
シリーズ・自立する幼稚園児
1960年代、4歳までの私が、
毒親風味の母から、
少しでも自立しようと試みた記録。
①一人で帰る
1964年、4月。
4歳になる私は「平和幼稚園」に入園した。
場所は東京の下町・小岩。
幼稚園に通い始めて、約1カ月。
朝は母と一緒に登園し、帰りは母の迎えを待つ。
そんな日々が続いていた。
きれいな卵
あるとき、彩色されたゆで卵が配られた。
カゴに盛られた色とりどりの卵は、きれいだった。
私は緑色の卵を手に取った。
迎えに来た母に卵を見せて、
「次は黄色かピンクの卵がほしいな」などと、のんきなことを言っていた。
卵は次の月も、その次の月も配られると思っていたから。
しかし彩色された卵が再度、配られることはなかった。
今思えば、それはイースターの卵だ。
キリスト教系の幼稚園だったから。
うちは無宗教だったけれど。
こんなふうにして母と帰途についた日々もあった。
一人で帰る
あるとき、母がなかなか迎えに来なかった。
友達が一人帰り、二人帰り、気がついたら自分だけ。
不安というよりは、ボーッと待っているのがイヤだった。
「もういいや。一人で帰ろう」
こう決めて、靴を履いた。
一人で園庭を出ようとする私を見て、先生は驚きながら言った。
「りえちゃん、一人なの? 大丈夫?」
「大丈夫」と言って、私は幼稚園を後にした。
大人たち
1964年当時、私が見た限りでは、わけもなく町をフラフラと歩いている人はいなかった。思えば、日本は高度経済成長期のただ中にあった。大人はみんな忙しかったのだろう。
カルト襲来!
帰ってみると、家のドアは開いていた。
中に入ると母がいた。
そして、絶賛来客中。
この来客が、ただ者ではなかった。
某新興カルト宗教の皆さま。
「もう幼稚園に、娘を迎えに行く時間ですから」
母が、いくらこう訴えても帰ってくれなかったそうだ。
それは、まあ大人の事情。
一人で帰ってきた私を見て、母は驚いていた。
しかし私を叱ることはなかった。
私としても、叱られるいわれはない。
ワケもわからずに、ただ待たされたのだから。
そして、私は気がついた。
「一人で帰れるということは、一人で行けるということだ!」
「一人で行く」宣言
翌朝、母に、
「今日から一人で行ってみる」と告げた。
母は、
「そう? 気をつけてね」とだけ言って、送り出してくれた。
幼稚園への道を歩いていると、友達に会った。
友達は母親に手をひかれていた。
普通は、こうだ。
ところが母は、私の手をひくことはあまりなかった。危なそうなところでは手をひいてくれたけれど。要はスキンシップが苦手な人。
友達のお母さんに、
「りえちゃん、一人なの!?」と驚かれながら、
一緒に幼稚園への道を歩いた。
家を出るのは一人でも、途中で誰かに会うから、まるっきり一人だったわけではない。こうして私は、一人で登園する4歳児となった。
「誰が、幼稚園の送り迎えをしてあげていると思ってるのっ!」
母に、もうコレを言われなくて済む。
そう思うとせいせいした。
ちなみに母は当時、29歳の専業主婦。
子どもは私だけ。
父は仕事柄、月に10日ほどしか家にいない。
お説教が始まると、母の話は本題からどんどん離れていって、途中で必ず「この忙しいのに、誰が~!」となる。
これを言われるのが心の底からイヤだった。
でも、もう言われない。
②お弁当いらない
インバウンドの影響で、
「外国人がコンビニでフルーツサンドを見て驚く!」
そんな記事を見かけるようになった。
でもフルーツサンドなんて半世紀以上も昔からあった。
いきなりコンビニ業界が始めたものでもない。
私は見た!
1964年、東京の下町・小岩の「平和幼稚園」で私は見た!
