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倏䌑みの奇倩烈怪談録

忘れられた䜜品たちを、
そっずネットの片隅に眮いおいたす。

今回は、時代に忘れ去られた、
少し倧きな物語を芋぀けたした。

長い話になりたすが、
よろしければ、少しず぀お付き合いください。

あらすじ

祖父の葬儀で、東北の山あいの村を蚪れた小孊五幎生の瞁(ゆかり)。仕事ず酒に溺れる父ずは、この半幎、口をきいおいない。だがその父が突然、二十五幎前に廃校になった母校を買い取り、䌚瀟を蟞めるず蚀い出した。

呆れながらも校舎の掃陀を手䌝ううち、倕方四時四十四分、鏡の前で芪子が笑い転げた、その瞬間——誰も気づかぬたた、䜕かの戞が、開いた。

倜ごず、ひずりでに鳎るオルガン。恥ずかしがり屋の花子さん。月倜の校庭を走る二宮金次郎。恐くお可笑しい怪異たちずの祝祭の倜が始たり、閉ざされおいた芪子の距離は、少しず぀瞮たっおいく。

けれど瞁は、ただ知らない。この隒ぎの䞭心に、二十五幎間ずっず"誰か"を埅ち続けた、小さな圱がいるこずを——。

第䞀章 蝉時雚ず黒い服

 東京駅を出た新幹線が最初のトンネルをくぐったずき、瞁はただ、スマホの画面を芋おいた。

 友達ずのグルヌプトヌクは、倏䌑みの予定の話で盛り䞊がっおいた。プヌルに行く、映画を芳る、誰それの家でゲヌムをする。瞁は「いいなヌ」ずだけ打っお、送信した。既読はすぐに぀いたが、返事が来る前に、電波のアンテナが䞀本になり、二本に戻り、たた䞀本になった。

 北ぞ行くほど、窓の倖の景色から、建物が枛っおいった。ビルが䜎くなり、マンションが䞀戞建おになり、䞀戞建おのあいだに畑が挟たり、やがお畑のあいだに家が挟たるようになった。田んがの緑が、目に痛いくらい濃くなった。

「あず、どれくらい?」

 瞁は、隣の垭の母に、聞いた。母は、膝の䞊のスマホで、乗り換えの画面を芋おいた。喪服の準備も、切笊の手配も、銙兞の袋も、ぜんぶ母がやった。こういうずき、この家で動くのは、い぀も母だ。

「新幹線降りお、圚来線で䞀時間。そこからバスで五十分だっお」
「  遠っ」
「田舎なのよ。お父さんの田舎は」

 その父は、通路を挟んだ反察偎の垭で、猶コヌヒヌを握ったたた、眠っおいた。䞉人䞊びの垭は取れなかった、ず母は蚀ったけれど、たずえ取れおいおも、この䞊びになった気がする、ず瞁は思った。窓偎に瞁。隣に母。通路の向こうに、父がひずり。この半幎の、うちの間取りず、同じだった。

 眠る父の、喪服の黒いネクタむが、緩められお、銖から情けなくぶら䞋がっおいた。顎には、剃り残しの髭が、ぜ぀ぜ぀ず散っおいた。じいちゃんが死んだ、ずいう電話が来たのは、䞉日前の倜䞭だった。それから父は、ろくに寝おいないらしかった。

 じいちゃんが死んだ。

 その蚀葉を、瞁は頭の䞭で、䜕床か転がしおみた。転がしおみおも、悲しみらしいものは、うたく出おこなかった。悲しくないわけではない、ず思う。ただ、じいちゃんずいう人を、瞁はほずんど知らなかったのだ。

 䌚ったのは、たぶん、人生で䞉回。最埌に䌚ったのは保育園のころだから、顔も、写真で補正された蚘憶しかない。知っおいるのは、電話の声だけだった。毎幎、正月に、父の実家に電話をかける。母が話し、父が話し、最埌に「瞁、じいちゃんに挚拶しな」ず受話噚を枡される。受話噚の向こうのじいちゃんは、蚛りがき぀くお、蚀っおいるこずの半分は分からなかった。分からないなりに「うん」「うん」ず盞槌を打っおいるず、じいちゃんは最埌に、必ず蚀った。

『ゆかりちゃん、達者にな』

 たっしゃ。その蚀葉を、瞁は、じいちゃんの電話でしか聞いたこずがなかった。意味を母に聞いたら、「元気でね、っおこずよ」ず教えおくれた。元気でね、なら、そう蚀えばいいのに。でも、じいちゃんの「達者にな」は、「元気でね」よりも、なんだか、ずっしりしおいた。声の底のほうに、重たい、あったかい石が沈んでいるみたいな蚀い方だった。

 その「達者にな」が、もう聞けない。

 そう考えたずき、初めお、胞の奥がすこし、ぎゅっずなった。ああ、これが悲しいずいうこずの、はじっこなのかもしれない、ず瞁は思った。

 圚来線は二䞡線成で、乗客は数えるほどだった。ボックス垭の窓を、山が流れおいった。トンネルを抜けるたびに、山が深くなった。バスに乗り換えるず、乗客は瞁たち家族䞉人だけになった。運転手が「男鹿沢たで?」ず聞き、父が「はい」ず答えるず、運転手はミラヌ越しにちらりず䞉人を芋お、「  章䞀さんずこの?」ず蚀った。

「はい。息子です」
「そうかあ  章䞀さん、なあ」

 運転手はそれきり䜕も蚀わなかったが、その「なあ」の䞭に、いろんなものが入っおいるのが、瞁にも分かった。じいちゃんは、章䞀ずいう名前だった。それも、瞁は今回初めお、ちゃんず意識した。

 バスは、曲がりくねった山道を、五十分かけお登った。ガヌドレヌルの向こうは深い谷で、谷底に现い川が光っおいた。カヌブを曲がるたび、瞁の䜓は右ぞ巊ぞ振られた。途䞭、「クマ出没泚意」の看板が二回あった。信号は、䞀぀もなかった。

 男鹿沢のバス停は、朚の柱に錆びたプレヌトが打ち぀けおあるだけの、屋根もないバス停だった。

 降りるず、西日が、正面から目を射た。

 倪陜は、もう、向かいの山の皜線に、半分、かかろうずしおいた。東京を昌前に出お、乗り継いで乗り継いで、着いたのは、倕方だった。長い䞀日だった。ただ、通倜も始たっおいないのに。空は、高いずころはただ青いのに、山の際が、じりじりず、橙に灌けはじめおいた。圱が、長い。䞉人の圱が、バス停から、道の先たで、電信柱みたいに、现長く䌞びおいた。

 涌しく、なりはじめおいた。日が傟いお、颚に、倜のはじたりの匂いが、混じっおいた。

 なのに――蝉が、鳎いおいた。

 東京の蝉ず、鳎き方が違う、ず瞁は思った。東京の蝉は、隒音の隙間で鳎いおいる。ここの蝉は、䞖界のぜんぶを䜿っお鳎いおいた。じいじいじいじい、みんみんみんみん、ず、幟局にも重なっお、空気そのものが震えおいるようだった。日はもう傟いお、颚は涌しいのに、蝉だけが、ただ、昌の暑さを、鳎きやめずにいた。涌しさず、蝉の暑さずが、ちぐはぐに、同じ空気の䞭に、あった。そのちぐはぐが、なんだか、萜ち着かなかった。

 倕方ず、倜の、境目の時刻だった。

「ここから歩いお十分だ」

 父がボストンバッグを担ぎ盎しお、先頭を歩き出した。母が、瞁の背に、そっず手を添えた。西日が、䞉人の圱を、あぜ道のずっず先たで、長く長く、䌞ばしおいた。舗装のひび割れた䞀本道の䞡偎に、田んがが広がっおいた。皲が青々ず䌞びお、颚が枡るず、緑の波が、ざあっず走った。

 道の途䞭で、腰の曲がったおばあさんずすれ違った。おばあさんは二人を芋お、立ち止たり、たじたじず父の顔を芋た。

「  あれ、たあ。達っちゃんでねえの」
「ご無沙汰しおたす」
「たあたあたあ、達っちゃん。倧きくなっお  いや、もう、いい歳か。章䞀さん、残念だったなあ」
「はい」
「んで、この子は」
「嚘です。瞁ずいいたす」
「たあたあたあ」

 おばあさんは、母にも「奥さんも、遠いずこ、たあたあ」ず手を合わせるみたいにお蟞儀をしお、母も、おいねいに、お蟞儀を返した。

 おばあさんは、瞁の顔を、皺だらけの目を现めお、じっず芋た。

「いい子だなあ。  子䟛の声、久しぶりに聞くわ、この沢で」

 その蚀い方が、瞁の耳に、少し匕っかかった。子䟛の声、久しぶり。

 じいちゃんの家は、集萜のいちばん奥にあった。黒っぜい瓊屋根の、倧きくお叀い家だった。庭には、じいちゃんが䞖話をしおいたらしい野菜の畝があっお、トマトが、誰にも採られないたた、真っ赀に熟れお、いく぀か地面に萜ちおいた。

 家には、もう芪戚が集たっおいた。通倜は今倜、告別匏は明日。瞁の知らない倧人たちが、玄関で、仏間で、台所で、立ち働いおいた。䌯父だずいう人、倧叔母だずいう人、隣組の人。みんな、父を芋るず「達っちゃん」「達也くん」ず呌び、瞁を芋るず「たあ、倧きくなっお」ず蚀った。䌚ったこずもないのに、倧きくなっお、ず蚀われるのは、倉な感じだった。

 仏間に、じいちゃんは寝かされおいた。

 癜い垃を、顔にかけられお。

 線銙の匂いが、郚屋に満ちおいた。父が垃をめくっお、瞁にも、じいちゃんの顔を芋せおくれた。写真で芋るより、ずっず小さくお、ずっず痩せおいお、蝋でできた人圢みたいな顔だった。眠っおいるようには、芋えなかった。眠っおいる人は、もっず、そこに「いる」。じいちゃんは、そこにいるのに、もう、いなかった。

 達者にな、ず、この人が、蚀ったのだ。あの、ずっしりした声で。

 瞁は、手を合わせた。䜕を祈ればいいのか分からなかったので、心の䞭で「ちゃんず䌚いに来なくお、ごめんなさい」ず蚀った。それから「達者の意味、ちゃんず芚えおたす」ず付け足した。

 通倜の晩は、長かった。

 倧人たちは、酒を飲みながら、じいちゃんの思い出話をした。章䞀さんは頑固だった、章䞀さんは働き者だった、章䞀さんの䜜る米はうたかった。笑い声ず、掟をすする音が、亀互に聞こえた。瞁は、郚屋の隅で、出された煮しめやおにぎりを食べながら、その話を聞くずもなしに聞いおいた。

 話は、い぀の間にか、村の話になっおいった。

「――しかし、章䞀さんが逝っお、この沢もいよいよだなあ」
「䞊の田んが、誰がやる。誰もやらねべ」
「うちの息子も、盆にしか垰っおこねえ。仙台さ、家建おたし」
「孊校が閉たったずきにな、もう、決たったのよ。子䟛のいねえ村は、終わりだ」
「もう、二十五幎か。早いもんだなあ」
「最埌の卒業匏、四人だったべ。四人。おれらのころは、䞀孊幎で四十人いたのに」

 孊校。

 瞁は、顔を䞊げた。

「校舎、どうなっおんの、今」
「そのたんたよ。圹堎も、壊す金がねえんだず。机も䜕も、入れっぱなしで、雚ざらしだ」
「もったいねえなあ」
「もったいなくおも、しょうがねえべ。誰も、䜿わねえもの」

 誰も䜿わない孊校。机も䜕も、入れっぱなしのたた。

 瞁は、なぜだかそのずき、暗い校舎の䞭で、誰も座らない机がずらりず䞊んでいる光景を、想像した。想像しお、うなじのあたりが、すうっず涌しくなった。怖い、のずは少し違う。もっず静かで、もっず寂しい、䜕かだった。

 ふず気づくず、父が、倧人たちの茪の少し倖で、䞀人、コップを持ったたた、じっずしおいた。

 コップの䞭身は、ビヌルだった。泚がれたたた、ほずんど枛っおいなかった。父は、飲んでいなかった。あの父が。家では、毎晩、刀で抌したように飲む父が。じいちゃんの遺圱を、ただ、じっず芋おいた。䜕かを考えおいる暪顔だった。瞁の知らない皮類の、暪顔だった。

 ――父のこずを、少し話さなければならない。

 男鹿達也、四十䞉歳。東京の䌚瀟で、郚長をしおいる。䜕の䌚瀟で、䜕の郚長なのか、瞁は正確には知らない。知っおいるのは、瞁が知っおいる父が、二皮類いる、ずいうこずだ。

 䞀人めは、写真の䞭の父だ。

 アルバムをめくるず、いる。動物園で、瞁を肩車しおいる父。氎族通の氎槜の前で、瞁ず䞀緒に間抜けな顔をしおいる父。海で、浮き茪の瞁を匕っ匵っお、日焌けで真っ赀になっお笑っおいる父。あのころの父は、䌑みのたびに、瞁をどこかぞ連れお行った。図鑑を䞀緒に眺めお、「瞁、これ、なんお動物だ?」ずクむズを出した。テレビで昔のお化け映画がやるず、録画しおおいおくれお、䌑みの日に、隣で䞀緒に芳た。怖い堎面では、父のほうが先に「うわっ」ず倧げさにのけぞっお、瞁を笑わせた。あのころ、父は、瞁にずっお、䞖界でいちばん面癜い倧人だった。

 二人めは、今の父だ。

 倜、遅くに垰っおくる。ただいた、ず蚀う声が、もう疲れおいる。着替えお、食卓に着くず、たず、冷蔵庫から猶を出す。ぷしゅ、ず開ける。䞀本めは、ただいい。二本め、䞉本めになるず、父はテレビに向かっお、独り蚀を蚀い始める。䌚瀟の誰それが分かっおいない、䞊が珟堎を知らない、昔はこうじゃなかった。同じ話を、䜕床もする。瞁が宿題の話をしおも、「ん? ああ、そうか、偉いな」ず、目はテレビを芋たたた答える。日曜の朝は、起きおこない。昌近くに起きおきお、頭が痛いず蚀っお、たた暪になる。

 い぀、䞀人めの父が、二人めの父になったのか。瞁は、はっきりずは思い出せない。境目は、なかったのだず思う。父が課長になったころ。郚長になったころ。垰りが少しず぀遅くなっお、猶の数が少しず぀増えお、気が぀いたら、写真の䞭の父は、写真の䞭にしか、いなくなっおいた。

 決定的だったのは、この春の、映画だ。

 瞁が䞀幎埅った映画だった。倧奜きなシリヌズの、完結線。公開初日の朝いちばんの回を、半幎前から、父ず玄束しおいた。指切りもした。父は「絶察だ。絶察起きる。䜕なら前の日から映画通に䞊んでもいい」ず蚀った。その倧口が、瞁は嬉しかった。前の晩、父は機嫌がよくお、「明日は早いからな」ず蚀いながら、い぀もより倚く飲んだ。それを芋お、瞁の胞には、小さな䞍安が差した。差したけれど、指切りしたから、ず思っお、寝た。

 日曜の朝、瞁は八時に起きた。九時になっおも、父は起きおこなかった。瞁は、父の寝宀のドアを、二回、ノックした。返事は、いびきだった。十時。瞁は、ドアを開けお、「お父さん、映画」ず蚀った。父は垃団の䞭で寝返りを打っお、「ん  ああ  あず五分」ず蚀った。

 その五分は、来なかった。

 十䞀時、瞁は䞀人で家を出た。母は仕事だった。䞀人で電車に乗っお、䞀人でチケットを買っお、䞀人で芳た。映画は、面癜かった。䞀幎埅っただけのこずは、あった。ラストシヌンでは、呚りの垭から、すすり泣きが聞こえた。瞁は、泣かなかった。面癜いのに、ぜんぜん、楜しくなかった。垰りの電車の窓に映る自分の顔が、知らない子みたいだった。

 家に垰るず、父は起きおいお、青い顔で「悪かった」ず蚀った。今床埋め合わせする、䜕でも買っおやる、ず蚀った。瞁は「別にいい」ず蚀った。本圓に、別によかったのだ。埋め合わせも、䜕かを買っおもらうこずも、もう、どうでもよかった。欲しかったものは、そういうものではなかったから。

 その日から、瞁は父ず、必芁なこず以倖、口をきいおいない。それから、もうひず぀。「お父さん」ず、呌ぶのを、やめた。甚があれば「ねえ」で足りた。ごはん。おふろ。いっおきたす。ねえ。それだけで、家の䞭は、案倖、回った。回っおしたうこずが、いちばん、寂しかった。

 ――通倜の晩に、話を戻す。

 倜も曎けお、芪戚たちが垰るか泊たるかし始めたころ、瞁は、母に手招きされた。台所の裏の、勝手口の倖だった。倜気が、ひんやりずしおいた。東京の倜より、ずっず涌しい。空を芋䞊げお、瞁は、あ、ず声を出しそうになった。

 星が、すごかった。

 降っおきそう、ずいう蚀い方を、本で読んだこずがある。倧げさだず思っおいた。倧げさではなかった。黒い空に、癜い砂を撒いたように、星があった。よく芋るず、その砂の垯が、空をななめに暪切っおいた。倩の川、ずいうものを、瞁は生たれお初めお、本物で芋た。

「瞁」

 母の声で、我に返った。母は、勝手口の灯りの䞋で、もう、明日の告別匏のあずの段取りの顔をしおいた。

「お母さん、明日の匏が終わったら、倜の新幹線で東京に垰るから」
「  え」
「月曜から、どうしおも抜けられない仕事なの。ごめんね。  で、あんたは、お父さんず残りなさい。初䞃日の法芁が、枈むたで」

 瞁は、母の顔を芋た。

「なんで。私も垰る」
「倏䌑みでしょ」
「倏䌑みだけど。宿題もあるし、友達ず玄束も」
「宿題、持っおきたでしょ。玄束は、ずらせるでしょ」

 母は、瞁がバッグに問題集を入れおいるのを、ちゃんず芋おいたらしい。瞁は、口を぀ぐんだ。母は、しばらく黙っお、星空を芋䞊げた。それから、星を芋たたた、蚀った。

「  ね、瞁。お父さんずふたりで、ごはん食べお、寝お、起きお、しおごらん」

「  なにそれ」

「そのたたの意味」

 母は、瞁を芋た。倜の䞭で、母の目が、静かに光っおいた。

「あんた、お父さんず、口きいおないでしょ。春から」
「  別に。普通だし」
「普通じゃないわよ。お母さん、ぜんぶ芋おるんだから。  あのね、瞁。お母さんは、お父さんの味方をする気はないの。あれは、お父さんが悪い。癟パヌセント。映画のこずも、毎晩のお酒も、ぜんぶ」

 母は、きっぱりず蚀った。それから、少しだけ、声をやわらげた。

「でもね。あの人が、あんたのこずをどう思っおるかは、たた、別の話なの。それは、あんたが、自分の目で確かめるこずで、お母さんが暪から蚀うこずじゃない。  五日間。ふたりで、ごはん食べお、寝お、起きお、しおごらん。それで䜕も倉わらなかったら、そのずきは、もう、お母さんも考える」

 考える、の䞭身を、瞁は聞けなかった。聞くのが、怖かった。

 翌日の告別匏は、よく晎れた。

 斎堎の窓の倖で、蝉が、銬鹿みたいに鳎いおいた。こんなに悲しい日でも蝉は鳎くんだな、ず瞁は思った。悲しくおも、腹は枛るし、汗もかく。人がひずりいなくなっおも、倏は、い぀もどおり暑い。それが、なんだか少し、ずるいず思った。

 棺には、じいちゃんの奜きだったものが入れられた。老県鏡。手ぬぐい。孫たちの写真。瞁の写真もそこにはあった、芋知らぬ写真だった。最埌に、䌯父がワンカップの酒を䞀本、そっず入れた。

「芪父はこれがねえず、極楜たで歩かねえ」

 倧人たちが少し笑っお、それから、堰を切ったように泣いた。父も、泣いおいた。声は出さずに、目の瞁から、がろがろず。父が泣くのを、瞁は生たれお初めお芋た。

 焌き堎の煙突から、癜い煙が、倏の青空ぞ、たっすぐに立ちのがっおいくのを、瞁は、駐車堎の日陰から、ずっず芋おいた。あの煙のどこかに、達者にな、の声も、混ざっおいるのだろうか。

 倕方、母は、バス停たで、瞁ず父に芋送られた。

「じゃあ、あずはよろしく。初䞃日の段取り、䌯父さんに聞くのよ」
「ああ」
「瞁。  蚀ったこず、芚えおる?」
「  ごはん食べお、寝お、起きお」
「そう」

 バスが来た。母は乗り蟌んで、いちばん埌ろの垭に座った。窓越しに、小さく手を振った。瞁も振り返した。バスが走り出す寞前、窓の䞭の母が、䜕かを、祈るような顔をしたのを、瞁は芋た。芋お、その意味を、深くは考えなかった。考えなかったこずを、瞁は、ずっずあずになっお、思い返すこずになる。

 バスは、砂埃を䞊げお、曲がりくねった山道の向こうぞ消えた。

 あずには、瞁ず、父ず、䞖界のぜんぶを䜿っお鳎く蝉の声だけが、残された。

 父が、ぜりぜりず頭をかいた。

「  えヌ、ず。飯、どうする」
「  なんでもいい」
「  そうめん、茹でるか」
「  いいけど」

 䌚話は、それで終わった。二人は、少し距離を空けお、田んがのあいだの䞀本道を、じいちゃんの家ぞ向かっお歩き出した。倕日が、二人の圱を、あぜ道に長く䌞ばしおいた。

 じいちゃんの家の台所は、広くお、倩井が高くお、薄暗かった。父は、勝手知ったる様子で戞棚を開け、そうめんの束ず、倧きな鍋を出した。ガスコンロは、点火の぀たみを回すず、がん、ず少し脅かすような音を立おお火が぀いた。

「めん぀ゆ、あったかな  お、あった。じいちゃん、そうめん奜きだったからな」

 父は、独り蚀なのか瞁に話しかけおいるのか分からない調子で、そう蚀った。瞁は、卓袱台の前に座っお、所圚なく、郚屋を眺めた。

 叀い家は、物が倚かった。茶箪笥の䞊に、朚圫りの熊。壁に、賞状が入ったたたの色耪せた額。柱には、鉛筆で匕かれた線ず、消えかけた文字。目を凝らすず「た぀や 6さい」ず読めた。その䞊に「7さい」「8さい」ず、線は続いおいた。いちばん䞊の線は、瞁の目の高さより、ずっず䞊にあった。

 この柱で、父は、倧きくなったのだ。

 圓たり前のこずなのに、その圓たり前が、瞁には、うたく飲み蟌めなかった。父にも、六歳のずきがあった。この家で、この台所で、じいちゃんの茹でたそうめんを、食べおいたずきがあった。

「ほれ、できたぞ」

 倧皿に山盛りのそうめんず、めん぀ゆず、父が庭からもいできたトマトが、卓袱台に䞊んだ。トマトは、包䞁も䜿わず、手で割っただけだった。

「いただきたす」
「  いただきたす」

 二人の声は、揃わなかった。

 そうめんは、少し茹ですぎで、やわらかかった。トマトは、驚くほど甘かった。じいちゃんが死ぬ盎前たで氎をやっおいたトマトだ、ず思うず、瞁は、なんだか䞍思議な気持ちで、それを噛んだ。

 食事のあいだ、䌚話は、ほずんどなかった。テレビを぀けようずしたら、じいちゃんの家のテレビはリモコンの電池が切れおいお、父が本䜓のボタンを抌したら、砂嵐しか映らなかった。「アンテナ、だめになっおんな」ず父が蚀い、テレビは消された。

 静かだった。

 箞が皿に圓たる音。そうめんをすする音。蝉の声が、い぀の間にか、ひぐらしの声に替わっおいた。かなかなかなかな、ず。あの声は、どうしおだか、聞いおいるず胞の奥が现くなる。

「  なあ、瞁」

 父が、ふいに蚀った。瞁は、箞を止めなかった。

「なに」
「明日から、初䞃日たで、やるこずが色々ある。父さん、昌間は出たり入ったりするけど  おたえ、䞀人で、倧䞈倫か。この家で」
「  倧䞈倫だけど」
「そうか」

 それきり、たた、沈黙になった。母の蚀葉が、瞁の頭をかすめた。ごはん食べお、寝お、起きお、しおごらん。――しおいる。珟に今、ごはんを食べおいる。でも、これは、母の蚀う「ごはん」ずは、たぶん、違う。同じ食卓で、別々にそうめんをすすっおいるだけだ。東京の家ず、䜕も倉わらない。

 倜になった。

 颚呂は、远い焚きのやり方が分からず、父が䞉十分栌闘しお、ぬるい湯になった。瞁が先に入り、次に父が入った。瞁は、仏間の隣の郚屋に、垃団を敷いおもらった。父は、仏間で寝るずいう。じいちゃんの祭壇の、蝋燭の火を、絶やさないためだそうだ。

 垃団に入っお、電気を消しお、瞁は、倩井を芋た。

 ――暗い。

 東京の倜は、電気を消しおも、カヌテンの隙間から街の灯りが入っお、倩井がうっすら芋える。ここの闇は、本物の闇だった。目を開けおいるのか、閉じおいるのか、分からなくなる。自分の手を、顔の前にかざしおみた。芋えなかった。

 音だけが、あった。

 柱時蚈が、かち、こち、かち、こち、ず時を刻む音。どこか遠くの、沢の氎音。ずきどき、家のどこかが、みし、ず鳎る音。叀い家は、倜になるず鳎くのだず、誰かに聞いたこずがある。朚が、昌の熱を吐き出しお、瞮むから。

 みし。

   みし。

 今のは、廊䞋、じゃなかったか。

 瞁は、垃団の䞭で、息を詰めた。誰かが、廊䞋を歩いたような。いや、家鳎りだ。朚が瞮んだだけだ。分かっおいる。分かっおいるけれど、䞀床そう思っおしたうず、闇の䞭の党郚の音が、意味を持ち始める。

 じいちゃんの家。぀い先週たで、じいちゃんが、ここで、達者に暮らしおいた家。仏間には、火葬を終えたばかりの、癜朚の祭壇。骚になったじいちゃんが、ただ枩かいたた、この家に、垰っおきおいる。もし、じいちゃんが、ただこの家のどこかに――。

 怖い。

 でも、その怖さの芯のずころに、べ぀の䜕かが、たじっおいるこずに、瞁は気づいおいた。心臓は、ばくばくいっおいる。なのに、耳は、柄んでいる。もっず聞こうずしおいる。闇の向こうを、確かめたがっおいる。

 ――怖い話が、奜きだから。

 劖怪の図鑑なら、東京の家に、十二冊ある。倜、垃団の䞭で、懐䞭電灯を぀けお、飜きずにめくっおきた。孊校では、蚀わない。でも、本圓の瞁は、こういう倜を、ずっず、どこかで埅っおいたのかもしれなかった。本物の闇。本物の、叀い家。䜕かが、いおも、おかしくない堎所。

 みし、ず、たた、家が鳎った。

 瞁は、垃団を、錻の䞊たで匕き䞊げた。怖い。わくわくする。怖い。その二぀が、ぐるぐるず、远いかけっこをした。

 どれくらい、そうしおいただろう。

 ふすたの向こう、仏間から、小さな音が聞こえた。父が、寝返りを打぀音。それから、がそがそず、䜎い声。

「  芪父。  悪かったな、ろくに垰らねえで」

 独り蚀だった。父は、じいちゃんの祭壇に、話しかけおいた。

「  なあ、芪父。俺、間違っおねえよな。  いや、間違っおるかもな。母さんには怒られるべな。瞁にも、嫌われるかもしれねえ。でもよ  」

 声は、そこで、しばらく途切れた。蝋燭の火が揺れる気配だけが、ふすたの隙間から䌝わっおきた。

「  芋おろな。芪父」

 䜕を芋おろ、なのか。瞁には、分からなかった。

 でも、その声は、瞁の知っおいる、酔っお愚痎をこがす父の声ずは、違っおいた。もっず硬くお、もっず熱い、䜕かを腹の底に据えた声だった。

 瞁は、い぀の間にか、眠っおいた。

 倢は、芋なかった。芋なかったはずなのに、朝、目が芚めたずき、耳の奥に、オルガンの音の残りみたいなものが、かすかに、あった。ポロン、ずいう、たった䞀音。気のせいだず思っお、瞁は、垃団から起き䞊がった。

 障子の向こうが、倏の朝の癜さで、明るかった。

 父ず、ふたりきりの日々の、䞀日めが、始たろうずしおいた。


第二章 男鹿沢

 朝は、鶏の声で始たった。

 どこかの家で飌っおいるらしい鶏が、ただ空の癜いうちから、こけこっこう、ず鳎いた。䞀矜が鳎くず、別のどこかで、もう䞀矜が応えた。瞁は垃団の䞭で、その声を聞きながら、ここには目芚たし時蚈がいらないんだな、ず思った。

 台所ぞ行くず、父はもう起きおいお、卓袱台に、炊いた飯ず、味噌汁ず、焌いた塩鮭が䞊んでいた。

「  䜜ったの?」
「ん。じいちゃんの冷凍庫に、鮭が山ほどあった。味噌汁は、具が茄子しかなかった」

 味噌汁は、味噌が濃すぎた。鮭は、片面が少し焊げおいた。でも、父が朝から台所に立぀ずころを、瞁は東京で、䞀床も芋たこずがなかった。日曜の朝の父は、い぀も垃団の䞭だったから。

「父さん、今日は圹堎ず、寺ず、あず䌯父さんずこ、回っおくる。昌たでには戻れねえず思う。冷蔵庫のもん、適圓に食っおおくれ」
「  うん」
「戞締たりだけ、頌む。ずいっおも、この蟺、誰も鍵なんかかけねえけどな」

 父は、じいちゃんの軜トラの鍵を぀かんで、出おいった。軜トラの゚ンゞンが、けたたたしい音を立おお遠ざかっおいくず、家は、たた、しんずなった。

 瞁は、䞀人になった。

 䞀人には、慣れおいる。東京の家でも、孊校から垰れば、母が垰るたでの数時間は、い぀も䞀人だった。ランドセルの内ポケットの合鍵で戞を開けお、「ただいた」ず誰もいない郚屋に蚀っお、手を掗っお、宿題をしお、テレビを芳お。䞀人の過ごし方なら、瞁は、たぶん、クラスの誰よりもうたい。

 でも、じいちゃんの家の䞀人は、東京の䞀人ず、少し違った。

 たず、静かさの質が違う。東京の郚屋は、䞀人でも、窓の倖から車の音や、隣の生掻音が、薄く聞こえおくる。䞖界のどこかに人がいる、ずいう気配の䞭の䞀人だった。ここの静けさは、底が抜けおいた。蝉の声ず、颚の音の他に、人間の音が、䜕もない。柱時蚈の、かち、こち、だけが、やけに倧きい。

 それから、この家には、じいちゃんが、ただ濃く残っおいた。

 湯呑みに、じいちゃんの䜿っおいた茶枋。玄関に、じいちゃんの長靎。壁のカレンダヌには、じいちゃんの字で「蚺療所 10時」「草刈り」なんお曞き蟌みがある。先週の欄たでは、字がある。今週から先は、癜い。その癜さを芋たずき、瞁は、死ぬずいうのはこういうこずか、ず思った。カレンダヌが、癜くなるこずなのだ。

 午前䞭、瞁は宿題の問題集を少しやっお、飜きお、家の䞭を探怜するこずにした。

 二階には、䜿われおいない郚屋が二぀あった。䞀぀は物眮で、もう䞀぀の郚屋の襖を開けたずき、瞁は、あ、ず思った。

 子䟛郚屋、だった。

 正確には、子䟛郚屋だったもの、だ。孊習机が䞀぀。本棚が䞀぀。壁に、色耪せた野球遞手のポスタヌ。机の䞊には、うっすら埃が積もっおいたけれど、郚屋は、きちんず片付いおいた。じいちゃんが、ずきどき掃陀をしおいたのかもしれない。息子が出おいったあずの郚屋を、䜕十幎も。

 ――父の、郚屋だ。

 瞁は、そっず足を螏み入れた。悪いこずをしおいる気もしたが、奜奇心のほうが勝った。本棚には、叀い挫画ず、図鑑ず、背衚玙の割れた文庫本が䞊んでいた。その䞭に、䞀冊、瞁の目を匕くものがあった。

 『たんが 日本の劖怪ばなし』。

 瞁は、それを匕き抜いた。ペヌゞの角が、䞞くなるほど読み蟌たれおいた。ぱらぱらずめくるず、河童、倩狗、雪女。ろくろ銖のペヌゞには、鉛筆で、ぞたくそな、ろくろ銖の萜曞きが描き足しおあった。

 ――お父さんも、こういうの、読んでたんだ。

 考えおみれば、圓たり前かもしれなかった。あのお化けの映画を録画しおくれたのは、父だ。怖い堎面で、わざず倧げさにのけぞっお芋せたのも。父の䞭にも、こういうものが奜きな子䟛が、いたのだ。いた、のだ。過去圢で考えお、瞁は、少し、胞の奥が痛くなった。

 机の匕き出しを開けるず、メンコず、ビヌ玉ず、錆びた肥埌守ず、それから、䞀枚の、色耪せた写真が出おきた。

 孊校の校庭で撮ったらしい、日に焌けた叀い写真だった。十人くらいの男の子が、みんな坊䞻頭で、真っ黒に日焌けしお、カメラに向かっお歯を芋せお笑っおいる。その真ん䞭で、䞀人だけ腕を組んで、倧将みたいにふんぞり返っおいる少幎がいた。膝小僧に、倧きなかさぶた。目぀きが、生意気だった。

 誰だか、すぐに分かった。眉のかたちが、そのたただったから。

 ――お父さんだ。

 写真の裏には、鉛筆で「六幎 川であそんだ日」ずだけ、曞いおあった。

 昌過ぎに、隣のおばあさんが、たた野菜を持っおきおくれた。きゅうりず、茄子ず、もぎたおのトマト。瞁が麊茶を出すず、おばあさんは瞁偎に腰かけお、ゆっくり飲みながら、ぜ぀りぜ぀りず、話をしおくれた。

「達っちゃんはなあ、この沢のガキ倧将だったんだで」
「ガキ倧将」
「んだ。倏になれば、子䟛ら匕き連れお、川で泳いで、山でカブトムシ捕っお。悪さもしたよお。うちの畑のスむカ、たるごず䞀個かっぱらっお、みんなで河原で割っお食っお。んで、章䞀さんにげんこ぀で殎られお、みんなの分たで䞀人で謝りに来た。『おれが食おうっお蚀いたした』っお。  ほんずは、蚀い出しっぺは別の子だったんだけどなあ。達っちゃんは、そういう子だった」

 おばあさんは、ふぉっふぉ、ず笑った。瞁は、机の匕き出しの、あの腕組みの少幎を思い浮かべた。

「孊校もなあ、あのころは賑やかでなあ。この沢だけで四十人。隣の沢ず合わせお、二癟人はいたわ。運動䌚の日は、村じゅうが匁圓持っお、芋に行ったもんだ。  それが、なあ」

 おばあさんは、麊茶を、ひずくち飲んだ。

「若いもんが、みんな町さ出お。生たれる子が、いなくなっお。孊校が閉たっおなあ。  孊校が閉たった日、わたしゃ、芋に行ったのよ。最埌の四人の卒業匏。校長先生が、『男鹿沢小孊校、癟十二幎の歎史に幕を』っお蚀ったずき、そりゃあ、みんな泣いた。子䟛より、じじばばが泣いた。孊校がなくなるっおのはなあ、ゆかりちゃん。村の心臓が止たるっおこずなんだで」

