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紫陽花

    【あらすじ】
     明(あきら)は、孤独への強い恐怖を抱えた青年。高校時代に担任だった三佳(みか)に救われ、卒業後も十年を共に暮らしてきた。二人は家族として愛し合っているはずだったが、明は自分の想いが家族愛ではなく、初めから恋だったのだと気づく。けれど三佳は明を恋人としては見られず、明は彼女の幸せを願って離れることを選ぶ。叶わなかった恋と紫陽花の約束が、八十年近い時を経て再び花開くまでの物語。

    【本文】

     人の強い想いは、雨を吸った根のように、見えない場所で生き続ける。
     たとえ長い季節を超えようとも、いつかまた花が開く時が来る。

         *

     六月の湿り気を帯びた夜、浴室の中は白く柔らかな湯気に包まれていた。
     窓のない浴室の外では、きっと雨が降っている。そう思わせるほど、空気はしっとりしていた。今頃、街のどこかの紫陽花も、雨を含んで少しだけ頭を垂れているかもしれない。
     古い一人暮らし用の部屋にある、お世辞にも広いとは言えない浴室だった。
     浴槽も、洗い場も、二人で使うには少し窮屈で、どちらかが身じろぎをするたびに膝や肩が触れ合った。それでも、明(あきら)はこの狭さが嫌いではなかった。
     むしろ、好きだった。
     世界が、ここだけになったような気がするからだ。
     外の音は湯気にくるまれて遠くなる。換気扇の低い唸りと、湯面が小さく揺れる音だけが、薄い膜の向こうから聞こえてくる。
     三佳(みか)の腕の中にいると、明の身体はようやく自分の輪郭を取り戻す。
     明は、三佳の胸元に背を預けていた。
    「のぼせてない?」
     頭の上から声が降ってくる。三佳の声はいつも、寒い日に手渡される毛布みたいだった。
    「大丈夫だよ」
     そう答えたけれど、明の心臓はいつもより少し速かった。
     どく、どく、と胸の奥で音がする。湯の熱のせいなのか、三佳の腕の重みのせいなのか、自分でもよく分からなかった。
    「ほんと? 顔、赤いけど」
    「お風呂だからでしょ」
    「それはそうだけど」
     三佳が笑うと、湯面に小さな波が立った。
     明は首だけを少し動かして、背後の三佳を見上げた。黒髪は湯気に湿って、いつものポニーテールからほどけている。目つきは少し鋭い。初対面の人なら怖がるかもしれない。でも明には、その目元の奥にある柔らかさが分かる。
    「三佳さん、今日も可愛いね」
     三佳の肩がぴくりと跳ねた。
    「……お風呂でそういうこと言わないの」
    「なんで? 本当のことなのに」
    「本当じゃないから困るの」
    「本当だよ。可愛い。すごく」
    「明は昔からそればっかり」
     呆れたように言いながらも、三佳の耳は少し赤かった。
     その赤みを見るたび、明は満たされた。胸の中に、温かい飴がゆっくり溶けていくような幸福が広がる。
     明が三佳と暮らすようになって十年になる。
     十八歳だった明は、今は二十八歳になった。三佳は二十七歳の高校教師だったころから十年分、年を重ねた。けれど明にとって、三佳はずっと三佳だった。自分を見つけてくれた人。抱きしめてくれた人。置いていかないでいてくれた人。
     明の母が亡くなったあの日から、世界は一度、全部崩れた。
     幼いころ、母がいない家で父の怒号が降ってきた。母がいるときは、母が殴られた。母は何度も明を連れて逃げようとした。けれど時々、母は明を置いて逃げた。そうしなければ母自身が壊れてしまう夜もあったのだと、今なら少しは分かる。けれど幼い明には、ただ世界の扉が外側から閉められたように感じられた。
     一人になると、身体が思い出す。
     頭ではもう安全だと分かっている。鍵もかかっている。殴る人もいない。怒鳴り声も聞こえない。
     それでも、胸の奥だけが昔の暗い部屋に戻ってしまう。
     息が浅くなり、指先が冷え、膝に力が入らなくなる。
     置いていかれた夜のことを、身体だけがまだ覚えていた。
     高校三年のころ、明はほとんど喋らない生徒だった。友達も少なく、教室の隅に座り、なるべく誰の迷惑にもならないように息をしていた。そんな明の担任が三佳だった。
     母が病死したあと、明は学校に行けなくなった。
     三佳は家まで来た。玄関の前で何度も名前を呼んだ。返事がなくて、管理会社や関係各所に連絡して、ようやく明を見つけたとき、明は部屋の隅で膝を抱えていた。立つこともできず、何も食べられず、ただ震えていた。
     あのときの三佳の腕の温かさを、明は今でも忘れない。
     正しい手続きとか、教師としての立場とか、三佳はきっといろいろなものに悩んだのだと思う。実際、あの頃の彼女は何度も大人たちに頭を下げ、説明し、確認していた。明の前では見せなかっただけで、疲れた顔をしている日もあった。
     それでも彼女は、震える明の指先を離さなかった。
    「うちにおいで」
     その言葉に、恋の色はなかった。
     あったのは、放っておけないという、少し不器用な優しさだけだった。
    「私も一人は寂しいから。明がいてくれたら、私も助かる」
     その言葉は、明を救うための優しい嘘だったのかもしれない。
     けれど十年経った今、明は知っている。
     三佳もまた、本当に寂しがり屋だった。
     両親の離婚を経験して、平気な顔の下に置き去りの痛みを隠している人だった。大きな身体で、おおらかで、底抜けに優しくて、誰かを包み込むことに慣れているように見えるのに、夜中に明が少し離れるだけで、無意識に手を伸ばしてくる人だった。
    「明、いる?」
     眠りながらそう呟くこともある。
     そのたびに明は、三佳の手を握った。
    「いるよ」
     何度でも答えた。
     卒業後、明は在宅でできるデザインの仕事に就いた。三佳は教職を辞め、在宅のシステムエンジニアになった。明を一人にしないためだと、本人ははっきり言わなかった。でも明には分かっていた。
     もちろん、明は三佳に守られてばかりだったわけではない。
     三佳が仕事で行き詰まった夜には、明は黙ってホットミルクを用意した。肩が凝っていると分かれば、何も言わず後ろへ回った。明の方が小さく非力なのに、重い荷物を率先して持った。
    「明、いいよ。重いでしょ」
    「大丈夫。僕も役に立ちたい。」
     三佳は困ったように笑った。それでも、少しだけ嬉しそうだった。
     三佳が少しでも嬉しそうにすると、明は思った。この人の寂しさを、自分も少しは抱きしめられているのだと。
     二人は、家族になった。
     頬や額へのキスは当たり前だった。抱きしめ合うことも、同じ布団で眠ることも、互いの背中を流すことも、彼らにとっては呼吸みたいなものだった。
    「三佳さん」
    「ん?」
    「大好き」
    「知ってる」
    「じゃあ、何回言ってもいい?」
    「うん。何回でも」
    「愛してる」
     三佳は少し笑って、明の髪を撫でた。
    「私も愛してるよ」
     何度交わしても擦り切れない言葉だった。むしろ言うたびに、古い傷跡の上に新しい布が当てられるようだった。
     けれどその夜、明の胸の奥では、ずっと温かいと思っていたものの芯が、別の熱を持って揺れ始めていた。
     風呂から上がると、三佳は脱衣所で髪を拭いた。黒い髪から水滴が落ち、肩の上で光った。
    「乾かしていい?」
     明がドライヤーを手に取ると、三佳は少し笑った。
    「お願いしようかな」
     三佳は床に座り、明はその後ろに立った。温風が髪を揺らす。明は指を通しながら、三佳の髪を丁寧に乾かした。
     十年分の習慣だった。
    「熱くない?」
    「平気。明、上手だね」
    「三佳さんの髪、乾かすの好きだから」
    「ふふ。ありがと」
     その笑い声だけで、明の胸はまた熱くなった。
     晩酌は、いつものようにソファで始まった。
     小さなローテーブルに缶チューハイと、簡単なおつまみ。二人は肩を寄せ合って座った。三佳の体温が、素肌から伝わってくる。
    「今日の仕事、どうだった?」
    「クライアントさんがまたふわっとした修正依頼してきてね。『もっと優しい感じで』って」
    「難しいやつだ」
    「うん。でも三佳さんっぽい色にしたら通った」
    「私っぽい色ってなに」
    「優しくて、あったかくて、ちょっと照れ屋な色」
    「色で照れ屋って何?」
     三佳は笑いながら缶を傾けた。
     明はその横顔を見ていた。
