
桃太郎の息子 第10章 縁の完成
一 種が芽吹く時
鬼月が去った翌週、田島のスタジオに変化が起きた。
静かな変化だった。 でも——確かな変化だった。
カメラマンとライターが、また昼飯を一緒に食べるようになった。
デザイナーが田島の新作に意見を言うようになった。
田島がそれを笑いながら聞いていた。
鬼月の名前は、誰も出さなかった。
でも——スタジオの空気が、戻っていた。
いや、戻ったんじゃない。
前より、深くなっていた。
一度ぎくしゃくして、でも直接話して、また繋がった縁は——最初より太くなる。それを、体で知った。
変化はスタジオの中だけじゃなかった。
カメラマンとライターが、組んで動き始めた。
「田島さんの個展をやりたい」とカメラマンが言った。「俺が撮るよ。で、ライターが書く。デザイナーがまとめる」
田島は最初、首を振った。「俺なんかの個展、誰が来るんだ」
「来る!」とライターが断言した。「本気の記事を書く。そして読んでもらえる場所に出す」
「どこに」
「当たってみる」とライターは言った。「ツテがあるから」
その会話を、隅で聞いていた。
何かが動いている、と感じた。
計算じゃない。誰かが設計したわけでもない。ただ——繋がり直した縁が、自分で動き始めていた。
二週間後、ライターが走り込んできた。
「載るぞ!」
全員が顔を上げた。
「田島さんの特集、載る。ウェブメディアじゃない。紙の雑誌。美術系の、割と大きいやつ」
沈黙があった。
田島が、ライターを見た。
「……本当か」
「本当」とライターは言った。息が切れていた。「編集長が田島さんの作品を見て、即決だった。来月号に間に合わせたいって」
田島は動かなかった。
しばらく、ただ立っていた。
目が、赤くなっていた。
「俺、ずっと」と田島は言った。声が、かすれた。「ずっと、どこかで諦めてた。この規模で続けてたら、いつか消えるって。でも消えたくなくて、でも怖くて——」
誰も何も言わなかった。
田島はデザイナーを見た。カメラマンを見た。ライターを見た。
そして——不意にその視線は俺に向けられた。
「桃李」と田島は言った。名前だけ呼んだ。
「はい」
「お前が来てから、変わった」
首を振ろうとした。
「俺は何も」
「いや」と田島は言った。「お前がいたから、ここがここになった」
言葉が出なかった。
喉の奥が、詰まった。
小学生の時、先生のお弁当を心から受け取れなかった頃を思い出した。——そして今、田島の言葉を、受け取っていた。
こぼさずに、受け取っていた。
スタジオの窓から夜の街を見下ろした。
何かが、大きく動いた気がした。
田島の個展が決まった。それだけじゃない。カメラマンとライターが本当の意味で組んだ。デザイナーが田島と本音で話せるようになった。
あの時、何をしたか。
ただ、本人同士を会わせた。
ただ、問いを立てた。
それだけだった。
でも——それだけで、こんなに多くのことが動いた。
縁が縁を呼んでいた。
誰かを変える力があった事を、今確かにそれを感じ取っていた。
スタジオのドアが開いた。
振り返ると——桃華さんが立っていた。
黒いコートに、真っ直ぐな背筋。いつもの、迷いのない立ち方。
「来たんですか」と俺は言った。
「見てたわ」と桃華さんは言った。
「どこから」
「ずっとそこにいたから」と桃華さんは言った。それ以上説明しなかった。
それ以上聞かなかった。
二 宝の正体
桃華は窓の外を見た。
夜の街が、動いていた。
「よくやったね、桃李くん。鬼月冬夜の件」と桃華は言った。「知ってる名前だった」
「え」
「あの人も、かつては縁を切られた側だった」と桃華は言った。
「それは本当のことよ。でも——気づかなかったのね彼。自分の中に鬼が生まれてたことに。いろんな人たちを孤独にし続けていた噂は聞いてたの」