お弁当の時間になると、イサム君という男の子が、いつもフルーツサンドを食べていた。イサム君は、サンドイッチをわざわざ開いて、クリームと具材(だいたいミカン)を真剣に舐めていた。
イサム君にとって、パンはどうでもよかったのだろう。フルーツサンドを食べ終わると、次にイサム君は焼きそばパンか、コロッケパンに移っていった。
これらは母親の手作りではなくて、お店で買ったもの。私が通っていた幼稚園には、「お弁当は、家で手作りしたものを持参する」という決まりはなかった。
私のお弁当
私はパンが好きだったので、だいたい母が作ってくれたサンドイッチを持って行っていた。
卵サンド(卵焼き+ケチャップ)
ハムサンド
コンビーフサンド
そして、たまに和風の「ご飯+おかず」というお弁当。
飲み物
飲み物は、幼稚園が用意する牛乳。園児の持参したコップに、先生がひとビン、ひとビン、注いでくれる。
冬はストーブの上に盥(たらい)を置いて、牛乳を温めていた。コップに注がれた牛乳に、薄い膜ができるのが楽しみだった。
イチゴ・プリンスメロン・トマト
季節が夏に向かうころになると、イチゴやプリンスメロンをお弁当に入れてくる子が多くなった。
「プリンスメロン?」という方もいらっしゃるだろう。味としては、ちょっと甘いウリ。今はもう売っていない。
よく輪切りのトマトを持ってくる女の子がいた。その子は、お弁当箱を教室の隅のほうに置いて、「ここで冷やしておくの」と言っていた。
保冷剤もクーラーボックスもない時代だ。それで冷えたのかどうか、私は知らない。
お店を特定する
これら園児たちのお弁当の中で、パン好きの私は、イサム君が持ってくるパンが気になって仕方がなかった。イチゴやプリンスメロンなんか、どうでもいい。
既に一人で帰るようになっていた私は、
「そうだ!」と思って、イサム君と一緒に帰ることにした。
イサム君の家は商店で、お母さんは忙しかったらしく、いつもおじいさんが迎えに来ていた。私は勝手にイサム君の横について歩いた。
そして、「ねえねえ、パン、どこで買ってるの?」と聞いてみた。イサム君は、あっさりと「この先のパン屋さん」と教えてくれた。
道沿いなら、私にもわかったはずだ。でもパン屋さんは、道を少しだけ入った場所にあった。ついに私は、フルーツサンドの店を特定した!
いや、ただ聞いただけか。
もっと早くに聞けばよかった。
こういうところが、私は少しトロい。
「お弁当いらない」宣言
家に帰って、母に「明日から、パン屋さんでパンを買って幼稚園に行きたい」と話した。気持ちとしては「お弁当いらない」宣言。
その店を母も知らなかったので、夕方に一緒に行ってみると、私の好きな総菜パンや菓子パンは、まだ少し残っていた。
母は値段を確認していたらしい。
パンをいくつか買ってもらい、私は上機嫌で家に帰った。
翌日から、私は100円玉を一つ通園バッグに入れて登園することになった。私は、文字は自然に読めるようになったけれど、計算は教わっていなかった。だから母は「好きなパンを2個買っても、お釣りがくる額」として、私に100円を渡していたらしい。
登園フロー
「行ってきま~す」と言って家を出て、途中でパン屋さんに寄る。
そこでハムカツパンとコロネ、コロッケパンとメロンパンなど、塩味のものと甘いものという組み合わせでパンを選び、お店のおばさんに100円を渡す。
すると、おばさんはパンの包みと、10円玉数枚のお釣りを私にくれる。その両方を通園バッグに入れて、お昼はバッチリ!
