
シンクロニシティを辿る冒険
稀有な体験をした。
これは約30年前、20世紀から21世紀へと時代が移り変わるはざまで、アラサーだった私が約4年間にわたり体験したシンクロニシティの記録である。
その旅は虎の夢、コハク、出雲への旅から始まり、演劇公演で一区切りを迎えた。その間、偶然と思っていた出来事が次々とつながり、夢と現実、過去と現在が一本の線で結ばれていくような体験が続いた。日常は、まるで宝探しゲームのようだった。
振り返ると、それは特別な能力によるものではない。子ども時代から、一つひとつの体験を腑に落としながら、内側に大切に抱え続けてきたことが影響していたのだと思う。長い年月をかけて内的に蓄えてきた世界が飽和状態になり、とうとう外界にあふれ出し、夢と現実が呼応し始めたかのようだった。
これは神秘体験を語るための物語ではない。一人の若者が現実の中で歩いた、「共時性(シンクロニシティ)の記録」である。
虎の夢とコハク(1996年10月)
「そのままでは、本当の人間になれない」
ハッとして目を上げると、見たこともないほど大きな虎がこちらを向いて座っていた。声はどこから聞こえたのだろう。そこには虎と私以外には誰もいなかった。そっと周囲を見回すと、そこは、長いこと忘れられていたような、古く暗い神社の祠の中だった。
目が覚めると、印象深い夢の時にはいつもそうするように、なるべくそのままの体勢で、蜘蛛の糸を手繰り寄せるように一つ一つ思い出してみた。
「本当の人間になりたい」「本当の自分になりたい」は、昔から私がよく口にしていた言葉だった。不思議なことに、虎に怖さを感じることはなく、どこか懐かしさが残った。
その日は28歳の誕生日だった。仕事を休み、表参道で髪を切った帰りに、ふと初めて目にする天然石の店へ入ってみた。引き寄せられるように店の奥まで行くと、一つの透明な石に強く惹かれて手に取った。すると、店員がそばに来て、「それはコハクです。何億年も前の樹脂が固まったもので、それだけは天然石ではないんですよ」と教えてくれた。さらに紙に「琥珀」と書いて見せてくれた瞬間、朝の夢の虎が鮮やかによみがえった。
「そうだ。あれは王のような虎だった」
そう思った私は、その琥珀の指輪を自分への誕生日プレゼントとして買うことにした。
その後、琥珀が「子どもを守る石」だと知った職場の塾の小学生たちから、「先生は子どものことばかり考えて結婚しなさそうだから、お見合いしたほうがいい」と担任の先生の写真を持ってこられ、大笑いしたこともあった。
さらに後日、本屋で何気なく開いた本で、「琥珀は魂の記憶を辿る石」という一文が目に飛び込んできた。その言葉は、なぜあの日、琥珀に惹かれたのかという問いへの答えのように感じられた。
松江行きのバスの夢(1996年10月)
琥珀の指輪を買った直後のことだった。渋谷を歩いていると、一台のバスが目に留まった。「どこかで見た気がする」と思った瞬間、その日の朝見たばかりの夢を思い出した。夢で見たバスには見慣れない「松江」という行き先がはっきりと表示されていたのだ。
実際に松江行きのバスを目の前にして、「本当にあるんだ」と不思議な気持ちになった。
ほどなくして、大学時代の同級生が出雲に転勤していることを知り、友人と二人で松江を訪れることにした。当時は、なぜか御神楽に強く惹かれ、ちょうど東儀秀樹さんが雅楽のCDを出した頃でもあり、毎晩聴きながら眠りについていた。
現地では、同級生が車で私と友人を色々連れて案内してくれた。最初に連れていってくれたのは、晴れ渡った広い田んぼだった。「なんでこんな所に連れてきたんだろう?」と思っていると、「ここが最古の祠なんだって」と教えてくれた。
田んぼの中の小さな祠へ向かって歩き始めると、晴天だった空から突然激しい雨が降り出した。ところが、祠の前に着くと雨はぴたりと止み、再び空が晴れ渡った。
静かに手を合わせると、祠の中には古い丸い鏡があり、ぼんやりと自分の姿が映っていた。
