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校長室から見えた公教育の現実

    学校の判断には、いつも複数の正しさがある。
    今年、体育的行事の予行と実施日を、それぞれ一日繰り上げた。
    当初の実施予定日以降、雨が続く予報であった。予定どおり進めれば、実施そのものが難しくなる可能性が高い。順延しても、天候が回復する見込みは立たない。

    担当の教員から、提案があった。
    「生徒たちは、この日のために頑張ってきました。順延しても実施できる見込みが立ちません。何とかやらせてあげるためには、一日繰り上げるのが最善だと思います」
    その言葉には、担当者としての責任と、生徒への思いがあった。
    日程を繰り上げることは簡単ではない。授業、家庭連絡、係分担、準備物、会場設営、教員全体の合意形成など、確認すべきことは多い。

    それでも、私はその提案を重く受け止めた。
    学校行事は、単に予定表に書かれた一日ではない。そこに向けて、生徒が積み重ねてきた時間があり、係の仕事、練習、仲間との関係、当日を迎えたい思いがある。

    学校が判断すべきなのは、「予定どおりかどうか」だけではない。
    生徒の安全を守りながら、生徒の学びと成長の機会をどう確保するか。教員の提案を、学校全体の判断としてどう形にするか。その両方を考えなければならない。

    結果として、予行と実施日をそれぞれ一日繰り上げることにした。
    それは、単なる日程変更ではなかった。生徒の努力を無駄にしないために、学校全体で動くという判断だった。予定を守ることよりも、教育活動の意味を守ることを選んだ判断だった。

    だが、学校経営の難しさは、そこで終わらない。
    体育的行事の実施日に、近隣の高校の一部が翌日にオンライン授業を実施するという情報が入ってきた。
    一見すると、本校も同じように対応した方がよいのではないかと思える。周囲が動けば、保護者や生徒が他校と比較することもある。

    しかし、オンライン授業には前日の準備が必要である。時間割、教材、配信方法、出欠確認、家庭への連絡、生徒への周知。形だけオンラインにすればよいわけではない。

    その日は、まさに体育的行事の実施中であった。
    行事中に最優先すべきことは、生徒の安全である。熱中症、けが、体調不良、係活動、競技運営。学校全体が、生徒を見守ることに集中しなければならない。
    その最中に、翌日の授業形態を急に変更する準備を進めることは現実的ではなかった。

    本校には、生徒手帳やホームページに示している荒天時の基本方針があった。朝7時の時点で、大雨警報と暴風警報の両方が発令されている場合、自宅学習とする。大雨警報だけでは対象とならない。

    私は、その方針に従い、翌日は平常授業を実施すると決めた。
    それは、状況に鈍感だったからではない。他校の対応を軽く見たからでもない。
    むしろ、その時点で本校が最も責任をもてる判断は何かを考えた結果である。

    学校は、周囲に合わせて動けばよいわけではない。他校の対応から学ぶことはある。だが、最終的には、自校の状況、準備、生徒、教職員体制を踏まえて判断しなければならない。

    変えることには責任がある。
    同じように、変えないことにも責任がある。

    体育的行事の閉会式で、私は生徒に話をした。
    まず伝えたのは、行事に取り組んできた生徒たちへの称賛である。係、競技、応援、それぞれの姿には、日常の授業だけでは見えにくい成長があった。
    学校行事には、そうした力がある。
    生徒は、行事の中で役割を引き受ける。仲間と協力する。思うようにいかないことを乗り越える。勝敗を受け止める。自分のためだけでなく、集団のために動く。
    だから私は、生徒たちの頑張りを率直に讃えた。

    しかし同時に、もう一つのことも伝えた。
    行事が終わったからといって、翌日の学校生活を軽く扱ってよいわけではない。疲れや達成感を理由に、安易に学校を休むことが当たり前になってはいけない。

    学校行事は、日常の学びから切り離された特別な一日ではない。
    行事で頑張ることも大切である。
    その翌日に、いつもの学校生活へ戻ることもまた、大切である。