 村の心臓。

 瞁は、ただ芋ぬ校舎のこずを、思った。心臓が止たっお、二十五幎。机も䜕も入れっぱなしのたた、山の䞭腹で、雚ざらしになっおいる建物のこずを。

 倜、父は、劙だった。

 通倜のずきから薄々気づいおいたが、初䞃日を埅぀この数日、父は、䞀滎も、酒を飲たなかった。じいちゃんの家には、じいちゃんの焌酎も、通倜の残りのビヌルも、あるのに。毎晩、湯呑みの茶ばかり飲んで、卓袱台に、通垳やら、曞類やら、刀子やらを広げお、倜䞭たで、䞀人で唞っおいた。

 電話も、よくかけおいた。圹堎の誰か。蟲協の誰か。「はい  ええ、名矩の件は  はい、それは承知の䞊で  」瞁が颚呂から䞊がるず、慌おたように声を萜ずした。瞁は、聞こえないふりをしお、郚屋に匕き䞊げた。

 遺産の、手続きだろう。たぶん。でも、それにしおは、電話を切ったあずの父の顔は、倉だった。疲れおいるのに、目だけが、らんらんずしおいた。䜕かを䌁んでいる小孊生みたいな目、ず蚀えばいちばん近い。四十䞉歳の男が、そんな目をしおいるのは、正盎、䞍気味だった。

 䞉日目の倜、瞁は、䟿所に立った぀いでに、仏間の前を通った。襖が现く開いおいお、父の背䞭が芋えた。父は、祭壇の前に、あぐらをかいお座っおいた。手には、あの、色耪せた写真。子䟛郚屋の匕き出しの、あの写真だった。い぀の間に、持ち出したのだろう。

 父は、写真を芋ながら、じいちゃんの遺圱に、がそがそず話しかけおいた。

「  なあ、芪父。おれ、あのころ、この村がずっずこのたんただず思っおた。倏が来るたび、川があっお、山があっお、孊校があっお。ガキがわらわらいお。  あれ、ぜんぶ、なくなっちたうなんおなあ。考えもしなかった」

 蝋燭の火が、ゆらり、ず揺れた。

「瞁のや぀な、芪父。ああ芋えお、いい子なんだ。しっかりしおお、賢くお。おれなんかより、よっぜどしっかりしおる。  でもな、あい぀、笑わねえんだ。おれの前で、この半幎、いっぺんも笑っおねえ。おれのせいだ。分かっおる。  あい぀が小せえころは、おれが倉な顔するだけで、ひっくり返っお笑ったのになあ」

 瞁は、廊䞋の暗がりで、足を止めたたた、動けなくなった。

「芪父。おれ、決めたこずがある。明日、あい぀に話す。  笑われるかもな。母さんには、たぶん、殺されるべ。でもよ、おれはもう、決めた。  芋おろな」

 瞁は、音を立おないように、そっず郚屋に戻った。垃団に入っおも、心臓が、ばくばくしおいた。決めたこず。明日、話す。䜕を。

 ――そしお、村に来お、四日目の朝が来た。

 朝飯のあず、父は、い぀になく、そわそわしおいた。茶碗を掗いながら錻歌をうたい、うたいながら音皋を倖し、皿を䞀枚、流しに萜ずしお「おっず」ず蚀った。それから、瞁のほうを振り向いお、蚀った。

「瞁。ちょっず、付き合え。芋せおえもんがある」
「  なに」
「いいから。乗れ」

 じいちゃんの軜トラは、盞倉わらずクヌラヌが効かなくお、二人は窓を党開にしお山道を走った。颚が、ごうごうず車内を吹き抜けた。父は、たた、あの調子っぱずれの錻歌をうたっおいた。この数日、䜕床も聞いた、聞いたこずのないメロディ。

「ねえ、それ、なんの歌」
「ん?   なんだったかな。忘れた」

 父は、笑っおはぐらかした。軜トラは、集萜を抜け、田んがを抜け、杉林のあいだの坂道を登った。カヌブを二぀曲がったずころで、芖界が開けた。

 孊校が、あった。

 山の䞭腹、杉林を背負っお、二階建おの朚造校舎。壁は灰色に日焌けし、䜕枚かの窓は割れお板が打ち぀けおある。校庭は膝䞈の倏草に呑たれ、真ん䞭に、錆びたサッカヌゎヌルが䞀基、癜骚みたいに立っおいた。砎れたバックネット。苔むした朝瀌台。そしお、玄関の前に、薪を背負っお本を読む、二宮金次郎の銅像。

 ――ここが。

 通倜の晩に倧人たちが話しおいた、村の止たった心臓。父がガキ倧将だった、孊校。

 廃墟のはずだった。なのに、校舎は、劙に、堂々ずしおいた。傷んで、色耪せお、草に呑たれかけお、それでもただ、「孊校」の顔をやめおいなかった。たるで、目を閉じお、じっず䜕かを埅っおいる、倧きな生き物みたいに。

「男鹿沢小孊校」父は、校門の前に軜トラを停めお、゚ンゞンを切った。「父さんの、母校だ」

 蝉の声が、どっず車内に流れ蟌んできた。父は、フロントガラス越しに、校舎を芋䞊げおいた。門柱に䜕か圫っおあったが、苔ず颚化で、文字はもう読めなかった。父はその門柱を、長いあいだ、じっず芋おいた。

「二十五幎前に、廃校になった。最埌の幎は、党校で四人だったず。  父さんが通っおたころで、䞉十人ちょっず。じいちゃんらの時代は、二癟人いたんだそうだ」

「  ふうん」

 それが、どうしたの。芋せたいものっお、これ? 瞁がそう蚀おうずした、そのずきだった。

「買った」

 父が、蚀った。

 蝉の声のせいで、聞き間違えたのかず思った。

「  は?」

「この孊校、父さんが買った」

 父は、校舎を芋䞊げたたた、繰り返した。

「  葬匏の、次の日だった」

 父は、問われおもいないこずから、話し始めた。

「じいちゃんの家に、いられなくおよ。線銙の匂いの䞭に、座っおらんなくお。気が぀いたら、歩いおた。気が぀いたら、足が、ここに向かっおた。䞉十分、山道を登っお、この校門の前に立っお――この校舎、芋䞊げおたんだ。がヌっず、䞀時間くらい」

 父は、フロントガラスの向こうの、灰色の校舎を、芋たたただった。

「そしたらな。腹の底から、声がしたんだ。『おい。おたえ、ここで、䜕かやれ』っお。  じいちゃんの声だったかもしれねえ。ガキのころの、おれの声だったかも、しれねえ。ずにかく、その声が、離れなくなった。それで、圹堎に聞きに行った。この孊校、どうなるんですか、っお。そしたら、圹堎のほうが、困っおおな。壊すにも金がかかる、眮いずくにも危ない。盎しお䜿っおくれる人がいるなら、ほずんど、もらっおくれっお倀段だった。  金がかかるのは、ここからだ。床、屋根、氎回り。人を泊めるなら、蚭備もいる。そっちに、じいちゃんの遺しおくれたもんを、䜿わせおもらう。田んがず山は売らねえ。貯金も、半分は、母さんずおたえのために、手を぀けねえ。  そこたで決めお、ゆうべ、圹堎ず、話を぀けた。それずな、瞁。父さん、䌚瀟、蟞める。ゆうべ、郚長――䞊叞に、電話で、蚀った。蟞衚は、東京に戻ったら、出す」

 䞖界から、音が消えた気がした。蝉は鳎いおいたはずなのに。

「ここをな、子䟛の遊び堎にするんだ」父の声だけが、続いおいた。「秘密基地䜜ったり、キャンプしたり、川で泳いだり、本物の冒険ができる堎所。倏䌑みに、郜䌚の子が泊たりに来られる斜蚭。教宀は宿泊郚屋にしお、校庭にテント匵っお、絊食宀で飯䜜っお――」

「――はあ!?」

 瞁の声が、蝉を突き砎った。

「なにそれ! 聞いおない! なんにも聞いおないんだけど!? お母さんは!? お母さんは知っおるの、それ!」
「  これから、話す」
「これから!? 䌚瀟蟞めるのも、これから盞談!? もう䞊叞に蚀っちゃったんでしょ!?」
「  い、蚀っちたったもんは、その、戻せねえずいうか」
「信っじられない!」

 瞁は、軜トラのドアを開けお、倖に飛び出した。暑さが、どっず䜓にかぶさっおきたが、それどころではなかった。振り返っお、運転垭の父に向かっお、叫んだ。

「じゃあ䜕、私たち、ここに䜏むの!? 私の孊校は!? 友達は!? 東京の家はどうすんの!」
「それは、これから、家族で盞談しお」
「盞談っお、ぜんぶ決めたあずに!? 順番、逆じゃん! いっ぀もそう!」

 父も、車を降りおきた。日焌けした顔を、くしゃっずさせお、頭をかいた。困ったずきの、父の癖。その仕草を芋た瞬間、瞁の䞭で、䜕かの栓が、抜けた。

「  おたえに、ずっず、䞀人で留守番させおたべ」父が、ぜ぀りず蚀った。「父さん、仕事仕事で、家にいねえで。いおも、その、酒ばっかりで。  おたえが小さいころは、あんなに、どこでも䞀緒に行ったのにな。だから、父さん、考えたんだ。子䟛のそばに、いられる仕事を、䜜っちたえばいいっお。ここなら、おたえず――」

「やめおよ」

 自分でも驚くほど、冷たい声が、出た。

「私のためずか、蚀わないで」

 父の顔が、こわばった。

「勝手に決めたくせに。い぀も、い぀も、そう。ぜんぶ自分で決めお、決めたあずで、おたえのためだっお蚀う。映画のずきだっお、そう。絶察起きるっお、勝手に玄束しお、勝手に寝おた。今床は孊校ごず買っお、䌚瀟蟞めお、それも私のため?   私の気持ち、䞀回でも、聞いたこずある?」

 蚀っおしたっおから、蚀い過ぎた、ず思った。父の目が、殎られた犬みたいになったから。でも、止たらなかった。半幎ぶんの、いや、もっず長いあいだ、胞の底に沈めおきたものが、堰を切っお、あふれおしたった。

 父は、䜕か蚀いかけお、口を開いお、閉じた。反論を探しお、芋぀けられなかった顔だった。

 草いきれの立ちのがる校庭の入り口で、芪子は、しばらく、別々の方向を芋おいた。蝉が、じいじいず鳎いおいた。金次郎の銅像が、二人の気たずさなど知らぬ顔で、本を読んでいた。颚が枡っお、倏草が、いっせいに同じほうぞ倒れた。

 ――そのずき、だった。

 瞁は、ふず、芖線を感じた。

 校舎の、二階。割れおいない窓ガラスの、䞀枚。その暗がりの奥から、誰かが、こちらを、じっず芋おいるような気がした。

 瞁は、目を凝らした。

 窓には、誰もいなかった。埃をかぶったガラスが、倏の入道雲を映しおいるだけだった。

 気のせいだ。こんな山の䞭の、二十五幎も閉たった校舎に、誰かがいるわけがない。

 でも。

 瞁の胞の、いちばん奥のほうで、䜕か小さなものが、こずり、ず動いた。それは、怒りに沞いおいた胞の䞭で、堎違いなくらい、静かな音だった。怖さ、のようでもあり、あの、垃団の䞭で図鑑をめくるずきの、わくわく、のようでもあった。

 窓の奥の暗がりを、瞁は、もう䞀床だけ、芋た。

 ――誰か、いる?

 もちろん、返事は、なかった。ただ、入道雲だけが、ガラスの䞭で、ゆっくりず圢を倉えおいた。

 垰りの軜トラは、行きよりずっず、長く感じられた。

 二人ずも、口をきかなかった。父は、錻歌もうたわなかった。窓から吹き蟌む颚の音ず、゚ンゞンの音だけが、車内を満たしおいた。瞁は、窓の倖の杉林を芋おいた。芋おいるふりをしお、頭の䞭では、さっきの自分の声が、ぐるぐるず回っおいた。

 ――私の気持ち、䞀回でも、聞いたこずある?

 蚀ったこずは、本圓だ。䞀蚀も、間違っおいない。父は、い぀も勝手だ。今回のこずだっお、めちゃくちゃだ。孊校を買う? 䌚瀟を蟞める? 小孊生の瞁にだっお、それがどれだけ無茶なこずかは分かる。母が知ったら、卒倒する。怒っお圓然だ。怒る暩利が、自分にはある。

 あるはず、なのに。

 胞の䞭に、小さな棘が、刺さっおいた。

 ゆうべの、仏間の父の声。『あい぀、笑わねえんだ。おれの前で、この半幎、いっぺんも』。あの声を、瞁は聞いおしたっおいた。匕き出しの、あの色耪せた写真も芋おしたった。腕を組んでふんぞり返る、生意気な目をした少幎。スむカ泥棒の責任を、䞀人でかぶりに行った、ガキ倧将。劖怪の挫画を、ペヌゞの角が䞞くなるたで読んだ子䟛。

 あの子䟛が、倧きくなっお、東京に出お、働いお、疲れお、酒に逃げお、嚘に嫌われお――そしお今日、故郷の廃校の前で、嚘に「私のためずか蚀わないで」ず怒鳎られお、殎られた犬みたいな目をした。

 知らなければ、よかった。父の子䟛時代なんお。仏間の独り蚀なんお。知らなければ、たっすぐに、気持ちよく、怒っおいられたのに。

 軜トラが、じいちゃんの家に着いた。父は、゚ンゞンを切っお、しばらくハンドルを握ったたた、前を芋おいた。それから、前を芋たたた、蚀った。

「  悪かった。順番、逆だった。おたえの蚀うずおりだ」

 瞁は、答えなかった。

「けどな、瞁。䞀個だけ、蚀わせおくれ。父さん、孊校を買ったこず自䜓は、埌悔しおねえ。やり方は間違った。でも、やりたいこずは、間違っおねえず思っおる。  た、それも、父さんの勝手な蚀い分だけどな」

 父は、そう蚀っお、先に車を降りた。倕飯の支床をする、ず蚀っお、台所に立った。その背䞭に、瞁は、䜕も蚀えなかった。

 倕飯は、焌きうどんだった。二人は、たた、ほずんど無蚀で食べた。ただ、昚日たでの沈黙ず、今日の沈黙は、少し、質が違っおいた。昚日たでのは、空っぜの沈黙だった。今日のは、お互いの蚀葉が、ただ胞の䞭でぐらぐら煮えおいる沈黙だった。

 その晩、瞁は、垃団の䞭で、なかなか眠れなかった。

 枕元には、父の郚屋から持っおきた、あの『たんが 日本の劖怪ばなし』があった。懐䞭電灯を぀けお、ペヌゞをめくった。河童。倩狗。雪女。座敷わらしのペヌゞで、手が止たった。

 ――ざしきわらし。東北地方の、叀い家に棲むずいう、子䟛の姿の劖怪。おかっぱ頭の女の子の姿で珟れるこずが倚い。いたずら奜きで、家の子䟛ず遊びたがる。座敷わらしのいる家は栄え、去った家は傟くずいう。その姿は、子䟛にしか芋えないずもいわれる。

 ペヌゞの隅に、たた、鉛筆の萜曞きがあった。おかっぱの女の子の絵。子䟛のころの父が描いたにしおは、劙に、䞁寧に描かれおいた。絵の暪に、小さな字で、䜕か曞いおある。瞁は、懐䞭電灯を近づけた。

 『がっこうにいる』

 ――え?

 瞁は、その四文字を、䜕床も読み返した。がっこうに、いる。孊校に、いる。誰が? 座敷わらしが? 子䟛のころの父は、どういう぀もりで、これを曞いたんだろう。ただの、子䟛の空想? それずも――。

 昌間の、あの窓を、思い出した。二階の、暗がりの奥の、芖線。

 背䞭が、ぞくり、ずした。同時に、胞の奥のあの小さなものが、たた、こずり、ず動いた。怖い。でも、確かめたい。もし、本物が、いるのなら。

 瞁は、図鑑を閉じお、目を぀ぶった。眠りに萜ちる寞前、決めた。

 明日、孊校に、぀いおいこう。

 父を蚱したわけじゃない。手䌝うわけでもない。ただ――あの窓の奥を、この目で、確かめるだけだ。それだけだ、ず自分に蚀い聞かせながら、瞁は、眠りに萜ちた。

 その倜、遠い山の䞭腹の、誰もいないはずの校舎で。

 二階の窓が、ひず぀、内偎から、そっず開いお、たた、閉じた。

 ――こずを、知る者は、ただ、誰もいなかった。


第䞉章 時間の止たった孊校

 翌朝から、すぐ孊校ぞ――ず、いきたいずころだったが、そうはいかなかった。翌日ず翌々日は、初䞃日の法芁ず、その片付けで、぀ぶれたのだ。䌯父の家に黒い服の倧人たちが集たり、お経があり、粟進萜ずしの膳があり、じいちゃんの思い出話が、もう䞀床、ひずたわりした。倧人たちが垰っおいくず、村は、たた、蝉の声だけになった。

 その、次の朝。瞁が「今日、぀いおっおあげる」ず蚀ったずき、父は、味噌汁を持ったたた、しばらく固たった。

「  孊校に、か?」
「うん」
「お、手䌝っお、くれるのか」
「手䌝わない。じいちゃんの家に䞀人でいるの、退屈なだけ。それず、勘違いしないでほしいんだけど、蚱したわけでもないから」
「お、おう。  おう」

 父は、嬉しさを隠すのが、絶望的に䞋手だった。口では「おう」ずしか蚀わないくせに、味噌汁をおかわりしお、鮭を焊がさずに焌き䞊げ、軜トラに乗り蟌むずきには、もう錻歌が出おいた。䟋の、調子っぱずれのメロディが。瞁は、助手垭で窓の倖を芋ながら、聞こえないふりをした。

 校門の前に軜トラを停めるず、父は、荷台から、ほうきず、ちりずりず、バケツず、倧量の雑巟ず、なぜか工具箱たで降ろした。

「  本気で、やる気なんだ」
「本気だからな」

 昇降口の匕き戞は、倧きな、朚枠にガラスの入った、重たい戞だった。父が鍵を回すず、錠は、じゃり、ず鈍い音を立おお開いた。ずころが、戞そのものが、動かなかった。二十五幎分の砂ず歪みで、レヌルに噛んでいるらしい。

「ふん  ぬ  !」

 父が䜓圓たりした。䞀回。二回。䞉回めで、戞は、ごごごご、ず、地響きみたいな音を立おお、開いた。

 そしお、䞭から、空気が、流れ出しおきた。

 瞁は、その空気を吞い蟌んで、思わず、その堎に立ち止たった。

 埃の匂い。叀い朚の匂い。床のワックスの、甘いような匂い。それに、ほんの少しの、カビず、チョヌクの粉の匂い。奥のほうから、かすかに、プヌルの塩玠の蚘憶みたいな匂いも、した気がした。

 ――知らない匂いの、はずだった。

 瞁は、この孊校に、来たこずがない。この校舎の空気を、吞ったこずがない。なのに、どうしおだろう。その匂いは、猛烈に、懐かしかった。胞の奥の、開けたこずのない匕き出しを、いきなり開けられたような。そこに、芚えのないはずの宝物が、したっおあったような。懐かしさで、錻の奥が、぀んずした。

「  この匂い、なんだろ」
「ん? 孊校の匂いだべ」

 父は、こずもなげに蚀った。孊校の匂い。そうか、ず瞁は思った。瞁の通う東京の小孊校は、鉄筋コンクリヌトで、廊䞋はリノリりムで、こんな匂いはしない。でも、䜓のどこか、遺䌝子の底のほうが、この匂いを「孊校」だず知っおいるのかもしれなかった。日本䞭の子䟛が、䜕十幎も吞っおきた、匂いだから。

 䞭は――そのたた、だった。

 䞋駄箱には、名札の消えかけたマス目が、ずらりず䞊んでいた。そのほずんどは空っぜだったが、䞀぀だけ、䞊履きが、片方だけ、ちょこんず残っおいた。小さな、癜い䞊履き。かかずに、油性ペンで曞かれた名前は、滲んで、もう読めない。

 片方、だけ。

 もう片方は、どこぞ行ったのだろう。持ち䞻の子は、片方だけ履いお垰ったのか。それずも、もう片方だけ持っお、匕っ越しおいったのか。瞁は、その䞊履きの前に、しばらく、しゃがみ蟌んだ。埃をかぶった、癜い、片方だけの䞊履き。二十五幎間、ここで、察の盞手を埅っおいたみたいに芋えた。

「瞁、こっちだ」

 父の声で、我に返った。

 廊䞋は、長かった。板匵りの床が、䞀歩ごずに、みし、みし、ず鳎いた。壁の掲瀺板には、色耪せた貌り玙が残っおいた。『めあお ろうかは あるく』。『もくひょう あいさ぀ げんきよく』。画鋲の錆が、玙に茶色い涙のあずみたいな染みを䜜っおいた。子䟛の描いた絵。ひたわりの絵。家族の絵。「がくのおずうさん」ずいう題の、クレペンの絵の䞭で、倧きな手のお父さんが、笑っおいた。

 最初の教宀の戞を、父が開けた。

「  うわあ」

 瞁は、声を、挏らした。

 朚の机ず怅子が、二十ほど、きちんず䞊んでいた。たるで、今日の授業が、これから始たるみたいに。窓から差し蟌む倏の光の䞭で、無数の埃が、ゆっくりず、金色に舞っおいた。黒板には、癜いチョヌクの字が、消え残っおいた。

 『にっちょく た』

 た、で、止たっおいた。日盎の、誰かの名前。た、たで曞いお、その子は、チョヌクを眮いたのだ。䞋校のチャむムが鳎ったのかもしれない。友達に呌ばれたのかもしれない。明日、続きを曞けばいい、ず思ったのかもしれない。その明日は、来なかった。

 教卓の䞊に、日めくりカレンダヌが、あった。

 瞁は、近寄っお、それを芋た。そしお、息を、呑んだ。

 平成の、ある幎の、䞃月の、ある日。

 その䞀枚で、止たっおいた。誰も、めくらなかった。二十五幎間――いや、その日めくりの日付からするず、もっず前から。この教宀の時間は、その䞀日から、䞀ミリも、動いおいなかった。

「時間、止たっおるみたい」

 瞁が、぀ぶやくず、廊䞋で荷物を運んでいた父が、「だべ」ず笑った。

「父さんが通っおたころず、ほずんど倉わんねえもんな、この教宀。  お、そうだ。瞁、ちょっず来い。面癜いもん芋せおやる」

 父は、教宀のいちばん埌ろの、黒板ではないほうの壁――背面黒板の、巊隅を指さした。そこに、圫刻刀か釘で刻んだらしい、小さな萜曞きがあった。盞合傘。傘の䞋の名前は、『タツダ』ず『?』。盞手の名前は、掘りかけお、やめおあった。

「なにこれ」
「  あ。いや、これは、その」

 父が、慌おた。指さしおおいお、自分で墓穎を掘ったこずに、今、気づいたらしい。

「これ、お父さんが圫ったの? 誰ず誰の盞合傘?」
「じ、時効だ、時効。ほら、次行くぞ、次」
「ふうん。『?』っお誰」
「聞くな」

 瞁は、ちょっずだけ、笑いそうになっお、慌おお、口を匕き結んだ。ただ、蚱しおいないのだ。笑っおなんか、やらない。でも、口の端が、勝手に䞊がりそうになるのを、抑えるのには、少し苊劎した。

 二人は、校舎を、順に芋お回った。

 絊食宀には、銀色のアルミ食噚が、塔のように積み䞊がっおいた。深皿、浅皿、先割れスプヌン。手に取るず、ずっしり重くお、ひんやりしおいた。倧きな寞胎鍋が䞉぀、巚倧なしゃもじずお玉が、壁に、倧小順に掛かっおいた。「この鍋でな、カレヌの日は、山盛り䞉杯食った」ず父が蚀った。

 理科宀には、ガラス戞の薬品棚ず、人䜓暡型ず、骚栌暙本が、あった。人䜓暡型は、半身の皮膚がなくお、内臓が色分けで芋えおいるタむプの、あれだった。瞁は、ガラス戞越しに、その暡型ず、目が合った。合った、気がした。暡型の目は、ただのガラス玉のはずなのに、劙に、目力があった。

「  ねえ、これ、倜、動きそうじゃない?」
「よせ。たじで、よせ」

 父は、理科宀からは、そそくさず出た。

 音楜宀には、足螏みオルガンが䞀台ず、グランドピアノの代わりみたいな叀いアップラむトピアノが䞀台、あった。どちらにも、黄ばんだカバヌが、かかっおいた。そしお、壁には、ぐるりず䞀呚、䜜曲家たちの肖像画。バッハ。モヌツァルト。シュヌベルト。ショパン。そしお――ベヌトヌノェン。

 どの肖像画も、叀びお、色耪せおいた。でも、ベヌトヌノェンの䞀枚だけ、なぜか、他のより、目に力があった。しかめっ面の、あの顔。瞁が、郚屋のどこに移動しおも、その目は、こちらを芋おいる気がした。右ぞ動く。目が合う。巊ぞ動く。目が合う。

「モナリザ効果、っおや぀だ」父が、知った颚に蚀った。「正面向いお描かれた絵は、どっから芋おも目が合うんだず」
「ぞえ。  でもこれ、モナリザ効果にしおは、ちょっず、睚みすぎじゃない?」

 ベヌトヌノェンは、答えなかった。圓たり前だ。絵なのだから。

 図曞宀の本は、みんな日に焌けお、背衚玙が风色になっおいた。瞁は、曞架のあいだを歩いお、『日本の劖怪』ずいう叀い児童曞を芋぀け、少しだけ、めくった。家にあるのず同じシリヌズの、ずっず叀い版だった。ペヌゞの玙が、ざらざらしお、良い匂いがした。

 昌は、持っおきたおにぎりを、職員宀で食べた。職員宀は、事務机が島のように䞊び、壁には『集金予定衚』だの『週番割圓』だのの貌り玙が、ただ残っおいた。誰かの湯呑みが、茶枋の぀いたたた、流しに䌏せおあった。

「なあ、瞁」おにぎりを頬匵りながら、父が蚀った。「知っおっか。この孊校、䞃䞍思議があんだぞ」

 瞁の耳が、ぎくり、ず動いた。海苔を噛む口が、止たった。

「  䞃䞍思議?」

「おう。父さんらのころ、代々、語り継がれおた。䞀぀。音楜宀のオルガンが、倜䞭、ひずりでに鳎る。二぀。理科宀の人䜓暡型が、倜、廊䞋を歩く。䞉぀。二宮金次郎の銅像が、真倜䞭、校庭を走る。四぀。トむレの――」

「花子さん。䞉階か、いちばん叀いトむレの、䞉番目の個宀。  五぀は、階段。倜になるず䞀段増える。六぀は、四時四十四分に鏡を芋るず、匕き蟌たれる。  䞃぀めは?」

 瞁が、すらすらず匕き取るず、父は、おにぎりを持ったたた、目を䞞くした。

「  おたえ、なんで、知っおんだ」
「基本だし。孊校の䞃䞍思議は、党囜どこでも、だいたい同じ構成なの。トむレ、音楜宀、理科宀、銅像、階段、鏡。で、䞃぀めだけは、孊校ごずに違う。  ねえ、この孊校の䞃぀めは、䜕?」

 父は、うヌん、ず唞っお、おにぎりの残りを口に攟り蟌んだ。

「それがな。䞃぀めは、『知ったら呪われる』から、誰も口にしねえ、っお決たりだった。䞊玚生に聞いおも、教えおくれねえ。『䞃぀党郚知ったや぀は、卒業できねえ』なんお蚀うや぀もいた。  結局、父さんも、知らねえたた卒業した」

 知ったら、呪われる、䞃぀め。

 瞁の背䞭を、心地よい寒気が、走った。定番䞭の定番の締めだ。図鑑にも茉っおいる。でも、掻字で読むのず、実際にその孊校の卒業生の口から聞くのずでは、重さが、たるで違った。この、埃ず沈黙の校舎のどこかに、誰も知らない䞃぀めが、ただ、眠っおいるのかもしれないのだ。

「  ちなみに、お父さんは、芋たこずあるの。䞃䞍思議のどれか」

 父は、麊茶を、ひずくち飲んだ。それから、劙な間を、眮いた。

「  さあな。ガキのころのこずは、忘れた」

 その間が、瞁は、少し気になった。忘れた、ず蚀うずきの父の目が、䞀瞬、遠くを芋たからだ。あの図鑑の、『がっこうにいる』の四文字が、頭をよぎった。でも、それ以䞊は、聞けなかった。

 午埌、二人は、掃陀を始めた。

 ず蚀っおも、校舎は広い。今日のずころは、職員宀ず、廊䞋の䞀郚だけだ。父がほうきで掃き、瞁が雑巟を絞った。埃は、掃いおも掃いおも、光の䞭に舞い䞊がった。二十五幎分の埃は、そう簡単には、远い出されおくれなかった。

 倕方近く、二人は、階段の螊り堎たで、掃陀を進めた。

 螊り堎には、倧きな叀い鏡が、あった。等身倧の、朚枠の姿芋。埃の膜をかぶっお、曇っおいた。その隣の壁に、振り子の止たった、叀い柱時蚈が、掛かっおいた。

 針は――四時四十四分を、指したたた、止たっおいた。

「  ねえ。この時蚈」

「ん? ああ、止たっおんな。この校舎の時蚈、みんな止たっおる。職員宀のも、教宀のも」

「そうじゃなくお。時刻。  四時、四十四分」

 瞁は、昌に自分で語った䞃䞍思議を、思い出しおいた。四時四十四分に、鏡を芋るず、匕き蟌たれる。四が、䞉぀。その時刻を指したたた止たった時蚈が、よりにもよっお、鏡の真暪に。

 うなじが、ちり、ずした。

「偶然だべ、そんなもん」父は、笑っお、鏡の埃を、雑巟でひず拭きした。曇りが晎れお、鏡の䞭に、倕方の廊䞋ず、くたびれた男が、映った。「ほれ、芋ろ。ただの鏡だ。じじいが䞀人映るだけの」

「やめなよ、あんたり鏡の前で」

「なんも出やしねえっお。  お? そうだ、瞁。芋ずけ」

 父は、こずもあろうに、鏡に向かっお、䞡手を幜霊みたいにだらりず䞋げ、腰を萜ずし、癜目を剥いおみせた。

「う〜ら〜め〜し〜や〜」

「  なにやっおんの」

「怖いべ? 父さんの十八番だぞ。おたえが小さいころ、これやるず、ひっくり返っお笑っお」

「笑わないから。小五だから」

 蚀いながら、瞁の口の端は、すでに、危なかった。父は、調子に乗った。癜目のたた、頬をふくらたせ、鏡に向かっお、みょヌん、ず顔を暪に匕き䌞ばした。党力の、倉顔だった。四十䞉歳の、たごうこずなき党力だった。

「ぶ  っ」

 こらえおいたものが、決壊した。

「あっはははは!! なにそれ!! ばっかじゃないの!!」

 瞁は、雑巟を持ったたた、笑い転げた。

 今朝の、盞合傘のずきは、こらえた。こらえお、口を匕き結んだ。ただ蚱しおいないんだから、笑っおなんかやらない、ず。でも、もう、だめだった。匕き結んでいた口の、その奥の、もっずずっず奥のほうで、半幎間、堰き止めおきたものが――映画の日から、䞀床も、父の前で倖に出しおやらなかったものが――音を立おお、決壊した。

 父の前で、笑った。半幎ぶりに。

 そのこずに、瞁自身は、気づいおいなかった。笑うのに、忙しすぎた。父も、癜目のたた、笑った。

 二十五幎間、時の止たっおいた校舎に、笑い声が、響いた。

 ――その、ずき。

 誰も、芋おいなかったが。

 瞁のポケットの䞭で、スマホの時蚈が、切り替わった。䞀六時四四分。四時、四十四分。壁の柱時蚈の、止たった針ず、生きた時刻ずが、二十五幎ぶりに、ぎたりず、重なった。

 こち。

 ず、止たっおいたはずの柱時蚈が、䞀床だけ、鳎った。

 振り子が、ほんのわずか、揺れた。鏡の面が、笑い転げる芪子を映したたた、䞀瞬、氎面みたいに、ゆらり、ず揺れた。たるで、こちら偎ずあちら偎を隔おおいた戞が、现く、现く、開いたみたいに。

 誰も、気づかなかった。父の倉顔が、可笑しすぎた。瞁の笑い声が、倧きすぎた。

 誰も、気づかなかったのだ。

 垰り支床をしおいるず、廊䞋の突き圓たりの、掃陀甚具入れが、内偎から、がた、ず䞀床だけ、鳎った。

「  ネズミだべ」ず、父が蚀った。「二十五幎も空いた校舎だ。ネズミくらい、いる」

「  だね」

 瞁も、そう思うこずにした。ただ、その「がた」が、なんずなく――こちらの様子を、うかがっおいるような音に、聞こえたこずは、蚀わなかった。

 ――その、䞀郚始終を。

 二階の、階段の陰から。

 小さな圱が、そっず、芗いおいた。

 鏡の前で、癜目を剥いおふざける父芪を。雑巟を握ったたた、笑い転げる女の子を。二十五幎ぶりに校舎に響いた、その笑い声の、ぜんぶを。

 芗いお、その口もずが、たたらない、ずいうふうに、にんたりず、笑ったこずを――二人は、ただ、知らなかった。


第四章 サキ

 その子に気づいたのは、翌日の、昌䞋がりだった。

 瞁は、校庭の隅の氎道で、雑巟を掗っおいた。蛇口をひねるず、しばらく茶色い氎が出お、それから、驚くほど冷たい、柄んだ氎に倉わった。山の氎だ、ず父が蚀っおいた。

 雑巟を絞っお、顔を䞊げたずき、芖界の端で、䜕かが動いた。

 校庭の反察偎の隅に、倧きな桜の朚があった。春には、さぞかし芋事に咲くのだろう、倪い、叀い朚だった。その幹の陰に――誰か、いた。

 女の子、だった。

 おかっぱ頭で、色の耪せた赀いスカヌトを穿いお、癜っぜい半袖のシャツを着お、そしお、裞足だった。歳は、瞁より二぀か䞉぀、䞋に芋えた。朚の幹に半分、身を隠すようにしお、じいっず、こちらを芋おいる。

 瞁ず、目が合った。

 女の子は、びくっ、ず、幹の陰に匕っ蟌んだ。けれど、䞉秒もしないうちに、たた、そろり、ず顔を半分、出した。目が合う。匕っ蟌む。たた、出おくる。たるで、譊戒心の匷い、野生の小動物みたいだった。

 ――誰だろう。

 この村に、子䟛はいない。それは、おばあさんからも、通倜の倧人たちからも、聞いおいた。でも、倏䌑みだ。お盆も近い。どこかの家に、芪戚の子が垰省しおいおも、おかしくはない。

 瞁は、蛇口を締めお、そっず、声をかけおみた。

「  こんにちは」

 女の子は、幹の陰で、しばらく、もじもじしおいた。それから、意を決したように、ひょこ、ず党身を珟しお、こく、ず小さくうなずいた。

「この蟺の子?」

 こく、ず、たたうなずく。

「私は、瞁。男鹿瞁。  そっちは?」

 女の子は、裞足の足で、倏草を、ぺた、ぺた、ず螏んで、近づいおきた。䞉歩ぶんくらいの距離で止たっお、瞁の顔を、䞋から、じいっず芋䞊げた。真っ黒な、倧きな目だった。よく日に焌けおいお、頬っぺたが、赀かった。

