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【完結済】世界を説得する魔法:あるいは、人格融解を拒むノイズについて 第1話

    あらすじ:
    人の気持ちが分かれば、誰も傷つかないはずだった。
    魔法によって発展した近未来。
    若者たちの間では、感情を共有できるアプリ「EmoSync」が流行していた。
    人の感情を受け取りすぎてしまう高校生・リオがそのアプリを使い始めると、世界は驚くほど快適になった。
    会話は噛み合い、人間関係の摩擦は減り、孤独も薄れていく。
    だがある日、リオは気づく。親友の笑い声が、自分の記憶から少しずつ消えていることに。そして、自分自身の輪郭さえ曖昧になり始めていることに。
    人は本当に、完全に理解し合うべきなのか。
    これは、人と人との「ズレ」が持つ意味を巡る近未来ファンタジー。

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門 #小説 #連載小説  #SF #近未来

    第一話

    「え待って、それ向こうから告白してきたの?」
    「そう! いきなり! 放課後に呼び出されて!」
    「うそじゃん最高じゃん、映画じゃん」
    サトミの彼氏報告で昼休みの温度が三度くらい上がっていた。リオも前のめりになって話を聞きながら、ここで「続き続き」のリアクションを入れるか「えーヤバ、そのセリフ言える男子います?」を入れるか一瞬だけ計算して、後者を選んだ。狙い通り、また悲鳴みたいな笑い声が上がる。
    楽しい。本当に楽しい。こういう昼休みが好きだ。
    ただ。
    リオはふっと背もたれに体重を預けた。誰かのテンションが上がるとリオも上がる。誰かが笑うとリオも笑いたくなる。それは本当のことなんだけど、20分ずっとこの熱量にいると、なんか情報量多いな、という感覚がうっすら来る。疲れた、とは少し違う。人混みで気圧される感じに近い、かもしれない。うまく言えないやつ。
    昔からそういうところがある、とは分かってた。ただ、それが自分にとって何なのかをリオはあんまり掘り下げないようにしていた。考えすぎてもどうにもならないし、別に今が嫌いなわけじゃないから。
    「ねえリオ」
    声のトーンが変わった。
    振り向くと、ユイが弁当のふたを閉めながらリオを見ていた。賑やかな輪から少し引いた場所に、いつの間にか移動している。
    「ちょっと来て」
    窓際に連れ出されると、ユイが「はい」という顔でスマホを向けてきた。
    淡い桜色のインターフェース。「EmoSync」というロゴ。
    「なにこれ」
    「感情同期のアプリ。先週から使ってんだけど、これ絶対リオ向きだと思って」
    「私向き?」
    「うん。なんか、周りの気持ちとかって分かる感じする?」
    「……まあ」
    「それが整理される感じになるの。使えばわかる」
    「使えばわかるって、雑すぎない?」
    「だってうまく説明できないんだもん」ユイが少しだけ眉を寄せた。
    「さっきなんか疲れてなかった? ずっと背もたれに持たれてた」
    「別にそれは普通に」
    「リオって疲れてるとき一回だけ右肩を上げるじゃん」
    「え、してた?」
    「した」
    リオは思わず自分の右肩に触れた。確かに上がってた気がする。自分では気づいていなかった。
    「……なんで知ってんの」
    「長いから」
    ユイが当然のように言った。
    リオは一瞬だけ言葉に詰まった。
    そういうところだ。リオが気付かないことを、ユイはよく見つける。
    「試すだけ試してみ」
    「試してみ、って言い方よ」
    「リングをここに合わせて、受け入れるを押すだけ。簡単」
    「なんか詐欺の手口みたいな説明だけど」
    「違うから!」
    笑いながら人差し指のリングをかざして、「受け入れる」をタップした。
    一瞬、何かが変わった。
    というより、ずっとそこにあったはずのざわざわが、なくなった。
    電波が入ったときみたいな感じ、とリオは思った。ずっとノイズだと思ってた音が急に音楽に聞こえるみたいな。さっきまで全部まとめて「教室の熱量」として受け取っていたものが、ちゃんとそれぞれ分かれて聞こえてくる。サトミは本当に幸せそう。後ろの席の子は少し眠い。そして、自分のは自分だと感じる。
    (これ、ずっと欲しかったやつじゃない?)
    「どう?」
    ユイがのぞき込んできた。心配と期待が半々の顔。
    「……なんかすごい」
    「でしょ!」
    「なんで今まで教えてくれなかったの」
    「言おうとしてたんだけど、タイミングなくて」
    「早く教えてよ」
    ユイは「だから教えてる!」とリオの背中を軽く叩き、リオは思わずせき込んだ。一拍おいて、二人で笑った。
    ユイの気持ちが、ふわっと伝わってきた。心配してたんだな、というのが、なんとなく分かった。ずっとそうだった、というのも、なんとなく。言葉にしてもらわなくても、こういうのが伝わってくるのは、たぶんユイとの付き合いが長いせいだけじゃない、かもしれない。

    昼休みが終わる少し前、リオはなんとなく教室を見回した。
    みんなが笑っていた。サトミの話がまだ続いていて、聞いている子たちがちょうどいいタイミングで反応している。会話がなめらかで、誰も言葉に詰まらなくて、空白もない。
    楽しそう。
    楽しそうなんだけど。
    (なんか)
    うまく言えなかった。楽しそうなのは本当だし、居心地が悪いわけでもない。ただ、なにか砂粒みたいなものが一粒だけ、胸の端に引っかかった。
    名前がつけられないまま、チャイムが鳴った。


