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母が話せなくなって、私たちはよく話すようになった——人間万事、塞翁が馬

    “結婚式を挙げたくない理由”


    結婚して半年が過ぎた。

    私は、まだ結婚式を挙げていない。

    どうせなら、母に見てもらいたいから。

    四年前、母は突然倒れた。
    五日間、意識は戻らなかった。

    命は助かったものの、半身には麻痺が残り、言葉も以前のようには話せなくなった。
    話そうとしても、同じ言葉を繰り返してしまう「保続」という症状が残った。

    本人は私たちの言葉は理解できるけれど、自分で思ってることを伝えることができない。

    半身不随で、トイレの介助も必要だし、一時間半おきくらいにトイレが必要。
    だから、式に参列するのは難しい。

    もともと結婚願望もなかった。

    結婚式にも、それほど憧れはなかった。

    それでも結婚式を挙げるなら、母が笑っている日にしたい。
    父と一緒に。

    以前、母が話せた頃に一度だけ

    「あんたの性格はわかってるけど、
    自由にすれば良いけれど。
    もし見れるなら見たいよ。」

    って、ぼそっと言ってたことがあった。

    だから今も、その日を待っている。

    人生は、思い描いた通りには進まない。

    そう思うようになったのは、母が倒れてからだった。

    母は言語障害で話せなくなった。
    それなのに、私たち家族は以前よりもよく話すようになった。

    四年前までの私は、父とまともに話すことがほとんどなかった。
    仲が悪いというより、分かり合えない。

    そんな感覚に近かった。

    子どもの頃から、父に褒められた記憶がほとんどない。

    「お前は橋の下で拾ってきた。」
    そんな冗談を本気で信じたこともあった。

    従姉妹や幼なじみと比べられることも嫌だった。

    父にとっては何気ない一言だったのかもしれない。

    けれど、子どもの私には、その一つひとつが自分を否定されているように聞こえていた。

    父は「おやすみ」と言わない人だった。

    「寝る。」

    そう言って部屋へ行く。
    誰かに向かって言葉をかけるというより、自分の行動を口にするだけだった。

    気に入らないことがあると、不機嫌になってドアをバタンと強く閉める。

    家の空気はいつも父の機嫌に左右されていた。
    母は、そんな父と私の間に入る人だった。

    父の言葉を私に訳し、
    私の気持ちを父に伝える。

    今思えば、
    母は家族の調整役だった。

    だから母が倒れた時、

    私と父は初めて真正面から向き合うことになった。


    “母が倒れた日”

    四年前、母は新型コロナウイルスのワクチンを接種した。
    接種から七十二時間後、母は突然倒れた。

    病院へ運ばれ、五日間、意識は戻らなかった。

    あの五日間は、時間の感覚がなかった。
    祈ることしかできなかった。

    命は助かった。
    それだけで十分だと思おうとした。

    けれど、現実は思っていたよりずっと厳しかった。

    母は半身不随になった。
    言葉も以前のようには話せなくなった。

    聞くことはできる。
    でも、自分の思っていることを言葉にするのが難しい。

    一時間おきにトイレへ行くこともある。
    介助が必要になった。

    母が家に戻ってきて、
    一番戸惑っていたのは父だった。

    私も仕事があり、ずっと鹿児島にはいられなかった。
    神奈川と鹿児島を行き来する生活が始まった。

    母の介護のほとんどは、父が担うことになった。

    それまで父は、ほとんど台所に立ったことがなかった。

    料理は母がするもの。

    どこかでそう思っていたのだと思う。

    それでも父は、母に温かい味噌汁を飲ませてあげたいと、
    慣れない包丁でかぼちゃを切った。

    そして、自分の手も切った。

    病院で縫ってもらったと後から聞いた。

    あの時は少し笑ってしまったけれど、今思えば、それくらい必死だったのだろう。

    料理だけじゃない。
    洗濯も、掃除も、買い物も。

    今まで母が毎日毎日
    当たり前にやっていたことを、一つずつ覚えていった。

    以前なら、

    「今日はまたこれか。」
    「たまには違うものが食べたい。」

    特段酷いことを言う事はなかったけれど、
    ちょっとした小言を母に言っていた父が、

    献立を考えるだけでも大変なんだな、と口にするようになった。

    母が倒れてから、父は少しずつ変わり始めた。

    父の変化よりも、
    父への苛立ちの方がずっと大きかった。

    当時の私は、まだその変化を見る余裕はなかった。


    “三十年越しの親子喧嘩”