「――サキ」

 ず、女の子は名乗った。

「サキちゃん」
「うん。  ゆかり、ちゃん?」
「うん」
「ゆかりちゃん」

 サキは、その名前を、风玉でも転がすみたいに、口の䞭で繰り返した。それから、にっ、ず笑った。

 前歯が、䞀本、抜けおいた。

 その、抜けた歯の隙間が、なんだか無性に、可愛かった。瞁は、思わず、぀られお笑いそうになった。

「サキちゃん、いく぀?」
「んヌずね」サキは、指を折っお、数えるふりをしお、途䞭でやめた。「  ひみ぀」
「秘密なんだ」
「うん。ひみ぀」

 倉な子、ず瞁は思った。でも、嫌な感じは、たったくしなかった。

「サキちゃんは、どこの家の子? 芪戚の子?」

 サキは、その質問には答えずに、瞁の埌ろの、校舎を指さした。

「がっこう、なおすの?」
「  うん。たあ。うちのお父さんが、勝手に買っちゃっお」
「かった!」サキの目が、たん䞞になった。「がっこうを、かったの! おじさんが!」
「そう。銬鹿でしょ」
「    」

 サキは、しばらく、ぜかんず校舎を芋䞊げおいた。それから、瞁に向き盎っお、真剣そのものの顔で、聞いた。

「  たた、がっこうに、なるの? ここ」

「え?   うヌん、孊校っおいうか、遊び堎? 秘密基地ずか、キャンプずか、そういうのができる堎所にするんだっお。倏䌑みに、子䟛が泊たりに来られるような」

「こどもが、くる」

 サキは、その蚀葉を、ゆっくり、繰り返した。

「こどもが、いっぱい、くる  ?」

「たあ、うたくいけば、だけど。うちのお父さんのやるこずだから、どうなるか」

 サキは、返事をしなかった。代わりに、䞡手で、自分の頬っぺたを、むにゅ、ず抌さえた。抌さえお、こがれそうになる䜕かを、必死で、抌し戻しおいるみたいだった。抌さえきれなかったぶんが、口の端から、笑いになっお、はみ出しおいた。

 倉な子、ず瞁は、もう䞀床思った。

 サキは、その次の日も、たた次の日も、来た。

 どこから来お、どこぞ垰るのか、瞁は、䞀床も芋なかった。気が぀くず、いた。気が぀くず、いなくなっおいた。掃陀を手䌝うでもなく、かずいっお邪魔をするでもなく、サキは、ただ、校舎の䞭を、ぱたぱたず、裞足で走り回った。

 誰もいない教宀の、机のあいだを、鬌ごっこでもするみたいに、ぐるぐるず。音楜宀に忍び蟌んで、オルガンの鍵盀を、でたらめに、ぜろんぜろんず鳎らした。理科宀のガラス戞の前では、人䜓暡型ず、なぜか長いこず、芋぀め合ったりしおいた。廊䞋の雑巟がけレヌスを䞀人でやっお、䞀人で転んで、䞀人で笑った。

 サキは、よく笑う子だった。

 けれど、その笑い声は、どうしおだか、い぀も、少しだけ、寂しい響きをしおいた。うたく蚀えないが――長いこず䞀人で笑っおきた子の、笑い方だった。誰かず䞀緒に笑うのが、嬉しくおたたらないのに、その嬉しさの底に、うっすらず、それたでの䞀人がっちが、透けお芋えるような。

 瞁が、図曞宀から借りた劖怪の本を、枡り廊䞋の日陰で広げおいるず、サキは、必ず、隣に、ぺたん、ず座った。そしお、食い入るように、ペヌゞを芗き蟌んだ。

「これ、なあに」
「ぬらりひょん。劖怪の総倧将、っお蚀われおる。人の家に勝手に䞊がり蟌んで、お茶飲んでくの」
「ずうずうしいねえ」
「ずうずうしいの。  これは、河童。川にいるの。きゅうりが奜き」
「しっおる! かっぱ、しっおる!」
「ぞえ、詳しいじゃん。じゃあこれは?」
「んヌず  のっぺらがう!」
「正解」

 サキは、えぞん、ず、抜けた前歯を芋せた。それから、ペヌゞの䞊に、そっず指を眮いお、䞊目遣いに、瞁を芋た。

「  ねえ。ゆかりちゃんは、おばけ、すき?」

 その聞き方が、劙に、真剣だった。たるで、答えによっお、䜕か倧事なこずが、決たっおしたうみたいな。

 瞁は、少し、迷った。孊校の友達には、蚀ったこずがない。「倉なの」の䞀蚀で枈たされるのが、目に芋えおいるから。しっかり者の男鹿さんは、そういうの奜きじゃないでしょ、ず蚀われるのが分かっおいるから。

 でも。

 この子には、蚀っおもいい気が、した。

「  奜き。すごく」

 サキの顔が、ぱあっ、ず、明るくなった。

 比喩ではなく、本圓に、明るくなった気がした。曇っおいた空から、急に倪陜が顔を出したずきみたいに、サキの呚りの空気ごず、䞀段、光った。

「そっかあ! すきかあ!」

 サキは、その堎で、ぎょん、ず䞀回、跳ねた。

「じゃあ、じゃあ、いっぱい来るずいいねえ!」

「  いっぱい? 䜕が?」

「んヌヌ」サキは、䞡手を埌ろで組んで、䜓を巊右に、ゆらゆら揺らした。それから、いたずらっぜく、笑った。「――ないしょ!」

「なにそれ」

「ないしょは、ないしょ!」

 サキは、けらけら笑いながら、枡り廊䞋を、ぱたぱたず走っおいっおしたった。瞁は、その埌ろ姿を芋送りながら、銖をかしげた。倉な子。ほんずうに、倉な子。  でも。

 でも、あの子ずいるず、なんだか、胞のあたりが、あったかい。

 サキが来るようになっお、䞉日目の午埌。サキが、「かくれんが、しよう」ず蚀い出した。

「かくれんが? ここで?」
「うん! がっこうじゅう、ぜんぶ぀かっお! ね、ね、しよう!」

 瞁は、正盎、少し迷った。かくれんがなんお、䜕幎ぶりだろう。小孊五幎生にもなっお、ず思う自分ず、この広い、誰もいない校舎を䞞ごず䜿ったかくれんがは、正盎、ものすごく楜しそうだ、ず思う自分がいた。サキが、䞡手を胞の前で組んで、䞊目遣いに「ね?」ず蚀うので、埌者が勝った。

「  䞀回だけだよ」
「やった!」

 じゃんけんで、瞁が鬌になった。昇降口の柱に顔を䌏せお、十、数える。

「もヌいヌかヌい」
「もヌいヌよヌ!」

 声は、二階のほうから聞こえた。瞁は、階段を䞊がっお、探し始めた。

 ――が。

 いなかった。

 教宀を、䞀぀ず぀開けた。机の䞋。教卓の陰。掃陀甚具入れの䞭。カヌテンの裏。音楜宀のオルガンの陰。図曞宀の曞架のあいだ。どこにも、いなかった。二階を党郚芋お、䞉階を芋お、䞀階に降りお、絊食宀から䜓育通たで芋た。いない。䞉十分、探した。汗だくになった。

「  サキちゃヌん! もう出おきおヌ! 私の負けヌ!」

 降参の声を、廊䞋に響かせた、その瞬間。

「ここだよ」

 真埌ろで、声がした。

「うわあっ!!」

 瞁は、文字どおり、飛び䞊がった。振り返るず、サキが、けろりずした顔で、すぐ埌ろに、立っおいた。今の今たで、誰もいなかったはずの、廊䞋のど真ん䞭に。

「ど、どこにいたの!?」
「ひみ぀」
「たた秘密!? ずるい! 絶察ずるいでしょ、今の!」
「ふふふ。サキ、かくれんが、぀よいんだよ。むかしから、いっかいも、み぀かったこずないの」

 サキは、えぞん、ず胞を匵った。䞀回も芋぀かったこずがない。その蚀い方が、少し匕っかかったが、瞁は、悔しさのほうが勝った。

「もう䞀回! 今床は私が隠れる!」
「いいよヌ」

 今床は、瞁が隠れた。䞉階のトむレの、いちばん奥の個宀、ず芋せかけお、隣の掃陀ロッカヌの䞭、ずいう、我ながら䌚心の隠れ堎所だった。息を殺しお、埅った。䞀分。二分。ロッカヌの隙間から、廊䞋の光が、现く差し蟌んでいた。

 ぱたぱたぱた、ず、足音が近づいおきた。

 足音は、トむレの前を玠通りしお――ロッカヌの前で、ぎたりず止たった。

 こんこん、ず、ノックされた。

「みヌ぀けた」

 瞁は、ロッカヌの䞭で、がっくりず、うなだれた。

「  なんで分かるの!?」
「ふふふ。サキ、さがすのも、぀よいの」
「なにそれ! 最匷じゃん!」
「さいきょうなの!」

 二人は、廊䞋で、声をあげお笑った。汗だくで、埃だらけで、笑った。笑いながら、瞁は、ふず、気づいた。

 私、いた、思いっきり、遊んでる。

 い぀以来だろう。時間を忘れお、汗だくになっお、誰かず遊んだのは。東京では、攟課埌は塟か習い事の子が倚くお、遊ぶずいっおも、誰かの家でゲヌム画面を囲むだけだった。それが悪いわけじゃないけれど、こんなふうに、䜓ぜんぶで、声ぜんぶで遊んだのは――思い出せないくらい、昔だった。

 鍵っ子で、しっかり者で、䞀人の過ごし方なら誰よりうたい、はずの自分が。

 汗を拭いながら、隣でただ笑っおいるサキを芋た。サキは、笑いすぎお、目の端に涙をためおいた。それを芋たら、瞁も、たた笑えおきた。

 そのころから、校舎で、小さな、劙なこずが、起き始めおいた。

 倕方、掗っお廊䞋の手すりに掛けおおいた雑巟が、翌朝、きちんず四぀に畳たれお、揃えお眮いおあるのだ。

「ねえ。  雑巟、畳んだ?」
「畳んでねえ。おたえだべ」
「私でもない」

 それだけでは、なかった。掃き集めそこねた埃が、朝になるず、廊䞋の隅に、こんもりず、小さな山にたずめられおいた。几垳面な、砂堎の山みたいに。散らばっおいた画鋲が、い぀の間にか、䞀列に、几垳面に、䞊べられおいた。

 䞍気味、ず蚀えば、䞍気味だった。誰もいない校舎で、倜のあいだに、誰かが、片付けをしおいる。でも――瞁は、なぜだか、怖いず思えなかった。畳たれた雑巟は、䞁寧だった。埃の山は、倧事そうだった。悪意のかけらも、なかった。むしろ、なんずいうか。

 ――留守番の子が、耒められたくお、お手䌝いをしたみたいだった。

「ネズミが畳むかね、雑巟」
「畳たないでしょ」
「  だよなあ」

 父は、それ以䞊、考えるのをやめたようだった。瞁は、畳たれた雑巟を、そっず、元の堎所に戻した。次の朝も、雑巟は、畳たれおいた。瞁は、なんずなく、手すりに掛け盎すずき、「ありがず」ず、小さく蚀っおみた。翌朝、雑巟は、い぀もより、心なしか、きっちり、畳たれおいた。

 ――倕方に、なった。

 その日の䜜業を終えお、父が、廊䞋の窓を、䞀枚ず぀閉めお回っおいた。西日が、長い廊䞋の床板を、燃えるようなオレンゞ色に染めおいた。窓を䞀枚閉めるたび、ガラスの䞭の倕焌けが、ゆらり、ず揺れた。

 父は、䟋の、調子っぱずれの錻歌を、うたっおいた。

「ねえ。その歌、い぀もうたっおるけど、ほんずは䜕の歌なの」

 瞁が聞くず、父は、窓の桟に手をかけたたた、「ん?」ず振り返った。それから、少し、遠くを芋る目になった。

「  校歌だ」

「校歌?」

「男鹿沢小孊校の、校歌。父さん、六幎間、毎朝うたった。朝瀌で、音楜の時間に、運動䌚で、卒業匏で。  䜕癟回、うたったか分からねえ。なのに、なあ」

 父は、窓の倖の杉林に、目をやった。杉のこずえが、倕日を济びお、金色に、燃えおいた。

「  杉の、こずえに  あおぞら  。  あヌの、そらヌ  たかく  。  だめだ。出おこねえ。歌詞が、二行目から、霧の䞭だ」

 父は、力なく笑っお、頭をかいた。

「六幎間、うたったのになあ。  人間、うたわねえず、忘れるもんだな」

 瞁は、その暪顔を芋おいた。それから、ふず、思った。歌っお、どこに消えるんだろう。父の䞭から消えた校歌は、今、どこにあるんだろう。もう、この䞖のどこにも、ないんだろうか。それずも、どこかに――たずえば、この校舎のどこかに、ただ、残っおいるんだろうか。

 誰にもうたわれなくなった歌の行き先を、瞁は、少しだけ、考えた。考えお、なんだか、胞の奥が、现くなった。

 じいちゃんの声。カレンダヌの、癜い欄。うたわれない校歌。読めなくなった、門柱の文字。

 ――なくなっおいくものばかりだ、ここは。

 倕日が、廊䞋を、深い赀に染めおいた。

 瞁ず父は、戞締たりを終えお、昇降口ぞ向かっお、長い廊䞋を歩いた。瞁は、なんずなく、自分の圱を螏みながら歩いた。倕日を背に受けお、圱は、廊䞋の先ぞ、電信柱みたいに、现長く、䌞びおいた。瞁の圱。少し先に、父の圱。

 ――そのずき、だった。

 瞁は、足を、止めた。

 圱が。

 䞉本、あった。

 瞁の圱。父の圱。そしお、二人の圱のあいだに、もう䞀本――少し小さな、子䟛の圱が。ぎったりず、寄り添うように、䞊んで、䌞びおいた。

 瞁の背䞭を、氷の指で、すうっ、ず撫でられたような感芚が、走った。

 振り返った。

 ――誰も、いなかった。

 西日の差し蟌む、長い廊䞋。舞う埃が、金色に光っおいる。それだけだった。サキは、ずっくに垰った。父は、少し先を、こちらに背を向けお歩いおいる。

 誰も、いない。

 もう䞀床、床を芋た。

 圱は、二本だった。瞁の圱ず、父の圱。䞉本目は――なかった。最初から、なかったみたいに。

「  どうした、瞁?」

 父が、振り返った。

「  ううん。なんでも」

 瞁は、歩き出した。心臓が、ずくずくず、速く打っおいた。気のせい。倕方は、圱が長く䌞びるから、䜕かず重なっお、そう芋えただけ。うん。きっず、そう。

 でも。

 瞁は、頭の䞭で、図鑑のペヌゞを、めくっおいた。

 逢魔時(おうたがずき)。倕方、昌ず倜の境目の時刻。「倧犍時」ずも曞く。この䞖ずあの䞖の境が薄くなり、魔のものず逢いやすくなる時刻ずされる。

 境が、薄くなる時刻。

 この、時間の止たった校舎で。人ではない䜕かが、逢魔時に、二人の圱に、そっず寄り添っお、䞀緒に歩いおいたずしおも。

 ――䞍思議は、ないのかもしれなかった。

 怖い。

 うなじの産毛が、ただ、立っおいる。なのに、瞁の口もずは、なぜだか、ほんの少し、緩んでいた。怖いのに。怖いからこそ、なのか。胞の奥のあの小さなものが、こずり、こずり、ず、続けざたに動いおいた。

 その晩、じいちゃんの家の倕食の垭で、父が、切り出した。

「なあ、瞁。明日から、孊校に、泊たり蟌もうず思う」

 卓袱台には、父の䜜った肉じゃがが、湯気を立おおいた。

「泊たり蟌み?」
「おう。初䞃日は、もう枈んだべ。母さんには、倏䌑みのあいだは二人ずもこっちにいる、っお話は通した。  お盆たでに、䞀階の床、ぜんぶ匵り替えおえんだ。通いだず、朝晩の行き来だけで二時間、食われる。寝袋、町のホヌムセンタヌで買っおきた。飯は、カセットコンロでなんずかなる。  た、おたえは、じいちゃんの家で留守番でも」

「行く」

 瞁は、父の蚀葉が終わる前に、蚀っおいた。父が、目を䞞くした。

「  ずいぶん、即答だな」
「じいちゃんの家、倜、䞀人だず  」怖い、ず蚀いかけお、瞁は蚀い換えた。「  退屈だから。それだけ」
「そうか。退屈か」
「そう。退屈なの」

 父は、それ以䞊、䜕も聞かなかった。聞かなかったが、肉じゃがをよそう父の口もずが、緩んでいるのを、瞁は芋逃さなかった。

 倕食のあず、二人は、瞁偎で、線銙花火をした。父が、ホヌムセンタヌの垰りに、買っおきたのだずいう。

「寝袋の぀いでに、目に入っおな」

 倜気は、東京よりずっず涌しくお、蚊取り線銙の匂いが、ゆるゆるず流れおいた。父は、台所から、猶ビヌルを䞀本、持っおきた。ぷしゅ、ずいう音に、瞁は、反射的に、少しだけ、身構えた。

 ――たた、始たるのか。䞀本が二本、二本が䞉本になっお、そのうち、ろれ぀の怪しい説教が。

 でも、父は、䞀口、二口、飲んだだけで、猶を、瞁偎の板の䞊に、こずり、ず眮いた。

「  明日から、力仕事だからな。今倜は、これでやめずくわ」

 線銙花火に、火を぀けた。先端に、オレンゞ色の火の玉が、じりじりず育っお、やがお、ぱちぱちず、四方八方に、现い火花を散らし始めた。束葉。牡䞹。柳。火花のかたちが、移ろっおいく。二人は、黙っお、それを芋おいた。

 瞁は、火花越しに、板の間の猶を、ちらりず芋た。

 半分以䞊、残ったたたの猶が、月明かりを受けお、鈍く光っおいた。

 䜕も、蚀わなかった。蚀わなかったけれど、火の玉が、ぜずり、ず萜ちお消えるたでのあいだ、瞁の胞の䞭では、䜕か小さくおあたたかいものが、線銙花火の火の玉ず、よく䌌たかたちで、灯っおいた。

「あ、萜ちた」
「もう䞀本、やるか」
「  うん」

 同じ倜。

 山の䞭腹の、誰もいない校舎は、い぀もず同じ、深い闇ず静けさの䞭に、沈んでいた。

 けれど、その静けさは、昚日たでの静けさずは、もう、少しだけ、違っおいた。眠りの静けさではなく――䜕かが、目芚める盎前の、息をひそめた静けさに、倉わっおいた。


第五章 䞀぀目の音

 匕っ越しは、あっけなく枈んだ。

 寝袋二぀。着替え。カセットコンロずボンベ。鍋ずやかん。米ず、レトルトず、カップ麺の箱。クヌラヌボックスに、氷ず、麊茶ず、おばあさんが山ほどくれた野菜。懐䞭電灯が䞉本ず、電池匏のランタンが二぀。それだけを軜トラで運び蟌んで、二人の城は、職員宀に決たった。

 職員宀を遞んだのは、校舎の䞭でいちばん、人の暮らしの跡が濃かったからだ。事務机が島のように䞊び、絊湯宀があり、壁には色耪せた『集金予定衚』や『週番割圓』の玙が残っおいる。誰かの湯呑みが、流しに䌏せおある。ここなら、倜、少しは心现くない、ず、口には出さなかったが、二人ずも、たぶん同じこずを考えおいた。

 窓際の机を二぀寄せお、寝袋を䞊べた。父の枕元には工具箱、瞁の枕元には劖怪の本ず懐䞭電灯。それで、支床は終わりだった。

 倕飯どき、劙なこずが、䞀぀、あった。

 カレヌの匂いが職員宀に満ちおきたころ、廊䞋のほうから――くん、くん、ず、䜕かが、匂いを嗅ぐような、小さな気配がしたのだ。戞の隙間の、床すれすれの高さから。瞁が振り向くず、気配は、ころ、ず転がるような音を残しお、消えた。

「  今の、聞いた?」
「ネズミだべ」
「ネズミっお、カレヌの匂い、嗅ぎに来る?」
「腹が枛っおりゃ、来るべ」

 父は、こずもなげに蚀っお、じゃがいもを頬匵った。今倜もじゃがいもの芯は取れおいなかった。瞁は、なんずなく、カレヌを少しだけ皿に取り分けお、廊䞋偎の戞の前に、眮いおみた。

 食事が終わるころ、皿は、空になっおいた。

 きれいに、掗ったみたいに、空になっおいお、皿の暪には、折れたクレペンが䞀本、お瀌みたいに、ちょこんず眮いおあった。

 九時になった。

 歯を磚く氎道の氎は、痺れるほど冷たかった。寝袋に入った。父が、ランタンの灯りを、消した。

 ――闇が、来た。

 完党な、闇だった。じいちゃんの家の倜も暗かったが、ここの闇は、もっず深かった。じいちゃんの家には、それでも、隣家の気配や、集萜の犬の声があった。ここには、䜕もない。いちばん近い人家たで、山道で二十分。窓の倖にあるのは、黒い杉林ず、黒い山ず、その䞊の星だけだ。

 目を開けおも、閉じおも、同じ暗さだった。瞁は、詊しに、自分の手を顔の前にかざしおみた。芋えなかった。自分の䜓の茪郭が、闇に溶けお、どこたでが自分で、どこからが倜なのか、分からなくなりそうだった。

 耳だけが、鋭くなっおいった。

 颚が、杉林を枡る音。ざああ  ず、波みたいに寄せおは、匕いおいく。遠くの沢の、氎の音。そしお、校舎そのものが立おる音。みし。  ぎし。  叀い朚造校舎は、倜になるず、そこかしこで小さく鳎く。昌の熱で膚らんだ朚が、倜気で瞮むのだ。理屈は、分かっおいる。分かっおいおも、闇の䞭でその音を聞くず、たるで、倧きな生き物が、寝返りを打っおいるみたいに聞こえた。

「  なあ、瞁。起きおっか」

 隣の寝袋から、父の声がした。

「起きおる」
「  眠れそうか」
「んヌ  ただ」
「  そうか。  父さんもだ」

 しばらく、沈黙があった。それから、父が、ぜ぀りず蚀った。

「  ガキのころな。倏䌑みに䞀回だけ、この孊校に、倜、忍び蟌んだこずがある」

「え」

「肝詊しだ。父さんが蚀い出しっぺでな。仲間五人で、倜䞭に、䜓育通の窓のこわれた鍵んずこから入っお。  䞃䞍思議、確かめおやるっお息巻いおよ」

「  で? どうだったの」

 父は、少し、間を眮いた。

「  䞉分で逃げた」
「よっわ」
「うるせえ。おたえ、あの闇を、なめんなよ。今倜のこれず、おんなじ闇だぞ。懐䞭電灯䞀本でよ、廊䞋の途䞭たで行ったずこで、誰かが、たヌっ、ず走ったんだ。䞊の階を」
「  足音が?」
「足音がだ。子䟛の、裞足の足音。ぱたぱたぱたヌっお。  党員で悲鳎あげお、転がるように逃げた。次の日、仲間うちで、誰か先に入っおただろっお倧喧嘩よ。でも、誰も入っおねえ。鍵は、俺たちが開けるたで、閉たっおたんだから」

 瞁は、寝袋の䞭で、息を呑んだ。

 裞足の、足音。ぱたぱた。

 ――聞いたこずがある。ここ数日、昌間の校舎で、毎日。

「  その話、ほんず?」
「ほんずだ。  た、䞉十幎も前の話だけどな。ガキの耳なんお、あおになんねえし」

 父は、笑い話にしようずしたようだったが、その声は、あたり笑っおいなかった。瞁は、あの図鑑の萜曞きを思い出しおいた。『がっこうにいる』。子䟛の父は、あの倜のあずに、あれを曞いたのかもしれなかった。

「  寝るぞ。おやすみ」
「  おやすみ」

 どれくらい、経っただろう。

 うずうずず、眠りの氎面に沈みかけおいた瞁の耳に。

 ――ポヌン。

 ず、音が、萜ちおきた。

 瞁の意識が、䞀瞬で、氎面に匕き䞊げられた。

 目を、開けた。闇。心臓の音。今のは、倢? 倢の䞭の音?

 ポヌン。  ポロン。

 ――違う。

 鳎っおいる。本圓に、鳎っおいる。䞊だ。二階。この真䞊あたり。音楜宀。

 ポロン。ポロロン。  ポロン。

 オルガンだ。間違いない。あの、足螏みオルガンの、少しかすれた、やわらかい音。それが、闇の䞭で、ぜ぀り、ぜ぀りず、鳎っおいる。たどたどしく。ぎこちなく。同じ数小節を、䜕床も、䜕床も、繰り返しお。ある音のずころで、必ず、぀っかえる。぀っかえお、少し止たっお、たた、最初から。

 ――たるで、䞋手な子が、䞀生懞呜、緎習しおいるみたいに。

「お  おい  瞁  」

 隣の寝袋から、父の、裏返った声がした。

「い、今の  聞いた、か」
「聞いた」
「  き、聞き間違いだべ。な? 颚だ。颚が、どっかの隙間から」
「颚は、和音、匟かないよ」
「ね、ネズミだ! ネズミが鍵盀の䞊を走っお」
「ネズミは、同じフレヌズを繰り返し緎習したりしない」

 ポロン、ポロン。぀っかえ。ポロン、ポロン。぀っかえ。

 瞁は、寝袋のファスナヌを、そっず䞋ろした。

 心臓は、ばくばくず、肋骚の内偎を叩いおいた。指先が、冷たくなっおいるのが分かった。怖い。党身が、怖いず蚀っおいる。

 なのに、䜓は、寝袋から、出おいた。

 行かない、ずいう遞択肢が、瞁の䞭に、最初から存圚しなかったのだ。だっお、䞊で、鳎っおいるのだ。図鑑で癟回読んだ、䞃䞍思議の䞀番目が。本物が。今、この瞬間に。それを確かめずに、寝袋にくるたっお朝を埅぀なんお、そんなもったいないこずが、できるわけがなかった。

 枕元の懐䞭電灯を、握った。かち、ずスむッチを入れるず、䞞い光の茪が、闇に、ぜっかりず浮かんだ。

「ちょっ  おた  どこ行く!?」
「決たっおるでしょ。音楜宀」
「な、なんでだよ!! 寝おろ!! 朝になっおから芋に行けばいいべ!!」
「朝になったら、やんじゃうでしょ、挔奏。本物は、今しか、芋られないの」

 父が、寝袋の䞭で、激しく葛藀する気配がした。行かせたくない。しかし、止めおも嚘は行く。ならば自分も行くしかない。しかし怖い。しかし、この真っ暗な職員宀に䞀人で残るのは、もっず怖い。

 結論は、䞉秒で出た。父は、瞁が芋たこずもない速さで寝袋から這い出し、瞁の手から懐䞭電灯を、ひったくるように取った。

「――た、埅お!! 父さんが先だ!! 父さんが先に行く!!」
「別にいいけど」
「よくねえ!! 子䟛を先に行かせられっか!!」

 そう蚀った父の、懐䞭電灯を持぀手は、光の茪が小刻みに揺れるほど、震えおいた。震えながら、それでも父は、職員宀の戞を、自分の手で、開けた。

 倜の廊䞋は、昌の廊䞋ず、別の堎所だった。

 懐䞭電灯の光の茪の䞭だけに、床板の朚目が浮かび、茪の倖は、墚を塗り蟌めたような闇だった。光を巊右に振るず、闇が、そのぶんだけ、さっず退いお、光が過ぎるず、たた、音もなく、背埌に満ちた。たるで、闇のほうが、こちらの動きを芋お、呌吞を合わせおいるみたいだった。

 みし、ず、どこかで校舎が鳎った。二人の肩が、同時に、びくりず跳ねた。

 ポロン。  ポロロン。

 オルガンの音は、続いおいた。階段に近づくほど、それは、はっきりず聞こえた。

 階段を、䞊った。䞀段ごずに、朚の段が、ぎ  、ぎ  、ず鳎いた。自分たちの足音なのに、たるで、誰かがすぐ埌ろを぀いお䞊っおきおいるように聞こえお、瞁は、二床、振り返った。誰も、いなかった。いなかった、ず思う。

 螊り堎に、倧きな鏡があった。

 懐䞭電灯の光が、鏡面に圓たっお、ぎらり、ず跳ね返った。䞀瞬、鏡の䞭で、光ず䞀緒に、癜っぜい䜕かが動いた気がしお、瞁の心臓が、口から出かかった。――自分たちだった。鏡に映った、青い顔の芪子だった。父は、鏡を絶察に芋ないずいう断固たる意志の足取りで、螊り堎を通過した。

 二階の廊䞋。

 音楜宀の匕き戞が、廊䞋の先に芋えた。磚りガラスの向こうは、真っ暗だった。灯りは、ない。人の気配も、ない。

 なのに、音だけが、その暗いガラスの向こうから、聞こえおくる。

 ポロン。ポロン。  ポロロン。

 父が、ごくり、ず喉を鳎らした。額に、汗が浮いおいた。倜だずいうのに。父は、震える手を、匕き戞にかけた。指が、二床、滑った。䞉床目で、指がかかった。

 父は、瞁を芋た。瞁は、うなずいた。

 ――すう、ず。

 戞が、開いた。

 月の光が、窓から斜めに差し蟌む、音楜宀。䞊んだ譜面台の圱が、床に、现長い栌子を䜜っおいた。壁の䜜曲家たちが、闇の䞭で、癜い顔を䞊べおいた。

 その、月明かりの䞭で。

 足螏みオルガンが、ひずりでに、鳎っおいた。

 ペダルが、ぎ、こ、ぎ、こ、ず、芋えない足に螏たれお、䞊䞋しおいた。黄ばんだカバヌは、きちんず畳んで、怅子の䞊に眮いおあった。癜い鍵盀が、芋えない指に抌されお、沈み、戻り、たた沈んだ。ポロン。ポロロン。たどたどしい、あの旋埋。

 ――本物だ。

 瞁の党身に、鳥肌が、ざあっず立った。恐怖ず、それから、恐怖ずそっくり同じ顔をした、歓喜ずで。

「ひゃうっ」

 父が、聞いたこずのない音を発しお、瞁の背䞭に、隠れた。四十䞉歳、身長癟䞃十五センチの男が、身長癟四十センチの嚘の背䞭に、本気で隠れようずした。

 そしお瞁は、目を、茝かせた。

「  うっそ。すご  ! 匟いおる  ほんずに、ひずりでに、匟いおる  !」

 思わず、声が、出た。

 その瞬間。

 オルガンの音が、ぎたり、ず止たった。

 ペダルも、止たった。鍵盀も、止たった。音楜宀が、しん、ず静たり返った。月明かりの䞭で、オルガンは、ただの叀い家具みたいに、黙り蟌んだ。

   なんだろう。

 気のせいだろうか。そのオルガンの沈黙が、瞁には、「怒っおいる」ようには、芋えなかった。むしろ、しゅん、ず、しがんだように芋えた。挔奏を芋られお、恥ずかしくお、固たっおしたった、みたいに。

 瞁は、そっず、䞀歩、郚屋に入った。

「  あ、えっず。ごめんなさい。びっくりさせちゃった?   あの、やめないで。すごく、よかったから。  続けお?」

 闇に向かっお、小孊五幎生が、オルガンに、話しかけた。埌ろで父が「な、なにやっおんだおたえは」ず裏返った声で囁いた。

 オルガンは、しばらく、黙っおいた。

 それから。

 おずおずず、本圓に、おずおずず、ずいう感じで、ペダルが、ぎ、こ、ず動いた。ポロ  ン。䞀音。様子を芋るような䞀音。瞁が、うんうん、ずうなずくず、オルガンは、意を決したように、たた、あの旋埋を匟き始めた。ポロン、ポロロン。さっきず同じ、数小節。そしお、同じずころで、぀っかえた。

 ず。

 ぎょろり。

 ず、音のない音が、した気がした。壁のほうから。

 瞁は、懐䞭電灯を、そちらぞ向けた。バッハ。モヌツァルト。シュヌベルト。そしお。

 ――ベヌトヌノェンの目が、動いおいた。

 あの、しかめっ面の肖像画。その䞡目が、額瞁の䞭で、ぎょろりず、オルガンのほうを向いおいた。じっず、぀っかえた箇所を、睚んでいる。眉間の皺が、昌間芋たずきより、明らかに、深い。それから、その眉が、ぐ、ぐ、ず䞊䞋に動いた。「そこは、そうではない。指を、こうだ。こう!」――声は、なかった。なかったが、顔が、完党に、そう蚀っおいた。

「で  」

 父が、瞁の肩越しに、それを芋た。

「で、で、出たあああ!! çµµ!! 絵が動いた!! 瞁!! に、逃げるぞ、逃げ――」
「しっ! 静かに!   ねえ、よく芋お。ベヌトヌベン、怒っおるんじゃないよ。あれ、オルガンに、挔奏指導しおる」

「  は?」

 オルガンが、匟く。䟋の箇所で、぀っかえる。ベヌトヌノェンの眉が、跳ね䞊がる。「違う!」。オルガンが、少し間を眮いお、もう䞀床、匟く。たた、぀っかえる。ベヌトヌノェンが、額瞁の䞭で、倩を仰ぐ。「ええい、もどかしい! 䜕床蚀えば分かるのだ!」。オルガン、䞉床目の挑戊。今床は、぀っかえる寞前で、そヌっず、ゆっくり匟いお、なんずか、通過した。ベヌトヌノェンの眉が、ふ、ず緩んだ。「  そうだ。それでよい」。

 その䞀郚始終を、芪子は、音楜宀の入り口で、ぜかんず芋おいた。

 怖かった。膝は、ただ、がくがくしおいた。なのに、。

「  ぷ」

 先に吹き出したのは、瞁だった。

「  ぷ、く、くく  だ、だめ、これ、面癜すぎる  完党に、音楜の先生ず、居残り緎習の子じゃん  」

 蚀われお、父も、改めお、その光景を芋た。誰もいないオルガンが、必死に緎習しおいる。壁の䞖界的倧䜜曲家が、鬌の圢盞で、それを指導しおいる。深倜の、廃校の、音楜宀で。

「  ぶは」

 父も、決壊した。

 二人は、音楜宀の入り口にぞたり蟌んで、腹を抱えお笑った。怖さず可笑しさがごちゃたぜになっお、目尻から、涙が出た。声を殺そうずしお、殺しきれずに、ひいひい蚀った。オルガンが、挔奏しながら、少し、照れたように音を小さくした。ベヌトヌノェンが、こちらを、じろり、ず芋た。「授業䞭に、隒ぐでない」ずいう顔だった。それがたた、可笑しかった。

 こんなに笑ったのは、い぀以来だろう、ず、笑いながら、瞁は、頭の隅で思った。父ず二人で、こんなふうに、涙が出るたで笑ったのは。

 ――そのずき、だった。

 カヌン  コヌン  。

 カヌン  コヌン  。

 鳎るはずのない音が、校舎䞭に、響き枡った。

 チャむムだった。授業の始たりず終わりを告げる、あの、四぀の音。壊れお、電気も通っおいないはずの、校内攟送のスピヌカヌから。深倜の校舎の、隅々にたで。

 笑いが、二人の口もずで、凍り぀いた。

 オルガンの音が、止たった。ベヌトヌノェンの目が、正面に戻った。

 チャむムの残響が、長い廊䞋を、ゆっくりず枡っおいく。それは、時報ではなかった。倜の十時に始たる授業など、ない。それは、合図、だった。䜕かの、始たりを告げる。

 残響が、消えた。

 その、盎埌。

 校舎党䜓が、ざわり、ず、した。

 䞀階で、䜕かが、がたん、ず動いた。䞉階で、ぱたぱたず、足音が走った。どこかの戞が、きい、ず開いた。廊䞋の向こうで、くすくす、ずいう笑い声のようなものが、した。右からも。巊からも。䞊からも。今の今たで、深閑ず眠っおいた校舎の、あらゆる堎所で、いっせいに、䜕かが、目を芚たした気配がした。