    そして教務主任から、生徒に荒天時の基準を説明してもらった。
    大雨警報だけでは自宅学習にはならないこと。朝7時の時点で、大雨警報と暴風警報の両方が出ているかを確認すること。その基準を理解したうえで、翌日の行動を判断してほしいこと。

    こうした基準は、単なる形式ではない。
    非常時の判断ほど、事前に示した基準が重要になる。基準が曖昧であれば、生徒も保護者も迷い、情報が錯綜し、安全な判断がしにくくなる。

    翌朝、台風が到来した。
    天気は悪かった。欠席連絡システムには、朝から多くの欠席連絡が入ってきた。前日の行事の疲れもあっただろう。雨の強さを見て、登校を迷った家庭もあっただろう。
    しかし、朝7時の段階では、本校の自宅学習基準には該当していなかった。
    出ていたのは、注意報である。大雨警報と暴風警報の両方が出ていたわけではない。
    したがって、学校としては、あらかじめ示していた基準どおり、平常授業を行う判断となる。

    ところが、8時過ぎに状況が変わった。
    「大雨警報」が発令されたのである。
    学校の判断で難しいのは、こういう場面である。基準は必要である。だが、現実の天候は、学校が決めた時刻に合わせて動いてくれるわけではない。

    朝7時の時点では基準に該当しない。
    しかし、その後、状況は変わる。
    登校している生徒もいれば、欠席連絡を入れている生徒もいる。
    学校には、すでに教員が集まり、授業の準備が進んでいる。

    雨が強くなれば、自転車通学の生徒にとって登校が難しくなることは分かっている。
    保護者として心配になる気持ちも理解できる。だからこそ、学校は荒天時の基準を示し、入学時にも代替の交通手段を確認するよう伝えている。
    それでも、雨が降るたびに学校を休むことが当たり前になってしまってよいのか。
    私は、そこに学校としての大切な線があると思っている。

    欠席連絡の中には、「雨のため休ませます」というものもあった。もちろん、家庭にはそれぞれの事情がある。安全上の判断が必要な場合もある。無理な登校を求めるつもりはない。
    しかし、学校として、安易な欠席をそのまま当然のものとして受け止めてよいのかという問題は残る。

    特に三年生にとって、一学期の授業は重い意味をもつ。進路に関わる成績が決まっていく時期であり、一時間一時間の授業が、単なる日課ではなく、将来に結びつく学びの機会である。
    その授業を保障することも、学校の責任である。

    もしこれが受験の日だったらどうするのか。
    大切な面接の日だったらどうするのか。
    社会に出てから、重要な仕事の日だったらどうするのか。

    もちろん、危険を冒してまで登校すべきだという話ではない。安全を軽視しているのでもない。
    だが、安全に配慮しながら学校へ向かう方法を考えることも、社会に出るための大切な準備である。天候が悪いからすぐ休む、予定が変わったから簡単に諦める姿勢を学校が無条件に認め続ければ、生徒を本当に育てたことにはならない。

    生徒を大切にすることと、生徒に安易な判断を許すことは違う。
    保護者の不安を受け止めることと、学校としての教育的な線を失うことも違う。

    だから私は、この日は平常授業を行う判断を変えなかった。
    それは、意地ではない。学校として守るべき授業の機会を守るためであり、生徒に日常へ戻る力を身に付けてほしいという思いからである。

    学校の真価は、特別な行事の日だけに問われるのではない。
    行事が終わった翌日、雨が降り、気持ちが緩みそうになる朝にこそ問われる。
    その一日をどう扱うかに、学校の教育観が表れる。
    とはいえ、判断は理念だけで完結するものではない。

