。
     それはまだ、言葉にならない。
     でも確かに、そこにあった。
    第5章 重なる影
     その夜は、少し久しぶりだった。
     ここ何日か、僕は窓の外を見ていなかった。
     パパと約束したこともあるし、なんとなく、見ない方がいい気がしていたからだ。
     でも、その日は違った。
     理由はうまく言えない。
     ただ、気になった。
     見なきゃいけないような気がした。
     カーテンの向こうにある暗さが、いつもより重く感じられた。
     僕はベッドから起き上がって、そっとカーテンを開けた。
     公園は、静かだった。
     風もなくて、木も揺れていない。
     街灯の光だけが、いつも通りベンチを照らしている。
     そして、
     その人が、いた。
     あの女の人。
     ベンチの端に、いつものように座っている。
     少しだけ安心した。
     変わらないものがそこにある、という安心。
     でも同時に、どこか違う感じもした。
     その人は、スマホを見ていなかった。
     手は膝の上に置かれたままで、じっと前を見ている。
     その姿勢が、少しだけ硬い。
     待っている、というより
     構えているように見えた。
     僕は息をひそめて、その人を見ていた。
     時間がゆっくり流れていく。
     何も起こらない。
     でも、何かが起こる前の感じがした。
     そのとき、公園の入り口の方に、人影が現れた。
     暗くてよく見えない。
     でも、誰かがこちらに歩いてくる。
     足音は聞こえない。
     ただ、影だけが少しずつ近づいてくる。
     僕の心臓が、急に速くなった。
     来たんだ、と思った。
     あの人が待っていた誰かが。
     影は、街灯の光の中に入った。
     男の人だった。
     スーツを着ている。
     少しだけうつむいて歩いている。
     その歩き方に、見覚えがある気がした。
     どこで見たのか、すぐには思い出せない。
     でも、知っている感じがする。
     男の人は、ベンチの前で立ち止まった。
     女の人が、ゆっくりと顔を上げる。
     二人の間に、少しだけ間があった。
     何も言っていないのに、何かが始まっている感じがした。
     やがて、女の人が立ち上がった。
     勢いはなかった。
     でも、その動きには迷いがなかった。
     何かを決めているような、そんな感じだった。
     口が動いている。
     何かを言っている。
     でも、やっぱり聞こえない。
     男の人は、少しだけ顔を上げて、何かを返す。
     そのあと、すぐに視線をそらした。
     女の人の体が、少し前に出る。
     距離が縮まる。
     さっきまでの静けさが、少しだけ崩れた。
     僕は、その様子をじっと見ていた。
     目が離せなかった。
     見てはいけないと思いながらも、視線を外せなかった。
     男の人が、少しだけ後ろに下がる。
     女の人が、さらに近づく。
     何かを問い詰めているように見えた。
     そのとき、ふと、男の人の顔が街灯に照らされた。
     その瞬間、僕は息を止めた。
     似ている、と思った。
     パパに。
     でも、違う。
     距離があるし、はっきりとは見えない。
     ただ、似ている気がするだけ。
     そう思おうとした。
     でも、一度そう思ってしまうと、もうそうとしか見えなくなる。
     あの肩の感じ。
     立ち方。
     首の傾け方。
     どれも、知っている気がする。
    「ちがう」
     小さくつぶやいた。
     誰にも聞こえないくらいの声で。
     あれはパパじゃない。
     そうに決まってる。
     こんな時間に、こんな場所にいるはずがない。
     家にいるはずだ。
     さっきだって、リビングから音がしていた。
     テレビの音も聞こえていた。
     だから、違う。
     そう思おうとした。
     でも、目はその人から離れなかった。
     二人の動きが、少し大きくなった。
     女の人の手が動く。
     何かを強く言っているみたいだった。
     男の人は、それを止めるように手を上げる。
     でも、触れない。
     触れようとして、やめる。
     そんな動きだった。
     そのあと、男の人が一歩だけ近づいた。
     何かをなだめるように。
     そのとき、女の人が大きく首を振った。
     そして、後ろに下がる。
     その距離が、さっきよりも遠くなる。
     でも、関係が離れたわけじゃない。
     むしろ、張りつめた感じが強くなった。
     次の瞬間、女の人が何かを叫んだ。
     声は聞こえない。
     でも、叫んだのはわかる。
     体の動きで。
     男の人は、一瞬だけ立ち止まった。
