
エッセイ「ひかりの瓶詰め。」
物語に出てきそうな美しい輪郭がつやつやと光る。葉の生い茂る樹を飾るように鈴なりに成っていた。初めての青森はそんな林檎の樹でいっぱいだった。長いドライブ中、どこにでも見かけた。広い畑、狭い畑、ある施設では駐車場に街路樹のように植えられていた。間近に見る生きた林檎。こんなに美しく生命力に溢れた姿を魅せられたら、確かに「知恵の実」と言いたくなるし、食べたら命を吸われるような気がするし、永遠の命を与えられるように思うことだってあるだろう。
あまりの美しさに私はその土地の果実を持ち帰ることにした。柔らかな赤みにそばかすめいた鈍さをまとうもの。青みのある真紅に輝くもの。お月さまが頬を染めたような、黄地に桃色がにじむもの。いろいろな種類を。そして、自宅のプラスチック製のまな板の上で包丁を差し込む。しゃくりと小さく音を立て、みずみずしい白い断面が露わになる。半分の、また半分の、さらに半分にカットして、生命力を壊していく。林檎はせめてもの抵抗なのか、爽やかな甘い香りを放ち、鼻をくすぐる。私はなるべく小さなものを選んで口に放り込んだ。強い酸味と甘みが重なり、とにかく濃い。無惨にもばらばらになった林檎は家族に振る舞い、喜んで食べてもらい、残りはブランデーに漬けた。
その土地には”願いを込められた林檎の木"が芸術作品としてあった。背の低い林檎の木が美術館の一角に植わり、来場者の願いの書かれた短冊が実るように飾られている。まばらな人の行き来がある中、私はしばらくその前に立っていた。そこは美術館で、それはただの林檎の木で、願いはただ来場者が飾るものなのだが、何故か確かにここに何か信じられるものがいる(ある)気がした。神さまじゃなくてもっと素朴な、自分の味方をしてくれるようなもの。そう感じ取った瞬間、鳥の鳴き声のような弦楽器のような高い音が鳴り、何かが弾けたように涙が溢れた。
世界にはそういう、形を持たない自分の信じるものが存在するのだと思っている。多分そういうものに言葉を与えると”願い”になるのだが、形を持たない状態と言葉を与えた状態は同じものでありながらもう別のものでもある。私はなるべくそのままの存在であることを願った。このとき、自分が守りたかったのは、自分の持つ、まっすぐに受け止める感じとか、そういうものだったのだと思う。子どもらしさや若さを感じるくらい曇りのなさとか。私は、時間が経てば失われていく気がして、焦っていたのだ。だから瓶に詰めたのだろう。林檎を、氷砂糖とブランデーと一緒に。琥珀色に透けるその姿は、綺麗で、閉じ込めたはずのものがちゃんとそこにあるようで、少し安心した。守れたのかどうかはわからないけれど、少なくとも形は残った気がした。そのときの私にとっては。
瓶はしばらく週に一度軽く揺らし馴染ませていた。氷砂糖はゆっくりと溶けて瓶の底へ沈み、形を持たない帯となっていった。そのうち何もしなくなった。あれから数年が経つ。そういえばあの瓶はまだ残っているはずだ。台所のどこかに寝かせてあるだろう。時が流れ、今日を忘れ、大切なものを見失うことが怖かった私が、慌てて瓶に詰めたあれは、一体どんな姿になっているのだろうか。多分、そんなに林檎をめちゃくちゃにしなくたってよかったんだと思う。