
譜面の外で、生きてきた。
「私は、ピアノ教室を辞めたから作曲家になれた。」
そう言うと、たいてい驚かれる。
「でも、小さい頃からピアノを習っていたからでしょう?」
そう続けられることも多い。
半分はその通りで、半分は違う。
私の家は、代々私学に通い、礼儀や品を大切にする家庭だった。
幼稚園受験も、小学校受験も当たり前。
習い事は、ピアノにバレエ、お習字、お茶。
母は幼児教室をしていて、家ではよく童謡を弾き語りしていた。
そんな環境だったから、私がピアノを始めるのは、ごく自然な流れだった。
でも、私はピアノのお稽古が嫌いだった。
ピアノが嫌いだったわけではない。
嫌だったのは、「楽譜どおりに弾くこと」だった。
「音」そのものは好きだった。
幼い私は、鍵盤で遊んでいた。
ドとミを一緒に押す。
──きれい。
もう一度押す。
やっぱり気持ちいい。
じゃあ、ドとレはどうだろう。
……なんだか気持ち悪い。
もう一度。
やっぱり違う。
今度はドとファ。
ソとシ。
次は?
そんなふうに、何時間でも音を確かめていた。
もちろん、「長三度」なんて言葉は知らない。
でも耳は知っていた。
母の運転する車の中では、流れてくる童謡に勝手にハモりをつけていた。
隣の家からピアノの練習が聞こえてくると、その曲を家で弾いていた。
私にとって音楽は、「習うもの」というより、
「どうしてこうなるんだろう」と観察するものだった。
耳コピをしているうちに、不思議なことに気づく。
「あれ、この曲とこの曲、似てる。」
コード進行には法則がある。
音楽には、目に見えない仕組みがある。
そう分かると、今度はその法則を使って、自分で作りたくなった。
小学一年生の頃、友達と教室の電子ピアノで遊ぶ時間が大好きだった。
一人が循環コードを弾き、もう一人が即興でメロディーを乗せる。
「それ、いいね!」
「でも、それさっき私が弾いたのと似てるよ。」
子ども同士で著作権問題まで起きていたのだから、今思えば笑ってしまう。
私たちは遊んでいたのではない。
研究していたのだ。
でも、その研究は、あまり歓迎されなかった。
家では、
「曲の練習以外しないで。」
「めちゃくちゃ弾くならもう鍵かけるよ!」
そんな風に、母にいつも言われていた。
めちゃくちゃじゃないんだけどな…。
私の中には、「そう弾きたい理由」がちゃんとあった。
ハノンという基礎練習がある。
単調な指の練習だ。
でも、アレンジのし甲斐を感じていた。
だって、
ドレミファソラシド。
ドシラソファミレド。
きれいに元へ戻ってくるんだもの。
伴奏をつけて、最後もちょっと変えてみた。
(後から知ったのだけれど、いわゆるSUS4終止だった。 )
「この方が、なんだかドラマチックな終わり方だ。」
そんな気がした。
もちろん、子どもの私は「SUS4」なんて知らない。
ただ、この響きが好きだった。
ピアノ教室で、練習の成果を聞いてもらう為に弾いていた時、
最後だけ、アレンジをしてみた。
先生は、そこでこう言った。
「はい、最初からやり直し。」
「楽譜に書いていないことをしたからね。」
罰を受けたような気持ちだった。
怒られたことより、
「なんで?」
「あああ、窮屈で退屈だ。」
という気持ちの方が強かった。
ずっと後になって、作曲家の周防義和先生が「譜面の奴隷」という言葉を使われているのを聞いた。
「ミュージシャンってのはね、囲いの中で自由にしてたいんだよ。」
その瞬間、子どもの頃の自分を思い出した。
私はきっと、あの頃から譜面の奴隷解放を訴えていたのだ。
もちろん、ピアノの先生が悪かったわけではない。
クラシックを学ぶなら、正しく弾くことは大切だ。
でも、あの頃の私は、「正しく弾くこと」より「どうしてこう響くんだろう」の方が面白かった。
知りたかったのは正解ではなく、仕組みだった。
中学受験で一度ピアノから離れた。
受験が終わって教室に戻ったものの、私の気持ちはもう以前とは違っていた。
ある日、私は無断でレッスンを休んだ。