     そして、何も言わずに、背を向けた。
     そのまま歩き出す。
     女の人の横を通り過ぎて、公園の外へ向かう。
     女の人は、その背中に向かって何かを言っていた。
     何度も、何度も。
     でも、男の人は振り返らなかった。
     やがて、その姿は暗闇の中に消えていった。
     残されたのは、女の人だけだった。
     その人は、しばらくその場に立っていた。
     動かなかった。
     まるで、時間が止まってしまったみたいに。
     やがて、ゆっくりとベンチに座る。
     その動きが、さっきまでとは違っていた。
     力が抜けているような、そんな感じだった。
     僕は、しばらくその様子を見ていた。
     何も起こらない。
     ただ、そこにいるだけ。
     でも、さっきまでとはまるで違う空気だった。
     何かが終わってしまった後の空気。
     取り返しがつかないことが起きた後の、静けさ。
     そんな感じがした。
     僕は、ゆっくりとカーテンを閉めた。
     手が少しだけ震えていた。
     胸の奥が、ざわざわしている。
     さっき見たものが、頭の中で何度も繰り返される。
     あの男の人。
     本当に、パパじゃなかったのか。
     似ていただけなのか。
     それとも
     そこまで考えて、僕はやめた。
     考えてはいけない気がした。
     もし、そうだったら。
     もし、本当にパパだったら。
     その先を考えるのが、怖かった。
     ベッドに潜り込む。
     布団を頭までかぶる。
     暗い。
     でも、外の夜よりも、この暗さの方が少しだけ安心できた。
     目を閉じる。
     何も見えなくなる。
     でも、見えないはずなのに、さっきの光景が浮かんでくる。
     何度も、何度も。
     消えない。
     その夜、僕はほとんど眠れなかった。
     朝になっても、体が重かった。
     でも、起きるしかない。
     ドアを開ける。
     リビングには、いつも通りの朝があった。
     ママが朝ごはんを用意している。
     パパが新聞を読んでいる。
    「おはよう」
     パパが言った。
     いつもと同じ声で。
     僕は、その顔をじっと見た。
     昨日の夜の人と、同じなのかどうか。
     わからない。
     でも、確かめることもできない。
    「どうした?」
     パパが少し不思議そうに言う。
    「……なんでもない」
     僕はそう言って、席についた。
     トーストをかじる。
     味がよくわからなかった。
     目の前にいるパパが、昨日の夜の人と重なる。
     でも、重ねてはいけない気がする。
     それは、やってはいけないことのように思えた。
     パパは、いつものパパだ。
     優しくて、普通で、何も変わらない。
     そう思おうとした。
     でも、心のどこかで、別の声がする。
     違うかもしれない、と。
     その小さな声が、ずっと消えなかった。

    第6章 あの夜
     それから三日間、僕は窓の外を見なかった。
     見ようと思えば見られた。
     カーテンを少し開けるだけでいい。
     でも、できなかった。
     あの夜の光景が、まだ頭の中に残っていたからだ。
     ベンチの前で向き合う二人。
     似ている男の人。
     振り返らずに去っていく背中。
     そして、残された女の人。
     あれが何だったのか、僕にはまだわからなかった。
     わからないままにしておきたかった。
     そうすれば、何もなかったことにできる気がした。
     でも。
     その夜、また目が覚めた。
     理由はわからない。
     夢を見たわけでもないし、音がしたわけでもない。
     ただ、目が覚めた。
     部屋は暗い。
     カーテンの向こうに、街灯の光がぼんやりと透けている。
     静かだった。
     でも、その静けさが、いつもと違う気がした。
     息をひそめたような、重たい静けさ。
     僕は、しばらくそのまま動かなかった。
     また眠ろうとした。
     でも、無理だった。
     胸の奥がざわざわしている。
     何かが起きているような気がした。
     見なきゃいけない。
     そんな気がした。
     僕はゆっくりと起き上がった。
     足音を立てないように、そっとカーテンに手をかける。
     一瞬、ためらった。
     パパの言葉が頭をよぎる。
     見すぎると、困ることもある。
     でも、その手は止まらなかった。
     少しだけ、カーテンを開けた。
     夜の公園が見える。
     ベンチのあたりに、影があった。
     あの女の人だった。
     立っている。
     いつもは座っているのに、その夜は立っていた。