    朝の段階で、生徒の登校状況を確認した。天候の影響もあり、全体として一時間目の始業に間に合わせることは難しい状況だった。

    ここで必要なのは、平常授業を掲げることだけではない。現実の登校状況を踏まえ、生徒の安全と授業機会の確保を両立させることである。

    教務部から、始業を一時間遅らせ、四十分の六時間授業として実施する案が示された。
    私は、その提案を受け入れた。

    授業をなくすのではない。
    しかし、無理に通常どおり始めるのでもない。
    登校の実態を見ながら、できる限り授業の機会を守る。
    それが、その朝の本校にとって最も責任ある判断だと考えた。

    特に三年生にとって、一学期の授業は進路に関わる大切な時間である。多くの三年生は三時間目からの登校であったため、学校としての対応を早い段階で明確にしておく必要があった。

    私は副校長に、生徒と保護者へ本日の対応を周知するよう指示した。

    始業を一時間遅らせること。
    四十分授業で六時間の授業を実施すること。
    学校として、授業の機会を確保する方針であること。

    こうした連絡は、単なる事務処理ではない。
    学校が何を大切にしているのかを示す行為である。安全を軽視しているのではない。天候の影響を無視しているのでもない。だが、授業を簡単に失わせない。生徒の学びを、できる限り保障する。
    そのために、教務部が案を出し、副校長が周知し、教職員が同じ理解で生徒を迎える。

    校長の判断とは、校長一人が前に出ることではない。
    学校という組織が、同じ方向を向いて動けるようにすることである。

    後日、この件を振り返る中で、別の課題も見えてきた。
    本校の自宅学習基準は、近隣校と比べても厳しいものだった。また、近年は警報の運用や気象情報の出され方にも変化があり、かつての基準が今の状況に合っているとは限らない。
    そこで、改めて基準を見直す必要があるのではないかという話になった。
    それは当然のことである。

    学校の基準は、一度決めたら永久に変えないものではない。生徒の通学実態、地域の状況、気象情報の変化、近隣校の対応、保護者の受け止め。それらを踏まえ、必要があれば見直していくべきである。
    しかし、ここに難しさがある。
    後から基準を見直すことと、今回の判断を遡って曖昧にすることは、同じではない。
    その時点で学校が示していた基準があり、生徒にも保護者にも説明していた。そのうえで、登校状況を見て始業を一時間遅らせ、授業機会をできる限り保障する対応を取った。

    あとから見直しが必要だと分かったとしても、その日の判断をなかったことにはできない。
    学校経営の難しさは、ここにある。

    判断した時点では、持っている情報と基準の中で最善を選ばなければならない。
    しかし、判断した後には、その基準自体が本当に適切だったのかを問い直さなければならない。

    判断には一貫性が必要である。
    同時に、学校には更新する柔軟さも必要である。

    一貫性だけでは、硬直する。
    柔軟さだけでは、信頼を失う。

    その間で、学校は日々判断している。

    この一連の出来事は、私に学校経営の難しさを改めて突きつけた。

    行事を一日前倒しして実施する判断。
    翌日の平常授業を基本とする判断。
    生徒に基準を説明し、日常へ戻る心構えを伝える判断。
    翌朝の登校状況を見て、始業を一時間遅らせる判断。
    そして、その後に基準そのものを見直そうとする判断。
    どれも、簡単ではなかった。
    だが、学校とは、そういう場所なのだと思う。
    判断し、説明し、実施し、振り返り、必要ならば改める。
    その繰り返しの中でしか、学校は強くならない。

    この一連の流れの中で、私はもう一つの変化を感じていた。

    私は本校に着任して3年目になる。
    着任当初、前任の校長から、この学校の教員集団について厳しい言葉を聞かされていた。自ら考えて動くことが十分ではなく、指示を待ち、責任の所在が曖昧になりがちだという趣旨だった。
    もちろん、どの学校にも歴史がある。外から来た者が、簡単に一つの言葉で評価できるものではない。そこには、その学校なりの事情があり、積み重ねがあり、人間関係がある。
    それでも、着任当初の本校には、旧態依然とした組織の空気が残っていたことも否定できない。
    以前からいる教員と転入してきた教員との間に、学校観や仕事の進め方の違いが見えることがあった。責任の所在が曖昧なまま、当事者意識を欠いた発言が出ることもあった。
    そして何より、真面目に引き受ける人に仕事が集まり、うまく距離を取る人が結果的に楽になるという不均衡があった。

