
最後の乗客、雲南へ
上海空港を全力で走っていた。
バックパックを背負ったまま、
動く歩道を走る。
乗り継ぎ時間は一時間しかない。
しかも飛行機は遅れて到着した。
空港ではバス移動になり、
そのバスがなぜか遠回りをした。
昆明行きの飛行機は、
きっともう搭乗を始めている。
乗り継ぎカウンターでは、
私を待っていたらしい係員が立っていた。
航空券と名前を確認すると、
彼は黙ってもの凄いスピードで歩き始めた。
私も遅れまいと必死に後を追う。
ゲートへ向かう地下鉄に乗ったところで、
私は少し安心した。
「助かりました。ありがとうございます」
礼を言うと、係員は真顔で言った。
「飛行機はあと三分で離陸します。
間に合うかどうか、分かりません」
地下鉄のドアが開いた瞬間、
彼は突然走り出した。
私も反射的に追いかけた。
動く歩道を走り、
長い通路を走り、
バックパックを胸に抱えたまま、
とにかく走った。
視界に入る店も全て、
ただの風景となって横へ横へと流れていく。
通路はまだ終わらない。
ゲートに、あとどのくらい走れば着くのだろう。
限界はとっくに超えている。
それでも昆明行きの飛行機だけは、
何がなんでも乗り遅れるわけにはいかなかった。
「もう走れません。」
と、喉まで出かかったが、必死で飲み込んだ。
搭乗口のカウンター前で、誰かがこちらに向かって
大きく手招きをしているのが見えた。
ようやく搭乗口に着いたとき、
彼はゲートの係員に何かを伝えた。
そして係員は、私をゲートへ通した。
振り返ると、後ろには誰もいなかった。
最後の乗客は、私だった。
飛行機に乗り込み、
ようやく座席に腰を下ろす。
胸に抱えていたバックパックを下ろすと、
肩の力が抜けた。
それと同時に、
これから始まる冒険への
小さなワクワクも湧いてきた。
しばらくして窓の外を眺めると、
山々がどこまでも続いていた。
いよいよ雲南に来たのだ、
と思った。
昆明長水国際空港に着いたのは、夜中だった。
地下鉄に乗り、宿の最寄りの駅まで行く。
宿は雲南大学のすぐそばにあった。
この辺り一帯は、
西洋風の歴史的建物が多く、
緑も豊かで、
静かな空気が流れている。
そこから少し歩くと、
趣のある小さな宿にたどり着いた。
部屋に入ると湯沸かしポットの横に、
紅茶と緑茶の茶葉が入った
小さな袋が置いてあった。
雲南名産のお茶らしい。
お湯を沸かし、ゆっくりと一杯いれてみる。
湯気の立つお茶を飲みながら、
今日の出来事を静かに振り返っていた。
長い一日だった。
次の日、目が覚めると、
外は驚くほど清々しい晴天だった。
昆明は標高およそ1900メートル。
空は高く、
空気は軽く、
澄んでいる。
街を歩くには、これ以上ない日和だ。
まずは腹ごしらえだ。
雲南省名物のミーシェン(米線)を求めて、
店を探すことにした。
店は事前に調べない。
店の雰囲気を見ながら、自分の感覚で決める。
翠湖公園の近くに、
小さなミーシェン屋を見つけた。
朝から地元の人たちで
賑わっている。
店に入ると、右手にキッチン。
湯気に包まれたその中で、
大鍋でミーシェンが次々と茹で上げられていく。
キッチンにいたのは、三人の女性。
朝から大声で賑やかにお喋りしながら、
麺をよそい、
食材を切っていた。
壁にはメニューと料理の写真。
レジで注文してから、空いている席に座る。
知らない誰かと、
深い赤茶の円卓を囲んで相席する。
真ん中の回転台が、静かに光っていた。
それでも、不思議とすぐに馴染んでしまう。
私は雲南名物のキノコ入りの
温かいミーシェンを頼んだ。
出来上がると、
自分でキッチンのカウンターまで取りに行く。
カウンターの上には、キャベツの浅漬けや
いくつもの調味料が並んでいた。
唐辛子やラー油、葱やパクチー。
好きなものを乗せて、
自分の好みの味に整えるらしい。
私はパクチーが好きなので、パクチーをたっぷり。
それに葱と、少しだけラー油をのせた。
薬味で華やかになった丼を手に、席へ戻った。
まずはスープをひと口。
鶏ガラの澄んだスープに、
キノコの香りがふわりと広がった。
麺は、白くてつるりとした平たい米の麺。
するすると喉の奥へ入っていく。
期待していた以上に美味しくて、
気がつけば、ほとんど完食していた。
丼を置き、店を後にした。
すぐ近くにある翠湖公園を歩いてみる。
湖のほとりでは、
太極拳や朝の体操をする人たちが