     街灯の光の中で、じっと前を見ている。
     その姿が、少しだけ不自然だった。
     まるで、何かを待っているというより、
     来ることがわかっているみたいに。
     そのとき、公園の入り口に、また人影が現れた。
     ゆっくりと、こちらに歩いてくる。
     その動きに、見覚えがあった。
     心臓が、強くドクドクと打つ。
     来た。
     また、あの人だ。
     影は、街灯の中に入る。
     やっぱり、男の人だった。
     スーツ姿。
     少しうつむいた歩き方。
     昨日と同じ。
     いや、三日前と同じ。
     僕は息を止めた。
     その人がベンチの前に立つ。
     女の人が、一歩前に出る。
     二人の距離が、すぐに近くなる。
     言葉が交わされているはずなのに、何も聞こえない。
     ただ、動きだけが見える。
     女の人の肩が上下する。
     何かを強く言っている。
     男の人は、少しだけ手を上げる。
     止めるような仕草。
     でも、触れない。
     前と同じだ。
     何かが、前と同じように進んでいる。
     でも、違う。
     その夜は、何かが違った。
     空気が張りつめている。
     少しでも触れたら、壊れてしまいそうな感じ。
     女の人が、一歩踏み込んだ。
     男の人が、後ろに下がる。
     距離が、また縮まる。
     その繰り返し。
     逃げようとして、逃げきれない。
     そんな動きだった。
     そのとき、女の人の手が動いた。
     一瞬だけ、光が見えた。
     きらり、と。
     街灯の光を反射して、何かが光った。
     何かを持っている。
     細くて、鋭いもの。
     僕は息を呑んだ。
     何なのか、はっきりとはわからない。
     でも、よくないものだということだけは、わかった。
     男の人も、それに気づいたみたいだった。
     体が一瞬だけ強張る。
     そして、すぐに手を伸ばした。
     止めようとする。
     その瞬間、
     女の人が大きく動いた。
     前に、強く。
     二人の体がぶつかる。
     バランスが崩れる。
     どちらが押したのか、わからない。
     ただ、次の瞬間には、男の人が倒れていた。
     地面に。
     音は聞こえなかった。
     でも、倒れたのはわかった。
     体が横に傾いて、そのまま動かなくなる。
     女の人が、後ろに下がる。
     手に持っていたものが、また光った。
     そして
     口が大きく開いた。
     叫んでいる。
     声は届かないのに、叫びだけははっきりと見えた。
     その瞬間、僕の中で何かが切れた。
     頭の中が真っ白になる。
     何も考えられない。
     ただ、目の前の光景だけが、強く焼きつく。
     倒れている男の人。
     動かない。
     女の人の震える手。
     光るもの。
     全部が、現実じゃないみたいに見えた。
    「やめろ……」
     誰かが言った気がした。
     でも、それが誰の声なのか、わからない。
     もしかしたら、僕だったのかもしれない。
     視界が揺れる。
     立っていられない。
     足の力が抜ける。
     そのまま、床に倒れた。
     冷たい。
     頬に当たる床の感触だけが、やけにはっきりしている。
     遠くで、音がする。
     何かの音。
     でも、うまく聞こえない。
     だんだんと、全部が遠くなっていく。
     暗くなる。
     さっきまで見えていた光も、消えていく。
     最後に、ひとつだけ思った。
     あの人は、
     誰だったんだろう。
     そこで、意識が途切れた。

     気がつくと、白い天井が見えた。
     知らない場所だった。
     鼻の奥に、変なにおいがする。
     体が重い。
     少し動こうとしたら、手に何かが触れた。
    「……聡ちゃん?」
     ママの声だった。
     横を見ると、ママがいた。
     目が赤い。
     泣いていたのかもしれない。
    「よかった……」
     ママはそう言って、僕の手を握った。
     その手が、少し震えている。
    「もう大丈夫だからね」
     何があったのか、すぐには思い出せなかった。
     でも、少しずつ、夜のことが戻ってくる。
     公園。
     ベンチ。
     女の人。
     そして
     倒れた男の人。
     僕は慌てて体を起こそうとした。
    「パパ……」
     声がうまく出ない。
     喉が乾いている。
     そのとき、反対側から声がした。
    「ここにいるよ」
     パパだった。
     ベッドの横に立っている。
     手に、包帯が巻かれている。
