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芋出し画像

北斎蚪ねお、いざ小垃斜埌線

    Eijyo

     北斎晩幎の最高傑䜜ずもいえる䜜品を残したもうひず぀の堎所、岩束院がんしょういんに向かった。

    前線はこちら。

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    ほどなく到着。

    🔶岩束院がんしょういん

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    遠景
    駐車堎から


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    なんだろう
    このマンガチックな
    いでたちは
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    こちらも同じく
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    仁王尊像は元々戞隠䞭瀟
    に眮かれおいたそうだ。
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    この暑い時期には涌やかだ。


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    岩束院 本堂



    🔷八方睚みはっぜうにらみ鳳凰ほうおう図

    撮圱蚱可が取れない為、必ず぀のホヌムペヌゞをご芧頂いおから本文をお読みください。

    葛食北斎88歳から89歳にかけおの䜜品ずいわれおいたす。
    北斎は83歳を初めずしお小垃斜に4回蚪れおおり、4回目の滞圚玄1幎をかけお倧間倩井に鳳凰図を描きたした。
    翌幎江戞に戻り、90歳で亡くなっおいたす。

    倧きさは畳21枚分。塗り替えは1床も行っおおりたせん。
    朱・鉛䞹・石黄・岩緑青・花玺青・べろ藍・藍など顔料を膠氎で溶いた絵具で圩色されおおり、呚囲は胡粉、䞋地に癜土を塗り重ね金箔の砂子が蒔かれおいたす。制䜜時の痕跡ずしお、絵皿の跡が残っおいたす

    出兞信州おぶせ海掞山岩束院ホヌムペヌゞより匕甚


    なんずいっおも、畳21枚分にもなる倧きな倩井絵だ。
    この倧䜜を詳しく画像でお芋せ出来なくお残念至極、䞀緒に味わっお頂きたい思いでいっぱいである。

    ここから先は、珟堎で実物を芋ながらでないずその臚堎感は䌝わらないかずは思いたすが、敢えお曞かせおもらいたす。

    幟重にも塗り重ねられおいお、芋る角床によっおは違った色圩、ある方向からは黒く芋え、ある方向からは癜銀に芋えたり、窓から西日にしびが入る方向からの芋え方たで蚈算しお創られたこずに驚かされる。

    その䞊、タむトルの『八方睚み鳳凰図』の通り、鳳凰の目぀きはどの方向から芋おもこちらを芋぀めおいたりする。

    北斎の䜜品でこのように倩井絵ずしお、芋る偎を意識し蚈算しお創られた䜜品が他にあるだろうか
    ちょっず埅およ、これは前線でご玹介した祭屋台の倩井絵に描かれた韍、鳳凰も同様ではないか

    ここでようやく気が぀いた。

    北斎がこの小垃斜で描きたかったのは、動きはしないが動いおいるかのように韍や鳳凰に呜、魂を吹き蟌んで芋せるこずに固執しお自身の集倧成にしたかったのではないだろうか

    それたで描いおきた浮䞖絵や冚嶜䞉十六景などの颚景画、挫画などでは描き切れなかった䞖界を自分のものにしようず、最晩幎を小垃斜たで遠路はるばるやっおきお創䜜に向けおの情念を身䜓ごずぶ぀けお燃やし続けおいたず思うず合点がいく。

    北斎の絵に惚れ蟌んでいた高井鎻山たかいこうざんからすれば、絵の手ほどきはしおくれるし、財力には事欠かなかっただろうから画材や各皮絵具も北斎の芁望に合わせお提䟛し、少しは創䜜の手䌝いもしたであろうから䜜品の完成たでを巡っおは、倧満足の境地ではなかったろうか

    因みに絵の具だけで150䞡かかったずの説明があったが、䞋蚘を参考にしお1äž¡13䞇円で換算するず珟圚のお金で1,950䞇円ずなる。
    金箔だけで4,400枚䜿甚したずされるが、䞀説によるず北斎のメモ曞きにはそれ以䞊甚意しお欲しいずの蚘録が残っおおり、ある意味未完成だったずいう意芋もある。

    いずれにしおも、北斎の創䜜に掛ける熱ず鎻山の思いが䞀臎しお匷固なパヌトナヌシップが築けたからこその倧䜜なのだ。


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    境内を少し歩こう


    🔷犏島正則 霊廟

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    犏島正則
    安土桃山時代 - 江戞時代前期
    生誕氞犄4幎1561幎ヌ 死没寛氞元幎7月13日1624幎8月26日
    戊囜歊将 豊臣秀吉の重臣ずしお賀ケ岳の戊いでは「䞃本槍の第䞀」ず称されたした。
    たた関ケ原の合戊でも勇名をはせ、広島城(49侇8千石)の倧倧名になりたしたが、幕府の謀略により元和5幎(1619)秋、この信越地方(4侇5千石)に囜替えさせられたした。

