
眠れない夜に、月がくれたもの
眠れない夜だった。
時計の針は午前二時を過ぎているのに、
まぶたは少しも重くならない。
部屋の明かりを消して、ベッドに横になっても、
今日あった嫌なことばかりが頭に浮かんでくる。
仕事で失敗したこと。
何気なく言われた冷たい一言。
頑張っているのに報われない気がすること。
考えなくていいことまで、
夜は静かだから、全部聞こえてしまう。
「なんでこんなにうまくいかないんだろう」
小さくつぶやいた声は、
誰にも届かずに部屋の中へ落ちた。
このまま朝になって、
また同じ一日が始まるのかと思うと、
息が詰まりそうだった。
耐えきれなくなって、
私は上着を羽織り、外へ出た。
夜の空気は少し冷たくて、
熱くなっていた頭をゆっくり冷ましてくれる。
住宅街の道には誰もいない。
遠くで犬の鳴き声がした。
私はあてもなく歩いた。
歩いているうちに、
小さな公園へたどり着いた。
昼間は子どもたちの声でにぎやかなその場所も、
夜は別の世界みたいに静かだった。
ブランコに腰を下ろして空を見上げると、
丸い月が浮かんでいた。
やわらかい光だった。
ただそこにあるだけなのに、
不思議と少しだけ安心した。
「月はいいな」
私はぽつりと言った。
「何もしなくても、そこにいるだけで綺麗って言われるんだから」
情けない言葉だと思った。
自分は頑張らないと認められないのに、
月はただ浮かんでいるだけでいい。
そんなふうに思った。
すると、そのとき。
「でも月も、ひとりじゃ光れないよ」
後ろから声がした。
振り向くと、
ベンチにひとりのおばあさんが座っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
「え?」
「月は太陽の光を借りてるんだよ。自分で光ってるわけじゃない」
おばあさんは空を見上げたまま、穏やかに笑った。
「ひとりで輝いてるように見えても、本当は誰かの光で照らされてる」
私は黙って月を見た。
月は変わらず静かにそこにある。
「人も同じだよ」
おばあさんは続けた。
「ひとりで頑張ってるようで、誰かの言葉や優しさで光ってる。だから、今つらいなら誰かの光を借りればいいの」
その言葉が、胸にすっと入ってきた。
私はずっと、
ひとりでちゃんとしなきゃいけないと思っていた。
弱音を吐くのはだめだと思っていた。
でも月だって、
ひとりでは光れない。
そう思ったら、
張りつめていたものがほどけた。
「借りても、いいんですかね」
私が聞くと、
おばあさんは優しくうなずいた。
「もちろん。人は支え合うためにいるんだから」
涙が出そうになった。
何かが解決したわけじゃない。
明日になれば仕事はあるし、
悩みもなくならない。
でも、
ひとりで抱えなくていいのだと思えた。
それだけで、
世界は少しやわらかくなった。
しばらくして、
もう一度おばあさんにお礼を言おうと振り向いた。
けれど、そこには誰もいなかった。
ベンチは空っぽだった。
風が静かに吹いているだけだった。
私は呆然としたあと、
ふっと笑った。
夢だったのかもしれない。
それでもよかった。
私は立ち上がって、
もう一度月を見上げた。
さっきと同じ月なのに、
少しだけ明るく見えた。
帰ったら、誰かに連絡してみよう。
「少し疲れた」と言ってみよう。
きっとそれだけで、
今日の夜より明日はましになる。
月の光に照らされながら、
私はゆっくり家へ向かった。
眠れない夜だった。
でもその夜、
私はようやく知った。
ひとりで光れなくてもいい。
誰かの優しさを借りながら、人はちゃんと輝ける。
夜空の月は、
何も言わずに、それを教えてくれていた。