その後、出雲大社や出雲阿国ゆかりの地、小泉八雲記念館などを巡り、古代の空気が今も息づくような土地を満喫した。そして名残を惜しみながら、子どもたちが待つ教室の日常へとその地を後にした。
インドの結婚式(1996年12月~1997年1月)
そんなある日、インドから結婚式の招待状が届いた。学校時代の同級生がインド人男性と結婚することになり、もう一人の友人とともに、花を撒く役としてデリーで行われる結婚式に招かれた。
結婚式は約1週間にわたる盛大な祭典だった。歌や踊り、両家が太鼓を叩きながら冗談交じりに罵り合う伝統行事、チボリ公園を借り切って行われた式、その夜のパーティの屋台でシェフが焼いてくれるナンなど、日本では味わうことができない異国文化に直接触れ、友人の一生に一度の祝祭を共に過ごした。
式の後は一緒に花を撒いた友人と二人で、ブッダガヤ、バラナシ、ガンジス川、ジャイプール、アグラなどを巡った。バラナシへ向かう飛行機では突然体調を崩したが、一晩眠るとすっかり回復し、翌朝はガンジス川の船の上から日の出を迎えることができた。
ガンジスでは、遺体が火葬される傍らで人々が沐浴をしていた。生と死が一つの流れの中に共存する光景を目の当たりにし、その懐の深さに圧倒された。
ブッダの足跡やインドの悠久の歴史に思いを巡らせながら、生まれて初めて海外で新年を迎えた旅は、半生の中でも忘れられない貴重な体験となった。
教室の近くの新居(1997年4月)
インドから帰国して間もない頃、大岡山にある塾の教室長として働いていた私は、生徒数も増え、教室の近くへ引っ越そうと部屋を探していた。しばらくして、不動産会社から「教室から歩いて行ける場所に新築アパートが建ちますよ」と連絡が入り、昼休みに見に行くことにした。
FAXの地図を頼りに、商店街を抜けてどんどん歩いていくと、知的障害のある小学生の女の子が声をかけてきた。
「おばちゃん、これあげるよ。どれがいい?」
差し出されたシールを選ぼうとすると、「それはダメ」「それもダメ」と首を振る。最後に「じゃあ、どれならいいの?」と尋ねると、彼女が選んでくれたのは、とらじろうのシールだった。
「ああ、また虎だ」
そう思いながら歩くと、目的のアパートはすぐ目の前だった。工事中の部屋は光に満ちているように感じられ、その向かいには小さな「子(ね)の神ふれあい広場」があった。「子の神」とは大国様を指す。
その瞬間、虎、出雲、インドが一本につながった気がした。
「ここだ」
そう確信すると、教室へ戻ってすぐに不動産会社へ電話を入れ、その場で入居を決めた。
白装束の人たちと博物館のような山の夢(1998年3月)
山の中腹で乗り合いバスを降りると、私以外は全員が白装束であることに気づいた。そのまま彼らについて歩いていくと、その山全体が博物館のような寺になっていることに気づく。順路に従って歩きながら、広場の中央にある売店でお守りを手に取ると、その裏に「円珍」と書かれていた。
目が覚めて調べてみると、円珍は比叡山延暦寺の高僧で第五世天台座主だった。
不思議な夢だったので、職場で最近同じブロックに入った年上の同僚に話してみると、「それは比叡山ですよ。行きましょう!」と言うが早いか、新幹線と宿坊を予約してくれた。ところが出発直前になって、「私は行けなくなったので、一人で行って」と突然告げられて困惑することになった。
しかし、当時の私は、起きた出来事をそのまま受け止めるように心がけていた。そこで予定どおり、一人で比叡山へ向かうことにした。
黄色い建物と山中の石仏の夢(1998年3月)
山道を歩いている。途中、小さな石仏に手を合わせながら歩く夫婦とすれ違い、道を尋ねる。その近くには、印象的な黄色い建物が建っていた。
後日、実際に比叡山を訪れた時、霧の中の黄色いケーブルカーの駅と山道の風景を目にした瞬間、この夢を鮮明に思い出した。
カレンダーの夢(1998年3月)
春の日差しが差し込む部屋で、多くの人が雑魚寝をしている。私だけが目を覚まし、壁のカレンダーを見ると4月になっていた。
