『保険魔導士イリス』第五話
ご職業は正しく告知してください
壁が爆発した。
黒い石造りの会議室へ、煙と破片が吹き込んでくる。
長い卓上に並んでいた書類が舞い上がり、燭台の火が一斉に消えた。
壁に開いた大穴から、丸い男が胸を張って入ってきた。
赤茶色の乱れた髪。額には真鍮のゴーグル。橙色と黒の作業服には大小さまざまな工具袋が下がり、背中には傘、薬瓶、鍋、巻物、用途不明の機械まで積み上げられている。
男は煤にまみれた顔で、満面の笑みを浮かべた。
「到着しました!」
その背後から、もう一人の男が歩いてくる。
短い黒髪。鍛え抜かれた巨体を、紺と白の戦闘服と重い黒鋼の装甲で包んでいる。男は崩れた壁と、床に散った石片と、時計を順番に確認した。
「三十分遅刻だ」
「扉を探すより、壁を開けた方が早いと思いまして」
「到着は三十分遅れ、修理には三日かかる」
「長期的には損ですね」
「短期的にも損だ」
組織リスク四天王、ウッカリとマニチ。

二人は、いつも一緒に行動していた。
正確には、ウッカリを一人で行動させないために、マニチが常に同行していた。
◇
会議室には四つの席があった。
上座の椅子へ、金髪の青年がゆったりと腰かけている。
黒地に紫と青の光沢を帯びた豪華な長衣。遊び人のような笑みを浮かべた四天王のリーダー、ヨソガイ。
その右手には、艶やかな黒髪の女がいた。紫色のドレスに銀の傘模様をあしらった四天王、モシモである。
ウッカリは空いている椅子へ座った。
ヨソガイの席だった。
マニチが無言で襟をつかみ、隣の席へ移動させる。

「僕ごと席を持っていかないでください」
「お前だけでは動かん」
ヨソガイは怒る様子もなく、卓上へ一枚の資料を置いた。
短い銀髪、白銀の衣装、白い長外套。
保険魔導士イリス・アスターの肖像だった。

「二人には、この娘へ接触してもらう」
ウッカリは肖像を逆さまに持ち上げた。
「捕縛ですか?」
「違う。観察だ」
マニチが背筋を伸ばす。
「戦闘は」
「禁止する」
「正体の開示は」
「認めない」
「任務の目的は」
「イリス・アスターが何を見て、何を疑い、何を優先するのか。その行動原理を確認する」
モシモが紅茶のカップを置いた。
「あの子は、過去より現在の人命を選んだわ」
ヨソガイは十三個の骰子のうち、一個だけを指先で転がした。
「僕の想定外も、父親の未完成な数式も乗り越えた。次は、日常の中へ紛れ込んだ小さな違和感を見抜けるか確かめたい」
ウッカリが手を挙げる。
「なぜ私たちが?」
「君は違和感そのものだからね」
「適任ですね」
「褒められてはいない」
マニチは命令を復唱した。
「接触、観察、記録。正体を隠し、戦闘を避け、一般人へ被害を出さない」
「そのとおり」
ヨソガイはウッカリへ視線を向けた。
「特に、最後の部分を忘れないように」
ウッカリは胸を張った。
「忘れないための装置を作ってきました」
背中の荷物を探る。
右の袋。左の箱。腰の鞄。鍋の中。
笑顔が止まった。
「忘れてきました」
マニチが静かに目を閉じた。
「任務開始前から不安しかない」
ウッカリがもう一度、手を挙げる。
「もし正体がばれた場合は、総帥へ報告しますか?」
部屋の空気が変わった。
それまで笑っていたヨソガイの表情から、ほんの一瞬だけ笑みが消える。
モシモも何も言わず、カップを受け皿へ戻した。
マニチが低い声で答える。
「我々の失敗は、我々で処理する」
「しかし、大失敗だった場合は?」
「そのときは、報告する前にお前を埋める」
「失敗も隠せて一石二鳥ですね」
「お前だけを隠す」
ヨソガイは再び笑った。
「総帥のお時間を使うほどの任務ではない。判断も責任も、僕たち四天王に委ねられている」
会議室の奥には、開かない巨大な黒い扉があった。
誰も、その扉へ目を向けなかった。