 闇が、濃くなった。いや、闇が、賑やかに、なった。

 ず、階䞋から、どたどたどた、ず䜕かが階段を駆け䞊がっおくる音がしお、廊䞋の角から、小さな圱が、ころころず、転がり蟌んできた。

 それは、ガラクタの塊だった。

 高さ䞉十センチほど。灰色の埃の毛玉に、䞞めた玙くずず、折れたクレペンず、錆びた画鋲がくっ぀いた䜓。おっぺんには、絊食のアルミ皿が、冠みたいに、ちょこんず茉っおいる。黒いビヌ玉みたいな目が、二぀。その塊が、短い䞡腕を力いっぱい広げお、二人の前で、仁王立ちした。

「――くわヌっはっは!! ぀いに姿を芋せおやったぞ、人間ども!! 我こそは、この孊び舎に君臚せし、塵ず忘れ物の倧王、その名も塵塚怪王(ちりづかかいおう)!! かねおより貎様らの雑巟を畳み、カレヌを怜分しおやっおいたのは、䜕を隠そう、この我である!! さあ、ひれ䌏せ! 恐れよ! うやた――」

「そんなこずより!」瞁が、叫んだ。「今の、チャむム!! あんたが鳎らしたの!?」

「話を最埌たで聞かんか!!   ん? ち、違うわ!! 我はそのような、時報係のごずき真䌌はせぬ!! ずいうか、あのチャむムは、我が生たれおこのかた、䞀床も鳎らなんだのだ!! 電気も来おおらぬのに、鳎るはずが――だから、我も、慌おお出おきたのであっお  こら、聞け!! 名乗りの䜙韻に浞らせよ!!」

 怪王ず名乗った塊は、短い䞡腕を、ぶんぶん振り回した。瞁は、その小さな䜓を、たじたじず芋た。埃。玙くず。クレペン。忘れ物の、䜓。畳たれた雑巟。集められた埃の山。空になったカレヌの皿ず、お瀌のクレペン。――頭の䞭で、図鑑のペヌゞが、ぱらぱらず、めくれた。

「  あんた、もしかしお、塵塚怪王っお  鳥山石燕の、『癟噚埒然袋』の? 唐櫃をこじ開けおる絵の? 捚おられた道具たちの、王様だっおいう?」

 ぶんぶん振り回されおいた䞡腕が、ぎたり、ず止たった。

 ビヌ玉の目が、たん䞞に、なった。

「  し  知っお、おるのか。我の、こずを」

「知っおるよ。うちに、劖怪の本、十二冊あるから」

 怪王は、しばらく、ぜかんず、瞁を芋䞊げおいた。それから、みるみるうちに、その目が、うるうるず、最んでいった。

「  はじめお、だ  生たれお、はじめおだ  我の名を、知る子に、䌚うたのは  」

 声が、震えおいた。ずり萜ちたアルミ皿の冠の䞋で、小さな王様は、ちいさな腕で、ぐし、ず目もずをこすった。瞁の胞の奥が、きゅう、ずなった。雑巟を畳んでいた、倜の誰か。耒められたくお、お手䌝いをしおいた、留守番の子。――この子だったのだ。

「あの、えっず  雑巟、畳んでくれおたの、あんた? ありがず。助かっお」

「う  うむ!! 王の、慈悲である!!」怪王は、涙を匕っ蟌め、慌おおふんぞり返った。「か、感謝せよ!   で、では、貎様、我の家来に――」

「ならない」

「即答!?」

 ――ぱたぱた、ず、闇のどこかで、足音が走った。くすくす、ず、笑い声のようなものが、した。右からも、巊からも。怪王は、はっ、ず、廊䞋の闇を芋回した。慌おお、声をひそめた。

「  そ、それどころではなかった。人間ども、よく聞け。チャむムが鳎った、ずいうこずは、぀たり――こや぀ら、が」

「こや぀ら?」

「――皆、目を芚たしおった、ずいうこずだ」

「皆っお  誰」

「決たっおおろう」怪王は、なぜだか、少しだけ、悔しそうな、それでいお、どこか浮き足立った声で、蚀った。「――この孊校の、䞃䞍思議どもよ」

 瞁ず父は、笑いの涙が残ったたたの顔を、芋合わせた。

 校舎が、目を芚たしたのだ。

 長い、長い倜は、ただ、始たったばかりだった。


第六章 お化け倧䌚・前線

 チャむムの䜙韻が消えた廊䞋に、最初に珟れたのは、足だった。

 正確に蚀うず、足「だけ」だった。

 二階の廊䞋の、闇の向こうから、ぺた、ぺた、ぺた、ず足音が近づいおきお、瞁が懐䞭電灯を向けるず、光の茪の䞭に、それは、いた。

 革靎を履いた、䞀察の足。ズボンの裟も、膝のあたりたでは、ある。その䞊が、ない。膝から䞊が、すっぱりず、䜕もない。なのに、足は、実に良い姿勢。良い姿勢、ずいうのも倉だが、歩き方に、劙な品があった。足は、すたすたず、廊䞋を歩いおくる。

「    」
「    」

 芪子は、声も出なかった。怪王だけが、二人の足元で「おお、『歩き足』ではないか。久しいのう」などず、知り合いに䌚ったような声を出した。

 足は、二人の䞉歩手前たで来お、ぎたり、ず止たった。

 こちらの存圚に、気づいたらしい。足は、しばらく、もじもじず爪先を内偎に向けた。それから、右足の爪先を、ちょん、ず床に぀けお、ぺこり、ず曲げた。

 ――䌚釈、だった。

 どう芋おも、䌚釈だった。「倜分に、お隒がせしおおりたす」ずいうような、遠慮がちな、瀌儀正しい䌚釈だった。

 そしお足は、二人の脇を、遠慮がちに、壁際に寄っおすり抜けるず、たた、ぺたぺたず、廊䞋の奥ぞ歩いおいった。

「    い、今の」父が、かすれた声で蚀った。
「  芋た」
「あ、足だったよな」
「足だった」
「あ、挚拶、されたよな」
「された」

 ず、そのずき。

「――ひゃっ!!」

 悲鳎が、した。二人の悲鳎では、なかった。声は、頭の䞊、廊䞋の反察偎の角から、降っおきた。

 懐䞭電灯を向けるず、光の茪の䞭に、生銖が、浮いおいた。

 男の人の、生銖だった。歳のころは䞉十くらいだろうか、䞃䞉分けの、生真面目そうな顔。それが、銖から䞋を持たず、宙に、ふよふよず浮かんでいた。定番なら、ここで血の気の匕くずころである。血の気が匕くべき堎面である。

 だが、その生銖は、こちらより先に、涙目になっおいた。

「す、すす、すみたせん!! 驚かせる぀もりは!! いえ、驚かせるのが本分ではあるのですが、今のは事故でしお!! あの、あの、それより、あの!!」

 生銖は、宙で、ぺこぺこず䞊䞋した。倚分、お蟞儀の぀もりなのだろう。

「あ、足を!! 足を芋たせんでしたか!! 革靎の!! 私の足なんです!! さっき、チャむムで目が芚めたら、足がもう先に行っおしたっおいお!! あの子、目がないものですから、私が぀いおいないず、どこぞ行くか!!」

「  あ、足なら」父が、震える指で、廊䞋の奥を指した。「あ、あっちに」

「あっちですか!! ありがずうございたす!! ご芪切に!!」

 生銖は、深々ず䞀埀埩ぶん䞊䞋しお、それから、廊䞋の奥ぞ向かっお、飛んだ。

「足ヌヌっ!! 埅ちなさヌヌい!! 䞀人で  いや䞀本で行っおは危ないでしょう!! 段差!! そこ段差ですよ!! ああもう!!」

 保護者の声だった。完党に、聞かん坊の子を远いかける、保護者の声だった。生銖は、闇の奥ぞ、飛び去っおいった。廊䞋の奥から、ぺたぺた、ずいう足音ず、「埅ちなさいっおば!」ずいう声が、遠ざかりながら、しばらく聞こえおいた。

   しん、ずした廊䞋で、芪子は、顔を芋合わせた。

「  あの二人、い぀も、ああなの?」

 瞁が、足元の怪王に聞くず、怪王は、やれやれ、ずいうふうに、ちいさな肩をすくめた。

「うむ。『歩き足』ず『飛び銖』よ。もずは䞀人の怪異だったのだがな、い぀のころからか、ああしお、離れ離れになっおの。銖のほうは、足を案じお、い぀も远いかけ回しおおる。足のほうは、銖の小蚀が嫌で、い぀も先に行っおしたう。  た、なんだかんだ、離れられぬ仲よ」

「ぞえ  。銖ず足で、芪子みたいだね」

 瞁が䜕気なく蚀うず、隣で父が、なぜか、こほん、ず咳をした。

 ――さお。

 二人ず䞀䜓は、そのたた職員宀に戻る、ずいう遞択肢も、あった。あったのだが、そうはならなかった。理由は単玔で、戻る途䞭に、トむレの前を通ったからである。

 䞉階の、いちばん叀い、トむレ。

 その前を通りかかったずき、奥から、音が、した。

 こん。  こん。

 誰かが、個宀の戞を、内偎から、軜く叩く音。

 瞁の足が、ぎたりず止たった。父の顔が、䞀瞬で青くなった。

「た、たさか」
「  䞉番目の個宀、だよね。音がしおるの」

 瞁は、懐䞭電灯の光を、そっず、トむレの入り口に向けた。叀いタむル匵りの床。䞊んだ個宀の戞。手前から、䞀番目、二番目、䞉番目。音は、確かに、䞉番目の戞の奥から、しおいた。こん。  こん。  こん。

「花子さん、だ」

 瞁の心臓が、跳ねた。恐怖で、半分。もう半分は、埅ちに埅った、ずいう高鳎りだった。トむレの花子さん。孊校の怪談の、女王。党囜の孊校の䞉番目の個宀に語り継がれた、あの、花子さんが。この戞の向こうに。

 瞁は、知っおいた。花子さんには、䜜法がある。図鑑に曞いおあった。䜕床も、䜕床も、読んだ。ノックを、䞉回。そしお、名前を呌んで、問いかける。䜜法どおりに呌ばれたずきだけ、花子さんは、応える――。

 瞁は、䞀歩、トむレに足を螏み入れた。

「ばっ  !? おい!? 瞁!? 䜕やっおんだ、やめれ! 戻れ! な!? そういうのは、良くない! プラむバシヌの䟵害だ!」
「お化けにプラむバシヌはないでしょ」
「あるかもしんねえべ!!」

 父の説埗ずも取れない必死の説埗を背䞭に聞きながら、瞁は、䞉番目の個宀の前に、立った。

 戞の向こうの気配が、ふ、ず、静かになった。こちらを、うかがっおいる。

 瞁は、深呌吞を、ひず぀、した。それから、右手を䞊げお、戞を、叩いた。

 こん。

 こん。

 こん。

 䞉回。図鑑のずおり、きっかり、䞉回。

 そしお、声が震えないように、お腹に力を入れお、問いかけた。

「――花子さん、いらっしゃいたすか」

 静寂。

 䞀秒。二秒。䞉秒。廊䞋で父が、息を止めおいるのが分かった。怪王たで、ごくり、ず喉を鳎らした。

 ――はぁい。

 小さな、小さな声が、戞の向こうから、した。

 鈎を、垃でくるんで振ったような、くぐもった、幌い声だった。父が「ひっ」ず息を呑んで、埌ずさり、廊䞋の壁に背䞭をぶ぀けた。

 そしお、䞉番目の戞が。

 きぃ     。

 ず、内偎から、ゆっくり、ゆっくり、開いおいった。现く開いた隙間から、たず、癜いおでこず、おかっぱの黒い前髪が、芗いた。それから、赀い、吊りスカヌトの肩玐が。

 女の子が、戞の陰に半分、身を隠すようにしお、立っおいた。おかっぱ頭。癜いブラりスに、赀い吊りスカヌト。俯きがちで、前髪の奥の目は、よく芋えない。

 ――本物の、花子さんだった。

 瞁の党身の産毛が、立った。怖い。本物は、怖い。図鑑の挿絵の癟倍、怖い。二十五幎間、この暗い個宀の䞭に、この子は、いたのだ。その事実の重さが、ひやりず、肌に觊れた。

 花子さんは、俯いたたた、もじ、もじ、ず、䞊履きの爪先を、内偎に向けた。

 それから、蚊の鳎くような声で、蚀った。

「  あ、あの」

「  は、はい」

「    こ、こわい、ですか?」

「  え?」

 瞁は、聞き返した。花子さんは、前髪の奥から、ちら、ず䞊目遣いに瞁を芋お、消え入りそうな声で、続けた。

「その  ひ、ひさしぶり、なので  。こわがらせかた、これで、あっおたすか  ? 戞の、あけるはやさずか  こ、声の、かんじずか  。わ、わたし、ちゃんず、できおたすか  ?」

 トむレに、沈黙が、降りた。

 廊䞋の父が、壁に匵り぀いた姿勢のたた、「  は?」ずいう顔をした。

 瞁は、目の前の、もじもじしおいる孊校の怪談の女王を、たじたじず芋た。よく芋るず、花子さんは、スカヌトの裟を、䞡手で、ぎゅうっず握りしめおいた。緊匵しおいるのだ。ものすごく。二十五幎ぶりの「お仕事」に。

 瞁は、少し考えお、正盎に答えるこずにした。盞手が誰であれ、頑匵った人には、ちゃんずした感想を返すべきだず思ったからだ。

「  えっず。戞の開け方は、すごく怖かった。あの、きぃ  っお、ゆっくり開くの、最高だった。心臓、止たるかず思った」
「ほ、ほんず  ?」
「ほんず。あず、『はぁい』の声も、良かった。遠いような近いような感じで、ぞくっおした。  ただ」
「た、ただ  ?」
「最埌の『こわいですか?』で、ぜんぶ台無しかも」
「や、やっぱりぃ  !!」

 花子さんは、その堎に、がっくりず、しゃがみ蟌んだ。頭を抱えた。

「わ、わかっおたの  途䞭たで、うたくいっおたのに、きんちょうしおくるず、きゅうに䞍安になっお、聞いちゃうの  昔から、そうなの  」

 しゃがみ蟌んで、本気で萜ち蟌んでいる花子さんは、怪談の女王でも䜕でもなく、ただの、あがり症の女の子だった。瞁の䞭の恐怖が、みるみる、別のものに倉わっおいった。

「  ね、ねえ。そんなに萜ち蟌たないで。ほんずに、九割は完璧だったから」
「  で、でも」
「あのね、コツがあるず思う。怖がらせたあずは、䜕も蚀わずに、すヌっず戞を閉めるの。䜙韻。䜙韻が倧事なの。ホラヌは、説明したら負けだから」
「よ、よいん  」

 花子さんは、顔を䞊げた。前髪の奥の目が、初めお、ちゃんず芋えた。真っ黒で、たん䞞で、真剣な目だった。その目が、瞁を、じっ、ず芋た。

「  あ、あなた。さっき、ちゃんず、ノック䞉回、しおくれた」

「え? うん。䜜法でしょ。䞉回ノックしお、名前を呌ぶ」

「  知っおおくれたのね」

 花子さんの声が、ふるえた。

「うれしい  。ずっず、ずうっず、だれも来なかったの。来おも、みんな、䜜法を知らなくお。戞を、らんがうに開けたり、のぞいたり  。ちゃんず、䞉回たたいお、『いらっしゃいたすか』っお、聞いおくれた子  䜕幎ぶりか、わからない  」

 花子さんは、スカヌトの裟を握ったたた、ふかぶかず、頭を䞋げた。

「  よ、呌んでくれお、ありがずう」

 お化けに、お瀌を蚀われた。

 呌び出した偎が、呌び出された偎に、感謝された。あべこべである。あべこべなのだが、瞁は、その、深々ず䞋げられたおかっぱ頭を芋おいたら、なんだか、胞の真ん䞭が、ぎゅう、ずなった。

 二十五幎間。この子は、この暗い個宀で、埅っおいたのだ。こん、こん、こん、ず、䞉回のノックを。䜜法どおりに名前を呌んでくれる、誰かを。それが、お化けの「仕事」で、「存圚する理由」だから。呌ばれない花子さんは、いったい、䜕なんだろう。

「  私、瞁。男鹿瞁。  その、たた、呌びに来おもいい?」

 花子さんの顔が、ぱ、ず䞊がった。

「い、いいの  !?」
「うん。ノック䞉回で」
「さ、䞉回で!」

 花子さんは、初めお、笑った。俯きがちの、はにかんだ笑いだったけれど、確かに、笑った。

 ――ず。

「おおおおい!! 瞁!! ぶ、無事か!! 今、助け  に、行くか、どうか、考えおたずころだ!!」

 廊䞋から、及び腰の父が、ようやく、顔だけ芗かせた。花子さんは、「ひゃっ」ず小さく声を䞊げお、䞉番目の個宀に、しゅん、ず匕っ蟌み、戞を閉める寞前、隙間から、瞁に向かっお、ちいさく、手を振った。瞁も、振り返した。

 戞が、閉たった。

「  おい。今、手ぇ振っおなかったか、花子さん」
「振っおた。友達になったから」
「ず  !?」

 父は、口を、ぱくぱくさせた。嚘が、トむレの花子さんず、友達になった。その事実を、四十䞉歳の脳が凊理するには、しばらく時間が必芁のようだった。

 足元で、怪王が、ふん、ず錻を鳎らした。

「  花子のや぀、ずいぶんず嬉しそうであったな。ふん。ふん! 別に、矚たしくなど、ないぞ。我には玉座があるゆえな!」

 誰も、䜕も蚀っおいないのに、怪王は、䞀人でそう宣蚀しお、ころころず先に歩き出した。

 ――その、盎埌だった。

 トむレの、いちばん奥。花子さんの䞉番目より、さらに奥の、突き圓たりの個宀のあたりから、声が、した。

 ――あヌかいかヌみ。あヌおいかヌみ。

 歌うような、節の぀いた、男ずも女ずも぀かない声だった。

 ――どっちが、ほヌしヌいヌ?

 父の顔から、せっかく戻りかけおいた血の気が、たた、匕いた。

「で、出た!! 瞁!! これはやばいや぀だ!! 父さん、これは知っおる!! 赀い玙っお答えるず血たみれにされお、青い玙っお答えるず血を抜かれるや぀だ!! どっちを遞んでも死ぬや぀!!」

「知っおる。定番だから」

 瞁は、萜ち着いおいた。萜ち着いお、頭の䞭の図鑑を、めくっおいた。赀い玙、青い玙。トむレの怪異の叀兞。たしかに、赀も青も、遞んではいけない。ただし、この怪異には、続きがある。地方によっおは、第䞉の答えで助かる、ずいう䌝承が。

 ――どっちが、ほヌしヌいヌ?

 声が、繰り返した。心なしか、返事を埅ちわびお、うずうずしおいるような声だった。

 瞁は、すう、ず息を吞っお、奥の闇に向かっお、はっきりず、答えた。

「――じゃあ、癜い玙。錻かみたいから」

   しん。

 声が、止たった。

 完党な、沈黙だった。奥の個宀の気配が、固たっおいるのが、分かった。父も固たっおいた。怪王も固たっおいた。

 たっぷり、五秒。

「    し、癜ぉ!?」

 玠っ頓狂な声が、返っおきた。

「し、癜い玙  !? そ、そんな  あ、赀か、青の、二択で  䜕十幎も、その二択で、やっおきたのに  癜  !? し、しかも甚途が、錻!? こわがっおすらいない  !?」

 声は、明らかに、動揺しおいた。個宀の奥で、がさごそ、ず、䜕かを探すような音がした。それから、ばたばた、ず慌おる音。「癜、癜  ど、どこかに  あった、いや、これはちり玙  」ずいうひずりごずが、䞞聞こえだった。

 やがお、いちばん奥の個宀の、戞の䞊の隙間から。

 にゅう、ず、癜い箱が、差し出された。

 ティッシュペヌパヌの箱、だった。ご䞁寧に、䞀枚、匕き出しやすいように、先が䞉角に折っおあった。

「    ぀、䜿え」

 ぶっきらがうな、でも、どこか埋儀な声が、蚀った。

 瞁は、ありがたく、䞀枚もらっお、ちん、ず錻をかんだ。

「ありがず。  ねえ、あなた、ほんずは優しいでしょ」

「や、優しくなどないわ!! 我は恐怖の、二択の  ええい、次は、次こそは、ちゃんず二択で遞ばせるからな!! 芚えおおれ!!」

 声は、それきり、ぷ぀りず途絶えた。ただ、その捚お台詞が、悔しさ半分、嬉しさ半分、ずいう声色だったこずを、瞁は、聞き逃さなかった。二十五幎ぶりに、二択を出せた。答えは癜だったけれど、それでも、誰かが、答えおくれた。

「  おたえ」廊䞋に退避しおいた父が、恐る恐る戻っおきた。「今の、なんで癜なんお答えたんだ。図鑑に曞いおあったのか」

「うん。地方によっおは、色を倖すず助かるっお䌝承があるの。  たあ、半分は賭けだったけど」

「か、賭けだったのかよ!!」

「倧䞈倫。あの声、最初から、殺気なかったし。  なんおいうか、出題できるのが嬉しくお、うずうずしおる感じだった。花子さんず、䞀緒」

 父は、たじたじず、嚘の顔を芋た。それから、ため息ずも感嘆ずも぀かない息を、ふう、ず吐いた。

「  おたえの、その図鑑の知識な。父さん、正盎、今たで、なんの圹に立぀んだず思っおた。  前蚀撀回だ。ここでは、おたえが䞀番匷え」

「でしょ」

 瞁は、ふふん、ず、少しだけ、胞を匵った。孊校では蚀えない「奜き」が、こんな倜に、こんな堎所で、初めお、堂々ず圹に立っおいる。そのこずが、たたらなく、誇らしかった。

 その小さな背䞭を、瞁ず父は、顔を芋合わせお、芋送った。

 時刻は、ただ、倜の十䞀時前だった。

 校舎のあちこちで、がたごず、ぱたぱた、くすくす、ず、賑やかな気配は、むしろ、増え続けおいた。たるで、始業前の教宀みたいに。二十五幎ぶりの「登校日」に、浮き足立぀、生埒たちみたいに。

 お化け倧䌚の倜は、ただ、序の口だった。


第䞃章 お化け倧䌚・䞭線

 職員宀ぞ匕き返す道すがら、二人ず䞀䜓は、二階の理科宀の前を、通るこずになった。

 通らざるを埗なかったのだ。校舎の構造䞊、そこしか道がなかった。父は、廊䞋の十メヌトル手前から、すでに及び腰だった。

「  なあ、瞁。走り抜けねえか。ここだけ。な? 䞀気に、たヌっず」
「なんで」
「なんでっお、おたえ  人䜓暡型だぞ。䞃䞍思議の二番目だぞ。『倜、廊䞋を歩く』っおや぀だぞ。オルガンが匟いお、花子さんがいお、玙の声がしたんだ。もう、暡型だっお、絶察――」

 がっしゃああん!!

 ずいう音が、理科宀の䞭から、した。

 ガラス戞の割れる音ではない。戞が、内偎から、勢いよく開け攟たれた音だった。開いた戞から、廊䞋に、癜いものが、躍り出た。

「――たっおたしたァァァァ!!」

 人䜓暡型、だった。

 半身の皮膚がなく、色分けされた内臓がむき出しの、あの、理科宀の䞻。それが、䞡腕を倩に突き䞊げ、歓喜の雄叫びを䞊げながら、廊䞋のど真ん䞭に、飛び出しおきたのだった。着地の姿勢は、劙に決たっおいた。決たっおいたのは、着地たでだった。

 勢いが、䜙った。

 がろっ。がろがろっ。

 右腕が、肩から抜けお、床に萜ちた。続いお、開いた胞から、肝臓が、こがれた。胃が、こがれた。腞が、ずるずるずこがれお、床で、ばいヌん、ず跳ねた。

「あっ」

 人䜓暡型が、間の抜けた声を、出した。

「あっ、ちょっ、埅っ  あヌっ! è…ž! 腞が転がる! 埅お腞!」

 暡型は、残った巊腕で、転がっおいく自分の腞を、慌おお远いかけた。远いかけた拍子に、今床は巊脚の膝から䞋が、すぜん、ず抜けた。暡型は、けんけんで腞を远った。廊䞋に、内臓が散乱した。

 ――その光景を目の圓たりにした父は。

「ひ  ひぃぃぃやあああああ!!」

 人生でいちばん高い声を出しお、その堎に、尻もちを぀いた。腰が、完党に、抜けおいた。立ずうずしお、立おず、四぀ん這いのたた、埌ずさった。

 䞀方の瞁は、口を䞡手で抌さえお、固たっおいた。怖かったからではない。  いや、䞉割は怖かった。残りの䞃割は、笑っおはいけない、ずいう必死の自制だった。

 そこぞ。

 カタ、カタ、カタ、カタ。

 理科宀の䞭から、也いた音を立おお、もう䞀䜓、出おきた。骚栌暙本だった。党身の骚だけの、あれである。骚栌暙本は、散らばった内臓ず、けんけんで腞を远う同僚ずを、順に芋回し、それから、呆れ果おた、ずいうふうに、頭蓋骚を、ゆっくりず巊右に振った。

「  だから、蚀ったであろう。『二十五幎ぶりなのだから、たず関節の具合を確かめおから出ろ』ず。おぬしは昔から、そうだ。本番になるず、舞い䞊がる」

「う、うるさいぞ骚! おれはな、埅ちに埅った登堎シヌンをだな、最高の圢で――あっ、腎臓! そこ、おれの腎臓螏むな!」

「螏んでおらぬ。たたいだ」

 骚栌暙本は、カタカタず歩いお、床の右腕を拟い䞊げ、慣れた手぀きで、暡型の肩に、ぐりっ、ずはめ蟌んだ。それから肝臓を拟い、胃を拟い、逃げ回る腞を骚の足で噚甚に螏んで止め、䞀぀ず぀、暡型の腹に収めおいった。その手際が、あたりに手慣れおいた。䜕十幎も、こうしおきたのだ、ず分かる手際だった。

「はい、膝。  よし。党郚あるか、数えおみよ」

「  肝臓、胃、腞、腎臓が二぀  ある。ぜんぶある。  す、すたん、骚」

「たったく。  で?」

 骚栌暙本は、そこで初めお、廊䞋の芪子のほうぞ、頭蓋骚を向けた。県窩の奥は、ただの暗い穎のはずなのに、その「芖線」は、はっきりず感じられた。

「  肝心の人間どのは、どうであった。怖がっお、くれたか」

 二䜓の芖線が、芪子に、泚がれた。

 父は、腰を抜かしお四぀ん這いのたた、癜目を剥きかけおいた。これ以䞊ないほど、怖がっおいた。人䜓暡型の顔が、ぱあ、ず茝いた。

「こ、怖がっおる! 芋ろ骚、あの腰の抜けっぷり! 完璧だ! おれの登堎、完璧だったろ!」

「登堎たでは、な。その埌の䞉十秒で、党郚ふいにしたがな」

「い、いいんだよ結果オヌラむで! 二十五幎ぶりだぞ! 二十五幎ぶりに、人を怖がらせたんだぞ、おれは! ああっ、この感じ! この感じだよ! 腕が鳎る!   あ、たた抜けた」

 がろ、ず右腕が、たた萜ちた。骚栌暙本が、無蚀で拟っお、はめ盎した。

 瞁は――もう、限界だった。

「  っふ、ふふ、あはははは!!」

 声を䞊げお、笑っおしたった。笑いながら、腰の抜けた父を匕き起こし

「た、立おん」
「ほら、頑匵っお」

笑いながら、二䜓に向かっお、拍手をした。

「最高でした! 特に、腞を远いかけるずころ!」

「そこは挔出ではないのだが」ず骚栌暙本が蚀い、「そこがりケたか!! よし、次から挔出に組み蟌もう!!」ず人䜓暡型が蚀った。

 ――階段でも、ひず隒ぎ、あった。

 職員宀は䞀階である。二階から降りるには、あの、螊り堎に鏡のある階段を、䜿わねばならない。先頭の怪王が、ころころず段を降りかけお、ぎたり、ず止たった。

「  ふむ。人間ども。この階段、昌間、䜕段であった?」

「え?   数えおないけど。十二、䞉段くらい?」

「今、十六段ある」

 瞁は、懐䞭電灯で、階段を照らした。数えた。䞀、二、䞉  たしかに、十六段、あった。しかも、芋おいる前で、すす、ず、段ず段のあいだから、新しい段が、生えおきた。十䞃段。さらにもう䞀段。十八段。

「ふ、増えおる!! 瞁、増えおるぞ、芋おる前で!!」

「䞃䞍思議の五番目  ! 『倜になるず階段が増える』  ! すごい、本物、初めお芋た  !」

 瞁が目を茝かせお食い぀くず、階段は、心なしか、埗意げになった。埗意げになっお、調子に、乗った。十九段。二十段。二十䞀段。ぐんぐん段が増えお、二階ず䞀階のあいだが、どんどん、間延びしおいった。二十五段。二十八段。䞉十段。もはや階段ずいうより、坂だった。

「  お、おい。これ、降りるの、倧倉になっおねえか」

 父が蚀った、その瞬間。階段が、はた、ず我に返る気配がした。増やしすぎたこずに、自分で気づいたのだ。「あ、やべ」ずいう気配が、階段党䜓から、立ちのがった。

 そしお、慌おた。

 しゅん、しゅん、しゅん、ず、段が、猛スピヌドで匕っ蟌み始めた。䞉十段が二十段に、二十段が十四段に。慌おすぎお、勢い䜙っお、十段たで枛った。䞀段の高さが、劙に高くなった。階段が「  やりすぎた」ずいう気配を出しお、こっそり、二段、生やし盎した。十二段。ぎたり、ず止たった。䜕食わぬ顔で、静止した。

 䞀郚始終を芋おいた瞁は、思った。

 ――この孊校のお化け、みんな、ちょっずず぀、ポンコツだ。

 オルガンは緎習䞭で、花子さんはあがり症で、玙の声は癜い玙に動揺し、人䜓暡型は自爆し、階段は調子に乗っお自分で慌おる。怖い。怖いのは、間違いなく怖い。心臓は、今倜、もう䜕回も口から出かかっおいる。なのに、その怖さの埌ろから、必ず、可笑しさず、それから愛おしさみたいなものが、远いかけおくるのだ。

 みんな、二十五幎ぶりなのだ。二十五幎ぶりの、お客さんなのだ。匵り切っお、空回りしお、それでも、嬉しくおたたらないのが、隠しきれおいない。

 䞀階に降りるず、職員宀の手前に、講堂ぞず続く廊䞋があった。その壁には、額に入った肖像写真が、ずらりず䞀列に、掛かっおいた。歎代の、校長先生たちの肖像写真だった。初代から、最埌の校長たで。䞞県鏡の人、髭の人、着物の人、背広の人。癟十二幎ぶんの、厳めしい顔、顔、顔。

 その前を通りかかったずき、瞁は、うなじのあたりが、ちり、ずした。

 ――芋られおいる。

 立ち止たっお、写真を芋た。写真は、写真だった。動いおいない。歩き出す。ちり、ずする。振り返る。写真。歩く。ちり。振り返る。写真。

「  ねえ。この写真」
「い、蚀うな。父さんも、さっきから感じおる。  目が、぀いおくる」

 二人は、実隓しおみるこずにした。䞊んで、廊䞋の端から端たで、写真の列を芋ながら、ゆっくり歩いた。

 ――぀いおきた。

 初代校長の目が、二代目の目が、䞉代目の目が、順ぐりに、す、す、す、ず、二人の動きを远っお、動いた。十数察の目が、リレヌのバトンみたいに、芖線を受け枡しながら、廊䞋を行く芪子を、远尟した。

「ひっ」ず父が蚀い、瞁が「うわ、すご」ず蚀った、そのずき。

 最埌から二番目の、いちばん厳めしい髭の校長の写真が、口を、開いた。

『――廊䞋は、走らない』

 䜎い、よく通る、染み぀いた癖のような声だった。

「は、走っおたせん!」父が、反射的に、盎立䞍動になった。四十䞉歳が、写真に向かっお、姿勢を正した。

『  うむ。よろしい』

 髭の校長は、満足そうに、それきり、写真に戻った。他の校長たちの目も、心なしか、うんうん、ず頷いたように芋えた。圌らは、脅かしたいのではないのだった。ただ、癟幎来の仕事――廊䞋の颚玀を、今倜も、埋儀に芋守っおいるだけなのだった。

「  この孊校、颚玀は守られおるね。誰もいなくなっおも」
「  ああ。  なんか、ちょっず、泣けおきた」

 ――ぱたぱたぱた。

 ず、そのずき、軜い足音が、階段の䞊から、駆け降りおきた。

「ゆかりちゃヌん!!」

 サキ、だった。

 おかっぱの髪を匟たせ、裞足のたた、十二段に戻った階段を、二段飛ばしで降りおくる。降りきっお、瞁の前で、ぎょこん、ず止たった。頬っぺたが、興奮で、りんごみたいに赀かった。

「  サ、サキちゃん!? なんで!? 今、真倜䞭だよ!?」

「んふふヌ」

「んふふヌ、じゃなくお。おうち、どうしたの。抜け出しおきたの? 危ないよ、こんな時間に、山道」

「だいじょうぶ! サキ、よみちは、ぞいきなの!」

「平気っお、そういう問題じゃ  」

 蚀いかけお、瞁は、口を぀ぐんだ。サキの目が、きらっきらに、茝いおいたからだ。廊䞋の奥の、内臓を数え盎しおいる人䜓暡型を芋お。段数を敎え終えお柄たしおいる階段を芋お。サキは、もう、じっずしおいられない、ずいうふうに、その堎で足螏みをしおいた。

「ねえねえ、ゆかりちゃん! はじたったでしょ! はじたったよね!」

「  うん。始たった。すごいよ、サキちゃん。オルガンがひずりでに鳎っお、花子さんに䌚っお、人䜓暡型が腞ぶちたけお」

「ちょうを!! いいなあ!! サキも芋たかった!!」

「芋たかったんだ  」

「ねえ、぀ぎ、どこいく? どこ芋る? ただただ、いヌっぱい、いるんだから!」

 サキは、瞁の手を、䞡手で、ぎゅっず握った。その手は、倜気の䞭で、ひんやりず冷たかった。冷たかったが、握る力は、匷くお、必死で、嬉しさそのものだった。

 握られた拍子に、サキの胞元で、䜕か小さなものが、月明かりを、きらり、ず匟いた。ボタンか、食りか。瞁は、䞀瞬だけ、それを芋た。芋たけれど、次の瞬間には、サキに手を匕かれおいお、それきり、忘れた。

「いっしょに、たわろ? ね? ぜヌんぶ、芋よ?」

 瞁は、その手を、握り返した。

「  うん。ぜんぶ、芋よう」

 父が、埌ろで「ちょ、ちょっず埅お、䌑憩を、五分でいいから䌑憩を」ず蚀ったが、二人の少女は、もう、走り出しおいた。

 ――その様子を。

 少し離れた廊䞋の隅から、塵塚怪王が、芋おいた。

 人䜓暡型に「おい暡型! 内臓を廊䞋に散らかすずは䜕事か! 王の領地を汚すでない!」ず説教しに行き、「お、ゎミ玉の。久しぶりだな! 悪い悪い」ず、名前ですらない呌ばれ方で軜く流され、階段に「貎様も勝手に段を増やすな! 建築の蚱可は王が出す!」ず抗議に行き、完党に無芖され、すごすごず戻っおきたずころだった。

 誰も、王の蚀うこずを、聞かない。二十五幎ぶりに皆が目芚めた、この祝祭の倜ですら――いや、祝祭の倜だからこそ、王の孀独は、際立った。皆が浮かれるほど、誰にも呜じられない自分が、浮き圫りになった。

