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「子育てケアマネ」に喝采する前に。支援制度に必要なのは“届く設計”と自由の尊重


[Crumii]の『炎上中の「子育てケアマネ」について詳しく聞いてみるとだいぶ印象が違った件』(2024年4月)によると、「ケアマネの真意は単なる相談先ではなく、妊娠中からの“伴走型支援”」であり、25歳以下の妊婦への家庭訪問型支援「アーリーパートナーシップ」がその一例として紹介されている

https://www.crumii.com/categories/srhrandowomensmedical/nbpswbo6wisn3m5to9ewymq3

記事では、「他に優先すべきことがあると思っていたが、実は自分にとっても必要な制度だった」と印象を変えるプロセスが語られている。
その“気づき”には確かに意味がある。でも一方で、制度を語る際に感情の納得だけで終わることの危うさも、同時に感じざるを得なかった。


「いい制度だから正しい」とは限らない。“届くかどうか”こそ問われるべき

制度の理念に共感できるかどうかと、それが現場で機能しているかはまったく別の問題だ。
「価値観の押しつけのない支援」も「研修を受けたチームによる伴走」も理想的に聞こえる。
けれど、その制度に誰が、どうやって、たどり着くのか。そこが曖昧なままでは、理想は絵に描いた餅になる。

支援は「声を上げた人のもの」ではなく、声を上げられない人にも自然に届くものであるべきだ。
そしてそれは、単に支援の数を増やすこととは違う。



「制度に出会えた人」の話の裏に、取りこぼされた人たちがいる

「話を聞いて制度の価値に気づいた」「誤解していた」といったプロセスも大切だ。
でも、これは制度と偶然つながれた人のストーリーであって、構造的な支援格差はそのまま残っている。

むしろ多くの人は、支援にたどり着くことすらできず、声も上げられないまま日々をこなしている。
そんな現実を前にして、「いい制度ですよね」で終わる話ではないと思う。


厚労省のデータが示す、“支援が間に合っていない現実”

厚生労働省の『令和5年度 福祉行政報告例』(2024年3月)によると、「2023年度の児童相談所における虐待対応件数は22万5,509件で、特に“0~3歳の子ども”に集中している。心理的虐待が約60%、身体的虐待が約23%を占め、加害者の約49%が実母だった」

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/gyousei/23/dl/gaikyo.pdf

さらに、0歳児の虐待死の4分の3は生後3ヶ月以内に集中している(第18次「子ども虐待による死亡事例の検証結果」より)。

つまり、支援の網が届く前に命が失われている。
“制度があるかどうか”ではなく、“誰に届いているか”が本当に問われなければならない。



支援は「思い」ではなく「設計」で届くもの

「ケアマネの支援に救われた」という声は大切だ。
けれど、それを“いい話”として拍手して終わってしまえば、本質的な課題は見過ごされてしまう。

支援が「泣いて頼めた人」だけのものになるなら、それは“声の大きさ”で線引きされてしまう世界だ。
そうではなく、「見つけなくても届く」設計が必要なのだ。


「誰も取りこぼさない支援」は、国家が入り込むことではない

ここで気をつけたいのは、「誰にも取りこぼさない支援」を掲げるあまり、過剰に国家が家庭や個人の自由に介入してしまう構図だ。

支援は、「困っている時だけに静かに機能する仕組み」であるべきだ。
そしてそれは、「声を上げずとも届く」けれど、「声を上げない限りは自由を侵さない」──
そんな限定的で、精密な制度設計が目指されるべきだと考える。


本当に必要な支援とは、“自力で届かなくても使える”ものでありながら、“依存を生まない”ことが前提であるべきだ。

支援が必要な人が、自分から「助けて」と言えるとは限らない。
だからこそ、支援の設計そのものを見直す必要がある。

“申請した人だけが使える”社会から、“拾いに行く制度”へ

いま必要なのは、「支援があること」ではなく、「誰にどう届くのか」という仕組みの再設計だ。

  • 妊娠届出の段階から、支援の届きにくさを抱える人に早期に気づけるような設計

  • 健診・訪問などを通じて、状況の変化を継続的に見守れる仕組み

  • 自己申告に頼らず、「支援が必要な状況そのもの」を拾い上げる制度

  • 所得や家庭構成に応じて、必要な支援情報が自動で提示される導線

これらは、誰かを管理するためではなく、“沈黙している人の自由を守る”ための設計であるべきだ。
つまり、“声を上げた人のため”ではなく、“声を上げられない人のため”の支援へ。


支援を“構造で届ける”という思想

こうした「設計ベースの支援」が広がれば、支援の対象は「声の大きい人」ではなく、「本当に必要な人」に届くようになる。
そしてそれは、最小限の介入で最大限の効果を発揮する、自由主義的制度設計にも近づいていく。

自由と支援は、相反するものではない。
“届け方の原則”を見直すことで、両立させる道筋はきっとある。

最後に問いたい。「この制度、誰のために、どう届いているのか?」

制度は理念ではなく、構造として機能して初めて意味がある。
「いい話だった」で終わる制度ではなく、「仕組みがあるから救われる」制度を。
それはきっと、声を上げなくても自由に生きられる社会に近づく一歩だと信じている。




制度の理念に共感することと、それが現場でちゃんと機能しているかどうかは、また別の話。
火曜の記事では、こうした支援のあり方が、私たちの「自由」とどう重なって、どうぶつかっているのかを、もう少し丁寧に考えてみようと思います。

次回:支援される自由、支援されすぎる不自由(4/29公開予定)


「やさしさ」の名をした支援が、重たく感じることはありませんか。
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