     でも、立っている。
     動いている。
     無事だ。
     僕は、息を大きく吐いた。
     体の力が抜ける。
    「……よかった」
     それだけしか言えなかった。
     パパは、少しだけ笑った。
    「大丈夫だ」
     その言葉は、いつも通りの声だった。
     でも、どこか少しだけ違う気もした。
     何が違うのかは、わからない。
     ただ、同じじゃない気がした。
    「僕……」
     何かを言おうとして、言葉が止まる。
     あの夜のことを、話していいのか、わからなかった。
     見たこと。
     思ったこと。
     全部。
     言ってしまったら、何かが変わってしまう気がした。
     パパが、少しだけ目を細めた。
     そして、ゆっくりとうなずいた。
    「いいんだ」
     小さな声で言った。
    「何も言わなくていい」
     その言葉を聞いたとき、胸の奥がぎゅっとなった。
     安心したのか、怖かったのか、自分でもわからない。
     ただ、何も言えなくなった。
     僕は、もう一度天井を見上げた。
     白い。
     何もない。
     夜の公園とは、まるで違う。
     でも、あの光景は消えない。
     目を閉じると、また浮かんでくる。
     あの夜。
     あの場所。
     あの人たち。
     僕は、知ってしまった。
     見てはいけないものを。

    第7章 朝という嘘
     退院して家に戻った日、部屋の匂いが少し違う気がした。
     何が違うのかは、はっきりしない。
     洗剤の匂いかもしれないし、空気の入れ替えをしたせいかもしれない。
     でも、前と同じじゃない気がした。
     僕の部屋は、ちゃんと片付いていた。
     ベッドも、机の上も、本棚も。
     出ていく前と、ほとんど変わらない。
     それなのに、どこかよそよそしい。
     僕の部屋なのに、少しだけ知らない場所みたいだった。
    「ゆっくりしてていいからね」
     ママがそう言った。
     声はいつも通り優しかったけれど、少しだけ気を使っている感じがした。
    「うん」
     僕は短く答えた。
     それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
     あの夜のことは、誰も話さなかった。
     病院でも、家に戻ってからも。
     まるで、最初からなかったことみたいに。
     でも、なかったわけじゃない。
     僕は見た。
     確かに見た。
     忘れようとしても、頭の中に残っている。
     夜になると、自然と思い出してしまう。
     ベンチの光。
     倒れる人。
     あの瞬間。
     あれは、夢じゃない。
     でも、誰もそれを口にしない。
     それが、余計に現実じゃないみたいに感じられた。
     その日の夜、僕は自分の部屋で一人で寝ることになった。
     久しぶりだった。
     病院ではずっとママが近くにいたし、帰ってきてからも、なんとなく一緒にいる時間が長かった。
     でも、いつまでもそういうわけにはいかない。
    「もう大丈夫だよね?」
     ママがそう言ったとき、僕は少しだけ迷った。
     本当は、よくわからなかった。
     大丈夫なのかどうか。
     でも、「大丈夫じゃない」と言うのも違う気がした。
    「うん」
     僕はうなずいた。
     ママは少し安心したように笑って、部屋の電気を消した。
     ドアが閉まる音がする。
     暗くなる。
     静かになる。
     その静けさが、前よりも重く感じた。
     僕はしばらく、目を開けたまま天井を見ていた。
     眠れる気がしなかった。
     でも、何をすればいいのかもわからない。
     自然と、視線がカーテンの方へ向く。
     あの向こうに、公園がある。
     ベンチがある。
     夜の世界がある。
     僕は、しばらく動かなかった。
     カーテンを開けるかどうか、迷っていた。
     見たい、と思う気持ちと、見たくない、と思う気持ちが、同じくらいあった。
     見たら、また何かが起きてしまう気がする。
     でも、見なければ、何もわからないままになる。
     そのどちらがいいのか、僕には判断できなかった。
     しばらくして、僕はゆっくりと体を起こした。
     足を床につける。
     冷たい。
     あの夜と同じ感触だった。
     それだけで、少しだけ心臓が速くなる。
     カーテンの前に立つ。
     手を伸ばす。
     少しだけ、ためらう。
     でも——
     開けた。
     ほんの少しだけ。
     夜の公園が見える。
     街灯の光。
     ベンチ。
     木の影。
     何も変わっていない。
     そこには、いつも通りの夜があった。