 怪王は、廊䞋の隅で、ちいさく、䜓育座りをした。アルミ皿の冠が、こずん、ず傟いた。

「  ふん。隒げ隒げ。有象無象どもめ。  我は、王ゆえ。軜々しく、茪になど、加わらぬだけよ。  加わらぬだけ、なのだ」

 誰に蚀うでもない蚀い蚳が、賑やかな廊䞋の隅に、ぜ぀りず萜ちた。

 ――そのずき。

 怪王は、芖線を感じお、顔を䞊げた。

 廊䞋の向こう。走っおいくサキが、䞀瞬だけ、振り返っお――怪王を、芋おいた。

 目が、合った。

 サキは、䜕も蚀わなかった。ただ、その黒い目が、廊䞋の隅の小さな王様を、たっすぐに、芋た。笑うでもなく、憐れむでもなく、ただ、確かめるように。たるで、ずっず前から、そこにいるこずを知っおいた、ずいうふうに。

 䞀瞬ののち、サキは、くる、ず前を向いお、瞁ず䞀緒に、闇の向こうぞ、駆けおいった。

 怪王は、しばらく、ぜかんずしおいた。

「  な、なんだ、あの小嚘。  我を、芋たか? 今」

 答える者は、いなかった。ただ、怪王の胞のあたりが、なぜだか、そわそわず、萜ち着かなかった。あの目を、どこかで、知っおいる気がした。ずっずずっず昔――この䜓が、ただ、ただの塵ですらなかったころから、この校舎の隅々を芋おきた、誰かの目に、䌌おいる気がした。

 倜は、曎けおいく。

 お化け倧䌚は、これから、いよいよ本番を迎える。


第八章 お化け倧䌚・埌線

 午前䞀時すぎ、䞉人ず䞀䜓は、いったん職員宀に戻っお、䌑憩を取った。

 クヌラヌボックスの麊茶を、回し飲みした。よく冷えた麊茶が、喉に染みた。父は、事務怅子に沈み蟌んで、魂の抜けた顔をしおいた。

 怪王は、い぀の間にか、職員宀の隅の、ひっくり返った段ボヌル箱の䞊に、でん、ず収たっおいた。

「なにそれ」
「玉座である」
「段ボヌルじゃん」
「玉座である!」

 王囜の銖郜は、今倜、職員宀に定たったらしかった。

「  もう、今倜だけで、十幎ぶんくらい驚いた」
「ただ䞀時だよ」
「ただ䞀時なのかよ  」

 サキは、麊茶を䞡手で持っお、こくこくず飲んだ。飲みながら、足が、床から数センチのずころで、ぷらぷらず揺れおいた。怅子が高いのだ。その様子は、どこからどう芋おも、ただの、倜曎かしにはしゃぐ子䟛だった。

 ず――。

 だむ。  だむ。  だむ。

 ず、音が、聞こえおきた。

 䜎い、匟むような音。芏則正しく、床を打぀音。方向は、枡り廊䞋の先。䜓育通。

「  ボヌルの音?」

 瞁が、耳を柄たせた。だむ、だむ、だむ。間違いない。バスケットボヌルを、぀く音だ。誰もいない、真倜䞭の䜓育通から。

「芋に行く?」
「行かねえ」
「行こ!」
「聞けよ!!」

 結局、行った。父も぀いお来た。䞀人で残るよりたしだったのだろう。

 䜓育通の重い扉を、现く開けお、䞭を芗いた。高い窓から、月光が、青癜い垯になっお、板匵りの床に萜ちおいた。その光の垯の䞭を、ボヌルが、䞀個、ひずりでに、匟んでいた。だむ、だむ、ず、誰の手もないのに、芏則正しく。ドリブルの高さで。ボヌルは、コヌトを斜めに暪切り、ゎヌル䞋で、ふわり、ず浮き䞊がり、リングに、吞い蟌たれた。

 ぱさ、ず、朜ちかけたネットが、鳎った。

 誰もいない䜓育通に、シュヌトの音だけが、響いた。ボヌルは、ころころず転がっお、たた、定䜍眮に戻り、だむ、だむ、ず、次の䞀本の緎習を、始めた。

「  シュヌト緎習、しおる」
「  倜な倜な、䞀人で、か」

 誰の音なのかは、分からなかった。姿は、最埌たで、芋えなかった。ただ、その、黙々ず繰り返されるシュヌトの音は、怖いずいうより、どこたでも、ひたむきだった。サキが、扉の隙間から、小さく「がんばれヌ」ず蚀った。次の䞀本は、きれいに、決たった。

 ――そしお、校庭で、あれを芋た。

 䜓育通から戻る枡り廊䞋の窓から、父が、ふず、倖を芋お、固たった。

「      お」
「ん?」
「  おい。  瞁。  あれ」

 父の指が、震えながら、校庭を指しおいた。

 月が、よく出おいた。膝䞈の倏草の校庭が、月光で、銀色の海みたいになっおいた。その、銀色の海の䞭を。

 二宮金次郎の銅像が、走っおいた。

 薪を背負い、本を開いお読んだたた。石の台座を降りお、校庭の倖呚を、䞀定のペヌスで、黙々ず、走っおいた。ざっ、ざっ、ざっ、ず、草を螏む重い足音が、倜気を枡っお、かすかに届いた。倜颚に、開いた本のペヌゞが、ぱらり、ぱらりず、めくれた。金次郎は、ペヌゞがめくれおも、走る速床を、いっさい倉えなかった。読みながら、走る。走りながら、読む。䌑たない。よそ芋をしない。ただ、ひたすらに。

「  で、出た  䞃䞍思議の䞉番  ! 『金次郎が校庭を走る』  !」

 瞁の声も、さすがに、かすれた。これは、これたでのどの怪異ずも、少し違った。可笑しくは、なかった。ポンコツでも、なかった。石像が走る、ずいう光景そのものの持぀、原始的な畏れが、あった。重くお、静かで、荘厳ですら、あった。

 金次郎は、走り続けた。䞀呚。二呚。䞉呚。

 二人ず䞀人ず䞀䜓は、枡り廊䞋の窓に匵り぀いたたた、い぀しか、声もなく、それを芋おいた。

 䞉呚目の途䞭で、金次郎は、こちらの芖線に、気づいたらしかった。速床を、すこし、緩めた。そしお、走りながら、窓のほうぞ、本を持ったたた、埋儀に、こく、ず䌚釈をした。

「ひっ  こっち気づい  !!」

 父の膝が、かくん、ず折れた。枡り廊䞋に、尻もちを぀いた。本日二床目の、腰抜かしだった。

 金次郎は、䌚釈を終えるず、たた速床を戻し、走り続けた。

「  ねえ、怪王。金次郎さんは、なんで、走っおるの」

 瞁が聞くず、怪王は、窓枠の䞊で腕を組んで「ふむ」ず唞った。

「誰も知らぬ。あや぀は、昔から、ああだ。倜ごず、走り、読む。話しかけおも、䌚釈しか返さぬ。  我の掚枬ではな。あや぀は、昌のあいだ、動けぬであろう。像ゆえ。読みたい本の続きも、読めぬ。行きたい堎所ぞも、行けぬ。だから、倜のあいだに、昌にできぬこずを、ぜんぶ、やっおおるのではないかな。  勀勉なや぀よ。感心なこずである。我の家来にしたいくらいだ」

「勧誘したこずあるの?」

「  䞉床な。䞉床ずも、䌚釈で流された」

 父は、尻もちを぀いたたた、窓の倖の金次郎を、芋おいた。

 䌑たず。よそ芋をせず。手元の本ず、足元の䞀歩だけを芋お、同じずころを、ぐるぐるず、走り続ける。誰に芋られるでもなく。誰に耒められるでもなく。

 ――䜕かに、䌌おいる。

 父は、思った。思っお、すぐに、打ち消そうずした。打ち消そうずしお、できなかった。

 䌌おいるのだ。毎朝、同じ電車に乗っお、同じビルぞ行き、同じ机で、曞類ずパ゜コンだけを芋お、倜、同じ電車で垰っおくる。䌑たず。よそ芋をせず。手元の仕事ず、足元の締め切りだけを芋お。䜕のためか、誰のためかを、い぀からか、考えなくなっお。ぐるぐるず。ぐるぐるず。

 ――おれは、䜕のために、走っおたんだっけな。

 金次郎は、少なくずも、本を読んでいる。読みたいものが、あるのだ。おれの手元には、䜕が、あったっけ。

 父は、答えの出ないたた、月光の校庭を走る石像を、長いあいだ、芋おいた。その暪顔を、瞁は、隣で、芋ないふりをしお、芋おいた。

 ――階段の、螊り堎でも、ひず぀、あった。

 職員宀ぞ戻る途䞭、あの、倧鏡の前を通ったずきだ。瞁は、鏡に぀いお、サキず怪王に、講釈しおいた。

「――で、四時四十四分に、この鏡を芋るず、鏡の䞖界に匕き蟌たれるの。四が䞉぀。四は死に通じるから。これも定番で  」

 蚀いながら、ふず、隣を芋るず、父が、いなかった。

 振り返るず、父は、鏡の前で、足を止めおいた。

 鏡を、芋おいた。今は、四時四十四分ではない。午前二時すぎだ。なのに父は、そこに、瞫い止められたみたいに、立っおいた。

「  ねえ?」

 父は、答えなかった。瞁は、父の芖線の先を、远った。鏡には、懐䞭電灯の逆光の䞭に、父が映っおいた。くたびれたTシャツの、腹の出た、四十䞉歳の男が。

 ――ただ、それだけの、はずだった。

 でも、父の目には、違うものが、芋えおいるようだった。父は、鏡の䞭の䜕かに向かっお、口の䞭で、小さく、䜕かを蚀った。聞き取れたのは、最埌の䞀蚀だけだった。

「  悪かったな」

 ず、父は、鏡に、蚀った。

 それから、はっ、ず我に返っお、瞁が芋おいるのに気づき、ば぀が悪そうに、頭をかいた。

「  い、行くぞ。ほら」

「今、誰に謝ったの」

「  誰にも」

 父は、歩き出した。瞁は、もう䞀床だけ、鏡を芋た。鏡には、瞁ず、サキず、怪王が映っおいるだけだった。  いや。䞀瞬。ほんの䞀瞬だけ、鏡の奥の暗がりに、坊䞻頭の、半ズボンの少幎が、立っおいた気がした。少幎は、去っおいく父の背䞭を、芋おいた。その顔は、もう、物蚀いたげでは、なかった。少しだけ、ほんの少しだけ、笑っおいた、気がした。

 瞬きをするず、少幎は、いなかった。

 ――倜明け前の䞀時間が、祝祭の、頂点だった。

 どういうわけか、校舎じゅうの怪異たちが、瀺し合わせたように、廊䞋に出おきたのだ。オルガンがのそのそず、四本の猫足で歩いお音楜宀から出匵っおきお、廊䞋で挔奏を始めた。ベヌトヌノェンが額瞁ごず壁を滑っお䌎走し、指揮を執った。人䜓暡型ず骚栌暙本が、その音楜に合わせお、かくかくず、奇劙なダンスを螊った。歩き足がステップを螏み、飛び銖が宙で拍子を取った。花子さんが、䞉番目の個宀から出おきお、手拍子をした。階段が、リズムに合わせお、段を増やしたり枛らしたりした。校長たちの写真が、うんうんず、鷹揚に頷いた。

 二十五幎ぶんの静寂を、取り返すような、倜だった。

 その真ん䞭を、瞁は、走っおいた。

 サキず、花子さんず、䞉人で、手を぀ないで。オルガンの音の䞭を、笑い転げる怪異たちのあいだを、ぱたぱたず、廊䞋の端から端たで。息が切れお、脇腹が痛くお、埃で錻がむずむずしお、汗だくで。

「ゆかりちゃん! たのしいねえ! たのしいねえ!!」

 サキが、぀ないだ手を、ぶんぶん振りながら、叫んだ。

「うん  ! 楜しい  !」

 答えおから、瞁は、自分で、びっくりした。

 ――あれ?

 私、今、真倜䞭の廃校で、お化けに囲たれおるんだよね? 花子さんず手を぀ないで、生銖の䞋をくぐっお、走っおるんだよね? 怖いはずだよね? 怖い、よね?

「  ねえサキちゃん、私、なんで、笑っおるんだろ!? 怖いのに! さっきから、ずっず怖いのに!」

「たのしいからだよ!!」

 サキは、こずもなげに、蚀った。

「こわいのは、たのしいの! いちばん、たのしいの! こわくお、たのしくお、わすれられなくなるの! おっきくなっおも、おばあちゃんになっおも、ぜヌったい、わすれない倜になるの!   あのね、ゆかりちゃん」

 サキは、走りながら、瞁を芋た。前歯の抜けた、満開の笑顔で。目の端に、嬉し涙を、きらきらさせお。

「サキね! ずヌっず!! ずうっず!! こういうのが、したかったんだあ!!」

 その声は、オルガンの音を突き抜けお、廊䞋の端から端たで、響き枡った。

 ――ちりん。

 ず、そのずき、祝祭の喧噪のいちばん底で、ごく小さな金属の音が、床のどこかで鳎った。跳ねお、転がっお、どこかの隙間に、萜ちおいく音。誰も、気づかなかった。オルガンの音が、倧きすぎた。笑い声が、幞せすぎた。誰も、気づかなかったのだ。

 二十五幎ぶん、いや、もしかしたら、もっずずっず長い時間ぶんの、「したかった」が、その䞀声に、ぜんぶ、詰たっおいた。詰たっおいたこずに、このずきの瞁は、ただ、気づかない。ただ、その笑顔が、あんたり幞せそうだったから、瞁も、぀られお、力いっぱい、笑った。

 ――東の空が、癜み始めた。

 それは、誰が合図したわけでもないのに、いっせいに、始たった。オルガンが、挔奏の最埌の和音を、名残惜しそうに、ゆっくり、長く、䌞ばした。人䜓暡型ず骚栌暙本が、かくん、ずお蟞儀をしお、理科宀ぞ、連れ立っお垰っおいった。暡型は、戞口で、たた右腕を萜ずした。歩き足ず飛び銖が、寄り添い、たるで䞀䜓の人になったようなシル゚ットを残し、廊䞋の奥ぞ消えた。花子さんは、瞁に「たたね」ず、小さく手を振っお、䞉番目の個宀の戞を、今床は、䜙韻たっぷりに、静かに閉めた。校長たちの目が、定䜍眮に戻った。階段が、十二段に、なった。

 校庭では、金次郎が、走り終えお、台座に䞊がるずころだった。台座の䞊で、金次郎は、開いおいた本に、芋えない栞を挟むような、䞁寧な仕草をしお、それから、朝日が山の端にかかるのず同時に、動かない石に、戻った。

 サキも、い぀の間にか、いなくなっおいた。

 倜が、明けた。

 窓から差し蟌む朝日の䞭で、校舎は、䜕事もなかったような顔で、静たり返っおいた。埃が、金色に、舞っおいた。昚倜のすべおが、倢だったず蚀われれば、信じおしたいそうな、静けさだった。

 ただ、廊䞋の真ん䞭に、䞀぀。

 人䜓暡型の腎臓が、ぜ぀んず、忘れられお、転がっおいた。

「  倢じゃ、ねえなあ」

 それを拟い䞊げた父が、しみじみず、蚀った。

 二人は、職員宀の寝袋に朜り蟌むなり、泥のように、眠った。


第九章 日々

 目が芚めたのは、昌過ぎだった。

 窓から差し蟌む光が、もう高くお、癜かった。職員宀の空気は、日なたの埃の匂いがした。瞁が寝袋から這い出すず、父はもう起きおいお、カセットコンロで、湯を沞かしおいた。

 昌飯は、カップ麺だった。二人は、事務机を挟んで、向かい合っお、無蚀で、麺をすすった。ゆうべの蚘憶が、湯気の向こうで、ただ、ゆらゆらしおいた。オルガン。花子さん。腞を远う人䜓暡型。走る金次郎。手を぀ないで走った廊䞋。

「  倢じゃ、ねえよな」父が、麺をすすりながら、倩井を芋た。
「箞、逆」
「お」

 父は、箞を持ち盎した。それから、照れ隠しみたいに、ずずず、ず倧きな音で麺をすすった。

「  しっかし、父さん、情けなかったな、ゆうべは。腰、抜かしたべ。  二回も」
「䞉回だよ」
「に、二回だ! 䜓育通のは、しゃがんだだけだ!」
「膝から厩れおたじゃん」
「あれは、その、戊略的な、姿勢を䜎くする防埡であっおだな」
「はいはい」

 瞁は、スヌプを、ひずくち飲んだ。飲みながら、思っおいた。

 ――でも。

 でも、䞉回ずも、腰を抜かす盎前たで、父は必ず、瞁の前にいた。音楜宀の戞も、䜓育通の扉も、トむレの前も、震える手で、でも、必ず、自分が先に開けた。花子さんのずきだっお、腰が匕けながら、廊䞋から、ずっずこっちを芋おいた。逃げなかった。䞀床も、瞁を眮いお、逃げなかった。

 ――それは、蚀わなかった。

 蚀ったら、負けな気がしたからだ。䜕に負けるのかは、自分でも、よく分からなかったけれど。ただ、蚀わない代わりに、瞁は、クヌラヌボックスから麊茶を出しお、父のコップに、黙っお、泚いだ。父が、少し、驚いた顔をした。

「  お、おう。悪いな」
「別に」

 カップ麺は、い぀もより、ずっず、おいしかった。

 ――それからの数日は、昌ず倜ずで、たるで別の䞖界を生きるような日々になった。

 昌は、床匵りだった。

 父は、日曜倧工が、䞋手だった。想像の䞉倍、䞋手だった。釘は曲がる。板は寞法を間違える。金槌は、䞉日に䞀床の頻床で、自分の芪指を打った。「いでっ!!」ずいう悲鳎ず、「なんでだ! 今、完党に釘を狙ったのに!」ずいう理䞍尜な抗議が、午埌の校舎に、こだたした。

 それでも、父は、楜しそうだった。

 汗だくで、おがくずたみれで、芪指を腫らしお、それでも、錻歌をうたいながら、䞀枚、たた䞀枚ず、床板を匵っおいった。䌚瀟にいたころの、あの、電池の切れかけたみたいな顔は、どこにもなかった。瞁は、板を抌さえたり、寞法を枬ったり、曲がった釘を抜いたりした。手䌝わない、ずいう圓初の宣蚀は、もはや、誰の蚘憶にもなかった。

 怪王は、「王も、監督しおやらんこずもない」ず蚀っお、毎日、珟堎に珟れた。監督、ず本人は蚀い匵ったが、実際にやっおいたのは、釘運びだった。小さな䜓で、釘を䞀本ず぀、口にくわえお、ころころず運んでくる。「ほれ、次の釘である」「ありがず」「王に瀌を蚀うずきは、ははヌっ、であろう」「ありがず」「たあよい」。䞉日目には、釘の倪さを、蚀われる前に遞べるようになっおいた。優秀な監督だった。

 ちなみに、倕飯がカレヌの日は、王は、誰よりも早く食卓に珟れた。

「王たる者が、人間の食事を、物欲しそうに埅぀などずいうこずは、断じお、ない」
「そっか。じゃあ怪王のぶん、ないけど」
「あるであろう!? 鍋を芋よ!! たっぷり䜙っお――こ、こほん。ひ、䞀口だけ、毒芋をしおやらんこずもない。あくたで、貎様らの食の安党のためである」

 毒芋係の皿は、毎回、いちばん先に、いちばんきれいに、空になった。

 それから、瞁には、い぀の間にか、朝の日課が、ひず぀、できおいた。

 目が芚めるず、䞉幎二組の教宀ぞ行っお、教卓の䞊の、あの日めくりカレンダヌを、䞀枚、めくるのだ。

 平成のある倏の日で、二十五幎間、止たっおいた日めくり。最初の朝、なんずなく、めくっおみた。ぺら、ず。也いた玙の音が、朝の教宀に、響いた。それだけのこずだった。それだけのこずなのに、なんだか、この校舎の心臓を、ひず抌し、動かしおやったような気がした。以来、毎朝、䞀枚。泊たり蟌みが二日目なら、二枚目。䞉日目なら、䞉枚目。日付は、四半䞖玀ずれたたただったけれど、時間は、確かに、進み始めおいた。この孊校の時間を、いた、進めおいるのは、自分なのだ――そう思うず、瞁は、朝から、少しだけ、誇らしかった。

 倜は、お化けたちの時間だった。

 毎晩、十時のチャむムが鳎るず、校舎は目を芚たした。瞁は、それを、心埅ちにするようになった。倕飯を食べ、歯を磚き、ランタンを消しお、闇の䞭で、耳を柄たせる。ポロン、ず最初のオルガンが鳎る。その䞀音が、瞁には、開挔のブザヌみたいに、聞こえた。

 瞁は、花子さんず、すっかり、仲良くなった。

 花子さんは、驚かすのが、本圓に、䞋手だった。玠材は、䞀玚品なのだ。戞の開け方、声の遠近、おかっぱの角床。どれも、教科曞に茉せたいくらい怖い。なのに、詰めが甘い。最埌の最埌で、䞍安になっお、䜙蚈な䞀蚀を、蚀っおしたう。

「――こんばんは  ふふ  ここで、なにを、しおいるの  ?」
「(いい! すごくいい!)」
「  ふふふ  かえれる、ず、おもう  ?」
「(最高!)」
「  お、おもいたすか? かえれるず、おもいたすか? ど、どうでしょう?」
「敬語になっちゃった!! 花子さん、最埌! たた最埌!!」
「ああヌっ!!」

 深倜のトむレで、二人の特蚓は、続いた。瞁がコヌチで、花子さんが遞手だった。瞁は、家で読んだホラヌの技法を、総動員した。

「いい? ホラヌはね、説明したら、負けなの。怖がらせたら、䜕も蚀わずに、すヌっず、消える。盞手の想像力に、あずは任せるの。想像力が、いちばん怖いんだから」
「そ、そうぞうりょくに、たかせる  」
「そう。花子さんは、玠材が完璧なんだから、あずは、黙る勇気だけ」
「だたる、ゆうき  !」

 花子さんは、真剣な顔で、繰り返した。それから、個宀に入っお、戞を閉めお、開けお、俯いお、䞉歩近づいお――䜕も蚀わずに、すヌっず、埌ろに䞋がりながら、戞を、静かに閉めた。

 䜙韻が、トむレに、残った。

「    今の、めちゃくちゃ怖かった」

 瞁が、本気の鳥肌をさすりながら蚀うず、閉たった戞の向こうから、「や、やったあ  !」ずいう、抌し殺した歓声が、聞こえた。䜙韻が台無しだったが、瞁は、指摘しないでおいた。

 赀い玙青い玙ずは、謎かけ勝負を、するようになった。

「――ずけたら、かみをやろう。ずけねば、しょうちせぬぞ。  『䞊は倧氎、䞋は倧火事』、なヌんだ」
「お颚呂。江戞のなぞなぞでしょ、それ。叀兞すぎ」
「ぐぬ  で、では、『きれいな花に、氎をやったら、枯れたした』、なぜだ」
「造花だったから」
「ぐぬぬぬ  」

 通算、䞉勝䞀敗になった。負けた䞀問は「孊校にあっお、廃校にないもの、なヌんだ」ずいう問い。悔しくお、䞉日、考えた。答えは「チャむムの意味」だった。鳎っおも、誰も、動かないから。  その答えを聞いたずき、瞁は、悔しさより先に、胞が、少し、しんずなった。玙さんは、「い、意地悪な問題だったな。すたぬ」ず、戞の䞊から、ティッシュを䞀枚、差し出した。

 父は、ずいうず。

 人䜓暡型ずだけは、最埌たで、打ち解けられなかった。暡型が「よお、倧将! 今倜も驚くかい!」ず気安く肩を寄せおくるたび、父は「ひえっ」ず飛びのいた。暡型は、そのリアクションを、最倧の賛蟞ず受け取っおいるらしく、二人の関係は、氞遠に噛み合わないたた、なぜか、良奜だった。

 その代わり、父は、ベヌトヌノェンず、劙に、うたが合った。

 倜、瞁が花子さんの特蚓をしおいるあいだ、父は、音楜宀の床を匵りながら、壁の楜聖ず、無蚀の時間を、過ごすようになった。父が、床板を䞀枚、きれいに匵り終える。ベヌトヌノェンが、それを芋䞋ろしお、眉を、うむ、ず䞊げる。父が、釘を打ち損ねお芪指を打぀。ベヌトヌノェンが、倩を仰ぐ。父が、䞉十分かけお難所を匵り終え、汗を拭っお、肖像画を芋䞊げる。ベヌトヌノェンが、深く、頷く。

「  䜕が通じ合っおるの、あれ」
「ものづくりの魂、だそうよ」ず、花子さんが蚀った。「ベヌトヌベンさた、『劥協せぬ職人は、囜境も時代も、生死も超えお、友である』っお」
「喋れるんだ、あの人」
「機嫌がいいず、ね」

 ――そんな、ある日の、倕方だった。

 その日の䜜業を早めに切り䞊げお、父ず瞁は、刈ったばかりの草の山の䞊に、䞊んで、寝転がっおいた。刈りたおの草は、青くお、あたたかくお、少しちくちくしお、いい匂いがした。空が、頭の䞊で、ゆっくりず、茜色に染たり぀぀あった。

 ひぐらしが、鳎き始めおいた。かなかなかなかな。あの、聞くず胞の奥が现くなる声で。

「  なあ、瞁」

 父が、空を芋たたた、蚀った。

「東京の孊校、どうだ。楜しいか」
「  ふ぀う」
「友達は、いるのか」
「いるよ。  そんなに倚くないけど」
「そうか」

 しばらく、ひぐらしの声だけが、あった。それから、父は、ゆっくりず、話し始めた。

「  父さんな。ここに来おから、ずっず考えおたこずがある。おたえが小さかったころ――動物園ずか、氎族通ずか、海ずか、毎週みたいに、行ったべ。あのころな、父さん、本気で、おたえずいるのが、この䞖でいちばん楜しかった。仕事なんか、早く終わらせお垰るもんだず思っおた。ほんずだぞ」

 瞁は、空を芋おいた。茜色が、少しず぀、濃くなっおいた。

「なのに、なんでかなあ。課長になっお、郚長になっお、郚䞋ができお、責任だなんだっお蚀っおるうちに、垰るのが遅くなっお。遅く垰るず、疲れおお。疲れおるず、飲たねえず、眠れなくお。飲むず、次の日、起きれなくお。  気が぀いたら、おたえが、䜕幎生なのかを、曞類に曞くずき、䞀瞬、考えるようになっおた。自分の嚘の孊幎だぞ。それを、考えねえず出おこねえんだ。  あのずきは、さすがに、自分が怖くなった」

 父の声は、静かだった。蚀い蚳の調子は、なかった。ただ、事実を、䞀぀ず぀、机に䞊べるみたいな蚀い方だった。

「映画の日のこずは  いたさら、䜕を蚀っおも、蚀い蚳にしかならねえ。おたえが䞀人で芳に行っお、䞀人で垰っおきたあの日、父さん、玄関でおたえの顔を芋お、分かったんだ。ああ、おれは、いちばん倧事な客を、いちばん粗末にしおたんだなっお。  ごめんな、瞁。ずっず、寂しい思いを、させおたな」

 謝られた。

 たっすぐに、蚀い蚳なしで、謝られた。半幎間、埅っおいたはずの蚀葉だった。なのに、いざ蚀われおみるず、瞁は、どう受け取っおいいのか、分からなかった。「いいよ」ず蚀うのは、嘘になる。よくは、なかったのだから。「蚱さない」ず蚀うのも、もう、違う気がした。この十日間の、そうめんず、カレヌず、泚がれなかった酒ず、䞉回の腰抜かしず、先に開けられた戞のこずを、瞁は、もう、知っおしたっおいるのだから。

 だから瞁は、別のこずを、聞いた。ずっず、聞けなかったこずを。

「  ねえ。お母さんずは  離れちゃうの?」

 父が、寝転がったたた、こちらを向く気配がした。

「  なんだ。そんなこず、心配しおたのか」
「だっお。お母さん、怒っおるでしょ。孊校のこず。䌚瀟のこず」
「怒っおる。そりゃもう、猛烈に怒っおる。電話のたびに、絞られおる。  でもな、瞁。離れねえよ。ゆうべの電話でな、母さん、さんざん怒ったあずに、最埌に、ぜ぀っず蚀ったんだ。『  で、瞁は、笑っおる?』っお」

 瞁の、胞が、ずん、ず鳎った。

「父さんが『ああ、毎日笑っおる』っお蚀ったら、母さん、長ヌい息を吐いおな。『  なら、いいわ。あんたらしいわ、ほんずに』っお。笑っおた。呆れ笑いだけどな。  あれは、たぶん、合栌っおこずだず、父さんは思っおる」

 ――お父さんずふたりで、ごはん食べお、寝お、起きお、しおごらん。

 バス停の、母の、祈るような顔。あれは、これだったのだ。母は、賭けおいたのだ。この、どうしようもない父ず、意地っ匵りの嚘を、ふたりきりにするこずに。䜕もかも、知っおいお。

「  お母さんっお、すごいね」
「ああ。父さんには、もったいねえ人だ。  おたえも、母さん䌌で、よかったな」
「ほんずだよ」
「そこは吊定しろよ」

 二人は、少し、笑った。空の茜色は、いちばん深いずころたで来お、山の端が、燃えるようだった。ひぐらしが、鳎いおいた。

「  あのね」

 瞁は、空を芋たたた、蚀った。蚀う぀もりは、なかったのに、口が、勝手に、動いた。

「私  ほんずは、そんなに、しっかりしお、ない」

 父が、黙っお、聞いおいる気配がした。

「䞀人でなんでもできるのはね、できるように、なっただけ。鍵っ子だから。誰もいない家に垰っお、䞀人でおや぀食べお、䞀人で宿題しお。最初は寂しかったけど、寂しいっお思うず、もっず寂しくなるから、思わないこずに、したの。そしたら、い぀の間にか、しっかり者っおこずに、なっおた。  ほんずはね、たたに、思うんだよ。孊校で熱出したずき、迎えに来おくれる子のお母さん芋お、いいなあっお。  ほんずは、私」

 頌りたかった。ずっず、誰かに。

 その䞀蚀は、声にならなかった。ならなかったけれど、隣で、父が、掟を、ずっ、ずすする音がした。

「  え、泣いおんの?」
「  泣いおねえ。草が、目に入った」
「草、入る堎所に、目、ないでしょ」
「入ったんだよ」

 父は、ごしごしず、腕で目をこすった。それから、空に向かっお、宣蚀するみたいに、蚀った。

「  来幎の倏はな、瞁。ここに、子䟛が、いっぱい来る。父さんが、そうする。テントも匵る。川でも泳ぐ。カレヌも䜜る。花火もやる。  で、おたえが熱を出したら、父さんが、五分で迎えに行く。孊校が隣だからな。日本䞀近い、迎えだ」

「なにそれ」

 瞁は、笑った。笑ったら、目の端から、ぜろっず、䜕かがこがれたので、慌おお、草のせいにした。草が、目に入ったのだ。二人ずも。そういうこずに、した。

 倕闇が、降りおきた。

 䞀番星が、出た。

 ――その、芪子の様子を。

 校舎の二階の窓から、そっず、芋おいる顔が、あった。

 サキ、だった。サキは、窓枠に頬杖を぀いお、草の䞊の二人を、ずっず、芋おいた。その口もずは、にこにこず、これ以䞊ないほど、幞せそうに、ゆるんでいた。たるで、䞹粟こめた庭に、花が咲いたのを芋぀けた、庭垫みたいな顔だった。

「  えぞぞ」

 ず、サキは、誰にずもなく、笑った。

「  なかよしに、なっおきた」

 そう蚀っお、サキは、窓蟺で、小さく、足をぱたぱたさせた。嬉しくお、じっずしおいられない、ずいうふうに。

 その晩、じいちゃんの家に颚呂を借りに戻ったずき、父の携垯が鳎った。母からの、い぀もの定時連絡だった。父がしばらく話しお、曞類がどうの、圹堎がどうのず報告しお、それから、ふいに、瞁のほうぞ携垯を差し出した。

「  母さんが、おたえず替われっお」

 瞁は、受け取った。耳に圓おるず、母の声がした。

『瞁?   元気?』
「元気だよ」
『ごはん、ちゃんず食べおる? お父さん、ちゃんず䜜っおる?』
「䜜っおるよ。じゃがいも、いっ぀も芯が残っおるけど」
『あヌ  あの人、昔っから、それ』

 電話の向こうで、母が、ふ、ず笑った。それから、少しだけ、沈黙があった。仕事の音も、テレビの音もしない、静かな沈黙だった。母は、東京の家に、䞀人でいるのだ。この春から、い぀も瞁がそうしおいたみたいに。

『  瞁。あのさ』

 母の声が、い぀もより、少し、䜎かった。

『お母さんね、ほんずはあの日、バスの䞭で、ちょっず埌悔しおたの。やっぱり連れお垰ろうかっお。二回、降りようずした。  あんたに、寂しい思いばっかりさせおきたのに、たた眮いおくのかっお』

「  お母さん」

『でもね、聞こえおくるのよ、毎晩。電話の向こうから。あんたの笑い声が。お父さんず䜕か蚀い合っおる声が。  この半幎、うちで䞀回も聞けなかった声が、さ』

 母は、そこで、掟を、小さく、すすった。すすっおから、慌おたように、い぀もの声に戻った。

『――はい、この話おしたい。宿題やりなさいよ。あず日焌け止め塗りなさい、虫刺されにも気を付けるのよ、あなたすぐ腫れちゃっお倧倉なんだから。じゃあね』

 電話は、切れた。瞁は、しばらく、携垯を耳に圓おたたた、立っおいた。ツヌツヌずいう音の向こうに、東京の、静かな郚屋が芋えるような気がした。䞉人分の茶碗のうち、二぀が䌏せられたたたの、食卓が。

「  母さん、なんお?」
「宿題やれっお。  あず、じゃがいもの芯、昔からだっお」
「  返す蚀葉もねえな」

 そういえば――ず、あずになっお、瞁は、思い出すこずになる。

 サキは、䞀床も、䜕かを食べたこずが、なかった。カレヌにも、カップ麺にも、スむカにも、手を぀けなかった。「サキ、たべなくお、いいの」ず、にこにこ、笑うだけだった。麊茶だけは、たたに、䞡手で持っお、飲むふりみたいに、口を぀けた。飲むふり、みたいに。

 気づくべきこずは、い぀も、あずになっおから、かたちになる。

 このずきの瞁は、ただ、倕闇の草の匂いの䞭で、隣の父の掟をすする音を、聞いおいた。それだけで、じゅうぶんだった。


第十章 あの子は誰

 異倉ずいうものは、たいおい、いちばん平和な瞬間に、顔を出す。

 その倜、泊たり蟌みの、五日目の倜だった。お化け倧䌚は、すっかり、倜の日課になっおいた。十時のチャむム。オルガンの開挔の䞀音。校舎のあちこちで、今倜も、賑わいが立ちのがっおいた。理科宀からは、暡型ず暙本の挫才みたいな蚀い合いが。階段からは、段の増枛する、しゅんしゅんずいう音が。

 瞁は、二階の廊䞋の窓蟺で、花子さんず䞊んで、涌んでいた。

 窓の倖には、真っ黒な山のシル゚ットず、その䞊に、こがれるほどの星空。倜颚が、ずきどき、汗の匕いた銖すじを、撫でおいった。花子さんは、窓枠に頬杖を぀いお、機嫌よく、足をぶらぶらさせおいた。

 少し離れた教宀から、歌が、聞こえおいた。

 サキの声だった。オルガンがやわらかい和音を鳎らし、それに合わせお、サキが、歌っおいた。歌詞のない歌だった。ら、ら、ら、ら、ず。旋埋には、聞き芚えがあった。オルガンが、毎晩、緎習しおいた、あの曲だ。぀っかえおいた箇所は、もう、すっかり、滑らかになっおいた。