自家製のパン屋さんだったから、味もよかった。
加えて、お説教タイムの、母からの、あの言葉もなくなった。
「誰が、お弁当を作ってあげていると思っているのっ!」
めでたし、めでたし。
③一人で歯医者
1960年に生まれ、
私の人生は、まだ4年しかたっていなかった。
でも病院を怖いと思ったことはなかった。
だから歯医者も平気。
泣きもしないし、抵抗もしない。
歯医者に行く
奥歯が腫れたので、母に連れられて歯医者に行った。歯医者は幼稚園へ行く道の途中にあった。家からそれほど遠くはない。徒歩10分程度。
歯科医と4歳児
名前を呼ばれて、母と二人で治療室に入った。
ちょっと薬品の匂いがした。
先生に言われるままに、口を開けて治療開始。
私は泣きもせずに、ずっと目を開いていた。
先生が手を休めて、「口をゆすいで」と言うと、金属のコップで口をゆすぎ、治療が再開されるまで、目の前の薬品のビンや道具を眺めていた。茶色い小ビン、青い小ビン、ピンセット。その他もろもろ、名前のわからない道具類。そして、先生がペダルでギコギコと治療椅子の高さを調整して、治療再開。
痛みの記憶
痛かった記憶はない。ドリルで削られたから、多少は痛かったはずだ。それでも我慢できる程度。だから目も閉じず、飽きもせずに治療室の中を眺めていた。
後年、母から「治療中は、目を閉じているものよ」と教わるまで、私は口を開けて、目も開けたままでいた。先生も、「目は閉じましょう」とは言わなかった。
「一人で行く」宣言
数日して、2回目の診療に行くことになった。
このとき、母に「一人で行ってみる」と言った。
前回の治療のとき、母はそばで座っていただけ。
つまり、私にとってはいてもいなくても同じ。
まして幼稚園へ行く道の途中だから、迷うこともない。
母は、黙ってお金を持たせてくれた。
方向違いのドキドキ
歯医者のドアを一人で開け、スリッパに履き替えた。
そして受け付け。女の人がいた。
女の人は、
「ここに診察券を入れてね」と言ったが、
その箱に、私はなんだか不信感を抱いた。
箱は、私の背より少しだけ高いところにあった。
「ここに入れておいて、大丈夫?」
「ちゃんと名前を呼んでくれるのかな?」
痛いかどうかよりも、
「呼ばれなかったらどうしよう」
こっちのほうが心配だった。
それと、母がこっそり付いてくるのではないかという気がしたので、入り口のほうも気にしていた。
「いきなり入ってこられたら、台無し!」
こう思っていた。
受け付けの女の人の動きを見つつ、入り口を見張る。この二つのドキドキがあった。
確かに昭和だった
その日、歯医者はすいていた。
私の他には、同い年くらいの男児を連れた母親だけ。
「さすがに昭和だな」と思うことが一つ。
呆れたことに男児は歯医者の待合室で駄菓子を食べていた。グズる子どもを、母親は駄菓子であやしていたらしい。
男児は、母親に「ベー」と舌を見せて遊んでいた。その舌は、駄菓子の色で青く染まっていた。手に持っている小さな板を見ると、何やら青いものが塗られている。
「どこで買ったんだろう?」
いつも行く駄菓子屋さんで見たことのないお菓子だったので、ちょっと気になった。
いろいろと気にしているうちに、私は名前を呼ばれ、ブカブカの茶色い大人用スリッパを履いて、無事に治療室に入った。
忍び寄る影
治療を終えて、歯医者のドアを開けたら、急いで隠れる大人の姿があった。見慣れた「ネズミ色」のズボン。
父だった。
「パパでしょ! 見えてるよ」
思わず笑ってしまった。
出張から戻った父が、私が一人で歯医者に行ったことを知り、驚いて見に来ていた。母からは、こう言われていたそうだ。
「見つからないようにね。気がついたら、あの子、怒るわよ」
父は、ほめることもなかったが、私はそれで満足だった。
歯医者の数軒先に肉屋さんがあった。
「りえ君、ポテトを買って帰ろう」
こう言って、父は肉屋さんに向かった。
私はジャガイモが大好きだった。食べ物の嗜好は、父とほぼ同じ。一方、母はサツマイモLOVEな人だった。
