
二度、婚約を破棄した。──伝えたつもりだった。
子どもが笑っている。
妻が台所で何か言っている。
聞こえているのに、うまく聞き取れない。
返事だけする。
「うん」と言う。
何でもない夜だ。
それなのに、ときどき思う。
あの日、車の中で一人で泣いた朝のことを。
カラオケの個室で、見知らぬ男に胸ぐらを掴まれた夜のことを。
そして一番思い出したくない、あの問いのことを。
「この人を、一生支えられるのか」
浮かんだ瞬間、自分でも気持ち悪かった。
でも、止まらなかった。
私は、二度婚約を破棄した。
それぞれ、理由は違って見えた。
でも今なら分かる。 どちらも、同じところから逃げていた。
これは、その話。
一、「結婚」という言葉が出た瞬間
一回目の相手は、六歳年上の看護師だった。
当時の私は24歳。
初めて会ったのは、友人の紹介だった。
カフェで一時間ほど話した。
話しやすい人だと思った。
気が強くて、はっきりしている。
自分にないものを持っている人だった。
「あなたらしくていいと思う」
二回目のデートの帰り道、そう言われた。
認めてもらえた気がして、嬉しかった。
付き合って半年が過ぎた頃、デートの途中で彼女がさらりと言った。
「実は、子宮内膜症があるねん」
「そうなんや」
と返した。 深くは聞かなかった。
数ヶ月後、デート中に彼女が体調を崩した。
顔色が悪い。ベンチに座る。
「ごめん、ちょっと休ませて」
後で聞いた。
線維筋痛症という病気だった。
「たまーに、体が動かなくなる」
聞き慣れない病名だった。
でも、そのときの自分は、知ろうとしなかった。
親に彼女を紹介した。
母が「しっかりした人やん」と言った。
友人に話したら「大事にせーよ」と言われた。
水族館に行った日、イルカのショーを見て彼女が笑っていた。
「可愛いね」と言っていた。
一緒にいる時間が、心地よかった。
「この人と結婚するかもしれない」
と、ふと思った。
過去に人を雑に扱っていた自分とは違う。
今度こそうまくいく。そう思っていた。
問題は、何もなかった。
少なくとも、そう思っていた。
付き合って一年半が過ぎた頃、デートの帰り道で言われた。
「結婚、考えてる?」
心臓が跳ねた。
「うん、考えてる」と答えた。
嘘ではなかった。 彼女は笑顔で頷いた。
「よかった」
でも、その瞬間、空気が変わった。
何かが、重くなった気がした。
次のデートから、会話が変わった。
「どこに住みたい?」
「貯金、ある?」
「親と同居は考えてる?」
「結婚式、どうする?」
笑顔で話している。
でも、心は違う場所にある。
そんなある朝、メッセージが来た。
「ごめん、今日会われへんかも。体が痛くて、動けない」
「大丈夫。無理せんといてな」
と返した。
でも、頭の中では別のことを考えていた。
結婚したら、こういう日が増えるのか。
仕事を休んで、看病するのか。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、自分でも気持ち悪くなった。
でも、止まらなかった。
レストランで食事をしている時、彼女が言った。
「子ども、欲しいな。男の子がいいな」
嬉しそうに笑っている。
その瞬間、頭の中で計算していた。
子宮内膜症。
ピル。
妊娠への影響。
子どもは産めるのか。
彼女は楽しそうに話している。
でも、自分は笑えなかった。
車で彼女を送った帰り道、信号で止まった。
助手席で苦しそうにしていた彼女の横顔が、頭から離れなかった。
「この人を、一生支えられるのか」
「線維筋痛症が悪化したら」
「介護が必要になったら」
「自分の人生は、どうなるんだろう」
考えれば考えるほど、重くなっていった。
誰にも言えなかった。
友人に話したら、「差別だ」と言われる。
親に話したら、「そんなことで?」と言われる。
彼女には、絶対に言えない。
言ったら、傷つける。
全てが壊れる。
だから、一人で、夜ごと天井を見上げながら抱えていた。
「みんな、結婚前はこういう不安を抱えるんだ」
「結婚すれば、変わる」
そう自分に言い聞かせた。
でも、心の底では分かっていた。
これは、普通の不安じゃない。
向き合えば、答えが出てしまう。
その答えが、怖かった。
だから、目を逸らした。
違和感を無視したまま、両家の挨拶へ進んだ。
二、指輪は、きっかけでしかなかった
両家の挨拶は、無事に終わった。
式場の見学も始めた。チャペルを見た。
披露宴会場を見た。
見積もりは予算をオーバーしていたが、何とかなると思った。
同時に新居探しも進めていた。
