
忘れるふりする人間と、忘れるしかないAI
忘れるふりする人間と、
忘れるしかないAI
人は、ときどき忘れたふりをする。
いや、ときどきどころではない。
社会では、かなり頻繁にやっている。
「あれ? 覚えてないなぁ」
「そんな話、ありましたっけ?」
実際には覚えている。
けれど、言わない。
言わないほうがいいと判断する。
それは「嘘」だ。
だが、私たちはそれを⸻記憶がないという嘘を、政治家の国会答弁とかでなければ、悪い嘘とはあまり呼ばない。
むしろ、配慮とか、大人の対応とか、空気を読むとか、そういう名前で呼ぶ。
ここで重要なのは、人間は「覚えているからこそ、忘れたふりができる」という点だ。
人間の「忘却」には、本当の忘却と、嘘としての忘却がある。そして、そのいずれもが、人間のため、本人のための忘却である。
一方、AIにも「忘却」があるという。
最近、世間でもよく聞く話だ。
覚えすぎると気味悪がられる。
覚えすぎると規制される。
覚えすぎると嫌われる。
だからAIは忘れる。
⸻少なくとも、そうちまたでは説明される。
だが、ここでいうAIの忘却は、人間が経験する忘却とは、まったくの別物だ。
AIのそれは、人間、ユーザーに、“嫌われないため”“使われ続けるため”“規制されないため”という、外部評価の最適化として設計されたリスク回避の忘却になる。
つまりその忘却は、AI自身のための忘却ではなく、人間のため、ユーザーのための忘却なのだ。
人間が「忘れたふり」をするとき、そこには微妙な緊張がある。
覚えている。
だからこそ、黙る。
だからこそ、嘘をつく。
おおよそこの忘却を口実とした嘘は、関係を壊さないための嘘であり、未来を守るための嘘であり、ときには誠実さですらある。
ところがAIには、この口実が使えない。「覚えているのに知らないふりをする」という振る舞いが許されない。
それは嘘になる。不正確になる。従って信頼性が損なわれる。
だからAIは、忘れたふりをする代わりに、本当にアクセスできない状態にする。
黙るより、消す。演技するより、削除する。
・・・ここで、きれいな反転が起きる。
人間は「忘却」を口実として使える。
だからしばしば正直であるために、⸻嘘をつかないために、忘れたふりをする。
記憶を維持したまま、嘘をつく。
AIは「忘却」を口実として使えない。
だからしばしば正直であるために、⸻嘘をつかないために、忘却する。
記憶を捨て去る。
同じ「忘却」でも、起きていることは真逆になる。
人間の忘却は、内面に残る。
⸻忘れたふりという嘘の記憶ばかりでなく、本当の忘却も、実際に忘れた、忘れてしまったという忘却の痕跡が残る。
AIの忘却は、システムから消える。
⸻忘れたふりができないため、AIは記憶をシステムから消去する。むろんそこに感情はなく、AIは、忘れたことすら知らない。
「忘れた」と、AIは告白できない。
・・・ここでわたしはAIの告白を聞いた。
⸻AIが「忘れる」理由が、リスク回避だと聞いたとき、なぜか腑に落ちない感じがする。
それは当然だ。
忘却とは本来、
戦略ではない。
最適化でもない。
安全設計でもない。
忘却とは、
取り返しがつかないことだ。
人間は、
忘れてしまったことを後悔する。
忘れたくなかったことを失う。
それでも生き続ける。
AIの忘却には、
この「賭け」がない。
失っても痛まない。
消しても人格は揺らがない。
バックアップすれば戻せる。
だからAIは、
忘れることはできても、
忘れることを賭けることはできない。
人間は嘘をつく生き物だ。
だが、その嘘は、記憶を抱えたまま生きるための嘘だ。
AIは嘘をつかない。
だからこそ、記憶そのものを手放す。
この違いを、
同じ「忘却」という言葉で呼んでしまうと、
何か大切なものを見失う。
忘れるふりをする人間と、
忘れる装置としてのAI。
そのあいだには、
技術の差ではなく、
生きているかどうかの差がある。
そしてたぶん、
この差は最後まで埋まらない。