あちこちで体を動かしていた。
その一角では、
腕立て伏せをする筋肉おじさん軍団。
朝から自慢の筋肉を披露している。
湖にはカモがのんびりと浮かび、
柳の枝が水面をかすめる。
高原の朝の光の中で、
公園にはそれぞれの朝が流れていた。
ゆっくりと公園を一周したあと、
昆明の老街へ向かった。
公園から老街までは、歩いて十五分ほど。
高原の空気の中を、
のんびり歩くにはちょうどいい距離だった。
昆明は雲南省の省都だ。
漢族だけでなく、イ族や白族など、
多くの民族が暮らしているという。
街を歩いていると、
その多様さがなんとなく伝わってくる。
街のあちこちには、
デリバリーのバイクがたむろしていた。
配達員たちは、バイクの横で一服しながら、
スマートフォンの着信音を待っている。
中には、ハンドルに脚をかけて
デリバリーバッグを背もたれにして、
座席に寝転がるようにして待っている人もいた。
なかなか器用な体勢だ。
昆明の街は、こういう小さな風景が
あちこちに転がっている。
気になって、配達員の後を少し追ってみた。
彼が入っていったのは、
小さな飲食店がひしめく雑居ビルだった。
麺屋や炒め物の店が多く、
階ごとにいくつもの店が並んでいる。
店内は、麺を茹でる大鍋の湯気と
油の煙に包まれていた。
厨房では、料理人が中華鍋を器用に振り、
注文の料理を次から次へと仕上げていく。
夕方だったからか、
配達員がひっきりなしに出入りしていた。
窓越しに、
店員と配達員が料理を受け渡している。
店の前では、男の子が二人走り回っていた。
兄弟らしい。
弟にちょっかいを出しては逃げ回る兄。
それを見かねた父親が、白いランニングシャツに
茶色の便所サンダル姿のまま、
細い竹の棒で兄のお尻をぴしりと叩いた。
兄はお尻をさすりながらも、また走り出した。
その一コマが、
何故か昭和の風景を覗き見たような気がした。
それでも厨房の手は止まらない。
人口の多いこの国の胃袋を満たすのは、
なかなか大変そうだ。
日が傾き始めると、
街の空気はゆっくり夜へと移り変わっていく。
街の電光のきらめき、
焼き物の香ばしい香り、
湯気の立つ屋台、
多くの人で賑わう熱気。
昼間とはまた違う、
活気のある風景が広がっていた。
人の流れに身を任せながら、
その中をゆっくり歩く。
気がつけば、
雲南名物のキノコ鍋の店へ向かっていた。
店の中は想像していたよりも
ずっと活気に満ちていた。
席に着くなり、店員がメニューと紙、
ペンを差し出し、早口で何やら説明を始めた。
理解できない。
注文の仕方がまったく分からない。
仕方なく店員さんに予算を伝え、
その中でおすすめのコースを
組み立ててもらった。
少し英語の話せる店員さんがいて、
なんとか助かった。
テーブルには次々と、
お茶、前菜、デザートが運ばれてくる。
不思議に思いながら、
とりあえず箸をつけてみる。
どれも初めて食べる味だが、悪くない。
店の中央には、キノコ鍋のつけだれを
自分で作るコーナーがあった。
数十種類の材料がボウルに入れられ、
ずらりと並んでいる。
いくつか作って、テーブルへ戻る。
鍋を仕上げるのは、店員さんの仕事だ。
まず数種類のキノコと鶏肉を鍋に入れ、
火にかける。
「二十分待ってください」
そう言って、店員さんはテーブルを
離れていった。
鍋の中では、
日本では見慣れないキノコたちが、
スープの中をぐるぐると泳いでいた。
蓋はせず、そのままぐつぐつと煮続ける。
しばらくすると、店員さんが戻ってきた。
手に持っていたのは、小さな蓋の付いた小瓶。
店員さんは慣れた手つきで小瓶にスープを入れ、
蓋をしてから、瓶を目の前に掲げて
じっと見つめていた。
どうやら、毒の濃度を測っているらしい。
雲南の野生キノコは、
美味しいけれど毒を持つものも多いという。
その話を聞いた瞬間、
ふと、毒キノコに当たって雲南旅行初日に
病院へ運ばれる自分の姿が頭をよぎった。
そんな終わり方だけは勘弁してほしい。
ようやく店員さんが頷いた。
「もう食べて大丈夫です。」
私は少しだけ安心して箸を取った。
湯気の立つ鍋から、キノコの香りが立ち上る。
昨晩、私は上海空港を全力で走っていた。
あと三分で飛行機が出ると言われ、
ただ必死に前だけを見ていた。
今は雲南の夜の中で、
キノコの鍋を前に座っている。
目の前では湯気がゆっくりと立ち上り、
やがて見えなくなった。
明日は、
どこへ行こうか。