メインコンテンツへスキップ
見出し画像

彼女の透明な檻

    登山の途中にあった、5.5畳の城

    大学時代、私は山の斜面に建つ学生アパートに住んでいた。 最寄駅からキャンパスへ続く、心臓が破けそうな長い坂道を、私たちは「登山」と呼んだ。私の家はその登山の途中、4.5合目あたりにある築古の4階建てアパートだった。

    5.5畳のワンルーム。廊下もなければ収納もない。 ユニットバスの湿気が部屋全体に淀むような、お世辞にも快適とは言えない空間。それでも、そこは私にとっての「はじめての城」だった。

    入居した日、ユニットバスのドアが半分しか開かないことに気がついた。前の住人が押し込んだのか、棚が微妙に歪んでいて、毎朝シャワーを浴びるたびに身体を斜めにして滑り込まなければならなかった。冬は窓の隙間から風が入り、夏は西向きの窓が部屋ごと焼いた。けれど、その5.5畳には、誰の許可も要らない時間が流れていた。深夜に泣いても、朝まで漫画を読んでいても、鍋を焦がして煙だらけにしても、誰も何も言わない。その「誰も何も言わない」という自由が、当時の私にはどれほど眩しかったか。

    隣のデザイナーズマンションには、同じサークルの友人が住んでいた。白い壁に間接照明、ちゃんとしたキッチンカウンター。彼女たちの生活は、どこかフィルターがかかったようにキラキラして見えたけれど、私の足元はいつだって泥臭い現実と繋がっていた。それが羨ましかったかというと、正直に言えば、少しはそうだったと思う。でも、もっと正直に言えば、私はあの5.5畳の歪さが、どこか好きだった。

    私の家は、裕福ではなかった。 でも私たちは幸せだった。

    母は、どこへ行っても頭角を現してしまう人だった。 保険会社では売り上げ1位。テレフォンセンターでは、その美声ゆえに客からプロポーズされた。中卒でありながら日本郵政の本社——霞ヶ関——で「歩く社則本」として重宝され、ギャルのような出立ちで職場を明るくしながら、誰よりも仕事を覚えた。能力があって、人当たりがよくて、どの場所でも必要とされた。

    それでも、生活は楽ではなかった。 朝はティッシュ配りから始まり、本業をこなし、夜はコンパニオンとして場を明るくする。母のトリプルワークは、昼も夜も母の「人当たりの良さ」が換金されるような構造だった。世界が母の有能さに追いつかないのか、母が世界の理不尽を引き寄せてしまうのか。三人の子供を抱えながら、母はそれでも折れなかった。

    郵政時代に少し余裕ができると、母は同僚に誘われてタロットを習い始めた。趣味のつもりが、そこでも頭角を現し、先生から「あなたは占い師になりなさい」と半ば押し込まれるようにしてその道へ進んだ。全国展開の占い館でまた売り上げ1位。それでも扱いは良くなかった。危ない目にも遭った。だから独立した。今は紹介制で、自分のペースで仕事をしている。

    母の人生を一言で言うなら、「どこでも一番になったが、どこにも飼いならされなかった。自分だけの世界を作り上げた。」だと思う。

    帰宅した母は、疲れ果てているはずなのに、私たちを壊れ物のように抱きしめ、「世界一かわいいよ」と愛を注いでくれた。その抱擁は、クタクタの腕から絞り出すようなものだったはずなのに、少しも弱々しくなかった。母の愛は、量より密度だったのだと思う。

    母の手料理は、泣けるほど美味しかった。 料理人だった祖父母の血を引いていて、少ない食材でも、出汁の取り方ひとつで食卓が違う顔を見せた。カレーに入れる野菜の切り方、味噌汁の具の組み合わせ、煮物の砂糖と醤油の微妙なバランス。母は料理をしながら一度も「大変だ」と言わなかった。それが、今思えば一番すごいことだと思う。

    けれど、母が働いていてキッチンに立てない日、テーブルに置かれた1500円を握りしめて兄弟で自転車を飛ばした夜も、同じくらい大切だった。

    1500円。 今の私なら、カフェのランチ一回分にも満たない金額。 でも、あの頃の1500円は、小さな王国の予算だった。

    ミニストップの肉まんを2個買って、残りでかっぱ寿司に入れるかどうか兄と相談した。深夜のコンビニで、何十円かの差を真剣に比べながらおにぎりを選んだ。鍵っ子同士で集まって、それぞれが家から持ち寄った「余り物」を並べて夕食にした夜もあった。足りない、でも工夫する。その繰り返しの中で、私は「選ぶ」ということを覚えた。

