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「おばちゃん力」を高めたい。

    東京近郊の劇場で新作オペラを観るため、開演8分前くらいに、ロビーからホール内へ入った。すぐに自分の指定席の位置を特定し、その席がある列の端に座っている客に、申し訳ないという気持ちを込めて声をかけ、列の中へ行かせてくれるよう頼んだ。

    その客は読んでいた本から顔を上げ、列の中ほどへ目を向けた。お願いしたことが伝わらなかったのだろうかと思い、もう一度声をかけようとした瞬間、その客はわずかに私の方へ顔を向けて、「あっちからの方が近いんじゃないですか?」と言った。

    え、通せんぼ?

    これまで数百回か、少なくとも100回以上は劇場で公演を観たことがあるが、列の中へ通してもらうことを拒否されたのは初めてだった。

    ちなみに、私の席へは、その客の側から行く方が近い。だから、その人に頼んだのだ。列の中ほどにはまだいくつか誰も座っていない席があったから、その客は適当に推測して、そう発言したのだろう。膝の上に開かれて置かれたままの本には指一本触れずにいた。この人はどんな本を読んでいるのだろう、と頭の片隅でちらっと思った。スーツを着たその人の両脚はどっしりと床に着いており、膝と前の座席との隙間は少しもなく、固まったセメントのように、とても動きそうにはなかった。

    こっちからの方が近いからあなたに頼んでいるんですよ、とは言えずに、曖昧な笑顔を浮かべながら、列の反対側に回った。反対側の人たちは、快く通してくれた。私は、「申し訳ありません。恐れ入ります」と言いながら、自席にたどり着いた。

    席に座ってみると、やはり、その席は通行拒否をした客の側からの方が、だいぶ近かった。私はつい、「こっちの方が近かったよ」と独り言を言った。例の客には聞こえていないと思うけれども。

    公演には途中休憩があり、休憩後も私は通行止め客の反対側から席へ行った。くだんの客は、高齢女性たちが通るときはさっと立ち上がっていたので、体に障害やけががあって動きづらいというわけではなさそうだ。

    私がはっきりと、「いえ、こちらからの方が近いのでお願いしています。申しわけありませんが、通していただけませんか?」と答えたら、通してくれたのだろうか?

    「列の中ほどに席を取ったなら、もっと早く着席して、ほかの客に迷惑をかけないようにしろ」という意見の人もいるだろう。しかし私は、多くの劇場が譲り合わないと着席できない座席配置をしている以上、どの席を取っていても、どのタイミングで着席してもいいと考える。常に端の席を取れるとは限らないし、お互い様なのだから。開演のまさにその瞬間とか、開演後に席に着かなければならないはめになる人もいる。その人が単に寝坊したのか、前の用事が長引いたのか、交通機関が遅延したのかはわからない。でも、どんな場合でも、私はほかの客を通すことをあからさまに嫌がったことはないし、もちろん拒否したことはない。拒否している人を見たこともなかった。

    通行止め客の対応はなかなかの理不尽だけれども、もっと理不尽な目に遭ったこともある。例えば、新宿駅の構内で、私の両側には空いている空間があり、私はスマホを見たり脇見をしたりもせずに前を向いて適度な速さで歩いていたところ、すごいスピードで正面からぶつかってきて、私を転ばせ、振り向きもせずに去った人。飲食OKの映画館で、上映中にのどが痛くなってせき込みそうになったため、かばんから飴を取り出して口に入れたところ、「うるせえんだよ」と言って後ろの座席からいきなり私の頭を殴ってきた人。前者の人は、周囲が見えなくなるような事情があったのかもしれない。後者の人は、映画に見入っていたときに私が飴の小袋を開ける音を立てたことにとても腹が立ったのかもしれない。一応そう考えてみても、私としては、すべきではなかった理不尽な行為としか思えない。この2つの事例の場合、少なくとも後者は暴行罪が成立しそうである(起訴には至らないかもしれないにしても)。

    こうした行為をしてくる人たちはどの人も、(ある程度は力のありそうな)中高年の男性だった。その事実もあってつい、こういう目に遭うたびに、「自分が屈強な男性だったら、こんな目に遭わなかったのかな」と思ってしまい、その場で抵抗できなかったことを後悔する。しかし、抵抗すべきだと思ってはいても、力で勝てないことが明らかなため、可能な限り逃げるしかできない。相手がたとえ十代の女性だったとしても、他人からの敵意やあらゆる暴力行為が苦手な私は、抗議の声ひとつあげられないかもしれない。

    でも、以前の私はわずかな希望を持っていた。こういう状況や、ほかの人たちもこういう目に遭い得る社会を私が直接変えることはできないだろうが、自分が「若い女性」でなくなれば、こういう被害はなくなるのではないか?と。

    しかし、年を取り、中年になってからも、ゼロにはなっていない。もしかしたら、単に年を取るだけでは足りないのか。もっと貫録をつけなくてはいけないのかもしれない。

    それが(実は実年齢とは、そして性別とも、必ずしも相関しない)「おばちゃん力」である。

    ここでいうおばちゃん力とは何か?それは、「いつなんどき、誰に対してでも、理不尽や不正義が起こったら、その場で本人に向かって明確に伝える」力。そして、もし相手が暴言や暴力などに及びそうになったら、すかさず、「なんてね?あはは!」と、自分の発言は否定せずに、その場を収める対応ができること。(またの名を、神業!)