    五時間目が始まって最初の十分、リオは自分がいつもと違うことに気づいた。
    違う、というのは大げさかもしれない。ただ、なんか頭が軽い。それだけだった。
    いつもの五時間目は、昼休みの熱量を引きずったまま教室に戻ってくる感じがあった。誰かが楽しそうにしてると釣られて、誰かが眠そうにしてると自分もなんか重くなって、気づいたら授業の内容より周りの空気の方を処理していた。疲れる、ともまた違う。なんとなく、情報量が多い、という感じ。うまく言えないやつ。
    それが、今日はない。
    隣の席の子が少し眠そうにしているのは分かる。後ろの席の子が問題を解けなくてちょっと焦っているのも、なんとなく伝わってくる。でもそれが、前みたいに自分のところまで流れ込んでこない。ちゃんとあの子のもの、として受け取れる。
    (あー、これか)
    リオはシャープペンを回しながら、じわじわと実感した。
    別に、人の感情が嫌いだったわけじゃない。むしろ誰かが嬉しそうだと自分も嬉しくなるし、友達の話を聞いてるとき楽しいのは本物だ。ただ、たまに「これ今の自分の気持ちだっけ?」ってなる瞬間があって、そこだけがずっとよく分からなかった。
    それが今日は、ない。
    自分のは自分のまま、ちゃんと手元にある。
    めっちゃいいじゃん、とリオは思った。
    六時間目は体育で、更衣室に十五人くらいが一気に詰め込まれた。いつもなら一番しんどい空間だった。狭くて、声が重なって、誰かのテンションに誰かのテンションが乗っかって、全部まとめて受け取ってしまう感じ。中学のとき、体育の前だけなぜかいつも頭痛がしていた時期があって、でも体育が嫌いなわけじゃないからずっと理由が分からなかった。
    今日は違った。
    「リオネイルかわいい、それ最近のやつ?」
    「そう!先週塗った。ラベンダーにラメ重ねたら思ったよりよくなって」
    「え見せて、あーほんとだ、めっちゃ光るじゃん」
    会話が楽しかった。ただ楽しかった。余計なものが混じってこなかった。
    更衣室を出るとき、リオはふと、自分がいつもより元気なことに気づいた。体育の前なのに。
    放課後、ユイと並んで廊下を歩きながら、リオは言った。
    「あのさ、EmoSync」
    「うん」
    「なんか今日めっちゃよかった」
    「でしょ!」ユイが少し声を上げた。「言ったじゃん、合うって」
    「でも最初信じてなかったじゃん私」
    「信じてなかったね」
    「詐欺っぽいって言った」
    「言ったね」
    「ごめん」
    「いいよ別に」ユイが笑った。「どうよかったの」
    「なんか、頭が軽かった。情報量が減った感じ」
    「分かる。私も最初そう思った」
    「ユイって前から使ってたっけ」
    「二週間くらい前から」
    「なんで教えてくれなかったの」
    「言ったじゃん、タイミングなくて」
    「絶対忘れてたでしょ」
    「……半分くらい」
    リオは笑った。ユイも笑った。
    「でもさ」とユイが続けた。「リオって昔から、人の多い場所で疲れること多くなかった?」
    「まあ、ちょっとはね」
    「ちょっとじゃないと思うけど」
    「……まあ」
    「それが楽になるなら、ずっと使えばよくない? 私はそういう感じで使ってる」
    その言葉が、耳の奥でしばらく残った。ユイの声にいつになく真剣さが混じっていたからだ。
    否定はできなかった。今日一日を思い返すと、普通に楽しかった。楽しかっただけだった。それ以上でも以下でもなかった。あの、うっすら続く情報量の多さがなかっただけで、こんなに違うんだと思った。
    「……これずっと使えるもんなの?」
    「普通のアプリだから、解約しない限りは」
    「無料?」
    「基本は無料。深度上げると課金が必要みたいだけど、今の設定のままで十分だと思う」
    「深度って何」
    「なんか、どのくらい繋がるかの設定。私は一番低いやつのまま使ってる」
    「へえ」
    リオはスマホのアプリ画面を開いて、設定をちらっと見た。深度、という項目がある。今は1になっていた。指で触れると、2、3、4と数字が並んだ。上げると何が変わるんだろう、とは少し思ったけど、今のままで十分だったから、閉じた。
    「ねえ、もしかして私、これでだいぶ変わるかも」
    「変わるって?」
    「なんか、最近は人の話を最後まで聞いても疲れにくい」
    ユイが少しだけ嬉しそうな顔をした。何も言わなかったけど、そういう顔だった。昔から、ユイは人の変化を喜ぶ。

    ユイと別れた電車の中で、リオはぼんやりと窓の外を見ていた。夕方の住宅街が流れていく。
    中学のとき、音楽を聴きながら通学するのが好きだった。理由はなんとなくだと思っていたけど、今ならちょっと分かる気がする。ヘッドホンをつけていると、周りの人の気配が少し遠くなって、自分の中が静かになったから。あれも、たぶん同じことだった。
    EmoSyncの方が、ずっといい。音楽は周りをシャットアウトするだけだったけど、EmoSyncは周りが分かった上で自分でいられる。
    (これ、ちゃんと続けてみよう)
    大げさな決意じゃなかった。便利なものを見つけた、という感覚に近かった。
    電車が揺れて、隣に立っていたサラリーマンの疲労感がふっと伝わってきた。あ、この人今日しんどかったんだな、と思った。EmoSyncがあると、こういうのもちゃんとその人のものとして受け取れる。もらいすぎない。それだけで全然違う。気持ちが、楽すぎるくらい楽になっていた。
    窓の外に、夕焼けが広がっていた。
    悪くない一日だった、とリオは思った。