     この人が笑っているだけでいい、と思った。三佳が幸せなら、それだけで自分の人生は全部報われる気がした。
     けれど言葉は、ふと別の形で口からこぼれた。
    「ねえ、三佳さん」
    「ん?」
    「三佳さんって、恋人作る気ないの?」
     三佳にとって恋人とは、たぶん女性のことだった。
     三佳の手が少し止まった。
     明は慌てて笑った。
    「あ、変な意味じゃなくて。僕と一緒に暮らしてたら、三佳さんの恋愛の邪魔になってるんじゃないかなって」
     三佳はしばらく黙っていた。
     それから、缶をテーブルに置き、明の方へ身体を向けた。
    「明がいてくれれば、私は十分幸せだよ」
     あまりにもまっすぐな声だった。
     明は息を詰めた。
    「でも……三佳さん、寂しがり屋でしょ」
    「だからだよ」
     三佳は少しだけ困ったように笑った。
    「明がいるから、私は寂しくない。明がご飯食べて、仕事して、寝る前に『可愛い』ってからかってきて、同じ布団で幸せだねって言ってくれる。それで私は、ちゃんと生きていられる」
    「からかってないよ。可愛いって本気で言ってる」
    「そこは今いいの」
     二人で笑った。
     でも笑いのあと、三佳は同じ質問を返してきた。
    「明こそ、恋人作りなよ。こんなおばさんと暮らしてたら、彼女作れないんじゃない?」
     明は少しだけ真面目な顔になった。
    「僕も、三佳さんがいてくれれば十分幸せだよ。三佳さんと一生一緒にいたい」
     三佳の目が揺れた。
     嬉しさと、少しの不安と、言葉にできない何かが混じっていた。
    「……私も。明とずっと一緒にいたい」
    「大好き」
    「大好きだよ」
    「愛してる」
    「私も愛してる」
     明は三佳に抱きついた。
     三佳もすぐに抱き返した。大きな腕が、明の背中を包む。明はその温かさに甘えて、三佳の頬にキスをしようとした。
     けれど三佳は背が高い。ソファに座っていても、少し位置が高い。
     横着した明の唇は、頬ではなく、首筋に触れた。
     三佳の身体が、はっきりと強張った。
    「あ……」
     明が離れるより早く、三佳は明の肩を優しく押した。
     突き飛ばしたのではなかった。
     拒絶というより、自分を落ち着かせるための距離だった。
    「明」
     三佳の声は震えていなかった。けれど慎重だった。割れ物を両手で持つような声だった。
    「そういうのは……恋人同士でするものだと思う」
     その言葉に、明の胸の奥で何かが爆ぜた。
    「ごめん。僕、普通に……」
    「うん。分かってる。明が悪いことしたなんて思ってない」
     三佳は、少し早口でそう言った。
     放っておけば明が自分を責め続けることを、知っている人の声だった。
    「嫌だったんじゃないよ。ただ、びっくりしただけ。明に触られるのが嫌なんじゃない」
     その優しさが、今の明には痛かった。
     いっそ嫌だと言われた方が、泣き方が分かったかもしれない。
     でも三佳は、明を嫌ってはくれなかった。
     三佳は明の手を握った。
    「ほっぺとか、おでこなら、家族でもするスキンシップだって私は思える。明に触られるのが嫌なんじゃないよ。明のことは大好き。抱きしめるのも、手をつなぐのも、私は嬉しい」
     そこで一度、三佳は言葉を切った。
    「でも、恋人みたいな触れ方は、今の私は受け止められない。ごめんね」
     優しかった。
     優しいのに、痛かった。
     胸の奥に、さびた針を一本ずつ沈められるようだった。
    「……うん。分かった」
     明は笑おうとした。
     けれどうまく笑えなかった。
     三佳は悪くない。
     それは分かる。痛いほど分かる。三佳は明を傷つけないように、できる限り丁寧に境界線を引いてくれた。明を汚いものみたいに扱わなかった。明の愛情を否定しなかった。
     それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
     恋人みたいな触れ方は駄目。
     その言葉が、薄い紙でできた刃物みたいに、明の心の柔らかいところを切っていた。
     明は三佳のことが好きだった。
     見た目も、声も、性格も、笑い方も、仕事中に眉間へ皺を寄せるところも、寝ぼけて明の名前を呼ぶところも、全部好きだった。
     その好きはずっと、親や兄弟に向けるような『家族の好き』だと思っていた。
     そう呼べば、安全だったからだ。
     三佳のそばにいると安心した。
     抱きしめられると息ができた。
     頬や額にキスされるだけで、世界に居場所が戻ってきた。
     明にとっての好きは、いつもまず安心の形をしていた。
     触れたい、もっと近づきたいという欲よりも、ただ一緒にいたい、置いていかれたくないという願いの方が、ずっと大きかった。
     だから間違えた。
     恋ではないのだと思っていた。
     家族だから、こんなにも大切なのだと思っていた。
     けれど違った。
     明は、三佳を家族として愛していたのではない。
     恋を、家族愛と呼んで守っていただけだった。
     恋。
     その一文字は、新しく生まれたものではなかった。
     ずっと胸の奥にあったものへ、ようやく与えられた名前だった。
    「三佳さんってさ」
    「うん」
    「男性のことを、恋愛対象として見ることはないの?」
     そう聞きながら、明は本当は別のことを聞いているのだと分かっていた。
     僕を、恋愛対象として見ることはないの?
     その一言だけは、どうしても口にできなかった。
     三佳は少し目を伏せた。
     逃げるような沈黙ではなかった。自分の言葉が明を傷つけるかもしれないと分かっている人の沈黙だった。
    「今までは、なかったよ」
    「そうなる可能性は?」
    「ないとは言えない。でも……分からない」
     明は小さく頷いた。
     可能性はゼロじゃない。
     その言葉に、胸のどこかが縋ろうとした。
     でも、もし可能性があるなら、さっきのキスを三佳はあんなふうに止めなかったのではないか。
     希望は生まれた瞬間から、もう傷だらけだった。
    「おつまみ……作ってくるね」
     明は立ち上がった。
     キッチンに向かう背中に、三佳の視線を感じた。心配している。きっと気づいている。明が平気ではないことを。
     冷蔵庫を開けたとき、後ろから腕が回ってきた。
     三佳が、明を背中から抱きしめた。
    「私も一緒に作る」
     明は息を呑んだ。
     いつもなら嬉しいだけの抱擁だった。温かくて、優しくて、自分はここにいていいのだと思える行為だった。
     でも今は、その優しさが苦しかった。
     愛されている。
     確かに愛されている。
     けれど、自分が欲しくなってしまった形では、愛されていない。
     十年かけて積み上げてきた幸せな家の床下に、ずっと火種があったのだと気づいてしまった。
     三佳が火をつけたわけではない。
     明が突然、恋を始めたわけでもない。
     ただ、家族愛だと思って大切に抱えてきたものが、初めから別の熱を持っていただけだった。
     明は三佳の腕に手を重ねた。
    「やっぱり……寝ようか」
     三佳は少し黙ったあと、明を強く抱きしめた。
    「うん。寝よっか」
     その夜も、二人は同じ布団に入った。
     いつも通り、抱き合った。
    「大好きだよ、明」
    「僕も大好き。愛してる」
    「私も愛してる」
     三佳は明の額にキスをした。
     明も三佳の頬にキスをした。
     許された場所。
     家族の場所。
     明はその温かい境界線の内側で、静かに目を閉じた。
     けれど眠れなかった。
     三佳の寝息が深くなったのを確かめてから、明はそっと布団を抜け出した。
     六月の夜は、思ったより肌寒かった。
     街灯の下を歩きながら、明の手は震え始めた。一人になると、身体が昔の恐怖を勝手に開いてしまう。心臓が早鐘のように鳴り、呼吸が浅くなる。
     それでも歩いた。
     家にいたら、三佳の優しさで息ができなくなりそうだった。
     河川敷の橋の下まで来ると、街灯の明かりは届かなくなった。暗闇がねっとりと膝元へまとわりつく。
     明はそこに蹲った。
     涙は、最初は静かに落ちた。
     やがて堰を切ったように溢れた。
     三佳が好き。