    これは、どの学校にも起こり得る問題である。
    しかし、見過ごしてよい問題ではない。
    本当に学校を支えているのは、声の大きい人だけではない。生徒のために地道に準備し、困難な場面で逃げず、必要な仕事を最後まで引き受ける教員である。
    そういう人が疲弊し、報われない職場であってはならない。

    今回、体育的行事の日程変更や、その後の荒天対応の中で、教員たちは自ら考え、学校として最善の方法を提案してきた。
    それは、教員の都合を優先する提案ではなかった。

    生徒に何とか行事を経験させたい。
    授業の機会をできる限り保障したい。
    安全を守りながら、学校として責任ある対応をしたい。

    そういう提案だった。
    もちろん、異動による人の入れ替わりも大きい。新しく入ってきた教員の姿勢や発想が、学校の空気を変えることもある。
    しかし、それだけではない。

    3年目に入り、この学校の教員集団は、少しずつ自ら考え始めている。少なくとも、今回の一連の判断の中には、その変化が確かに表れていた。
    だからこそ、今こそ大切にしなければならないことがある。

    真面目で誠実な人が報われる職場をつくることである。

    責任を引き受ける人が疲弊し、うまく手を抜く人が残る組織にしてはならない。生徒のために考える人が損をする学校にしてはならない。
    学校を変えるとは、派手な改革を掲げることだけではない。
    誰が生徒のために動いているのかを見極めること。
    必要な責任を必要な人に返すこと。
    黙って支えている人の努力を見逃さないこと。
    そして、学校全体のベクトルを、生徒の成長に向けてそろえていくこと。
    そこからしか、学校は本当には変わらない。

    校長室には、毎日のように判断が持ち込まれる。
    それは、教科書にも、通知にも、マニュアルにも、はっきりとは書かれていない判断である。

    配慮を要する生徒に、どこまで個別の対応をするか。保護者の不安にどう向き合うか。疲弊している教員をどう支え、責任を曖昧にする空気をどう正すか。

    学校経営とは、このような「正解のない判断」の連続である。

    もちろん、学校には制度がある。法令がある。学習指導要領がある。教育委員会からの通知もある。校内には分掌があり、会議があり、年間計画がある。

    しかし、現実の学校で起こる出来事は、いつもその枠の中にきれいに収まるわけではない。
    生徒には事情がある。保護者には願いと不安がある。教員には専門性も限界もある。地域の期待も世間の目もある。そして、学校には今日も明日も教育活動を止められない現実がある。
    その中で、誰かが判断しなければならない。

    校長という仕事は、華やかな仕事ではない。むしろ、日々の多くは、見えにくい調整と、迷いを伴う判断の積み重ねである。

    どちらを選んでも、誰かに不満が残ることがある。十分に説明しても、伝わりきらないことがある。安全、学習保障、教員の負担軽減、それぞれの正しさの間で折り合いをつけなければならない。

    学校の判断には、いつも複数の正しさがある。
    だからこそ、校長室に持ち込まれる問題は、単なる事務処理ではない。そこには、学校が何を大切にするのかという価値判断が含まれている。
    私は、長く学校現場に身を置いてきて、学校の揺らぎは、ある日突然、大きな事件として現れるのではないと感じている。

    揺らぎは、もっと小さなところから始まる。
    たとえば、授業の到達目標が共有されていないこと。評価基準が曖昧なこと。学年や教科の合意形成が不十分なまま、個々の裁量だけで物事が進むこと。

    あるいは、生徒指導で責任の範囲が曖昧なこと。保護者対応で情報共有が遅れること。会議で決まったことが徹底されないこと。言いにくいことを言わず、空気だけが重くなること。

