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新訳 走れメロス

    あらすじ
    「狂気の暴君」と怯えられるシラクス王ディオニス。王は、人間の適正を本能で見抜く風変わりな羊飼い・メロスを試すため、3日間の命の契約を結ぶ。
    しかし、隣国の奇襲により、盤面は本物の戦争へ。
    「王命だ、メロス。城へ走れ!」
    友の命、王の命、そして国の命運をその足に託され、メロスは常人の限界を超えた爆発的な速度で、シラクス城へと激走する――。
    孤独な覇王ディオニス。冷酷な知将セリヌンティウス。そして民を自発的に熱狂させる光の象徴メロス。三人の怪物の歯車が噛み合った時、大陸の命運を賭けた本物の戦争が始まる。
    古典の名作を圧倒的な熱量とスケールで描き直す、新訳・ファンタジー戦記。

    第1幕:黒い部屋の共謀 

    混迷を極める中央大陸のほぼ中央に位置する、都市国家シラクス。 

    その王城の最深部、張り巡らされた複雑な地下通路のさらに先。

    そこには、歴代の王だけが密かに受け継いできた、一般の宮廷人が存在すら知らぬ「秘密の部屋」があった。

    部屋は狭いが、並べられた調度品はどれも数百年前の年代物であり、石壁の部屋でありながら、恐ろしく格式高い空気が漂っている。

    蝋燭の細い炎が、重厚なマホガニーの机と、そこに用意された二つのワイングラスを静かに照らしていた。

    その部屋の主、ディオニス王は、椅子の背にもたれかかり、漆黒の静寂の中に佇んでいた。

    黒髪に、妖しく燃えるような赤い瞳。

    若くして大陸平定の野望を抱き、数々の死線をくぐり抜けてきたその肉体は、衣服の上からでも分かるほど筋骨隆々としており、ただそこに存在するだけで周囲の空気を歪めるような、圧倒的な圧力を放っている。 

    そんなディオニスは、今その存在を消すかのように静かだった。

    市井の民草は彼を「人を信じられなくなった狂気の暴君」と呼び、高官たちは連日の粛清に怯えていた。

    3ヵ月前、王太后である義理の母と異母妹、異母妹夫を断頭台へと送った。隣国カリブディスから婿を迎え、ディオニスの暗殺を企てていたからだ。
    シラクスは良質な鉄鉱石の産出国。鉄を用いた武器製造技術は、周辺国への圧力そのものだった。
    急に決まった異母妹の婚姻、裏で動いた鉄の不自然な流通。そして、あの暗殺未遂。 

    脳裏に異母妹の「私は知りません!」という叫びがこびりつく。
    心優しいあいつは、何も知らなかったのだろう。テグ川を使った鉄鉱石の横流しも、カリブディス出身の王太后に言われるまま、ただ署名を重ねただけだ。 
    あいつの心の弱さは、放っておけば第二第三のカリブディスを生む。
    国家を、腐らせる。
     
    ディオニスはワイングラスになみなみと真っ赤なワインを注ぐと、一気にあおった。 

    コン、と硬い音が響いた。

    王が視線を向けた先、部屋の隅の、光すら届かない完全な死角から、突如として「影」が染み出すように現れた。

    いつの間にそこにいたのか、扉が開いた気配すら無かった。

    「……相変わらず、とんでもない隠密性能だな。おい。」

    現れた男を見て、王はフッと不敵に口元を歪めた。

    その口調には、昼間の玉座で見せるような他者を圧殺する威厳はなく、どこか親しげで、砕けた響きがあった。

    「それはこちらのセリフですよ、ディオニス。」 

    影から現れた男――セリヌンティウスは、苦笑しながら銀髪をかき上げた。 

    「私はこれでも、この国の影を統べる長です。その私が、部屋に入るまであなたの存在に全く気づけなかった。それほどの巨躯でありながら、気配を完全に無に同化させられる。相変わらず人の枠を外れた王様ですね、あなたは。」

    セリヌンティウスは、細い指でグラスを弄びながら、王の対面の椅子に滑り込んだ。 透き通るような銀髪に、知性の塊のような眼鏡の奥の冷たい青い瞳。一見すると、重労働など到底できそうにない「学者」だが、その身のこなしにはブレのない確かな体幹が秘められている。

    「お前がわざわざこの部屋を指名して、潜入任務から戻ってきたんだ。答え合わせは終わっているんだろうな。」

    ディオニスは、セリヌンティウスの空のグラスに赤を満たした。 

    「ええ。」

    セリヌンティウスは、懐から数通の極秘書簡を机に滑らせた。

    「今回は不手際がありましてね。適当な潜入先が見つからず、危うくただの石工で終わるところでした。これで、あなたの覇道を阻む害虫はすべて掃除できます。」

    「見事だな。」

    ディオニスは赤い瞳を細め、書簡を一瞥した。

    「お前という影がいなければ、俺の首は今頃すっ飛んでいた。数年前、お前の家系が無能どもの嫉妬で没落していくのを、ただ見てることしかできなかったあの時の俺とは違う。……ようやく、あの頃の借りを返せるな。」

    「借り、ですか…」 

    セリヌンティウスは青い瞳をわずかに和らげ、静かに首を振った。

     「そんなものありませんよ、ディオニス。あの時、まだ無力な王子だったあなたと手を組み、歴史の表舞台から消えて影の長になることを選んだのは私自身です。あなたの覇道を間近で見るのは、何より楽しい。」

    「だったら、そろそろ影から上がってこい。」 

    ディオニスは身を乗り出し、圧倒的な圧力を放った。 

    「お前のその頭脳を、俺の正規の軍師として宮廷に戻したい。今度こそ、お前を陥れた欲に目が眩んだ高官どもをすべて力で踏み潰す力が、今の俺にはある。もうお前に、影で泥水をすすらせるつもりはない。」

    「足りないのですよ、ディオニス。」 

    セリヌンティウスはくくくと静かに笑い声を漏らした。 

    「あなたの圧倒的なカリスマと、私の冷徹な頭脳だけでは、この混迷の大陸は平定できません。恐怖と冷徹の統治だけでは、人間は首を垂れても、魂までは捧げない。力で有象無象を踏み潰せば、また次の『恐怖』への反発と『嫉妬』が潜行するだけです。いまの私たちには、民衆が自発的に熱狂し、命を懸けてついてくるような『光の象徴』が決定的に足りないのです。」

    「象徴だと?そんなもの必要無い。」

     ディオニスは赤い瞳を細め、苛立ちを隠さずに鼻で笑った。 

    「そんな都合のいい『英雄』がどこにいる。お前の描く統治の理想論のために、神話の聖人でも連れてくる気か。」

    「英雄でも、神話の聖人でもありませんよ。……ただの、しようのない羊飼いです。」

    セリヌンティウスの口元に、絶対の確信に満ちた笑みが浮かんだ。

    「羊飼いだ? お前、何を言っている。」

    「牧人のメロス。政治など欠片も知らない、己の泥臭さも怠惰もすべて剥き出しで肯定している、どこまでも凡庸な男ですよ。石工の採掘場で、そいつに出会いました。」

    セリヌンティウスはグラスを揺らし、その冷たい青い瞳に奇妙な熱を宿した。

    「あいつには、私たちが失った、そしてこの宮廷の誰もが持ち得ない奇跡が備わっています。――あいつは、他人に一切の『嫉妬』を抱かない。それどころか、人間の『適正』を本能で見抜く、恐ろしい目を持っているのです。」

    「適正だと?」

    「ええ。当時の私は、素性を隠して必死に慣れぬノミを振るい、鉄鉱石を穿っていました。手の皮を破り、血を流しながら。それを出稼ぎに来ていただけのメロスが、私の線の細さと手の動きだけで、初対面で見抜いたのです。 『お前、めちゃくちゃ頭が良いだろ。石なんか叩いてる場合じゃない。その細い指は、数字を扱うためにあるんだ。』」

    ディオニスは無言のまま、赤い瞳でその細い指を睨んだ。

    「あいつは、私の突出した知性に劣等感を抱くどころか、『宝の持ち腐れだ!』と大騒ぎし、そのまま石工の棟梁のところに殴り込んで、強引に掛け合って私を現場から引きずり降ろした。そうして私を、ギルドの帳簿担当の座に据えたのです。メロスのあの、裏表のない天然の人たらしぶりに圧されて、頑固な棟梁も首を縦に振るしかなかった。私は泥まみれの労働から解放され、テグ川から流入する鉄鉱石の全流通を、最前列で監視する特等席を手に入れた。」