     ベンチには、誰もいなかった。
     ただ、光に照らされているだけ。
     あの夜のことが嘘みたいに、静かだった。
     僕は、少しだけ安心した。
     でも同時に、少しだけ物足りない気もした。
     あの女の人はいない。
     もう来ないのかもしれない。
     そう思った。
     そのとき、ふと気づいた。
     ベンチの下の影が、少しだけ濃い。
     何かがあるような気がした。
     目をこらす。
     でも、よく見えない。
     ただの影かもしれない。
     木の影が重なっているだけかもしれない。
     僕は、しばらくそこを見つめていた。
     何も動かない。
     音もしない。
     ただ、静かにそこにあるだけ。
     その静けさが、逆に不自然に感じられた。
     前は、誰かがいた。
     何かが起きていた。
     でも今は、何もない。
     それが、本当に“普通”なのかどうか、わからなくなった。
     僕はカーテンを閉めた。
     ゆっくりと。
     音を立てないように。
     ベッドに戻る。
     布団に潜り込む。
     目を閉じる。
     でも、すぐには眠れなかった。
     頭の中で、いろいろなことがつながりそうになっていた。
     あの女の人。
     あの夜の男の人。
     パパ。
     全部が、同じ線の上に並びそうになる。
     でも、その線は途中で切れている。
     つなげてはいけない気がした。
     つなげてしまったら、もう元には戻れない気がした。
     だから僕は、考えるのをやめた。
     やめようとした。
     でも、完全には消えなかった。
     小さな違和感だけが、残ったまま。
     次の日の朝、いつも通りに起きて、朝ごはんを食べた。
     パパもママも、普通だった。
    「今日は無理しなくていいからな」
     パパが言う。
    「学校も、もう少し休んでもいいのよ」
     ママが続ける。
     僕は首を振った。
    「行く」
     そう言った。
     家にいる方が、落ち着かなかった。
     外に出たかった。
     普通の中にいたかった。
     学校では、みんながいつも通りだった。
    教室に入ると、いつもの匂いがした。
     黒板のチョークの粉の匂いと、少し湿った床の匂い。
     それを嗅いだ瞬間、ここは“普通の場所”なんだと思った。
     でも、その普通が、少し遠く感じた。
    「大丈夫だった?」
     隣の席の子が、小さな声で聞いてきた。
     僕は少しだけ考えてから、「うん」と答えた。
     本当は、何が大丈夫なのかよくわからなかった。
     でも、そう答えるしかなかった。
    「救急車で運ばれたって聞いたよ」
    「びっくりした」
    「もう平気なの?」
     周りの子たちも、少しだけ集まってきた。
     みんな、心配してくれている。
     それはわかる。
     でも、僕が見たもののことは、誰も知らない。
     知るはずがない。
    「ちょっと倒れただけだから」
     僕はそう言った。
     それは、間違ってはいない。
     でも、本当でもない。
     その言葉が、口の中で少しだけ引っかかった。
     授業が始まる。
     先生がいつも通りに話す。
     黒板に字を書く。
     ノートに写す。
     全部、前と同じ。
     でも、どこか違う。
     先生の声が、少し遠くに聞こえる。
     文字が、ただの線みたいに見える。
     意味が、頭に入ってこない。
     そのとき、先生が言った。
    「人はね、見たものすべてを覚えているわけじゃないんだよ」
     授業とは関係ない話みたいだった。
     でも、急にそんなことを言った。
    「忘れることで、ちゃんと生きていけるんだ」
     教室が少し静かになる。
     みんなはあまり気にしていないみたいだった。
     でも、その言葉だけが、僕の中に残った。
     忘れる。
     忘れた方がいい。
     そういうことなのかもしれない。
     でも、忘れられないものもある。
     見てしまったもの。
     知ってしまったこと。
     それは、どうすればいいんだろう。
     僕は、ノートに書いた文字を見つめた。
     さっき書いたはずなのに、何を書いたのかよくわからない。
     ただ、そこにあるだけ。
     意味がないみたいに見える。
     ふと、窓の外に目がいった。
     校庭が見える。
     昼の光。
     走っている子どもたち。
     明るい。
     何も隠れていない。
     全部、見える。
     でも、だから安心できるわけじゃない。
     夜の方が、正直だった気がする。
     見えないけど、本当のことがそこにあるような気がした。
     昼は、全部見えるのに、何もわからない。