◇
三日後。
フォルトゥナの宿屋で、イリスは朝食を取っていた。
向かいの席では、小さな妖精ルカが帳簿を開き、前回の事件で損傷した装備の修理予定を確認している。
窓際では、大型犬ほどの大きさになった赤竜アカ爺が、籠に盛られた胡桃を一粒ずつ数えていた。
正確には、数えているように見せながら食べていた。
入口の扉が勢いよく開いた。
「保険魔導士イリス・アスター様はいらっしゃいますか!」
丸い男が入ってくる。
真鍮のゴーグルを帽子で隠し、背中の機械には大きな布をかぶせている。だが、工具袋も薬瓶も傘も鍋も、そのままだった。
その後ろから、眼鏡をかけた巨漢が入ってくる。
変装らしい変装は、眼鏡だけだった。

丸い男は胸へ手を当てた。
「初めまして。王立魔導設備安全協会の主任技師、ウッカリと申します」
巨漢が即座に訂正する。
「ウカルドだ」
「そうでした。いまのは役職名です」
ルカが帳簿から顔を上げた。
「どんな役職ですか?」
男は咳払いした。
「ウカルド・ワスレン。王立魔導設備安全協会の主任技師です。そして、こちらが――」
「グランベル索道会社、安全管理責任者のマジメル・マイニッチだ」
マニチは一分の隙もなく頭を下げた。
上着の袖が筋肉で限界まで張っている。
ルカがイリスの耳元へ飛んだ。
「どう見ても、安全管理責任者というより用心棒です」
「聞こえている」
マニチが答えた。
「すみません!」
ウッカリは鞄から紹介状を取り出した。
「王立保険院からの正式な紹介状です」
イリスは受け取った。
しばらく黙って眺める。
「発行日は明日」
「早めに発行されました」
「宛名が、イリス・アスパラ」
「健康的な名前ですね」
「王立保険院の印章に、角はない」
「今年から生えました」
「裏に『組織リスク潜入任務用』と書いてある」
ウッカリは紹介状を裏返した。
「消し忘れました」
マニチの大きな手が、ウッカリの顔を覆った。
「それ以上、話すな」
ルカは机を叩いた。
「偽物です! どう見ても偽物です!」
「紹介状を作ったのは私です。偽物ではありません」
「作った本人が王立保険院ではないから偽物なんです!」
「なるほど」
「いま理解したんですか!?」
イリスは紹介状を折り、白い外套の内側へ収めた。

「依頼内容は?」
ルカが振り返る。
「受けるんですか!?」
「偽物の依頼人が、本物の紹介状にはない情報を持っている理由を調べる」
マニチの眉がわずかに動いた。
ウッカリは嬉しそうに笑った。
「疑われていませんね」
「最初から疑われている」
「では、なぜ依頼を受けるのでしょう?」
「我々を調べるためだ」
「奇遇ですね。こちらも彼女を調べるところです」
マニチは再びウッカリの口を塞いだ。
◇
山岳都市グランベルは、切り立った山々の間に造られていた。
石造りの家々は斜面に沿って並び、谷の上には無数の鋼索が渡されている。赤、青、黄のゴンドラが人や荷物を乗せ、山腹の駅と駅を結んでいた。
町の最上部には、巨大な魔力炉と制動塔がそびえている。