5日と12日に赤い丸が付けられ、「卒業」と書かれていた。
比叡山延暦寺へ(1998年4月)
4月、私は一人で比叡山を訪れた。宿坊では「一人で来たの? まあ、よく来たねえ」とあたたかく迎えられ、琵琶湖を見渡す広い部屋に通された。これが、生まれて初めての一人旅となった。
午後、一人で山を歩いていると突然の土砂降りとなり、あっという間に深い霧に包まれた。左手は崖である。しかし、周囲は真っ白で何も見えない。途方に暮れて立ち止まり、しばし冷静になって考えることにした。すると、足元は一歩先まで見えることに気づいた。
そこで私は、見える一歩だけを頼りに歩き続けることにした。
永遠にも思える時間その小さな一歩を繰り返していると、ふと足元が開けコンクリートになった。初めて顔を上げると、そこは比叡山の開祖である最澄の御廟の前だった。
その夜、宿坊の方から「ちょうど三井寺の桜が満開ですよ」と勧められ、翌日訪れることにした。この時はまだ、夢に現れた「円珍」が三井寺(園城寺)の開祖であることに気づいていなかった。
翌日、雨に濡れた美しい満開の桜に彩られた三井寺の境内を一人歩いた。初めて訪れたはずなのに、どこか懐かしい感覚に包まれた。
帰宅後、その日が、夢のカレンダーに赤丸が付いていた4月5日だったと気づいた。そしてもう一つの赤丸、4月12日は、塾を退職し、有給消化で教室を離れた日だった。
中国での心理学会大会(1998年5月)
退職した直後、心理学者である父が基調講演を務める中国で開催された心理学会の大会に同行した。そこで、心理学の大御大である湯浅泰雄先生や恩田彰先生をはじめ、多くの研究者と話す機会を得た。
湯浅先生は、インドの山奥でヨガ行者を実地研究された体験を語られ、その壮大なお話に衝撃を受けた。また、アマゾンの首狩族の集落で実際に生活した経験など、フィールドワークを重ねてきた様々な研究者たちの話からも、学問とは現場で身体を通して積み重ねられるものなのだと実感した。
一方、創造性や東洋思想を研究されていた恩田先生には、初めて自分のシンクロニシティ体験を話すことができた。先生は「センシビリティ」に触れ、「ユングの共時性を研究するとよい」と勧めてくださった。
しかし当時の私は、まさにシンクロニシティの渦中にいた。体験を既存の理論で説明してしまうと、その立体的な感覚が平面的になってしまうように思え、研究として整理するにはまだ早いと感じていた。
学校巡回の劇団
ある日、岩国へ行った友人から白蛇の根付けが届いた。その澄んだ鈴の音を手のひらの上で鳴らしていると、突然電話が鳴った。
相手は、大学の演劇サークルの後輩だった。当時、美輪明宏さんの舞台に出演していた彼は、「学校巡回の劇団で急に女優が出演できなくなったので、代役をお願いできませんか」と切羽詰まった様子で頼んできた。
私は「もう5年以上演技から離れているので無理」と断ったが、「小さな役だから大丈夫」と何度も説得され、とりあえず話だけ聞きに行くことにした。
その一歩がきっかけとなり、私は年末まで、学校巡回劇団の一員として2トントラックとワゴンで全国を回ることになった。中学や高校、各地のホールで公演を重ね、舞台をつくり、生徒たちと交流する新しい日々が始まった。
香川とお伊勢参り(1998年11月頃)
巡回公演で伊勢を訪れることになり、その前に一人でお伊勢参りをしようと、先に現地へ向かった。
途中、旅の道中で親しくなったスタッフが実家の香川に行くということで、香川にも立ち寄らせてもらうことにした。音楽家のお父様が車で案内してくださり、金刀比羅宮をお参りしたり、円珍や空海ゆかりの地を訪れることにもなった。ここでも大国様や円珍との不思議なつながりを感じ、その後、一人で伊勢へ向かった。
早朝の伊勢神宮は人影もなく、木漏れ日が美しく澄みきった空気の中をシャリシャリと石の音を聞きながら歩くだけで心が洗われるようだった。神々の御前で静かに手を合わせながら歩いていると、風もないのに目の前の御帳がふわりと持ち上がり、しばらくして静かに下りた。