    では、どうしておばちゃん力が必要なのか?

    まず、理不尽な目に遭うのはいわゆる若い女性だけではない。現に私は(世間からの見え方としては)女性だが、若くはないし、都心にある有名なコンサートホールで行われた世界的に著名な音楽家のクラシックコンサートの開演前、S席で、中高年男性が席に着くとき、その隣に座っていた中高年男性が床に置いていた杖を見て、「クロークに預けてこいよ」と告げた場面を目撃したこともある(わざわざ、本記事の冒頭で「東京近郊」と書き、ここでも「都心」「有名な」「著名な」「クラシック」「S席」などと書いたのは、理不尽な行為が起こる率は「地域」によって差があるだとか、他者に突然理不尽な行為をする人は経済力や社会的地位や教養のない・低い人なのだ、と決めつける人がいるかもしれないからだ。東京近郊であろうと都心であろうと、また地方であろうと、さらに日本でも外国でも、発生率の違いがあるのか、そうした調査があるのかは知らないが、ここではそんな話は関係がない。それに、ヘイトの加害者の特徴もそうだが、経済力や社会的地位や教養がどんなにあろうと(私の基準では上記の行いをする人は、クラシックコンサートに何百回行っていようが「教養のない人」だが)、理不尽な行いをするのだ。なぜか?おそらく、何かに大して不満を持っており、心に余裕がないからだろう)。

    つまり、理不尽な行為をする人は、自分より「下」「弱い」とみなす人に、そうした行為をしている。(極端に追い詰められた状況や、一時的に認知能力が著しく低下していたり、頭や精神が混乱していたり、自暴自棄になっていたりしない限り、人は自分より明らかに強い人を攻撃したりしない)

    そして、誰に対しても「強い」(と他者から思われる)人間になるのは、かなり難しい。人には、どうしても後からは変えられない、生まれつきの条件がある。また、変えた方がいいのかもしれないが、変えられない、変えたくない部分もある。例えば私は小柄な(日本女性としては平均身長の)普通体型の(世間的には)女性である。身長は変えられないし、服を着ていてもわかるほどムキムキの筋肉をつけるつもりはない(筋力は強化したいと思っているが)。護身術や武道を身につけていれば自信を持つことができ、何もしなくてもその強さがにじみ出る姿になれるかもしれないが、残念ながら、運動神経が芳しくなく、簡単な護身術を習えたとしても、屈強な人や、屈強ではなくても攻撃的な人、怒っている人に対抗するのは無理だろう。しかし、「態度」は、努力次第で変えることができるのではないだろうか?

    そこで、「おばちゃん力」である。ここでいう「おばちゃん」は否定的な意味ではない。むしろ、明るく、強く、しなやかな、ポジティブなイメージである。人を傷つけたり攻撃したりすることなく、理不尽な行為にはNO(ノー)の意見を述べられる人。

    私はもともと年を取ることにそんなに否定的ではないが(体力や知力が衰えたり、死が近づいたりすることを残念には思うが)、年を取れば、「貫録」がついてくるのではないかと勝手に思い込んでいたように思う。しかし、それは(私の場合)間違っていた。年齢に(も性別にも)関係なくもっと自信を持ち、堂々とし、相手によく聞こえる声を出して明瞭な発音で話し、いい意味でずうずうしくなれたらいいのではないだろうか。

    そうだ、おばちゃん力を上げるのだ。子どものときはどこか恥ずかしいと思っていたが実はまったくそんなことはない、むしろ立派だった母親のように、なるのは無理でも、少しでも近づけるように、少しずつ自分を変えていくのだ!

    要は、「なめられない」「見下されない」ような人間になる、ということかもしれないが、「ばかにされるもんか」と常に身構えているわけではなく、柔軟に、優しくありながらも、理不尽には対抗する強さを持ちたい。それでも理不尽な目に遭うことはゼロではないかもしれないが(母親も、理不尽な目に遭うことはあったし、常にその場で反撃できたわけではないだろう)、できるだけ自分で納得できる自分でありたい。

    最近意識していることは、(文字どおり)声の大きい人に声の大きさだけで負けないようにすること。こちらも頑張って大きな声を出す。まだ「頑張って」いる状態だが、もっと自然に発声できるようになりたい。以前、演劇の本を読むなどして独学で発声練習や「声を届ける」練習を少し試みたことがあるが、そういうトレーニングを楽しみながらできたらいいかもしれない。

    はじめるぞ、おばちゃん力。鍛えよう、おばちゃん力。

    理不尽を野放しにしないためにも。

    でも、自分と他者の安全を第一にしながら。

     
     
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