    セリヌンティウスはグラスを干し、愛おしそうに目を細めた。

    「他人の才能を100%の純度で祝福し、その適正を最適な場所に狂いなく配置する直感。これこそが、かつて我々が嫉妬によって失った『将の器』そのものではありませんか。あの男を我が軍の将軍として据えれば、民は恐怖からではなく、その輝きに勝手に熱狂し、あなたの覇道のために、命を捨てる兵卒となります。」

    ディオニスは椅子の背にもたれかかり、赤い瞳を爛々と輝かせた。 

    「お前ほどの天才が、そこまでその男の『目』を買っているとはな。だが、人間は私欲の塊だ。そんな裏のない怪物がいるはずがない。そいつはお前を欺いているだけだ、セリヌンティウス。」

    「ならば、ディオニス。あの男の本質を試してみませんか?」

     セリヌンティウスは王の目を真っ直ぐに見据えた。 

    「メロスは妹への結婚の祝い品を買いに、この城下へ来ています。彼は日頃から狼を殺すために使う「短刀」を肌身離さず持っている。それを狙って『王暗殺の謀反人』として即座に捕らえてください 。激怒するあいつの身代わりに私がここに残り、三日の猶予を与えて放つ。テグ川の濁流、仕込まれた山賊。走るのをやめるための『極上の言い訳』を道中に配してやってもかまいません。断言しますよ、ディオニス。あいつは必ず、戻ってきます。」 

    ディオニスは、低く、愉悦に満ちた声で笑った。 

    「はは、いいだろう。お前がそこまで惚れ込むメロスとやらを見定めてやろう。」 

    若き覇王ディオニスは、傲然と頷いた。


    第2幕:不敵なる碧眼、王宮を値踏む

    1.

    シラクスの朝は、鋭利な刃物のような陽光と共に幕を開けた。

    連日の粛清によって血の匂いがこびりついた処刑場を窓の外に見下ろす、大理石の謁見の間。

    そこは、平伏する高官たちの怯えを含んだ呼吸の音すら、王の耳障りになるとして許されない静寂の檻であった。

    玉座に座すディオニス王は、顎を突き出し、退屈そうに赤い瞳を細めていた。 

    その巨躯から放たれる質量のごとき威圧感は、謁見の間に充満し、周囲の近衛兵たちの身体を硬直させている。

    だが、その張り詰めた空気を、正面の大扉から現れた「一人の男」の足音が容赦なく踏み砕いた。

    「おいおい、なんだってこんな物々しい場所に呼び出すんだ。俺はただ、村の妹の婚礼のために、祝宴の調度品と上等な葡萄酒を買いに街へ出てきただけだぞ。」

    現れたのは、粗末な羊皮の衣服をまとった若い男――メロスであった。

    陽光をそのまま反射したような鮮烈な金髪に、一切の淀みを知らない澄み切った碧眼。

    王宮の陰惨な色彩とは対極にあるその容姿は、存在するだけでその場を照らす「光」そのものであった。

    体格は、王のような威圧的な巨躯ではない。
    しかし、日々羊を追い、荒野を駆け、時には狼を素手で絞め殺す日常生活の中で、無駄なく、極限まで練り上げられた野生の肉体。

    衣服の上からでも、全腱がバネのように張り詰めていることが分かる、実戦的な体幹の持ち主であった。

    通常、覇王ディオニスの前に引き出された者は、その圧倒的な圧力に圧殺され、膝をつくか視線を彷徨わせる。

    しかし、メロスにはそれがない。彼の瞳には、王への畏怖も、玉座の黄金への羨望も、自身の境遇への怯えも、何一つ存在しなかった。

    ただ純粋に、「なぜ自分がここにいるのか」という素朴な疑問だけが、濁りのない碧眼に宿っている。
    ディオニスは、玉座の背にもたれかかったまま、鋭い眼光でメロスを観察した。 

    (……なるほど。これがセリヌンティウスの言っていた怪物か。) 

    王は本能的に理解した。

    この男には、統治者を脅かす最大の害悪である「嫉妬」という感情の回路が、生まれつき欠落している。

    他者と自分を比較して、その差に苦しむという精神のノイズがない。だからこそ、王の放つ覇気の圧力を、ただの「体格の良い男の気配」としてしか認識していないのだ。

    「無礼者め。王の御前であるぞ、頭を垂れよ!」 
    側近の将校が剣の柄に手をかけ、怒号を飛ばす。だが、メロスはその将校を一瞥すると、怒るでもなく、むしろ親しげに首を傾げた。 

    「あんた、めちゃくちゃいい声だな! 城の隅々まで響く。だけど、剣を握る右手の握力が、その声の迫力に全然追いついてないぞ。あんたのその長い手足と正確な発声は、前線で泥にまみれるより、後方で全軍の士気を高める伝令の長か、あるいは外交の使節に向いてる。そっちの方が絶対にいいって! 」

    「な、何を――」

    将校が顔を青ざめさせる。

    「あれ?隣のあんたは一緒に飲んでたやつじゃないか!美味そうに干し肉のスパイスを舐め取ってただろ。あの指の繊細な動きと、美味いものを見分ける舌……城の料理長にでもなればいいのに、なんでそんな物騒な鉄の棒なんか握ってるんだ? お、そっちのあんたは、いい脚の筋肉バネをしてんな。走るのがめちゃくちゃ速そうだ。」 

    謁見の間に、身内の恥部を暴かれたような、醜いざわめきが伝染する。

    「そこまでにせよ。」 

    ディオニスの低く地響きのような声が、謁見の間を支配した。

    将校は弾かれたように退がる。

    王は立ち上がり、ゆっくりと階段を降りた。

    一歩進むごとに、部屋の空気が物理的に重くなる。

    「メロスと言ったな。お前をここに呼んだのは、くだらぬ人間の値踏みを聞くためではない。……お前に、王暗殺の謀反の疑いがかかっている。その懐に忍ばせた短刀は何だ。お前の正体は、市井に紛れた敵国の暗殺者か?」

    ディオニスは、その獲物を見定めるべく、赤い視線を固定した。

    メロスの表情が爆発する。

    「冗談を言うな! この短刀は、村を襲う狼から羊を守るためのものだ。政治の理屈など知らん。人を疑うことしかできぬお前が、この国を蝕む最大の邪悪だ。」

    激昂し、しなやかな野生の肉体で王に向かって一歩を踏み出そうとするメロス。

    その瞬間、左右から十数人の近衛兵が群がり、彼を圧殺するように床へ組み伏せた。石床に顔を打ち付けられながらも、メロスの碧眼は死んでいない。

    王を真っ直ぐに見据え、激しい拒絶の光を放っている。

    「俺を殺したければ殺すがいい。だが、俺には一つだけ、果たさねばならぬ約束がある。村に残してきた妹の結婚式だ。あいつには俺しか身寄りがいない。式を無事に終えさせるため、三日間の猶予をくれ。式が終われば、必ずここに戻ってきて、お前に殺されてやる!」

    「ふははは!」 

    ディオニスは傲然と笑い声をあげた。セリヌンティウスの言った通りの台詞。だから、あいつは面白い。

    「三日間の猶予だと? 命惜しさに逃げ出すための極上の言い訳だな。お前が戻ってくるという証拠がどこにある。口先だけの羊飼いよ。」 

    「嘘は言わない! 俺の身体を担保にできないと言うなら――」 

    メロスが言葉を詰まらせたその時、玉座の影、大理石の柱の死角から、王の視線を受けて、一人の男が滑り出るように姿を現した。

    「――ならば王よ、私が彼の『人質』となりましょう」

    銀髪を揺らし、冷徹な青い瞳を持った男、セリヌンティウスがそこにいた。 メロスは碧眼を見開いた。

    「あ、あんたは……あの時の、帳簿係!」

    セリヌンティウスはメロスを見もしない。ただ事務的な冷徹さで王に跪いた。

    「ディオニス王よ。私がこの男の『人質』となります。三日後の日没までにメロスが戻らねば、私の首を撥ねてください。それで帳尻は合います。」

    「セリヌンティウス! なぜあんたが死ぬような真似をする! なぜ俺を信じる!」

    セリヌンティウスは初めてメロスの方を向き、その冷たい唇をわずかに歪めた。

     「メロス。お前は私を泥まみれの石工から引きずり降ろし、ふさわしい座を与えてくれた。ならば今度は、私が私の命を使って、お前の言葉の価値を証明して差し上げましょう。信じてもいいですよね?」