あたりには誰もいない。不思議に思い「ちょっと、失礼いたします」と声をかけ、少し中をのぞいてみたが、誰もいなかった。
また一つ、説明のつかない体験をした。
学校巡回新作のオファー(1998年12月)
代役として参加した学校巡回公演は、東京芸術劇場小劇場で千秋楽を迎え、無事に幕を閉じた。
その日、劇団の社長の奥様から「次回の新作にも出演してほしい」と声をかけていただいた。新たな仕事も決まっておらず、共演者ともすっかり打ち解けていたことから、そのまま新作への参加を決めた。
ヨーロッパ周遊とルルド(1999年7月)
新作公演の稽古と巡回が始まった頃、父のヨーロッパでの学会と還暦旅行に同行することになった。現地ではパリに留学中の友人と再会したり、ドイツでは別の友人と電車で横断旅行するなど、初めてのヨーロッパを巡る旅ともなった。
多彩な趣味を持ち好奇心旺盛だった父は、当時、ルルドの奇跡の水にも興味を抱いていたようで、旅程にはカトリックの聖地ルルドも組み込まれていた。
私もルルドの水とおメダイを持ち帰り、多くの友人知人に分けた。この時の水が、四年後、思いもよらない形で効力を発揮することになるのだが、それについてはまたの機会に。
公演の打ち切り(1999年後半)
新作公演は、美輪明宏さんの舞台に出演していた俳優Yが、脚本を書き直し、演出も担当することになって始まった。しかし、報酬を受け取った後、途中で「演出できない」と言い残して突然姿を消してしまった。
すでに学校公演は決まっていたため、劇団は演出不在のまま稽古を続け、上演に踏み切った。
ところが、品川の中学校での公演中、ダンスシーンで出演者の一人が靱帯を断裂する事故が発生した。これを機に問題は深刻化し、公演は打ち切りとなってしまったのだ。脚本はお蔵入りとなり、キャスト・スタッフ共に仕事を失うこととなった。
作品は、メキシコのストリートチルドレンと、孤児院をルチャ・リブレのファイトマネーで運営した実在の神父フライ・トルメンタを題材にした実話だった。負傷したのは、亡くなった実在の子どもの名前を使った役を演じていた俳優だった。
私は、四谷怪談の演劇公演の前には、必ず関係者がお岩さんをお参りをするという話を思い出しながら、実話、とりわけ亡くなった人々を扱う作品には、特別な敬意と細心の注意が必要なのではないかと感じていた。
勉強会の開始(2000年2月)
学校巡回の移動中、よく語り合っていた女優の友人に背中を押され、私はついに、10代の頃からあたため続けてきた「演劇の力を社会に生かす」という構想に着手することを決めた。劇団の仲間に声をかけ、勉強会を始めたのである。
当時はIT革命の只中で、大企業の倒産や、子どもたちによる痛ましい事件、いじめや自殺が相次ぎ、社会全体はどこか思考停止しているように見えた。
「ワークショップ」という言葉も広辞苑に「作業場」という説明しかなく、一般的ではない時代だったが、子どもや若者が主体的に参加し、自分の力を発揮できる場が必要だと考えた。
そこで、学校時代に演劇部の稽古で使っていたゲームや即興、大学で学んだカウンセリングやエンカウンターグループの手法などを取り入れた独自のワークショップを組み立てた。さらに、演劇仲間にも協力を仰ぎ、メソッドとフィジカルの両面から学べる場も、手探りで少しずつ形にしていった。
黄色い水とマザーテレサの夢(2000年3月頃)
子ども時代の通学電車に揺られている。すると、ランドセルに聖母マリアの聖画を入れた小学生たちが乗り込んできた。一人の子が、黄色い水に焼けて色が変わった新聞の切れ端が入ったビニル袋を手に「大人の実験で、多くの子どもたちが亡くなっているんだって」と話している。話しかけようとした瞬間、マザーテレサの顔が映し出され、そこで目が覚めた。
夢の意味を考えながら、その日の勉強会へ向かった。テーマはシュタイナー教育だったが、対話の中で「だから演劇なんだろうね」という言葉がふと口をついて出た。