ウッカリが両手を広げた。
「こちらが、我がグランベル自慢の魔導索道です!」
「あなたは王立協会の技師では?」
ルカが訊く。
「技師は世界中の設備を我が子のように思うものです」
「いま『我がグランベル』と言いました」
「心は常に現地採用です」
今回の依頼は、廃止された旧第七索道の調査だった。
索道は毎日点検されている。それにもかかわらず、制動装置、扉、信号灯などに小さな故障が続いているという。
マニチが説明する。
「点検記録は三百六十五日、すべて異常なし。作業員の怠慢も確認されていない」
「それでも故障する?」
イリスが尋ねる。
「そうだ」
「事故の発生時刻は?」
「毎日十三時十七分」
ルカの筆が止まった。
「ずいぶん正確ですね」
「毎日同じ時刻に発生している」
「依頼書には、今日初めて故障したと書いてありますけど」
マニチが黙った。
ウッカリが助け船を出す。
「予行事故です」
「事故に予行はありません!」
一行は山道を登った。
ウッカリは歩きながら何度も荷物を落とした。
工具。巻物。空の薬瓶。用途不明の歯車。
そのたびにマニチが拾い、順番どおり背中の袋へ戻していく。
十七個目の落とし物は、小さな真鍮の箱だった。
アカ爺が箱をくわえた。
イリスが受け取り、表面の文字を読む。
「対イリス用・記憶失念装置」
ウッカリが素早く奪い返した。
「私物です!」
「私の名前が書いてある」
「同じ名前の別人です」
「何人いるの?」
「統計上、三人ほど」
マニチが箱を取り上げ、荷物の最深部へ押し込んだ。

「お前は何も持つな」
「技師から道具を取り上げたら、ただの陽気な人になります」
「その方が安全だ」
◇
旧第七索道の駅舎は、山の中腹に建っていた。
長く使われていないはずだが、構内は不自然なほどきれいだった。

点検表は毎日更新され、制御盤の金属も磨かれている。
イリスは三百六十五枚の点検記録を机へ並べた。
すべての紙に、同じ時刻、同じ順序で印が押されている。
雨の日も、吹雪の日も、設備交換の日も変わらない。
「きれいな記録ですね」
ルカが感心する。
「きれいすぎる」
「真面目に点検したからでは?」
「真面目な人間の記録ほど、毎日まったく同じにはならない」

マニチが腕を組んだ。
「点検は定められた時刻に、定められた順序で行うべきだ」
「手順は必要」
「意見が一致したな」
「状況に合わなければ変える」
「一致しなかった」
「手順は、人を守るためにある。手順を守ったと言い訳するためじゃない」
マニチは返事をしなかった。
だが、イリスを見る目が少し変わった。
ウッカリは制御盤の前へしゃがみ込んだ。
「なるほど。失念誘導装置は、この裏側に――」
マニチが咳払いする。
「一般的に、故障は制御盤の裏側に多い」
「そういう統計です」
イリスが振り返った。
「誰の統計?」
「私の実験結果です」
「もう話すな」
ウッカリは口を閉じた。
十秒後、また開いた。
「この装置は、人の意識から一つだけ注意事項を――」
「黙れ」
「はい」
五秒後。
「ちなみにマニチさんの反復魔法と組み合わせると――」
マニチの拳が制御盤の横の壁へ突き刺さった。

「次はお前を埋める」
「会議室から予定が変わっていませんね」
ルカはイリスの肩へ降りた。
「もう正体を隠す気がないですよ、この人たち」
「本人たちにはある」
「それが一番怖いです」
◇
調査は昼を過ぎても続いた。
マニチは十二時ちょうどになると、持参した木の実を三十個並べた。
「食事休憩は十二時から十二時十五分までだ」
「事故調査中ですよ?」
ルカが呆れる。
「予定された休憩は、予定どおり取る」
マニチは木の実を一個ずつ、一定の速さで食べ始めた。
その隣で、アカ爺が同じ姿勢を取る。
マニチが一個食べる。
アカ爺も一個食べる。
マニチが二個目を取る。
アカ爺も二個目を取る。
ただし、アカ爺が食べているのはマニチの木の実だった。
十二時十五分。
マニチは空になった布の上を見た。
「二十九個しか食べていない」
「一個くらい、いいじゃないですか」
「毎日三十個と決めている」
イリスがアカ爺を見る。
アカ爺は視線をそらした。
ウッカリが言う。
「明日三十一個食べれば、二日平均は三十個です」
「そういう問題ではない」
マニチは予備の袋から一個取り出して食べた。