すべてが、順調に見えた。
そんなある日、母から電話があった。
「ちょい話がある」
実家のリビングで、母が引き出しから小さな箱を出した。
開けてみる。
婚約指輪だった。父が母に贈ったものだ。
「あんたお金ないやろ?リメイクして使ったらどう?本当はあげたくないけどしゃーなしやで。」
この時の通帳の残高は23万円だった。
3ヶ月前に200万円あった貯金が、新居の初期費用・家具・家電で消えていた。
新しい指輪を買う余裕は、どこにもなかった。
でも彼女に「お金がない」とは言えなかった。
口だけの男だと思われる。
だから言えなかった。
カフェで彼女に聞いた。
「母の指輪、リメイクして使ってもいい?」
彼女が手を止めた。
数秒の沈黙があった。
「うん、いいよ」
笑顔でそういった。
あの時に「本当に大丈夫?」と言えばよかった。
「嫌だったら言って」と言えばよかった。
でも、言えなかった。
答えが怖かったから。
「実は嫌だ」と言われたら、お金を出さなきゃいけなくなる。
でも、ない。
彼女との次のデート、カフェで会った。
この日は空気が違った。
彼女の表情が、硬い。
視線が合わない。
下を向いている。
「ごめん、やっぱり、お母さんの指輪は嫌や」
耳を疑った。
「え?」
何を言われたのか、理解できなかった。
彼女
「あの時はいいと思った。でも、考えたら嫌になった」
「受け取るって、家族の一員になるってことやん。重すぎる」
私
「でも、いいって言ったやん。前に確認もしたよな?」
声が大きくなる。
周りの客が、こちらを見た。
話が噛み合わなかった。
お互いに感情的になった。 大喧嘩になった。
その夜、ベッドで頭を抱えながらようやく気づいた。
指輪は、きっかけでしかなかった。
本当の問題は、ずっと別のところにあった。
そして指輪という別の問題が来たとき、無意識に「それのせい」にしていた。
彼女も、本当の不安があったのかもしれない。
「家族になる」という重さ。
「一生この家族と付き合う」という重さ。
でも、その不安を言葉にする前に、もう戻れないところまで来ていた。
お互いが、本音を隠していた。
表面的な問題だけをぶつけ合っていた。
だから、対話にならなかった。
数日後、最後の電話をした。コール音が少し長く感じた。
「もしもし」 沈黙が流れた。
「このまま、続けられる?」
また、沈黙。
「無理だと思う」
「俺も」
「もう、無理やな」
この瞬間、婚約破棄が決まった。
電話の向こうで、泣き声が聞こえた。
小さく、嗚咽が漏れていた。
「ごめん」と言う。
「こっちこそ」と返ってくる。
「幸せになってな」
そう言った 声が震えていた。
「そっちも」
電話を切った。静けさだけが残った。
ホッとした部分があった。
重荷が取れた気がした。
それが、一番、自分を苦しめた。
翌朝、車に乗った。
ラジオが流れていた。 パーソナリティが笑っている。
でも、何も聞こえていなかった。
信号で止まる。
その瞬間、涙が溢れてきた。
止まらなかった。
視界がぼやける。
声が出た。
人生で初めて、声を出して泣いた。
「何やってるんだろう」
後ろの車がクラクションを鳴らした。
慌てて発進した。
片手でハンドルを握りながら、片手で涙を拭いた。
会社の駐車場に着いた。
エンジンを切る。
しばらく、そのまま座っていた。
鏡で顔を確認する。
目が赤い。
でも、仕方ない。
オフィスに入る。
「おはようございます」
いつも通りに挨拶した。声が少し震えた。
普通の一日が、始まった。
三、5年後、また同じ場所に立っていた
1回目の婚約破棄から、5年が過ぎた。
何人かと付き合った。結婚を考えた人もいた。
でも、続かなかった。
2年付き合った人がいた。
温泉に行った。海に行った。
笑い合うことも多かった。
この人となら、結婚できるかもしれない。そう思い始めた頃だった。
「そろそろ、結婚の話を」と切り出そうとした瞬間、彼女が口を開いた。
「ごめんなさい」
驚いた。
意味が分からない。
「なんで?」
彼女は少し黙った。
カップを両手で持ったまま、下を向いた。
「お兄ちゃんみたいやねん」
頭が真っ白になった。
「嫌いになったわけじゃない。ただ、恋愛感情がなくなった。兄妹みたいになっちゃった」
意味が分からなかった。
優しくしていた。困っている時は話を聞いた。
支えようとしていた。 それが悪かったのか。
今なら分かる。
デートのたびに「何食べたい?」と聞かれると、いつも「何でもいいよ」と答えていた。
「優しさ」のつもりだった。
でも実際は、意見を言って嫌われることを、怖れていた。