    三時間目の魔法理論は、リオがわりと好きな授業だった。
    暗記が少ないのがいい。術式の手順より「なぜそうなるか」の理屈を問われることが多くて、その理屈が分かれば応用できる。頭ごなしに「こう動かせ」じゃなくて「こういう仕組みだから、こう動く」という説明の仕方が、リオには合っていた。
    今日の担当は津田先生で、授業が始まるなり黒板に一行だけ書いた。
    「術式は、世界への説得である」
    「術式を使うとき、私たちは何をしているか」
    津田先生は黒板を背にして、教室を見渡した。眼鏡の奥の目がちょっと楽しそうなのは、理屈を話すとき機嫌がよくなるいつもの顔だ。
    「エネルギーを放出している、という説明は正確ではありません。私たちは世界に対して『こうであってほしい』という認識を提示している。世界がそれを受け入れたとき、現実が変化する。それが魔法です」
    リオはノートに「世界への説得」とメモした。
    なんか分かる気がする。術式を使うとき、力を込めるより、お願いする感覚に近い。水の重さを軽くする術式も、鍵を開ける術式も、「こうなってほしい」を世界に向けて言い続ける感じだ。
    「では、なぜ一人より複数人の方が強い術式を使えるか」
    「声が揃うから?」
    誰かが言った。先生が頷く。
    「原理的にはそうです。複数の人間が同じ認識を持ち、同じ意味を世界へ向けたとき、その説得力は個人の総和を超える。これが同期詠唱の基礎です」
    黒板に矢印が増えていく。一人の矢印、複数の矢印、それが束になって一方向を向く図。
    リオは図を見ながら、へえ、と思った。一人じゃ届かないものが、揃えば届く。当たり前といえば当たり前だけど、魔法の話でそう言われると、なんか改めて納得できる。
    「現代の都市インフラの大部分は、この集団同期によって支えられています」
    窓の外をちらっと見た。空に薄く浮かんでいる交通ガイドのホログラム。あれも誰かの、というか誰かたちの魔法で動いている。この街に住み始めた頃から当たり前すぎて意識したことがなかったけど、全部大勢の認識が揃って動いているんだ。
    「昨日のあれと似てるかも」
    思わず口から出た。ユイが「何が?」という顔をした。リオはノートを指さして「EmoSync」と口だけ動かした。ユイが少し考えて、小さく頷いた。
    「実際に体験してみましょう」
    先生が言って、クラス全員でリングを構える。簡単な光球の術式で、複数人で同時に詠唱するやつだ。何度かやったことがある。
    「一人でやってみて」
    先生に指名されたのは窓際の子で、その子が唱えると小さな光球が浮かんだ。薄くて、少し揺れている。
    「では全員で」
    先生の合図で、クラス全員が同じ詠唱を唱えた。
    光が、さっきとは全然違う密度で室内に広がった。
    「おお」と誰かが言った。リオも普通に驚いた。何度やっても、この差はちょっと気持ちいい。一人のときの頼りなさが、声が重なった瞬間に全部まとまって、世界に届く感じ。
    「これが同期の原理です」と先生が言った。「個人の限界を、集団で超えている」
    リオはさっきの光球を思い出しながら、ノートに何も書かなかった。書かなくてもよかった。体で分かった気がした。
    授業の後半は社会史の話になった。個人詠唱の時代から集団同期へ、という話で、正直そっちはリオには少し難しかった。ただ、現代の都市が同期を前提に設計されているという部分は、窓の外を見ていたら素直に納得できた。
    「同期技術の発展が、現代社会の発展と重なっているのは偶然ではない」と先生は言った。「より多くの人が同じ認識を共有できるようになるほど、社会全体の術式精度は上がる。現代の同期デバイスはその延長線上にあります」
    それだけ言って、先生はチョークを置いた。
    へえ、とリオは思った。EmoSyncも、そういうものの一つなんだ。なんとなく便利だから使われているんじゃなくて、もともとそういう方向に世界が進んできたんだ。
    授業が終わって、ユイが「さっきEmoSyncって言ってたのそれ?」と聞いてきた。
    「なんか、複数人が認識を揃えると届く、って話が、昨日の感じと似てて」
    「確かに。同じ話だよね」ユイが頷いた。「授業で習うくらいだから、ちゃんとした話なんだ」
    「なんか、昨日楽だったのも、そういうことだったのかなって」
    うまく説明できるわけじゃなかった。ただ、EmoSyncを使ったとき気持ちよかった理由と、さっき光球が広がったときの感じが、どこかで繋がっている気がした。
    なんとなく、全部同じ方向を向いてる感じ。
    一人じゃできないことが、揃えば届く。それって悪くない考え方だよな、とリオは思った。
    (そういえば、深度って何なんだろ)
    少し気になったけれど、今は別に困っていない。リオは窓の外へ視線を向けた。
    窓の外で、交通ガイドのホログラムがゆっくりと動いていた。


    EmoSyncを使い始めて、一週間が経った。
    特に何かが劇的に変わったわけじゃない。ただ、毎日が少しだけ軽い。それだけだった。
    昼休みも、放課後も、誰かと話しているときの「情報量多いな」がほとんどなくなった。人の気持ちが分かる感じはそのままで、でも引きずられない。自分のものは自分のものとして手元に残る。これが普通になってきて、逆にEmoSyncを使う前がどんな感じだったか、あんまり思い出せなくなってきた。
    まあ、いいか、とリオは思っていた。

