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AIも人も「夢」「幻」を見る。だから立ち止まり「精査」する

    📖4,724文字数/推定読了時間:9分🐏

    こんにちは、夜月です🐏

    突然ですが、みなさんはネットで何かを調べるとき、検索AI、例えばGoogleの生成AIによる概要表示などを使っていますか?

    近年、検索エンジンに「AIによる回答」が統合され、知りたい情報を一瞬でまとめて出してくれるようになりました。「これ教えて」と打ち込めば、電子の海の膨大な情報から要点だけを拾い上げ、小綺麗に整えて出してくれる。それは本当に便利で、革新的な体験ですね✨

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    いやぁ、便利な世の中になったものです✨

    ……でも、最近こんなことがありました。

    とあるキャラクターの名前や設定を検索してみたときのこと。AIが自信満々に出してきた回答に、私は思わず「あれ?」と首を傾げてしまいました。

    デザインが少し似ているだけの全く別のキャラクターの情報や、たまたま名前が同じな無関係のキャラクター設定が、ごちゃ混ぜになって「これが正解ですよ」という顔で出力されていたのです。

    これはいわゆる「ハルシネーション(AIの幻覚・誤認)」という現象です。

    今回は、この「ハルシネーション」を入り口に、ネット社会や日々の人間関係において「情報を精査する大切さ」について、私なりの考えを綴っていこうかと思います。

    少しだけ、長めの独り言になるかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです🐏✨

    AIは「道具」であって「預言者」ではない

    このAIの誤認を見たとき、多くの人は「AIはダメだな」と切り捨てていることでしょう。ですが、私は単純に切り捨てて良いことではない、と考えています。

    そもそも「インターネット」という想像を絶する広大な海から、ほんの数秒で「それらしい情報」を拾い集めて形にしてくれるだけでも、技術としてはめちゃくちゃ有難いことなんですよね。

    もし人が同じ作業を自身で行おうとすれば、一体どれほどの時間や日数がかかるのか……。

    そのAIに対し「完璧に真偽を判定して、完璧な答えを出すこと」まで求めるのは、ただの道具に期待しすぎであると私は思っています。

    AIは平気で嘘をつきます。
    ですがそこには、悪意があるわけではなく、ただ「それらしいパターン」を繋ぎ合わせているだけなのです。

    だからこそ、AIを扱う人間側が「情報を鵜呑みにせず、立ち止まって『調べる』こと」を忘れてはいけないのです。

    AIは、私たちの代わりに物事を考えて、正解を教えてくれる「預言者」ではありません。

    主導権はあくまで、私たち人間にあります。AIは、私たちの思考を少しだけ手助けしてくれる「道具」であるということを、忘れずにいきましょう🐏



    アナログの歴史にも存在する「先人たちのハルシネーション」

    でも、この「もっともらしい情報の偏り」である「ハルシネーション」は、デジタルや現代のAI特有のバグなのでしょうか?

    私は、そうは思いません。

    ネットがなかったアナログの時代、私たちの先人たちが書き残した本や日記、あるいは歴史書。それらの「アナログな情報」の中にも、同じようにたくさんのハルシネーションが存在していた、と私は考えています。

    なぜなら、人間は誰もが完璧に物事を客観視できるわけではないからです。

    どれほど偉大な研究者や、高名な作家が書いた本であっても、そこには必ず「その人の思考の偏り」や「主観」があり、さらにはその時代の「常識」という名のバイアスも紛れ込んでいます。

    自分の見たいものだけを見て、自分の都合の良いように事実を編集して記録に残す。それは人間が太古の昔から行ってきた、脳の自然な働き、自己防衛でもあります。

    情報とは本来、どんなものであっても「誰かの主観」というフィルターを通して作られた、偏りのあるものなのです。



    人間関係でも起きる「記憶の自己生成」

    ここまではAIの話でした。では、あなたの記憶は、本当に「正確」だと言い切れるでしょうか。

    「あの人はこういう人だ」——そう思ったとき、それは事実でしょうか、それとも願望でしょうか。


    この「主観によるハルシネーション」は、なにもただの情報だけで生じるものではありません。特にSNSなどの閉じた世界における個人間のトラブルでも、非常にわかりやすい形で、私たちに牙をむきます。

    まず大前提としてお伝えしたいのは「心の中でどう思うか(主観的な感情)」は、誰にとっても完全に自由であるということです。

    悲しい、寂しい、悔しい、怒りを感じる……。
    そうした主観的な感情を抱くことも、それを言葉として表現することも、誰にも制限されるものではありません。心から湧き上がる感情は、その人自身にとって、非常に人間らしくあるための大切なものです。

    ただ、問題となるのは、「自分の心の中の感情や主観」と「現実に起きた事実」の境界線が、曖昧になってしまうときです。

    たとえば、何かお互いのやり取りの中で、穏やかにお互いのスタンスを確認し合い、そっと境界線を引いた関係があったとします。

    境界線は本来、お互いが心地よい距離を保つためのものです。

    しかし「その境界線を引いたこと」が相手のフィルターを通ると「自分の存在や人格を否定された」という、少し捻れた被害ストーリーに自動翻訳されてしまうことがありますよね。

    主観的にそう感じてしまうこと自体は仕方のないことですが、それをそのまま「客観的な事実」として他者に触れ回るようになると、そこに大きな歪みやトラブルが生まれることも。

    たとえば、友人からLINEなどの返信が素っ気なかった日もあるでしょう。

    「怒らせたかな」「もう嫌われたかも」と、たった数文字から「自分は嫌われたという物語」を作ってしまったことはないでしょうか。そして、別の人に「愚痴」として「物語」を話してしまい、友人関係がこじれてしまった……なんてこともあったり。