    母が倒れてから、父とぶつかることが増えた。

    それまで父と私の間には、いつも母がいた。

    母が言葉を失ったことで、その役目を担う人がいなくなった。

    私たちは真正面からぶつかるようになった。

    父の言い方ひとつひとつに腹が立った。

    「どうしてそんな言い方しかできないの。」

    そう思うことばかりだった。

    神奈川と鹿児島を行き来しながら、自分の生活もある。

    母のことも、

    父のことも心配だった。

    でも、心配だからこそ、父の言動に苛立ってしまった。

    ある日、何かが切れた。

    それまで溜め込んでいたものが、一気にあふれた。

    子どもの頃から言えなかったこと。

    比べられて苦しかったこと。

    褒めてもらえなかったこと。

    父の機嫌ばかり気にしていたこと。

    怒鳴るように、全部ぶつけた。

    「もういい。」

    「お金は送る。でも、もう会わない。」

    そんなことまで言った。

    泣きながら、自分でも止められなかった。

    三十年分の感情だった。

    父は黙って聞いていた。

    そして突然、床に手をついた。

    「許してくれ。」

    父は私に土下座をした。

    丸まった背中が、小さく見えた。

    私は慌てて父を起こした。

    そんなことをしてほしかったわけじゃない。

    ただ、聞いてほしかった。

    知ってほしかった。

    それだけだった。

    父は何度も言った。

    「気づかなかった。」

    その言葉に、嘘はないと思った。

    だからこそ、苦しかった。

    その夜、私たちは朝まで話した。

    父が祖母との関係で抱えてきたこと。

    兄と比べられて育ったこと。

    仕事を辞められなかった理由。

    私が子どもの頃、どんな気持ちで父の言葉を聞いていたのか。

    初めて、お互いの話をした。

    胸の奥底にしまっていたものを、

    一つずつ取り出すように。

    父と娘としてではなく、

    一人の人間同士として。

    あの日から、父とは何でも話せるようになった。


    “父は少年みたいによく笑うようになった”

    あの日から、父は少しずつ変わっていった。

    仕事をしていた頃の父は、家族を養うことを何よりも大切にしていたように思う。

    嫌な仕事でも我慢する。

    理不尽なことがあっても辞めない。

    それが父の責任の持ち方であり、父なりの愛情だったのだと思う。

    でも、母が倒れてからは違った。

    父が考えるのは、いつも母のことだった。

    どんなパジャマなら着やすいだろう。

    この色は似合うだろうか。

    今日は何をしたら喜んでくれるだろう。

    買い物へ行くたびに、そんなことを考えているようだった。

    父が慣れないことをして失敗する。

    母が笑う。

    父も笑う。

    その笑顔は、仕事に追われていた頃には見たことのないものだった。

    父は、少年みたいによく笑うようになった。

    私は、そんな父を見たことがなかった。

    父と母が「好き」と言い合っているところを見たことはない。

    手をつないで歩いている姿も知らない。

    それでも、毎日母のために何ができるかを考え、

    母の笑顔を見て、自分も嬉しそうに笑う父を見ていたら、

    言葉なんてなくても十分なのだと思った。

    私はその時、初めて気づいた。

    父は、母のことが本当に大好きだったんだ。

    子どもの頃の私は、父の厳しさしか見えていなかった。

    私は、父をこんなふうに見る日が来るとは思っていなかった。

    人は歳を重ねると変わるのだろうか。

    父も。

    父を見る私自身も。

    ただ一つ言えるのは、父は以前よりずっと軽やかになったということ。

    不器用で、一生懸命。

    母が喜ぶ顔を見たい。

    ただ、それだけのために毎日できることを探して動く。

    その姿は、勝ち負けも損得もなく、

    ただ一つのことに夢中になっている高校球児のようだった。

    七十歳を過ぎても、人はこんなふうに変われるのか。

    いや、変わったのではない。

    父の中にずっとあったものが、

    ようやく顔を出しただけなのかもしれない。


    “父が教えてくれた夫婦のかたち”

