
残り雪
あの頃の自分には「正直さ」が重すぎたのだ。
そうなれたらよかったのに、と後悔しても遅いことばかりだった。
いつからか人の物差しばかり気にするようになっていた。自分の物差しはどこかに落としてしまったようだった。
ありのままの自分の感性は人のそれと違うのだといつからか感じるようになり、こんな自分のままでは誰にも受け入れられることなどないと思っていた。
合わせることは努力が必要だった。怠惰なままでいたかったが怠けて生きていけるほど器用ではなく、人より秀でた才能もなかったので合わせるほかに方法がなかった。
「本当はあなた達に全く興味がありません」内心でそう思っていることがばれないだろうかと冷や冷やしていた。
上手くその場に馴染めているとき、決まって人は輪の外にいる誰かを指差し笑った。同じように笑い、標的が自分ではないことに安堵した。
二十歳を越えて社会人となってからも擬態する日々は続いた。
擬態の腕が上がったからなのか、社会でもそれなりに人と付き合えるようになり、信頼され役職を与えられたりもした。
頼られることは心地よく、輪の外にいる誰かを指差し笑っていると、まるで自分が偉くなったような気がした。だがいつかは自分があちら側になるような気がして、未来の自分を見ているような恐怖心が付き纏った。
数年後に彩羽とは職場の同僚を通して出会った。
二つ下だった彼女は当時社会人一年目だった。初めは同僚たちと数人で集まって飲んでいたのが徐々に二人で会うようになり、独り暮らしをしていたアパートに彼女が転がり込む形で同棲がはじまった。
気持ちの上がり下がりが激しいところがあったが、だからこそ必要とされることが誇らしかった。
二年ほどすると彩羽は人間関係を理由に職場を変え、精神科へ通いはじめた。
同じ頃にこちらは職場で一つ役職が上がり、数名のチームをまとめるようになっていた。はじめは勢いで乗り切れていたが、要領が悪いうえにひとに上手く仕事を頼むことができず、一人で抱え込むようになっていった。
人あたりが良いところを生かしてはじめは可愛がってくれた先輩上司の関心が徐々に離れていくのを感じ、なんとかしがみつこうと残業するようになった。それに従って彩羽と過ごす時間は減っていった。
ある日、日付をまたごうとする時間に帰ると、まだリビングは明るく彩羽はテーブルに突っ伏して寝ていた。
テーブルの上には平皿とお椀があった。平皿には四つの不揃いな大きさのトマトソースハンバーグが乗せられている。お椀にはおそらく1玉まるまる使ったと思われる量の玉ねぎが入ったスープが入れられている。2つのお椀の上に箸が乗っているのでまだ手は付けていないようだ。
先に食べてればいいって言ったのに。
気配に気付いて顔をあげた彩羽と目が合う。笑うと愛くるしく三日月型に細まる瞳が俺の表情を読み取った途端に開いて不安の色が広がった。
「なんでまだ寝てないの?遅くなるから先食べててって言っただろ」
違う。
今かける言葉はそれじゃない。こんな時間に帰っても目の前に食事が並べられているのだ。
話したいことがあったのかもしれない、話などなくても一緒に過ごしたかったのかもしれない。一人で今日を終えたくなかったのかもしれない。
「…ごめん、一緒に食べようと思って。重いよね、ごめん…」
分かってるならやるなよ。
正座でうつむく彼女の真横でなく斜めに座り、箸でハンバーグを口に運ぶ。
「はやく食べろよ」
これじゃ俺が悪いみたいだろ、居心地悪いな。
「美味しくないから、残していいよ」
「言ってないだろそんなこと、ちゃんと美味しいって」
そうやって言われたらこっちは美味いって言うしかないだろ。
深夜に帰ってまで彼女に付き合わなければならないのか、そう思うと胃の辺りに石が乗せられたように感じて口の中の肉を飲み込むのを一瞬躊躇った。
彩羽に寄りかかられることが自分の存在意義だと思っていた。だがいつしか寄りかかられることは苦しく、面倒なことになっていた。
今の彼女の不安定な精神状態を考えればどうするべきかは分かる。なのに今はどうしてもその気になれず時計の針の音だけが日付を回った食卓に響いていた。
一月後、アパートの契約取消の手続きが終わってから彩羽がひと足先に荷物をまとめて去っていった。
二人はずっと一つだと、疑いなく思っていた私達はまるで何事もなかったようにただの一人と一人に戻った。