アカ爺は、その袋の位置を覚えた。
一方、ウッカリはルカの帳簿へ興味を示していた。
「毎回、手で計算しているのですか?」
「当然です。契約条件も損害額も、間違えられませんから」
「では、自動計算装置を付けましょう」
「勝手に触らないでください!」
ウッカリが小さな歯車を帳簿へ取り付ける。
帳簿から紙片が吐き出された。
ルカが読む。
「緊急索道保障、保険料……胡桃七百二十個?」
アカ爺が目を輝かせた。
「金額をすべて木の実へ換算する仕様です」
「何の役に立つんですか!」
「竜には好評です」
ウッカリとアカ爺は握手した。

「仲良くならないでください!」
そのとき、ウッカリの胸元から青い記録水晶が落ちた。
水晶の中に、旧駅舎を調べるイリスの姿が映っている。
表面には文字が刻まれていた。
――保険魔導士イリス観察記録・第一日。

イリスは拾い上げ、ウッカリへ返した。
「落とした」
「ありがとうございます」
「私の観察記録らしい」
「同姓同名の別人です」
「顔も映ってる」
「よく似た別人です」
イリスはそれ以上、追及しなかった。
マニチが眉をひそめる。
「なぜ、何も訊かない」
「訊いても本当のことを言わない」
「そのとおりだ」
「認めていいんですか?」
ウッカリだけが驚いた。
◇
午後一時十七分。
遠くで警報鐘が鳴った。
一度。
二度。
間を置かず、町中の鐘が一斉に鳴り始める。
旧駅舎の窓の外を、青い貨物車が異常な速さで通過した。
使われていないはずの鋼索が激しく震え、天井から錆が降る。

マニチは即座に立ち上がった。
「予定にない」
ルカが窓へ飛ぶ。
「新第七索道で制動異常! 乗客用ゴンドラ二台が谷の中央へ向かっています!」
ウッカリは青ざめた。
背中の荷物から設置記録を引き抜く。
「マニチさん。旧第七索道は、番号の横に『旧』と書いてありますか?」
「当然だ」
「新第七索道には?」
「『新』と書いてある」
「なるほど」
マニチがゆっくりと振り返る。
「どちらに取り付けた」
「文字がきれいな方です」
「どちらだ」
「新しい方でした」
沈黙。
「……お前」
「うっかりしました」

「見れば分かる!」
イリスはすでに外へ走り出していた。
「詳しい説明はあと。停止方法は?」
ウッカリも追いかける。
「失念誘導装置を外せば、整備員が補助制動魔石を認識できます!」
「装置の場所は?」
「新第七索道の中央制御塔です!」
「ここから何分?」
「普通に走れば十五分です」
マニチがウッカリを片腕で抱え上げた。
「三分で行く」
「それは乗り物扱いでしょうか?」
「舌を噛むぞ」
マニチは地面を蹴った。
巨体が石段を飛び越え、制御塔へ向かって突進する。抱えられたウッカリの背中から工具が雨のように落ちた。

アカ爺が後ろから走り、落ちた工具を次々と口で拾う。
ルカが叫ぶ。
「食べ物じゃありません!」
◇
谷の中央へ、二台のゴンドラが向かっていた。
一台には鉱山帰りの作業員たち。もう一台には町へ向かう家族と子どもが乗っている。
本来なら中央信号が一方を待避線へ導く。しかし信号灯は消えたまま、分岐器も動かない。
衝突まで、五分。
中央制御塔では、整備員たちが同じ点検を繰り返していた。
一番の計器を見る。
二番の弁を確認する。
三番の記録紙へ印を押す。
そして、また一番へ戻る。
誰も、その隣にある赤い補助制動魔石を見ようとしない。