     恋愛感情として好き。
     でも三佳は女性を恋愛対象にしてきた人だ。今の明を、恋人として見ることはできない。
     一緒にいたい。
     でも一緒にいるほど好きになる。
     好きになるほど、叶わない事実が胸を締めつける。
     昨日まで永遠に続くと思っていた暮らしが、薄氷の上に建っていたのだと、急に気づいてしまった。
    「……っ」
     声にならない嗚咽が喉を削った。
     小一時間ほど泣いたころ、恐怖が涙を追い越した。
     寒い。
     暗い。
     一人だ。
     震えが強くなる。立とうとしても足に力が入らない。心臓がばくばくと暴れ、冷や汗が背中を濡らした。空気を吸おうとしても、喉の奥で詰まる。
     帰りたい。
     帰りたいのに動けない。
     誰か。
     三佳さん。
     助けて。
     そう思った瞬間、明は自分が情けなくてたまらなくなった。
     自分で出てきたのに。
     三佳を起こさないように逃げたのに。
     結局、助けを求める相手は三佳しかいない。
     こんな暗い橋の下に、三佳が来られるはずもない。初めて来た場所だ。探しようがない。
     明は膝を抱え、震えながら目を閉じた。
    「明?」
     声がした。
     信じられなかった。
    「……三佳さん?」
     闇の向こうから、三佳が走ってきた。
     息を切らし、髪を乱し、薄い部屋着の上に慌てて羽織っただけのジャージ姿。足元はサンダルで、片方の踵が少しずれていた。
     そんな姿で、三佳は明を見つけた。
     次の瞬間、三佳は明を抱きしめていた。
    「心配したんだよ……! 全く、こんなところまで一人で来て。また動けなくなってるじゃん」
     叱る声なのに、泣きそうだった。
    「どうして……」
    「ん?」
    「どうして、僕の場所が分かったの?」
     三佳は明の背中をさすりながら、少し困ったように笑った。
    「分かんない」
    「分かんないの……?」
    「うん。でも、なんとなく」
     三佳は息を整えながら、明をもう一度強く抱きしめた。
    「私、明のこと見つけるの得意なのかもね」
     その言葉は、明の心を救うと同時に、深く傷つけた。
     また好きになってしまう。
     これ以上ないほど好きなのに、まだ好きになってしまう。
     三佳は自分のジャージを脱いで、明の肩にかけた。
    「ごめんね」
     明が呟くと、三佳は首を振った。
    「大丈夫。つらかったんだもんね。話したくなければ、無理に聞かないよ」
    「……うん」
    「帰ろう。またあったかいお布団で一緒に寝よ?」
     その優しさに、明はすべてを話してしまいそうになった。
     でも飲み込んだ。
     恋心を打ち明ければ、本当に二人の関係が終わってしまう気がした。
     帰り道、三佳に支えられながら、明は一つの決意をした。
     自分が苦しくてもいい。
     三佳が幸せなら、それでいい。
     それが、明にできる愛なのだと思った。
     翌朝、三佳は微熱を出した。
     明は自分のせいだと思った。夜中に探しに来させたからだ。寒い中、薄着で走らせたからだ。
    「ごめん、三佳さん」
    「明のせいじゃないよ」
     三佳は布団の中から笑ったが、頬は熱で赤かった。
     明は台所に立ち、おかゆを作った。
     三佳が寝室にいるというだけで、台所はひどく広く感じた。一人でいる時間が伸びるたび、指先が震える。それでも米を研ぎ、水を量り、鍋に火をかけた。
     怖い。
     でも三佳が今体調を崩してつらい思いをしている。
     その一心で、明は震える手を押さえ込んだ。
     おかゆを食べ終えた三佳は、少し安心した顔をした。
    「ありがとう。おいしい」
    「よかった」
    「隣で一緒に寝てて」
     甘えるような声だった。
     明は胸がきゅっとなった。三佳が自分を必要としてくれる。それは嬉しい。嬉しいのに、恋という名前を知ってしまった胸には、甘さと痛みが同じ色で広がる。
    「スポーツドリンクとヨーグルト、買ってくる。あと何かいる?」
    「一人で買い物行けるの?」
    「そこのコンビニまでだから大丈夫」
     三佳は迷ったあと、小さく言った。
    「じゃあ……バナナ食べたい。売ってなかったら、無理しなくていいからね」
    「分かった」
     コンビニにバナナはなかった。
     そこで帰ればよかった。
     けれど明は、少し歩いた先のスーパーなら全部揃うと考えた。
     家から遠ざかるにつれて、身体が警鐘を鳴らした。足が震え、視界が白く滲む。心臓が胸の内側から拳で叩いてくる。
     でも、三佳が熱を出している。
     三佳がバナナを食べたいと言った。
     ただそれだけのことで、明は歩けた。
    「ただいまー」
     帰宅した明は、何でもない顔を作ったつもりだった。
     けれど三佳は袋を見るなり、すぐに眉を寄せた。
    「スーパーまで行ったの?」
    「うん。コンビニになかったから」
    「大丈夫? 顔色悪いよ」
    「平気だよ」
     三佳は布団から半身を起こし、明を抱き寄せた。
    「頑張ったんだね。ありがとう」
     明は何も言えなくなった。
     気丈に振る舞ったつもりなのに、三佳には全部見えている。
     そのことが恥ずかしくて、嬉しくて、苦しかった。
     その日は二人で布団に並んで休んだ。明はタオルを替え、水分を取らせ、うどんを作った。三佳は何度も「ありがとう」と言った。
     夕方、熱で赤くなった三佳の顔を見ていたときだった。
     明の視線が、三佳の唇で止まった。
     柔らかそうだと思ってしまった。
     キスをしたい。
     そう思った瞬間、明はようやく分かった。
     自分には欲がなかったのではない。
     欲が、いつも安心の後ろに隠れていただけだった。
     三佳に抱きしめられたい。
     三佳に見つけてほしい。
     三佳と一緒に眠りたい。
     その全部を、明は家族愛だと思っていた。
     でも本当は、そのずっと奥に、三佳に恋人として触れたいという願いがあった。
     三佳はそれに気づいたのか、そっと唇を手で覆い、顔を横に向けた。
     その仕草は乱暴ではなかった。
     拒絶というより、困惑だった。
     それでも明は、古い麻紐が擦れながら心臓を締め付けるような痛みが走った。
    「ねえ、三佳さん」
    「……うん」
    「僕の気持ち、気づいてるの?」
     三佳は目を伏せた。
    「たぶん」
     明は笑おうとして、失敗した。
    「三佳さんは女性が恋愛対象だから、男の僕にそんな目で見られるの、気持ち悪いよね……」
    「違う」
     三佳の声は強かった。
     明は驚いて顔を上げた。
    「気持ち悪くなんかない。明に好きだと思ってもらえるのは、嬉しい。明のこと、大好きだから」
     三佳は明の手を握った。
     けれどその手は、救いであると同時に、答えでもあった。
    「でも、応えられない。今の私は、明を恋人として見られない。明の気持ちが汚いからじゃないよ。明が悪いからでもない。私が、自分に嘘をついて受け入れたら、きっと明をもっと傷つける」
    「……うん」
    「ごめんね」
     三佳は本当に苦しそうだった。
     その苦しそうな顔を見て、明は自分を責めた。
     自分がこの気持ちに気づかなければ、三佳にこんな顔をさせずに済んだのに。
    「ねえ三佳さん、漫画読む?」
     痛みを誤魔化すように、明は立ち上がった。
    「僕、持ってくるよ」
    「……うん。ありがと」
     寝室を出ると、また一人になった。
     三佳が近くにいない本棚の前で、震えが戻ってくる。
     三佳の本棚は整然としていた。学術書、小説、漫画。漫画の棚には、女性同士の恋愛を描いたものが多かった。三佳らしい、と思った。
     その中に一冊だけ、男女の恋愛漫画があった。
     何度も読まれた跡がある。
     明はそれを手に取った。
     主人公は、背が高く体格のいい女性だった。相手の男性は少し小柄で、黒髪で、泣き虫で、頼りなさげで、けれどいざというときは真っ直ぐだった。そんな二人が恋をする話。
     似ていた。
     特に男性のキャラクターの特徴はほとんど明だった。違うのは、両耳のリングピアスと、眼鏡だけ。
     明は息を止めた。
     これなら。
     これなら三佳は、自分を恋愛対象として見てくれるかもしれない。