    実際には、友人はただお仕事や移動中などで、片手間な操作をしていただけだったとしても、その時は、どうしてもその「歪んだ物語」から抜け出せなくなってしまうのですよね。

    客観的なやり取りの履歴などが存在していても、そうした歪みにより事実よりも「傷ついた自分の感情」を「真実」として脳が優先させてしまうものなのです。

    このように感情と事実の境界線が薄れてしまうと、以下のような心理的な認知の歪みも起きてしまいます。


    * * *


    ①「大人の配慮」を「謝罪」と解釈する心理バイアス

    境界線を引いた側が、不要な争いを避けるために「私の伝え方にも、少し至らない点があったかもしれません」「配慮が足りない部分があったなら、ごめんなさい」と、大人のマナーや社交辞令として、謙虚な姿勢を示したとします。

    これは、関係を平穏にするための「クッション言葉」としての表現です。

    しかし、認知が歪んでしまっていると、この部分的な配慮を「全面的な謝罪」=「相手が完全に非を認めて自分が勝った」と誤読してしまいます。

    心理学では、これを自分のプライドを守るための「防衛機制(自己の正当化)」と呼びます。自分を傷つけないために、相手の丁寧な歩み寄りを「自分に対する敗北」として解釈してしまうのです。


    * * *


    ②自分の心の中にある葛藤を相手に映し出す「投影」

    また、彼らはよく「相手がしつこい」「執着されている」「いつも自分を見下している」など、他者を非難します。

    しかし、よく観察してみると、実際には彼ら自身が「相手への不満や恨み」を定期的に周囲に語り、関心を引くためのコンテンツやネタとして使い続けている……という現象が生じているのです。

    これもまた心理学において「投影」などと呼ばれる心理現象の一つです。

    自分自身が心の中で行っていることや、自分が抱いている「構ってほしい」などの欲求を、無意識のうちに相手のものとして映し出し、攻撃してしまうのです。

    自分自身の姿を相手の姿だと思い込み、鏡に向かって「あいつが自分を睨んでいる」と叫んでいるような状態です。


    * * *


    こうした感情だけで作られた物語、つまりは「人間によるハルシネーション」の世界を生きている人には、いくら論理的にログを提示しても、客観的な対話は最初から不可能です。

    なぜなら彼らの脳は、自分に不都合なデータ、事実をすべて排除するように動いてしまっているのだから……。


    なお、私はそうした歪みの中にいる人を、ただ冷ややかに突き放したいわけではありません。

    元来、人間というのは「自分が信じたいものを信じる生き物」です。

    だから、たとえ客観的な事実とは異なっていたとしても、本人がその「自分にとって都合の良い、信じたい物語」の中で本当に幸せに満ちて生きているのであれば、私はそれで構わない、と思っています。

    ただ……もし本当に心が満たされて幸せなのであれば、出てくる言葉は「惚気」のような、温かく溢れ出て、周りもニコニコとできるような、ポジティブなものだけのはず。

    どれだけ時間が経っても、他人に向けた嫌味やトゲのある言葉が止まらないということは、その物語の中にいてもなお、心は満たされず、本当は今も苦しみ続けている証拠なのかもしれません。

    私は「ご自身が楽しいと思うことへ、時間を使ってほしい」といつも思います。これは決して嫌味でも、ましてや悪意でもありません。

    「限られた、有限なる大切な命の時間なのだから、どうか純粋に、ご自身の幸せに繋がることだけに使ってほしい」という、私の心の底からの純粋な願いです。自分にも向けた言葉の一つでもあります。

    いつか、そうやって自分が作り上げてしまった幻影の苦しみから解放され、本当の意味で心が満たされ、穏やかになれる瞬間が訪れたら良いな、と🐏



    このnoteもまた、一つの「偏り」である

    AIのハルシネーション、先人が残した本のバイアス、SNS等で自作の物語を生きる人の認知の歪み。

    私たちは、日々これらすべての「偏りのある情報」に囲まれて生きているのです。

    なので、目にした情報をすべて鵜呑みにすることが、本当に良い物かどうか、というのを改めて考えていただけたら嬉しいです。


    そして、大切なことをもう一つ。
    私はこの記事を通して「自分だけが正しい客観的事実を持っている」と主張したいわけではありません。

    いま皆さんが読んでくださっているこのnoteもまた、私という一人の人間の主観というフィルターを通って書かれた、偏りのある一つの情報に過ぎないのです。

    私が書いていること、私がまとめている思考。
    それらすべては、私の視点から切り取られた現実です。

    人によっては、別の角度から見ればまた違う景色が見えるかもしれません。それもまた、一つの真実です。

    だからこそ、これを読んでいるあなたにお願いがあります。

    この記事に書かれていることを、どうかそのまま「正解」として鵜呑みにしないでください。

    これを読み終えた後、できれば一度立ち止まり「自分はどう思うだろう?」「自分ならどう対応するだろう?」と、ご自身の考えをまとめ、整理するための「ただの材料」として、このnoteを使ってみてほしいのです。

    溢れる情報をただ消費して流されるのではなく、一次情報を精査し、その裏にある文脈を読み解き、最後は自分の頭で考えること。

    技術がどれだけ進化しても、人間がどれだけ都合の良い物語を捏造しようとも。自分の足で客観的な事実の地平に立ち、自分の頭で考えることこそが、私たちがネットの大海原で溺れずに、自分自身の平穏を守り抜くための、たった一つの、そして最強のお守りだと私は思っています。

    長い独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。みなさんの現場でも、静かで、穏やかな選択ができますように。

    また、別のお話でお会いしましょう🐏

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