    木曜日の昼休みに、グループワークの準備でサトミたちと机を合わせた。文化祭の出し物を決める話し合いで、去年は最初に全員が違う案を出してそこそこ揉めた記憶がある。今年はどうなるか、とリオは少しだけ構えていた。
    「私はカフェがいいかな」とサトミが言った。
    「いいと思う」と隣の子が即座に返した。
    「カフェ楽しそう」とその隣の子も続く。
    リオも「確かに、カフェいいよね」と言った。思ったから言った。カフェは楽しそうだ。
    15分で決まった。
    全員が拍手するわけでも、ハイテンションになるわけでもなく、ただ自然にまとまった。誰も押し切った感じがしないし、誰も妥協した顔をしていない。するっと決まった。
    「早かったね」とユイが言った。
    「ほんとに」とリオは返した。
    楽だった。楽だったんだけど。
    リオは机の表面をぼんやり見た。去年の文化祭の話し合いは、確か一時間くらいかかった。喫茶店派とお化け屋敷派に分かれて、どっちも譲らなくて、最終的に多数決になって、負けた方が少しだけ不満そうだった。それが全然なかった。
    別に、それでいいんだけど。
    いいんだけど、なんか。
    (今日みんな、めっちゃ調子いいな)

    午後の移動時間、廊下でクラスメートのマミと少し話した。マミとはそんなに仲良くないけど、EmoSyncを使ってから話しかけやすくなった気がして、最近たまに話す。
    「昨日のドラマ見た?」
    「見た見た」とマミが返した。「最後のシーン良かったよね」
    「分かる、私もそこ好きだった」
    テンポが良かった。どこにも引っかかりがなかった。マミが言ったことにリオが乗れて、リオが言ったことにマミが乗れて、会話がなめらかに流れていく。
    楽しかった。
    廊下の端まで歩いて別れた後、リオはなんとなく振り返った。マミがちょうどよいタイミングで別の子と話し始めていた。その子もちょうどよいタイミングで反応していた。
    廊下全体が、なめらかだった。
    誰かが立ち止まることも、言葉に詰まることも、話しかけるタイミングを間違えることも、ない。みんながちょうどいいところにいて、ちょうどいい速度で動いている。
    綺麗だな、とリオは思った。
    綺麗、というのは悪い意味じゃなかった。ただ、綺麗という言葉しか出てこなかった。

    放課後、ユイと二人でファミレスに寄った。
    注文を済ませてから、ユイが「最近調子どう」と聞いてきた。
    「いい感じ。EmoSyncのおかげかも」
    「よかった」ユイが微笑んだ。「なんか変とかない?」
    「変?」
    「慣れてきた感じ、とか」
    「あー、なんか普通になってきた。使う前がどんな感じだったか忘れてきた」
    「私もそうだった」ユイが頷いた。「最初はすごく実感あったけど、今は普通。でも外したときに分かる感じ」
    「外したことある?」
    「一回だけ。なんか頭が重くなった」
    「へえ」
    ドリンクバーから戻ってきたユイが、向かいに座った。
    リオはそのとき、ふと気づいた。
    ユイと話していて、どこにも引っかかりがない。それ自体はEmoSyncを使う前からそうだった。でも今日の会話は、引っかかりがないだけじゃなくて、なんか、ずっと答えが揃っている感じがする。リオが何かを言うと、ユイがちょうどいい反応を返す。ユイが何かを言うと、リオもちょうどいい反応ができる。どちらかが意外なことを言う瞬間が、ない。
    楽しい。楽しいんだけど。
    「ねえユイ」
    「うん」
    「最近さ、なんか怒ったりとかした?」
    「怒る? なんで?」
    「なんか聞きたくなった」
    ユイは少し考えてから、「んー、特にないかな」と言った。
    「なんか最近、そういう気持ちになりにくい気がする。EmoSyncのおかげかな」
    「そっか」
    リオは自分のグラスを持ち直した。
    ユイが怒らなくなったのは、別に悪いことじゃない。リオだって最近あんまり疲れないし、むしろいいことだ。EmoSyncを使い始めてから、教室の空気が良くなったのも、文化祭がすんなり決まったのも、全部そういうことなんだと思う。
    それで、いいんだと思う。
    ただ。
    リオは窓の外に視線を逃がした。夕方の街が、整然と動いている。
    どこに引っかかっているのか、うまく言えなかった。引っかかっているのかどうかも、実は自分でも分からない。楽しかった。一日中楽しかった。みんな優しかったし、会話は弾んだし、疲れなかった。
    ユイが「何かある?」と聞いてきた。ちょうどいいタイミングで。
    「ううん、なんもない」
    そう答えたら、ユイが「そっか」と笑った。ちょうどいい笑顔で。
    それと同時に、彼女の手はグラスにぶつかり、倒しそうになる。
    あたふたとコップを支えるユイは、いつものユイに見えた。
    (気のせいかな)
    リオはそう思って、グラスに口をつけた。
    気のせいだと思った。思ったから、もう考えなかった。


    深夜一時を過ぎた監視室は、サーバーの冷却ファンと蛍光灯のかすかなノイズだけが支配していた。
    榊恒一は三枚並んだモニターの前で、第七学区の感情同期ログをスクロールしていた。若年層フィルタ、時間帯別、エリア別。絞り込むたびに画面の密度が変わる。これを毎晩やっている。異常があれば拾う。なければ報告書に「異常なし」と書いて帰る。そういう仕事だ。
    今夜は、異常がなかった。
    それが問題だった。
    「先輩、これ見ました?」
    後ろから声がした。矢島が自席から転がってきて、恒一のモニターを覗き込む。今月で二年目になる後輩で、仕事は丁寧だが、この時間でもまだテンションが落ちない。
    「第七学区の今週分です。綺麗じゃないっすか」
    矢島が指さしたのは、週単位でまとめた感情波形のグラフだった。
    綺麗だった。
    本当に、綺麗だった。
    通常この手のグラフは、個々人の感情が干渉し合うことで、細かい凹凸が無数に発生する。誰かが不機嫌になり、誰かが興奮し、誰かが落ち込む。その個体差が重なって、全体として複雑な波形を作る。それが普通だ。