     それは希望というより、溺れた人が掴んだ細い藁だった。けれどその時の明には、藁ではなく橋に見えた。
     スマートフォンで、リングタイプのファーストピアスと眼鏡を注文した。
     明の中で、崩れていく家を支えるための支柱が立った気がした。
     翌日、三佳の熱は下がった。
     明は病み上がりだからと三佳を休ませ、家事を全部引き受けた。そして届いたピアッサーと眼鏡は、三佳に見つからないように隠した。
     夜、明は少し弾んだ声で言った。
    「三佳さん、明日さ、鎌倉に紫陽花見に行かない?」
     三佳は明を見た。
     前日のことがあるから、迷っているのが分かった。
     それでも彼女は微笑んだ。
    「行きたい。明と手をつないで歩きたい」
     その言葉だけで、明はまた希望を抱いてしまった。
    「明、紫陽花好きだっけ」
    「うん……。でも、三佳さんと一緒に見れたら、どんな花でも好き」
    「そうだね。じゃあ私も好き」
     三佳はにこっと微笑んだ。
     朝、明は三佳より早く起きた。
     洗面所で耳に穴を開けた。痛みはあったはずなのに、ほとんど感じなかった。恋人になれるかもしれないという期待が、痛覚まで麻痺させていた。
     眼鏡をかける。
     鏡の中の自分は、昨日までの自分とは少し違って見えた。
     これで、変わる。
     居間で待っていると、三佳が起きてきた。
     彼女は明を見て、目を丸くした。
    「え……ピアス。眼鏡も」
     明は照れながら笑った。
    「どう? 似合ってる?」
    「うん。かっこいい」
     三佳はそう言った。
     明の胸が跳ねた。
     けれど三佳の表情は、すぐに切なげなものへ変わった。
    「私の読んでた漫画の影響だよね?」
     明は言葉に詰まった。
    「……こういう男の人だったら、三佳さんの恋愛対象になれるかなって」
     三佳は長く息を吸った。
     明を傷つけたくない。
     その思いが痛いほど伝わってきた。
    「嬉しいよ。私のことをそんなふうに思ってくれたのは、本当に嬉しい」
     三佳は明の前に膝をつくようにして、目線を合わせた。
    「でも、ごめん。見た目が変わったからって、急に恋愛対象になるわけじゃない」
     明の中で、何かが音を立てずに崩れた。
    「明は明のままで、私は家族みたいに大好きだよ。十年、そうやって愛してきた。ピアスがあってもなくても、眼鏡をかけてもかけなくても、明は大切な明だよ」
     優しい。
     だから逃げ場がなかった。
    「一緒に出かけよう? 手、つないで」
     明は頷いた。
     けれど心は、駅へ向かう道のどこにもなかった。
     手をつないで歩いているのに、三佳の声が遠い。紫陽花の話、電車の乗り換え、暑くなる前に帰ろうという話。全部、透明な壁の向こうで聞こえていた。
     日曜の乗換駅は混んでいた。
     人波に押され、二人はホームの線路側へ寄せられた。三佳は明の手を強く握った。
    「危ないね。こっち――」
     その時、大きな男が人混みを縫うように走ってきた。
     ぶつかった。
     三佳の身体が線路側へ傾いた。
     時間が、伸びた。
     落ちていく三佳。
     迫ってくる電車。
     人々の悲鳴。
     明の手の中に、三佳の手があった。
     三佳さん。
     ごめん。
     ずっと家族みたいに愛し合って過ごせると思っていたのに。
     僕が、この気持ちに名前をつけてしまったから。
     やっぱり……僕は僕が幸せになることより三佳さんの幸せを何より優先したいから。
     明は全身の力で三佳を引いた。
     三佳は重かった。背が高く、筋肉質で、明よりずっと大きい。けれどその重みさえ、明には愛おしかった。
     三佳の身体がこちら側へ戻る。
     その代わりに、自分の身体が線路側へ投げ出されていく。
     三佳を助けられた。
     最初に思ったのは、それだけだった。
     遅れて、奇妙な安堵が胸をよぎる。
     ああ、これでいいのかもしれない。
     それは正しい願いではなかった。
     疲れ果てた心が、最後に吐いた弱い嘘だった。
     けれどその瞬間の明には、その嘘が救いのように聞こえた。
     三佳の枷にならなくて済む。
     三佳はきっと、自分に合う女性と恋をして幸せになれる。
     叶わない恋に苦しみ続ける自分は、ここで終われる。
     ごめんね。
     幸せになってね。
     衝撃。
     音。
     白。
     それから、暗闇。
     明は長いトンネルを歩いていた。
     ここがどこか、なぜか分かった。
     死へ向かう道だ。
     足は勝手に進む。止まろうとしても止まらない。
     後ろから声がした気がした。
     明は無理やり足を止めた。
     振り返ると、そこに三佳の幻影がいた。
    「最期に挨拶できるね」
     明は笑った。
    「三佳さん。愛してました。幸せでした。今までありがとう。本当に大好きだよ」
     幻影の三佳は、悲しそうに泣いていた。
     その顔を見た瞬間、明は初めて考えた。
     自分がいない三佳は、本当に幸せなのだろうか。
     三佳は、明がいない夜に、どれほど寂しがるのだろうか。
     自分が三佳の幸せを願うなら、消えることではなく、戻ることを選ぶべきなのではないか。
     明は死に抗った。
     重い足を引きずり、三佳の幻影へ向かって歩いた。
     抱きついた瞬間、世界が反転した。
     目を開けると、白い天井があった。
     身体中が痛かった。
     声が出ない。
     視界の端に、カレンダーが見えた。七月。事故から一か月以上が経っていた。
    「明!」
     三佳が飛びつくように抱きしめてきた。
    「よかった……本当に……明……!」
     三佳は泣いていた。
     泣きながら、明の肩に顔を埋めて、何度も息を詰まらせた。
    「もう、目、開けないかと思った」
     震える声だった。
    「毎日呼んだんだよ。明、明って。聞こえてるか分からなかったけど、ずっと呼んだ。手も握った。髪も撫でた。怒ったりもした。起きなかったら許さないって何回も言った」
     三佳は明の手を両手で包んだ。
     指先は少し冷えていた。
    「起きてくれて……ありがとう。明、愛してる……」
     その言葉の途中で、また涙が落ちた。
    「お願いだから、もうどこにも行かないで」
     明は声を出そうとした。
     喉がひどく乾いていて、うまく動かなかった。
     三佳は慌ててナースコールに手を伸ばし、それからすぐに明へ向き直った。
    「ごめん。痛いよね。苦しいよね。喋らなくていい。私がいるから。ここにいるから」
     ぼやっとしていた意識がだんだん輪郭を取り戻していく。三佳の声に明はやっと帰ってきたのだと思った。
     目の前にいるのは、涙でぐしゃぐしゃになった三佳だった。
     明はかすれた声で言った。
    「可愛い……」
     三佳は一瞬固まった。
     それから、緊張の糸が切れたように笑い出した。泣きながら、笑った。
    「もう……明は、本当に……」
    「ねえ……三佳さん」
    「なに?」
    「眠ってた一か月分、ちゅーして……」
     『どこに』とは言わなかった。
     三佳も、聞き返さなかった。
     三佳の目が、明の唇のあたりで止まった。
     それでも彼女は、そこへは来なかった。
     その沈黙の長さで、明は答えを知ってしまった。
     三佳は明の前髪をかき分け、額にそっとキスをした。
     温かかった。
     優しかった。
     家族のキスだった。
     明は目を閉じた。
     命を張って助けたら、何かが変わるかもしれない。
     そんな愚かな期待が、自分の中にまだ残っていたことが恥ずかしかった。
     この恋は、一生叶わない。
     始まったばかりの恋ではなかった。
     ずっと前からあったのに、気づいた瞬間にはもう叶わない恋だった。
     そのまま死んでいた方が楽だったのではないか。
     そんな考えが浮かび、明はすぐに自己嫌悪で押し潰されそうになった。
     三佳は生きてほしいと泣いているのに。
     自分はまた、自分の痛みばかり見ている。
     退院までの間、明はリハビリをした。病室で一人になるたび、震えや動悸や過呼吸が戻ってきた。それでも耐えた。
     三佳のもとを去ったあとの練習だと思った。