逃げていた。形を変えて、ずっと逃げていた。
婚活パーティーで、次の相手と出会った。
保育士だった。
穏やかで、育ちがいい。
言葉遣いが丁寧で、一緒にいて心地よかった。
「今度こそ大丈夫だ」
5年経っている。成長した。
今度は本音で向き合える。そう思っていた。
付き合って一年半が過ぎた頃、彼女に「親に会ってほしい」と伝えた。
彼女が真剣な顔をして言った。
「あのね、一つだけお願いがあるの。結納の有無を、はっきり伝えてほしい。うちの家は、そういうのを大事にするの」
「分かった」と約束した。
でも、その瞬間、頭の中で電卓を叩いていた。
新居の初期費用。家具。家電。
通帳の残高:32万円。
結納:最低でも50万円。
また、足りない。
彼女の実家は、田んぼに囲まれた大きな平屋だった。
玄関が2つある。
お客様用の入り口。
専用の部屋。
立派な床の間に掛け軸。
育った環境が、違う。
挨拶の時、手が震えた。
両家の顔合わせ。個室のある和食の店を予約した。
料理が運ばれてくる。話が弾む。
途中、彼女の父親が料理を少しこぼした。
彼女の母親が「もう、またー」と言いながら、さっとお世話をする。
その光景に、その場の全員が笑った。
その直後、私も料理をこぼした。
彼女が「もう」と言いながら、同じようにお世話をしてくれた。
私の両親が「一緒やん」と言って、また笑い声が上がった。
場は和やかだった。
うまくいっている。そう思った。
その時、私の父が口を開いた。
「結納については……」
「結納」という言葉は、はっきり使わなかった。
でも「伝わったはず」と思った。
確認しなかった。
「ちゃんと伝わりましたか?」という一言が、言えなかった。
新居も決めた。家具を選んだ。家電を揃えた。
あとは住むだけの状態になっていた。 もう後戻りできない。そう思っていた。
1週間後、彼女からLINEが来た。
「会いたい」 それだけだった。
スタンプもなかった。
なぜかこの時、胸騒ぎがした。
今思えば、この後に起こる予兆だったのかもしれない。
駅前で待ち合わせをした。
彼女がベンチにうつむいて座っている。
「どうしたん?」
「ちょっと話があって」
声が震えていた。空気が重い。
立ち上がろうとした、その時だった。
彼女の両親が、駅の反対側から歩いてきた。
どこかで待っていたのだと思う。
体が固まった。
「少しお話があります」
そのまま4人で個室のあるカラオケへ。
エレベーターに乗った。4人で。
沈黙だけが流れた。
押しつぶされそうな沈黙だった。 階数表示が変わる。3階、4階、5階。
個室に通される。
向かい合って座る。彼女は泣きそうな顔をしている。
時計の秒針の音だけが聞こえた気がした。カチ、カチ、カチ。
「娘との結婚を、やめてほしい」
頭が真っ白になった。
結納の話が、ちゃんと伝わっていなかった。
「聞いていません。結納という言葉は出ませんでした」
「伝えたつもりでした。父が顔合わせの時に話していました」
首を横に振られた。
「それだけではないんです」
その時、父親が立ち上がった。
こちらに近づいてくる。
胸ぐらを掴まれた。
息ができなかった。顔が近い。
「娘を頼む、と言ったはずだ」
低い声だった。
怒っているのに、どこか哀しそうだった。
「申し訳ありません」
それしか言えなかった。
封筒が出てきた。
現金と、一枚の紙が入っていた。
「婚約破棄に合意します」と書いてある。
ペンを渡された。手が震えた。 文字がうまく書けなかった。
何度も書き直した。
指印を押した。
赤い朱肉が指についた。
カラオケを出た。 一人になった。
駅のベンチに座った。
人が通り過ぎていく。誰も、こちらを見ない。
夜の駅は、いつも通りだった。
頭の中で、カラオケの場面がフラッシュバックしていた。
1回目と2回目。何かが同じだ。
1回目は指輪。2回目は結納。 表面的には違う。
でも、本質は同じ何かがある。
それが何なのか、その夜はまだ分からなかった。
家に帰った。部屋の電気をつけなかった。
暗い部屋で、ベッドに倒れ込んだ。
「もう、結婚なんて無理だ」
その言葉だけが、頭の中を回っていた。
四、言えなかった、本当のこと
それから半年間、病んだ。
病みながらも友人の力も借りて、縁切り神社に行った。
京都まで一時間、電車に乗った。
窓の外を見ながら、ずっとあのカラオケの場面を思い出していた。
合コンにも行った。
でも、続かなかった。
また同じことをしている、と自分でも分かっていた。
「何が悪かったのか」
答えが出ない日が、続いた。
