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Photo byayaki_10ru

黒板の向こう側 第1話 はじめての担任

    あらすじ
    高校教師十四年目の春、日高悠真は初めて「教務部以外」の分掌を命じられる。教務一筋だった彼に与えられた役割は、教育情報部の部長。そして、久しぶりの担任ではなく、またしても裏方の仕事だった。落胆しながらも、新年度の教室に入った日高は、課題を出せない生徒、言葉で人を傷つける生徒、授業に背を向ける生徒たちと向き合っていく。教師の仕事は、きれいごとだけでは進まない。けれど、教室には毎日、小さな笑いと変化がある。これは、厳しさ三割、楽しさ七割で描く、ある高校教師の一年の物語。

    四月の職員室は、いつも少しだけ空気が硬い。
    新しい座席表。
    新しい時間割。
    新しい校務分掌。
    新しい担任団。
    新しい生徒名簿。
    紙の上では、すべてがきちんと並んでいる。
    けれど、その紙の向こうには、一年間分の混乱がぎっしり詰まっていることを、日高悠真は知っていた。
    職員室の窓際に置かれたプリンターが、朝から休みなく音を立てている。
    誰かが印刷した年間行事予定。
    誰かが印刷した健康調査票。
    誰かが印刷した学年通信の初号。
    誰かが印刷した、まだ誰にも読まれていない会議資料。
    日高は、自分の机に置かれた一枚の紙を見つめていた。
    そこには、今年度の校務分掌が印刷されている。
    教育情報部 部長 日高悠真
    「部長、か」
    小さくつぶやいた声は、プリンターの音にかき消された。
    十四年目にして、初めて教務部を離れる。
    それは、ずっと望んでいたことだった。
    教務部は嫌いではない。
    むしろ、得意だった。
    時間割を組む。
    成績処理をする。
    入試関係の資料を整える。
    行事の裏側を支える。
    学校全体が止まらないように、歯車の一つとして動く。
    そういう仕事に、日高は向いていた。
    ただ、向いていたからこそ、抜けられなかった。
    若いうちは「助かるよ」と言われた。
    三十代になると「日高先生に任せれば大丈夫」と言われた。
    気づけば、教務の深いところまで知っている人間になっていた。
    そして同時に、担任から遠ざかっていた。
    教師になったばかりの頃、日高は思っていた。
    教師の中心は、やはり教室だ。
    生徒の前に立ち、授業をし、学級をつくり、進路を考え、時に叱り、時に笑い合う。
    その中心にいるのが教師だと思っていた。
    しかし現実は違った。
    学校には、見えない仕事が山ほどある。
    誰かがやらなければ、学校は回らない。
    そして、その「誰か」は、だいたい仕事ができる人に集中する。
    「日高先生、今年度は教育情報部をお願いします」
    三月末、校長室でそう言われた時、日高は一瞬、返事が遅れた。
    「教育情報部……ですか」
    「はい。ICT関係、Google Classroom、校内ネットワーク、端末管理、生成AI関係も含めて、学校全体を整えてほしいと思っています」
    校長は、穏やかな声で続けた。
    「日高先生ならできると思いまして」
    その言葉は、褒め言葉だった。
    少なくとも、言った側はそう思っている。
    だが、受け取る側の胸には、少し違う形で刺さる。
    できると思われる仕事が、やりたい仕事と同じとは限らない。
    「担任は……」
    日高が言いかけると、校長は少しだけ表情をやわらげた。
    「今年度は、部長職に専念してもらいたいと考えています」
    ああ、またか。
    その一言を、日高は飲み込んだ。
    もちろん、校長の判断が間違っているわけではない。
    学校には学校の事情がある。
    人員配置もある。
    経験年数もある。
    向き不向きもある。
    頭では分かっている。
    しかし、頭で分かることと、心が納得することは別だ。
    職員室の自席で、日高は改めて分掌表を見た。
    教育情報部 部長 日高悠真
    「つぶしのきかない教師、卒業かと思ったら……別の意味でつぶされそうだな」
    誰にも聞こえない声でそう言って、日高は苦笑した。
    その時、隣の席から声がした。
    「日高先生、顔が死んでますよ」
    振り向くと、若手の英語科教員、三枝菜月が立っていた。
    手には、新年度の名簿らしき紙束を抱えている。
    「死んではいない。少し社会的に消耗しているだけです」
    「それ、だいぶ危ない状態じゃないですか」
    三枝は笑いながら、日高の机の上を見た。
    「あ、教育情報部長。おめでとうございます」
    「ありがとう。祝われている感じがしないけど」
    「いや、本当に助かります。私、ICT苦手なので」
    「それは祝ってるんじゃなくて、依存先を確認してるだけでは」
    「ばれました?」
    三枝は悪びれずに笑った。
    この軽さに救われることがある。
    職員室には、深刻な顔だけでは乗り切れない時間がある。
    日高は、分掌表を机の端に置いた。
    「三枝先生は担任?」
    「はい。一年四組です」
    「初担任?」
    「そうです。今から胃が痛いです」
    「胃が痛いのは正常です。痛くない人の方が少し危ない」
    「怖いこと言わないでください」