         *

     退院した日は、すっかり真夏になっており、紫陽花のシーズンはとっくに終わってしまっていた。
     三佳と手をつないで家まで帰った。帰宅してからも、三佳は明を子どもみたいに甘やかした。好きなものを作り、何度も抱きしめ、夜はいつもより強く明を抱きしめて寝た。
     最初の数日は、ただ幸せだった。
     眠って目を開けると、三佳がいる。キッチンから包丁の音が聞こえる。薬の時間になると、三佳が水を持ってくる。リハビリで少し歩けただけで、三佳は大げさなくらい喜んでくれる。
     歩く練習をするときも、三佳はすぐそばにいた。明がふらつくと、腕を差し出す。けれど、必要以上には支えない。
    「できるところは、明がやった方がいいからね」
     そう言って笑う。
     甘やかしてくれるのに、弱いまま閉じ込めようとはしない。守ってくれるのに、明が自分で立つことを諦めさせない。そういうところが、どうしようもなく三佳だった。
    「えらいね、明」
     そう言って頭を撫でられるたび、明の胸は温かくなった。
     だから、好きになった。
     いや、違う。
     好きだった。
     昨日より好きだった。
     朝より好きだった。
     抱きしめられる前より、抱きしめられた後の方が、もっと好きだった。
     三佳の優しさは、明を生かしてくれた。
     同時に、明を少しずつ追い詰めてもいた。
     歯を磨いている横で、三佳が洗面台の水滴を拭く。薬を飲み忘れないように、付箋に丸い字で「昼」と書いてくれる。風呂場の床が滑らないように、古いマットを新しいものに替える。夜、明が眠れずにいると、何も聞かずに背中を撫でる。
     その全部が、明にとっては恋だった。
     けれど三佳にとっては、家族への優しさだった。
     同じ行為なのに、二人の中で名前だけが違っていた。
     明はその違いに、毎日少しずつ削られていった。
     嬉しいのに、そのたびに思い知らされた。
     明は傷つく度にまた三佳を求めた。
     頬へキスすると額へのキスが返ってくる。
     ここまでは許されている。
     でも、その先は許されていない。
     明が欲しいものは、いつも三佳の優しさのすぐ隣にあった。
     手を伸ばせば届きそうで、けれど決して触れてはいけない場所にあった。
     夜、三佳の腕の中で眠るふりをしながら、明は何度も考えた。
     このまま家族として愛され続ければ、それで十分ではないのか。
     三佳が笑ってくれるなら、自分の恋なんて黙って抱えていればいいのではないか。
     恋人になれなくても、三佳の一番近くにいられるなら、それは幸せなのではないか。
     そう思おうとするたび、胸の奥から別の声がした。
     でも、三佳さんは僕を恋人としては見ていない。
     その事実だけが、毎晩同じ場所を刺した。
     三佳は何も悪くなかった。
     むしろ、明を傷つけないように、できる限り優しくしてくれていた。
     だから明は、誰にも怒れなかった。
     三佳にも。
     自分にも。
     この恋にも。
     ただ、苦しかった。
     身体は少しずつ治っていった。
     けれど心だけは、三佳の優しさを浴びるほど苦しくなっていった。
     好きだという気持ちが、もう胸の中に収まりきらなくなっていた。
     そして、明は思うようになった。
     自分がそばにいる限り、三佳はずっと優しい。
     優しいから、明を置いていけない。
     優しいから、明の恋を見て見ぬふりもできない。
     優しいから、明が苦しむたびに、自分まで傷ついてしまう。
     なら、自分がいない方がいい。
     その考えは間違っていた。
     でも、その頃の明には、間違いだと分かるだけの余裕がもう残っていなかった。
     明は、三佳の代わりではなく、自分の代わりを探し始めた。
     三佳を幸せにしてくれる女性。
     三佳が恋人として愛せる人。
     友人に聞き、ネットで探し、ようやく咲(さき)という女性に出会った。美人で、同性愛者で、はっきりものを言う人だった。