仕事の方は相変わらず成果も出ずにゆっくりとだが確実に信用と居場所をなくしていった。
与えられたポジションと実際の能力が噛み合っていないと頭では分かっていても、無駄に育ってしまった自尊心がここから降りるという選択肢をなかったことにして足掻いたが数ヶ月後に体調を崩し、一月ほど休みをもらってそのまま退職した。
与えられたポジションにも寄せられた期待にも応えられないのが私だった。
まだ周囲にもてはやされていた頃、笑いものにしていたあいつは相変わらずパッとしなかったが私のように投げ出しはしなかった。
きっと今は俺の方が笑われているのだろう。
あの頃の不安はついに現実となった。
可哀想な自分に酔うには自分自身にあまりに不誠実だった、今まで自分がしてきたことを思えば当然だとすら思える。だが職も恋人も失ったというのに、やっと化けの皮が剥がれてくれたことに安堵している自分もいた。
もう誰かに合わせる必要も、嘘を重ねる必要もない。
他人の物差しが見えない場所に来てはじめて自分の物差しがなくなっていることに気付いた。ここからどうすればいいのだろう。
他人の物差しによって世界の基準と自分とのバランスを取ってきたのに、これでは世界と自分との間にどれほどの距離があるのかも、何をすればその差をごまかせるのかも分からない。
世界から取り残されたのだろうか。そもそも世界とはなんなのだろうか。
出勤する必要がなくなったので朝の9時頃に起き、顔を洗って、ダウンジャケットを羽織り家を出る。家からすぐの堤防沿いを散歩していると、柴犬を連れた野球帽の老人といつもの辺りですれ違い挨拶を交わした。
堤防から跨線橋に出るとトラックや社名が印字された自動車がせわしなく行き来をしている。家にいると忘れそうになる世界の時間の流れを毎朝この場所に来て確認するのが日課だった。見下ろした川沿いにまだ数センチの雪が残っている。正しく移ろぐ季節から取り残され、溶けて消えるのを待つしかない残り雪に自分を重ねてみた。あと数センチ横に移動できていたならさっさと流され消えてしまえるのに、哀れな残り雪は移動する手段を持たなかった。周りや環境に適応できなかった自分もあの雪とさして変わらない。いや、あと数日もすれば溶けて消えるあの雪の方がきっと楽だろう、消えたくても消えられないでいるよりは。
もう何時間も水面を見つめている気がする、徐々に水面と自分の距離が縮まっているような錯覚に陥る。
吸い込まれそうだ。
瞬間、ポケットのスマホが小刻みに揺れる感触で我に返る。
通知の欄をタップすると母から好きなアイドルのショート動画のリンクが送られてきていた。馬鹿なことを考えていないでこれでも見て落ち着けということだろうか。そんなつもりはないだろうが母からの何の気なしに送られてきた一方的でやりとりする気さえないこの貼り付けリンクの通知に助けられたことに変わりはない。帰ったら母の好きなチヂミでも作ってやろうかと考えつつ家に向かい歩き始めた。
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「ねえ、何作るの?」
近所のスーパーの肉コーナーで今日のおかずを考えていると彩羽が聞いてくる。
「ピーマンと豚肉のオイスター炒めかなあ、豚コマと豚バラどっちがいい?」
「んー、どっちでもいい。それって何が違うの?」
「美味さと値段かな」
スーパーで買い物を終えた私達は歩いてすぐのところにある「フォレスト」とカタカナ表記の古臭いアパートの角部屋に入った。築30年のアパートは床が冷えるうえ玄関窓から隙間風が入るので冬場のキッチンはかなり寒い。調理のとき用に買ったミニヒーターをコンセントに繋ぎ、夕飯を作り始める。
「これお母さんが二人で食べなって」
「お、肉味噌だ。最高じゃん」
フォレストを使うとき、彩羽の母親はたまにおかずを持たせてくれた。