私たちは世界を直接変えることはできないかもしれない。しかし、演劇なら、人の心に働きかけ、その人が新たな一歩を踏み出すきっかけをつくれるかもしれない。一人ひとりの心に届く芸術だからこそ、多くの人の意識を動かし、癒やしにつながる可能性がある。
その日、改めて、演劇の持つ力を確信することになった。
映画のキャスティングスタッフ(2000年夏)
そんなある日、また電話が鳴った。また、演劇サークルの後輩からだった。今度は、映画のキャスティングスタッフを探しているという。アシスタントだし、期間限定ということで、受けることにした。しかし、これは大変だった。無料のボランティアエキストラを200名、一人で大変な苦労をして集めたというのに1ヶ月過ごせない報酬だったのだから、私もまたボランティアのようなものだった。
ところが、ここで不思議なことが起こった。撮影初日、エキストラを連れて現場に行くと、助監督に呼び止められた。主人公を演じる三浦友和さんの電話シーンで、相手役の女優のセリフを代読してほしいという。「私は俳優ではないので」と断ったが、「読むだけでいい」と言われ、棒読みで台詞を読んだ。
その夜のオープニングパーティで、隣に座った男性から「君、演劇をやっているでしょう」と声をかけられた。否定したものの、現在は演劇を社会に生かすための勉強会を行なっているが、昨年までは学校巡回劇団を手伝っていたことを正直に話すと、お蔵入りになった公演について詳しく聞かれた。そして、劇中にプロレスのシーンがあると知ると、「僕は青山劇場の職員なんだけど、プロレス企画を却下されたばかりなんだよ。その企画書を出してくれない?」と言う。偶然に耳を疑った。
帰り際、隣にいた女性に「あの方は酔ってらしたんでしょうか?」と尋ねると、「一滴も飲んでませんよ」と笑われた。そこで、急いで企画書を作成することとなった。劇団の社長にも相談すると、チャリティ公演なら無料で脚本を使ってよいと了承をいただき、その企画は採用され、青山円形劇場で上演されることになった。
比叡山世界宗教サミット(2000年春頃)
映画スタッフの仕事を終えた後、プロデューサーの紹介で映画制作会社に契約社員として勤めることになった。
ある日、コピー機のそばに置かれた台本に「比叡山世界宗教サミット」と書かれているのを見つけ、思わず足が止まった。まさか、ここで再び比叡山に出会うとは思ってもいなかった。
その時、世界の宗教者たちが立場を超えて手を取り合い、平和を祈る場が実際に存在していること、そしてその場が比叡山であることを初めて知った。
マヤ暦21世紀の前夜祭(2001年)
劇場の職員の方から、「5年先まで予約は埋まっているけど、7月23・24・25日の3日間なら空いているので、そこでできる?」と聞かれ、夏休みの時期でもあり、23日を仕込、24・25日を公演日として開催することになった。
初めてのことばかりで、お金も時間も人も足りなかったが、それまでのモットー「知恵と工夫」で資金集めに奔走し、今でいうクラウドファンディングのアナログ版的な方法で何とか最低限の開催費用を1ヶ月で確保した。「やらない後悔より、やった後悔」と唱えながら前へ進めていった。
そんな頃、ストリートチルドレンについて学ぶために参加した講演会で、思いがけないことを知ることとなった。出演者募集のチラシを目にした講師の女性が真っ直ぐ私のところに来て「あなた、公演の日程が何の日かご存じ?」と尋ねられた。そして「7月24日は地球上で最も正確な暦と言われている古代マヤ暦の2000年紀最後の日、そして25日は『時間を外した日』にあたるんですよ」と教えてくれた。
その瞬間、私は、自分だけの偶然やシンクロニシティを超え、もっと大きな流れの中に運ばれているような感覚で震えた。しかも、公演のテーマは地球の裏側の国メキシコのストリートチルドレンであり、マヤ文明の地と重なることにも深い意味を感じた。