「ポテト」と父が呼んでいたものは、ジャガイモのフライ。コロコロに切ってあって食べ応えがあった。ビールのおつまみにもなる。ウスターソースをかけて食べると、とてもおいしかった。
※1964年。私の周りの大人も子ども、もグレーを「ネズミ色」と呼んでいた。ブラウンは「茶色」。なぜかピンクだけはバラバラで、「桃色」と呼ばれることもあった。
※私は13歳まで、身内から「りえ君」と呼ばれていた。名付け親がそう呼んでいたら、定着してしまったのだ。4歳のときは、三つ編みのおさげにリボンまで付けていたのに、「りえ君」。
④朝練
1964年、5月。
園庭のアオキは繁り、天高く小鳥はさえずり、
世は事もなく過ぎてゆくかに見えた。
しかし私のような4歳児に、「事もなく」という世界はなかった。
問題出来(もんだいしゅったい)。
「逆上がりができない!」
休み時間に、いきなり知った、この事実。
前回りというものは、簡単にできた。
それなのに、他の男児が行っている逆上がりができない。
何度やってもできない。
休み時間のたびに、逆上がりをしてみた。
それでもできない。
朝練の決心
仕方がないので、
「早く来て、誰もいない鉄棒で練習しよう」
こう決めた。
翌朝、母に「今日は、少し早く幼稚園に行く」と言って家を出た。
理由もちゃんと話した。
ちなみに母は、「怖いと手を放してしまう」という、しょうもない特性を持っていた。そのせいで、小学生のときに、逆上がりで鉄棒から落ちたという経験を話してくれた。とても痛かったそうだ。
それはそうだろう。
まったく何の教訓にもならない。
朝練開始
一人で家を出て、途中でお昼のパンを2つ買い、幼稚園に着いた。
思ったとおり、まだ誰も来ていない。
ガランとした園庭を横切って、鉄棒のある場所に行った。
黙々と逆上がりの練習。
他の園児たちが登園してきたところで、おしまい。
そして普通の遊びの輪に入る。
休み時間には鉄棒に行かない。
理由? 楽しく遊ぶ時間がなくなるから。
そして一人で帰宅し、母に言った。
「明日も少し早く行く」
目的完遂
そんなことを4日くらい続けていたら、逆上がりができるようになった。
「できたーっ!」
この喜びの声を聞いたのは、たぶん園庭のプラタナスだけ。
それから
そしてこの夏、私はついに浮き輪もやめた。
スイミングスクールに通っていたわけではない。
プールに連れて行ってもらったとき、父に言ったのだ。
「そろそろ浮き輪、やめたい」
すると父はバタ足で泳ぐ方法を教えてくれた。
浮き輪を外すことが、こんなに簡単だなんて!?
それでも海水浴に行くときは、母が浮き輪も用意していた。
それはそうだろう。
海は広いし、波もある。
使わなかったけど。
⑤髪を切る
1960年7月28日、午後9時。
雷鳴が轟く中、私は頭髪を持たずに生まれた。
出生体重は2980g。
未熟児ギリギリ。
頭髪問題
婚活男性と同じように、赤ん坊にとって頭髪の有無は大きい。
女児であっても男児と間違えられる。
デパートで子ども服売り場を聞いた両親に、店員さんは言った。
「子ども服売り場は、こちらです」
「ああっ、男児の服は向こう側!」
というわけで、
生まれてから4年間、母は私の髪を切らなかった。
それで、やっと肩より少し長い程度。
ヘアスタイル
神経質だった母は、私の髪をしっかりと黒いゴムでくくり、ポニーテールか三つ編みのおさげにしていた。これで髪の毛が部屋に散乱しづらくなるわけだ。
私が頼んだわけではないが、髪飾りは必須だった。
父が仕事帰りに、アメ横でさまざまなバックルを買ってきた。
横一列の白いスワン、水色のパラソル、ピンクの子犬などなど。
両親は、たまにデパートで計り売りのリボンも買っていた。
グレーとピンクのチェックは、私も好きだった。
幼稚園には、だいたい三つ編みのおさげで行っていた。
もちろん何かしらの髪飾りを付けて。
時には、なぜかカチューシャまでして。
青天の霹靂
ヘアスタイルなんて、そんなものだと思っていた。
ところが!