マニチが扉を蹴破った。
「全員、作業を止めろ!」
整備員たちは一瞬だけ振り返り、また一番の計器へ戻った。
ウッカリは床へ降ろされると、制御盤の裏側へ潜り込んだ。
「失念誘導装置は私が外します!」
「何秒かかる」
「正しく設置していれば三十秒です」
「正しく設置したのか」
「そこが問題です」
マニチの額に血管が浮いた。
制御塔全体が大きく揺れる。
暴走する貨物車が支柱へ衝突し、主鋼索の一本が外れた。巨大な歯車が傾き、塔を支える梁が折れ始める。
マニチは崩れる梁の下へ飛び込んだ。
両腕で支える。
床が足元から砕けた。
「三分しかもたん!」
制御盤の奥から、ウッカリの声が返る。
「五分ください!」
「三分だ!」
「では三分で、五分ぶん働きます!」
ウッカリの声から、いつもの軽さが消えた。
工具が高速で動く音が響く。
マニチの手首に青白い円陣が浮かび上がった。
傾いた歯車が、壊れる直前の回転を繰り返し始める。
一回。
二回。
三回。
摩耗した歯が砕けても、同じ動きが魔法によって再現される。
マニチの反復魔法。
正しい動作も、誤った習慣も、一定時間繰り返させる力だった。
「あと二分!」

「分かっています!」
「一分五十九秒!」
「細かく言わないでください!」
◇
イリスは塔の外から、索道全体を見上げた。
ルカが次々と状況を報告する。
「主制動装置、停止! 補助制動魔石、未作動! 中央信号、応答なし! 衝突まで二分四十秒です!」
「事故原因を分ける」
イリスは銀の剣を抜いた。
「主制動装置は、貨物車の衝突による物理損傷」
剣先から伸びた銀光が、壊れた制動輪を囲む。
「補助制動魔石は、外部装置による認識阻害」
二本目の光が、制御塔の内部へ伸びる。
「中央信号は、反復魔法による操作不能」
三本目の光が、止まった信号灯へ結ばれる。
ルカが息をのむ。
「全部、一つの事故ではないんですか?」
「原因が違う。正常な設備まで止める必要はない」

イリスの足元に青白い契約円が広がった。
巨大な魔法帳簿が空中に開く。
水と月光でできた大精霊ミューチャが姿を現した。
『契約者イリス。付加する特約を選択してください』
「緊急索道衝突損害防止特約。対象は乗客用ゴンドラ二台。原因者への求償権を留保」
制御盤の奥で、ウッカリの手が一瞬止まった。
『支払限度額、最大。免責金額、最小。緊急付加保険料、六十八万円です』
ルカが反射的に叫ぶ。
「その金額は忘れたことにしましょう!」
ウッカリが制御盤から顔だけ出す。
「失念誘導装置を使いますか?」
「使わないでください!」
イリスは銀の印章を押した。
「契約する」
『契約成立。保障開始』

谷の両側から銀色の光が伸びた。
幾重もの細い安全索となり、二台のゴンドラの下へ巨大な網を作る。
だが、速度が速すぎる。
そのまま受け止めれば、乗客が衝撃に耐えられない。
「ウッカリ!」
マニチが初めて、偽名ではなく本名を叫んだ。
「できました!」
制御盤が弾け、ウッカリが黒煙とともに飛び出した。
両手には、古い歯車、鍋の取っ手、傘の骨、ルカの帳簿から外した自動計算装置を組み合わせた奇妙な機械がある。
「臨時制動装置です!」