    「当たり前だ。お前の命は俺なんかよりずっと重い。ありがとう。これで、心残りは無い。必ず帰って来る。命に代えても。」

    その言葉の裏にあるセリヌンティウス真意――これが、彼を試すだけの芝居だとは、メロスは知る由もない。

    ただ、「自分のせいで、あの天才が死ぬ」ということだけが、メロスの脳裏に叩き込まれた。

    ディオニスは玉座に戻り、二人の男を見下ろした。
    王の口元には、愉悦の笑みが刻まれている。 

    「面白い。命の契約は成立だ。猶予は三日間。三日後の日没までに、この謁見の間へ戻ってこい。一秒でも遅れれば、セリヌンティウスの首は文字通り物理的に切断され、広場に晒される。セリヌンティウスを牢に連れて行け。」

    将校たちがセリヌンティウスの両脇を抑えた。連れ出されるセリヌンティウスに、怯えの色は無い。

    メロスには、セリヌンティウスからの疑いの無い信頼は何より守るべきものに思えた。

    「……行け、メロス。お前の『誠実』とやらを、俺に見せてみろ。」

    ディオニスの言葉で組み伏せられていた身体が解放される。

    「……必ず、戻る。あんたの命を、俺のわがままの犠牲には絶対にさせない!」  

    メロスは身体を起こすと、すでに見えないセリヌンティウスにそう誓うと、ディオニスを鋭く睨みつけ、脱兎のごとく謁見の間を飛び出していった。

    その背が重厚な大扉の向こうへ消え去るまで、ディオニスは微動だにせず、ただ視線だけでその軌跡を追っていた。
    激しい怒号の余韻が引いた謁見の間には、再び、支配者だけが許される重苦しい静寂が満ちていく。

    ディオニスはゆっくりと玉座の背にもたれかかり、深く、愉悦に満ちた息を吐いた。 狂気の暴君と怯えられるその赤い瞳の奥で、昏い灯火が揺れている。

    人間を私欲の塊と断じる王にとって、あの金髪碧眼の怪物は、自身の冷徹な世界観を揺るがしかねない「極上の不確定要素」だった。

    (どこまで走れるか、試させてもらうぞ。羊飼い――)

    その口元に傲然たる笑みを刻んだまま、王は去りゆく怪物の「速度」を、楽しむように値踏みしていた。

    2.

    その夜、シラクス城の北の塔。王族の幽閉牢に入れられたセリヌンティウスの元をディオニスが訪れた。

    鉄格子の奥のセリヌンティウスが、王を見据える。

    「メロスはいかがでしたか、我が王。」

    階段を登り切ると同時に鉄格子越しにかけられた声に苦笑を漏らす。

    「……呆れた奴だったな。暗殺の濡れ衣を着せられているというのに、己の無実を証明しようとすらしない。ただ妹の結婚式と、お前の命のことだけを喚いて飛び出していった。政治の『せ』の字も知らぬとは言え、己の保身という概念が致命的に欠落している。」

    王の言葉に、セリヌンティウスは静かに頷いた。 

    「ええ。自分より、他者を優先してしまう。それがメロスという男の致命的な歪みであり……同時に、我々にはない最大のバケモノ特性ですよ。」

    「フン。だが、自己犠牲に酔うだけの優しさなど、戦場では真っ先に全軍を破滅に導く。自分より他者を優先するような甘い男を、俺の大将軍として使えると思うか? セリヌンティウス。」

    ディオニスの赤い瞳が、冷酷な品定めのようにセリヌンティウスを射抜く。しかし、銀髪の知将は、その冷徹な青い瞳をわずかに細め、絶対的な確信を込めて首を振った。

    「誤解しないでください、我が王。あいつは自己犠牲の聖人などという、退屈な人形ではありません。あいつが自分を後回しにするのは、相手の価値を本能で正確に見抜いているからです。石工ギルドの時もそうでした。自分の労働環境の改善ではなく、『この男の頭脳をここに放置するのは国家の損失だ』と本能で理解したからこそ、あいつは動いた。……そして今、あいつは私の『命の価値』を理解しています。」

    セリヌンティウスは王の目を真っ直ぐに見つめ、その唇を不敵に歪めた。

    「道中にどれほどの天災を配そうと、刺客を放とうと、あいつは死に物狂いで走りますよ。己の無実のためではなく、この私の命を救うために。……あいつのその『他者を優先する優しさ』は、土壇場において、誰を、どこに配置すれば世界が最も美しく機能するかを絶対に間違えない、狂気的なまでの直感なのです。メロスは、土壇場で絶対に間違えません。」

    ディオニスは、低く、愉悦に満ちた声で笑った。 

    「はは、そこまで言うか。いいだろう、セリヌンティウス。お前が命を賭けたその『直感』、俺の手の内でじっくりと試させてもらうぞ。」

    「何をするおつもりですか?」

    ディオニスの言葉に違和感を感じたセリヌンティウスは嫌な予感を振り払うかのように尋ねた。

    「あいつが向かった先はテグ川のさらに先、西の国境近くだろう?」

    「まさか…。」

    「お前は3日は動けない。南のカリブディスは3ヵ月前に徹底的につぶした、もう動けん。西のオーグは日和見、どっちに転ぶかわからん。ちょうどいいからな。羊飼いを見定めるついでに見てくる。」

    「…。」

    「まだ、鉄鉱石の一部の行き先がわからないからな。念の為だ。」

    「…正気ですか。カリブディスとオーグの密約の可能性から、軍を動かさず隠密までやってのける「あなたという最大火力の単騎」が向かう事は戦術としては合理的ですが…。いや、それはあくまでも可能性。すぐに調べさせますから、王が自ら行く必要などありません。」

    「3日で戻る。こっちは軍馬だ、あいつの足よりは速い。城の衛兵に命じて荷の返却を少し足止めさせてもおいた。先に放った俺の『影』もいる。テグ川の手前で綺麗に網に掛かるはずだ。」

    「ちょっと待ってください!」

    詰め寄るセリヌンティウスを鉄格子が阻む。

    「どうせ暇だろう?代わりに政務を処理しておけ。こっちに運ぶように指示しておく。ついでに、プレゼントも用意しておいた。そちらも後で届けさせる。ありがたく受け取れ。」

    「何を言っているんですか!王!ディオニス!待ちなさい!ここから出しなさい!」

    「ははは。頼んだぞ。…俺がいない。影の長であるお前が動けない。さて、どうなるかな。」

    砂時計は、今、ひっくり返された。大陸を揺るがす「最高の将の器」を見定める覇王の視線が向けられた。


    第3幕:偽りの傭兵と、本物のバケモノ

    シラクス城の謁見の間を脱兎のごとく飛び出したメロスは、狂ったように街道を激走していた。 

    猶予は三日間。 

    一秒でも遅れれば、あの銀髪の誰よりも頭の切れるセリヌンティウスの首が物理的に切断される。

    その圧倒的なプレッシャーが、メロスのしなやかな野生の肉体を限界を超えて突き動かしていた。

    背負っているのは、一度は城の兵に没収されかけた、妹の結婚式のための祝宴の調度品と、上等な葡萄酒の樽だ。返却を拒む衛兵を、謁見の間で足元を震わせていたあの将校が、青ざめた顔で怒鳴りつけて強引に奪い返してきた。おかげで時間は食ったが、荷はすべて手元にある。

    「ハァ、ハァ……! 待ってろよ、セリヌンティウス。あんたの命を、俺のわがままの犠牲には絶対にさせない……!」

    だが、西の国境沿いを南北に流れるテグ川に差し掛かった時、前方に山賊に襲われている商人の荷馬車が視界に飛び込んだ。
    メロスは先を急いでいたが、素通りできない。それが、メロスという男だった。

    「やめろー!」

    メロスは碧眼をらんらんと輝かせ、速度を落とさずに叫びながら懐の短刀を引き抜き、山賊たちに突っ込んだ。

    メロスに勝算が無いわけではなかった。
    日々狼と戦う羊飼いである。しかし、山賊は山賊とは思えない連携をみせ、メロスを追い込んでいく。

    「運が悪かったな――」

    山賊の頭目が嘲笑い、メロスへ長剣を振り上げた。

    荷物を背負ったメロスが迎撃の姿勢をとるより早く、風を切り裂く凄まじい風切り音が鼓膜を打つ。

    ガキィン! と、火花を散らして頭目の長剣が弾け飛んだ。 どこからともなく飛来した一振りの短剣が、寸分の狂いもなく長剣の平ひらを射抜いたのだ。

    「なっ……!?」

    山賊たちが驚愕に目を見開いたその瞬間、短剣が放たれた街道の奥から、大地を鳴らす猛烈な蹄の音が響き渡った。

    現れたのは、一騎の軍馬。
    茶髪に茶瞳の旅の傭兵――無骨な革鎧で巨躯を覆ったディオニスが、風を巻き起こしながら凄まじい速度で突撃してくる。

    「射て! 射すくめろ!」

    頭目の怒号に反応し、死角に潜んでいた山賊の弓兵が放った数条の矢が、容赦なく軍馬の胸元へ突き刺さった。 激しいいななきを上げ、崩れ落ちる軍馬。 だが、巨馬が泥濘に沈み込む直前、ディオニスはすでに鞍を蹴り、弾丸のように虚空へと跳躍していた。