     そんな感じがした。
    「どうした?」
     先生の声で、僕は我に返った。
    「ぼーっとしてるぞ」
    「……すみません」
     僕は小さく答えた。
     教室のみんなが、少しだけこちらを見る。
     その視線が、少しだけ怖かった。
     僕は、ちゃんとここにいるのに、
     どこか別の場所にいるみたいだった。
     あの夜から、ずっと。
     友達が話しかけてくる。
     先生が授業をする。
     笑い声が聞こえる。
     何も変わっていない。
     それが、少しだけ不思議だった。
     世界は、あの夜のあとも続いている。
     何もなかったみたいに。
     僕だけが、少し違う場所にいるみたいだった。
     帰り道、公園の前を通った。
     昼の公園。
     ベンチには、おじさんが座って新聞を読んでいる。
     子どもたちが走り回っている。
     犬が吠えている。
     普通の景色。
     でも、僕には少しだけ違って見えた。
     あの場所で、あの夜、何かが起きた。
     それを知っているのは、僕だけじゃないはずなのに。
     みんな、知らないふりをしているみたいだった。
     それとも、本当に知らないのか。
     わからない。
     僕はそのまま家に帰った。
     夕方になって、夜になる。
     また、あの時間が来る。
     でも、もう窓の外を見る気にはならなかった。
     見れば、何かが戻ってくる気がしたから。
     だから僕は、その日から、なるべくカーテンを閉めるようにした。
     夜は、見ない。
     見なければ、何も起きない。
     そう思うことにした。
     パパが言っていた。
     夜は、いろんなものを隠してくれる、と。
     だったら、隠しておけばいい。
     見なければいい。
     そうすれば、朝になったとき、また普通に戻れる。
     そう信じることにした。
     でも、本当はわかっている。
     隠れているだけで、なくなったわけじゃない。
     夜の中に、残っている。
     あの場所に。
     あの光の中に。
     そして、僕の中にも。
     朝は来る。
     でも、夜は消えない。
     ただ、見えなくなるだけだ。
     それを知ってしまった僕は、
     もう前と同じ朝を、信じることができなかった。

    第8章 夜の向こう側
     あれから、しばらくして、僕たちは引っ越しをした。
     理由は聞かなかった。
     聞いてはいけない気がしたからだ。
     パパもママも、何も言わなかった。
     ただ、「少し広い家に行こう」とだけ言った。
     新しい家は、二階建てだった。
     僕の部屋は二階にあって、窓の外には、隣の家の壁が見える。
     その壁には、小さな窓がついているけれど、いつもカーテンが閉まっている。
     だから、前の家みたいに、外を覗くことはできない。
     公園も、ベンチも、街灯も、もう見えない。
     最初は少しだけ物足りなかった。
     あの夜の景色が、頭の中に残っていたからだ。
     でも、それもだんだん薄れていった。
     見えなければ、思い出すことも少なくなる。
     夜は、ただ暗いだけの時間に戻っていった。
     それでいいと思った。
     それが、正しい気がした。
     やがて、妹が生まれた。
     名前は、あみ。
     小さくて、よく泣いて、よく眠る。
     ママは忙しくなって、パパも早く帰ってくる日が増えた。
     家の中は、前よりもにぎやかになった。
     笑うことも、増えた気がする。
     あの夜のことは、誰も口にしなかった。
     まるで、本当に存在しなかったみたいに。
     でも僕は、忘れていない。
     忘れたふりをしているだけだ。
     夜になると、ときどき思い出す。
     あのベンチ。
     あの光。
     あの人たち。
     全部、はっきりと残っている。
     ただ、それを外に出さないだけだ。
     ある夜、あみがなかなか寝なくて、僕は一緒に二階にいた。
     ママは下で片付けをしていて、パパはまだ帰っていなかった。
     部屋の電気を少しだけ暗くして、あみを抱いて揺らす。
     小さな体が、僕の腕の中で動く。
     温かい。
     やわらかい。
     まだ何も知らない。
     夜のことも、朝のことも、何も。
    「ねえ、あみ」
     僕は小さな声で話しかけた。
     もちろん、返事はない。
     でも、少しだけ目を開けて、また閉じた。
     眠りかけている。
    「夜ってね、いろんなものを隠してくれるんだよ」
     パパが言っていた言葉を、思い出す。
     そのまま、口にする。
    「悲しいこととか、嫌なこととか、全部、見えないようにしてくれる」
     あみは、静かに呼吸をしている。