ある日、幼稚園から帰った私に母が聞いた。
「髪の毛、自分でできる?」
できる気もしなかったし、したいとも思わなかったので、
私は「できない」と即答した。
すると母は、
「じゃあ、切ろうね」と言った。
「髪の毛を切る? それ、どんなこと?」
どんなことか気になったので、重ねて即答した。
「うん!」
美容院でカット
そして翌日の幼稚園の帰りに、美容院へ行くことになった。
1964年当時、「美容室・ヘアサロン」などという呼び名はなく、「美容院」あるいは「パーマ屋さん」と言っていた。
久しぶりに母が幼稚園に迎えに来た。
帰る途中で美容院に寄るのだ。
私は、女の子らしい長い髪への執着がまるでなかった。
さすがに丸坊主はイヤだと思ったが、仕上がったショートカットに満足した。鏡の中に、なんだかサッパリした自分がいるではないか。
「これで、髪飾りのスワンやパラソルたちとサヨウナラだな」とは思った。
ようやく気づく
翌日、私は短い髪を自らブラシでとかし、登園の支度をしていた。
そこで気がついた。
「誰が、髪の毛を結ってあげていると思っているのっ!」
もう母に、コレを言われなくて済む!!!
幼稚園の送迎
お弁当づくり
歯医者の送迎
髪の毛を結う
4歳にして、私はこれらをすべてクリアした。
バンザイ!……、なのか?
⑥自立前夜-1・全身麻酔で手術
1963年12月。3歳。
右手にできた脂肪腫切除のため、
全身麻酔による手術を受けた。
私は、親から説明を受け、自分が了解さえしていれば泣かない子どもだった。理解はできなくても、「そういうことか」と納得できればいい。
病院に行く
2歳のころから、右手親指の付け根に違和感があった。何かの拍子に親指がガクンと外を向き、自分で元に戻そうとしても、痛くて戻せない。仕方がないので、そのままで過ごしていると、親指はいつの間にか元に戻っている。
3歳になって、親が医者に診せた。
すると親指の付け根に脂肪の塊があることがわかった。
脂肪の塊? モーパッサン?
いやいや、3歳が『Boule de suif』なワケがない。
とか、くだらないことはおいといて、
その脂肪の塊を除去する手術を受けることになった。
3歳児の理解
親から説明を受けたとき、3歳の私が認識できた言葉は、下記の4つくらい。
「しゅじゅつ」
「しゅじゅつしつ」
「あぶら」
「きる」
「手術をしたら、親指の変な感じはなくなる」と理解して、うれしかった。遊んでいる最中に、いきなりガクッと親指が変な方向に向くと、テンションだだ下がりだったから。
加えて、むくむくとわき上がる好奇心。
「手術室って、どんなところ?」
こういうとき、私はまず泣かない。
手術室を見てみたいと思って、手術の日を心待ちにした。
手術室とは別に、もう一つの楽しみがあった。
比較的規模の大きい病院だったため、売店があったのだ。
売店にて
駅の売店は知っている。
だが病院のアレは何だろう?
そう思って母に聞いた。
すると「売店よ」と教えてくれた。
教えてくれただけでなく、連れて行ってくれた。
なんと、そこにはペコちゃんの形をしたチョコレートが!!!
