
日々を過ごすということ
授業で習ったなぁ、土佐日記。私は息を大きく吸い込む。都会のあれこれを含んだ、どんよりとして濁った息をどんどんと肺に入れ込んでいく。
私は日記を書いている。一年以上経つ。自分でもびっくりしている。こんなにも続くなんて。だけども、私の綴る毎日は本当にどうしようなくしょうもなくて、きらきらする場面なんて全くない。少しも光ることのない私の日々。きっと誰も羨まない毎日。まぁ、羨ましいと思われる毎日を過ごすことが大切なのかと言われれば、そんなことはないのかもしれない。でも、それにしてもなのだ。
今日の天気と気温に一喜一憂する。目覚まし鳴る少し前に目覚めてしまって、意地で二度寝をする。時間通りに鳴った目覚ましに舌打ちして、大急ぎで支度して、走って駅に行く。働いて冴えないお昼ご飯を食べて、ビール飲みたくなって、何かしなきゃと思いつつ、ぼーっとして一日が終わってしまう。
これだけなのだ。ほぼ毎日これの繰り返しなのだ。なんとも映えない毎日。面白味もない。憧れる要素など一切ない後悔だけの毎日。それでもいいのかと言われれば、それでもいいのかもしれない。穏やかな毎日であることは確かだ。
時に、心が動いたり痛んだり、震えたりすることもある。基本的にそういうことは書かない。覚えておきたいなと思う。そういうことの繰り返しで自分は作られていくから、形として残すのは野暮ではないかと思うのだ。
日記に書いていないことで、こんなにもしょうもない日々で、こんな考えになるんだと思われとするならば、それは日記の余白が大きいのだと思う。それは周りの人に感謝せねばならない。そこのどこかにきらきらと光るものがあったのかもしれない。だけど、私ではきらきらとさせることはできない。残念ながら。
私の敬愛するユニコーンに『すばらしい日々』という曲がある。ここでは、歌詞の一部分すら示さないでおく。(もし聴いてみるなら、復活後のライブバージョンをおすすめする。)これは私のしょうもない日々とは全く関係がない。日々の話を綴っている曲でもない。でも、核の部分は色んな解釈がある。沁みる。名曲だ。
色んな解釈ができるというのは大切だ。受け取り手が自由に感じられる。日々、色んなことを自由に感じて自由に考える。それが余白なのだと思う。
話が少しだけ逸れてしまった。元に戻す。
私の日々は人から見たらしょうもない、たいしたことはない。きっと。それでも、私は日々を過ごすし、心を動かしていく。そんな日々を愛おしいなと少しだけ思いながら、今日も日記を綴る。ちなみに今日の朝も二度寝して、舌打ちをしている。