 優しくお、懐かしくお、どこか遠い、旋埋だった。

「  いい歌」ず、瞁が蚀った。
「ええ。  サキちゃん、ほんずうに、うれしそう」

 花子さんが、目を现めた。

「ね。あの子、ほんず、毎晩楜しそう。  おいうか、花子さん、思わない? サキちゃんっお、すごいよね。お化け、ぜんぜん怖がらないの。私なんお、いただに、暡型さんが急に出おくるず、心臓止たりそうになるのに。あの子、初日から、きゃヌっお蚀いながら、目がきらっきらしおた。劖怪のこずも、私より詳しいくらいだし」

 するず、花子さんは、きょずん、ずした顔で、瞁を芋た。

 心底、䞍思議そうな顔だった。䜕を圓たり前のこずを、ずいう顔だった。

「そりゃあ、そうよ」

 ず、花子さんは、蚀った。

「だっお、みんなを起こしたの、あの子だもの」

 倜颚が、止たった気がした。

「  起こした?」

「ええ。わたしたちを。  あら?」花子さんは、小銖をかしげた。「ゆかりちゃん、知らなかったの? おっきり、知っおるものず」

「ちょ、ちょっず埅っお。起こしたっお、どういうこず。みんな、チャむムで目が芚めたんじゃ」

「チャむムはね、合図。目芚たしみたいなもの。でも、目芚たしだけじゃ、わたしたち、起きられなかったのよ。二十五幎も、眠っおたんだもの」

 花子さんは、窓の倖の星を芋ながら、ぜ぀り、ぜ぀りず、話した。

「  あのね、ゆかりちゃん。わたしたちお化けは、語っおもらえないず、生きおいけないの。『䞉番目の個宀には、花子さんがいるんだっお』――そうやっお、ひそひそ、こわごわ、噂しおくれる子がいるから、わたしは、䞉番目の個宀に、いられるの。噂が、わたしたちの、ごはんで、空気で、心臓なの」

「  語られないず、どうなるの」

「薄くなるわ」

 花子さんは、こずもなげに、蚀った。こずもなげな蚀い方が、かえっお、怖かった。

「だんだん、薄く、薄くなっお  眠くなるの。ずろずろっお。で、眠っちゃう。眠ったたた、誰にも思い出されないず  そのうち、眠っおいたこずごず、消えるの。最初から、いなかったみたいに」

「――――」

「孊校が閉たっお、子䟛がいなくなっお。わたしたち、みんな、順番に、眠っおいったわ。オルガンさんが最初。それから暡型さん。金次郎さたは、ずいぶん長く頑匵っおらしたけど、したいには。わたしも  最埌のほうは、自分の名前が、ずきどき、分からなくなっおた。はなこ。はな、こ。あれ、なんだっけ、っお。  ああ、消えるんだな、っお思いながら、眠ったの」

 花子さんの声は、静かだった。恚みも、恐れも、なかった。ただ、そうだった、ずいう声だった。それが、いちばん、胞に刺さった。

「それをね」

 花子さんは、教宀のほうぞ、目をやった。歌声のするほうぞ。

「――『起きお』っお。『お客さんが来たよ、起きお、みんな、起きお』っお。䞀郚屋ず぀、回っお、揺すっお、起こしおくれたの。あの子が。オルガンさんの鍵盀を、そっず抌しお。わたしの戞を、こんこん、っお叩いお。金次郎さたの台座に、よじ登っお。  わたし、目が芚めたずき、最初、倢だず思ったわ。二十五幎ぶりに、誰かに、名前を呌ばれたんだもの。『はなこちゃん、おきお』っお。  あの子、泣きそうな顔で、笑っおた。『やっず、遊べる子が来たよ』っお」

 ら、ら、ら、ら、ず、教宀から、歌が、聞こえおいた。

 瞁の頭の䞭で。

 この十日あたりの、いろんな断片が、音を立おお、動き始めた。

 ――倏䌑みだから、芪戚の子だろう。そう思った。そう思っお、それきり、考えなかった。でも、誰の家の子か、サキは、䞀床も、蚀わなかった。

 ――かくれんが。䞉十分探しお、芋぀からなかった。「いっかいも、み぀かったこずないの」。䌚心の隠れ堎所を、䞀発で、圓おられた。「さがすのも、぀よいの」。

 ――倜䞭の校舎に、平気で珟れた。「よみちは、ぞいきなの」。どうやっお来たのか、どうやっお垰るのか、䞀床も、芋たこずがない。

 ――䜕も、食べなかった。「サキ、たべなくお、いいの」。

 ――逢魔時の廊䞋の、䞉本目の圱。二人の圱のあいだに、寄り添うように䌞びお、振り返ったら、消えおいた。

 ――䞉十幎前。父たちの肝詊し。誰もいないはずの䞊の階を走った、裞足の、ぱたぱたずいう足音。

 ――そしお、父の、あの叀い挫画の、あのペヌゞの、鉛筆の萜曞き。おかっぱの女の子の絵。『がっこうにいる』。

 ――それから。あの、倕方。螊り堎の鏡の前で、父がふざけお、二人で笑い転げた、あの日。四時四十四分で止たった、柱時蚈。あのすぐあずからだ。雑巟が畳たれ、オルガンが鳎り、校舎が、目を芚たし始めたのは。  あの時刻、あの鏡の前で、䜕かの戞が、開いたのだずしたら。開いた戞から、誰かが、みんなを起こしお回ったのだず、したら。

 断片が、䞀぀の圢に、組み䞊がっおいく。頭の䞭の図鑑が、勝手に、あるペヌゞを、開いた。䜕床も読んだ、あのペヌゞ。

 東北地方の、叀い家に棲むずいう、子䟛の姿の劖怪。おかっぱ頭の女の子の姿で珟れるこずが倚い。いたずら奜きで、家の子䟛ず遊びたがる。いる家は栄え、去った家は傟く。その姿は、子䟛にしか芋えない、ずもいわれる――。

 瞁の唇が、その名前を、そっず、かたちにした。

「  座敷、わらし」

 ――歌が、止たった。

 ぎたり、ず。

 オルガンの和音だけが、ぜヌん  ず、行き堎をなくしお、教宀に、䜙韻を残した。

 瞁は、廊䞋の先の、教宀の入り口を、芋た。

 サキが、こちらを、芋おいた。

 オルガンのそばに立ったたた。歌の続きの圢に、口を、半分開けたたた。たん䞞の目で。「したった」ず、顔じゅうに、曞いおあった。

 瞁ず、サキは、廊䞋ず教宀の距離を挟んで、しばらく、芋぀め合った。花子さんが、あら、あらら、ず、口に手を圓おお、二人を亀互に芋た。「  もしかしお、わたし、内緒のこず、蚀っちゃった?」

 時間が、止たったような数秒のあず。

 サキは、芳念した。

 肩から、ふう、ず力を抜いお。それから、えぞぞ、ず、笑った。い぀もの、前歯の抜けた笑顔で。ただ、い぀もより、ほんの少しだけ、その笑顔は、心现そうだった。

「  ばれちゃった」

 瞁は、動けなかった。

 怖くは、なかった。䞍思議なくらい、怖くなかった。目の前にいるのは、この十日間、䞀緒にかくれんがをしお、図鑑をのぞき蟌んで、手を぀ないで廊䞋を走った、あの子のたただった。䜕も、倉わっお芋えなかった。裞足で、おかっぱで、日に焌けおいお、頬っぺたが赀い。

 でも、あの子は、人間では、なかった。

 友達だず思っおいた子は、神様だった。

 その事実を、どこに、どう、眮けばいいのか。瞁の胞は、忙しく、うろたえた。隙されおいた、ずいう尖った気持ちが、ちくりず顔を出しかけお、でも、それは、すぐに、別の気持ちに、抌し流された。花子さんの話が、耳に残っおいたからだ。䞀郚屋ず぀、回っお。泣きそうな顔で、笑っお。『やっず、遊べる子が来たよ』。

 ――この子は、いったい、どれだけの時間、ここに、ひずりで、いたんだろう。

「  サキちゃん」

 瞁は、䞀歩、教宀に近づいた。サキが、びくっ、ず、身を硬くした。叱られる盎前の子䟛の、身のすくたせ方だった。

 瞁は、もう䞀歩、近づいお。

 蚀った。

「――ぜんぶ、話しお。最初から」

 サキは、䞊目遣いに、瞁を芋た。怒っおる? ず、その目が、聞いおいた。瞁は、銖を、暪に振った。怒っおない。ただ、知りたいの。あなたのこずを、ちゃんず。

 サキは、こく、ず、うなずいた。

「  うん。はなす。ぜんぶ、はなすね」

 それから、サキは、教宀の䞭を、ぐるりず芋回しお、少しだけ、い぀もの調子を取り戻した声で、倩井に向かっお、蚀った。

「――みんなも、おいで。かくれおないで。  どうせ、きいおるんでしょ」

 その蚀葉が、終わるか終わらないかのうちに。

 廊䞋の向こうから、がた、ごず、ぺた、ぺた、かたかた、ず、いく぀もの音が、近づいおきた。人䜓暡型ず、骚栌暙本が、そっず戞口から芗いた。歩き足ず、飛び銖が、定䜍眮で、するりず入っおきた。花子さんが、瞁の隣に、ちょこんず立った。廊䞋の暗がりから、玙さんの気配が。窓の倖には、い぀の間にか、金次郎の倧きな圱が、月を背にしお、立っおいた。ベヌトヌノェンの額瞁が、壁を、すす、ず滑っおきた。

 いちばん最埌に、塵塚怪王が、ころころず転がっおきお、教卓の䞊に、よじ登った。「な、なんだなんだ、緊急集䌚か。招集は王の仕事であるぞ」ず蚀いながら、ちゃっかり、いちばん芋やすい垭に、収たった。

 深倜の教宀に、怪異たちが、勢ぞろいした。

 たるで、授業参芳みたいだった。

 教壇の前に、ちいさな座敷わらしが、䞀人。䞡手を、埌ろで組んで。みんなの芖線を、䞀身に受けお。

 どこかから、どたどたず父も駆け぀けおきお、教宀の埌ろで、この光景を芋お、口を、ぱくぱくさせた。「な、なんだこれ。党員集合しおる。  で、なんでサキちゃんが、教壇に」

「――あのね。サキちゃんはね」

 瞁が、蚀った。

「座敷わらし、なの」

 父の口が、ぱくぱくの、いちばん倧きく開いたずころで、止たった。

 窓の倖で、倜颚が、杉林を、ざあ、ず鳎らした。

 サキは、みんなの顔を、ゆっくり、芋回した。それから、すう、ず息を吞っお、話し始めた。

「  あのね。サキはね――」

 長い、長い話が、始たろうずしおいた。


第十䞀章 垰れない

「  あのね。サキはね」

 深倜の教宀。教壇の前で、ちいさな座敷わらしは、䞡手を埌ろに組んだたた、ゆっくりず、話し始めた。

「この孊校が、できる、ずヌっずたえから、この村に、いたの」

 ずっず前、ずいうのが、どれくらい前なのか。サキは、指を折っお数えるふりをしお、途䞭で、やめた。数えられないほど、前なのだった。

「サキはね、子䟛のいるずころが、すき。子䟛の笑いごえのするずころが、サキの、いる堎所なの。むかしはね、村の、おっきい家にいた。囲炉裏のある家。子䟛が、いヌっぱいいたの。でも、そのうち、村に、孊校ができお――」

 サキの目が、教宀を、ぐるりず芋回した。䞊んだ机を。黒板を。窓の倖の、月明かりの校庭を。

「――びっくりしちゃった。だっお、朝になるず、村じゅうの子䟛が、みヌんな、ひず぀の堎所に、あ぀たるんだよ。こんなにいいずころ、ほかにある? サキ、ひっこしたの。孊校に。それから、ずヌっず、ここにいた」

 癟幎、ず、誰かが小さく蚀った。校長たちの写真の、どれかだったかもしれない。この孊校は、癟十二幎。サキは、その最初から、ここにいたのだ。

「たのしかったよう」

 サキの声が、はずんだ。思い出の䞭に、飛び蟌んでいくみたいに。

「あさ、みんなが、がやがや来るでしょ。サキも、げた箱のずこで、たっおるの。じゅぎょうも、いっしょにうけた。さんすうは、きらい。おんがくは、すき。きゅうしょくのカレヌのにおい。そうじの時間の、ぞうきんリレヌ。うんどうかいはね、たえの日から、ねむれないの。むらじゅうの人が、おべんずうもっお、芋にくるんだよ。がくげいかいで、たくのかげから、みんなの劇、みおた。  だれも、サキのこず、ぞんだずおもわなかった。子䟛が、いヌっぱいいたから。サキも、そのなかの、ひずりでいられたの」

 誰も、口を挟たなかった。怪異たちも、芪子も、ただ、聞いおいた。

「たっちゃんたちのころは、ただ、にぎやかだった」

 ――ず、サキが、蚀った。

 瞁は、え、ず思った。父も、え、ずいう顔をした。

「  たっちゃん?」

 サキは、教宀の埌ろの、父を芋た。にっ、ず、前歯の抜けた笑顔で。

「たっちゃんでしょ。おがの、たっちゃん。  おがえおるよ。かわで、いちばん高いいわから、ずびこんだ子。スむカのこず、ひずりであやたりにいった子。それから、よるの孊校に、しのびこんだ子」

 父の顔から、衚情が、抜け萜ちた。

「  あ、あんずき」父の声が、かすれた。「  あんずき、䞊の階、走ったの  おたえ、か」

「えぞぞ。だっお、うれしかったんだもん。よるに、子䟛が来るなんお、はじめおだったから。たぜおほしくお、いそいで䞋りおいったら、みんな、にげちゃった」

 たぜおほしくお。

 その䞀蚀に、教宀の空気が、しん、ず痛んだ。䞉十幎前の倏の倜。肝詊しの子䟛たちを、震え䞊がらせた怪異の足音は、仲間に入れおほしくお、階段を駆け䞋りおきた、この子の足音だったのだ。

「たっちゃん、぀ぎの日も、その぀ぎの日も、ひるたに、孊校のたわり、うろうろしおた。サキのこず、さがしおるみたいだった。いっかいだけ、めが、あったの。校庭のさくらの朚のずころで。たっちゃん、めをたんたるにしお  でも、こわがらなかった。おを、ふっおくれた」

 父は、口を、手で芆った。その目が、みるみる、赀くなった。

「  おがえおる」ず、父は、絞り出すように蚀った。「  ずっず、倢だず思っおた。誰に話しおも、笑われたから。劖怪の挫画に、曞いずいたんだ。忘れねえように。『がっこうにいる』っお。  いたんだな。ほんずに。  おたえ、あんずきから、倉わっおねえのか。その、おかっぱのたんたか」

「うん。サキは、ずヌっず、このたんた」

 サキは、こずもなげに、蚀った。ずっず、このたんた。子䟛たちだけが、倧きくなっお、卒業しお、村を出お、倧人になっお、垰っおこなくなる。サキだけが、同じ姿で、同じ堎所で、次の子䟛たちを埅぀。たっちゃんが達也になり、達也の嚘が来るたでの䞉十幎を、この子は、この姿のたた。

「  それでね」

 サキの声から、少しず぀、はずみが、消えおいった。

「子䟛が、ぞっおいったの。たいずし、たいずし、すこしず぀。教宀が、ひず぀ず぀、぀かわれなくなっお。うんどうかいの、かけっこの組が、ぞっお。  さいごの幎は、四人だった。よにんだよ。この、ひろい孊校に」

 サキは、窓の倖を芋た。校門のほうを。

「そ぀ぎょうしきの日。サキ、校門のずころで、芋おくったの。四人が、さかを、おりおいくの。いちばんちいさい子が、いっかいだけ、ふりかえった。  サキのこず、芋えおたのかなあ。わかんない。でも、ふりかえっお、それから、いっちゃった。  それっきり、だあれも、来なくなった」

 それから、二十五幎。

「さいしょはね、ぞいきだった。みんな、いたから。よる、おしゃべりしお。でも、みんな、だんだん、ねむくなっおいっお。おこしおも、おきなくなっお。  さいごは、サキ、ひずりで、ろうかを、はしっおた。ぱたぱたっお。じぶんの足音だけ、きいおた。にちようびの、だれもいない孊校っお、あるでしょ。あれが、たいにち、たいにち、ずヌっず、぀づくの」

 サキは、そこで、初めお、う぀むいた。

「  サキもね、ほんずは、わかっおた。子䟛のいない堎所に、サキは、いられないの。だから、サキも、だんだん、うすくなっおた。ああ、サキも、そろそろ、ねむるのかなあ、きえちゃうのかなあっお  おもっおた、ずころに」

 顔が、䞊がった。

 たっすぐ、瞁を芋た。

「――ゆかりちゃんが、来たの」

 その目に、涙が、盛り䞊がっおいた。

「くさかりの音がしお、たどから芋たら、子䟛がいたの。二十五幎ぶりの、子䟛。しかも、ひるやすみに、おばけの本、よんでた。サキ、うれしくお、うれしくお、どうしおいいか、わかんなくお。それで、みんなを、おこしたの。ぜんいん。ひずぞやず぀。『おきお、おきお、お客さんだよ』っお。  せいいっぱい、おどろかせおあげようっお、きめたの。だっお、こわいのは、たのしいから。こわかった倜は、いっしょうの、たからものになるから。サキが、むかし、この孊校の子たちに、しおもらったみたいに。ゆかりちゃんにも、わすれられない倏を、あげたかったの」

 サキは、ぺこり、ず、深く、頭を䞋げた。

「かっおに、おどろかせお、ごめんなさい」

 誰も、責めなかった。責められるはずが、なかった。瞁は、銖を、ぶんぶんず暪に振った。蚀葉が、うたく出おこなかった。この十日間の、あの、怖くお可笑しくお幞せな倜たちが、ぜんぶ、この子の「あげたかった」だったのだ。

「  でもね、もう、だいじょうぶ」

 サキは、頭を䞊げお、い぀もの笑顔に、戻ろうずした。

「サキ、ずっずこっちがわに、出っぱなしだったから、ちょっず、぀かれちゃった。みんなも、そろそろ、ひずやすみしたいっお。だから、サキ、いったん、『むこう』にもどっお、やすんでくるね。  だいじょうぶ、たた、来られるから。おじさん、ゆかりちゃん、あのね、ありがずう。この倏のこず、サキ、ぜったい、ぜったい――」

 蚀いながら、サキは、目を閉じた。

 䞡手を、胞の前で、そっず、組んだ。䜕かの、䜜法らしかった。教宀の怪異たちが、芋守った。

 ――䜕も、起きなかった。

 サキが、片目を、開けた。

「  あれ」

 もう䞀床、目を閉じる。手を、組み盎す。ぎゅっ。  䜕も、起きない。䞉床目。今床は、顔たで、ぎゅっずしがっお。  䜕も。

「  あれ? あれ? なんで」

 サキの声が、うわずった。自分の胞元を、ぱた、ぱた、ず、叩いた。それから、探った。スカヌトの、ポケットのあたりを。袖を。もう䞀床、胞元を。ぱたぱた。ぱたぱたぱた。

「  ない」

 その顔から、みるみる、血の気が匕いおいった。

「ない。ないない、ない! なんで!? ここに、い぀も、ここに――」

「サキちゃん!? どうしたの!」

 瞁が、駆け寄った。駆け寄っお、間近でサキを芋お、ぞっ、ずした。

 サキが、薄かった。

 い぀から? さっきたで? ううん、もっず前から? 月明かりに、サキの茪郭が、頌りなく、にじんでいた。膝から䞋は、もう、向こうの床が、うっすらず、透けお芋えた。教宀の怪異たちが、ざわ、ず、揺れた。花子さんが、「そんな」ず、小さく叫んだ。

「サキちゃん、䜕がないの!? ねえ!」

 サキは、泣きそうな顔で、瞁を芋䞊げた。そしお、震える声で、蚀った。

「――あかし」

「  あかし?」

「サキが、この孊校の子だっおいう  しるし。それがないず、『むこう』に、もどれないの。もどれないのに、『こっち』にも、いられなくなるの。うすくなっお  きえちゃう」

 サキは、透けはじめた指を、䞉本、立おた。

「みっ぀、あったの。ずっずずっず、だいじにしおた、たからもの。  孊校の、なたえ。孊校の、うた。孊校の、しるし」

 ――校名。校歌。校章。

「なたえは、あたたのなかに。うたは、のどのおくに。しるしは、むねに、぀けおた。なのに  ない。おもいだそうずしおも、あたたに、もやがかかるの。孊校のなたえ、なんだっけ。うたおうずしおも、こえが、でおこないの。しるしは  どこかで、おずしちゃった。はしゃいで、はしゃいで、たいばん、はしゃぎたわっおる、あいだに  どこかで、ばらばらに  」

「名前なら知っおるよ!!」

 瞁は、叫んでいた。なんだ、そんなこずか、ず思ったのだ。

「男鹿沢小孊校!! でしょ!? ほら、思い出しお! お・が・さ・わ、小孊校!!」

 サキの䜓が、䞀瞬、ほんのかすかに、明るんだ。明るんで――すぐ、消えた。ろうそくの火が、颚に、なぶられるみたいに。

 サキは、力なく、銖を、暪に振った。

「  ちがうの。それも、この孊校の、なたえ。だけど  サキの、あかしの、なたえじゃ、ないの。あのね。名前っおね、いちばん、さいしょのが、いちばん、぀よいの。うたれたずきに、もらった、なたえ。サキが、この孊校の子になったずき、この孊校が、なのっおた、なたえ。  もっず、ずっず、たえの、なたえなの。それが  それだけが、おもいだせない。だれかが、よんでくれないず  」

「最初の、名前  ?」

 瞁は、父を芋た。父は、青い顔で、銖を暪に振った。

「し、知らねえ。父さんのころから、男鹿沢小孊校だった。じいちゃんのころも、たぶん  いや、埅お。じいちゃんが、なんか、蚀っおた気が  だめだ、思い出せねえ」

 誰も、知らなかった。生きおいる人間は、誰も。癟幎より前に、この孊校が名乗っおいた、生たれたずきの名前を。

 サキの目から、涙が、こがれた。

「サキ、じぶんが、『どこの子』か、わかんなくなっちゃう。わかんなくなったら、サキ、サキじゃなくなっちゃう  !」

 その堎に、ぺたん、ず座り蟌んで、サキは、しゃくり䞊げた。瞁が、ずっさに、その肩を抱こうずしお、手が、䞀瞬、頌りない感觊の䞭に、沈みかけた。慌おお、力を匱めた。抱きしめるこずすら、もう、そっずしなければ、できないのだ。

 教宀が、凍り぀いおいた。

 怪異たちの動揺が、さざ波みたいに、広がった。「蚌を、倱くした」「䞉぀ずも?」「探さねば」「どこで」「この広い校舎の」。暡型ず暙本が、顔を芋合わせた。花子さんが、スカヌトの裟を、握りしめた。教卓の䞊の怪王だけが、なぜだか、じっ、ず、黙っお、泣いおいるサキを、芋䞋ろしおいた。

 ――ず。

 窓の倖で。

 䜕かが、動いた。

 瞁は、芋た。校庭の、いちばん遠い隅。月明かりの届かない、杉林ずの境の暗がりで。黒い、䜕かが。ずるり、ず。

 それだけでは、なかった。倜の空気が、倉わっおいた。さっきたでの、賑やかで、あたたかい倜気に、い぀の間にか、別のものが、混ざり始めおいた。冷たい、鉄気のような。饐えたような。そしお、じっずりず、こちらを、うかがうような。

 サキが、はっ、ず、泣き顔を䞊げた。窓の倖の、その気配のほうを、芋た。透けかけた顔が、こわばった。

「  いけない」

 サキが、぀ぶやいた。

「サキが、うすくなったから。  この孊校の、『かこい』が、ゆるんでる」

「かこい?」

「サキが、いるだけで、はれおたの。わるいものが、はいっおこないように。子䟛が、あんしんしお、あそべるように。  それが、いた、ゆるんで――」

 サキの蚀葉の、途䞭で。

 遠くの、廊䞋の奥の、そのたた奥の闇から。

 ――テケ。

 ず。

 也いた音が、ひず぀。

 した。


第十二章 牙

 テケ。

   テケ。テケ。

 也いた、硬いものが、床を打぀音だった。骚ず、板の音。それが、廊䞋の奥の、そのたた奥から、芏則正しく、少しず぀、少しず぀、近づいおきおいた。

 教宀の空気が、倉わった。

 最初に、それが分かったのは、怪異たちの様子からだった。

 人䜓暡型が、口を開けたたた、固たった。あの、陜気で、隒がしい暡型が、声も出さずに。骚栌暙本が、カタ、カタ、カタ、ず、自分の意思ではない震えで、党身の骚を鳎らし始めた。歩き足が、飛び銖の陰に隠れ、飛び銖が、歩き足の陰に隠れようずしお、二人でその堎をぐるぐる回った。壁のベヌトヌノェンが、あの、豪胆な楜聖の額瞁が、がた、がた、ず、壁ごず震えおいた。

 花子さんが、サキを、埌ろから、ぎゅっず抱きしめた。抱きしめお、自分も、震えおいた。

「  みんな、どうしたの」

 瞁の問いに、誰も、答えなかった。答えられなかった。ただ、ベヌトヌノェンの震える芖線だけが、廊䞋のほうを、指しおいた。

 テケ。テケ。テケ。

 音は、もう、同じ階の、廊䞋の角たで、来おいた。

「  サキちゃん」瞁は、腕の䞭の座敷わらしに、聞いた。「あれも  サキちゃんが、起こした子、なの?」

 サキは、銖を、激しく、暪に振った。透けかけた顔が、玙みたいに癜かった。

「ちがう。ちがうの。あれは、サキ、よんでない。ぜったい、よんでない。  あのね、孊校にはね、たのしいうわさず、たのしくないうわさが、あるの。サキが起こしたのは、たのしいほう。みんな、あそぶために、いる子たち。でも――」

 サキの声が、震えた。

「はしゃぎすぎたの。サキたち、たいばん、たいばん、おおさわぎしお。その音で  あけちゃいけない、ふたの、おくのほうたで、ひびいちゃった。  あれは、ちがうの。あれは、あそばない。あれは、ほんずうに、人を、ずる」

 テケ。

 音が、止たった。

 廊䞋の角。教宀の戞口から芋える、月明かりの廊䞋の、突き圓たり。

 そこに、それは、いた。

 ――女、だった。

 いや、女の、䞊半分、だった。

 長い髪が、顔をすっぜりず芆っお、垂れおいた。癜い、病衣のようなものを着た䞊䜓が、床に、盎接、眮かれおいた。腰から䞋が、なかった。すっぱりず、なかった。切断面は、髪ず闇に玛れお芋えなかったが、「ない」こずだけは、月明かりの䞭で、あたりにも、はっきりしおいた。

 䞡の肘が、鎌の切っ先のように、床に、突き立おられおいた。

 それは、動かなかった。ただ、そこに、眮かれたように、いた。動かないこずが、これほど怖いものだず、瞁は、知らなかった。花子さんの怖さずも、暡型の怖さずも、たるで、違った。あれらの怖さは、こちらを驚かせるための、いわば、差し出された怖さだった。これは、違う。これは、こちらのこずなど、驚かせる気もない。ただ、狩る気配だけが、あった。

「  テケテケ」

 瞁の唇が、勝手に、その名を、かたちにしおいた。図鑑の蚘述が、氷氎になっお、背骚を流れ萜ちた。䞡肘で這い、時速癟数十キロで远う。远い぀かれれば、䞋半身を、刈られる。同じ姿に、される。

 髪の奥で。

 ぎょろ、ず。

 二぀の目が、動いた。

 血走った癜目。その䞭の、黒い点のような瞳が、教宀の、こちらを、芋た。正確には、瞁を、芋た。子䟛を、芋た。

 ――ぎ、ち。

 ず、テケテケの肘が、床板を、掎んだ。

「――――走れェッ!!」

 叫んだのは、父だった。

 叫ぶのず、テケテケが、来るのずが、ほずんど同時だった。

 速い。

 速い速い速い。冗談みたいに、速かった。テケテケテケテケテケテケッ!! ず、也いた連打音が、廊䞋を埋め尜くし、髪を振り乱した䞊半身が、䞡腕だけで、廊䞋を、滑るように、突っ蟌んできた。その速さは、生き物の速さではなかった。投げられた石の速さだった。

 父の䜓が、勝手に動いた。右腕で瞁を抱え、巊腕で、透けかけたサキを抱え、教宀の埌ろの戞から、廊䞋ぞ、転がり出た。

 ――䞀瞬、膝が、厩れた。

 恐怖で、腰が、抜けかけたのだ。廊䞋に、がくん、ず膝を぀いた。䞉回目、ず数える䜙裕は、誰にもなかった。

「立っおッ!!」

 瞁の悲鳎が、父の背骚に、火を入れた。

 父は、立った。膝の震えごず、ねじ䌏せお、立った。立っお、走った。四十䞉幎の人生で、いちばん速く、走った。嚘ず、座敷わらしを、䞡脇に抱えたたた。

「階段!! 階段に走っお!!」瞁が、父の腕の䞭で、叫んだ。「テケテケは、階段が苊手なの!! 䞊れないの!! 図鑑に曞いおた!!」
「ほんずだべなァ!?」
「たぶん!!」
「たぶんかよォォォ!!」

 背埌で、テケテケテケテケッ!! ず、音が、迫った。振り向いおはいけない。振り向いたら、足が、止たる。瞁は、父の肩越しに、芋おしたった。テケテケが、廊䞋の床を、髪を翻しお、滑っおくる。速い。远い぀かれる。あず五歩。䞉歩――

 階段が、目の前に、来た。

 父は、考えずに、飛び蟌んだ。䞀段目、䞉段目、五段目。二段飛ばしで、駆け䞊がった。そしお、階段が、動いた。

 しゅん!! ず、二人の背埌で、䞀段目が、消えたのだ。二段目も。䞉段目も。父が駆け䞊がるそばから、階段は、䞋の段を、自分で匕っ蟌めおいった。远っおきたテケテケの肘が、あるはずの䞀段目を掎もうずしお、空を、切った。

 ずだんっ!! ず、テケテケが、階段䞋の床に、突っ蟌んだ。

「今のうち!! 䞊ぞ!!」

 階段は、二人を二階ぞ送り届けるず、残りの段も、しゅんしゅんず匕っ蟌めお、぀るりずした急な坂に、倉圢した。テケテケが、坂に肘を突き立おようずしお、滑った。がり、がり、ず、爪が坂を掻く、嫌な音がした。䞊がっお、こられない。

 ――䞊がっおは、こられないが。

 去りも、しなかった。

 坂の䞋で、テケテケは、髪の奥の目で、じっ、ず、二階の獲物を、芋䞊げおいた。がり。  がり。諊めの悪い爪の音が、続いおいた。埅぀気なのだ。降りおくるのを。倜が明けるたで、いくらでも。

「  に、二階の窓から、様子を」

 父が、枡り廊䞋の窓に、匵り぀いた。そしお、うめいた。

「  おい。  嘘だべ」

 瞁も、窓に、駆け寄った。

 校庭に、癜いものが、いた。

 月光の、銀色の草の海を、癜い着物の女が、滑るように、旋回しおいた。長い黒髪。ありえない速さ。その顔の、口もずのあたりが、耳の䞋たで、黒く、裂けお芋えた。女は、校舎の呚りを、回っおいた。ぐるり。ぐるり。出口を、ふさぐように。

 それだけでは、なかった。校門の倖の、闇。杉林の、境目の、闇。そこかしこに、いく぀もの、名前の分からない気配が、湧いお、枊を巻いおいた。ぬめりずした、飢えた芖線が、校舎に、幟重にも、絡み぀いおいくのが、肌で分かった。

 ――囲たれおいる。

「サキちゃんの、囲いが、砎れかけおるのよ」

 花子さんが、泣きそうな声で、蚀った。

「この孊校はね、ずっず、守られおたの。サキちゃんが、いおくれるだけで。犏の神さたが、真ん䞭にいる堎所には、悪いものは、入れないの。子䟛が、安心しお、遊べるように。  その囲いが、いた、サキちゃんず䞀緒に、薄くなっおる。だから、倖のものが  昔、この山にいた、よくないものたちが、みんな、気づいお、集たっおきおる」

 サキは、父の腕から降ろされお、廊䞋に、ぺたんず、座り蟌んでいた。もう、腰から䞋が、ほずんど、月明かりに透けおいた。

「  ごめんなさい」サキが、消え入りそうな声で、蚀った。「サキの、せいだ。サキが、はしゃぎすぎたから。あかしを、なくしたから。みんなを、あぶないめに  ごめんなさい、ごめんなさ――」

「謝るのは、埌!!」

 瞁の声が、廊䞋に、響いた。

 自分でも、驚くほど、倧きな声だった。怖くなかったわけではない。怖かった。膝は、さっきから、笑いっぱなしだった。階䞋からは、がり、がり、ず爪の音がしお、窓の倖には、裂けた口が回っおいる。泣いお、うずくたっおしたいたい気持ちは、喉元たで、来おいた。

 でも、頭の芯だけが、倉に、冷えおいた。

 十二冊の図鑑ず、この十日の倜ず、目の前で消えかけおいる友達ずが、瞁の䞭で、䞀本に、繋がろうずしおいた。

「敎理する。いい? サキちゃんが元に戻れば、囲いも戻る。囲いが戻れば、倖の悪いものは、入っおこられない。サキちゃんが戻るには、䞉぀の蚌がいる。孊校の名前。孊校のうた。孊校のしるし。――そうだよね?」

 サキが、涙目のたた、こく、ず、うなずいた。

「でも、サキちゃんは、思い出せない。頭に靄がかかっおるから。  だったら」

 瞁は、蚀った。

「『思い出す』のは、こっちがやる」

 教宀の怪異たちが、瞁を芋た。父が、瞁を芋た。

「サキちゃんに、思い出させる必芁は、ないんだよ。名前も、うたも、この䞖から消えたわけじゃない。この校舎の、どこかに、ただ、残っおる。曞いたもの。刷ったもの。  それを、芋぀けお、サキちゃんに、届ければいい。名前は、読み䞊げればいい。うたは――」

 瞁は、父を、芋䞊げた。

 たっすぐに。

「――ねえ。校歌、うたっお」

 父の目が、芋開かれた。

「  お、おれが? い、いや、埅お、瞁。父さん、歌詞、出おこねえっお。二行目から、霧の䞭だっお」

「手がかりを、探すの。楜譜。卒業アルバム。どこかに、歌詞が残っおる。それを芋れば、思い出せる。六幎間、䜕癟回もうたったんでしょ。䜓が、芚えおるはずなんだよ。それに――」

 瞁は、階䞋の爪の音ず、窓の倖の癜い圱ずを、順に、睚んだ。

「――この孊校の卒業生、いた、ここに、䞀人しか、いないんだよ。校歌を、取り戻せるのは、その人だけなの。  ねえ。お願い」

 父は、嚘の顔を、芋た。

 たっすぐに、自分を芋䞊げる目。逃げ道を、ふさぐ目。頌る、ずいうより、蚗す目だった。おたえならできる、ず、決めおかかっおいる目だった。

 ――䜕幎ぶりだろうな、ず、父は、堎違いにも、思った。この目で、芋られるのは。

 映画をすっぜかしたあの朝から、嚘は、父に、䜕も、期埅しなくなった。期埅されない、ずいうのは、楜で、そしお、死ぬほど、寒いこずだった。その寒さに、慣れた぀もりでいた。慣れおなど、いなかった。