    三枝は、本当に不安そうな顔をした。
    日高は少しだけ姿勢を正した。
    「最初の三日間は大事ですよ」
    「黄金の三日間ですか」
    「そう。特に高校でも、最初の三日間でかなり決まる。生徒は見てますから。先生が何を許す人なのか。何を大切にする人なのか。どこまで本気なのか」
    「やっぱり、最初は厳しくした方がいいですか?」
    日高は少し考えた。
    「厳しく、というより、明確にした方がいいです」
    「明確に」
    「何をするのか。何をしないのか。どうなったらよい状態なのか。先生が言葉にできていないことは、生徒には伝わらないので」
    三枝は、名簿の余白に急いでメモを取った。
    「何をするのか。何をしないのか。どうなったらよい状態なのか……」
    「あと、最初から全部うまくやろうとしないことです」
    「それが一番難しいです」
    「教師は、失敗しながらうまくなる仕事ですから」
    日高がそう言うと、三枝は少し意外そうな顔をした。
    「日高先生でも失敗するんですか?」
    「しますよ」
    「想像できません」
    「それは、私が失敗を隠すのがうまくなっただけです」
    三枝は声を出して笑った。
    その笑い声に、少しだけ職員室の空気がやわらいだ。
    始業式の日。
    体育館には、新しいクラスごとに生徒が並んでいた。
    制服の着方だけで、春休みの過ごし方が見える。
    ネクタイをきちんと締めている生徒。
    シャツが少し出ている生徒。
    靴のかかとを踏みかけている生徒。
    隣の友人と小さく笑っている生徒。
    誰とも目を合わせず、前だけを見ている生徒。
    教師は、こういう小さな情報を見逃せない。
    生徒は、名簿の中にいるのではない。
    目の前にいる。
    校長の話が始まると、体育館の空気は一応静かになった。
    一応、というところが大事だ。
    完全な静寂ではない。
    床に置かれた上履きの音。
    誰かの咳払い。
    後方で小さく交わされるひそひそ声。
    日高は、体育館の壁際に立ちながら、生徒たちの背中を見ていた。
    教師の仕事は、前に立つことだけではない。
    横から見ることも、後ろから見ることもある。
    むしろ、後ろ姿にこそ、その生徒の状態が出る。
    話を聞く姿勢。
    退屈をどう処理するか。
    友人との距離。
    教師の目がない時の振る舞い。
    そこに、その子の今が出る。
    式が終わり、生徒たちが教室へ戻る。
    廊下に、一気に音が戻ってきた。
    「だるかったー」
    「校長長くね?」
    「てか、担任誰?」
    「今年こそ当たりがいい」
    「外れだったら終わり」
    毎年聞く言葉だ。
    生徒は教師を選べない。
    教師も生徒を選べない。
    だからこそ、教室にはいつも、少しだけ賭けのような緊張がある。
    日高は、一年四組の教室の前で立ち止まった。
    中から、三枝の声が聞こえる。
    「はい、じゃあ席についてください」
    明るい声だった。
    少し高い。
    緊張しているのが分かる。
    続いて、椅子を引く音。
    机が動く音。
    誰かが笑う声。
    日高は、教室には入らず、廊下から少しだけ様子を見た。
    三枝は黒板の前に立ち、名簿を持っていた。
    「最初に、先生の自己紹介をします」
    教室の後ろの方で、男子生徒が小さく何かを言った。
    周囲の数人が笑った。
    三枝の声が一瞬止まった。
    日高は、廊下から見ていた。
    ここだ。
    最初の小さな乱れ。
    教師にとっては、取るに足らない一言かもしれない。
    しかし、教室にとっては信号になる。
    今の言葉を、この先生は拾うのか。
    流すのか。
    笑って済ませるのか。
    注意するのか。
    生徒は見ている。
    三枝は名簿を机に置いた。
    そして、後ろの男子を見た。
    「今、何か言いましたか」
    教室が静かになった。
    男子は少し驚いた顔をした。
    「いや、別に」
    「別に、では分かりません。もう一度言えますか」
    「……言えません」
    「言えない言葉は、教室では言わないでください」
    短い言葉だった。
    しかし、明確だった。
    日高は、廊下で小さくうなずいた。
    いい。
    厳しさというのは、怒鳴ることではない。
    相手を押さえつけることでもない。
    線を引くことだ。
    ここまではよい。
    ここからはよくない。
    その線を、教師が静かに、しかし確かに示すことだ。
    三枝は続けた。
    「このクラスでは、人が話している時に、聞こえないところで茶化すのはなしにします。言いたいことがあるなら、みんなに聞こえる声で言ってください」
    数人の生徒が、少し姿勢を正した。
    その後、三枝は笑顔に戻った。
    「では、改めて自己紹介します。英語科の三枝菜月です。好きな食べ物は、からあげです」
    教室に笑いが起きた。
    「そこ笑うところです。合っています」
    また笑いが起きた。
    日高は、その場を離れた。
    厳しさ三割。
    楽しさ七割。
    理想としては簡単だ。
    しかし、実際の教室では、その配分が難しい。
    厳しさだけでは、生徒は心を閉じる。
    楽しさだけでは、教室は崩れる。