    「選べること」の自由と、空腹を自分で満たす逞しさを、私はその1500円で学んだのだと思う。 母の手料理が「愛の形」を教えてくれたとしたら、あの1500円は「自分で生きること」を教えてくれた。その母から生まれた私が、5.5畳の部屋でひとりで生きることを怖がらなかったのは、当然だったのかもしれない。

    針のついたぬいぐるみ

    ある冬、私は猛烈な風邪に襲われた。

    体温計が38.7度を示していた。節々が軋み、目の奥が熱を持ち、床から起き上がるだけで部屋が回る。しかし、寝ていられる状況ではなかった。翌日の講義は出席が単位に直結するやつで、バイトは三日後にシフトが入っていて、欠勤したら来月の家賃が3000円足りなくなる。頭の中で計算をしながら、私は体をベッドの端に引きずった。

    薬を飲むため、そして何より生きるために、身体が「あぶらぎったエネルギー」を叫んでいた。

    意識が朦朧とする中、駅前のケンタッキーに入った。店内の暖気と、フライヤーから立ち上るスパイシーな油の匂いが、一気に身体を包む。カウンターで「チキン2ピースのセット」を頼みながら、私は自分の声がひどく遠くに聞こえると思った。会計をして、半透明の袋を受け取った瞬間、不思議と少し安堵した。これで今夜は乗り越えられる、という原始的な確信。

    その袋を命綱のようにぶら下げて、4.5合目の坂を登っている時、彼女に会った。

    「あっ、いのゆいちゃんだぁ。ケンタッキー?パーティーなの?」

    同じ哲学科の子だった。 生成りのコートにベージュのマフラー、いつもニコニコしている。キャンパスからの帰り道なのか、マフラーをふわりと揺らしながら坂を下ってくる。実家暮らしで、授業が被れば顔を合わせる程度の子。頬が冬の空気でほんのり赤く、その健康的な輝きが、その時の私には眩しすぎて少し目を細めた。

    「…体調悪くて。これ食べて寝ようと思って」

    這うような声で返した。それだけでも、喉が痛かった。

    「えっ、大丈夫?」 彼女は目を丸くして、でもすぐに少し眉を寄せた。

    「でも身体に良くないよ?ケンタッキーって油すごいじゃん。おかゆとか食べた方がいいんじゃないかなあ」

    一拍置いて、彼女は続けた。

    「私、ケンタッキー食べたことないんだよねえ。お母さんが厳しくてさ、ジャンクフードって家では絶対ダメで。コンビニのおにぎりもいつか食べてみたいんだけど、なかなかね」

    そして最後に、もう一度。 「本当に心配だから、身体に優しいもの食べな」

    微笑みながら、そう言った。

    その瞬間、私の胸の中で、何かが静かに燃えた。

    隣のデザイナーズマンションに住むサークルの子なら、こういう時、お粥を作って持ってきてくれた。部屋に入ってきて、「大丈夫?食べさせようか?」と言えるような子だった。

    でも目の前の彼女は、お粥を持ってくることは絶対にない。実家から坂を登ってくる導線も、そこまで踏み込む意志も、おそらくない。それでも「身体に優しいもの食べな」と言える。その言葉の軽さの中に、針があった。

    「モヤモヤ」なんて可愛いものではなかった。 かといって、爆発するような怒りでもなかった。 もっと静かで、もっと深いところから来るもの。 自分の生存を、清潔な場所から「不適切だ」と判定された時に生まれる、あの種類の感情。

    彼女が差し出してきたのは、ふわふわの善意という皮を被りながら、内側に鋭い針を仕込んだ「ぬいぐるみ」だった。

    「お粥を食べさせてくれる誰か」が、常に背後にいる者の正論。 体調が悪い時に電話一本かければ誰かが飛んでくる、その構造の上に立った「アドバイス」。 「手料理以外を知らない」という言葉の裏にある、他者の労働を独占的に享受してきた、本人すら気づいていない特権。

    私がそのチキン一箱を買いに行くために、38度を超えた体温を引きずってベッドから這い出し、財布の中身を確認し、坂を一段一段降りてきたことを——彼女は想像することすら、できないのだ。

    「ケンタッキーって身体に良くないよね」という言葉は、正しい。 栄養学的に見れば、風邪の時に揚げ物を食べることを勧める医者はいないだろう。 でも、正しさというのは、常に文脈の上に成立する。

    あの夜の私には、ケンタッキーが必要だった。 お粥だって、鞭打てば作れたかもしれない。インスタントだって棚にあったかもしれない。でもそういう話じゃなかった。

    身体が、ケンタッキーを欲していた。 油、タンパク質、スパイスの香ばしい香り。風邪によって削がれた食欲を、あの匂いだけが呼び起こしてくれる。楽しい時に食べた記憶が、元気をくれる。あのエネルギーの塊を胃に入れることで、身体が「まだ戦える」と思える。それを全部含めて、私はあの夜、ケンタッキーが食べたかったのだ。