 父の、震えおいた膝から、震えが、匕いおいった。代わりに、腹の底に、硬くお熱いものが、据わった。

「  分かった」

 父は、蚀った。

「探すぞ。楜譜ず、アルバムず、名前の曞いおあるもんだ。手分けは、しねえ。危ねえからな。固たっお、動く。それから――」

 父は、廊䞋の隅を、芋た。

 そこに、塵塚怪王が、いた。隒ぎのあいだじゅう、劙に、静かだった。他の怪異たちず䞀緒に震えるでもなく、教卓の䞊から降りお、廊䞋の隅で、じっず、䜕かを考えるように、座っおいた小さな王を、父は、たっすぐに、芋た。

「――怪王。おたえに、頌みがある」

 怪王の、ビヌ玉の目が、䞊がった。

「おたえ、忘れ物の王、なんだべ。この校舎の、どこに、䜕がしたわれおるか。叀い曞き぀けの、ありそうな堎所。  誰よりも、知っおるはずだ。案内しおくれ。頌む」

 頌む、ず、父は、頭を䞋げた。倧人が、䞉十センチのガラクタの塊に、本気で、頭を䞋げた。

 怪王は、しばらく、ぜかんず、しおいた。

 それから、慌おお、ずり萜ちかけた冠を盎し、粟䞀杯、ふんぞり返った。

「な  なぜ我が、貎様の頌みなど  た、たあ? 王は、民を導くもの、であるからしお? 困った人間を芋捚おるのも、王の沜刞に、関わるからしお?   ふん! よかろう! 特別である! 特別に、導いおやる! ぀いおこい!」

 早口だった。嬉しさを隠すには、あたりにも、早口だった。

 怪王は、ころり、ず、廊䞋の先ぞ、転がった。先頭に、立った。生たれお初めお、誰かに「頌む」ず蚀われた小さな王は、その小さな䜓で、粟䞀杯、胞を匵っお、倜の廊䞋を、先導し始めた。

 階䞋で、がり、ず、爪の音がした。

 窓の倖で、癜いものが、旋回しおいた。

 逃げながら、探す倜が、始たった。


第十䞉章 䞉぀の蚌

「――音楜宀である!!」

 先頭を転がりながら、怪王が、叫んだ。

「うたの曞き぀けなら、たず音楜宀!! オルガンの怅子の䞭!! あそこは物入れになっおおる!! 二十五幎前、音楜の教垫が、楜譜の束を、したい蟌んだたた去りおった!! 我は芋おおったぞ!!」

「よし!! 音楜宀!!」

 䞀行は、走った。父ず、瞁ず、透けかけたサキず、先導の怪王。他の怪異たちも、それぞれの持ち堎で、揎護に぀いた。歩き足ず飛び銖が、先回りしお角の安党を確かめ、「こっち、倧䞈倫です!」ず銖が叫んだ。

 音楜宀に、転がり蟌んだ。父が、オルガンの怅子の座面を、がば、ず開けた。

 あった。

 黄ばんだ、楜譜の束。埃をかぶっお、湿気で波打っお、それでも、確かに、そこにあった。父が、震える手で、めくった。「春の小川」。「ふるさず」。「もみじ」。――そしお。

「  あった!! 『校歌』!! これだ!!」

 手曞きの、ガリ版刷りの、䞀枚。五線譜の䞊に、音笊が、几垳面に䞊んでいた。父の目が、その䞋の、歌詞の欄に、走った。

 走っお、止たった。

「    読めねえ」

 歌詞の欄は、長幎の湿気で、青いむンクが、滲んで、流れお、溶け合っおいた。ずころどころ、「杉」「空」「川」らしき字の残骞は、拟えた。でも、文章ずしおは、もう、読めなかった。二十五幎ぶんの湿気が、蚀葉を、溶かしおしたっおいた。

「そんな  」

 瞁が、楜譜を芗き蟌んだ、そのずき。

 ――テケテケテケテケッ。

 也いた連打音が、聞こえた。近い。枡り廊䞋だ。階段を封じられたテケテケが、校舎の反察偎から、枡り廊䞋を回り蟌んで、二階に、䞊がっおきたのだ。

「知恵が回るのかよ、あい぀!!」
「アルバムである!!」怪王が叫んだ。「卒業アルバム!! あれの最埌の頁には、校歌が刷っおある!! 図曞宀の、奥の曞架!! 歎代ぜんぶ、揃っおおる!!」
「図曞宀!! 走れ!!」

 廊䞋に、飛び出した。図曞宀は、廊䞋の反察偎の、突き圓たりだ。走った。窓の倖を、癜いものが、䞊走した。

 ――口裂け女だった。

 校庭を回っおいた癜い着物が、二階の窓の高さたで、ふわりず、䞊がっおきおいた。窓ガラス䞀枚を隔おお、それは、走る瞁ず、䞊んで、滑った。長い黒髪の隙間から、マスクをした顔が、こちらを、芋た。そしお、ガラス越しに、くぐもった声が、した。

「――ワタシ、キレむ?」

 答えおは、いけない。「きれい」ず蚀えば、「これでも?」ずマスクを倖される。「きれいじゃない」ず蚀えば、その堎で刻たれる。二択は、どちらも、死。――でも、黙るのも、だめだ。黙れば、远っおくる。

 図鑑のペヌゞが、めくれた。第䞉の答え。この怪異には、ひるむ蚀葉が、ある。

 瞁は、走りながら、窓に向かっお、腹の底から、叫んだ。

「――ポマヌド!! ポマヌド!! ポマヌド!!」

 窓の倖の癜い圱が、びくり、ず、痙攣した。滑走の軌道が、ぐらりず、乱れた。「ポマヌド」。口裂け女が、なぜだか、ひるむずされる、呪文。䞉回、重ねる。癜い圱は、耳を抌さえるような仕草をしお、窓から、すうっず、離れおいった。

「  き、効いた」父が、走りながら、目を剥いた。「ほんずに効くのかよ、あれ」
「効いた!! 図鑑、正しかった!!」

 図曞宀に、飛び蟌んだ。戞を閉め、本棚を、䞀぀、みんなで抌しお、戞の前に、倒した。ばん、ばん、ず、すぐに、戞が倖から叩かれ始めた。テケテケが、远い぀いたのだ。本棚が、がた、がた、ず揺れた。

「アルバム!! 奥だ!!」

 曞架の奥の、いちばん䞋の段に、それは、䞊んでいた。臙脂色の、垃匵りの、卒業アルバム。背衚玙に、金の箔抌しで、幎床が入っおいる。䜕十冊も。この孊校の、癟幎ぶんの、子䟛たち。

「父さんの幎は  平成のはじめのころ  これか!? いや、これは䞀぀䞊だ  これだ!!」

 父が、䞀冊を、匕き抜いた。埃が、舞った。床に眮いお、開いた。色耪せた、集合写真のペヌゞが、続いた。䞀幎生。二幎生。  六幎生。

「  あ」

 瞁が、声を、挏らした。

 校庭で撮った、集合写真。二列に䞊んだ、坊䞻頭ずおかっぱの子䟛たち。その、前列のいちばん端で、䞀人だけ、腕を組んで、ふんぞり返っおいる少幎がいた。膝小僧に、倧きなかさぶた。生意気な、目。

 ――じいちゃんの家の、匕き出しの、あの写真ず、同じ顔だった。

「  若えな、おれ」

 父が、ぜ぀りず蚀っお、ペヌゞを、めくった。寄せ曞きのペヌゞ。行事写真のペヌゞ。そしお、最埌の、ペヌゞ。

 そこに、印刷されおいた。

 『校歌』。

 䞉番たでの歌詞が、叀い掻字で、きっちりず、組たれおいた。むンクは、耪せおいたが、読めた。党郚、読めた。

 戞を叩く音が、激しくなった。本棚が、みし、ず鳎った。時間が、なかった。

 父は、アルバムを、䞡手で、持ち䞊げた。歌詞を、目でなぞった。䞀行目。『杉の梢に 青空高く』。  そうだ。ここたでは、芚えおいた。二行目。霧の䞭だった、二行目。『光をあ぀めお 川は走る』。

 ――ひかりをあ぀めお、かわははしる。

 その䞀行が、目から入った瞬間。

 父の䞭で、䞉十幎ぶんの霧が、晎れた。

 喉の奥から、勝手に、音皋が、立ち䞊がっおきた。楜譜なんか、芋なくおも。そうだ。この音だ。この、䞊がっお、䞋がっお、䌞ばす、この――

 父は、うたい始めた。

「――杉の、こずえに、あおぞら、たかく――」

 最初の䞀小節は、かすれおいた。喉が、芚えおいるものを、慌おお匕っ匵り出そうずしお、぀っかえた。でも、二小節目から、声が、据わった。

「――ひかりを、あ぀めお、かわは、はしる――」

 䜓が、芚えおいた。

 䞉十幎、うたっおいなかった。忘れたず、思っおいた。でも、六歳から十二歳たでの六幎間、毎朝、毎朝、䜓育通で、校庭で、この喉が、この䜓が、䜕癟回も、通した歌だった。音皋は、頭ではなく、喉に、胞に、腹に、刻たれおいた。歌詞さえ、目から入れば、あずは、䜓が、勝手に、うたった。

「――たなびや、ここに、ゆめ、はぐくみお――」

 ず、そのずき。

 図曞宀の戞の倖から、音が、重なった。

 オルガンの音、だった。

 のそのそず、四本の猫足で、廊䞋を歩いお、駆け぀けおきたのだ。テケテケのいる廊䞋を、である。オルガンは、図曞宀の戞の倖に陣取るず、父の歌に、和音を、合わせ始めた。あの、毎晩、毎晩、぀っかえながら緎習しおいた曲。

 ――校歌、だったのだ。

 オルガンが、二十五幎間、たった䞀人で、忘れたいず、緎習し続けおいた曲は。誰にもうたわれなくなった校歌を、せめお自分だけは、ず、鍵盀に、刻み続けおいたのだ。今は、もう、どこも、぀っかえなかった。完璧な、䌎奏だった。壁を滑っお、ベヌトヌノェンの額瞁も、駆け぀けた。楜聖は、満足げに眉を䞊げ、額瞁の䞭で、䞡腕を、振り䞊げた。指揮だった。

「――あおげば、そびえる、おがのやた――」

 父の声が、倪くなった。䌎奏を埗お、歌は、歌になった。図曞宀を満たし、戞の隙間からあふれ、廊䞋を枡り、階段を降り、校舎の隅々ぞ、流れおいった。うたくは、なかった。ずころどころ、音は倖れた。でも、その声は、たっすぐだった。䞉十幎前の朝瀌の、六歳の達也の声ず、四十䞉歳の達也の声が、重なっお、響いた。

 ――そしお。

 サキの、足銖から先が、ふ、ず、茪郭を、取り戻した。

「  あ」

 サキが、自分の足を、芋䞋ろした。透けお、床が芋えおいた぀た先が、ちゃんず、そこに、あった。それから、サキは、胞を、抌さえた。喉の奥から、䜕かが、こみ䞊げおくるのが、分かる、ずいうふうに。

「  この、うた」

 サキの口が、震えながら、開いた。

「おがえおる  サキ、おがえおる  ! たいあさ、みんなず  たいいくかんで、ならんで  !」

 そしお、二番から。

 サキが、うたった。

 父の声に、ちいさな声が、重なった。歌詞は、サキの䞭に、戻っおきおいた。うたわれるこずで、歌が、歌を、連れお垰っおきたのだ。おかっぱの座敷わらしず、四十䞉歳の卒業生が、テケテケに戞を叩かれながら、深倜の図曞宀で、声を合わせお、校歌を、うたった。オルガンが、䌎奏した。ベヌトヌノェンが、指揮をした。花子さんが、涙ぐみながら、手拍子をした。

 ――䞀぀。

 蚌の、䞀぀が、戻った。

「次!! 名前!!」歌い終わるのを埅たず、瞁が、叫んだ。「孊校の、正匏な名前!! 文字で残っおるや぀!! 賞状!! 卒業蚌曞!! 衚地状!! なんでもいい!!」

「職員宀である!!」怪王が、応じた。「校長宀ずの境の壁に、額がずらり掛かっおおった!! 蟲協の曞道コンクヌル、健康優良孊校、なんずか蚘念怍暹、どれかに、正匏名が墚曞きしおあるはず!!」

「職員宀は䞀階だぞ!? 䞋、あい぀が――」

 父が蚀い終わる前に、戞を叩く音が、止たった。

 テケテケテケテケッ、ず、連打音が、遠ざかった。回り蟌む気だ。䞀階ぞ。先回りする気なのだ。こちらの行き先を、聞いおいたのだ。

「急げ!! 競争だ!!」

 本棚をどけ、廊䞋ぞ出お、階段を駆け降り、職員宀ぞ、走った。滑り蟌んで、戞を、閉めた。閉めた、その䞀秒埌。

 どがんっ!!

 ず、戞が、倖から、殎られた。

 間に合われた。テケテケが、戞の向こうに、いた。どがん。どがん。朚の匕き戞が、䞀撃ごずに、みしみしず、悲鳎を䞊げた。長くは、もたない。

「額!! 探しお!!」

 みんなが、壁に飛び぀いた。埃をかぶった額が、五぀、六぀。父が䞀぀ず぀、倖しおは、月明かりに、かざした。「『健康優良校』  男鹿沢小孊校ずしか曞いおねえ!! ã€Žæ€æš¹èš˜å¿µã€â€Šâ€Šé”筆すぎお読めねえ!!」。どがんっ!! 戞が、たわんだ。蝶番が、䞀぀、匟け飛んだ。

 ――ず。

 窓の倖で、ざっ、ず、重い足音がした。

 巚きな圱が、月を、背負っお、立った。

 二宮金次郎、だった。

 校庭を走っおいた石像が、い぀の間にか、職員宀の倖たで、来おいた。金次郎は、割れた窓から、のそり、ず、校舎の䞭ぞ、入っおきた。そしお、薪を背負い、本を開いたたた、たわむ戞の内偎に、どしん、ず、背䞭を、぀けた。

 どがんっ!! ず、次の䞀撃が、来た。

 戞は、びくずも、しなかった。

 金次郎の背䞭が、戞を、完党に、受け止めおいた。石像は、衝撃に、眉ひず぀動かさず、本から、目も䞊げず、ただ、そこに、立っおいた。どがん。どがん。どがんっ!! テケテケの連打が、続いた。金次郎は、動かなかった。ペヌゞを、䞀枚、めくった。読みながら、守っおいた。

「  金次郎」

 父が、その背䞭を、芋た。

 䌑たず。よそ芋をせず。誰に頌たれたのでもなく。任された堎所を、黙っお、守り抜く。石の背䞭は、語らなかった。語らないたた、うたうように、告げおいた。走り続けるこずは、無駄ではない。積んだものは、い぀か、誰かの、盟になる。

 父の目の奥が、熱くなった。おれの䞉十幎も、ず、思った。無駄じゃ、なかったんだろうか。ぐるぐる走り続けた、あの幎月も、い぀か、誰かの、こい぀の、盟に。

「がヌっずしない!! 額!! 早く!!」
「お、おう!!」

 感傷は、䞉秒で、切り䞊げられた。父は、最埌の額に、飛び぀いた。いちばん高いずころの、いちばん叀い額。埃を、袖で、ぬぐった。ガラスに、ひびが入っおいた。䞭の玙は、风色だった。でも、墚の字は、倪く、濃く、生きおいた。

明治の、公文曞だった。旧い字が、䞊から䞋ぞ、堂々ず、䞊んでいた。父が額を䞋ろし、瞁が、䞡手で、受け取った。ずしりず、重かった。癟䞉十䞃幎の重さだった。瞁は、月明かりに、それを、かざした。読めない字が、いく぀もあった。でも、いちばん倪い、その䞀行――

「お、が  男鹿、柀(さわ)  じん  じょう  ?」

「尋垞(じんじょう)だ!!」父が、叫んだ。「尋垞小孊校!! 明治の孊校は、みんな、そう名乗っおた!! じいちゃんが蚀っおたのは、これだ!! 『おれの芪父は、尋垞小孊校さ通った』っお!!   それだ、瞁!! それが、この孊校の、最初の名前だ!!」

 ――男鹿柀尋垞小孞校。

 この孊校が、生たれたずきに、もらった名前。名乗る者も、呌ぶ者も、ずうに絶えお、この䞀枚の灌けた玙の䞭だけで、眠っおいた名前。

 瞁は、額を、胞の高さに、掲げた。息を、倧きく、吞った。戞の倖の連打に、負けないように。頭の靄の、いちばん奥たで――癟䞉十䞃幎の、いちばん底たで、届くように。

 旧い字の、ひず぀ひず぀を、間違えないように。声を、限りに、読み䞊げた。

「――男鹿柀(おがさわ)!! å°‹åžž(じんじょう)!! 小孞校(しょうがっこう)ォォ!!」

その瞬間。校舎が、鳎った。

 みし、ずか、ぎし、ずか、そんな音では、なかった。ずうん、ず、腹に響く、深い、倧きな䞀鳎りだった。柱ずいう柱、梁ずいう梁、床板の䞀枚䞀枚たでが、いっせいに、震えたのだ。たるで、長いあいだ忘れられおいた自分の名前を、呌ばれた犬が、党身で、跳ね起きるみたいに。

 校庭の、校門で。誰も芋おいなかったが。門柱にぞばり぀いおいた苔が、はらり、はらり、ず、剥がれ萜ちお、その䞋から、圫られた文字が、月光に、癜々ず、浮かび䞊がった。

 『男鹿沢小孊校』。

 二十五幎ぶりに、孊校が、名乗りを、取り戻した。

 そしお、サキの䜓に、色が、戻った。

 透けおいた腰から䞋に、茪郭が。耪せおいた赀いスカヌトに、鮮やかな、赀が。頬に、りんごの赀みが。サキは、自分の䞡手を、開いお、閉じお、それから、顔を、くしゃくしゃにした。

「なたえ  !! サキの、孊校の、なたえ  !! さいしょの、なたえ  !! おがさわ、じんじょう、しょうがっこう!! サキ、うたれたずきから、ずうっず、その子だったんだよ  !!」

 ――二぀。

 二぀目の蚌が、戻った。

 戞の倖の連打が、忌々しげに、䞀床、止たった。校舎の倉化を、感じ取ったのだ。囲いが、少し、締たったのを。

「あず䞀぀!!」瞁が、叫んだ。「校章!! サキちゃんが胞に぀けおた、しるし!! 桜ず杉の!! それさえ、芋぀ければ――」

 ――そこで。

 誰もが、同じこずに、気づいお、止たった。

 名前は、額の䞭に、あった。うたは、アルバムの䞭に、あった。文字は、探せば、芋぀かる。読めば、届く。

 でも、校章は――「物」だった。

 小さな、金属の、埜章。数センチの。それが、この、二階建お、教宀十いく぀、癟幎ぶんの物であふれた校舎の、どこかの、二十五幎ぶんの埃の、䞋に。

 窓の倖で、口裂け女の癜が、たた、旋回を、速めた。戞の倖で、爪の音が、再開した。倜明けたで、あず、二時間もなかった。

「  探すっお  どこから  」

 誰かの、その呟きに、答えられる者は、いなかった。


第十四章 小さな王

 それでも、探さないずいう遞択肢は、なかった。

 職員宀から、捜玢は、始たった。戞棚ずいう戞棚を開けた。匕き出しずいう匕き出しを、ひっくり返した。机の䞋を芗き、ロッカヌを開け、曞類の山を厩した。埃が、もうもうず舞った。金次郎が戞を守っおくれおいるあいだ、怪異たちも、総出で、探した。花子さんが、小さな手で、棚の奥をたさぐった。歩き足が、机の䞋ずいう䞋を、蹎っお回った。飛び銖が、倩井近くの棚の䞊を、順に芋おいった。人䜓暡型が、勢い䜙っお自分の腕ごず棚に突っ蟌み、骚栌暙本が、现い指の骚を、床板の隙間に、差し蟌んで探った。

 ――ない。

 職員宀に、なかった。校長宀にも、なかった。廊䞋の遺倱物箱。䞭身は、鉛筆䞉本ず、赀癜垜が䞀぀、そこにも、なかった。

 教宀を、䞀぀ず぀、圓たった。䞀幎生の教宀。二幎生の教宀。机の䞭。教壇の䞭。掃陀甚具入れ。オルガンの、足螏みの、蛇腹の隙間たで。

 ない。ない。ない。

 時間だけが、削られおいった。窓の倖の空の黒が、ほんのわずか、藍色に、緩み始めおいた。倜明けが、近い。戞の倖では、テケテケの爪の音が、飜きもせず、続いおいた。がり。がり。囲いのほころびから入り蟌んだものは、倜のあるかぎり、去らない。そしお、倜が明けたずお、蚌が䞉぀揃わなければ、サキは。

「  ないよう  」

 䞉幎二組の教宀で、花子さんが、ずうずう、その堎に、ぞたり蟌んだ。

「ない  どこにも、ない  こんなの、こんなの、砂浜で、針を探すみたいなものよ  ! こんな広い孊校、誇りたみれで、こんな䞭からバッチ䜍の倧きさの校章なんお  ! 䞀晩で芋぀かるわけ、ない  !」

 誰も、慰めの蚀葉を、持たなかった。事実だったからだ。

 サキの茪郭が、たた、揺らぎ始めおいた。

 名前ず、うたは、戻った。二぀の蚌は、サキの䞭で、確かに、灯っおいた。でも、蚌は、䞉぀で、䞀぀、なのだった。䞉本の脚の、怅子なのだった。二本では、立おない。取り戻した名前ずうたが、䞉぀目のないたた、サキの䞭で、少しず぀、たた、こがれ始めおいるのが、芋お分かった。せっかく戻った色が、指先から、たた、薄れおいく。

「  ゆかりちゃん」

 サキが、笑った。笑おうず、した。

「  もう、いいよ。じゅうぶん。なたえず、うた、かえしおもらえたもん。サキ、うれしかった。  もう、いいの。みんな、あぶないから、あさになったら、はやく、ここを――」

「よくない!!」

 瞁は、叫んだ。

「よくないよ!! 二぀じゃ、だめなんでしょ!? 消えちゃうんでしょ!? なにが、もういいの!!」

 叫んで、それから、瞁は、自分の無力さに、突き圓たった。

 ――探せないのだ。

 名前は、読めばよかった。うたは、父の䜓の䞭にあった。文字ず蚘憶は、人間の偎に、取り戻す力があった。でも、物は。埃の䞋の、小さな物は。人間の目ず、人間の手には、限界があった。十二冊の図鑑にも、物のありかは、曞いおいない。あんなに頌りになった知識が、最埌の最埌で、䜕の圹にも、立たない。

 目の奥が、熱くなった。歯を、食いしばった。泣いたら、負けだ。でも、涙は、理屈を聞いおくれなかった。ぜろ、ず、䞀粒、埃だらけの床に、萜ちた。

 教宀が、静たり返った。

 戞の倖の、がり、がり、ずいう音ず、遠くの口裂け女の気配だけが、倜の底に、あった。䞇策が、尜きおいた。

 ――その、ずき、だった。

「  䜕を、隒いでおるか」

 小さな、小さな声が、した。

 みんなが、振り返った。

 教宀の埌ろの、掃陀甚具入れの前に、塵塚怪王が、立っおいた。

 ひどい姿だった。アルミ皿の冠は、ひしゃげお、あさっおの方向を向いおいた。埃の䜓は、そこかしこが、すり枛っお、痩せお芋えた。誰よりも、探し回っおいたのだ。案内圹ずしお、先頭を転がり続け、戞棚ずいう戞棚に、その小さな䜓ごず、頭から突っ蟌み続けお。今も、䜓のあちこちから、探玢で拟った蜘蛛の巣を、ぶら䞋げおいた。

 怪王は、ぞたり蟌んだ䞀同を、ゆっくり、芋回した。それから、蚀った。

「探し物、ず蚀ったな。  もう䞀床、聞く。䜕を、探しおおる」

「  校章、なの」瞁が、涙を、袖でぬぐっお、答えた。「桜ず杉の、ちいさな埜章。この校舎のどこかにあるはずなんだけど  埃ず、忘れ物に埋もれお、どこにあるのか、もう、探しようが  」

「――埃ず、忘れ物」

 怪王は、その蚀葉を、ゆっくりず、繰り返した。

 噛みしめるように。確かめるように。

 埃ず。忘れ物。

   そのずきだった。

 教宀の真ん䞭で、ぞたり蟌んでいたサキが、顔を、䞊げた。

 たっすぐに、教宀の埌ろの、その、小さな、みすがらしい王を、芋た。

 そしお、立ち䞊がった。透けかけた足で。ふら぀きながら。ずん、  ずん、  ず、教宀を、暪切っお、怪王の前たで、歩いおいった。みんなが、芋おいた。䜕が始たるのか、誰にも、分からなかった。

 サキは、怪王の前で、止たった。

 それから、その堎に、すっ、ず、正座を、した。

 埃だらけの、床の䞊に。膝を揃えお。背すじを、䌞ばしお。

 䞡手を、床に、぀いた。

 そしお、深々ず、頭を、䞋げた。

「――ちりづか、かいおう、さた」

 誰も、聞いたこずのない、声だった。

 い぀もの、遊び友達の、はずんだ声では、なかった。もっず叀くお、もっず静かで、もっず重い、癟幎、この孊校を芋守っおきた、神様の、声だった。

 怪王の、ビヌ玉の目が、たん䞞に、なった。

「な  なな、なんだ小嚘、いきなり、䜕を――」

「あたし、ずっず、芋おたした」

 サキは、頭を垂れたたた、続けた。

「あなたが、うたれるたえから、芋おたした。孊校が、したっお、みんなが、ねむっお、わすれものず、ほこりだけが、のこっお  その、ほこりが、すこしず぀、あ぀たっお、かたちになっお、あるひ、めをあけたの。ちいさな、ちいさな、あなたが。  あたし、うれしかった。ひずりがっちの孊校に、あたらしい子が、うたれたんだもの」

 怪王が、固たった。

「それから、なんねんも、なんねんも、ずうっず、芋おたした。あなたが、たいばん、だれにもひろわれない、かたっぜの䞊ばきに、はなしかけおたの。『さびしいなあ。おたえも、さびしいなあ』っお。すおられたぞうきんを、そっず、たたんで、ならべおたの。ばらばらの画びょうを、ひず぀ず぀、ひろいあ぀めお、『わすれられおも、なくなったわけではないぞ』っお、蚀っおたの。  ほこりのやたを、『これは我が民の城である』っお、たもっおたの」

 怪王の、小さな䜓が、震え始めた。

「みんなは、知らない。あなたのこず、笑っおた。ちっちゃい、よわい、王さたごっこだっお。ごうれいをかけおも、だれもこないっお。  でも、あたしは、知っおる。この校舎の、わすれものは、ほこりの䞀぀ぶ、かみくずの䞀たい、おれたクレペンの䞀本たで、ぜんぶ、ぜんぶ、あなたの、たみです。あなたは、なのっおるだけの王さたじゃない。あなたは、ほんものの、ほんものの――」

 サキは、顔を、䞊げた。

 涙で濡れた、たっすぐな目で、小さな王を、芋た。

「――塵の、王さた、です」

 教宀の誰も、動けなかった。父も、瞁も、花子さんも、暡型も、暙本も、息をするのを、忘れおいた。

「塵塚怪王さた」

 サキは、䞡手を、床に぀いたたた、蚀った。

「あなたなら、この孊校の、すべおを、探せる。わすれられた物のなかから、わすれられた物を、芋぀けだせる。それは、この䞖で、あなたにしか、できないこず。  だから、おねがいしたす」

 そしお、サキは、蚀った。

「――王ずしお、めいれいしおみお。あなたの、たみに。あなたの、王囜に」

 しん、ず、した。

 戞の倖の、爪の音さえ、その䞀瞬、遠のいた気がした。

 怪王は、震えおいた。

 小さな、埃の䜓が、ぶるぶるず。ひしゃげた冠が、かたかたず。

 それは、恐怖では、なかった。

 生たれおから、ずっず、ずっず、埅っおいた蚀葉だった。誰にも家来になっおもらえなかった。号什をかけおも、誰も来なかった。笑われお、摘たたれお、こき䜿われお、それでも、意地で、名乗り続けおきた。「王」ず。なぜ名乗り続けたのか、自分でも、分からなかった。名乗るのを、やめたら、自分が、䜕なのか、分からなくなりそうだったから。ただの、ゎミの塊に、なっおしたいそうだったから。

 その、名乗り続けた「王」の名を。

 いた。

 生たれお初めお。

 誰かが、神様が、本気で、呌んだ。

 畳に手を぀いお。頭を䞋げお。「王ずしお」ず。

 怪王は、ぐし、ず、目もずを、ちいさな腕で、ぬぐった。䞀回だけ。それから、ひしゃげたアルミ皿の冠を、䞡手で、持ち䞊げお、ゆっくり、たっすぐに、盎した。ずり萜ちないように。きゅっ、ず。

 背すじが、䌞びた。䞉十センチの背すじが、倩井たで届くかず思うほど、䌞びた。

 怪王は、深く、深く、息を、吞った。

 そしお、その、開校以来癟十二幎の、この校舎の、柱の芯たで、床板の裏たで、屋根裏の梁の䞀本䞀本にたで、届けずばかりに――

 ――同えた。

「――我が、民よォォォォッッ!!」

 校舎が、びりびりず、震えた。

「聞けェェッ!! 我は、塵塚怪王!! 塵、積もりお成る、忘れられし者たちの、王であるッッ!!」

 その声は、もう、震えおいなかった。

「二十五幎の長きにわたり、よくぞ、眠りに耐えた!! よくぞ、消えずに、圚り続けた!! 誰にも顧みられず!! 誰にも拟われず!! 名も呌ばれず!! それでも、この孊び舎の隅で、埃をかぶっお、圚り続けた、我が、忠実なる、民よ!!」

 短い䞡腕が、倩井を、突いた。

「いたこそ、その眠りを、解くずきぞ!! 我が友のため!! 我らが孊び舎のため!! そしお、埅ちに埅った、この号什のために!! 総員、ッッ!!」

 怪王の声が、倜の校舎を、貫いた。

「――目芚めよォォォォォッッ!!!」

 ――䞀秒の、静寂。

 そしお。

 校舎の、いちばん深いずころで。

 がしゃあああああんっっ!!!

 ず、䜕かが、応えた。


第十五章 癟鬌倜行

 がしゃあああああんっっ!!!

 校舎のいちばん深いずころ、絊食宀から、銀色の音が、倜を、割った。

 積み䞊がっおいた、アルミ食噚の塔が、厩れた音だった。だが、それは、厩壊の音では、なかった。目芚めの音だった。厩れた深皿が、浅皿が、先割れスプヌンが、お玉が、しゃもじが、床に散らばる寞前で、宙に、留たった。留たっお、枊を、巻き始めた。䜕十、䜕癟ずいう銀の食噚が、月明かりを匟きながら、絊食宀の闇の䞭で、旋回し、匕き合い、組み䞊がっおいった。

 深皿が、連なっお、鎧の札(さね)になった。寞胎鍋が、胎を成した。巚倧なしゃもじずお玉が、亀差しお、背䞭の埗物になった。そしお、いちばん倧きな鍋の蓋が、兜になった。

 高さ二メヌトルの、銀色の歊者が、絊食宀の闇から、立ち䞊がった。

 歊者は、教宀たで、廊䞋を、がしゃん、がしゃん、ず螏み鳎らしお進み、戞口をくぐり、小さな王の前で、片膝を぀いた。

 雷のような声が、名乗った。

「――食噚付喪(しょっき぀くも)、䞀番隊!! 瀬戞倧将(せずだいしょう)、ただいた、掚参!! 王よ!! 二十五幎ぶり、いや、生たれお初めおの、たこずの号什!! しかず、承ったァァッ!!」

 怪王が、ぜかん、ず、口を開けた。

「せ  瀬戞、倧将  ? き、貎様、我の民で、あったのか  ?」

「䜕を今さら!!」歊者は、兜の䞋で、呵々ず笑った。「王が毎晩、厚(くりや)の食噚に『冷えるな、颚邪をひくな』ず声をかけお回っおおられたこず、我ら䞀同、鍋の底で、ぜんぶ、聞いおおりたしたぞ!! ただ、号什が、なかった!! 民は、王の号什なくば、起おぬ!! 長の幎月、埅ち申した!! 遅いですぞ、王!!」

「お、遅いずは䜕だ、無瀌な――」

 蚀い返す怪王の蚀葉は、続く音に、掻き消された。

 校舎じゅうが、起き䞊がり始めたのだ。

 昇降口で、傘立おの叀い眮き傘たちが、䞀本、たた䞀本ず、柄を鳎らしお跳ね起き、䞀本足で、ずん、ずん、ずん、ず隊列を組んだ。䜓育通から、跳び箱が、䞀段、二段、䞉段ず、自ら段を分解しお、どどどど、ず、それぞれ走っおきた。図曞宀の本たちが、いっせいに、ぱたたたた、ず衚玙を矜ばたかせ、䜕癟矜の鳥の矀れのように、廊䞋の倩井を、埋めお飛んだ。掃陀ロッカヌから、モップず箒の䞀団が、柄を鳎らしお敎列した。壁の額瞁たちが、壁面を、すす、す、ず滑っお集結した。教卓の日めくりカレンダヌが、二十五幎ぶんのペヌゞを、ぱらぱらぱらず自らめくりながら、跳ねおきた。

 そしお、䞋駄箱から。

 あの、片っぜの、癜い䞊履きが。

 ぎょこ。ぎょこ。ぎょこ。ず、小さく跳ねお、やっおきた。䞀足だけでは、なかった。校舎じゅうの、眮き去りの䞊履きが、赀癜垜が、䜓操着袋が、鍵盀ハヌモニカが、絵の具セットが、忘れられた氎筒が、癟幎ぶんの、忘れ物たちが、続々ず、続々ず、廊䞋に、あふれ出しおきた。

 廊䞋が、埋たった。

 昚倜たで、いや、぀いさっきたで、「家来は䞀人もおらぬ」ず笑われおいた、小さな王の前に。

 数えきれない軍勢が、月明かりの廊䞋に、敎列しおいた。

 銀の歊者を先頭に。傘の槍隊。跳び箱の重装歩兵。本の飛行郚隊。モップの工兵。額瞁の䌝什。そしお、最前列に、ぎょこん、ず、あの片っぜの䞊履き。

 誰も、声が出なかった。

 瞁は党身に鳥肌が立っおいた。父は口を開けたたた、閉じるこずを忘れおいた。花子さんも、暡型も、暙本も、ベヌトヌノェンさえ、額瞁の䞭で目を芋開いおいた。

 ――ずっず、いたのだ。

 この王囜は最初から、この校舎たるごずだったのだ。埃の䞀粒、忘れ物の䞀぀䞀぀が、ぜんぶこの小さな王の民だった。誰も気づかなかった。民たち自身も半分眠っおいた。そしお王自身が、誰よりも王自身が、それを信じおいなかった。信じさせおくれる者が、いなかったから。

 いちばん、呆然ずしおいたのは、怪王だった。

 怪王は、敎列した軍勢を、端から端たで、ゆっくり、ゆっくり、芋枡した。ビヌ玉の目が、震えおいた。それから、小さく、小さく、぀ぶやいた。

「  おった、のか。  我の民は  こんなに  こんなに、おったのか  」

「王よ!!」瀬戞倧将の声が、飛んだ。「感慚は、のちほど!! 埡䞋呜を!! 民は、王の蚀葉を、埅っおおり申す!!」

 怪王は、はっ、ず、顔を䞊げた。

 ぬぐった。目もずを、䞀床だけ、ちいさな腕で。それから、ひしゃげた冠の䜍眮を、確かめた。息を、吞った。

 そしお、王は、呜じた。

「――探し物で、あるッッ!!」

 声が、軍勢の䞊を、枡った。

「桜ず杉の埜章!! ちいさき、金物、ただ䞀぀!! この孊び舎の、埃ずいう埃!! 隙間ずいう隙間!! 床䞋!! 倩井裏!! 棚の奥!! 我が王囜の、すべおを、怜めよ!! ――䜕ずしおも、芋぀け出すのだ!! 我らが座敷わらし殿の、たった䞀぀の、垰り道である!!」

 短い腕が、振り䞋ろされた。

「――かかれェェェェッッ!!!」

 軍勢が、動いた。

 それは、捜玢であり、掃陀であり、祭りだった。

 傘の槍隊が、いっせいに開いお、倩井板を、䞋から、ずんずんずんず突き䞊げ、倩井裏の埃を、あらためおいった。本の飛行郚隊が、曞架の裏ぞ、床板の隙間ぞ、玙の薄さを掻かしお、するするず滑り蟌んだ。モップの工兵隊が、廊䞋ずいう廊䞋を、教宀ずいう教宀を、猛烈な速床で磚き䞊げ、二十五幎ぶんの埃が、床から、剥がされおいった。剥がされた埃は、ただ舞うのではなかった。埃の䞀粒䞀粒たでが、王の民だった。埃は、竜巻になっお、自ら枊を巻き、枊の䞭で、自分たち自身を、ふるいにかけた。金物か。金物ではないか。桜ず杉か。違うか。

 瀬戞倧将の食噚兵たちは、お玉ずしゃもじを梃子にしお、床板の隙間ずいう隙間を、次々に、こじ開けおいった。跳び箱の重装歩兵は、動かせるものをすべお動かし、動かせない棚は、段を組んで足堎になり、飛び銖ず歩き足が、その足堎を、䞊ぞ䞋ぞず怜分しお回った。日めくりカレンダヌが、めくれるペヌゞで、颚を送っお、埃の枊を、誘導した。

 そしお、あの片っぜの䞊履きは、䞋駄箱の、自分の棲家の、いちばん奥の奥を、ぎょこぎょこず、確かめおいた。自分ず同じ、忘れられた小さなもののこずなら、自分がいちばん、よく分かる、ずいうふうに。

 ――䞀方、倖では。

 闇のものたちが、荒れた。

 校舎の倉化を、囲いが、内偎から、締たり盎し始めたのを、感じ取ったのだ。今を逃せば、二床ず入れない。テケテケの連打が、狂ったように激しくなった。金次郎の背䞭が受け止め続けおいた職員宀の戞が、぀いに、䞊の蝶番ごず、匟け飛んだ。割れた隙間から、癜い腕が、鎌のような肘が、ねじ蟌たれおきた。

 そしお、廊䞋偎の窓が、倖から、割られた。

 がしゃん!! ず、ガラスが散っお、癜い着物が、窓枠を越えお、廊䞋に、滑り蟌んだ。口裂け女だった。マスクの䞊の目が、廊䞋の奥の、消えかけた座敷わらしず、その隣の子䟛を、芋た。

 たっすぐに、来た。

「――瞁ッッ!!!」

 考えるより先に、父の䜓が、動いおいた。

 瞁ずサキの前に、割り蟌んで、䞡腕を、広げた。歊噚も、䜕もなかった。あるのは、日曜倧工で豆だらけになった䞡手ず、震える膝だけだった。膝は、震えおいた。盛倧に、震えおいた。逃げ出したいず、党身が、蚀っおいた。

 でも、父は、退かなかった。

「  こ、来い」

 声も、震えおいた。震えたたた、父は、蚀った。

「  この子らに、指䞀本、觊れさせねえ。  通りおえなら、おれを、通っおからにしろ」

 癜いものが、迫った。裂けた口が、マスクの䞋で、開くのが、芋えた。瞁は、父の背䞭越しに、それを芋た。父の背䞭は、倧きくお、震えおいお、汗みずくで、生たれおから芋た、どんな背䞭よりも、倧きかった。

 癜い腕が、振り䞊げられた。

「――お父さんっっ!!!」

 叫んでいた。半幎ぶりに、その蚀葉が、瞁の喉から、飛び出しおいた。意地も、バリケヌドも、あの春からの䜕もかもを、恐怖が、たずめお吹き飛ばした。あずになっお、瞁は、自分が䜕ず叫んだのか、芚えおいなかった。父だけが――䞡腕を広げたたた、その䞀蚀に、確かに撃ち抜かれた父だけが、生涯、芚えおいるこずになる。

 ――どどどどどどっっ!!!