    着地と同時に、戦闘はわずか数十秒の「清掃」さつりくへと移行する。

    ブレのない体幹から繰り出される、最小限にして絶対的な暴力。 ディオニスの無骨な拳が頭目の顔面を正面から叩き割り、その巨体を岩壁へと叩きつけて一撃で絶命させた。 残る残党に対しても、流れるような無駄のない刺突。喉笛、心臓、頸動脈。王の暴力の最適配置により、十数人の山賊は一瞬にして物言わぬ肉塊へと変えられた。

    ふーと重い息を吐き、ディオニスは物言わぬ躯となった頭目の死体を見下ろした。

    (やはり、山賊などではないな……)

    手のひらに刻まれた強固な剣だこ、山賊が持つにはあまりに高価な鉄剣。そして、へし折れた剣の柄に刻まれているのは、隣国オーグ軍の紋章。
    メロスを襲わせるために差し向けたはずの自身の「影」は、ここに来る途中で既に殺されていた。慌てて向かった先にいたのが、山賊のなりをしたオーグ兵だったのだ。

    消えた鉄鉱石はオーグに流れた。ならば、カリブディスがオーグから受け取った見返りは何だ。盤面は既に、シラクス包囲網へと傾いているのではないか――。

    冷徹な戦況分析に脳を染め、最悪の戦況を予測して瞠目するディオニス。
    その王の思考を、少年のように無邪気で、しかし魂を直接揺さぶるような熱い声が、強引に現実へと引き戻した。

    「す、すげえ……!」

    メロスは足を止め、驚愕に染まった碧眼を見開いていた。

    普通ならその圧倒的な殺戮に恐怖するはずだが、メロスの瞳にあるのは、裏表のない純粋な「感嘆」だった。

    「あんた、なんて無駄のない動きなんだ! 敵の重心の崩れを完璧に見抜いて、一番少ない力で、一番確実に仕留めている。……あんたのその身体、その暴力は、こんなところで山賊退治や護衛の真似事で消費していいもんじゃないぞ。何万もの民を、いや、国そのものを丸ごと踏み従えて守るための『覇王の器』だ!」

    ピクリ、とディオニスの眉が動いた。 己の正体を知らぬはずの羊飼いが、その歪なまでの直感だけで、己の本質を100%の純度で祝福してみせたのだ。

    狂気の暴君と怯えられる己の暴力を、世界を統べる適正と評したこの怪物への独占欲が、ディオニスの胸中で鎌首をもたげる。

    「……口の減らない羊飼いだ。」 

    ディオニスは偽装した茶色の瞳の奥に愉悦を隠し、短剣の血を拭った。 

    「俺は傭兵のディオ。訳あってその先にある国境の村へ向かっている。山賊の残党がまだいる。お前、明日までに村へ戻り、また城へ引き返すのだろう。……俺が護衛として同行してやる。」

    「本当か!? 助かるよ、ディオ!商人!護衛してくれるってよ!」

    そういいながら、この荷馬車の責任者である商人を連れてきた。

    「本当に助かります。お礼に、荷馬車にお乗りください。幸い、こちらの馬は無事です。国境の村には支店もありますので、そちらで入用のものはそろえさせていただきます。」

     「それは、助かる。ディオ、この馬車に乗れば体力を温存したまま、夕方には村に着くことができるぞ!」

    「そうと決まれば、荷台にお乗りください。すぐに出発します。山賊が戻ってきたら困りますからね。」

    商人の言葉に、ディオニスとメロスは荷台に乗り込んだ。

    荷馬車は国境へ向けて軽快に駆ける。整備された路面が、かつての悪路を忘れさせていた。

    荷台の揺れの中で、ディオニスは微かに瞑目し、つぶやく。

    「…… こんな国境沿いの、いつ山賊が出るかも分からぬ荒れ果てた街道を、商人が行きかうようになっていたんだな。」

    「すごいだろ! この1年で、この国の流通は劇的に変わったんだ。」 

    メロスの碧眼が、心からの感謝と熱量で爛々と輝く。

    「城のあの新しい王様がさ、欲深い高官どもを片っ端から引きずり降ろして、街道の関所を統合し、法律を一新しただろ? おかげで、それまで貴族に法外な通行税を毟り取られていた商人たちが、安心してこの国境まで往来できるようになったんだ。路面も綺麗になって、馬車の速度も倍になった。市井の奴らは王様を『狂気の暴君』なんて怖がってるが、俺は知ってるぞ。あの王様のおかげで、俺たち末端の民がどれほど救われているか。あの王様は、ただ人を殺したいだけの狂人じゃない。この大陸全体の流れを完璧にコントロールしようとしている、本物の覇王だ!」

    「!」 

    ディオニスは、衝撃に目を見開いた。

    宮廷の誰もが「暴政」と怯え、理解しようともしなかった己の孤独な統治の「真意」を、この政治とは無縁のはずの羊飼いが、完璧に理解し、純度100%の熱量で肯定していた。

    メロスの裏表のない、魂を直接揺さぶるような熱量。

    完璧な鉄の仮面を被っていた覇王の唇から、初めて、抑えきれない「本音」が漏れ出た。

    「……当然だ。」

    ディオニスの声が、旅の傭兵のそれではなく、地響きのような絶対者の響きを帯びる。

    「無能な有象無象が燃やす『嫉妬』と『私欲』が、国家の足を引っ張る。法を無視し、己の利益のために民を貪る害虫どもを力で踏み潰さねば、秩序など生まれん。……圧倒的な力で大陸のすべてをまとめてこそ、誰もが戦いのない、平和な生活を守ることができるのだ。王とは、そのためにある。」

    その言葉の持つ、あまりにも冷徹で、あまりにも巨大な絶対の意志に、メロスは一瞬圧倒されたように目を丸くした。

    だが、すぐに悪戯が成功したかのような、最高に不敵な笑みを浮かべた。

    「はは! やっぱりあんた、ただの傭兵じゃないな、ディオ。その、世界を丸ごと手に入れる理想論、嫌いじゃないぜ。」

    そう笑いながらも、メロスの碧眼は、男の横顔に刻まれた悍ましいほどの孤独と巨大な信念を冷徹に捉えていた。他人の適正を狂いなく見抜くメロスの直感が、ドクン、と熱く脈打つ。

    ――この男は、世界を統べるために生まれた本物の怪物だ。この怪物が才能を見いだされ大陸をまとめたら、生活はもっと豊かになる。

    メロスの予感が訳も無く胸を熱くした。

    歪な直感の怪物を乗せた馬車は、夕刻、国境の村へと滑り込む。

    王の赤い瞳の奥で、冷徹な値踏みは終わりを告げていた。己の孤独な統治の深淵を躊躇なく肯定してみせたこの怪物と、魂の契約を結ぶ。その支配欲だけが、無言の王の中で静かに、深く、加速していた。

    第4幕:王命だ、メロス。城へ走れ!

    村の結婚式は、凄惨な宮廷とは対極にある、素朴な祝祭であった。 

    急に戻ってきたメロスをメロスの妹はいつもの事とばかりに受け入れ、気が付けば村一丸となりわずか数時間で結婚式の準備が整った。

    夜半に行われた結婚式だったが、メロスを筆頭に誰もがその結婚を祝福していた。

    変装したディオニス王――茶髪に茶瞳という、自身の圧倒的な覇気を完璧に無へと同化させた「傭兵」は、騒がしい祝祭の端で、静かに葡萄酒のグラスを傾けていた。

    その赤い瞳を隠す退屈な茶色の瞳は、主役として民に担ぎ上げられている金髪碧眼の男、メロスがいた。

    メロスは、他人の才能を祝福するだけの男ではなかった。

    彼は、ただそこにいるだけで、無条件に他者を惹きつけ、熱狂させる「光の象徴」そのものであった。 

    しかし、メロスには嫉妬がない。そこにあるのは、純粋な好意であり、だからこそディオニスも嫉妬する事が無い。それがこれほど心地よいものだとは知らなかった。

    (セリヌンティウスの言う通りだ。この男を将としておけば、大陸平定も夢物語ではなくなる。) 