    彼女の言葉には、その文脈が、一ミリも届いていなかった。

    幸せの幅と、同情の行方

    31歳になった今、never young beachを聴きながらあの出来事を思い返すと、不思議と怒りは消え、代わりに深い同情が込み上げてくる。

    その感情の変化が、自分でも興味深い。

    怒りが消えたのは、私が大人になったからでも、丸くなったからでもないと思う。あの時の私の怒りは正当だったと今ならわかる。
    変わったのは、彼女への見方だ。

    2日前、私は弾丸で韓国へ飛んだ。 誰の許可も得ず、Geminiで現地情報を拾いながら、ひとりで国境を越えた。 ソウルの街を歩きながら、路地裏の小さな食堂でマックッスを啜り、チムジルバンの雑多な床で眠り、美容医療のクリニックで自分を磨き、オシャレなカフェでベーグルを頬張った。
    計画は大雑把で、予定は何度も変わった。でも、その変化のひとつひとつが、旅そのものだった。

    誰かに「大丈夫?」と聞かれることなく、誰かの顔色を窺うことなく、ただ自分の好奇心だけを羅針盤にして動いた二日間。空港に向かう快速で搭乗券を買った瞬間の、あの身軽さと高揚感。それは、5.5畳の部屋で初めて一人で夜を過ごした夜の感覚と、どこか繋がっている。

    この「自己効力感」の源泉は、間違いなくあの4.5合目の部屋にある。 そして、もっと遡れば、1500円を握りしめて自転車を漕いだ夜にある。 さらに遡れば、どこでも輝きながらどこにも収まらず、自分だけの道を進み続ける母にある。

    彼女は今、どうしているだろう。

    きっと今も、お母さんが認めた「身体に良いもの」だけを食べて、清潔で安全な場所で暮らしているのかもしれない。それは、一概に不幸ではないと思う。愛されて育った証でもあるし、健康への意識が高いことは美徳でもある。

    でも、彼女は一生知らないのだ。

    体調がどん底の時に、一人で貪り食うケンタッキーがどれほど身体を熱くさせるか。 知らない土地で地図を開き、予定にないバスに乗り込む時の、あのスリルと静かな昂ぶりがどれほど心を自由にするか。 コンビニのおにぎりを、深夜にひとりで食べることの、あの不思議な充足感を。

    「手料理しか知らない」ことは、美徳ではない。 それは、世界に無数に転がっている「遠くて、眩しい幸せ」へのアクセス権を、知らないうちに奪われているということだ。

    透明な檻というのは、外から見ると存在しないように見える。 それどころか、ときに「美しい部屋」に見える。 でも、その中にいる人は、自分が檻の中にいることにすら、気づいていない。

    彼女の檻は、愛情で作られていた。だからこそ、強固で、そして残酷だった。

    私の選んできた、遠くまで続く世界

    私の人生には、針もあれば、油っこいチキンもある。 母の極上の料理も知っていれば、深夜のジャンクフードに救われた夜もある。 韓国の路地裏で食べた名前もわからない煮込みも、コンビニのホットスナックも、どれも私の一部だ。

    その振り幅の広さこそが、私の豊かさだ。

    彼女の差し出したお粥は、確かに正しいのだろう。 けれど、私の世界を広げてくれたのは、いつだってあの時蔑まれた「あぶらぎったチキン」の方だった。

    自分の機嫌を自分で取り、自分の空腹を自分の足で満たしに行く。 誰かの「正しさ」ではなく、自分の「必要」に従って動く。 それを繰り返してきたことが、あの韓国の路地裏でひとりで笑える人間を作った。

    あの坂道の途中で袋を握りしめていた私は、彼女よりもずっと、自由で、強くて、幸せだったのだ。

    今の私なら、あの時の彼女に心から微笑んで言える。
    「そう。あなたは、そのままお粥を食べていればいいよ。 私はこのチキンを食べて、あなたの想像もつかない遠い場所まで、ひとりで行けるから」

    そしてもし今、あの坂で彼女に会ったなら—— 私はケンタッキーの袋をもう一つ買って、隣に座って一緒に食べようと誘うかもしれない。

    透明な檻の外の世界が、こんなに美味しいということを、ただ、知ってほしいから。

     
     
    30歳、女 思い立った時に日記を書いたりTikTokに動画を投稿したりしています。 #音楽 #フェス #日常 #編み物 #チョコレート #グルメ

    あなたへのおすすめ