そこで私は、この公演を地球が21世紀を迎える前夜祭と位置づけて、それまでの時代に犠牲となった子どもたちへの鎮魂と、新しい時代への祈りを込めることにした。美術もその想いに沿って見直し、自分が行いたい演劇にせず、出演する子どもたちが主体的に輝き、自信を育める場を目指した。また、公演だけで終わらせず、神父との対談や写真展、現地の子どもたちが作った作品の展示・販売も行い、少しでも多くの人に現状を伝え、支援につながる場となるよう努めた。
マザーテレサとプレスリリース
この公演は、フライ・トルメンタの来日と、子どもたちのセラピーを目的とした珍しい演劇公演としてニュースで小さく取り上げられた。しかし、そのプレスリリースを作成したのは私ではない。それもまた、偶然が運んできた出会いだった。
2000年、生活のため広告会社で派遣社員として働いていた頃、親しくしていた別会社の女性から、上司のセクハラについて相談を受けた。その後、偶然会社の上層部の女性と話す機会があり、その件を伝えたところ、ほどなくその上司は異動となった。
そのことがきっかけで別会社の社長から感謝され、公演を手伝っていただけることになったのだった。その社長は、かつて来日したマザーテレサの補佐を務めた経験があり、「裸足で働き続けたマザーのゾウのような足の爪が忘れられない」と語っていた。
そして、この社長こそがプレスリリースのプロだったのだ。
直前から起こり始めた妨害(2001年7月)
公演が近づくにつれ、不思議なほどトラブルが起こった。音響用の録音データが失われて録り直しになったり、出演者の周囲で思いがけない問題が起きるなど、キャストやスタッフのちょっとした心の隙につけ込むような出来事ばかりだった。
さらに、お蔵入りになっていた脚本の失踪した作者をみんなで探し出し、公演決定の報告と招待状を送ったところ、全く音沙汰がなかったのに直前になって「一言一句変えるな。監視しに行く」という脅迫めいた返事が届いた。
劇場入りの日には、その本人から劇場へ営業妨害とも取れる電話まで入った。しかし、事情はあらかじめ劇場側に説明してあり、学校巡回劇団の社長も駆けつけてくださり、大きな混乱には至らなかった。
私は、子ども時代から積み重ねてきた「知恵と工夫」を支えに、ここでも一つひとつ前向きに乗り越えていった。
迎えた本番当日、会場は満席となり、開演前から花が届き、長い列ができた。そして何より、劇場で祈祷を行い、全ての公演を客席で見守ったフライ・トルメンタご本人が「これまで自分を題材にした演劇や映画はいくつもあったが、これが一番良かった」と言ってくださった。
こうして、公演は大成功のうちに幕を閉じた。
さて、ここまでが、虎から始まった冒険の一区切りである。フライ・トルメンタが、リアル「タイガー」マスクと呼ばれていることに気づいたのも後のことだ。
字数の都合で多くを割愛し、ここでは内面の気づきよりも出来事の記録に留めた。もっとも、このシンクロニシティの旅には、まだ続きがある。「行きはよいよい帰りはこわい」と私が呼ぶその後については、また別の機会に語りたい。
ネット社会でもなく「パワースポット」という言葉すらなかった頃で、公演当日、通り雨のあと劇場の上に大きな虹がかかったことにより、私を「巫女」「ネオシャーマン」と呼ぶ人も現れた。しかし、私は仏教徒でもキリスト教徒でも神徒でもなく、霊感もない。ただ子どもの頃から、自分を軸に、先入観を手放し、自分と周囲に起きる出来事をなるべくありのまま受け止め、一つひとつ腑に落としながら歩んできただけだった。
振り返れば、この旅で導かれた地には、出雲の大国主命、阿国、比叡山の最澄、三井寺の円珍、そしてインドのブッダなど、時代や文化を超えてその時代を生きる人々のために新しい道を切り拓いた先人たちの足跡が息づいていた。フライ・トルメンタもまた、孤児だった経験から、助ける側に立とうと新たな場を創った人だった。私もまた、先人たちの生き方に学びながら、自分自身の道を歩み続けたい。
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