    その夜更けのことだった。

    祝宴が終わり、深い静寂に包まれた村の空気に、わずかな「異変」が混じった。 

    風に乗って漂ってきたのは、微かに甘い、しかし有機的な生命を強制的に停止させる、昏睡性の毒香――。

    「……チッ、この匂い、カリブディスの暗殺特化部隊が使う『冥府の煙』か」 

    ディオニスは暗闇の中で音もなく跳ね起きた。

    幼少期から幾度となく暗殺の毒を盛られ、肉体に強固な薬物耐性を構築している王にとって、この程度の毒香は脳をわずかに刺激する程度のノイズに過ぎない。 

    王は即座に周囲を見渡した。

    村人たちは、幸せな酔いの中の睡眠ではなく、毒によって強制的に深い昏睡状態へと叩き落とされている。

    だが、その全滅したはずの村の中で、もう一人、激しく咳き込みながら床を叩いて立ち上がる影があった。 

    金髪を振り乱し、碧眼をらんらんと輝かせた男――メロスだった。

    「ゲホッ……なんだ、この空気の重さは。風が死んでいる。狼が襲ってきた時の何倍も、山全体が拒絶の匂いを発しているぞ……!何かが起こっている!」 

    メロスは胸を押さえながらも、その野生の超人的な五感本能だけで、毒の全域拡散を察知し、精神を覚醒させていた。

    常人ならば抗う術なく深い昏睡へと叩き落とされる悪辣な眠りの煙を、強靭な精神力と圧倒的な「生存本能」によって力づくで拒絶し、覚醒を維持していた。

    「おい、ディオ! 無事か! 起きろ、何かが来る!」 
    メロスが変装した王の肩を掴む。

    その瞬間、村を囲む闇の中から、音もなく黒い装束をまとった集団――隣国の隠密先遣隊が、刃を煌めかせて次々と躍り出てきた。

    その数、およそ五十。

    「……静かにしろ。」 

    変装した王は、メロスの手を払い、懐から大振りの短剣を抜いた。 

    「俺の背後にいろ、羊飼い。……夜襲の処理は、傭兵の領分だ。」

    次の瞬間、メロスは言葉を失った。 

    茶髪の傭兵の身体から、それまで完璧に消されていた「圧倒的な質量」が爆発した。

    一歩の踏み込みで石床が砕け、王の短剣が鋭い弧を描くごとに、隣国の暗殺者たちの首が文字通り空間に舞う。

    無駄のない戦闘技術、敵の急所を最短で破壊する冷徹な効率。

    それは護衛の技術ではなく、数千の死線を踏み越えてきた「戦争のバケモノ」のそれだった。

    わずか数分。

    五十の刺客は、一人残らず物言わぬ肉塊へと変えられた。 

    返り血を浴びた王は、息一つ乱さず、敵の死体の懐から通達書を奪い取り、それを一瞥して忌々しげに舌を打った。 

    「……カリブディスの正規軍、三個師団。国境の断崖の獣道を抜けて、すでにシラクスへ向けて進軍している。やはりオーグは黙認したか…。あのテグ川の山賊も動きを悟らせない為のオーグの協力だったのかもしれん。手引きしたのは、俺が3ヶ月前に粛清した王太后の残党か。死に際に見事な手土産を残していきやがった。」

    「何だって……!? じゃあ、シラクスの城にいるセリヌンティウスも、あの傲慢な王様も、誰もこの奇襲に気づいてないのか!?」 

    メロスが驚愕に顔を歪める。

    「ああ。城の防衛網は完璧に裏をかかれた。あと二日、いや、三日後の日没までには、シラクスは全方位から包囲され、内側から燃える。」 

    王は冷酷な統治者の目で、目前の闇を見据えた。 

    「今すぐシラクスへ走り、本隊を動かさねば国が滅ぶ。だが、この村の先の隘路を、敵の先遣部隊の残りが間もなく通過する。そいつらをここで数時間足止めしなければ、城への警報すら間に合わん。……盤面は最悪だ。」

    「なら、話は簡単だ!」 

    メロスが自身のしなやかな肉体を叩き、碧眼を輝かせた。 

    「あんたは城へ走れ! 俺がここに残って、この隘路で敵を食い止める。この山の地形も、風の向きも、隠れられる獣道も全部俺の頭の中にある! 俺なら、ゲリラ戦で敵を混乱させて、時間をいくらでも稼いでみせる!」

    「却下だ。」 

    変装した王は、冷徹な声でそれを一蹴した。 

    「お前のような、兵を率いたこともないただの羊飼いに、組織化された軍の進軍を抑えられるわけがない。カリブディスの武具には、我が国から横流しされた『シラクスの重鉄』で造られた可能性が高い。お前の装備では話にならん。ここは俺が残る。この力をもって、物理的にあの隘路を封鎖する。お前は、死に物狂いで城へ走り、セリヌンティウスにこの事実を伝えろ。あいつなら、この情報だけで即座に迎撃の陣形を再構築できる。」

    「何を言ってるんだあんた! あんたほどの男を、こんなところで無駄死にさせられるか! あんたのその力は、こんな田舎の山道で消費していいもんじゃない、もっと――」

    メロスは叫び、そして、ぴたりと動かなくなった。 
    その澄み切った碧眼が、茶髪の傭兵の「赤い瞳」を、その底にある狂気的なカリスマを、真っ直ぐに射抜いた。

    「……おかしいな。」 

    メロスの声から、熱が消え、底知れぬ観察者の響きが混じる。

    「あんた、さっき『兵を率いたこともないただの羊飼い』って言ったな。俺はあんたに、自分が羊飼いだなんて、一度も言っていないぞ。ただ、村の妹の結婚式に来た、としか言っていない。……。」

    メロスはフッと、裏表のない、しかし絶対の確信に満ちた笑みを浮かべた。

    「はは、なるほどな。変装なんて器用な真似をして、気配まで消して。……あんたが、あの城の暴君、ディオニス王だな。」

    王の眉が、微かにピクリと動いた。 完璧な隠密、完璧な変装。

    シラクスのいかなる高官も見破れなかった覇王の正体を、この政治も知らぬ羊飼いは、言葉の僅かな不整合と、直感だけで完全に看破してみせたのだ。

    「……気づくのが遅いぞ、メロス。」 

    ディオニスは変装の茶髪を乱暴にかき上げ、隠していた圧倒的な覇王の圧力を解放した。

    周囲の空気が、一瞬で圧殺されるように重くなる。

    「そうだ。俺がディオニスだ。お前の言う、人を信じられぬ狂気の暴君だ。お前の誠実さとやらを特等席で見定めやろうと思ったが……盤面が狂った。他国からの侵攻。これは、本物の戦争だ。」

    ディオニスは短剣の血を払い、傲然とメロスを見下ろした。 

    「王命だ、メロス。城へ走れ!」

    否を言わせないディオニスの絶対の言葉。

    「セリヌンティウスの元へ戻り、この危機を伝えろ。あいつの命、そして俺の命、この国の命運もお前の足にかかっている。……お前が、あいつの惚れ込んだ本物の『大将軍の器』ならば、やってみせろ!」

    メロスは、王の放つ圧倒的な恐怖の圧力を真っ向から受け止めながら、その金髪を夜風に揺らし、最高に不敵な笑みを浮かべた。

    「大将軍?なんだそれ?まぁ、いいや。わかったよ、俺たちの王様。――いいだろう、誰よりも速く城まで行ってやる。」

    金髪碧眼の怪物は、身を翻すと同時に、常人の限界を超えた爆発的な速度で、夜の街道をシラクス城へと向かって激走し始めた。

    残された覇王ディオニスは、迫り来る数千の足音を闇の向こうに聞きながら、低く、狂おしい愉悦の声をあげた。 

    「はは……はははは! 面白い。最高だ、メロス。お前が間に合えば、俺たちはこの大陸を平定できる!」

    メロスの走りに今、全ての命運が託された。


    第5幕:檻の中の軍師、死線の底の願い

    1. シラクス城・北の塔

    混迷を極める中央大陸の西端、都市国家シラクス。

    北の塔と呼ばれる王族専用の幽閉牢に、セリヌンティウスはいた。

    「人質」という体裁でありながら、彼の前には城内の文官たちが運び込んだ山積みの軍務書類と、精密な兵棋盤タクティカルマップが広げられている。

    「――全く、あの王は…。」

    セリヌンティウスは、極めて洗練された、しかし完全に温度の排された声音で毒を吐いた。

    手元にある最高級の羽ペンは、狂いのない速度で羊皮紙の上へ軍務の決済サインを刻み続けている。

    目の前には、山積みされた書類たち。

    「完璧な国内粛清を終えた直後に、自ら変装し、一介の羊飼いを追いかけて前線へ直奔するなど。統治者としての責任感が致命的に欠落していると言わざるを得ません。個人の愉悦を混ぜて宮廷を脱走していく後ろ姿が、実に不愉快極まりない。万死に値しますね、我が王ディオニス」