ルカが目を見開いた。
「私の帳簿の部品が入ってます!」
「緊急使用です!」
「返してください!」
「生きて帰れたら!」
ウッカリは機械を主鋼索へ接続した。
歯車が火花を散らして回転する。
鍋の取っ手が曲がる。
傘の骨が一本ずつ折れる。
しかし、二台のゴンドラの速度が落ち始めた。
「理論上は成功です!」
「実際は!」
ルカが叫ぶ。
機械から白煙が上がった。
「いま成功している途中です!」
残り五十メートル。
三十メートル。
十メートル。
二台のゴンドラは正面衝突する直前で銀色の安全網へ沈み込み、互いの車体をかすめながら停止した。

谷に、乗客たちの悲鳴と歓声が響いた。
マニチが支えていた梁をゆっくりと下ろす。
ウッカリは黒焦げになった臨時制動装置を抱え、その場へ座り込んだ。
「予定と違いましたが、成功しました」
マニチは大きく息を吐いた。
「それを失敗という」
「皆さん助かりましたよ?」
「最初から事故を起こさなければ、もっと成功だ」
「なるほど」
マニチは拳を上げた。
ウッカリは両手で頭を守った。
しかし拳は落ちてこなかった。
代わりに、マニチの大きな手がウッカリの肩へ置かれる。

「次は間違えるな」
ウッカリは少しだけ驚き、それから笑った。
「努力します」
「約束しろ」
「それは難しいです」
「やはり殴る」
◇
乗客の救助が終わったころ、山の向こうへ夕日が沈み始めていた。
ウッカリとマニチは、旧駅舎の前に立っている。
もう偽名を使う意味はほとんど残っていなかった。
マニチがイリスへ尋ねる。
「いつから我々を疑っていた」
「紹介状を見たとき」
ウッカリが感心したように頷いた。
「かなり早いですね」
ルカが飛び上がる。
「会ってすぐです!」
「では、なぜ同行した」
「あなたたちは怪しかった。でも、索道の事故は本物だった」
イリスは救助された乗客たちを見る。
「偽物の依頼人でも、本物の被害者を連れてくることはある」
マニチは腕を組む。
「我々を捕らえないのか」
「あなたたちは装置の所有者であることを正式には認めていない」
「先ほど、ウッカリが設置場所を間違えたと認めた」
「偽名での発言」
「本名です」
ウッカリが訂正した。
マニチが睨む。
「お前は少し黙っていろ」
イリスは続けた。
「今日は、事故原因を作った疑いのある二人が、被害拡大を防いだ。両方を記録する」
「敵であってもか」
「事実は、相手の所属で変わらない」
マニチはしばらく黙っていた。
それから、わずかに頭を下げる。
「理解した」
ウッカリも頭を下げた。
背中の荷物が前へ滑り、頭の上から道具がすべて落ちた。
最後に、組織リスクの紋章が入った黒い身分証が床を滑る。
ルカが拾った。
「やっぱり組織リスクじゃないですか!」
「よく似た別組織です」
「紋章も名前も同じです!」
「偶然ですね」
「第四話で、その言い訳は終わりました!」
イリスが身分証を見る。
「四天王、ウッカリ」