そのまま行かなくなった。
今思えば、とんでもない辞め方である。
でも、母は何も言わなかった。
怒られると思っていた。
引きずってでも連れて行かれると思っていた。
でも、何も言わなかった。
しばらくして、学校から帰ると、家のピアノが分解されていた。
アップライトピアノの前板が外され、弦がむき出しになっている。
見たことのない光景だった。
作業員さんが一本一本の弦に何かを取り付けている。
「何してるの?」
母に聞くと、
「サイレントピアノにしてあげる。」
そう言った。
正直、驚いた。
私は勝手にピアノ教室を辞めた。
母の期待を裏切ったはずだった。
それなのに、ピアノを取り上げるどころか、新しい遊び場をくれた。
今でも、あの日の母の気持ちは分からない。
根負けだったのかもしれない。
クラシックピアノを諦めたのかもしれない。
それとも、私の好きな音楽を応援しようとしてくれたのかもしれない。
たぶん、その全部だったのだろう。
サイレントピアノは、私の世界を変えた。
ヘッドホンから音が鳴る。
音色を変えられる。
二つのトラックに録音できる。
自分で伴奏を録音して、それを流しながらストリングスでメロディーを重ねる。
そんなことが家でできるなんて。
私は夢中になった。
同じ頃、オーケストラ部にも入った。
ゲーム音楽に憧れた。
テレビドラマの挿入曲を耳コピして家族を笑わせた。
高校時代は坂本龍一さんやS.E.N.S.Eの音楽に惹かれ、自分でも癒やしの曲を作り始めた。
一日三時間くらい、鍵盤の前に座っていたと思う。
誰にも言われなくても。
「練習しなさい」と言われなくても。
音楽は、ようやく私のものになった。
社会人になり、自分のお金でシンセサイザーとDAWを買った。
「やっと私の時代が来た。」
大げさではなく、そう思った。
昼は会社員。
夜は音楽。
二足のわらじだった。
父は三十二歳で交通事故で亡くなっている。
だから私は、三十二歳で人生が終わっても後悔しないように生きようと思っていた。
「死ぬまでに音楽をちゃんと学びたい。」
そう思って、専門学校にも二年間通った。
その後、何度か賞をいただいた。
中学時代からの憧れだった、植松伸夫さんからトロフィーをいただいた。
企業から作曲依頼も来た。
テレビから自分の曲が流れた。
オリコンにもランクインした。
何千人もの人が私の曲で盛り上がる景色も見た。
でも、どれも不思議だった。
「なんで私が。」
そんな気持ちの方が大きかった。
成功した、という実感は今でもあまりない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
私はもう、自分の音を否定されない。
ハノンに和音をつけてもいい。
思いついたメロディーを重ねてもいい。
誰にも怒られず、誰にも止められず、自分の「面白い」を追いかけていい。
それが、何より幸せなのだ。
子どもの頃、私はピアノが嫌いだったのではない。
私が苦しかったのは、「こう弾くのが正しい」と決められることだった。
私は怠けたかったわけでも、反抗したかったわけでもない。
ただ、譜面から自由にはみ出してみたかった。
母があの日、どんな気持ちでサイレントピアノに変えてくれたのか、私はまだ聞いていない。
だから、本当のことは分からない。
でも、今は感謝している。
音楽との出会いをくれたこと。
何とか嫌いにならないように工夫し続けてくれたこと。
そして最後には、自分の思いどおりにならない娘を、娘のまま受け入れてくれたこと。
私は、譜面の外で音楽を見つけた。
そして、その譜面の外にも、ちゃんと人生は続いていた。
今、私は子どもたちと関わる仕事をしている。
母親でもある。
「ちゃんとやりなさい。」
「正しくやりなさい。」
そう言いたくなる瞬間は、誰にでもある。
でも私は思い出す。
あの頃の私には、譜面の外にしか見えなかった景色があったことを。
だから私は、その子が見ている景色を、すぐには「間違い」と決めない。