    口調こそ極めて丁重な敬語であったが、その眼光は凍りついていた。

    王が不在の間、シラクスという巨大な国家の全政務、財政の辻褄合わせ、そして王の奇行を隠蔽するための情報操作――そのすべての「後始末」が、影の長であるセリヌンティウスの脳細胞に丸投げされている。

    トントン、と石壁の隙間から、実質的な音を持たない特有のノックが響いた。

    セリヌンティウスが微かに顎を引くと、影の中から全身を黒衣に包んだ斥候が滑り出るように現れ、膝を突く。

    「報告。隣国カリブディス、国境線において異常な統合運用を確認。既に隠密侵攻の第一波が我が領内に刺さっている模様」

    「......来ましたか。時期が早すぎますね。」

    セリヌンティウスの細い指が、机上に広げられた中央大陸西端の精密な兵棋盤タクティカルマップの上を滑る。

    カリブディスによる奇襲。

    それは予測の範疇であったが、現時点での情報があまりにも不完全だった。

    敵の「意図」は見えても、「経路」が見えない。

    「敵本隊の進軍ルートは」 

    「――不明。欺瞞工作により、北の山嶺部、中央街道、あるいは鉄鉱石の密輸路である西のテグ川か。斥候の目視でも割れております。敵の真意を突く確証が不足しています。」

    セリヌンティウスの青い瞳が、冷たく細められる。

    「我が王がメロスを試すために放った『影』。あれの定時連絡が途絶えたのは、確かテグ川の付近でしたね。」

    「はい。」

    「現地の天候は?」

    「数時間前より、激しい雨とのことです。」

    「……。ならば、その消失地点からテグ川の下流に向けて、網を広げるように『影』を重点配備しなさい。流されてくるものを、すべて拾い上げるのです。」

    「は!」

    影が消え、再び部屋に静寂が戻る。

    セリヌンティウスは、常により確実な選択によって生き延びてきた。

    ゆえに、彼は「情報が不足している状態での賭け」を最も嫌悪し、そしてそれができない。

    シラクスの現有戦力を三つのルートに等分すれば、各個撃破されて全滅する未来が確定する。

    かと言って、一点に賭けて外せば、防衛線は一瞬で崩壊する。

    完全に論理の壁に突き当たり、盤面が膠着する。

    「情報が足りない。敵の『配置』の本質が透けてこない......。こういう時、あの直感のバケモノであるメロスなら、何を見るのか…。」

    セリヌンティウスは静かに眼鏡のブリッジを押し上げ、まだ見ぬ金髪の怪物の性能に、己の思考を預けた。


    2. テグ川

    「――そこだ! 追い詰めろ!」

    狂ったように吠える濁流の音が、追っ手たちの怒号を掻き消していた。

    村での毒香襲撃を生き延び、ディオニス王から「この危機をセリヌンティウスに伝える。」という命をうけたメロスは、文字通り弾丸のように荒野を激走していた。

    隣国カリブディスの先遣隊は、この金髪を「不確定因子」と正確にロックしていた。 

    待ち伏せは合理的、かつ冷酷。

    野生の体幹を持つメロスの走速度を逆算し、地形を利用した完全な物理包囲網を敷いたのだ。

    「詰みだ、シラクスの犬が!」

    メロスの足が、急停止の摩擦で泥をはね上げる。目の前にあったはずの「橋」は、カリブディスの工作員によって跡形もなく爆破・撤去されていた。

    振り返れば、背後からは完全に間合いを詰めた十数人の武装兵。

    左右は断崖絶壁。

    そして眼下には、数時間前からの豪雨によって狂暴な怪物のごとくのたうつ、濁流と化した巨大なテグ川。

    通常の人間であれば、絶望という感情に脳を乗っ取られ、身体機能を低下させる局面。

    だが、メロスの内面には「嫉妬」もなければ「自己保身の恐怖」も存在しない。

    彼の脳にあるのは直感のみ。

    メロスは金髪を濡らす雨を拭いもせず、ただ碧い瞳で眼下の濁流を見た。

    激しい水流が岩石を砕き、巻き込んでいる。

    並の人間が飛び込めば、一瞬で骨を折られ、窒息死するか、溺死。

    そこにあるのは確実な死しかない。

    しかし、メロスの肉体は、羊を追い、狼を素手で絞め殺す生活の中で培われた直感はささやく。

    「できる!」

    メロスは不敵に唇を歪めると、一切の躊躇なく、断崖の縁を蹴った。

    その跳躍は、美しいまでの放物線を描き、轟音を立てる濁流の渦の中心へと、吸い込まれるように突き刺さる。

    「なっ......!? 飛び込んだぞ!」

    「馬鹿者が、自殺か!」

    崖の上に駆け寄ったカリブディスの兵たちが濁流を見下ろすが、激しく泡立つ茶褐色の水面には、衣服の切れ端すら浮いてこない。

    彼らはターゲットの「死亡」を確信してその場を撤収していった。

    ――だが、自然の狂暴さは、メロスの野生の直感を、ほんの数パーセントだけ上回っていた。 水面下へ潜航した瞬間、押し寄せた巨岩がメロスの脇腹を直撃する。凄まじい衝撃。

    肋骨が軋み、肺の空気が強制的に押し出された。反射的に口が開く。そこへ、泥混じりの冷水が容赦なく流れ込んできた。

    視界が急速に黒く染まっていく。身体の自由が失われ、冷たい水底へと引きずり込まれる感覚。

    その死線の底で、メロスの機能停止しかけた脳細胞が、奇妙な走馬灯をみせた。

    それは、彼の普段は考えることの無い弱音。

    「もう、いいではないか。どうせ、王は、私を帰って来ないものと、思っているのだ。私が、ここで死んでも、王は、人間の心は、あてにならないものだと、ますます、確信するだけだ。セリヌンティウスは、死ぬだろう。だが、それは、私のせいではない。天命だ。私は、じゅうぶん、努力したのだ。」

    意識の深層で、呪詛のように響くその言葉。俺がここで死んでも、あの王は変わらない。俺の直感など、取るに足らないものだったということだ――。

    「――ふざけるな!」

    メロスの本能が、その自己憐憫を猛烈な勢いで拒絶した。

    脳裏に蘇ったのは、あの荷馬車の揺れの中で、血塗られた理想の深淵を初めて漏らした、あの孤独な覇王ディオニスの顔だ。

    あいつは、あの怪物ディオニスは、世界を平和にするために、己のすべてを力として世界を動かそうとしている。そして俺の直感は、あの男が大陸を統べるべき『本物の覇王の器』だと100%の純度で祝福したのだ。

    ――そんな規格外の宝才能を、あんな名もない泥の中で無駄死にさせてたまるか!
    ――あの男の孤独な夢を、ここで終わらせるなど、俺は絶対に許せない!あの大陸統一の夢の先に、俺の居場所があるはずだ! 

    それは、他者への甘い同情ではなかった。自分の見込んだ至高の才能が、世界を一つにまとめ、最も美しく機能する瞬間を見届けたいという、狂気的なまでの『執着』だった。

    「待て......! 勝手に一人で終わろうとするな、ディオ――!」

    これまでのメロスには存在し得なかった、他者への強烈な「依存と独占の欲求」が、停止しかけた心臓を強制的に爆動させた。
     
    メロスは残された全筋力を四肢に叩き込み、濁流の力学をねじ伏せるようにして水面へと腕を突き出した。

    テグ川の濁流に押し流されながらも、王城へ至るという狂気的な執念だけが、彼の肉体を物理的な死から繋ぎ止め、生存へのルートを手繰りよせる。
    限界を超えた肉体が、濁流の力学をねじ伏せる。
    メロスは飛び込んだ位置から1キロメートル下流の岸辺へと、自力で這い上がった。

    不意に、泥濘を踏む足音が聞こえ、声が降る。

    「おい、大丈夫か――」

    その瞬間、メロスの碧眼が、濁流の泥を割って獰猛に開かれた。
    残る全神経を指先に爆発させ、声をかけてきた男の足首を、骨が軋むほどの力で掴み取る。
    視界は濁り、思考は完全に停止している。だが、彼の歪な直感だけは機能していた。
    この男は、セリヌンティウスのそばにいた男だ。 

    「頼む。俺を、王城へ運んでくれ。カリブディス三個師団、国境の断崖の獣道を抜け…。」

    伝えるべき言葉を吐き出すと、金髪の怪物は、今度こそ完全に意識を手放した。

    ​3. 