    こうした一つひとつは、外から見れば小さなことに見えるかもしれない。
    しかし、学校は、その小さな積み重ねで成り立っている。

    授業、生活指導、進路指導、特別活動、探究活動、部活動、保護者対応、地域連携、危機管理。これらが複雑に絡み合って、初めて一つの学校が動いている。
    だからこそ、どこか一か所の緩みが、やがて学校全体の揺らぎにつながっていく。

    学校には、風通しが必要である。
    ただ仲良くするという意味ではない。耳ざわりのよい言葉だけを並べるという意味でもない。
    それぞれが自分の責任をもち、必要なことをきちんと伝え合うこと。管理職だけが背負うのではなく、教員一人ひとりが学校をつくる当事者として関わること。違和感を放置せず、問題が小さいうちに言葉にすること。

    責任を曖昧にせず、それぞれが責任をもつ。
    コミュニケーションを重視し、風通しのよい学校をつくる。

    言葉にすれば、当たり前のことに聞こえる。

    しかし、この当たり前を学校の中で実現することは、簡単ではない。

    学校は、人間の集まりである。立場があり、経験があり、感情がある。正論だけでは人は動かない。強く言いすぎれば萎縮する。言わなければ伝わらない。任せすぎればばらばらになる。管理しすぎれば主体性が失われる。

    学校経営に必要なのは、単なる管理ではない。
    人を見る力であり、関係を整える力であり、判断を引き受ける覚悟である。

    生徒も変わった。
    かつての学校観だけでは、いまの生徒たちを理解することはできない。スマートフォンやSNSは教室の中に深く入り込み、人間関係のトラブルは放課後や休日にも続く。小さな言葉の行き違いが、一瞬で広がることもある。
    配慮を要する生徒も増えている。学習面、生活面、心理面、家庭環境。それぞれの事情を抱えた生徒がいる。学校は、これまで以上にきめ細かな対応を求められている。

    保護者もまた変わった。
    学校への期待は大きい。一方で、不安も強い。情報の伝わり方も速くなった。学校の説明が少しでも遅れれば、不信感につながる。学校が何を考え、どのように判断したのかを、丁寧に伝える力が必要になっている。

    そして、教師も変わった。
    若い教員の中には、誠実で、真面目で、生徒に寄り添おうとする者が多い。だが同時に、学校という厳しい現場に入る準備が十分でないまま、教壇に立つ者もいる。
    教科の知識だけでは、教師は務まらない。
    授業をする力は必要である。しかし、それだけではない。社会人としての責任感、保護者や同僚とのコミュニケーション能力、困難な場面に向き合う力、生徒の変化に気づく力、自分の言葉で説明する力が必要である。

    私は、ここに大きな課題を感じている。
    教員養成の段階で、もっと現場の現実を伝えなければならないのではないか。
    教育実習の前に、学校とは何か、教師とは何か、生徒の前に立つとはどういうことかを、もっと深く考えさせる必要があるのではないか。

    教育実習生を受け入れると、こちらも多くのことを考えさせられる。
    実習生の中には、真剣に教師を目指し、生徒と向き合おうとする者がいる。授業を準備し、失敗し、悩み、少しずつ教師の表情になっていく姿を見ると、学校として受け入れる意味を感じる。

    以前、実習生の授業を見たことがある。準備した指導案どおりには進まなかった。生徒の反応は予想と違い、説明は途中で少し混乱した。本人も、終わった直後は肩を落としていた。

    だが、その後の振り返りで、表情が変わった。
    「自分が話すことより、生徒が何を考えているかを見ることが大事だと分かりました」
    その言葉を聞いたとき、私は、教師になる入口はここにあると思った。
    うまく授業をこなすことだけが大事なのではない。失敗したときに、生徒の姿に戻って考えられるか。自分の言葉や方法を問い直せるか。教師としての責任を、少しずつ自分のものとして引き受けられるか。
    そこに、教員養成の意味がある。

