
坂の上の記憶と、消えた地図
窓の外に広がる山並みを眺めていると、ふとした瞬間に、もう戻ることのないあの街の景色が脳裏をかすめる。今は別の場所に身を置き、全く違う空気の中で暮らしているが、記憶の底には、かつて確かに存在した「あの街」がある。
実家は、駅から続く長い商店街を抜けた先にある坂の上にあった。祖父が建てた、つぎはぎだらけの古くて小さな家。幼少期を過ごしたその家は、鍵がかかっていることなどほとんどなかった。夏になれば窓は一日中開け放たれ、家の中と外の境界線は曖昧だった。
近所付き合いは、今思えばかなり濃密だった。意見が合わずに言い合いをすることもあれば、派手な喧嘩が聞こえてくることもある。けれど、誰かが困っていれば当然のように手を差し伸べる。多くの家が核家族ではなく、大人数で賑やかに暮らしていた。だからこそ、ある種の「共同体」としての温もりがあったような気がする。
1枚の地図が教えてくれたもの
小学生の頃、授業の課題で商店街の地図を作った。友達とペアを組み、一軒一軒お店を訪ねて「インタビュー」のような真似事をする。それを大きな紙に書き込み、自分たちの街を再現していく作業だ。
今振り返ると、その地図に書き込まれた店の多さに驚かされる。タバコ屋、八百屋、肉屋、酒屋。靴屋、洋服屋、豆腐屋。おにぎりやお惣菜を売る店、威勢のいい魚屋、そして町の文化を支える本屋や文房具屋。お腹が空けば町中華や寿司屋があり、特別な日にはケーキ屋へ行く。放課後は駄菓子屋に吸い寄せられ、夜になれば焼鳥屋から炭火の煙が漏れてくる。どんなに小さな故障でも修理に駆けつけてくれる電気屋もある。
その小さな街の中で、私たちの生活は過不足なく完結していた。突撃取材をして歩く小さな私たちを、お店の人たちは皆、忙しい手を止めて満面の笑顔で迎えてくれた。あの地図は、ただの地理的な記録ではなく、街の人たちの優しさや活気を繋ぎ合わせた、宝の地図のようなものだったのかもしれない。
変化の予兆と「正解」の代償
そんな街の空気が、決定的に変わる瞬間があった。近隣に大きなスーパーマーケットが誕生したのだ。
1階には食料品が整然と並び、2階には日用品や衣類が揃う。地下には家電量販店と書店が入り、外にはこれまでに見たこともないような大きな駐車場が完備されていた。街の人たちは皆、その便利さと新しさに沸き立ち、喜び、期待に胸を膨らませた。
ある日のこと。両親と私は、買う気もなく地下の家電売り場でテレビを眺めていた。そして、いかにも口の上手そうな、調子のいい販売員の男性に声をかけられた。テンポのいいトークに、あれよあれよという間に丸め込まれ、気がつけば我が家の居間には、最新型の大きなテレビが鎮座していた。
スーパーマーケットができたことは、一つの予兆に過ぎなかったのだろう。あるいは、もっとずっと前から変化の歯車は回っていたのかもしれない。商店街からいつの間にか「商店」が消え、代わりに立ち並んだのは、どこにでもあるチェーンの飲食店やクリーニング店、そして隣人の顔も見えない無機質な賃貸マンションだった。
あの賑やかだった通りが消失してしまったのは、誰か一人の責任ではない。より安く、より便利に、より効率的に。私たち自身が繰り返してきた「小さな選択」の積み重ねが、結果としてかつての風景を塗りつぶしてしまったのだ。
風に吹かれて、新しい街で
今の街への転居は、ある種の想定外や偶然が重なって決まったものだった。生まれ育った場所から遠く離れた、知人もいない、全くゆかりのない場所だ。40年以上も過ごした故郷は、正直なところ、去る瞬間に愛着のようなものは感じなかった。いつしか汚染された空気と、どこか殺伐として乱れた風紀が漂う場所になっていたことに、私は無自覚だった。この街に移ってきて初めて、環境が人に及ぼす影響の大きさを知った。
かつての商店街のように、誰とでも親密に関わるわけではない。今の時代、近隣にどんな人が住んでいるのかを知りすぎるのも、少し億劫に感じてしまう自分もいる。それでも、朝の澄んだ空気や、窓から見える山の稜線に安らぎを覚えるとき、私は「この街と出会えて本当によかった」と心から思う。
あの坂の上の家や、商店街の人たちは、もう記憶の地図の中にしか存在しない。けれど、変わりゆくものへの一抹の寂しさを抱えながら、私はこの街で、自分なりの新しい地図を書き始めている。
------------
短編は毎朝7:00投稿。
エッセイは気ままに書いています。
Instagramもやってます⬇️