二人の関係が終わり3か月ほどした頃、彩羽から連絡が来るようになった。彼女は予想していた通り別れてからひどく不安定になっていた。元の浮き沈みの激しさからも完全に関係を断つことは怖くてできなかった。自分のせいで命を絶ってしまうのではないかと一人で考え込むよりはましだと思い、連絡が来たときはなるべく返すようにしていた。人生の幸福度を折れ線グラフにしたなら最も低い地点にいたであろう二人には慰め合う相手が必要だった。LINEだけだったのが会うようになり、体を重ね合う関係が2年ほど続いたところで彩羽から突然屋久島に行かないかと誘われた。金もなかったので断ると彩羽はこちらの分まで出すと言い、本当に旅費の全てを負担してくれた。独立し仕事が軌道に乗っているらしく、自分ともう一人分くらいどうということはない、とのことだった。何もしないのも居心地が悪いので、せめてもと思い運転手を名乗り出た。
飛行機で雲を見下ろすのも、重苦しい地元の空と違い開放的でなぜか息がしやすい空気も、島唄を聞きながら振舞われる地魚料理も、何もかもが癒してくれた。帰りの飛行機から遠くなる島を見てセカンドライフを送るための地に良いかもしれないなとぼんやりと思った。彩羽も味わったことのないスケールの自然と至近距離で触れる経験を満喫していた。空港での車中泊も含めれば三泊四日のそれなりに長い時間を二人で過ごしたが、つまらない時間はどこにもなかった。時々にはあったのかもしれないが、それを忘れるだけ笑い、体験し、夢中になった。こんな体験を分けてくれる人は他にいないと思った。そして、旅費を負担するほど思われていることを知った。これに答えなくては元々情けないのにこれ以上先はないほどに情けなさの極致へ自分がいってしまう気がした。
ほどなくして告白し再び付き合い始めた。
どちらも実家暮らしなので二人だけでくつろぐスペースを探していたときにこの古いアパートと出会った。全ての部屋の玄関がモスグリーンで統一されたこの建物のいいところといえば、家賃がかなり安いことと二人で生活するにはちょうど良い狭さということくらいだ。
出来上がった料理をリビングの小さなテーブルに並べ、部屋の壁に合わせたモスグリーンのローソファに座る。
「いただきます」
「このピーマン美味しい」
「だよな、このレシピ好きなんだ」
「なに入ってるの?」
「オイスターソースと醤油とごま油」
「優しい味だなあ、君の味って感じがする」
彼女はよくそう言った。あの頃より狭い部屋なのに、どこかあたたかな空気が部屋の中を漂っている。
この日々はきっと些細なことでまたあの頃へ逆戻りするのだろう。傷付けてしまうこともあるだろう。だがそんな綱渡りの毎日を、そうだと知っているからこそ楽しむべきだと思えていた。
あの頃の罪滅ぼしの意識がないといえばそれは嘘になる、だがそんなことは彼女は望まない。
馬鹿正直に伝えることが必ずしも吉と出るとは限らない。伝えられることには限りがあり、話したからといって理解が得られるものではない。だからこそ伝えないことの中にもその人を思う優しさのようなものが宿るのだろう。きっと彼女も私に伝えないと決めている出来事や想いがあるはずだ、それでいいと思う。あの頃の自分は社会で、人前で「正直」に生きられずに耐え忍び溢れ出しそうなヘドロのような、自分でも目を逸らしたくなるようなずるくて身勝手な自分さえも彼女に受け止めてもらいたかった。
でもそれは彼女も同じだった。きっと擬態し社会に適応しながら、生きている反動をどこにもぶつけられずに持て余してしまっていたのだろう。時間が全てを解決してくれるとまでは言わないが、離れている時間の中で少しだけ自身を乗りこなす術を覚えた私たちはまた共に過ごし、これからも共に過ごそうとしている。少なくともその一点に関して私は「正直さ」を纏っていると自覚することができていた。あの頃重すぎた「正直さ」は、怖さから手にとることを放棄していたそれは今、心地よさを私にもたらしていた。
考えごとをしながら少し流行りの過ぎたドラマをネットフリックスで見ていると、隣から静かだが確かに存在感のある寝息が聞こえてきた。肩に寄りかかっていた頭を起こさないよう注意して戻すと食べ終わった皿をキッチンへ運ぶ。明日の天気を予報アプリで確認し冷気の漏れ出るカーテンの隙間から外を覗いてみると、空は夜の黒と雪の白を混ぜ合わせた灰色の世界だった。あの冬の残り雪は跡形もなく溶けて消え、新しい雪が降り積もっている。
部屋に戻ると彩羽はしっかりベッドに移動し眠っていたが布団をかける気力はなかったらしく、足元だけ無造作に折り曲げられた掛布団の中に突っ込んであった。部屋の灯りを消し、狭いシングルベッドに肩を寄せ合うようにしながら目を閉じた。