    王城の北の塔で、不確かな情報しか集まらずセリヌンティウスは焦っていた。

    王太后の残党が残した密書。密書が示す事実は、カリブディスは、シラクスから横流しされた鉄鉱石をオーグに流し、その見返りに領土の通行を認めるというものだった。オーグの領土はシラクスの西から北を広く覆う。その広大さが、進軍ルートの特定を拒んでいた。

    ディオニスがメロスを襲わせるためにつかった影の連絡も途絶えている。

    西のテグ川が怪しいとは思うが決定打ではなかった。

    じりじりと時間だけが過ぎる。

    「西のテグ川に配備していた影から、メロスを回収したという報告が入りました。」

    「!」

    待っていた情報が来た。

    「テグ川のどのあたりで見つけたのですか。」

    「西の国境の村より、テグ川合流地点の1キロメートル下流です。」

    連絡の途絶えた影の消息不明地点、メロスの発見場所、テグ川を使った鉄の流通網。断片的な情報がセリヌンティウスの脳内で恐ろしいスピードで組み合わさり答えを導き出す。

    (――繋がりましたね。カリブディスはオーグを抱き込み、あの鉄の密輸ルートをそのまま軍の進路に選んだ。そして我が王は、それを防ぐために自ら肉壁となっている……!)

    セリヌンティウスの青い瞳に、絶対の確信が宿る。

    「メロスは今どこにいますか。」

    「現在、影の最速の足に運ばせております。あと一時間足らずで、謁見の間へ到着します。」

    「意識は?」

    「ありません。ただ、命に別状はないようです。」

    「一分一秒でいいから急がせなさい。それから、これを司法長官に渡し、ここに呼びなさい。」

    巻物を2つ、影に手渡す。

    「もう一つは重装騎兵団の団長に。テグ川下流の『絞り込み地点』へ全速で向かえと伝えなさい。……王の場所は、既にこちらで特定しました。」

     「……! しかし、それは敵の進軍ルートを読み切ったということですか?」 

    「ええ。あとは、彼らが到着する時間を待つだけです。急ぎなさい。…勝機はまだこちらにあります。」 

    「は!」

    ようやく最後のピースがそろった。



    第6幕:待たせたな、俺の王

    1.

    「――起きなさい、メロス。」

    容赦ないビンタが、メロスの頬を叩いた。重い瞼を持ち上げると、どこかでみたことのある場所、王城の謁見の間だった。目の前には、セリヌンティウス。

    「セリ、ヌンティウス……? なぜ、あんたが……」

    一瞬、折れた脇腹の激痛に顔を歪めたが、そんな肉体の悲鳴を野生の精神力だけで圧し潰し、メロスは詰め寄った。

    「今日は何日目だ。俺は間に合ったのか!教えてくれ!」

    メロスの焦りを落ち着かせるように肩を叩く。

    「今日は3日目のもうじき正午です。」

    その一言を言うとゆっくりと立ち上がり、玉座の方へすすむ。

    玉座の傍らに立つと、声高に宣言した。

    ​「メロスは戻った。よって私の人質としての契約は解除、および『王よりの勅命』がある。司法長官!」

    セリヌンティウスの言葉に中立派、人格者として名高い司法長官が前にでた。
    司法長官が厳かに掲げたのは、北の塔の幽閉牢へ『王からのプレゼント』として届けられていた、ディオニスの直筆サインと血判が刻まれた最高級の羊皮紙――

    「王より勅命。メロスの帰還を以て、直ちにセリヌンティウスを宰相に任命する。」

    読み上げると同時に、司法長官はその任命書を高々と掲げた。

    「今、この時より、最高軍事権は私が掌握します。」

    セリヌンティウスが右手を掲げると、どこからか現れた黒衣の影たちが、かつて王太后派と呼ばれた高官たちを音もなく引きずり出していく。

    「異論のある無能は、今すぐその首を差し出しなさい。」

    氷の声音に、逆らう者は一人として存在しなかった。

    その絶対的な静寂を、怪物の声が容赦なく踏み砕いた。

    「セリヌンティウス、ルートが絞れないんだろう。……王様が、西のルートで単身、敵の本隊三千を食い止めている。あの人は、敵が最も最短でシラクスを殺せる場所にいる。」

    情報のピースが揃った瞬間、セリヌンティウスの青い瞳に冷酷な確信が宿った。

    「……なるほど。盤面は完全に読み切れました。」

    そうつぶやくと、その場に集まる将校へ命令をくだす。

    「先行するシラクス重装騎兵団は、そのまま西のテグ川へ向け進軍。シラクス重装歩兵団は、その後に続きなさい。シラクス重装弓兵団には城の守りをまかせます。メロス!」

    「なんだ。」

    「あなたが、王の場所を一番知っているはずです。あなたなら重装騎兵団に追い付けます。出来ますね。」

    3日前と変わらない信頼というセリヌンティウスからの眼差し。

    「当たり前だろ。」

    メロスはすでに疲労困憊のはずである。しかし、それを感じさせない笑顔でうなずくとそこにいる将校に向かって声を張り上げた。

    「俺たちの王様を助けたいという気概のあるやつは、俺についてこい!」

    そこには、セリヌンティウスが見込んだ大将軍としての器の片りんをみせるメロスがいた。

    生まれて初めて跨った軍馬の、筋肉の伸縮と重心の拠り所を本能だけで見抜き、一瞬で己の四肢と同化させた金髪の怪物。

    馬上のメロスの肉体は、とっくに物理的な限界を迎えていた。テグ川の泥を吸った肺はひび割れ、折れた脇腹が動くたびに骨の軋む音が脳裏に響く。しかし、ディオニスを救うという執念だけが、その死に体を力づくで駆動させていた。

    極限の疲労は、むしろ彼の歪な直感を研ぎ澄ます。並走する将兵たちの「肉体の癖」が、彼の碧眼に恐ろしい精度で映り込んでいく。

    「――おい、そこの手足の長いあんた! なんでそんな窮屈そうに剣を握ってる! あんたの無駄のない肺活量は、前線で泥にまみれるためじゃない、全軍を繋ぐ伝令として声を張り上げるためにある! その立派な声で伝令の長になれ! いい脚のあんたは重装歩兵を率いて俺の泥濘を追え! さっきから見ていたら、視野が広い。その広い視野とその脚力で軍のスピードをコントロールし前線を押し上げろ! あんたの力が、あの王を助けるんだ!」

    メロスに将軍としての自覚はない。

    ただ、眼前に転がる「宝の持ち腐れ」というノイズに脳が耐えかねて、事実をそのまま絶叫していた。

    言われた将兵の身体が、恐怖とは違う異様な戦慄で粟立つ。それは、彼らが誰にも言えず、密かに抱いていた「自分は武官の器ではないのではないか」という積年の劣等感を、正確に射抜くと同時に、その底にある「本当の適性」を100%の純度で祝福する言葉だったからだ。

    羊飼いという侮りは、彼らの沸騰した脳内から完全に消滅する。
    メロスから溢れ出す圧倒的な「光」が、軍全体を狂気的な高揚感で侵食していく。

    兵たちが自発的に、最も美しく機能する形へとハマり込んでいく。
    セリヌンティウスが冷徹に敷いた戦術の網が、メロスの熱量によって強制駆動を始めたのだ。

    「あんたたちの能力は、今ここで王の命を救うためにある!」

    その言葉が全軍の骨の髄まで染み渡った瞬間、将兵の瞳から、死への恐怖が完全に焼き尽くされた。

    「俺の目は間違えない。俺たちは勝つ! ついてこい!!」

    「応ッ!!」

    割れんばかりの怒号が爆発し、シラクスの鉄流が、金髪の怪物の背を追って激走を始めた。


    2. 