    しかし今週の第七学区の若年層ログは、まるで定規で引いたように整っていた。個体差が、ない。全員がほぼ同じ周期で、ほぼ同じ振れ幅で動いている。
    「何が綺麗なんだ」
    恒一は言った。
    「いや、安定してるってことですよ。ストレス指数も低いし、対人摩擦のフラグもほとんど出てない。学区全体でこれだけ揃うのは珍しいですよね。何かイベントでもあったのかな」
    「イベントがあっても、こうはならない」
    「そうっすか?」
    矢島が首を傾げた。疑っているわけではなく、純粋に分からない顔だ。
    「お祭りとか、学校行事とか、そういうときって全体的に上振れしますよね。それに近い感じじゃないっすか」
    「上振れじゃない」恒一はグラフの一点を指で示した。「個体差が消えてる。祭りがあれば、楽しい人も面倒な人も、テンション上がる人も疲れる人もいる。それが混在するから、全体として賑やかな波形になる。これは違う」
    矢島がモニターを見直した。
    「……確かに、全員同じ方向っすね」
    「ああ」
    「でも、それって悪いことなんすか? ストレスが低くて、摩擦が少なくて、みんな安定してる。数字だけ見たら、むしろ良い状態じゃないっすか」
    恒一は答えなかった。
    矢島の言いたいことは分かる。数字だけ見ればそうだ。ストレス低い、摩擦なし、安定。報告書に書けば、どこから見ても問題のないデータだ。上に出しても、おそらく誰も引っかからない。
    それでも。
    「人間のデータに見えない」
    恒一は静かに言った。
    「どんなに仲のいいグループでも、個体差は出る。体調も、機嫌も、その日に何があったかも、全部違う。それが波形に出る。出ないということは」
    「出ない、ということは?」
    「どこかで均されてる」
    矢島がしばらく画面を見た。
    「均されてる、って、誰かが操作してるってことっすか」
    「分からない」
    「でも、自然にこうなることはない、と」
    「こういう波形は見たことがない」
    それだけ言って、恒一はコーヒーを一口飲んだ。冷えていた。いつ淹れたか覚えていない。
    矢島が自席に戻ってから、恒一は一人でログを掘り下げた。
    エリアを絞る。第七学区の中でも、特に若年層の密度が高い区画。学校が複数ある区画。そこだけ切り出すと、波形の整合性がさらに高くなった。外縁部より、学校に近いほど綺麗になっている。
    時間軸で見ると、三週間前から始まっている。
    恒一はカレンダーを確認した。三週間前。特にイベントはない。祝日でも、地域行事でもない。ただの平日だ。
    何かが、その日から変わっている。
    証拠はない。異常値は出ていない。どのパラメータも正常範囲内に収まっている。「綺麗すぎる」というのは、数値ではなく感覚の話だ。報告書には書けない類の話だ。
    しかし恒一は、この仕事を十年続けてきた。
    正常範囲内に収まりながら、じわじわと悪化する状態を、何度か見てきた。数値が異常を示したときには、すでに手遅れになっていたケースを、知っていた。
    「矢島」
    「はい」
    「今週の第七学区、記録に残しておけ。異常扱いじゃなくていい。ただ、ログを別にとっておけ」
    「理由は何て書きますか」
    「経過観察」
    「……了解っす」
    矢島は少しだけ間を置いてから、「先輩の嫌な予感っすか」と言った。
    「うるさい」
    「当たるんっすよね~それ」
    「黙って記録しろ」
    矢島が「はーい」と言って、キーボードを叩き始めた。
    恒一はモニターに向き直った。
    画面の中で、第七学区の波形が静かに揺れている。いや、揺れていない。揺れているように見えて、その実、ほとんど動いていない。鏡の表面に似ている、とさっき思った。鏡は揺れない。鏡は何も感じない。鏡には、個体がない。
    あの学区の高校生たちは、今ごろ眠っているはずだ。
    眠っている人間の波形は、それぞれが少しずつ違う。夢を見ている人、浅い眠りの人、深く落ちている人。その差が、データに出る。
    今夜の第七学区の夜間ログは、全員が同じ深さで眠っているように見えた。
    恒一はそれを見て、初めてはっきりと、背筋が冷えた。
    (これは、おかしい)
    証拠はない。説明もできない。ただ、おかしい。
    窓の外に広がる夜の都市を、恒一はしばらく眺めた。どこかに、あの波形の中心がある。どこかに、この「綺麗さ」の発生源がある。それが何なのかは、まだ分からない。
    分からないまま、もう少し見る必要があった。


    EmoSyncを使い始めて、もう少しで二週間が経つ。
    特に意識していたわけじゃないけど、最近の教室はなんとなく、全体的に調子がいい。誰かが話しかけるタイミングがいつもちょうどよくて、話が途中で止まることがなくて、誰もはじかれない。それが毎日続いている。
    「リオ、今日の小テストの範囲、ここだったよね」
    教科書を開こうとしたまさにそのタイミングで、ユイが声をかけてきた。
    「あ、うん、ありがとう」
    ユイが微笑む。きれいな微笑みだった。向けられる言葉は、いつも的確だ。
    その顔を見ていたら、ふと先週のことを思い出した。
    「感謝感激雨あられ」を盛大に言い間違えて、教室中に聞こえる声で笑っていたやつ。思い出して、ちょっと笑いそうになった。
    「何?」
    「いや、なんでもない」
    今日のユイはそういう感じじゃなかった。
    別に、それが悪いわけじゃない。ただ、なんかそういうことが最近少ない気がした。
    「リオ? 何か気になることでもあった?」
    ユイが首を傾げた。タイミングがよかった。リオが黙った、ちょうどそこに来た感じの。
    「ううん、なんもない」
    そう言ったら、ユイが「そっか」と笑った。
    授業が始まって、リオはぼんやり教室を見た。みんないい感じに座っていて、先生の話を聞いていて、隣同士でたまに目を合わせて小さく笑っている。誰も難しい顔をしていない。誰も手持ち無沙汰にしていない。
    なんか今日みんな調子よすぎない?
    と思った。思っただけで、理由は全然わからなかった。
    休み時間になって、廊下を歩くと、あちこちで会話が弾んでいた。テンポがいい。引っかかりがない。声が重なっても、誰かが話を遮っても、なめらかに次に繋がっていく。
    綺麗だな、とリオは思った。
    思ってから、少しだけ首をかしげた。綺麗ってなんだ。廊下が綺麗って何。うまく言えなかった。ただ、見ていてなんだか、砂粒みたいな引っかかりが一粒だけ、胸の端にあった。
    名前をつけようとして、できなくて、リオは教室に戻った。