    三割の厳しさがあるから、七割の楽しさが生きる。
    その日の放課後、日高の机には、さっそく教育情報部の仕事が積まれていた。
    「日高先生、Classroomのクラス作成って今年どうしますか?」
    「新入生のアカウント、何人かログインできないみたいです」
    「端末の保管庫の鍵って、教育情報部ですか?」
    「生成AIの校内ルール、今年度中に作るんですよね?」
    「すみません、プロジェクター映らないです」
    次々に声がかかる。
    日高は、一つずつ対応した。
    Classroomの作成手順を確認する。
    ログインできない生徒のアカウントを調べる。
    端末保管庫の鍵を事務室に確認する。
    校内ルールの昨年度資料を探す。
    プロジェクターのHDMIケーブルを差し直す。
    教師の仕事は、授業だけではない。
    むしろ、授業以外の仕事の方が多い日もある。
    そして困ったことに、その一つ一つが、結局は授業につながっている。
    端末が使えなければ、授業が止まる。
    Classroomが整っていなければ、課題が出せない。
    校内ルールが曖昧なら、教員も生徒も迷う。
    プロジェクターが映らなければ、資料を見せられない。
    裏方は、表を支えている。
    それは分かっている。
    分かっているが、やはり少し寂しい。
    日高が職員室の片隅でプロジェクターのリモコンを分解していると、三枝が戻ってきた。
    「日高先生」
    「はい」
    「今日、ありがとうございました」
    「私は何もしてませんよ」
    「廊下にいましたよね」
    見られていたらしい。
    日高はリモコンの電池を入れ替えながら言った。
    「よく止めましたね」
    三枝は少し照れたように笑った。
    「心臓、バクバクでした」
    「でしょうね」
    「でも、あそこを流したら、まずい気がして」
    「その感覚は大事です」
    三枝は、ほっとしたように椅子に座った。
    「そのあと、からあげで笑いが取れました」
    「初日にからあげで笑いを取れるのは才能です」
    「才能ですかね」
    「才能です」
    三枝は嬉しそうに笑った。
    その笑顔を見て、日高は思った。
    教師の仕事には、こういう瞬間がある。
    大きな成果ではない。
    新聞に載るような実践でもない。
    研究紀要に書けるような結果でもない。
    ただ、若い先生が一つの場面を乗り越える。
    教室が少し落ち着く。
    生徒が少し笑う。
    それだけで、今日一日が少し報われる。
    「日高先生」
    三枝が言った。
    「はい」
    「教師って、思ってたより怖いですね」
    「怖いですよ」
    日高は即答した。
    「でも、思ってたより面白いです」
    その言葉に、日高は手を止めた。
    そして、少しだけ笑った。
    「それなら大丈夫です」
    「どうしてですか?」
    「怖さだけを感じると、続かない。面白さだけを見ると、危ない。でも、怖さも面白さも両方あるなら、たぶん教師に向いてます」
    三枝は、少し考えてからうなずいた。
    職員室の外では、部活動へ向かう生徒たちの声が響いていた。
    「先生、鍵どこですかー」
    「グラウンド使っていいですかー」
    「今日、部活ありますかー」
    「職員室入っていいですかー」
    新年度の学校が動き出している。
    きれいごとだけでは進まない。
    理想だけではもたない。
    努力だけでは届かないこともある。
    それでも、教室には毎日、何かが起こる。
    生徒が笑う。
    教師が迷う。
    誰かが失敗する。
    誰かが少し変わる。
    日高は、直したばかりのリモコンを机に置いた。
    教育情報部長。
    担任なし。
    十四年目。
    思い描いていた春とは、少し違う。
    けれど、これはこれで、悪くないのかもしれない。
    そう思った瞬間、職員室の入口から大きな声が飛んできた。
    「日高先生! 助けてください!」
    見ると、二年生の男子が、半分泣きそうな顔で立っていた。
    「どうした」
    「Classroom、全部消えました!」
    職員室の数人が一斉に日高を見た。
    三枝が小さく笑った。
    「教育情報部長、出番ですね」
    日高は立ち上がった。
    「消えたんじゃない。たぶん、見えていないだけだ」
    「同じじゃないですか!」
    「全然違う。教師の仕事も同じです」
    「え?」
    「消えたように見えても、ちゃんと残っているものがある」
    男子生徒は、ぽかんとした顔をした。
    三枝が笑いをこらえている。
    日高は職員室の出口へ向かった。
    「行くぞ。まずログインしているアカウントを確認する」
    「はい!」
    廊下には、春の光が差し込んでいた。
    新しい一年が始まった。
    黒板の向こう側には、今日も、まだ誰も知らない仕事が待っている。

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    とある公立高校で地歴公民科の教員をしています! 教員6年目。専門は世界史。 セミナーや読書等で学んだことを日々発信しています✨

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