     明は三佳と咲を引き合わせた。
     カフェで三人で会った。
     咲は、きれいな人だった。
     言葉がはっきりしていて、曖昧に笑ってごまかすことをしない人だった。
     三佳さんとは、全然違う。
     明はそう思った。
     でも、その違いを悪いものだとは考えないようにした。
     咲が三佳の言葉を途中で遮ったとき、三佳はほんの少しだけ口を閉じた。
     咲が「お付き合いを前提に関係を持つならしっかりとルールを決めたい」と言ったとき、三佳は「そうだね」と笑った。
     その笑い方が、明には少しだけ寂しく見えた。
     でも明は、見なかったことにした。
     美人だし、同じ女性だし、三佳を好きになってくれる人だ。
     きっと大丈夫。
     大丈夫であってほしかった。

     それから何度か、三佳と咲は二人で会った。
     明はそのたびに、うまく笑おうとした。帰ってきた三佳に「楽しかった?」と聞く。三佳は少し迷ってから、「うん」と答える。
     嘘ではないのだと思う。
     咲は悪い人ではなかった。強くて、はっきりしていて、自分の輪郭を他人に預けない人だった。三佳の曖昧な優しさに、遠慮なく言葉を返せる人だった。
     きっと、自分よりずっと三佳の隣にふさわしい。
     明はそう思おうとした。
     けれど三佳は、咲と会った日の夜ほど、明のそばに来た。
    「疲れた?」
    「んー、少しだけ」
     三佳はそう言って、ソファに座る明の隣へ体を預けてきた。いつものように肩が触れる。明が少し身じろぎをすると、三佳は無意識に明の袖を掴んだ。
     その手を見て、明は息が詰まった。
     三佳は咲と会ってきたのに。
     それでも帰ってくる場所は、明の隣なのだ。
     嬉しかった。
     嬉しくて、苦しかった。
     このままでは、三佳はどこにも行けない。自分がいる限り、三佳は優しさで戻ってきてしまう。明の寂しさを見つけてしまう。明が泣く前に、明を抱きしめてしまう。
     そんな三佳が好きだった。
     だからこそ、ここにいてはいけないと思った。

         *

     半年ほど経ったころ、咲は明のいない形で三佳と暮らしたいと言い出した。
     三佳は曖昧にしていた。今は恋人はいらない、と何度も言っていた。
     それでも明は決めた。
     自分がいなければ、三佳は前に進める。
     自分が隣にいるから、三佳は優しさから逃げられない。
     自分が泣くから、三佳は恋を選べない。
     だから、ここから消えなければならない。
     それがどれほど三佳を傷つけるか、明は分かっていなかった。
     分かっていないことにも、気づけなかった。
     それほどまでに、明は三佳を幸せにしたかった。

     一人で不動産屋へ行き、新居を決めた。三佳には場所を教えない。情報も残さない。遠い場所にした。

     出ていく前の夜、明はほとんど眠れなかった。
     三佳は隣で眠っていた。寝息は深く、けれど明が少しでも身じろぎをすると、眠ったまま指先が伸びてくる。明の服の裾を探し、掴める場所を見つけると、安心したように力を抜く。
    「明……いる?」
     小さな寝言だった。
     明は泣きそうになりながら、その手を握った。
    「いるよ」
     声には出さなかった。出したら、もう行けなくなると思った。
     暗い部屋の中で、三佳の横顔だけがぼんやり見えた。目つきが悪いと本人はよく言うけれど、眠っている顔は少し幼く見える。眉間の力が抜けて、唇がわずかに開いている。
     可愛い。
     明はそう思った。
     たぶん、明は一生この人を可愛いと思う。皺が増えても、髪が真っ白になっても、怒った顔をしても、泣き疲れて眠っていても、何度でもそう思う。
     その一生を、自分は隣で見ていたかった。
     けれど、それは三佳の一生を縛ることでもあるのだと、明は思い込んでいた。
     朝が近づくにつれて、明の胸は冷えていった。
     行かなければ。
     そう思うたび、三佳の手を離せなくなった。
     離せないから、行かなければならない。
     その矛盾だけが、明を立ち上がらせた。
     その日、外は蒸し暑かった。
     あの事故から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
     明は置き手紙を残した。
     三佳へ。
     愛しています。
     今までありがとう。
     たくさん迷惑をかけてごめんなさい。
     僕は三佳さんと過ごせて、本当に幸せでした。
     どうか、幸せになってください。
     最後の一文を書いたとき、涙が紙に落ちた。
     外へ出ると、どこかで紫陽花が咲いている季節だった。

