
【エッセイ】国語事件殺人辞典で「いいえ」を取り戻した話(舞台観劇)
国語事件殺人辞典なる舞台のチケットを配偶者が買ってきた。
彼女はミステリー小説好きで、月に1〜2冊読み、謎解きイベントにも年数回参加している。Netflixのおすすめはミステリー関連ばかりだ。
彼女から「◯月◯日のチケットを買ったから、その日は他の予定を入れるべからず」という趣旨の通告があった。
彼女は何かのスイッチが入ると、一気に突っ走る質(たち)だ。今回も何かスイッチが入ったのだろう。
予定も空いていたので、私は苦笑いしながらも素直に「はい」とだけ返した。
その後、このことはすっかり頭から消えていたのだが、前日に共有のGoogleカレンダーを見て思い出し、改めて自分が何を観るのか舞台のウェブサイトをチェックした。
「国語事件…殺人辞典?」
あれっ?と思った。
「国語辞典…殺人事件」と殺人事件系のミステリーだと思い込んでいたので混乱した。
作品紹介を読むと国語辞典を編さんする男の放浪の話とある。
原作は井上ひさしーー
「これミステリーではないのでは?」と尋ねると、彼女も勘違いしていたと白状した。
そうは言っても、せっかく買ったチケットなのでそのまま観に行くことになった。
結論から言うと、めちゃくちゃ面白かったし、考えさせられた。
井上ひさしは、私にとって“教科書や入試問題に出てくる大作家”だった。
だからだろうか、中二病をこじらせていた若い頃には、なんだか「ありふれたもの」のように感じていたため、食指が動かないタイプの作家だった。
なので、この舞台は何の予備知識もなく、丸腰で観に行ったが、序盤から引き込まれ、休憩を挟んだ第二幕〜終幕まで3時間ずっと魅せられ続けた。
作品の意図をちゃんと掴めているかどうかはさておき、自分がこの作品に感動したことを、独りよがりの感想として書いてみたいと思う。(主人公:花見万太郎に批判されるインテリ外来語で言えば『ナラティブ』となるだろう。)
この作品は1982年に小沢昭一のしゃぼん玉座の旗揚げ公演に書き下ろされたもので、その台本は戯曲集の「國語元年」に収録され出版されている歴史ある名作だ。
この舞台は、今回44年ぶりに井上ひさしが立ち上げたこまつ座で再演されたものだが、すでに千穐楽を迎えてしまっている。できるなら、もう一度このお芝居を観たいと思うが、再演は難しいかもしれない。
主役(筧利夫)のセリフは長い上に、早口でまくし立てる演技なので、喉への負担が観ていても心配になるほどだったからだ。
第一幕は市井の国語学者、花見万太郎が編さんした六万語を超える辞書を、出版するにあたってのドタバタ劇だ。表層的には、偏屈な主人公が正しく美しい日本語を取り戻す旅をする話を描いている。
このパートは、若干話の通じない主人公と周囲の人々とのずれたユーモラスなやり取りが続き、しっかり笑える展開だった。しかし、いつの間にか、日本語における外来語の問題や、揺れ動く言葉の意味や使い方、あるいは文芸で使われる日本語としては正しくなくても、効果的で許されるべき表現などが例示される。次第に「日本語とは?」を自然と考えさせられた。
例えば劇中ではーー
『全然』という言葉は、本来『全然ダメだ』のように否定表現を伴うものだったが、最近は「全然良い」のような肯定表現が使われるようになっていることを、主人公は問題視する。
しかし、定食屋の主人から「とても」という表現も明治の頃から見れば同じような変遷をたどっていると指摘される。現代では「とても美しい」という肯定が続く表現は、主人公ですら自然に感じているという事実を見せられ、結果、主人公は論破されてしまう。
こういった好奇心をくすぐる話が次々と出てくる。
90分経ったところで、第一幕が終わり休憩となった。二人の感想は「思ってたのとは、違うけど面白かった」だった。
第二幕は相変わらずのドタバタ劇だが、少しずつ嫌な、ざらついた感じのする展開に移行する。主人公は、簡易日本語学院というシュールな設定の学院で極端に言葉を絞った日本語と対峙したり、正しく美しい日本語を話す美少女を見つけるも、それが彼女自身の言葉ではなくポルノ映画のオーディションの台本である事実を突きつけられる。このあたりで、日本語のみならず、表現することそのものを考えさせられた。
その後、登場人物を謎の奇病が襲う。発話の際、文節が意図せず入れ替わる言語不当配列症、句読点の位置が変化してしまうベンケイ病、修飾する言葉が抜け落ち電報のような表現しかできない電文症。ここで奇妙なタイトルの意味が判明した。タイトルが言語不当配列症なのだ。
しかも、これら奇妙な日本語が早口で飛び交うので、観客としては何を話しているかを理解するのに、ものすごい負荷がかかる。このため、強制的に、正しい日本語の重要性を肌感覚で理解させられた。
そんな幾つかの奇天烈な話が繰り広げられた後、主人公は持ち金をすべて巻き上げられて困窮していく。
ここから不穏さのレベルが上がる。
ことばを預かる質屋が登場する。この質屋は「いいえ」をはじめとするあらゆる"否定語"を質草として金を貸す商売をしている。「いいえ」を預けた者は借金という契約により、その心理的負荷から「いいえ」が言えなくなるのだという。
質屋の主人は、言葉巧みに主人公(万太郎)から「いいえ」を預かろうとする。
……交通整理だよ。上から下へ「べからず」とくる。そこで下から上へ「はい」という。だからわれわれ下々の人間には「はい」だけで充分、「いいえ」はいらないの。そこでそのいらない「いいえ」をお預かりいたしましょうとこういうこと。世の中は矛盾だらけでしょ。これはね、世の中のいたるところでイエスとノー、この正反対のものが衝突し合っているからなんだねえ。そこで上からはノー、下からはイエスと、流れを整理しようという、わたしのささやかな世直し運動。
