
田舎のトンボ。都会のカラス。
散歩をしていて感じたことがある。トンボが脇を飛んだ。このトンボはたぶん、俺を知らない。俺よりずっと後に生まれて、この人ケのない田舎で「人間」という存在に触れる機会もなかったろう。複眼のレーダーに、俺はただの動く生体として映ったに過ぎない。あるいは昆虫などはそもそも、そういう視認の仕方以外をするようにはその生体にプログラムされていないのかもしれない。野生のカラスはどうだろう。都会のカラスは恐らく何世代も前からヒトを知っていて、「ヒト」という属性を熟知し、その扱いを心得ているが、ここのカラスはそれと違って、俺を「ヒト」という共通言語で分類せず、ただ目の前にある「俺」という個別の現象として見つめている。「ヒト」として「俺」を見ない。そこにあるのは、記号化される前の、(比較的)無垢で純粋な応対だ。人間の話をする。時に若者は、何か「記号」を求めて、有象無象の都会へ居場所を探しに行く。けれど、田舎の静寂の中で野生と対峙すれば、自分が剥き出しの「現象」であることを直に突きつけられる。どっちが優れているかとか、どっちが幸せになれるかとか、そういった優劣の話はしていないのだけれど、結局、都会で、あるいはSNS等で他者からの承認という「記号」に埋もれようと、田舎で、あるいは他者や社会の評価に触れない場所で個別の「現象」として立っていようと、人の存在構造の本質は、どこへ行っても変わらない。何者かであろうが、何者かでなかろうが、そこに自分が立っているという事実の重みは、一ミリも変動がない、そういう前提に立ち返らされた。あるいは冷徹だけども、ある種、救いのある絶対的な肯定感に触れたという、個人的で直観的な気付きを得た、というだけの話。