    EmoSync公式ラウンジの存在を知ったのは、ユイからのメッセージがきっかけだった。
    『放課後、寄ってみない? 説明とか何もないから、気楽に来て』
    地図アプリで確認すると、最寄り駅から徒歩三分。商業ビルの二階、かつてカフェだった区画をそのまま転用したらしいその場所は、外から見る限りでは何の変哲もなかった。ガラス張りのファサード越しに、木目調の家具と間接照明が見える。看板には小さく「EmoSync Community Lounge」とあるだけだった。
    扉を押した瞬間、リオが最初に感じたのは、拍子抜け、だった。
    広さはファミリーレストランほど。十五、六人の利用者が、めいめいのペースで過ごしている。ノートパソコンを開いている人、文庫本を読んでいる人、二人で静かに話している人。BGMはなかった。際立って「特別な何か」が起きているようには、見えなかった。
    「最初、みんなそういう顔するんだよね」
    横に来たユイが笑った。「もっと怪しい感じ想像してた?」
    「……少し」
    「ここ、来てる人の半分くらいは週一回だけとか、そういう使い方。毎日じゃなくていいんだって。要は、しんどくなったときの逃げ場みたいな感じ」
    ユイに連れられて奥のソファに座ると、斜め前のテーブルの様子が自然に目に入った。大学生くらいの男性と、高校生らしき女性が、向かい合って話をしていた。初対面に見えた。それなのに、二人の会話には「初対面特有の探り合い」がまるでなかった。相手の出方を待ちながら言葉を選ぶ、あの微細な間と緊張。それが存在しなかった。
    「相手が今どういう状態か、大体わかるから」
    リオの視線に気づいたユイが、小声で説明した。「警戒されてるとか、話しかけてほしくないとか。逆に、話せる余裕があるとか。ちゃんと伝わってくるから、タイミングを間違えにくい」
    「……それって」
    「うん、お互いにね。だから相手も同じように感じてる。踏み込まれても大丈夫ってわかってるから、身構えなくていい」
    リオは少しの間、その二人を見ていた。
    人間関係のすれ違いのほとんどは、確かに「読み違えること」への恐怖から発生していた。気を遣いすぎて言葉を選び、それでも失敗し、後から反省する。あるいは相手の不機嫌を自分のせいだと思い込んで消耗する。EmoSyncは、そのすれ違いを仕組みごと取り除いていた。
    「前にさ、この近くの高校に通ってた子の話、聞いたことあって」
    ユイがカップを両手で包みながら続けた。「クラスに馴染めなくて、二年間ずっと昼休みを保健室で過ごしてたんだって。人の感情を読もうとしすぎて、教室にいるだけで疲れちゃうって言ってた」
    リオは黙って聞いた。
    「その子、EmoSync使い始めてから、普通に教室でご飯食べられるようになったらしくて。別に友達が増えたとかじゃなくて、ただ『いられる』ようになったって。それだけで全然違うって」
    窓の外を、夕方の人通りが流れていく。ラウンジの中は静かだったが、その静かさは「何もない」ではなく、「余分な摩擦が取り除かれた」結果としての静かさに見えた。
    リオには、反論する言葉が出てこなかった。
    保健室で昼食を食べていた子の話が、他人事に聞こえなかったからだ。教室の空気が重くなるたびに、出口を探していたあの感覚。誰かの不機嫌を自分の皮膚で受け止めて、理由も分からないまま消耗していた、あの日々。もしあの頃にこれがあったなら、という問いが頭をよぎった。
    「全員が使うべきとは思ってないよ」とユイは言った。「ただ、必要な人には本当に必要なものだと思う。特に、感じすぎる人には」
    それは、リオに向けて言われた言葉ではなかった。しかしリオには、そう聞こえた。
    帰り道、リオはラウンジの案内ページを開いた。予約ボタンは、思ったより近くにあった。