         *

     一人暮らしは、最初の一か月だけ、なんとか形になった。
     怖かった。けれど震えと動悸は軽く、生活に支障がないように思えた。
     朝起きると、部屋は静かだった。
     三佳の包丁の音もしない。洗面所で水を使う音もしない。寝ぼけた声で「明、起きてる?」と呼ばれることもない。
     それでも明は起きた。
     カーテンを開け、薬を飲み、冷凍ご飯を温めた。味はよく分からなかった。けれど食べた。食べなければ、三佳が悲しむと思ったからだ。
     スマートフォンには、三佳からの着信が何度も残っていた。メッセージも届いていた。
    『明、どこにいるの』
    『お願い、返事して』
    『愛してるから』
    『お願いだから、生きてるって言って』
     明はそれを見て、何度も返信しそうになった。
     けれど、指は送信ボタンの前で止まった。
     返事をしたら、三佳は来てしまう。
     来て、抱きしめて、また明を見つけてしまう。
     そうなったら、自分はもう二度と離れられない。
     だから明は、スマートフォンを伏せた。
    「ごめんね」
     誰もいない部屋で、そう呟いた。
     ご飯を食べ、仕事をして、風呂に入り、布団に入る。
     ただそれだけの生活が、明には長い長い綱渡りのようだった。
     それでも最初の一か月は、なんとか歩けた。
     寂しさよりも、三佳を幸せにしなければという思いの方が、まだ少しだけ強かったからだ。
     大丈夫。
     自分は大丈夫。
     そう言い聞かせていたある日、コンビニで作業着の男にぶつかった。
    「ちっ」
     舌打ちが、明の胸に深く刺さった。
     それだけだった。
     それだけで、昔の暗い部屋が開いた。
     家に戻ってから、震えが止まらなくなった。動悸、冷や汗、めまい、過呼吸。外に出られない。食べられない。
     何も出来ない。
     水道水を飲み、トイレに行くのがやっとだった。
     三週間が過ぎた。
     明は床に蹲っていた。
     もう身体に力が入らない。
     三佳さんに会いたい。
     抱きしめてほしい。
     でも来るはずがない。
     この場所を、三佳は知らない。
     意識が遠のいていく。
     その時、扉の開く音がした。
    「明!」
     三佳だった。
     髪を乱し、顔色を失い、半分泣きながら明へ駆け寄った。
     玄関には、履き潰した靴が片方だけ横倒しになっていた。
     何日も眠らずに歩き回った人の顔だった。
    「明! 起きて! 私だよ!」
     明はかろうじて目を開けた。
    「見つけてくれたんだね」
     声はほとんど息だった。
    「今日も、可愛い」
     それだけ言って、明は意識を失った。
    「見つけたよ! 私、明のこと見つけるの得意なんだから!」
     三佳は叫びながら救急車を呼んだ。
     けれど明は、またあのトンネルを歩いていた。
     二度もここを歩くなんて珍しいな、と妙に冷静に思った。
     後ろに三佳の気配がある。
     でも振り返らなかった。
     同じ失敗はしない。
     戻っても、叶わない恋の苦しみがまた始まる。今は咲もいる。三佳には三佳の人生がある。
     明は死へ向かって歩いた。
     現実の三佳は、明を抱きしめながら泣き叫んでいた。
    「お願い、戻ってきて。大好きだから。明、お願い……!」
     それでも、唇にはキスをしなかった。
     明が何を望んでいたか、三佳には分かっていた。
     分かっていたからこそ、できなかった。
     今ここで唇に触れたら、それは愛ではなく、失いたくないという恐怖かもしれない。
     自分の混乱を、恋だと呼んでしまうことになるかもしれない。
     三佳は、最後まで明に嘘をつきたくなかった。
     だから、額に口づけた。
     何度も、何度も。
     戻ってきて、と泣きながら。
     それでも、越えなかった。
     トンネルの先で、明は立ち止まった。
     あと一歩で引き返せなくなる。
     三佳さんは悲しむかな。
     最期に、三佳さんのせいじゃないよって言いたいな。
     悲しい思いをさせて、ごめんって。
     そう考えているうちに、明の足は無意識に境界を越えていた。
     死が、静かな雪のように明を包んだ。
     おとぎ話みたいに、三佳さんが唇にキスしてくれたら目覚められるかな。
     最後にそんなことを思った。
     そして明の自我は、ゆっくり無に溶けていった。
     三佳は、涙で濡れた顔のまま、もう息をしていない明の唇に、遅すぎるキスをした。
     けれど明は戻らなかった。

         *

     数日後、明の強い想いだけが三佳のそばに漂っていた。
     それは夢の中で、三佳の前に現れた。
    「明……?」
     三佳は夢の中で膝から崩れた。
    「あきら……! ごめん。私が、私のせいで……!」
     明は穏やかに首を振った。
     生きていたころより、少しだけ遠い顔をしていた。
    「違うよ」
    「違わない……!」
    「違う……。僕が勝手に恋に気づいて、苦しくなって、三佳さんとの幸せな生活を壊しちゃった。三佳さんのせいじゃない。僕が逃げた結果だから。本当にごめんね」
    「謝らないでよ……」
     三佳は泣きながら手を伸ばした。
    「謝るのは私だよ。明は、ずっと私のそばにいてくれたのに。私を好きでいてくれたのに。私は、明の気持ちを分かったふりして、何も分かってなかった」
    「三佳さんは、ちゃんと向き合ってくれたよ」
    「足りなかった」
     三佳は首を振った。
    「今なら思える。遅いかもしれないけど、明と恋がしたい。あなたが大好き。家族としてじゃなくて、恋愛対象として、大好き」
     明は少しだけ悲しそうに笑った。
    「……嬉しい」
     その声は、本当に嬉しそうだった。
     だからこそ、三佳は息ができなくなった。
    「嬉しいなら、行かないで」
    「ごめんね」
    「やだ」
    「三佳さんは僕のこと忘れて、恋して、幸せになってね」
    「忘れられるわけないでしょ」
    「幸せをありがとう。愛してるよ。ずっとずっと大好き」
    「やだ、明」
    「もし、生まれ変わったら」
     明の声が遠くなる。
    「結婚、したいな」
    「今してよ」
     三佳は泣きながら叫んだ。
    「今、私と結婚して! お願い、置いていかないで!」
     明の姿が薄れていく。
    「じゃあね。バイバイ」
    「バイバイなんて言わないで!」
     三佳の叫びは、朝の日差しに溶けた。

         *

     三佳は咲とすぐに別れた。
     明が願った通り、幸せになろうとした。
     誰かを愛そうとした。
     笑おうとした。
     前に進もうとした。
     けれど、二人分の茶碗を一つに減らすことができなかった。
     晩酌の買い出しに出れば、いつも明の好きだった銘柄を手に取ってしまった。
     ドライヤーを使うたび、背後に立つ明の指を思い出した。
     幸せにならなければと思うほど、明がいないことだけが上手になっていった。
     それでも三佳は生きた。
     なぜか、つらい夜に少しだけ安心できることがあった。泣き疲れて眠るとき、誰かが頬に触れたような気がした。危ない道を歩いた日、ふと足が止まって事故を避けたこともあった。
     明がいたのだ。
     ずっと、そばに。
     老衰でベッドに横たわる日が来たとき、三佳は窓辺を見た。
     そこには、紫陽花が供えられていた。
     青とも紫ともつかない、雨の色をした花だった。
     あの日、二人で約束した鎌倉には、結局行けなかった。
     紫陽花の季節が来るたび、三佳はそのことをより色濃く思い出す。
     最初の年は、花屋の前を通ることもできなかった。
     青い花びらが目に入っただけで、胸が詰まった。明が隣で「きれいだね」と言う声を、聞いた気がしたからだ。
     二年目、三佳は小さな鉢植えを一つ買った。
     持ち帰って窓辺に置くと、部屋が急に静かになった。誰もいないのに、誰かと一緒に花を見ているような気がした。
    「明、今年も咲いたよ」
     そう言った自分の声があまりに自然で、三佳はその場で泣いた。
     それから毎年、紫陽花を買った。色は決めなかった。青い年もあった。薄紅の年もあった。白に近い年もあった。けれど、どの花を選んでも、三佳は最後に同じことを思った。
     明と見たかった。
     思い出して、胸が痛んで、それでも毎年、花を買った。
     きっと明が、愛おしそうに目を細めるだろうと思ったから。
     明と見たかった花だから。
     その紫陽花の隣には、頼りなさげに笑う成人男性の写真がある。
    「明」
     か細い声だった。
     けれど確かに呼んだ。
    「ずっと傍にいてくれたんだよね。私を守ってくれたんだよね。今なら分かる」
     三佳は皺だらけの手を、ゆっくり持ち上げた。
     そこに明がいることを、はっきり感じた。
    「明がいなくなってから、私は明が願った通り幸せになろうとしたよ。頑張った。でも無理だった。明との日常が、私の全部だったから」
     呼吸が浅くなる。
     それでも三佳は微笑んだ。
    「ありがとう。本当にありがとう。明が守ってくれたから、私はここまで生きてこられた。生きてこられたから、明をいっぱい思い出せた」
     最後の力を込めて、三佳は囁いた。
    「愛してるよ、明。ずっと大好きだった。私の恋人」
     心電図の波が、静かに凪いでいく。
     生まれ変わったら。
     今度こそ、ちゃんと恋人になって。
     結婚して。
     ずっと一緒にいようね。
     三佳の息が止まった。
     窓辺の紫陽花が、淡い光の中で揺れていた。