私は、2歳から不二家のパラソルチョコで育った。
父のおみやげ
1962年、2歳になった私に、父は、降るようにお土産を買ってきた。不二家のパラソルチョコは、ほとんど毎日。
出版取次の営業という仕事柄、父は出張が多かった。あまり家にいなかったが、出張のない日々は、もう毎日が「おみやげデー」。
マッキントッシュの缶入りキャンディやシガーチョコ、森永ハイクラウン。和菓子だったら、舟和の芋ようかん、あんこ玉。
しかし病院の売店で見つけた、ペコちゃんの形をしたチョコレートは初めて! 正確には、ペコちゃんの顔の部分がチョコレートになっていた。
こんな出会いもあって、病院は私にとって楽しい場所になった。
手術当日
そして迎えた手術の日。
私は母に頼んだ。
「ペコちゃんのチョコを買っておいてね」
母は快諾してくれた。
手術は日帰りだった。だから病室には入っていない。どこかでモスグリーンの手術衣に着替えた気がする。母は私の服を畳んで、風呂敷に包んでいた。
看護婦さんが迎えに来てくれて、母と一緒に憧れの手術室に向かった。白い廊下を歩いてゆくと、途中で看護婦さんが立ち止まって言った。
「お母さんは、ここから先へは入れません」
「一緒に行こうね」
こう言って、看護婦さんは3歳の私の手を取った。
私は母にバイバイをして、看護婦さんと二人で手術室に入ることになった。
手術室の前に、モスグリーンの子ども用のスリッパがあった。それを見たとき、うれしかった。
家には、2歳のときから愛用している子ども用のスリッパがあった。それを思い出したのだ。
そのスリッパは赤くて、フワフワしたウサギの耳が付いている。だから親も私も、それを「ウサギのスリッパ」と呼んでいた。
「手術室に入るには、この緑色のスリッパを履くのだな」
そう思いながら、スリッパを履いた。
そして、ついに手術室の扉が開いた!
手術室の中
何人かの大人がいた。
白っぽいものを着ていた。
体の輪郭だけしか覚えていない。
ただ、室内はモスグリーンで統一されていた。
手術台に上がって横になると、
男の先生が私に言った。
「今から注射をするから、ちょっとチクッとするよ」
注射針が刺さった瞬間、
「ウッ!」と声を出した。
すると先生は、
「大丈夫。もう痛くないからね」
「これから一つずつ数を数えよう。ひとつ、ふたつ……」
私の記憶は、
先生の後について、
「ふたつ」と言ったところで途切れている。
目が覚めたら、手術は終わっていた。
また看護婦さんが、母のところに連れて行ってくれた。手術を終えた私の頭には、ペコちゃんのチョコレートのことしかなかった。
「ママ、ペコちゃんのチョコは?」
予想外の言葉が待っていた。
「今日ね、売店がお休みだったの」
「だからペコちゃんのチョコはないのよ」
このとき私は、
「ああ、そうなの」と言っただけ。
麻酔が切れるとき
そして母と二人、タクシーで帰途についた。
タクシーを待っているときに母が言った。
「今から麻酔が切れてくるから、痛くなるはずなの。我慢してね」
タクシーの中で、右手がジンジンしてきた。
「これか!」と思った。
そして、
「これを我慢すればいいのだな」と了解した。
だから私は泣いていない。
家に着くと、横になるように母に促された。
「寝たら、痛みも消えるから」
そして、一人でベッドに入って眠った。
お気に入りの「赤いゾウ」のぬいぐるみを抱いて。
⑦自立前夜-2・武蔵野アパート立てこもり事件
1962年、2歳。
私は武蔵野アパートで両親と暮らしていた。
ある朝、母と口論の末、
コンクリートの建造物に立てこもった。
聞き分けのよい子ども
私は、親から「するな」と禁止されたことを、あえてするタイプの子どもではなかった。
母からは常々、「人の物を勝手に触ってはいけない」と言われていた。2歳の私は、父と一つの棚を共有していた。上部の、ガラス戸が付いたほうが父のエリア。そして下部の、ガラス戸がないほうが私のエリア。つまりオモチャ入れ。
親の持ち物に興味がなかったので、すぐ上とはいえ、父のエリアに勝手に触れたことはない。
My first 三輪車
ある朝、母が「ゴミ出しに行ってくるね」と言って外へ出た。一人で置いておかれても平気。帰ってくるとわかっているから。
母が外に行った後、
「そうだ、三輪車に乗ろう」と思って、私も外に出た。
私の三輪車は、いつも1階にある家の、ドアのすぐ横に置かれていた。その日も置かれているはずだった。
ところが、ない!