    一方で、教師になる意思が曖昧なまま、資格取得の一過程として学校に来る者もいる。入口では迷いがあってもよい。だが、学校現場は、単なる体験の場ではない。
    そこには生徒がいる。日々の授業がある。保護者がいる。教員の仕事がある。教育実習生を受け入れることは、学校にとって大切な役割であると同時に、決して軽くない負担でもある。
    だからこそ、入口から正さなければならない。

    教師になるとは、どういうことなのか。
    学校で働くとは、どういうことなのか。
    生徒の前に立つとは、どういう責任を引き受けることなのか。
    それを、大学の教職課程で、もっと現実に即して考えさせる必要がある。

    私は今、大学教育に強い関心をもっている。
    それは、現場から逃げたいからではない。むしろ逆である。
    長く学校現場に立ってきたからこそ、次の世代に伝えなければならないことがあると感じている。
    教育原理も、教育課程論も、特別活動も、生徒指導も、教職実践演習も、単なる知識として教えるだけでは足りない。
    現場で何が起きるのか。教師はどこで迷うのか。学校はどこから揺らぎ始めるのか。そして、その揺らぎの中で、教師は何を守らなければならないのか。
    そこを伝えることが、これからの教員養成に必要なのではないか。

    学校を支えるものは、最終的には人である。
    制度も予算も教育委員会の支援も大切である。だが、最後に生徒の前に立つのは教師である。保護者の声を受け止め、困難な判断をするのも、学校にいる人間である。
    だから私は、学校を立て直すということは、人を育て直すことでもあると思っている。
    それは、生徒を育てることだけではない。教師を育てること。管理職を育てること。学校という組織を、責任ある大人たちの集団として育て直すことである。

    学校は、決して理想だけで動いている場所ではない。
    そこには矛盾がある。限界がある。不満がある。時には理不尽もある。努力が報われないこともある。正しいことを言っても、すぐには変わらないこともある。

    それでも、学校には意味がある。
    一人の生徒が、自分の可能性に気づく瞬間がある。行事や探究活動を通して前に出る生徒がいる。教員の一言で表情が変わることがある。進路が決まり、卒業式の日に、三年前とは違う顔つきで校門を出ていく生徒がいる。
    そういう瞬間を見てきたから、私は学校を簡単に見限ることができない。

    学校は、どこから揺らぎ始めるのか。
    それは、責任が曖昧になったときである。
    対話が途切れたときである。
    授業の意味が共有されなくなったときである。
    生徒を中心に考えるという原点が、忙しさや慣れの中で見えなくなったときである。
    そして、真面目で誠実な人が報われなくなったときである。

    では、学校はどこから立て直せるのか。
    それもまた、小さなところからである。
    授業の目標を共有すること。評価の基準を明らかにすること。困ったときに一人で抱え込ませないこと。それぞれが自分の持ち場を引き受け、会議を学校を動かす場にし、生徒の変化を見逃さず、保護者に丁寧に説明すること。

    そして、教師を目指す若者に、学校の美しさだけでなく、厳しさも伝えること。

    学校は、完璧な場所ではない。
    しかし、不完全だからこそ、人が関わる意味がある。不安定だからこそ、支える人間が必要になる。揺らぐからこそ、そこに立つ覚悟が問われる。

    私は校長として、数多くの判断をしてきた。
    うまくいったこともあれば、悔いの残ることもある。もっと早く気づくべきだったと思うこともある。別の言い方ができたのではないかと思うこともある。
    それでも、学校の中で起きる一つひとつの出来事に向き合ってきたという自負はある。
    そして今、その経験を、次の世代に渡したいと思っている。

    学校は、どこから揺らぎ始めるのか。
    その問いに向き合うことは、学校を責めることではない。教師を責めることでも、生徒や保護者を責めることでもない。
    もう一度、学校を人が育つ場所として立て直すための、最初の作業なのだ。
    学校は、まだ終わっていない。
    だから私は、これからも学校について考え続けたい。現場で起きていることを言葉にし、次の世代の教師に伝え、学校を支える人を育てたい。

    公教育の現実は厳しい。
    だが、その現実の中にこそ、教育の希望は残っている。
    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

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