    最初に異変を自覚したのは、授業中のことだった。
    数学の問題を解いていて、ふと手が止まった。解けないのではなかった。ただ、問題を見ながらリオの胸の中に薄い苛立ちが生まれていて、なぜ自分が苛立っているのかが分からなかった。試験ではない。時間制限もない。苛立つ理由がなかった。
    三十秒後、隣の席の生徒が小さく舌打ちをした。
    その音を聞いた瞬間、胸の苛立ちがすっと消えた。
    (……あれ)
    リオは自分の手元に視線を戻した。隣の生徒の苛立ちを、自分のものとして受け取っていた。それだけのことだった。EmoSyncを入れる前にも、似たようなことは起きていた。他者の感情に引きずられる体質は、昔からだ。今回は、ただそれが起きただけだ。
    そう処理して、リオはシャープペンを動かした。
    しかし同じことが、その週に三回あった。
    昼休み、特に理由のない焦燥感に駆られてスマートフォンを開いたら、一つ後ろの席の生徒が課題の締め切りを気にしていた。放課後、急に胸が重くなって早く帰りたいと思ったら、教室の入口近くで誰かが喧嘩の後処理をしていた。焦燥も、重さも、リオ自身には発生源がなかった。
    それ自体より、リオが気になったのは別のことだった。
    以前なら、他者の感情を受け取るたびに消耗した。皮膚で直接触れるような不快感があって、その感情の持ち主から距離を取りたくなった。今は違った。受け取っても、それほど痛くなかった。流れ込んでも、さほど苦しくなかった。
    楽になっていた。ただ同時に、それが自分の感情かどうかの確認を、しなくなっていた。
    ユイと並んでラウンジへ向かいながら、ふと、この道を通ってピアノ教室に通っていた頃のことを思い出した。でも、そのときの教室はどんなだったか思い出せなかった。
    友達の顔は覚えている。先生の顔も。
    楽しかったことも覚えている。
    教室の空気の手触りだけが薄くなっている気がした。あの場所の感触を思い出したかったのに、出てくるのは「楽しかった」という結論だけで、そこに至る細部が妙に遠かった。
    ただ、思い出すたびに細部の手触りが以前より薄い気がする、という感覚を、リオはうまく言語化できなかった。記憶が消えているわけではなかった。消えていないのに、なぜか奥行きが変わっているような。
    (大分前だし、気のせいかもしれない)
    ラウンジの扉を押した瞬間、その引っかかりは静かに流れていった。
    中に入ると、顔見知りが数人いた。先週話した大学生の男性が軽く手を上げた。リオも自然に手を上げた。何も考えなくて良かった。相手が歓迎していることが分かっていたから、歓迎を返せば良かった。それだけだった。
    椅子に深く座って、リオは自分の一週間を振り返った。
    感情を取り違える回数は増えていた。お気に入りだったラベンダー色のネイルを眺めても、以前みたいに少し気分が上がる感覚が起きなかった。綺麗だとは思う。それだけ。
    ラウンジにいる間は、自分が感じていることが「自分のもの」かどうかという問いが、あまり浮かばなかった。浮かばないから楽だった。
    帰宅したリオは鞄も置かぬまま、玄関ですぐスマートフォンを開き、来週のラウンジの予約を入れた。予約完了の通知を見た瞬間、不思議なくらい気持ちが軽くなった。その理由については、考えないことにした。


    午後の授業中、リオはふと、中学時代にユイに初めてヘッドホンを貸してもらった日のことを思い出そうとした。
    特に理由はなかった。隣に座るユイの横顔を見ていたら、なんとなく思い出したくなっただけだった。
    中学三年の放課後。空き教室。ユイが「これ絶対好きだって」と言いながら、ヘッドホンをリオの頭に乗せた。あの重さ。イヤーパッドが耳に触れた感触。そこまでは出てきた。
    曲が出てこなかった。
    何を聴かされたのか。どんな音だったのか。思い出そうとするたびに、記憶が一枚の白い幕を返してくる。重さと感触はある。でもその先がない。
    (変だな)
    リオは視線をタブレットに戻した。気のせいかもしれなかった。記憶は元々細部が曖昧になるものだ。
    しかし授業が終わり、昼休みになって、リオはもう一度試した。
    購買で一緒に新発売のパンを選んだ日。どちらが正解か言い合いになって、どっちも外れた昼休み。お互いが買った微妙な味のパン2つを分け合った階段の踊り場での何気ない会話。自分の記憶の中にそれを探すと、映像ではなく要約しか出てこなかった。楽しかった、という結論。それを裏付けるはずの、ユイの声の質も、二人がいた場所の光の具合も、何も出てこなかった。
    おかしかった。確かにあったはずの記憶が、出来事の骨格だけを残して中身を失っていた。
    「リオ、どした?」
    ユイが覗き込んできた。その声を聞いた瞬間、リオの胸に何かが込み上げた。ユイの声を聞けば、あの笑い声を思い出せるかもしれないと思ったからだ。音程が少し外れた、でも体全体で笑うような、あの声。
    思い出せなかった。
    目の前のユイの声は聞こえていた。でも記憶の中のユイの笑い声が、もうどこにも見つからなかった。
    「なんでもない」
    そう答えながら、リオの中で何かが静かに傾いた。
    午後の授業が再開して三十分が経った頃、それは起きた。
    視界の端が揺れた。身体の感覚が遠くなった。それ自体は、ここ最近何度もあった感覚だった。しかし今回は引かなかった。引かないまま、教室全体の感情がリオの中に流れ込んでくるのを感じた。誰かの眠気、誰かの焦り、誰かの白昼夢の断片。それらがリオの思考の隙間に入り込み、どれが自分のものか分からなくなっていく。
    (ユイ)
    助けを求めるより先に、名前だけが浮かんだ。
    視線を向けた先のユイは、こちらを見ていた。微笑んでいた。
    笑顔だった。きれいな笑顔だった。リオが知っているどの表情より整っていて、どの角度からも破綻のない、完全な笑顔だった。
    ただ、その笑顔の中に、音程の外れた笑い声がいなかった。
    自分が間違えたことを大声で認めて、それでも笑っていたユイが、いなかった。リオの返事を待ちながら少しだけ眉を寄せていた、あの癖がなかった。リオのことを見るとき、わずかに目が細くなっていた、あの表情がなかった。
    笑顔の形をした、ユイではないものが、そこにいた。
    リオはそれが怖かった。しかし怖いより先に、悲しかった。
    悲しいはずなのに、その悲しささえ遠かった。
    それでも、あの笑い声を、もう一度聞きたかった。音程が外れていても、少しうるさくても、あの笑い声を。記憶の中から消える前に、もう一度だけ。
    その願いが間に合わないことを、リオはその瞬間に理解した。
    白い光が視界を覆う直前、リオが最後に思ったのは、あの日聞いた曲だった。