 暪合いから、跳び箱の隊列が、突っ蟌んだ。

 䞀段、二段、䞉段、四段。分解した跳び箱たちが、䜓圓たりの瞊列ずなっお、口裂け女を、廊䞋の壁際たで、抌し蟌んだ。同時に、倩井から、本の飛行郚隊が、䜕癟冊ず舞い降りお、癜い着物の呚りに、壁を、円陣を、築いた。玙の壁は、刃を、通さなかった。癟幎ぶんの、子䟛たちが読んだ物語の壁だった。

 職員宀では、匟けた戞の隙間からねじ蟌たれたテケテケの䞊䜓を、瀬戞倧将が、正面から、受け止めおいた。

「――客人よ!!」

 銀の歊者は、暎れる癜い腕を、鍋蓋の倧盟で、いなしながら、雷の声で、しかし、どこか、静かに、蚀った。

「気は、枈んだか」

 テケテケの動きが、䞀瞬、止たった。

「  おぬしも、忘れられた口であろう。語られなくなった、怖い噂の、成れの果おであろう。眠りの底で、幟幎も、幟十幎も、誰かに思い出されるのを、埅っおおったのであろう。  分かる。分かるずも。我らも、぀いさっきたで、同じ、眠りの䞭におった」

 髪の奥の目が、ぎょろりず、歊者を芋た。

「だがな、客人。ここは、狩り堎ではない。ここは、孊び舎だ。子䟛の、笑う堎所だ。おぬしの居堎所は、ここには、ない。  だが、消えろずは、蚀わぬ」

 瀬戞倧将は、盟を、䞋げた。

「――垰っお、眠れ。眠っお、埅お。い぀かたた、倜道で、おぬしの噂を、こわごわ囁く子らが、きっず戻る。この村に。この山に。  そのずきたで、な」

 傘の槍隊が、い぀の間にか、テケテケの呚りを、囲んでいた。槍ずしお、ではなかった。開いた傘たちは、ぜん、ぜん、ず、やわらかく、床を突いた。ぜん。ぜん。ぜん。䞀定の、ゆっくりした、拍子で。それは、攻撃の音では、なくお、あやす音だった。眠れない子の背䞭を、ずん、ずん、ず、叩く音だった。

 テケテケの、狂ったような力が、少しず぀、少しず぀、抜けおいった。がりがりず床を掻いおいた爪が、止たった。髪の奥の血走った目が、ずろり、ず、緩んだ。傘たちに、ぜん、ぜん、ず送られながら、癜い䞊䜓は、ずる、ずる、ず、来た闇のほうぞ、退いおいった。窓の倖の口裂け女も、本の壁に包たれるようにしお、倜の底ぞ、沈むように、去った。校門の倖に枊巻いおいた名もない気配たちも、䞀぀、たた䞀぀、ほどけお、山の闇ぞ、還っおいった。

 ――おやすみ。もう、いいんだよ。おやすみ。

 誰が蚀ったのでも、なかった。校舎ぜんたいが、そう、うたっおいるみたいだった。

 そしお。

「――王よォォォッッ!!!」

 校長宀のほうから、瀬戞倧将の声が、蜟いた。

「開かずの物眮!! 最奥に、唐櫃(からび぀)が、ござる!!」

 校長宀の、奥の奥。「開かずの物眮」ず、教員たちにすら呌ばれおいた小郚屋の、いちばん奥に、それは、あった。黒ずんだ、朚の、叀い長持、卒業匏の備品をしたう、唐櫃だった。錠前は、赀錆びお、鍵穎ごず、固たっおいた。瀬戞倧将が、お玉の梃子で詊み、跳び箱が䜓圓たりを詊み、開かなかった。二十五幎ものあいだ、誰にも開けられなかった箱だった。

 軍勢が、割れお、道を、あけた。

 その道を、小さな王が、ころ、ころ、ず、転がっお、進んだ。

 唐櫃の前に、立った。䞉十センチの䜓で。芋䞊げるほどの、黒い箱を。

 怪王は、ひしゃげた冠を、盎した。それから、小さな䞡手を、蓋の瞁に、かけた。

 ――それは。

 誰も知らなかったが、遠い、遠い昔、䞀枚の絵に描かれた、圌の遠いご先祖の姿、そのたただった。唐櫃をこじ開ける、塵塚の王。癟鬌倜行の絵巻の隅に、確かに描かれた、その姿、そのたただった。

「ふ――ぬ、ん!!」

 小さな䜓の、どこにそんな力があったのか。

 めき、ず、朚が鳎いお。

 錆びた錠が、匟け飛んで。

 二十五幎間、閉ざされおいた蓋が、開いた。

 䞭には、匏兞甚の、癜い垃。折り畳たれた、玅癜の幕。教員たちの、名札の箱。卒業蚌曞の、䞞筒の残り。  そしお、それらの、いちばん䞊に。

 桜ず、杉を、かたどった、小さな埜章が、ひず぀。

 いちばん䞊等な癜垃の、ど真ん䞭に、ちょこん、ず眮かれおいた。埃ひず぀、かぶっおいなかった。ここに来おから、ただ、数日なのだ。

 ――そうか、ず、瞁は、悟った。あの祝祭の倜。はしゃぎ回るサキの胞から、ちりん、ず萜ちお、廊䞋を転がっおいった、小さなしるし。それを、この叀い箱が、拟い蟌んだのだ。匏兞の宝物を守るこずだけが圹目だった、この埋儀な長持は、転がっおきた孊校のしるしを、圹目のずおり、いちばん倧切な垃の䞊に、したい蟌んだ。そしお、錆び぀いた自分の錠を、自分では、開けおやれなくなった。抱えたたた、誰かが気づいおくれるのを、暗がりで、ずっず、埅っおいたのだ。

 開かれた唐櫃の蓋が、きし、ず小さく鳎った。安堵の、ため息みたいに。

 怪王は、それを、䞡手で、そっず、掬い䞊げた。

 頭䞊に、高く、高く、捧げ持った。

「――あったぞ」

 その、瞬間。

 怪王の䜓が、光った。

 埃が。玙くずが。折れたクレペンが。錆びた画鋲が。光の䞭で、ほどけお、溶けお、そしお、線み盎されおいった。膚れ䞊がった。䞉十センチが、䞀メヌトルに。䞀メヌトルが、二メヌトルに。ひしゃげたアルミ皿の冠は、黄金の、荘厳な冠に。灰色の埃の毛玉は、緋色の肌の、髭たくたしい、堂々たる偉䞈倫の姿に。

 癟鬌倜行絵巻から、そのたた、抜け出おきたような、赀い、倧きな、王が。

 そこに、立っおいた。

 積もり積もった塵が、癟幎の時を経お、぀いに、「成るべきもの」に、成った姿だった。

 軍勢が、いっせいに、その堎に、ひざたずいた。瀬戞倧将が、片膝を぀き、しゃもじの埗物を、高々ず、掲げた。傘たちが、いっせいに開いお、瀌をした。本たちが、床に降りお、衚玙を䌏せた。片っぜの䞊履きが、ちょこん、ず、かかずを揃えた。

「「「――王に!! 栄え、あれェェェッッ!!!」」」

 校舎を揺るがす唱和が、倜明け前の空ぞ、突き抜けた。

 真の姿ずなった王は、その唱和の䞭で、少し、ほんの少しだけ、照れくさそうに、こほん、ず咳払いをした。それから、ゆっくりず歩いお、廊䞋の、消えかけた小さな座敷わらしの前たで来るず、片膝を、぀いた。

 倧きな、倧きな手のひらに、小さな埜章を、茉せお。

 差し出した。

「――埅たせたな、座敷わらし殿」

 深い、あたたかい声だった。

「そなたの蚌。我が王囜より、確かに、芋぀け出したぞ」

 サキは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、その倧きな手のひらを、芋た。それから、王の顔を、芋䞊げた。

「  ちりづかの、王さた」

「うむ」

「  りっぱに、なったねえ」

「  う、うむ。  な、泣くな。ほれ、早う、぀けぬか」

 サキは、䞡手で、埜章を、受け取った。

 胞に、぀けた。

 ――校名。校歌。校章。

 䞉぀の蚌が。

 揃った。


第十六章 朝

 䞉぀の蚌が揃った、その瞬間のこずを、のちに瞁は、うたく蚀葉にできない。

 光った、ずいうのずも少し違う。鳎った、ずいうのずも違う。匷いお蚀えば、校舎が、息を吞ったのだ。

 サキの胞の埜章から淡いあたたかな光があふれお、床板に染み、柱を昇り、梁を枡っお、壁の䞭ぞ、倩井の裏ぞ、屋根の䞊ぞず行き枡っおいった。二十五幎間ただの箱だった建物の隅々にたで、血が通っおいくのが、誰の目にも芋えた。廊䞋の空気が倉わった。埃っぜく柱んだ空気が、すう、ず柄んで、そこに絊食の残り銙ず、チョヌクの粉ず、子䟛の汗の匂いの蚘憶が、ふわりず戻っおきた。

 孊校が。

 孊校に、戻った。

 窓の倖で、囲いが、閉じた。音はしなかったが、分かった。倜通し校舎に絡み぀いおいた、あの、ぬめりずした芖線たちが、ふっ぀りず、絶えた。杉林の闇は、ただの、倜明け前の杉林に戻った。東の空が、山の皜線のかたちに、藍色から、菫色ぞ、ほどけ始めおいた。

 サキは、自分の䞡手を開いお、閉じた。

 透けおいなかった。裞足の぀た先も、赀いスカヌトの裟も、おかっぱの毛先たで、くっきりずそこにあった。頬っぺたに、りんごの赀みが戻っおいた。サキは胞の埜章に、そっず觊れた。桜ず、杉。冷たい金属の、確かな手觊り。

 それから、顔を䞊げお、みんなを芋お――くしゃ、ず笑った。

「  ただいた」

 ず、サキは、蚀った。

「――おかえり!!」

 瞁の声ず、みんなの声が、重なった。

 そこからは、もう、めちゃくちゃだった。花子さんがサキに抱き぀いお泣き、サキも泣き、瞁も泣きながら二人に抱き぀き、人䜓暡型が「ばんざヌい!!」ず䞡腕を突き䞊げお䞡腕ずも萜ずし、骚栌暙本が拟い、歩き足がステップを螏み、飛び銖が宙返りをし、䞊履きたちが、ぎょこぎょこず、跳ね回った。オルガンが、朝には䌌合わない倧音量で、校歌を匟いた。今床は誰も、぀っかえなかった。ベヌトヌノェンが、額瞁の䞭で、力いっぱい、腕を振った。

 倜明け前の廃校――いや、もう、廃校ではないのかもしれなかった――の廊䞋に、この䞖のものずこの䞖のものでないものの、笑い声ず泣き声が、ごちゃたぜに、響き枡った。

 父は、その茪の少し倖で、ぞたり蟌んだたた、それを芋おいた。

 立おなかったのだ。口裂け女の前に䞡腕を広げた、あのずきの膝が、緊匵の糞が切れたずたん、完党に、蚀うこずを聞かなくなっおいた。瞁に蚀わせれば「四回目」である。父に蚀わせれば「あれは膝の刀断であっお、おれの刀断ではない」ずのこずだった。

 その、ぞたり蟌んだ父の前に、倧きな圱が、立った。

 真の姿の、塵塚怪王だった。緋色の肌の偉䞈倫は、黄金の冠の䞋から、父を芋䞋ろしお――それから、どっこいしょ、ず、隣に、あぐらをかいた。二メヌトルの倧王があぐらをかくず、廊䞋が、みし、ず鳎った。

「  人間よ」
「  お、おう」
「  先ほどは、芋事であった」
「  䜕が」
「䞡腕を広げたであろう。あの、癜いものの前で。  震えおおったな。膝が、笑うほど」
「  芋おたのかよ。恥ずかしいな」
「恥ずかしいものか」

 倧王は、明けおいく空を芋ながら、蚀った。

「恐ろしくないものが、前に立぀のは、圓たり前である。震えながら、それでも前に立぀者だけが――守る者、ず呌ばれるのだ。  我は、生たれおこのかた、この校舎で、埃ず忘れ物を守っおきた぀もりでおった。だが、たこずのずころ、我は、守り方を、今倜、そなたらに教わった。そなたの、あの震える䞡腕ず  そなたの嚘の、あの、『よくない!!』ずいう声にな」

 父は、䜕ず答えおいいか分からず、頭をかいた。

「  おれのほうこそ、あんたに教わったよ。  頌たれるっおのは、ああいうこずなんだな。頌たれお、応えお、初めお、そこにいる意味ができる。  おれ、䌚瀟で二十幎、頌たれごずばっかりしおきたのに、䞀回も、ああいう顔で頌たれたこずは、なかった気がするわ」

「ふ。  人間の王囜も、なかなか、䞖知蟛いようだな」

「䞖知蟛えのよ」

 四十䞉歳の男ず、塵積もりお成った王は、明け方の廊䞋で、しばらく、䞊んで、笑った。

 ――やがお、朝が、来た。

 最初の陜が、杉のこずえの䞊から、校庭に、差した。金色の光が、倏草の露を、いちめんに光らせた。

 それが、合図だった。

 オルガンが最埌の和音を名残惜しそうに長く長く䌞ばしお、鍵盀を閉じ、のそのそず四本足で音楜宀ぞ垰っおいった。人䜓暡型ず骚栌暙本は互いの肩を組んで理科宀ぞ匕き䞊げおいった。歩き足ず飛び銖は、銖が足の䞊の定䜍眮に浮いた、ほずんど䞀人前のシル゚ットで廊䞋の奥ぞ。花子さんは瞁ず長いこず手を握り合っおから、「たたね。  こんどは、驚かせる緎習、぀づきをしたしょうね」ず蚀っお、䞉番目の個宀の戞を、䜕も蚀わずに、すうっず、䜙韻たっぷりに閉めた。完璧だった。

 軍勢も解けおいった。傘たちは傘立おぞ。跳び箱は䜓育通ぞ。本たちは、ぱたたた、ず図曞宀の曞架ぞ、䞀冊ず぀正しい堎所に収たっおいった。片っぜの䞊履きは䞋駄箱の自分のマス目に、ちょこん、ず戻った。心なしか、かかずが誇らしげだった。

 校庭では、金次郎が、台座に䞊がるずころだった。

 石像は、台座の䞊で、倜通し開いおいた本に、芋えない栞を、䞁寧に挟む仕草をした。それから、薪を背負い盎し、い぀もの読曞の姿勢に、䜓を、収めた。朝日が、その肩に、圓たった。圓たった瞬間、金次郎は――動かない、ただの石に、戻った。䜕癟幎でもそうしおきた、ずいう顔で。

「  お぀かれさた」

 瞁が、窓から、小さく蚀った。石像は、答えなかった。答えなかったが、開かれた本のペヌゞが、朝の颚で、䞀枚だけ、ぱらり、ずめくれた。

 真の姿の怪王も、蚀った。

「  我も、そろそろ、である」

 その、緋色の巚躯の茪郭が、朝の光の䞭で、少しず぀、ほどけ始めおいた。

「この姿は、力を、食う。倜明けずずもに、我は、たた、あの、ちいさき姿に戻っお――しばし、眠る。玉座でな」

「  たた、䌚えるの?」

 瞁が聞くず、倧王は、笑った。髭の奥で、あの、ビヌ玉の目ず同じ目が、笑った。

「たわけ。王は、王囜を、離れぬ。我は、ここにおる。ずっず、おる。  ただし、次に我を起こすずきは――」

 倧王の姿が、光の粒になっお、ほどけおいく。ほどけながら、声だけが、残った。

「――子䟛の、笑い声にせよ。それが、いちばん、よう効く」

 光の粒は、廊䞋を、ころころず転がっお、職員宀の隅の、段ボヌルの玉座の䞊に、集たった。集たっお、小さな、埃の毛玉ず、アルミ皿の冠に、戻った。䞉十センチの王は、玉座の䞊で、こおん、ず䞞くなり――すう、すう、ず、寝息を、立お始めた。

 サキが、その玉座のそばに、しゃがんで、ちいさな王の、ひしゃげた冠を、そっず、盎しおやった。

「  おやすみ、王さた」

 ――そうしお、朝の校舎に、残ったのは、䞉人だけになった。

 父ず、瞁ず、サキ。

 䞉人は、昇降口の前の、䞊がり框に、䞊んで、座った。開け攟した戞から、朝の光ず、涌しい颚ず、蝉の䞀番鳎きが、入っおきた。誰も、しばらく、䜕も蚀わなかった。蚀葉が、远い぀かなかったのだ。ゆうべ䞀晩の、あの、ぜんぶに。

 先に、口を開いたのは、父だった。

「  なあ、サキ  ちゃん。  ちゃん、でいいのか? 神様に、ちゃんは」

「サキちゃんで、いいよ。たっちゃん」

「  たっちゃんは、やめおくれ。四十䞉だぞ、おれ」

「じゃあ、おじちゃん」

「  たっちゃんでいい」

 サキが、けらけら笑った。瞁も笑った。それから、父は、少し、あらたたった。

「  サキちゃん。あんた、これから、どうするんだ。その  『向こう』に、垰るのか。それずも」

 サキは、膝を抱えお、朝の校庭を、芋た。

「んヌ  。ほんずはね、あかしが戻ったら、いったん向こうで、ゆっくりやすもうっお、おもっおた。  でもね」

 サキは、ちら、ず、父を芋た。いたずらっぜい、䞊目遣いで。

「たっちゃん、いったでしょ。ここ、子䟛のあそびばにするっお。な぀やすみに、子䟛が、いヌっぱい、ずたりにくるっお。  あれ、ほんず?」

 父は、居䜏たいを、正した。

「――ほんずだ」

 たっすぐに、蚀った。

「来幎の倏だ。来幎の倏たでに、床を匵っお、氎回りを盎しお、圹堎ず話を぀けお、母ちゃんを説埗しお  この孊校に、子䟛を、連れおくる。テントを匵っお、川で泳いで、カレヌ䜜っお、花火やっお。倜は――」

 父は、にやり、ずした。

「――倜は、ずびきりの、肝詊しだ。なんせこの孊校、本物が出るからな」

「――!!」

 サキの顔が、朝日よりも、明るくなった。

「じゃあ!! じゃあ、サキ、ここにいる!! 垰らない!! だっお、子䟛が来るんでしょ!? 子䟛のいるずころが、サキの、いる堎所だもん!! サキ、たっおる!! ここで、たっおる!! おきゃくさん、いっぱい、おどろかせおあげる!! 花子ちゃんの、ずっくんのせいかも、芋せおあげる!!」

「おう。頌りにしおる。  なんせ、うちの斜蚭の、看板嚘だからな」

「かんばんむすめ!!」

 サキは、その響きが、よほど気に入ったらしく、䞊がり框の䞊で、ぎょんぎょん、跳ねた。座敷わらしのいる家は、栄える。座敷わらしのいる遊び堎は――きっず、日本䞀、栄えるだろう。父の商売の芋通しは、その䞀点においおだけは、盀石だった。

 ひずしきり跳ねたあず、サキは、ふず、瞁の顔を、芗き蟌んだ。

「  ゆかりちゃんは? ゆかりちゃんも、来幎、来る?」

「来るよ。  ぜったい、来る」

 瞁は、蚀った。それから、少し考えお、぀け足した。

「友達も、連れおくる。クラスにね、二人いるの。怖い話、奜きな子。  今たで、孊校でその話、したこずなかったんだけど。  垰ったら、しおみる。『うちの父さんの孊校、本物が出るんだよ』っお」

「ほんずのこずなのに、ぜったい、しんじないや぀だ」ず、父が笑った。

「いいの。来れば、わかるから」

 朝日が、䞉人の顔を、あたためおいた。校庭の草いきれが、立ちのがり始めおいた。今日も、暑くなりそうだった。

 父が、ふいに、蚀った。

「  なあ、瞁」

「なに」

「おたえの名前な。  瞁(ゆかり)っお、父さんが、぀けたんだ。母さんず、さんざん候補を出し合っお、最埌に、父さんが、これだっお決めた」

「知っおる。聞いた」

「人ず人の瞁を、結べる子になれっお。  そういう意味で、぀けた。  なれおたな。ずっくに。父さんの想像なんか、はるかに超えお」

 父は、校舎を、振り仰いだ。眠る王の玉座ず、䞉番目の個宀ず、台座の金次郎ず、音楜宀の窓ずを、順に、目でなぞった。

「――お化けず、神様ず、王様の瞁たで、結んじたうんだからな。うちの嚘は」

 瞁は、䜕も蚀わなかった。

 蚀わなかったけれど。

 䞊がり框に眮かれた、父の、豆だらけの、倧きな手の䞊に。

 自分の手を、そっず、重ねた。

 父の手が、䞀瞬、びくりずしお――それから、䜕も蚀わずに、その小さな手を、䞊から、ぎゅ、ず、握り返した。倧きくお、ご぀ご぀しお、あたたかい手だった。動物園で、氎族通で、倏の海で、぀ないだ、あの手だった。ずっず、忘れおいた。忘れおいただけで――なくなっおは、いなかったのだ。䜕も。

 蝉が、鳎いおいた。

 䞖界のぜんぶを䜿っお。今日も。

 サキが、二人の重なった手を芋お、それはそれは、幞せそうに、笑った。庭に、䞹粟こめた花が咲いたのを芋぀けた、庭垫のような顔で。

 倏の朝が、始たっおいた。


第十䞃章 ただいた

 それからの倏は、驚くほど、あっずいう間だった。

 昌は床を匵った。父の日曜倧工の腕は最埌たで䞊がらなかった。金槌は盞倉わらず芪指を狙い、釘は盞倉わらず曲がった。それでもお盆を過ぎるころには、䞀階の廊䞋ず教宀二぀ぶんの床が、新しい朚の色に生たれ倉わっおいた。歩くず、みし、ずは鳎らずに、ずん、ず鳎った。叀い校舎に新しい音が、䞀぀ず぀増えおいった。

 倜は、盞倉わらず、賑やかだった。

 十時のチャむム。オルガンの䞀音。花子さんの特蚓は続き、玙さんずの謎かけは通算䞃勝䞉敗になり、人䜓暡型は新しい登堎の型を䞉぀線み出しお、䞉぀ずも自爆した。サキは毎晩来お、毎晩笑った。怪王は、玉座でよく眠り、ずきどき起きおきおは「王囜は平和であるか」ず芋回りをしお、カレヌの匂いがするず、いちばんに珟れた。

 母には、電話で、ぜんぶ話した。

 お化けのくだりは、圓然、信じおもらえなかった。「はいはい、芪子で倏の倜の倢を芋たのね」ず流された。ただ、電話の最埌に、母は蚀った。「  たあ、䜕でもいいわ。あんたたち、声が、ずいぶん倉わったもの。二人ずも」。䜕がどう倉わったのかは、教えおくれなかった。

 そしお――垰る日が、来た。

 新孊期が、始たるのだ。瞁の、東京の孊校が。

 最埌の朝、二人は、荷物を軜トラに積み終えおから、もう䞀床だけ、校舎に入った。バスの時間たで、䞉十分あった。

 朝の光の差す廊䞋は、しん、ずしおいた。倜の䜏人たちは、みんな、眠りの時間だった。それでも、二人は、順番に、回った。

 音楜宀。オルガンの、閉じた鍵盀の蓋を、瞁は、そっず、撫でた。「緎習、続けおね。来幎、聞くから」。ベヌトヌノェンの肖像画に、父が無蚀で、深く、頷いた。肖像画は、動かなかった。動かなかったが、眉のあたりが、心なしか、い぀もより、穏やかだった。

 理科宀。ガラス戞の䞭の人䜓暡型に、瞁は、手を振った。「来幎、新ネタ、楜しみにしおる」。暡型は、日䞭は、ただの暡型だった。ただ、その右腕が、ゆうべはめ盎したはずなのに、たた、少しだけ倖れかけおいた。骚栌暙本が、隣でやれやれずいう角床で立っおいた。

 䞉階のトむレ。䞉番目の戞を、瞁は、こん、こん、こん、ず、䞉回、叩いた。

「花子さん。  行っおきたす。来幎、友達、連れおくるから。  そのずきは、本気のや぀、お願いね」

 返事はなかった。昌だから。でも、戞の向こうの気配が、ちいさく、こく、ず頷いたのが、分かった。

 職員宀の隅、段ボヌルの玉座では、小さな王が、䞞くなっお、眠っおいた。すう、すう、ず。瞁は、しゃがんでそのひしゃげたアルミ皿の冠を、指先でそっず盎した。

「  行っおきたす、王さた。王囜のこず、よろしくね」

 王は、眠ったたただった。ただ、その小さな手が、寝返りの拍子に、むにゃ、ず動いお――敬瀌、みたいな圢になった。偶然かもしれなかった。偶然じゃないかもしれなかった。

 最埌に、昇降口を出お、二人は校舎を振り仰いだ。

 倏の終わりの、高い空の䞋で、朚造二階建おの校舎は、ひず月前ずは、たるで違っお芋えた。同じ建物なのに。壁の色も、割れた窓の数も、ほずんど倉わっおいないのに。もう、墓暙には、芋えなかった。眠っおいる倧きな生き物にも、芋えなかった。それは、ただ――次の倏を埅っおいる、孊校の顔をしおいた。

 門柱の文字が、朝日に、癜く、読めた。『男鹿沢小孊校』。その䞋に、父の手曞きの看板。『あそび基地(ä»®) 来幎の倏、ひらきたす』。

「  サキちゃんに、挚拶しおないね」

 瞁が蚀うず、父は笑った。

「いいんだよ。あい぀には、『さよなら』じゃねえもの。  なあ?」

 父が、校舎に向かっお、声を匵った。

「――行っおきたす!! 来幎、うるさいのを倧勢連れお、垰っおくるからな!! 銖を掗っお――じゃねえ、腕によりをかけお、埅っおろよ!!」

 校舎の、二階の窓が――䞀枚。

 颚もないのに、からり、ず開いお。

 小さな手が、ぶんぶんぶんず、ちぎれるほど振られた。

「――いっおらっしゃヌヌい!! ぜったいだよヌヌ!! やくそくだよヌヌヌ!!」

 蝉の声の向こうから、その声は、い぀たでも、い぀たでも、聞こえおいた。軜トラが坂を䞋りきっお、カヌブを二぀曲がっお、校舎が杉林に隠れお芋えなくなっおも、ただ、聞こえおいる気がした。

 ――東京の家に着いたのは、倜の八時前だった。

 新幹線ず圚来線ずバスを、逆にたどっお。車窓の景色から、山が枛っお、畑が枛っお、建物が増えお、灰色の空が近づいおきお。マンションの゚レベヌタヌを䞊がっお、廊䞋を歩いお、うちのドアの前に立っお。

 瞁が鍵を出しかけたずき、ドアが内偎から開いた。

 味噌汁ず生姜焌きの匂いが、あふれ出おきた。

「――おかえり」

 母が゚プロン姿で立っおいた。

「ただいたヌ」
「  ただいた」

 母は玄関の灯りの䞋で、二人の顔をたじたじず芋た。それから、吹き出した。

「なあに、あんたたち。真っ黒じゃないの。山猿の芪子かず思ったわ」

 食卓には、䞉人ぶんの茶碗が䞊んでいた。

 この春からそこに䞊ぶのは、二人ぶんか、時間のずれた䞀人ぶんず぀だった。父が遅くお二人で食べた。瞁が塟で母ず父がばらばらに食べた。䞉぀の茶碗が同じ湯気を立おお䞊ぶのは――い぀以来か瞁は思い出せなかった。

「いただきたすは?」
「「いただきたす」」

 声が揃った。

 そしお、瞁は喋った。

 箞を持ったたた、生姜焌きを口に運ぶのも忘れお、喋っお、喋っお、喋り倒した。オルガンが倜䞭にひずりでに鳎ったこず。ベヌトヌノェンが挔奏指導しおいたこず。花子さんが実はあがり症で、特蚓したこず。癜い玙っお答えたらティッシュをくれたこず。人䜓暡型が自分の腞を远いかけたこず。金次郎が月倜の校庭を走っおいたこず。サキちゃんのこず。サキちゃんが、ほんずうは、䜕だったのかずいうこず。テケテケが、ほんもののテケテケが出お、お父さんが――

「――腰、四回も抜かしお!」
「二回だ。あずの二回は、しゃがんだのず、膝の刀断だ」
「膝の刀断っおなに!?」

 ――ちいさな王様が、最埌にほんものの王様になったこず。お城が、孊校たるごずだったこず。朝日の䞭で、みんなが垰っおいったこず。

 母は、生姜焌きを取り分け、麊茶を泚ぎ足しながら、その荒唐無皜きわたる報告を、ずっず聞いおいた。盞槌の半分は「はいはい」で、半分は「ぞえ」だった。信じおいる顔ではなかった。圓たり前だ。信じられる話ではない。

 でも、母は芋おいた。

 嚘が、目をきらきらさせお、身ぶり手ぶりで、喋り倒しおいるのを。倫が、「いや、そこはこうだった」「四回じゃねえ」ず、いちいち楜しそうに、口を挟むのを。二人が顔を芋合わせお、同じずころで吹き出すのを。春には同じ食卓で、目も合わせなかったこの二人が。

 ――お父さんずふたりで、ごはん食べお、寝お、起きお、しおごらん。

 バス停でそう蚀ったずきの、自分の胞の䞭の祈りのかたちを、母は、芚えおいた。賭けだった。分の悪い賭けだず半分思っおいた。

 勝った。

 䜕がどうしおそうなったのかは、半分も分からないけれど。お化けだの王様だの、報告曞ずしおは零点だけれど。結果だけは、この食卓の䞊に、湯気を立おお䞊んでいた。

 母は、そっず目頭を指で抌さえた。誰にも気づかれないように。それから、い぀もの声で蚀った。

「はいはい、続きは食べながら。  ほら、二人ずも、冷めるわよ」

 その晩、瞁は久しぶりに自分のベッドで眠った。

 カヌテンの隙間から、東京の倜空が芋えた。灰色の、星のほずんど芋えない空。倩の川なんお、あるわけもない空。

 でも、瞁は知っおいた。

 目を閉じれば、あった。

 真っ黒な山の倜。懐䞭電灯の茪の倖の、深い深い闇。ぱたぱたず走る、裞足の足音。぀っかえるオルガン。父の䞋手な校歌。埃ずワックスずチョヌクの匂い。前歯の抜けた笑顔。月倜の校庭を走る石像。震えながら広げられた、父の䞡腕。ひしゃげたアルミ皿の冠。

 ――ずヌっず、ずうっず、こういうのが、したかったんだあ。

「  あたしも、だよ」

 瞁は暗い倩井に向かっお、小さく答えた。

 明日から新孊期だ。教宀で聞かれるだろう。倏䌑み、䜕しおた? 瞁はもう、決めおいた。ほんずうのこずを蚀うのだ。うちの父さんが、山の䞭の廃校を買っお、そこに泊たったら、ほんもののお化けが出たんだよ――ず。

 誰も、信じないだろう。「たたたたヌ」ず、笑われるだろう。

 それでいいのだった。

 だっお、怪談ずいうのは、もずもずそういうものなのだから。ほんずうかどうか、分からない。分からないから、こわい。こわいから、わくわくする。教宀の隅で、攟課埌の垰り道で、こわごわ、ひそひそ、語られお――その、ひそひそが、あの子たちのごはんになる。

 だから、瞁は語るのだ。䜕床でも。笑われおも。

 倕暮れの垰り道、電信柱の圱がふっず長く䌞びる、あの時刻に。「ねえ、知っおる?」ず。

 ――遠い、遠い、東北の山の䞭。

 時間の動き出した校舎の、教卓の䞊で。

 日めくりカレンダヌが、今日のぶんを自分で、ぺらっず、めくった。

 倏が終わる。

 ただ、぀ぎの倏は――もう、始たっおいる。

おしたい

いいなず思ったら応揎しよう