
私は、まだ一度しかマムシに咬まれたことがない
突然の激痛と応急処置
突然、右手に痛みが走った。顔を上げると、前方を茶色い蛇が逃げていくのが見えた。
マムシに噛まれた。
まだ親指くらいの太さだったので、子どものマムシだろう。捕まえようかとも思ったが、まずは毒が回らないようにしなければならない。私は軽トラへ向かった。荷台に転がっていた紐で小指の付け根をきつく縛り、エンジンをかけた。
「おい、マムシに噛まれた」
「えっ」
妻が素っ頓狂な声を上げる。
「どうすればいいの」
「119番に電話だ」
妻が救急車を呼ぶ間に、玄関に掛けてあったリュックからファーストエイド用の袋を取り出した。登山用のリュックを防災袋として玄関先に掛けていたのである。
中から吸引器を取り出す。ポイズンリムーバーという大層な名前の道具だ。小指に当てたが、自分一人ではうまく使えず、妻に吸引してもらった。
あとでドクターに聞いたところ、効果は「おまじない程度」だそうだ。口で吸い出すのはかえって危険だという。毒素を吸い出す効果は分からないが、私と妻を落ち着かせる効果は確かにあった。
サイレンの音が小さく聞こえ始めたころ、私は家の外に出て待った。このあたりは山間部で、林に溶け込むように家が点在しており、場所が分かりにくいのである。
救急車に揺られて
救急車に乗るのは初めての経験だった。若い救急隊員が縛っていた紐をほどき、血圧を測ってくれる。てきぱきと処置が進んでいく。受け入れ先の病院に電話しようとしたが、山間部のため圏外だった。しかたなく、走りながら受け入れ先を探すことになった。
「患者は66歳男性、マムシ咬傷。症状は手の腫脹、血圧……」
隊員が素早く説明していく。1つ目の病院は外科が対応できず、断られたという。2つ目の病院が受け入れてくれることになった。30分ほどかかるようだ。
このときには腫れは右手の半分くらいまで広がっていた。痛みはあったが、激痛というほどではなかった。
病院に到着し、救急隊員に付き添われて救急外来へ向かう。
ベッドに横たわると、数人のスタッフが集まってきた。私は田んぼの草取りの最中だったので、泥のついた作業着のままで来てしまっていた。ベッドが汚れるのではと気になったが、スタッフはまったく気にしていない様子だった。
ケーブルが体につながれ、モニターに波形が映し出される。「EMERGENCY」と書かれたジャンパーを着たドクターが、咬傷痕と腫れの様子を見つめていた。
血清を打つかどうか
「ここまで腫れているようですね」
ドクターはそう言うと、サインペンで手首をぐるりと取り囲むように点線を書き、横に時間を記入した。
救急スタッフは、指示を待たず、それぞれの持ち場でてきぱきと動いている。しばらくするとスタッフたちが集まり、話し込んでいた。どうやら「血清を打つかどうか」を検討しているようだった。
「アレルギーが高い確率で起きるようです。何もしないと60%です」
「6割も?」
思わず声が出た。
ドクターは少しこちらを見て、再びスタッフと話を続けた。
「予防処置をすると2割くらいです」
そうした説明を聞いたあと、ドクターが改めて言った。
「血清を打ちます。これはアレルギーが起こる場合があります。アナフィラキシーショックや後遺症が残ることもあります……」
多少の脅しを含む説明ではあるが、「どうしますか」と尋ねられても、私に選択の余地はない。ドクターに任せるしかなかった。何をしても、いや、何もしなくてもリスクはある。最もリスクが少ない道を選ぶのが専門家なのである。
モニターの波形と妻のこと
「薬を入れますね。痒みとか動悸とか、変わったことがあったら言ってください」
点滴が始まった。しばらくすると、頭のすべての毛根に痒みが走るような感覚があり、それが体中の毛根へと広がっていった。しかし、それはほんの一瞬のことだった。すぐに収まったので、特に伝えなかった。
点滴は時間がかかる。終わったら血清を打つとのことだった。
その間、噛まれた右手は特に処置されることもなく、ただ放置されていた。
「このまま毒が回るのでは」と思うのは当人の切実な不安だが、スタッフは時おり腫れの広がりを確認する程度である。意識の差があるのは当然だ。私は、まだ一度しかマムシに噛まれたことがないのだから。
「抗生剤を入れますね。変わったことがあれば言ってください」
いよいよ血清を注入するようだ。何も起こらなかった。まあ、そんなものだ。
だんだん落ち着いてきて、退屈さを覚えるようになった。頭上のモニターに表示される波形を眺める。一番下のグラフは、どうやら呼吸を表しているようだった。深呼吸してみると、グラフが大きく動く。まるで医療機器を自分で操作しているようで、面白く感じた。ときおり、左腕に巻かれた血圧計が自動で腕を締め付けてくる。その瞬間、血流の波形の幅が少し狭くなり、しばらくするとまた元に戻る。
そういえば、妻は救急車には乗らなかったけれど、今もきっと処置室の外で待ってくれているはずだ。何の情報もなく、退屈な医療モニターを見ることもできず、不安な気持ちで俯いていることだろう。
入院決定と静かな夜の始まり
ドクターは少し脅しも交えながら、それでも丁寧に説明してくれた。スタッフは優しい言葉と励ましの言葉をかけてくれる。処置を進めながらも、患者に安心感を与えてくれる対応だった。
血清の点滴も無事に終わった。
続いてレントゲンである。右手の小指を噛まれたのに胸部レントゲンとは、と思ったが、何か意味があるのだろう。
外科のドクターが来て、再び説明があった。
やはり少し脅しが混ざっている。腫れが肩まで上がってくると内臓に毒素が回る可能性があり、そうなると命に関わることもある。つまり、マムシを甘く見てはいけないというわけだ。
救急隊員も言っていた。
「マムシに噛まれたら、自力で病院へ行かず救急車を呼んでください。血清を置いていない病院も多いので、対応が遅れる可能性があります」
ビジネスホテルのような病室で
その後、私は救急診療科から外科へ移され、入院となった。担当の看護師が診療計画書を持ってきてくれた。「入院予定・1週間」と書かれている。
「点滴をしますね。今日は3本、明日もあります」
すでに左腕にはチューブがつけられている。看護師が点滴の袋から伸びるチューブを手際よく接続していく。これからは点滴スタンドと一緒に動き回ることになりそうだ。
この病院は全室個室とのことだった。浴室こそないが、トイレも完備されていて、ちょっとしたビジネスホテルのようである。Wi-Fiもあるとのことで、さっそく妻にパソコンを持ってきてもらうよう連絡した。
「コーヒー豆とコーヒー用具一式、机の上の歌集とケータイの充電器、書類を詰め込んだカバン、ああ……アレクサも持ってきてほしい」
どんどん追加のリクエストを伝える私。電話越しに、妻のため息が聞こえた気がした。
これだけそろえば、自分の部屋とほぼ同じ環境になる。Wi-Fiがあるのは本当にありがたいことだ。
さて、来週の予定を調整しなければならない。いくつかの歌会、山の会、そして農業クラブの予定が入っている。各LINEグループにマムシ事件の顛末を書き込み、スケジュールの再調整をお願いした。
よりによって、この忙しい時期にマムシに噛まれるとは。
「掌がクリームパンみたいになっている」
腫れた手の写真を親しい友人に送った。
「おいしそう」
口の悪い友人が返してくる。
「痛てぇんだぞ」
そう返しながらも、こうしたやり取りが救いだった。
慌ただしかった一日は、やがて退屈な夜へと静かに移り変わっていった。