    メロディは思い出せなかった。

    でも、忘れてはいけないものだった気がした。


    最初に戻ってきたのは、消毒液の匂いだった。

    次に、天井の白。

    それから、一定のリズムで鳴り続ける電子音。

    リオはしばらく、それだけを確認した。自分の名前を、頭の中で呼んでみた。答えが返ってくるかどうか確かめるように。返ってきた。一応、自分だった。
    起き上がろうとして、腕に力が入らないことに気づいた。
    「動くな」
    枕元から声がした。
    見知らぬ男だった。黒いコートを羽織り、壁に背を預けて立っている。年齢は二十代後半くらいか。目の下に濃い隈があった。端末を手に持ったまま、リオの方を見ていた。
    見ていた、というより、観察していた。

    「……ここ、どこ」
    「病院」
    「なんで」
    「倒れたから」

    男は端末から目を離さなかった。答えだけが、最小限の速度で返ってくる。
    リオは天井を見た。脳の内側が、妙に静かだった。あの感覚がなかった。誰かの笑い声の残響も、教室全体から流れ込んでくる感情の濁流も。自分の輪郭だけが、ここにある。
    それが、怖かった。
    怖い、と気づいた瞬間、逆に怖くなった。あの感覚が消えたことが怖いのか、あの感覚があったことが怖いのか、自分でも分からない。
    「気持ち悪くないか」
    男が言った。視線は端末のままだった。
    「……少し」
    「吐きそうなら言え。そっちに桶がある」
    感じは悪かった。でも、桶の場所を教えてくれた。
    「あなた、誰」
    「榊」
    「何をしてる人」
    「監視員」

    リオは少しの間、その言葉を頭の中で転がした。

    「私のこと、監視してたの」
    「お前じゃない」
    榊は端末をスクロールしながら、淡々と続けた。
    「第七学区の感情ログを追ってた。そこにお前が引っかかった」
    「……引っかかった?」
    初めて男がリオを見た。一秒か二秒、値踏みするような目だった。それから視線を戻す。
    「お前は消えかけた」
    部屋の電子音だけが鳴り続けた。

    「消えかけた、って」
    「境界が溶けてたんだよ。もう少し遅かったら、戻せなかったかもしれない」
    リオは何も言えなかった。
    消えかけた。その言葉が脳の中で、うまく意味と結びつかない。でも、あの感覚なら分かる。あの深いところに沈んでいく感触。抵抗したくなかった、あの感触が。

    「……EmoSync、が」
    「分からない」
    榊は遮った。
    「まだ分からない。断言はしない」
    「でも、あれを使ってから」
    「そうかもしれない。まだ調べ中だ」
    短く言い切って、また端末に戻る。

    リオは手の甲を見た。点滴の針が刺さっていた。その針の周りの皮膚が、確かに自分のものだった。この感覚は自分のものだ。今は。でも、あのとき教室で感じていた苛立ちも、焦燥も、あのときは自分のものだと思っていた。
    「同じような人、いるの」
    天井に向けて言った。
    榊の手が、一瞬だけ止まった。

    「なんで聞く」
    「私だけだったら、あなたは来ない気がしたから」
    沈黙があった。
    「最近、似たケースがある」
    それだけだった。それ以上は言わなかった。
    リオは目を閉じた。
    似たケース。複数形だ。自分だけじゃない。自分だけじゃないということは、何かが起きている。自分の感受性が強すぎたわけでも、自分が弱かったわけでも、なかったのかもしれない。

    その考えが、奇妙な引力として胸の奥に落ちた。

    「……何が起きてるの」
    「分からない」
    「でもあなたは追ってる」
    「追ってる」
    「なんで」
    榊は少しの間、何も言わなかった。
    「仕事だから」
    それだけだった。
    感じは悪かった。それでもリオには、その「仕事だから」が、ただの言い訳ではないような気がした。目の下の隈は、数日分じゃない。端末を手放さないのは、話しながらもログを確認し続けているからだ。

    病室の窓の外で、夜が始まろうとしていた。都市の灯りが、遠くに滲んでいる。あの灯りの下で、今もEmoSyncが使われている。あの灯りのどこかで、今も誰かがあの感覚を味わっているのかもしれない。
    リオはまだ怖かった。
    でも、その怖さの輪郭が、少しだけ変わっていた。自分に何が起きたのか分からないという恐怖から、何かが起きているという事実への、静かな傾きに。
    「私に見せてもらえる?」
    天井を見たまま言った。
    「そのログ」
    「無理だ」
    即答だった。
    「なんで」
    「機密だから」
    「じゃあ、あなたが調べてるものを、教えてもらえる?」
    「それも無理だ」
    「……教えてくれないなら、自分で調べる」
    短い沈黙があった。

    「寝てろ」
    榊は立ち上がり、端末をポケットに入れた。
    「点滴が終わるまで動くな。終わったら担当の看護師を呼べ。俺はその間、外にいる」
    部屋を出ていく直前、男は扉に手をかけたまま、一度だけ止まった。
    振り返らなかった。
    「自分で調べるのは構わない」
    低い声が、背中から落ちた。
    「ただ、次に倒れたときは間に合わないかもしれない」

    扉が閉まった。

    リオは天井を見た。電子音が鳴り続けていた。

    似たケースがある。
    目を閉じても、その言葉だけが消えなかった。



    第2話(続き)↓


     
     

    ぬる

     
     
    閲覧ありがとうございます。 少しのスキで元気に育つサボテンです、是非スキをお願いいたします🌵 SF、ファンタジー系の小説を投稿します。 考えごとが趣味です、放っておくと小説になります。 作品、画像には一部生成AI(ズッ友)を使用しています。

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