「あれっ、三輪車はどこだろう?」
不審に思いながら、母がいそうな方へ歩きだした。
怒髪天を衝く
少し行くと、三輪車があった。
見知らぬ男児が乗っていた。
それを見た瞬間、私の怒りは頂点に達した。
男児に駆け寄り、突き飛ばした。
私より年長らしき男児は大声で泣いた。
母が走ってきた。
男児の横に立っている私を見て、母は言った。
「何してるの。謝りなさい!」
私は言った。
「この三輪車は、りえ君のだよ!」
「ママが貸してあげたのよ」
「人の物を勝手に触っちゃいけないんでしょ」
「だから、ママが貸してあげたの」
「りえ君の三輪車を貸してあげるんだったら、りえ君に聞かなきゃダメじゃない」
私は譲らなかった。
三輪車を貸したくなかったからではない。
私の物を、なぜ私の許可を得ずに貸してしまったのか。そのことに納得できなかったから。
コンクリートに囲まれて
ここで母が一言、私に謝れば済んだのだ、たぶん。
しかし業を煮やした母は、私をコンクリート造りの共同ゴミ入れに放り込んだ。
武蔵野アパートには12世帯が入っていた。
その日はゴミ出しの日で、アパートの奥さんたちが集まっていた。
そして、みんなで共同ゴミ入れの掃除を済ませたところだった。
2歳の私は、一人でゴミ入れの中に立っていた。
泣きもせず。
私は悪くない。
泣くことなんかない!
水洗いが済んだコンクリートのゴミ入れの中は、ひんやりしていて、かすかに生ゴミのにおいがした。
何分たっても物音がしないので、気になったのだろうか。アパートの奥さんたちが、代わる代わる私に声をかけてきた。
「りえちゃん、もう出てらっしゃい」
私は出なかった。
「ママがいいと言うまで出ない」
こう言って、声をかけてくれた奥さんたちが開けたドアを見ていた。ドアの向こうに、少しだけ日の光が見えた。
金属製のドアは、何回か開いては閉じた。
それでも私は黙って暗い中で立っていた。
ついに奥さんたちがゴミ入れの前に集合してしまったらしい。再び業を煮やした母が、
「もうっ、いいから出なさい!」と言って、今度は私を引きずり出した。
「まだ謝ってもらっていない」とは思ったが、
大人の力にかなうはずもなく、そのままズルズルと家に連れ帰られてしまった。
事件の結末
夜、同じアパートの2階住む私の名付け親、「カシワバラさん」が遊びに来た。この人は独身の女性カメラマン。だから日中は仕事に行っていて、お留守。
母から、私が強情に立てこもった話を聞いて、カシワバラさんは言った。
「そりゃ、あんたが悪いよ。この子、筋っぽいんだから」
こして私は、2歳にして「スジ屋」と呼ばれるようになった。
そんなに筋っぽいかなぁ?
※カシワバラさんが、私のことを「りえ君」と呼んでいたので、4歳まで私の一人称は「りえ君」だった。「りえ坊」とも呼んでいた。こちらが定着しなくてよかった。
※両親の呼び方を決めたのもカシワバラさん。1960年代に「パパ・ママ」と呼んでいる子どもは少なかった。