ウッカリは小さく手を振った。
「初めまして」
「今朝、会った」
「正式には初めまして」
イリスはマニチを見る。
「あなたも?」
「答える義務はない」
その腰から、名前入りの行動予定表が落ちた。
ルカが読む。
「四天王マニチ。午後五時、正体を隠して撤退。午後五時十五分、ウッカリの忘れ物確認」
「予定が細かい」
イリスが言った。
マニチは行動予定表を拾った。
「予定より十五分遅れている。行くぞ」
ウッカリが荷物を背負い直す。
「転移鍵はどこですか?」
二人の動きが止まった。
マニチが訊く。
「お前が持っていたはずだ」
「旧駅舎の机に置きました」
「取りに戻るぞ」
「山を二つ戻りますよ?」
「歩けば着く」
二人は来た道を戻っていった。
ルカが呆然と見送る。
「本当に四天王なんでしょうか」
「能力は本物」
「それが一番困ります」
アカ爺は、マニチが落とした予備の木の実を見つけた。
誰にも見つからないうちに飲み込んだ。
◇
その夜。
組織リスクの会議室に、ウッカリとマニチが戻ってきた。
今度は扉から入った。
ただし、ウッカリは隣の倉庫の扉から入り、ヒヤリ兵に案内されてようやく到着した。
ヨソガイは卓上へ頬杖をついている。
モシモは静かに紅茶を飲んでいた。
「今度は壁を壊さなかったようだね」
ヨソガイが言う。
「最低限の改善だ」
マニチは席の前に立ったまま報告を始めた。
「イリス・アスターは、初対面の時点で我々の身分を疑っていた」
「変装は?」
「意味をなさなかった」
ウッカリが首をかしげる。
「かなり自然だったと思います」
モシモが尋ねる。
「偽名は?」
「ウカルド・ワスレンです」
モシモはカップを置いた。
「それで正体を隠したつもり?」
「呼ばれたとき、反応しやすい名前にしました」
「本名でいいじゃない」
マニチが報告を続ける。
「それでも、イリスは依頼を受けた。我々の先に、本物の事故と被害者がいる可能性を考えたためだ」
ヨソガイの指先で、骰子が止まった。
「疑いながら同行したのか」
「そうだ。また、我々が事故原因に関与していると理解したあとも、責任追及より人命救助を優先した」
モシモが小さく笑う。
「やっぱり、同じ答えを選ぶのね」
ウッカリが尋ねる。
「誰と同じなのですか?」
マニチが片手を上げ、質問を止めた。
モシモは答えなかった。
ヨソガイが三人を見回す。
「モシモは、あの娘に過去と現在を選ばせた」
モシモは何も言わない。
「僕は、父親の理論と想定外をぶつけた」
ヨソガイは骰子を置く。
「そしてウッカリとマニチは、疑わしい相手をどこまで信用するか確かめた」
四つの席に、四人がそろっていた。

「これで、四天王全員がイリス・アスターを知った」
ヨソガイの背後には、巨大な黒い扉がある。
その向こうに誰がいるのか、ウッカリたちは知っていた。
だが、誰も名前を口にしなかった。
ウッカリが小声で尋ねる。
「今回の結果は、総帥へ報告しますか?」
「必要ない」
ヨソガイは即答した。
「しかし、任務は一部失敗しています」
マニチが言う。
「僕の責任で処理する」
普段の軽い笑みを残したまま、声だけが違っていた。
マニチはヨソガイへ深く頭を下げる。
「了解した」
モシモも反対しなかった。
ウッカリだけが、納得できない顔をしている。
「失敗したのは、どの部分でしょう?」
三人がウッカリを見る。
マニチが訊いた。
「そこから説明が必要か?」
◇
ヨソガイは手を差し出した。
「それで、観察記録は?」
ウッカリが胸を張る。
「記録水晶に、すべて保存しました」
「見せてくれ」
「もちろんです」
右の袋。
左の箱。
腰の鞄。
背中の籠。
鍋の中。
ウッカリの動きが止まった。
「現地に忘れました」
沈黙。
マニチが立ち上がった。
「取りに戻るぞ」
「いまからですか?」
「毎日の報告は、毎日終わらせる」
「明日では駄目ですか?」
「明日は明日の報告がある」
マニチはウッカリの襟をつかみ、扉へ向かって引きずり始めた。
「それでは、また明日!」
ウッカリがヨソガイたちへ手を振る。
「今日中に戻る!」
二人が扉の向こうへ消えた。
モシモがヨソガイを見る。
「あの二人を組ませたのは、正解だったのかしら」
ヨソガイは少し考えた。
「離しておくよりは安全だよ」
廊下の向こうで爆発音がした。
ヨソガイは続けた。
「たぶんね」
――第五話・了。

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