空腹に負けた主人公は、質屋に「いいえ」を預けてしまう。しかし、それは大衆管理を目論む勢力の陰謀で、大衆の3000万人以上に「いいえ」を言えなくさせ、支配層に逆らえなくするためのものだった。
陰謀が明かされるシーンが終わり、場面転換で舞台が暗転すると、少し我に返った。このタイミングで、私はジョージ・オーウェルの「1984」を思い出していた。
「1984」に登場する「ニュースピーク」は語彙を削ることで反体制的な思考を不可能にする言語体系だ。
例えば「bad(悪い)」は廃止され、「good(良い)」と「ungood(良くない)」だけが残る。結果「ビッグ・ブラザー(支配者)は悪い」という表現は存在しなくなり、反体制的思考が絞られる。
――そんな事をぼんやり考えていたら、舞台に明かりが戻り、お芝居が再開された。
陰謀に気づいた主人公と弟子の山田青年が、後悔と自責の念に苛まれるシーンが始まる。
二人は「いいえ」を取り上げようとする陰謀を大衆に知らせようとする。しかし、「いいえ」を預けてしまっているため、それができないで鬱々とする主人公。そしてそれを慰める山田青年…。
そんな中、「ことば売りのおばさん」なる人物に声をかけられる。おばさんの夫はかつて陰謀に加担して「いいえ」を集めていたが、過ちに気づき加担しないこと決める。しかし、その直後、何者かに殺害されてしまっていたのだ。
そういった経過で、おばさんは夫の遺言で"これは"と思った人物に、いいえを売る(戻す)商いをしていた。
この出会いによって、主人公は「いいえ」を取り戻し、そして、二人は言語不当配列症やベンケイ病を抱えながらも街頭に出て陰謀の存在を懸命に訴える。
みなさん御通行中の! 一介のわたくしは学者の国語でありまするが、ただいまこの国でおそるべき進行が陰謀しつつあるのであります。いくつかの企業が巨大なみなさんから、「いいえ」を、「ノー」を、そして「ノン」をして取り上げようとしているのであります。大衆管理を進めようと完璧にしているのです。決してノンをいわない大衆のようにおとなしい羊をつくり出そうとしているのです…………
(語順がでたらめなのは、言語不当配列症のため)
この反権力的にも読めるストーリーは、1980年代初頭という、70年安保運動の気配の残る時代から来るものかもしれない。それに、実際はどうあれ、ネットで井上ひさしが左翼的なイメージを持たれているのも事実なので、「右でも左でもない普通の日本人」を標榜するSNSアカウントの持ち主からすれば、このお芝居は「反体制の左翼の戯言」として敬遠されてしまうかもしれない。
しかし、これは単純に政治的なメッセージで済む話ではなく、もっと普遍的な構造を表現しているように思える。
支配の構造は何も政府 vs 大衆だけではない。
経営者 vs 従業員、上司 vs 部下、教祖 vs 信者、先輩 vs 後輩、スクールカースト、親子、兄弟、夫婦……支配と被支配の関係で支配側は「いいえ」を奪おうとする。
DVにおける心理的虐待の一つである「ガスライティング」はその典型的な例だろう。 相手の認識や記憶を疑わせ、「君の勘違いだよ」「そんなこと言ってなかったよね」と繰り返し自信を削ぎ、判断力を奪う。
支配は暴力的に行われるのではない。時に親切に、時に教育的に相手をおもんぱかるふりをして、巧みに「いいえ」と拒否する思考を奪うのだ。
「いいえ」 を失うことが、人生のあらゆるステージで、人らしく『生きられなくなる』ことに接続するとは、私はこのお芝居を観るまで、認識してこなかった。
その後、主人公は街頭活動中に、「何者」かに襲われ死んでしまう。お芝居は、元担当編集者で、弟子の山田青年が「自らの考え」をはっきり示す大切さを伝えて幕を閉じる。
「一所懸命に言葉を使って考えて、その結果イエスと出たら 正直にイエスと答える。またノンと答えが出たら、 誰にも気兼ねはいりません。大声でノンといえばいいのです」
このフレーズは、「ことば売りのおばさん」や主人公からも、言葉遣いは少し変わるものの劇中に何度も繰り返され、そのたびに私は鳥肌がたった。
今、ネットでは自分たちと異なる考えに対して、苛烈な批判を加えることがある。
多くは、劇中のような陰謀ではなく無自覚に自らの正義を執行しているのだろう。しかし、時には批判を超え誹謗中傷、人格攻撃に発展することすらある。
彼らは「一所懸命に言葉を使って考えて」いるのだろうか?
もしかしたら、彼らは既に「いいえ」を預けてしまっているのではないか?
それで「いいえ」をまだ持っている人を見ると、自分を否定されているように感じてしまう、あるいは、自分が自分を否定しかねない恐怖をうっすら感じてるのではないだろうか?
その結果、目に映った人から、必死になって「いいえ」を捨てさせようとする――そんな風に思えてしまう。
そうして、世間から「いいえ」が一つ消えるたびに、私は背筋が寒くなる。
お芝居を見終わって家に帰り、リビングでニュースを見ていたら最近の戦争の話が流れてきた。配偶者が「一所懸命考えてNoと言う時はNo……」と誰に言うともなく呟くのを聞いた。
このお芝居は私たちにとって「ことば売りのおばさん」だったのだと思う。
「一所懸命に言葉を使って考えて、その結果イエスと出たら 正直にイエスと答える。またノンと答えが出たら大声でノンと言える」ように、残りの人生を生きていきたい。
参考資料