         *

     その日は梅雨だというのに、東京の空は嘘みたいに晴れていた。
     気温はまた記録を更新したらしい。街の上空には無数のドローンが飛び、緑化されたビル群の壁面では、植物の葉とソーラーパネルが眩しく光っている。人々は汗で曇る眼鏡型デバイスを指で拭いながら、忙しなく歩いていた。
     そんな東京の景色が当たり前なはずなのに妙に馴染めない。
     理由の分からない違和感を抱えたまま、明という名の青年は入学したばかりの大学へ向かっていた。
     大学の正門をくぐり、キャンパスへ入る。
     一人が苦手な明は、この新しい環境に不安と恐怖で押し潰されそうだった。
     キャンパスの中庭を抜けたとき、明の視線が一人の女性准教授に向いた。
     背が高く、筋肉質で、黒髪をポニーテールにしている。目つきは悪い。けれどその横顔を見た瞬間、明の胸の奥で、遠い鐘が鳴った。
     知らない人だ。
     知らない人のはずだった。
     なのに、なぜか泣きたくなった。
    「可愛い……」
     言葉が勝手にこぼれた。
     明は引き寄せられるように歩き出した。
     女性准教授が振り返る。
     目が合った瞬間、明の口が勝手に動いた。
    「三佳さん」
     女性准教授もまた、息を呑んだ。
    「明……」
     二人は同時に固まった。
     知らない相手のはずだった。
     なのに、名前を知っていた。
     懐かしいのに、思い出せない。
     涙が出そうなのに、理由がない。
    「えっと……ご、ごめんなさい」
     明は我に返って後ずさった。
    「いきなり変なことを」
    「待って」
     三佳が呼び止めた。
     その声を聞いた瞬間、明の足が止まった。
     どうしてだろう。
     その声に呼ばれると、逃げられない気がした。
    「今、私の名前を呼んだよね。私に、何か用があったんじゃないの?」
    「あ……えっと」
     明は混乱したまま、なぜかどうしても聞かなければならない気がした。
    「先生の、恋愛対象の性別は?」
     初対面で聞くことではない。
     明自身もそう思った。
     けれど三佳は、不思議と嫌そうな顔をしなかった。戸惑いながらも、真剣に考えてくれた。
    「私の恋愛対象……?」
     三佳は視線を落とし、それから明を見た。
    「私、生まれてこのかた、誰かを恋愛対象として見れたことがなくて。だからどんな性別が好きかなんて分からないって、……ずっと思ってた」
     風が吹いた。
     キャンパスの木々が、さわさわと鳴る。
    「……思ったんだけど」
     三佳は明を見つめたまま、耳まで赤くした。
    「でも、今は少し分かる気がする。……性別じゃなくて」
     三佳の耳が、少し赤くなった。
    「たぶん、あなたなんだと思う」
     その瞬間、明の胸に知らない幸福が溢れた。
     理由なんてなかった。
     ただ、長い長い雨が、ようやく上がったような気がした。
    「今度こそ、幸せにします」
     言ってから、明は真っ赤になった。
    「……って、ええっ。僕、何言ってんだろう」
     耐えきれなくなって、明は逃げた。
    「ちょっと待って」
     三佳はキョトンとして、逃げる明の背中を見ていた。
     明はしばらく走り、人通りの少ない建物の陰で蹲った。
    「はぁ……はぁ……今日の僕、おかしい……」
     少しして、足音が近づいた。
    「ここにいたんだ」
     明は顔を上げた。
     そこに、三佳がいた。
     彼女も息を切らしていた。けれど目は、泣きそうなほど優しかった。
    「やっぱり……見つかっちゃった……」
     明が呟くと、三佳は自分でも不思議そうに微笑んだ。
    「私、君の……明のこと、見つけるの得意なのかもしれない」
     明の胸の奥で、紫陽花が咲いた。
     雨をたっぷり含んで、それでも光へ向かう花。
    「立てる?」
     差し出された手を、明はおそるおそる握った。
     初めて触れる手のはずなのに、懐かしかった。
     指の形も、掌の温度も、何も知らないはずなのに、身体だけが先に知っているようだった。
    「……大好きな手」
     明が呟くと、三佳は泣きそうな顔で笑った。
    「うん。私も、そう思った」
     二人はしばらく、手をつないだまま動けなかった。
     何も思い出していない。
     名前以外、何も知らない。
     それなのに、長い長い時間をかけて、ようやくここまで戻ってきたような気がした。
    「先生……」
    「うん」
    「僕、たぶん、今すごく変なこと考えてます」
    「奇遇だね。私も」
     三佳が少しだけ明を引き寄せた。
     明は逃げなかった。
     逃げる理由が、どこにも見つからなかった。
     唇が触れ合った。
     ほんの一瞬だった。
     事故みたいに短くて、祈りみたいに静かな口づけだった。
     明は、おとぎ話みたいに、何かが目覚めたような気がした。
     三佳の手が、震えていた。
     それだけで十分だった。
     これは、遅すぎなかった。
     その瞬間、背後から声が飛んできた。
    「ちょっと、君たち。そこ、関係者以外立ち入り禁止だよ」
     二人は同時に振り返った。
     守衛らしき男が、困った顔でこちらへ歩いてくる。
     三佳と明は顔を見合わせた。
     そして、どちらからともなく吹き出した。
    「逃げる?」
     三佳が言った。
     明は笑って、三佳の手を強く握った。
    「うん、逃げよう!」
     二人は走り出した。
     叱る声が後ろから追いかけてくる。
     けれど、つないだ手は離れなかった。
     今度は一人で逃げない。
     今度は置いていかない。
     今度は、同じ方へ走っていく。
    「ねえ、先生……じゃなくて、三佳さん」
    「うん」
    「一緒に、今から紫陽花見に行こう?」
     三佳は少し驚いて、それから笑った。
     遠い昔、果たせなかった約束を、ようやく思い出したように。
    「うん。行こう、明。手、つないで。一緒に、今度こそ」
     たとえ空から雨がこぼれても。
     巡る月日が、どれほど景色を変えてしまっても。
     重なり合う手は離さずに、二人で紫陽花を見に行こう。




    【制作について】
      読んでいただきありがとうございました。
     本作は作者自身が執筆した小説を、AIに推敲・相談をしながら編集・調整したものです。
     また、本作をもとに制作した楽曲をYouTubeに投稿しています。
    よろしければ、読後に聴いていただけると嬉しいです。
    https://www.youtube.com/watch?v=D_OvDp4pla4&list=RDD_OvDp4pla4&start_radio=1

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門


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