    「――ガハッ、」

    鉄錆の混じった鮮血が、ディオニスの唇から泥の地面へと滴り落ちた。

    隣国カリブディスの本隊、およそ三千。
     
    村に残り、単身でその進撃を阻んでいたディオニスは、文字通り人間の限界を超えて戦い続けていた。 
    すでに彼の黒髪は返り血で固まり、筋骨隆々の肉体には無数の戦傷が刻まれている。

    完全な薬物耐性を持つ彼であっても、物理的な質量の暴力――降り注ぐ矢の雨、絶え間なく繰り出される槍の突き、そして足元をすくう底なしの泥濘は、確実にその生命を削っていた。

    「化け物め、まだ生きているのか!」 

    「囲め! 距離を取って矢を射掛けろ! 奴の四肢を削げ!」

    包囲するカリブディス兵たちの声が、遠く霞んで聞こえる。

    ディオニスは、手にした大剣を辛うじて引きずりながら、無機質な赤い瞳で天を仰いだ。

    幼少期から権力闘争の陰謀に巻き込まれ、裏切りと暗殺の危機の中を必死に生き延びてきた。

    誰も信じず、ただ己の圧倒的な武力と恐怖だけで国内を完璧に粛清し、シラクス王の座にまで登り詰めた。
     
    大陸を平定し、戦いのない平和を作る――その血塗られた理想の途上。

    (……フン。これほど必死に生にしがみつき、王にまでなったというのに…)

    自嘲の笑みが、男の端正な顔を歪める。
     
    (死ぬ時は、誰にも気づかれず、変装した一兵卒の姿のまま、名もない泥の中で腐るのか。……それもまた、俺にふさわしい最後か。)

    王としての栄光も、覇王としての威厳もない、完全な孤独死。 

    だが、ディオニスはその不条理な運命に対して、恐怖も怒りも抱かなかった。

    力の無い王子に過ぎなかったディオニスを信じ、影となって支えてくれた友が脳裏をよぎる。

    (お前なら、この状況を『無能』と笑うだろうな、セリヌンティウス。)

    カリブディスの指揮官が、満身創痍の覇王へ向けて、トドメの合図として右腕を掲げた。

    数十本の執拗な矢が、ディオニスの心臓と眉間をロックする。

    ディオニスの赤瞳が、静かにあきらめの色を帯びて、閉ざされようとした――その瞬間。

    戦場全体の空気圧が、激変した。

    3. 

    地響きが、泥濘を揺らした。 

    それはカリブディス軍の進軍の音ではない。

    彼らの「背後」――シラクス城の方向から押し寄せる、圧倒的な鉄の塊の駆動音。

    「な、何事だ!?」 

    カリブディスの指揮官が驚愕に目を見開く。

    「シラクス重装騎兵団……!? 馬鹿な、なぜこの進軍ルートを完璧に見抜いて……!」

    動揺し、陣形を乱すカリブディス軍の側面へと、シラクスの鉄容赦流がなく突き刺さる。 

    死を受け入れかけていたディオニスは、その凄まじい鉄の衝突音に、再び獰猛な赤瞳を見開いた。

    血煙と泥が激しく舞い散る戦場の最前線。 カリブディス兵の肉壁を、紙切れのように引き裂いて突撃してくる騎兵の先頭。 激しい雨を弾き、狂暴なまでの輝きを放つ、圧倒的な「金色」が、ディオニスの視界へと飛び込んできた。

    メロスだった。 

    上着を失い、鋼のように引き締まった肉体をさらした怪物が、馬上の人となって戦場を切り裂いていた。

    「――待たせたな、俺の王!」

    メロスは凄まじい乗馬技術で泥濘を突破すると、ディオニスを包囲していたカリブディス兵を一瞬で斬り伏せ、その場へ飛び降りた。 

    野生の生存本能と直感だけで戦場をくぐり抜けるその能力と、誰もを魅了する能力が相乗効果をうみ、その金髪碧眼の体躯から圧倒的な熱量となって放射されている。

    「お前をこんな名もない泥の中で死なせるかよ。大陸を統一するんだろ? 世界を平和にするんだろ? ――だったら、その夢の最後まで、俺にみせろ!」

    メロスは不敵に笑い、満身創痍の王の前に、鉄壁の盾のように立ちはだかった。

    ディオニスは、全身の激痛を忘れ、喉の奥から狂ったような笑い声を漏らした。

    脳が、再び歓喜で焼き切れるような感覚。 完璧な計算に基づくセリヌンティウスの理論を叩き潰し、己の直感だけで戦場を支配してみせた、目の前の怪物。

    「クク……、ハハハハ! よく来た、俺の大将軍。……死神のお迎えはまだ先らしい。」

    二人の怪物の視線が交錯した瞬間、シラクス軍の勝率は100%へと固定された。


    第7幕:勇者たちは、歓喜に狂笑す

    1. 

    「――重装歩兵団はそのまま右翼へ展開。カリブディスの退路を完全に塞げ。影の第三、第四部隊はただちに国境線の防衛陣地を制圧しろ。生き残った旧貴族の粛清は……セリヌンティウス、お前に一任する。」

    泥濘を踏み締め、歩を進めながら、ディオニスは途切れることなく的確な王命を飛ばし続けていた。 

    先ほどまで満身創痍で死を受け入れかけていた男とは到底思えない、周囲を物理的に圧する覇王の気配が完全に復活している。

    メロスがもたらした「一点集中」の果実により、戦況の勝敗はすでに決していた。 

    混乱に陥ったカリブディス軍は、統率されたシラクス軍の精密な包囲網によって瞬く間に解体されていく。

    王が歩き、指示を飛ばすたびに、停滞していた戦場が一気に血の混じった活気を取り戻し、巨大な軍事国家の歯車として回り始める。

    「御意に、我が王。」

    いつの間にか王の背後に滑り込んでいたセリヌンティウスが、泥に汚れた眼鏡を拭いもせず、冷徹な声音で応じる。
     
    その視線が、王の隣を歩く金髪の怪物メロスへと向けられた。

    衣服を失い、血と泥に塗れながらも、その碧眼は退屈そうに戦場の残骸を眺めている。

    「――全軍、追撃へ移行。これより先は、前線の将校たちの定石通りに処理可能です。」

    セリヌンティウスがそう告げて右手を軽く掲げると、周囲を固めていた護衛の影たちが、一斉に気配を消して戦場へと散っていった。
     
    怒号と鉄の衝突音が遠のいていく。 

    硝煙と血の臭いが立ち込める名もなき泥濘のただ中に、ふいに、世界から切り離されたような、三人だけの時間が訪れた。

    2. 

    ディオニスは歩を止め、未だカリブディスの鮮血が滴る大剣を泥に突き立てた。 

    その視線は、眼前に広がる戦場の先――暗雲が割れ、血のような夕陽が照らし始めた中央大陸の広大な地平線を見つめている。

    「国内の粛清は終わった。隣国カリブディスの喉元も、今、この手で掴んだ。だが、これは序章に過ぎない。」

    王は振り返らず、重く、圧倒的な圧力を伴う声音で、己の血塗られた理想を二人の前に告げた。

    「俺の目的は、この歪んだ都市国家の防衛ではない。大陸全土の完全なる平定だ。それによってのみ、世界の平和は約束される。――道程には、これまでの比ではない屍の山が築かれるだろう」

    王は静かに身を翻し、赤い瞳で、銀髪の知将と金髪の大将軍を射抜いた。

    「セリヌンティウス。メロス。俺は、大陸全土を平定する。――この覇業に、お前たちはついてくるか。」

    それは、友情の誘いなどではない。 誰もみることのなかった大陸平定。

    それを成し遂げる揺るぎない盟約の要求だった。

    最初に動いたのは、セリヌンティウスだった。彼は完璧に洗練された一礼を捧げ、唇の端を微かに釣り上げた。

    「愚問ですね。私はこの頭脳をあなたのために使い切ると決めているのです。逆に今更手のひらを返されても困ります。」

    セリヌンティウスは眼鏡のブリッジを静かに押し上げ、その青い瞳の奥に、凍りついた狂気を覗かせた。

    そして、メロスは。 彼は突き立てられた大剣の柄に気怠げに肘をかけ、野生の碧眼で、王と、そして恐るべき相棒セリヌンティウスをまっすぐに見つめ返した。

    「ついていくよ、王様。俺の直感がささやくんだ。これが俺の進む道なんだって。それにな、思ったんだよ。大陸が統一されて平和になった世界が見たいってな。」

    メロスは不敵に笑い、自らの金髪を乱暴にかき上げた。

    「あの荷馬車の中で、俺はお前の夢に魅せられたんだ。……諦めることも、途中で死ぬことも、もうお前には許さない。地獄の果てまで、俺を正しく使いこなしてみせろ。」

    物事を冷徹に俯瞰する事ができる最高の頭脳を持つ怪物。
    他者への嫉妬を持たず、人間の本質を直感で見抜く怪物。

    その怪物たちがディオニスの大陸平定を確かなものにする未来がみえた。

    ディオニスは、喉の奥から狂ったような笑い声を漏らした。

    胸を焦がすのは、再びの圧倒的な歓喜。 

    「――よし。血の盟約は成った。」

    王は大剣を泥から引き抜き、大陸の先へと刃を向けた。

    都市国家シラクスの泥濘から始まる、大陸平定の覇業。 三人という最小にして最強の統治の歯車が噛み合うと共に、世界を塗り替えるための、終わりのない試練の幕が上がった。

    ≪新訳 走れメロス 完≫


     
     
    しんどいことはやりたくない。 でも、やりたいことも、やらなければいけないこともたくさんある。 小さな工夫と気づきで、無理せず生きやすく暮らすための言葉を綴っています。

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