    「〜酒は呑め呑め 呑むならば 日本䞀ひのもずいちの この槍を 呑み取るほどに 呑むならば これぞ真の 黒田歊士」
    ず黒田節で唄われた䞀節にもあるように、自慢の槍を酒の勢いもあっお䞊げおしたった匵本人が犏島正則である。
    ずころが、酒の垭でのこずで埌になっお返しおくれず申し入れ暫く揉めたずの蚘録も残っおいる。
    呑んだ勢いでの倱敗、皆さんもありたすよね。笑

    犏島正則はある時、黒田氏家臣の母里友信倪兵衛ず酒呑み勝負をしお負けたので、友信の男気に感激し、自分が所有しおいた自慢の槍「日本号」をほうびずしお䞎えたずいう逞話がある。




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    ゲロゲヌロではなく、
    グヌグヌず鳎くんだよ

    🔷小林䞀茶ず蛙合戊の池

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    院内から
    蛙合戊の池を臚む①
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    院内から
    蛙合戊の池を臚む②


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    小林䞀茶 盎筆の碑
    「痩かぞる 
    たけるな䞀茶
    是にあり」

    目を凝らせば埮かに読めたす。


    「やせ蛙 負けるな䞀茶 是にあり」
    俳人 小林䞀茶が病匱な初児 千倪郎を想っお句を詠んだ"蛙合戊の池"。

    この句は匱い者を応揎する句ずしお受けずめられおいるのだが、その背景には虚匱に生たれた初児、千倪郎ぞの呜ごいずいう深い願いが蟌められおいる。
    䞀茶が千倪郎の生埌20日ほどの時に岩束院に来お池のヒキガ゚ルの合戊を芋お詠んだ句であるが、仙倪郎はヶ月足らずで死んでしたう。
    このずき䞀茶歳。
    我が子を助けたい䞀心で䞀句を詠んだが、願い届かず。     合掌

    小林 䞀茶こばやし いっさ、宝暊13幎5月5日〈1763幎6月15日〉- 文政10幎11月19日〈1828幎1月5日〉は、俳人。
    本名は小林 匥倪郎こばやし やたろう。䞀茶は俳号。
    信濃囜柏原珟圚の黒姫、野尻湖で䞭蟲の子ずしお生たれた。
    15歳の時に奉公のために江戞ぞ出お、やがお俳諧ず出䌚い、「䞀茶調」ず呌ばれる独自の俳颚を確立しお束尟芭蕉、䞎謝蕪村ず䞊ぶ江戞時代を代衚する俳諧垫の䞀人ずなった。

    出兞wikipediaより匕甚



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    宿ぞ戻ろう


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    こんな䜇たいだが、実は
    セルフチェックむン
    ぀たり無人の宿だ。
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    奥には同じ土蔵造り
    のカフェ「マルテ珈琲」
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    郚屋の䞭の倩井。
    叀民家颚に造られおいお、
    梁は叀朚を䜿っおいる。
    残念ながら、郚屋の䞭は
    荷物が片付いおなく
    撮圱䞍可。
    郚屋は広くおずおも
    枅朔感あっお居心地
    は良奜。


    宿で䌑憩しおいたら、川䞊倫劻がほどなく到着。
    今倜の宎は、近くの居酒屋に。


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    埅っおたした
    黄金の泡氎


    カンパヌむ

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    話に倢䞭になり、残念ながら撮圱どころではなく珍しくフヌド画像なしです。

    なんず、なんず軒ハシゎしたのち、ただ呑み足りずコンビニたでお酒を求めお歩くこず分ほど。
    我々の宿泊先の郚屋で䞉次䌚開催

    蟲䜜業で疲れた川䞊くんがこっくりこっくり始たっおしたったのでお開きするこずに。


    小垃斜は、䜕床来おも良いな。
    穏やかな町の雰囲気がずおも良い。

    これにお、「北斎を蚪ねお、いざ小垃斜」を終わりたす。

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    旅は続くよ

    次は、この倏の旅の目的地のひず぀、秘境ず蚀われる富山県利賀村に向かいたす。 
    お楜しみに


    #葛食北斎 #小垃斜 #倏の連続投皿チャレンゞ #䞀床は行きたいあの堎所 #賑やかし垯  


    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
     

    Eijyo

     
     
    囜産原料に拘る蕎麊食掚進クラブ「さざれ石」䞻宰。   土曜日午前䞭に䌚報発信。 指針皆さんず楜しく矎味しく共に孊ぶ。 クラブ以倖の蚘事は毎週氎曜日朝7時に投皿旅ず食矎術通巡り友ずの語らいたたに詩 食品メヌカヌで勀務埌、珟圚個人事業䞻ずしお䌁業の経営をサポヌト。

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