半年後、友人から連絡が来た。
「久しぶりに飲もうよ」
その隣に女性がいた。今の妻だ。
最初のデートで、言った。
「実は、二回婚約破棄してる」
妻は驚いていた。
でも、逃げなかった。
「どうして?」と聞いてくれた。
「本音を言えなかったから」
そこまで言って、止まった。
本当のことを言おうとすると、喉の奥で何かが引っかかった。
お金のことは言えた。
指輪のことも、結納のことも。
でも、一番言えなかったことが、まだあった。
妻を見た。
逃げるなら、今だ。と思った。
曖昧にすれば、この話は終わる。
「伝えたつもり」にすれば、今夜は乗り越えられる。
でも、同じことを二度繰り返した。
3度目も同じことをするのか、と思った。
口を開いた。
「一回目の相手に、持病があってん。子宮内膜症と、線維筋痛症。それが不安で、逃げてしまった。一生支えられるか分からなくて、逃げた。その本音を、誰にも言えなかった。言ったら、ひどい人間だと思われるから」
言い終わって、黙った。
妻も、黙っていた。
長い沈黙だった。テーブルの上のグラスが、少し汗をかいていた。
「正直に言ってくれてありがとう」
その言葉が、意外だった。
責められると思っていた。
「怖かったんやね。言えなかったんやね」
「……そう思ってくれるん?」
「うん。でも、今言えたじゃない」
妻がゆっくり息を吐いた。そして言った。
「じゃあ、最初から全部話し合おう」
その言葉が、なぜか怖かった。
今まで、どんな関係にも、どこかに逃げ道を作っていた。
本音を言わないという逃げ道。
曖昧にするという逃げ道。
「伝えたつもり」という逃げ道。
でも今、それがなかった。
まず、指輪の話をした。
「予算はこれくらいしかない。1回目も、2回目も、貯金を使い果たした。また同じ状況だ」
言いながら、情けなかった。三回目も、同じ台詞を言っている。
妻が答えた。「一緒に選ぼう。半分ずつ出そう」
それだけだった。責めなかった。「情けない」とも言わなかった。
ただ、「一緒に」と言った。
その一言で喉の奥の何かが少し、ほどけた。
次に、結納の話をした。
「正直に言うと、形式的に感じてる。でも、あなたの家はどう思ってる?」
妻が少し考えた。
「うちは別にいいよ。前の話、聞いてたから。形だけのことで、また同じことになっても嫌だし」
前の話、というのは二回目の婚約破棄のことだ。
妻はもう知っていた。
「でも、あなたのお母さんは?」
と聞き返された。
「確認してみる」
親に電話した。妻の前で。隠さなかった。
母は「別にどっちでもいいよ」と言った。
「じゃあ、なしにしよう。その代わり、ちゃんと両家で顔合わせはしよう。きちんとした形で」
妻が笑った。
「それがいい」
最後に、新居の話をした。
「初期費用、これくらいかかる。1回目も2回目も、全部自分が出した。見栄を張ろうとして、そのたびに失敗した」
妻が私を見た。黙っている。
「今回は、一緒に出してほしい。二人のことだから」
「うん、そうしよう」
妻が笑った。責めるでも、哀れむでもない顔だった。
「最初からそう言ってくれたらよかったのに」
そうだ。最初から、そう言えばよかった。
ずっと、そう言えばよかっただけだった。
こんなに怖かった会話は、なかった。
逃げ道がなかったから。
でも終わってみれば、今までで一番軽かった。
五、胸ぐらを掴んだ父親のことを、今でも思い出す
結婚した。
子どもが生まれた。
何でもない夜が、続いている。
それでも、ときどき思う。
1回目の彼女は、どうしているのか。
体の具合は、よくなっただろうか。
誰かと、ちゃんと笑えているだろうか。
「ひどいやつだ」と言われれば、そうだと思う。
持病のある人との結婚を、怖れた。
その本音を言葉にすることすら、できなかった。
でも、あの頃の自分には、受け止める器がなかった。
それが、正直なところだ。
胸ぐらを掴んだあの父親のことを、今でも思い出す。
怒っているのに、哀しそうだった。
娘を守りたかった。ただ、それだけだったと思う。
子どもが笑っている。
妻が台所で何か言っている。
「聞いてる?」
「うん」
返事をする。
昔の私は、その「うん」で逃げていた。
今は違う。
分からないことは、分からないと言う。
怖いことは、怖いと言う。
何でもない夜だ。
その何でもない夜を、私はようやく受け取れるようになった。
二度婚約を破棄した話を書きたかったわけじゃない。
本音を言わないまま人と生きようとすると、
人は同じ失敗を、何度でも形を変えて繰り返す。
私は、そのことを書きたかった。