「俺には」「あの人を止められなかった。完全には」
「止める必要はないのよ」と桃華は言った。静かに、でもはっきりと。
「あなたは戦ったんじゃない。問いを立てた。それが桃太郎のやり方よ。びっくりしちゃった。教えたわけじゃないのに、同じことしてるから」
桃華を見た。
「鬼月さんは」と俺は聞いた。「どうなりますか」
桃華は少し間を置いた。
「さあ」「それはあの人が決めること。あなたが問いを立てた。あとはあの人の中で、何かが動く。それだけよ」
「動くかどうかも、わからない」
「わからない」と桃華はあっさり言った。「でも——種は蒔いた。芽が出るかどうかは、土次第」
桃華がコートのポケットから、封筒を取り出した。
「これ」と桃華さんは言った。「田島さんの個展の話、動いてたから」
「え、桃華さんが?」
「実は雑誌の編集長は、私の古い知り合いよ。ライターくんが持ってきた資料を見て、即決したのは本当。でも、資料が届くように——少し、道を整えた」
俺は固まった。
「それって」
「縁を守る役割よ」涼しい顔だった。「あなたが縁を結ぶ。私が結ばれた縁を守る。それが神代家の二つの役割。あなたが本来の道を歩み始めて一族は喜んでるわ」
俺は、桃華を見た。
「桃華さんは、ずっと、そうやって」
「そうやってきた。あなたが知らないところで。それでいい。あなたが動けることが——私の仕事が報われることだから」
「一つだけ」と桃華は続けた。
「はい」
「桃太郎はね、宝を持って帰ったと伝説では言われてる。でも本当の宝は——物じゃなかった」
「縁、ですか」
「そう」と桃華は言った。「でも——もう一つある」
黙って待った。
「問いを立てる勇気」と桃華は言った。「答えを持たずに、ただ知ろうとする勇気。それが鬼を溶かす。それが縁を繋ぐ。それが——桃太郎が本当に鬼ヶ島から持ち帰ったものよ」
窓の外で、街が光っていた。
無数の光だった。
一つひとつが、誰かの部屋だった。誰かの夜だった。誰かの孤独だった。
でも——その孤独のどこかで、今夜も誰かが誰かと繋がっていた。
「桃李くん」
「はい」
「あなたは——本物の桃太郎になったね」
俺は窓の外を見たまま、答えなかった。
答えられなかった。
でも——胸の奥で、何かが静かに、完成した気がした。
所持金八百円のあの朝から、今日まで。
道に迷いながら、立ち止まりながら、それでも一歩ずつ歩いてきた。
三人のおかげでもあり、桃華のおかげでもあり、俺自身の勇気でもあった。その道の上に——全部あった。
宝は、最初からここにあった。
翌朝、いつも通りバイト先のコンビニに向かった。
駅前の、あの店。百円のコーヒーを三時間かけて飲んでいた、あの店。
自動ドアが開いた。
冷たい空気が流れ込んだ。
制服を着てレジに立ち、いつものコーヒーを淹れた。
常連の老人の姿がそこにあった。「やぁ、おはよう」と言われた。
「おはようございます」と返した。
ただの挨拶。それだけだった。
でも——この「おはよう」の中に、どれだけの縁が詰まっているか。
今なら見える。今ならわかる。
外に出ると、街が動いている。
人が歩いている。
誰もが何かを抱えて、それでも今日を生きている。
その中の誰かが、今日、誰かと出会う。
きっとその出会いが、誰かの鬼を少しだけ溶かす。
溶けた鬼が、光になって、また誰かのところへ届く。
世界が、静かに——浄化されていく。
それは証明できない変化だった。 数字にも、ニュースにも、ならない変化だった。
でも確かに、あった。目に見えない光として存在していた。
俺の中に。 この街の中に。 そして——もっと遠くまで、広がっていた。
いい予感がしていた。
根拠があった。
俺は桃太郎の息子として、今度は歩み出すことにした。
了