     そのリズムに合わせて、僕もゆっくり息をする。
    「でもね」
     僕は少しだけ言葉を止めた。
     続けるかどうか、迷った。
     でも、やっぱり言った。
    「なくなるわけじゃないんだって」
     夜は、隠すだけ。
     消すわけじゃない。
     朝になれば、見えなくなる。
     でも、それはそこにある。
     ずっと。
     僕は、あみの顔を見た。
     安心したように眠っている。
     何も知らない顔。
     そのままでいてほしい、と思った。
     でも、きっと無理だ。
     いつか、知ることになる。
     見てしまう日が来る。
     そのとき、どう思うんだろう。
     怖いと思うのか。
     悲しいと思うのか。
     それとも——
     そこまで考えて、僕はやめた。
     それは、まだ先の話だ。
     今は、ただ眠っていればいい。
     そう思った。
     あみをベッドに寝かせて、そっと毛布をかける。
     小さな手が、少しだけ動く。
     その動きを見て、僕は少しだけ笑った。
     部屋を出る前に、ふと窓の方を見た。
     カーテンは閉まっている。
     向こう側は見えない。
     前の家とは違う。
     もう、夜の公園はない。
     覗く理由も、ない。
     それなのに、なぜか少しだけ気になった。
     僕は一歩だけ近づいた。
     手を伸ばす。
     カーテンに触れる。
     そのまま、止まる。
     開けようとは思わなかった。
     開けなくても、わかるからだ。
     夜は、どこにでもある。
     この窓の向こうにも。
     見えないだけで、そこにある。
     誰かが、何かを隠している。
     それは、特別なことじゃない。
     みんな、そうしている。
     僕も、そうしている。
     あの夜に見たこと。
     思ったこと。
     全部、胸の中にしまってある。
     誰にも言わない。
     言えない。
     それでいいと思っている。
     それが、大人になるということなんだと思う。
     僕はカーテンから手を離した。
    少しだけ、その場に立ったままだった。
     部屋は静かで、あみの寝息だけが聞こえる。
     規則正しい、小さな音。
     それを聞いていると、時間がゆっくり流れているように感じた。
     昔のことを思い出そうとした。
     あの公園のこと。
     ベンチのこと。
     街灯の光。
     でも、不思議と細かいところはぼやけていた。
     全部をはっきり思い出せるわけじゃない。
     ただ、ひとつだけ残っている。
     あのとき感じた、“怖さ”みたいなもの。
     それだけは、消えない。
     形はないのに、そこにある。
     触れられないのに、確かに残っている。
     夜の中に置いてきたはずなのに、
     少しだけ、ここにもついてきている。
     僕は、自分の手を見た。
     何も持っていない。
     でも、何かを握っているような気がした。
     離してはいけないものなのか、
     それとも、もう離していいものなのか。
     よくわからなかった。
     あみが、小さく寝返りをうった。
     その音で、僕は現実に戻った。
     この部屋。
     この家。
     ここには、何も起きていない。
     何も見えない。
     それでいいはずだ。
     僕は、ゆっくりと息を吐いた。
     胸の奥にあったものが、少しだけ軽くなる。
     でも、なくなったわけじゃない。
     ただ、静かになっただけだ。
     それでいいと思った。
     それくらいが、ちょうどいい。
     そのまま、電気を消す。
     部屋が暗くなる。
     夜の中に、静かに溶けていく。
     あの頃みたいに、外を覗くことはもうない。
     でも、僕は知っている。
     夜の向こう側に、何があるのかを。
     そして、それを知らないふりをして、朝を迎えることも。
     窓は、そこにある。
     開けようと思えば、いつでも開けられる。
     でも、僕はもう開けない。
     開けなくても、いいからだ。
     見てしまったから。
     あの夜に。
     夜というベールの向こう側を。

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

     
     
     
    初めまして ワインが好きでそれを仕事にできているラッキーな女です。 昭和生まれ超アナログ人間で、先日はじめて「note」の存在を知りました。勉強の為と言うか、どんなものか知る為にはじめてみました。 野生のカンだけが頼りですがよろしくお願いします!

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