    私は、もともと結婚願望がなかった。

    その理由の一つは、両親だった。

    中2の頃、母が「離婚したい」と口にしたことがある。

    驚きはした。

    でも同時に、「そうだよね」とも思った。

    私は迷わず、

    「お母さんについていくよ。」

    そう答えた。

    子どもの頃から、父と母は喧嘩をする夫婦ではなかった。

    母は父の前では、貝のように静かな人だった。

    必要なことは話す。

    でも、それ以上は話さない。

    父は仕事へ行き、帰ってきて、ご飯を食べ、お風呂に入り、寝る。

    母は時間があれば、テレビを見ていた。

    そして、私と父が寝静まったあと、一人になる時間が好きだった。

    「あの時間がないと落ち着かないの。」

    そう話してくれたことを覚えている。

    父は気に入らないことがあると、すぐ不機嫌になる。

    母はその空気を壊さないように、何も言わずやり過ごしていた。

    一方で、母と私は親友のようだった。

    学校であったこと。

    友達のこと。

    将来のこと。

    何でも話した。

    私にとって母は、一番の相談相手だった。

    だから私は、夫婦とはこういうものなのだと思っていた。

    結婚しても、いつか会話はなくなる。

    一緒に暮らすだけの関係になる。

    そんなものなのだと。

    三十年越しの親子喧嘩をした夜。

    父はぽつりと言った。

    「お前とお母さんは仲が良かったから。

    ずっと疎外感を感じてたんだ。」

    私は、その時初めて父の寂しさを知った。

    「私も気づいてなかった。」

    「ごめん。」

    気づけば、そう口にしていた。

    そうして父との関係が変わった頃、今の夫と出会った。

    最初から「結婚したい」と言ってくれる人だった。

    私は一度断った。

    母の介護もある。

    父もいる。

    橋本病になり、思うように働けなくなっていた。

    彼にそんな私の人生まで背負わせたくなかった。

    そんなある日、父がぽつりと言った。

    「介護は正直、大変な時もある。

    でも、お母さんが長いこと入院していた時の方が、ずっと辛かった。

    どんな状態でも、こうして一緒にいられる。

    それが今は、本当に幸せだなぁって思えるんだよ。」

    私は、その言葉を聞いて、ただ頷くことしかできなかった。

    その時初めて、結婚したいと思えた。

    父は続けた。

    「その人もきっと、お前がどんな状態になっても、一緒にいられることが一番の幸せだと思ってくれる人なんじゃないか。

    お前も、もし反対の立場になった時、

    そう思える相手なんだったら。

    結婚したらいいんじゃないか。」

    私は結婚を決めた。

    父に背中を押されたからではない。

    父が母を大切にする姿を見ていたからだった。

    そして今、二人を見て思う。

    中2の私には、想像もできなかった。

    父がこんなふうに母を大切にする日が来るなんて。

    もちろん、あの頃の母の苦しさまで、なかったことにはできない。

    今も母は、思うように体は動かない。

    言いたいことを言葉にできない日もある。

    母が笑う。

    父も笑う。

    そんな二人が寄り添う姿を見ていて、時々思う。

    あの時、離婚しなくて良かったね、と。

    子どもの頃には分からなかった。

    子育てが終わっても、

    介護が始まっても、

    これから先、何があっても、

    それでも隣にいる。

    夫婦というものは、

    人生を最後まで歩いてみないと分からないのかもしれない。




    “人間万事、塞翁が馬”


    父の座右の銘は、「人間万事、塞翁が馬。」

    子どもの頃から何度も聞いてきた。

    でも、何度聞いても意味が覚えられない言葉だった。

    去年、母は家の中で転び、背骨を骨折した。

    今年は父が階段から落ちた。

    心配は尽きない。

    電話をすると、父はいつも、

    「大丈夫、大丈夫。」と言う。

    その声は、私を安心させようとしているようで、

    同時に、自分自身にも言い聞かせているようにも聞こえる。

    子どもの頃の私は、父のことが苦手だった。

    不機嫌になる父。

    褒めてくれない父。

    何を考えているのか分からない父。

    そんな父を、ずっと理解できずにいた。

    でも今は違う。

    父は、愛情を伝えることが苦手なだけだった。

    母が倒れたことで、

    私たちは何度もぶつかった。

    泣いた。

    怒った。

    たくさん話した。

    その続きを生きてきたからこそ、

    父の不器用さの奥にあった愛情が、少しずつ見えるようになった。

    母は話せなくなった。

    それなのに、私たち家族は前よりずっと話すようになった。

    父は少年みたいによく笑うようになった。

    私は、何があっても一緒にいたいと思える人と出会い、結婚した。

    人生は、一場面だけ切り取って幸せか不幸かを決められるものじゃない。

    その続きを歩いてみないと見えない景色がある。

    父が何度も口にしていたあの言葉を、

    今は少しだけ、自分の人生を通して分かるような気がしている。

    人間万事、塞翁が馬。


    #創作大賞2026

     
     
    日々の酸いも甘いも徒然に。 脳と心をちょっと豊かに。 Being grateful for everything in my daily life ー日々の全てに感謝して🍀 うまくいく日も、そうじゃない日も、 言の葉、綴ってます。

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